<灯り>
-----------
「雄は、私が誰かと付き合うって言ったらどうする?」
どうするも何もそんなものは決まっている。
間違いなく僕は絶望に浸りながらそう、よかったねなんて彼女に声を返すだろう。
@@
珍しく学校内で美紗に呼ばれたのは放課後だった。
掃除でごった返す教室の中、部活に行こうとしていた矢先についと僕の傍によって来ると
美紗は覚悟を決めたような顔で「ちょっと相談があるの。」
と口先では神妙だが、どことなく話があるから顔を貸せといった雰囲気で僕に囁いた。
僕達が住んでいるのは新興住宅街だ。
地主が事業を失敗したとかで広大な土地を一気に売りに出して皆が建てられた一戸建てを買う。
都会ならいざ知らず地方のここら辺じゃあそういうのを買う人間ってのは大体同じ年恰好だから子供も同じくらいの年になる。
3丁目の28番地には東条美紗が住む家があって、29番地には僕が住む家がある。
真隣だから昨日の夕食がカレーだったのも判るし、何のテレビを見ていたかも知ってる。
お風呂場で歌っている声が聞こえるのは思春期の身としては色々と想像してしまって照れくさい。
なんていったって美紗はここ数年で僕が気後れするくらいには可愛くなった。
クラスの男子連中の話題に上ることも多い。
その度に僕は薄ら笑いを浮かべて話に参加して、その分だけ美紗から離れて行った。
中学に入ったときは毎日一緒に登下校をしていたのがいつの間にか週に一回になった。
高校になったら学校で話すことは殆ど無くなった。
相変わらず学校もクラスも一緒だったけれど。
@@
部活を諦めた僕を美紗はぐいぐいと手を掴まんばかりの勢いで連れて行った。いつもの帰り道を。
校門を出て駅前通を抜け、柳川町を通り、5階建てのマンションの間を抜けて旧市街の倉庫に突き当たって左に曲がり小さな川辺に出ると家まではもうすぐだ。
川沿いに500メートルも歩けば互いの家に着く。
と、そこまで来て美紗は通学路である川沿いを外れると川に向って直角にすたすたと歩き、河原の中心で立ち止まった。
後ろについていった僕も同じようにして河原に立つ美紗の横で立ち止まる。
立ち止まった美紗は、対岸の花のついていない桜の木を見上げながら「ちょっとここで話しない?」なんて事をなんとなくいつもよりも小さな声で言った。
「何?」
美紗の言葉に問い返す事で了解の意を表し、ゆっくりと河原に直接尻をつけて座り込みながら僕は次の美紗の言葉を待った。
最近はあまり話さなかったとはいえ、こういった態度の美紗は珍しかった。
今までの美紗との付き合いから僕は知っているけれども、こういう風にあまり喋らない美紗は大抵何か自分では解決できない悩みを抱えている。
いつだって美紗は自分で判断できる強さを持っているから、こういった時の美紗は普段とは違ってどことなく儚げに見えてしまう。
人によってはこういう普段とのギャップを見られると嬉しくなるのかもしれないけれど、僕は普段の快活な美紗の方が好きだ。
そんな事を考えながら美紗が座り込むであろう場所を平らにしてやろうと手でゆっくりと馴らす。
何百年も風雪にさらされて小さく丸くなっている河原の石と砂利は午後の光を受けて微かに温かかった。
美紗はしばらく立ち止まった後、僕が馴らした場所よりもちょっと僕よりの位置にゆっくりと座るとついと顔を対岸に向けた。
こういう時の美紗は言葉を選ぶのにもとても時間をかける。
案の定、美紗は座り込んでから10分も15分も僕の方から顔を逸らしたまま桜を見上げたり、バッグを抱えなおしたりして黙っていた。
「・・・」
焦ってもしょうがないので僕は美紗の言葉が出てくるのを黙って待ちながらごそごそとバッグを漁った。
バッグっていうものには大抵こういう時には何か沈黙を破るような役に立つなにかが入っている物だ。お菓子とか。
案の定鞄の中に飲みさしのペットボトルを発見して、僕は美紗に向って差し出す。
相変わらずこちらの方は見てこないままん、と美紗は僕の差し出したペットボトルを受け取った。
器用にぼうと対岸を見たまんま美紗はペットボトルの蓋を開け、躊躇いもなくこくこくと中のお茶を飲み始めた。
美紗の白い喉元がペットボトルの角度と共に動く。
こくこくとあらかた飲み終えると今度は美紗が鞄を開いた。ごそごそと中を漁るとゴムで縛って止めてある食べかけのポテトチップスを出してくる。
ん、と今度は僕がこちらを見ずに美紗が差し出してきたポテトチップスの袋を受け取った。
差し出されたポテトチップスを僕が両手で受け取った瞬間、
「雄。」
美紗は急にこちらに振り向いて声をかけてきた。
中学生になった時には恥ずかしくて嫌な思いもしたが今じゃ慣れた。
いつまでたっても雄二郎を縮めた昔ながらの呼び方で美紗は学校だろうがどこだろうが僕を呼ぶ。
あまり話さなくなってからも、少ない機会に美紗は必ず僕のことをそう呼んだ。
僕は学校では美紗の事を東条さんと呼ぶのだけれど。
上体ごと振り向いたから制服の胸元の赤のリボンが揺れて最近評判の(浩志がいうところの揉みまくりたいおっぱい学年No.1)
美紗の胸元に自然と目が吸い寄せられてしまう。
目を逸らすと今度は美紗の喉もとの色白の肌と柔らかい匂いをなんだか急に身近に感じてしまって、僕は慌てて美紗の顔に視線をずらした。
目を合わせると美紗は少し猫目がかった賢しそうな目でじっとこちらを見据えた。久しぶりに見る美紗の真剣な顔だ。
「何?」
僕は真面目な顔を取り繕って河原についてから2度目のさっきと全く同じ言葉を美紗に向って言った。
これは尋常な事態ではない。
と、僕の問い掛けにどことなく覚悟を決めたような顔をして美紗は口を開く。
「雄は、私が誰かと付き合うって言ったらどうする?」
「何?」
これで3度目だ。しかし今度は最初の2回とは全然違う声なのが自分でも判った。
美紗がゆっくりと口にした言葉に心臓が跳ねるのを感じる。
慌てて美紗の手からペットボトルを奪い取ると中身のお茶を喉に流し込んだ。
何を言っているんだろう。美紗の言葉を反芻する。
「だーかーら。私が誰かと付き合ったら雄はどう思う?」
直に返答しなかったからだろう。美紗は微妙に言葉を変えてそう言ってくる。
先ほどまでと違って今度はぴったりと僕の顔に視線を合わせたまま逸らさない。
「な、なんで?」
答える声が微妙に震えるのが自分でも判る。
「なんでって、言った通りよ。私に彼氏」
「ちょっと待った。」
慌てて美紗を遮る。大問題だ。
「何よ。」
美紗は視線を逸らさずに僕を問い詰めるように声を出す。睫毛の長い切れ長の目と勝気そうな瞳がこちらの目を覗きこむ。
「・・・美紗には、好きな人がいるの?」
搾り出すようにそう言った僕の声に美紗は即答した。
「いないわよ。……少なくともあんたに相談するような人は。」
そう言って僕の手元からポテトチップスを奪い取るとシャクッと口の中に入れる。
「少なくとも雄に相談するような人は。」
あんたを雄に言い直しながら美紗は物凄く不満そうな顔をしながら2つ目のポテトチップスを口の中に放り込む。
美紗らしくもなくどことなく歯切れが悪い。
その美紗らしくなさに胸の中の不安が膨らんだのが自分でも判る。
「じゃ、じゃあなんで?」
そう問いかけた僕の声に案外短気な美紗は「あーもうっ!」と我慢できないような声を出した。
「あのね。雄はなんでわからないの?私が好きじゃなくても私を好きだって人はいるかもしれないでしょ。」
「美紗を?」
「そうよ。雄は私に冷たいし、私を馬鹿にするけどね。
私と付き合いたいって男の人の一人や二人ぐらいは私にだっているって、そう思わない?」
そんな事は判っている。いつだって思っている。判っていないのは美紗の方だと僕は思った。
美紗と付き合いたい男なんて学年に100人の男がいたら98人はそうだ。
この前テレビの情報番組で10代でも100人に2人位は同性愛者なのだと聞いていた僕は思わずそう口に出しかけたが思い留まった。
問題はそこじゃない。残念ながら僕は同性愛者じゃあないって事だ。
「一人や二人って・・だ、誰?」
内心の狼狽を隠せずそう口に出した僕に美紗はなんとなく少し考えるように目を泳がせた。
「た、沢山よ。で、雄はどうするの?」
「全然答えになってないじゃないか。」
「うるさいわね。」
参った。まさか美紗の恋愛相談に巻き込まれるとは思わなかった。
多分美紗は誰かに告白されて、それで返答を迷っているのだろう。
正直言って巻き込まれたくなかったが、目の前の美紗は返答を逃さじと言う感じで迫ってきている。
「どうするもこうするも、美紗はどうしたいの?」
「私が雄に聞いているの。」
今度は僕が黙る番だった。
しばらく考える。
正直本当になんと返答していいのか答えに窮した。
やめろなんて言っていいのかわからない。かといって付き合ったらなどとも口が裂けても言えない。
大体が相談なんてものは大抵相談者は既に答えを決めていたりする。
マルかバツかで答えるのなんてのは不利なのだ。
それに相手が誰かすら美紗は僕に言っていない。
「僕は・・・判らない。でも・・」
相談してきたのは美紗の方の癖に美紗は怒った。
最後まで言い終わらないうちに唇を尖らせて川のほうをじっと見てしまった。
「あっそう。」
「え?」
「判ったわよ。雄は私が恋人を作って、恋人と映画を見に行ったりキスしたり・・・えーと、いやらしい事をしたりしてもいいのね。」
ジャリジャリと靴で石を蹴飛ばしながら掴みかからんばかりに美紗は僕を問い詰めてきた。
恋人なら当たり前であろう行為を美紗は並べたに過ぎないのだけれど随分変な質問だ。
その質問に僕は―――
「するの?」
美紗の勢いに焦って随分的外れな返答をしてしまった。
目を丸くして問い返した俺に美紗は即座に怒鳴り返した。
「し な い わよ!喧嘩売ってるの雄?」
噛み付くようにそう言うと美紗はふん。と視線を反らした。
よくよく考えると美紗の返答も僕の返答に負けず劣らず的外れだ。
なんなんだそりゃ。
そう思いながら僕は先ほど美紗に遮られた言葉を続けた。
「判らないよ・・でも・・僕は反対かな。」
「・・・なんで?」
「美紗が、あんまり楽しそうじゃないから。」
これは正直な意見だった。振られ男だろうがなんだろうが、女の子は恋人を持ったら幸せそうにしなくっちゃいけない。
もてない男の持論だ。でも間違ってはいないと思う。
なんだか今日の美紗は焦っていて、告白された幸せな女の子の様には見えなかった。
そう言った僕の言葉に美紗は一度だけ言い返そうとして、それから口を噤んだ。
口を噤んだまま美紗は川の表面を見つめる。
秋雨の季節はまだ終わらず、ここのところあまり強くない雨が連日降ったりやんだりしていたせいで気温は低めだ。
今日も朝からどんよりと雲って一雨来るかと思わせたが、天気は持ちこたえて雲は昼過ぎから消え、淡く日も差した。
今は西の空に、暮れようとする日が姿を見せていて、薄い水色の川の表面や緑に彩られた川横の森を照らしている。
日は真っ直ぐに河原にも射しこんで、美紗の綺麗な顔を浮かび上がらせていた。
「そ。じゃあやめておくわ。」
日が翳っていくのを感じられるくらい長い時間考えたあと、美紗はあっさりと言った。
「楽しくないんじゃつまらないもの。」
「そう。」
僕がそう答えると美紗は立ち上がってスカートのお尻の部分をパンパンとはたいた。
「雄は彼女作ろうとか思わないの?」
視線を対岸に向けたまま美紗はそう言ってくる。
にへら。
その時美紗は僕のほうを見ていなかったから、僕は笑った。
妙な笑いだと思う。
気になっていた娘に恋愛相談をされてその娘に挙句の果てに彼女の心配までされた時のような、多分そんな顔。
「帰ろう。」
美紗の質問に返答せずに僕は美紗より先に川に背を向けた。
いつの間にか足元が見えないくらいに暗くなっていた。
後ろは振り返っていないけれど、じゃりじゃりと砂を踏む音で美紗が着いてきているのがわかる。
じゃりじゃりと道に向って歩いていると、後の美紗が歩きながらぽつりと言った。
「馬鹿。」
驚いて向き直る。
「何で?」
何で俺が馬鹿なの?
向き直るとなんだか美紗は泣きそうな顔をしていた。
「告白なんかされてないもの。」
「何で?」
じゃあ今日のは何よ。
「なんでじゃないよ。」
泣きそうな顔じゃなかった。美紗は実際ぼろぼろと涙を零していた。
背中まで伸ばした綺麗な黒髪を揺らして、なんだか駄々っ子のように美紗は石を蹴った。
「雄は私が恋人を作っても、幸せそうだったら嫌だとか言わないんだ。」
「美紗?」
「私は言うもの。嫌だもん。私の友達が私の好きな人を好きで、協力してなんていわれたら不安になるもの。
私の事嫌いでもいいけれど、他の子好きになっちゃ駄目!」
そこまで言うと美紗はハッと口を噤んで両手で顔をごしごしと擦った。
「美紗。」
「・・・なんでもないっ。又明日!」
美紗はそういうともう振り返らず、家のほうに向って脱兎のごとく駆け出していってしまった。
@@
「美紗は、僕が誰かと付き合うって言ったらどうする?」
もし今日、逆の立場だったなら美紗はどういう風に考え、どんな風に思っただろう。
美紗が去っていった河原に立ち尽くしてそう考えた時、僕は初めて抗い難い恐怖を感じた。
美紗がにっこりと笑っておめでとうなんて言ったら僕はどう思うんだろうか。
美紗は今の僕と同じような事を考えたんだろうか。
川原に一人で立ち尽くしながらそこまで考えて僕は首を振った。
あんまり自惚れてはいけない。
でも美紗が同じように考えていたら。
その空想はとても・・・楽しいものかもしれない。
河原は足元も確認できないくらいに真っ暗になっている。
ゆっくりと足元を確認しながら歩を進めた。
今日の美紗の話はあまりにもわからなさ過ぎる。確定的なことなんか一つもない。
恋愛なんてそんなものかもしれないけれど。
だから明日、今度は僕の方から問い掛けてみても良いかもしれない。
それとも今日電話した方が良いだろうか。
美紗が付き合うと言った時に僕がどう思ったか、僕が誰かと付き合うともし言ったら美紗はどう思うのか。
幼馴染は難しい。
友情が高じて恋愛になるなんて馬鹿な事を僕は信じない。
恋愛感情なのか友情なのかの境目なんてない。
恋愛は恋愛で友情は友情。別物だからだ。
僕と美紗の気持ちはどうなんだろうか。
僕の方はともかく美紗の方は友情なんだとそう信じてきた。
友情どころかもっと低いものなのかもしれないと最近ではそう思っていた。
いやらしい気持ちを持つ自分が嫌で、そういう同級生が嫌でわざと美紗から離れた同級生達と同じ立ち位置に立とうとした。
でももし、もしかして方向は違っても美紗もそうだったとしたら。
僕と同じように、美紗も色々と考えていたのだとしたら。
友情なのか、恋愛感情なのか聞いてみる価値はあるのかもしれない。
それに恋愛は恋愛で友情は友情。別物だけれども、両方が並立しないなんて事もないはずだ。
と、そこまで考えてあまりにも都合の良い自分の考えに可笑しくなった。
咳払いをして思わずもらした笑い声を掻き消しながらゆっくりと家へと足を向ける。
顔を上げてみると暗闇に閉ざされた河原から美紗の住んでいる家や僕の住んでいる家の灯りが見える。
なんだかそれがいつもより少しだけ大きく見えるような気がした。
了