絨毯の毛が頬にまとわりつく。目の前には直人の胡坐が、左側には人形のス  
カートがあった。  
「直人」  
「おう」  
「俺の頬をつねってくれ」  
 直人は立ち上がり、俺の前まで来てしゃがんだ。右手を出してきて、俺の左  
頬をつまんだ。ぎゅっと爪を立てて握り始めた。握力が70以上ある直人の指  
と爪が俺の頬を抉り取るように掴んだ。途端に心拍数が上昇する。痛い。尋常  
でなく痛い。  
「直人、もういい」  
「おう」  
 直人が右手を離した時、頬には痣が残ってしまった。だがこれは現実で、直  
人は正気で俺の前にしゃがんでいる。  
「直人」  
「何だ?」  
「死んで」  
「まぁ落ち着けよ。確かに俺もこれが家に居たら驚くさ。でもよく見てみろ。  
この子は美女、いや美少女だ」  
 「この子」とやらは、部屋の片隅をじっと見つめている。否、顔が動かない  
からそこに目線が行っているだけだ。  
「まあ座れよ直人」  
 というと、直人はベランダ側にある俺の椅子に座った。俺も改めて体勢を立  
て直し、その場に胡坐をかいた。  
「直人さ、どっから入ってきた?」  
「ベランダから」  
「そういえばお前、オリンピック選手並みの脚力持ってるんだっけ」  
「それほどでもねえよ。隣の屋根から渡ってきただけだから」  
「……」  
 まったくもって非常識な奴だ。  
「ベランダから入るのやめろって言ったよな?」  
「仕方なかったんだ。人の目に入らないように持ってくるのも大変だったんだぜ」  
「ダンボールに包むとかビニールで覆うとかしろよ」  
「そんな金はない」  
 忘れてた。こいつ変なところで天然だったんだ。  
「でもトモが吃驚してくれて俺も嬉しいよ」  
 直人は爽やかな笑みを浮かべていった。  
「えっと、ただ俺を驚かせるためだけに持ってきたのか?」  
「いや、違う」  
「あのさ、一年ぐらい前だったかな。お前彼女できたとかいって、ヤったのヤ  
らないのって嘘話してきたことあったよな。エイプリルフールの次の日」  
「ああ」  
「俺がどれだけお前の恋を応援したか、忘れてないよな」  
「覚えてる」  
「でお前は最後こう言ったんだ。『ごめん実は嘘。エイプリルフールだから許  
してね』手前ぇ、一日前につけよボケがぁ!!」  
「ぎゃっはっはっは〜」  
「笑い事じゃねえ! お前は嘘つきなんだ! 嘘つき直人! 今日は何の用だ?  
 言ってみろ。事と次第によっちゃ許さねえ」  
「まあ落ち着けよトモ」  
「不可能だ」  
「人形に恋しちゃったんだろ? 分かるよその気持ち」  
「ふざけろ! 誰が恋するか!」  
「実はこの人形のことを等身大ドールという。オナニーホールじゃないぞ」  
「死ね、死ね、三回死ね!」  
「落ち着け。俺も動揺した。しかしこれを、いや彼女を見てみるがいい」  
 直人が視線を等身大ドールに向けたので、俺もつられて見てしまった。  
「トモ、よく作られてるだろう? 知的な、温もりのある品の良さ、柔らかい  
表情、細部にまでリアルに、リアルに描かれた局部。失敬、興奮しすぎたな。  
と、とにかくすんばらしいだろう!!」  
 直人の頬が次第に興奮して赤みを帯びてきた。決定、こいつのブツだ。だが  
どうやって手に入れたのか。  
 俺は一呼吸置いて、いった。  
「よくできた人形だとは思うよ。本物の人間に見えなくもない。遠くから眺め  
ればな。で、お前はこれを自慢しに来たのか? それとも宣伝しに来たのか? どっちだ」  
「どちらでもない」  
「嘘だろ」  
「本当だ。残念だが俺のじゃない」  
「じゃあ何しに来た?」  
「単刀直入に言おう。この人形を、お前に預かってもらいたい。期間は一週間」  
「……何で俺が預からないといけないんだ?」  
「俺の部屋じゃスペース的に無理だ」  
「何で?」  
「俺の部屋が色んなもので埋まってるのは知ってるよな?」  
「ああ、そりゃな」  
「プロレス雑誌は言うに及ばず、百冊を優に越えるエロ漫画、エロ本、小道具、  
エロビ、エロゲー。部屋の隅にしまったこれらを全て、部屋の中央に引っ張り  
出せば彼女は入るさ。だがそれでいいのか? 親兄弟もいるのに俺の部屋で羞  
恥プレイですか? 個人の基本的人権は変態といえども保障されてしかるべき  
ですか? 一度でも見られた瞬間アウツ! 『妹汁』『加奈』『Natural』  
この中で妹が出てこないエロゲーはどれ!?」  
「Natural?」  
「ブッブー!! 七回死んでください。そんなのどうだって、いやどうでもよ  
くないが今はいいんだ。気づけよ。こんなリアルドール部屋の中央にデンと置  
かれてみろ。社会的制裁は間違いないぜオイ! だが他のものを部屋の中央に  
置いてみろ……三時間はこんこんと説教されるね。お前経験ない?」  
「あるけどさ。じゃあエロ本とか捨てれば?」  
「ふざっけんな! 流れ読めよ。俺が何言いたいのか推し量れ! 愛しい俺の  
コレクションだぞ。全て俺の娘たちだ! もちろんこのリアルドールも!」  
 直人は拳とちんこを固めて熱く語る。  
 
 
 
「直人」  
「何だ」  
「持って帰れ」  
 静かな声、だが有無を言わさぬ口調だった。  
 俺は先輩に借りがあったから、なんとかしたかった。先輩がどんなにいい人  
か説明したって、トモは事実の核心を伝えなければ動かない、ンなの知ってるさ。  
 口止めされているのに言えってか。  
「すまん。頼むよ」  
 俺は頭を下げた。  
「じゃあ説明しろ。誰のもんだ?」  
「それは、言えない」  
「何でだよ」  
「言えない」  
 トモは軽くため息をついた。  
「じゃ無理だな。理由なしに引き受けるほどお人よしじゃないんでね」  
 先輩は二週間後に結婚式を控えていた。だが一昨日、元カノから祝福の手紙  
でなく、巨大な人形、リアルドールが先輩の住むアパートに宅配されてきた。  
先輩が受け取ったからいいものの、婚約者なら結婚解消は確実だった。なにせ  
婚約者はそういったものに嫌悪感を抱く人だからだ。  
 先輩は速攻送り返したが、住所が間違っていて再び送り返された。差出人は  
元カノの名前だが、本人の筆跡でないので他人の可能性さえある。  
 犯人が誰であれ、誰にも見られないよう捨てなくてはいけない。  
 先輩が頭を抱えていた時、偶然俺が電話したのだった。近況報告に花を咲か  
せた後、唐突に打ち明けられた事実に軽い眩暈がした。  
 地球上には自分と同じ顔の人が三人いる、だから大丈夫っスよ先輩。  
 そう言って慰めようとした。  
「偶然っスよ先輩。女の人がたまたま元カノの名前で、先輩と同姓同名の彼氏  
にプレゼントしようと思ったら番地が違ってこっちに届いちゃったんス!」  
 俺がそうフォローしたら、先輩は笑った。  
「そんな偶然があってたまるか、馬鹿者〜〜ッ!!」  
 悪意ある贈り物の犯人を探そうとすると疑心暗鬼に駆られるから今は考えた  
くない、と先輩はいった。  
「誰か他にこの事言いました?」という問いに、先輩はお前だけだと答えてく  
れた。誰にもいえないし、言いたくない。だがどうしよう。普段は明晰な先輩  
も、今回は右往左往するばかりだ。  
 とりあえず預かります、と言ったはいいが預かれないのは俺も一緒。  
 そんなわけでトモに電話した。メイド人形を小脇に抱えたまま外にいるわけ  
もいかず、家に急遽入った。我ながらアホさ加減に泣けてくる。  
 言うまでもないことだが、トモは俺の親友だ。こいつのおかげで高校に受か  
ったし、こいつのいない中学時代は考えられない。腹を割って打ち明けた悩み  
もあるし、何かあったら手助けする気もある。だが流石にリアルドールを保管  
するわけにはいかないか。  
「分かった。今日一日でいい。明日には持って帰るから、一日だけ持っててく  
れないか? 俺が今日中に置き場所探してくるから、それまでの間でいい」  
 今日中にこの子を置ける場所を見つけてみせる。一日でいい。押入れ、物置  
にでも置いてくれないか。そうトモにお願いした。  
「……」  
 その時ドアをノックする音が聞こえた。  
「お兄ちゃん?」  
 千佳ちゃんの声が聞こえた。よく考えると、俺がここにいることも、この部  
屋で交わされた会話も隣で聞いていれば筒抜けだ。俺は立ち上がった。  
「何だ?」  
「入ってもいい?」  
「ちょっと待ってろ!」  
 トモは俺を見つめた。「直人、千佳を入れるぞ」  
「全て話す」  
 そう言う事で、ようやくトモの表情が緩む。  
「よし。まぁいいだろ」  
「ありがとう。悪いな」  
 俺は早速メイド人形をどこかに隠すことにした。クローゼットと押入れしか  
入れる場所はない。クローゼットをトモに指差し、とってを開いたら服が何着も落ちてきた。  
この中に入れるには、速攻で右側に全て寄せなくてはいけない。何でもかんで  
も鷲掴みにして右に並べていった。途中で饐えた臭いが鼻をつく。この野郎、  
洗濯してないのまで入れやがって……。  
 俺が超絶スピードで服を右側に積み上げている間に、トモが千佳ちゃんに話し出した。  
「千佳、悪いけど入んないで。ここ今から女子禁制の薔薇の園になったから」  
「そう。おホモ達しか入れない秘密の花園。おほほ」  
「BULLSHIT!!」  
   
 
「仲間外れ?」  
 千佳がドアの向こう側から訊いてくる。  
「うん。悪いな」  
 俺は胡坐をかいてドアに体を向けている。直人がクローゼットを開けて、中  
のものを整理している。人形を一時的にでも隠すのだという。  
「う〜ん。ま、いいけどお菓子ここ置いておくね」  
 ドアの向こうでカチャと小さな金属音が聞こえた。カップか何かが当たった  
のだろう。  
「サンクス」  
「ところでお兄ちゃん。勉強するの忘れてるでしょ?」  
 ……。  
 忘れてた。こいつに関わってる場合じゃないのだ。  
「千佳」  
「何よ」  
「ナイス突っ込み」  
 千佳の「はぁぁ」というため息がドア越しに聞こえてくる。呆れたらしい。  
「もう。勉強後回しにしなくちゃいけないほど大切な用なら何も言わないけど、  
ただ遊んでるんなら、駄目だよ」  
「すまん。分かってる。今日はやるって決めてるから安心しとけ」  
「信用するよ」  
「おう」  
「ところで勉強って二時間で終わりそう?」  
「多分、四時間掛かるだろうな」  
「だったら──七夕行こうよ」  
「え?」  
「だって徹夜するんでしょ? 私付き合うから。だから先、七夕行こうよ」  
 千佳の声が震えていた。  
「いや……あのさお前」  
「何? 駄目なの?」  
「その……彼氏といけよ」  
 千佳には彼氏がいる。名前は忘れたが、四ヶ月ほど前から付き合い出したら  
しい。一度だけ家に来たことがあるが、普通の男だった。  
「別れる」  
 千佳はきっぱりと言った。  
「はあ?」  
「決めたの。もう中途半端はヤだから。彼に悪いもん、それにお兄ちゃんの答え聞いてないよ」  
「……」  
 言葉に詰まった。  
 いつからだろう。千佳を妹ではなく一人の女の子として見始めたのは。  
 多分一年前の、千佳が風邪を引いて寝込んだときだ。丁度お母さんが旅行に  
行っていた時に千佳が風邪を引いて倒れ、俺は学校を休んで看病をした。不満  
がなかったわけじゃない。「寝てれば直るよ」と自分に言い聞かせた後で仕方  
なく学校に連絡をいれ、おかゆを作り、熱さましのため氷を袋で包んで頭に乗  
せた。午後、お見舞いに現れた傍若無人なクラスメートを叩き返し、「美人も  
大変だな」と言ったら千佳が大いに笑ってしまい、更に風邪を拗らせてしまっ  
た。夜、千佳がベッドから立ち上がってトイレに行くのに肩を貸し、胸の膨ら  
みに異様に興奮してしまった。  
 次の日の朝、千佳の部屋のドアをノックして部屋に入った。千佳の体調は回  
復していて、昨日のお礼を言った。俺は、その笑顔に頬を真っ赤にしてしまった。  
咄嗟に顔を逸らしぶっきらぼうに返答するが、千佳は風邪が治ったおかげかい  
つも以上に快活に笑った。  
 その日から、千佳を好きになるまいと決めた。だが、その決意は数日前  
脆くも飛散する。一昨日、千佳から告白されたとき、俺は硬直してしまった。  
 
 
 一昨日の学校帰りの事だ。高校から自転車を漕いで、千佳の中学に寄っ  
て折り畳み傘を手渡した。空はまばらに曇ってるとはいえ、雨が降るとは思え  
ない。  
「だから君の努力は無意味だったのだよ」  
 千佳はそういって微笑んだ。  
「ありがとう、おにいちゃん。鞄の中に入れとくからそう落ち込まないでよ」  
「ほっとけ」  
 金色の光射す夕暮れ時、俺たちは自転車のハンドルを両手で掴みながら帰路  
につく。地平線の彼方に沈む夕陽は眩しく輝き、辺りの風景を茜色に染め上  
げる。千佳の耳元に止めた赤いピンが夕日に反射して光る。セーラー服を着込  
んだ千佳はいつにも増して可愛らしく、その大きな瞳で俺をみつめている。  
 しばし俺が眺めていると、千佳は眉を寄せて苦笑した。  
「今度は何? 言っとくけど鼻毛剃りましたよ」  
「あのな、いつも駄目出しするわけじゃないぞ」  
「うそー?」  
 「うそー」これも最近の千佳の口癖だ。言い方にもいくつかのバリエーショ  
ンがあり、千佳は様々な抑揚で相手をからかう。俺も真似してみる。  
「うそー、じゃない。例えば、今からお前を褒め殺してやる」  
 そういうと嬉々とした表情で俺を見上げてくる。  
「へ〜、できるものならやってみせてよ。お兄ちゃん」  
「ん〜」  
 生意気な笑顔だ。普通に褒めても面白くないし、ここは一発捻らなくちゃな。  
「千佳、お前は薔薇の花のように美しい。惜しむらくは、薔薇には棘があるということだ」  
「ちょーっとちょっと〜、それ褒めてない!」  
 千佳が口を尖らせて不平を言う。  
「じゃあこんなのはどうだ? 千佳、お前は月のように美しい。残念なのは、  
月面クレーターのようにニキビ穴があることだ」  
「酷い! 気にしてるのに!」  
 千佳は怒っているが、半分笑っている。まだ行ける。  
「千佳、お前はイイ性格をしている」  
「……なんか物凄く含みがあるんだけど」  
「千佳、美人だな」  
「はいはい」  
「千佳、可愛いよ」  
「分かったから」  
「千佳」  
「何?」  
「飽きたからお前が褒めてみろよ」  
「誰を? 私?」  
「ん〜、俺でいいよ」  
「……」  
 千佳は少しの間、黙った。  
「あのな、何でもいいんだぜ。背が高いナイスガイでも容姿端麗なスポーツマ  
ンでも成績優秀な秀才でも」  
「最後のは違います!」  
「嘘でもいいから褒めろって」  
「優しいトコ、かな」  
「あのな、そういうリアクションに困るギャグはやめろって」  
「ギャグじゃないよ。本当のことだし」  
「本当の事って、どっちかっつーと意地悪なんじゃないか?」  
 そういうと千佳はさすがに心当たりがあったのか苦笑した。  
「そうだけど、違うよ。あと怒ってくれる」  
「それ、褒めてる?」  
「うん。あと下ネタのボキャブラリーが凄い」  
「直人には勝てねぇよ」  
「無駄に熱い」  
「無駄って言うな」  
「うるさい」  
「褒めろよ」  
「嘘泣きがわざとらしくて面白い」  
「……なんか引っかかるな」  
「笑うとえくぼができる」  
「言うなよ。気にしてんだ」  
「あとは……かっこいい」  
「……抽象的だな」  
「そうかな。他に言葉が出てこないんだけど」  
「かっこよくはねえだろ。そりゃ違うよ」  
「かっこいいよ」  
「……いやもういいから」  
「本当にそう思ってるのに。ねえ……お兄ちゃん」  
「ん、何だ」  
「高校生でセ、セックスって……普通かな?」  
「ん〜誰もがそうだってわけじゃないけど、早すぎはしないだろ。中学でやっ  
てたってのもいるしな」  
 小学生で妊娠できる子もいるそうだが、それはいいだろう。  
「彼氏に頼まれたのか? したいって?」  
 千佳は頷く。  
「でも嫌って言って断っちゃった。何でか分かる?」  
「彼氏の欠点がウザくなったとか?」  
 千佳は僅かに首を振る。  
「違う。別の人が、本当に好きな人ができちゃったの」  
「あ〜。そっか」  
「うん」  
 それから俺と千佳は黙った。俺たちは自転車を引いて歩いていた。信号の少  
ない裏道だから左右から車が飛び出してさえこなければさほど危険な道ではな  
い。道路の半分ほどを使って俺たちは歩き続けた。距離にして二キロくらい。  
くねった道もあれば一直線の道もある。家屋や工場の合間から見える夕焼けが  
送電線で区切られるも、雲も俺たちも動き続けている。先ほど紅くなってた雲  
は、徐々に色合いが薄れてしまう。  
 最初に歩こうと言い出したのは千佳だった。まさかこんなディープな話にな  
るとは思わなかった。千佳の彼氏はどんな奴か知らないが、これでまた撃沈す  
る人が増えたわけだ。  
「お前さ、理想が高すぎるんじゃないか?」  
「そうかもね」  
 千佳は微笑んだ。「だって私が好きなのお兄ちゃんだし」  
 聞き間違えたのかと思い「は?」と言った。  
 千佳は頬を高潮させ、声を震わせて再度言った。  
「知らなかった? 私お兄ちゃんの事、ずっと好きだったんだよ」  
「……嘘だろ」  
「うん、嘘──あ、引っかかった? 引っかかっちゃった? やだなぁもう」  
「あはは、あははは冗談きついぞこいつぅ!」  
 千佳の頬を人差し指で突いた。  
「やだー、エッチぃ」  
「馬鹿者、ほっぺつついたくらいでエッチ言うな」  
「変態〜、ド助平〜、痴漢〜、スペルマ〜」  
「何だと? この上智志望女が」  
 自分が良く分からなくて、千佳もハイだった。  
 その日は一日中、千佳の事が頭から離れなかった。  
 
 
 放課後、サッカー部がコートを使っていなければ校庭で、サッカーコートが  
使用中だと近くの空き地に集合する。別段毎日やってるわけでなく、週三ぐら  
いで皆が集まり二、三時間サッカーして解散する。一昨日は千佳に傘を渡した  
後に参加したが、千佳の告白(?)のせいでプレイに集中できず散々だった。  
 昨日、今度こそはと意気込んで校門を出た所で千佳に出くわした。  
「あ、お兄ちゃ〜ん」  
 千佳は制服姿のまま、小走りに駆け寄ってきた。あの告白は本気ではなく、  
嘘だったようだ。そうでなければこの笑顔は何だ。  
「何だ、学内美少女No.1」  
「それは言わない約束でしょ」  
 頬を膨らませてふくれっ面をするが、すぐに微笑みに変わる。  
「そうだっけ」  
「もう。ね、今日服買いに行くの付き合ってよ」  
「あ? 服くらい一人で買えばいいだろ。俺にはサックァー、サッカーという偉大な理由が──」  
「えー!? 昨日ゴーヤ豆腐失敗したくせに」  
「くっ、あれは塩と砂糖の瓶が逆に」  
「確認しないで入れるからいけないのよ。これは義務です」  
「ぎ、義務?」  
 千佳は右手を腰に廻し、左手で俺を指差す。  
「そう、貴方スポンサー。私モデル。貴方お金出す人。私使う人。文句ある?」  
「あ、ありません」  
「やった〜〜〜!」  
 千佳は満面の笑みを浮かべて飛び跳ねた。駄目だ、こいつたかる気満々だ。逃げねば。  
「千佳くん。弘法は筆を択ばずという言葉は知ってるかね?」  
 厳格な国語教師の物まねをする俺。千佳はビシッと襟住まいをただして返答する。  
「はい。真にその道に秀でた人は、どんな道具を使っても優れた成果を上げる  
ものだ、って意味ですよね先生」  
「素晴らしい。千佳くん、ぶっちゃけ君は美人だからどんな服でも関係ない。つまり」  
 

    ,ィィr--  ..__、j  
   ル! {       `ヽ,       ∧  
  N { l `    ,、   i _|\/ ∨ ∨  
  ゝヽ   _,,ィjjハ、   | \  おニューの  
  `ニr‐tミ-rr‐tュ<≧rヘ   > 服など  
     {___,リ ヽ二´ノ  }ソ ∠ いらない!  
    '、 `,-_-ュ  u /|   ∠  
      ヽ`┴ ' //l\  |/\∧  /  
--─‐ァ'| `ニ--‐'´ /  |`ー ..__   `´  
    く__レ1;';';';>、  / __ |  ,=、 ___  
   「 ∧ 7;';';'| ヽ/ _,|‐、|」 |L..! {L..l ))  
   |  |::.V;';';';'| /.:.|トl`´.! l _,,,l | _,,|  , -,  
    ! |:.:.:l;;';';';'|/.:.:.:||=|=; | |   | | .l / 〃 ))  
    l |:.:.:.:l;';';'/.:.:.:.:| ! ヽ \!‐=:l/ `:lj  7  
    | |:.:.:.:.l;'/.:.:.:.:.:.! ヽ:::\::  ::::|  ::l /  
 
ナンダッテー!!  
 
.     !ヘ /‐- 、u.   |'     |ノ-、 ' ` `,_` | /i'i^iヘ、 ,、、   |  
    |'' !゙ i.oニ'ー'〈ュニ!     iiヽ~oj.`'<_o.7 !'.__ ' ' ``_,,....、 .|  
.   ,`| u       ..ゝ!     ‖  .j     (} 'o〉 `''o'ヽ |',`i  
_,,..-<:::::\   (二> /      !  _`-っ  / |  7   ̄ u |i'/  
. |、 \:::::\ '' /        \ '' /〃.ヽ `''⊃  , 'v>、  
 
 

「しかし先生。弘法も筆の誤りといいます。今ある服ばかりに固着していてはいかんですよ」  
「……商業主義にどっぷり浸かっているね、きみ」  
「なんかむかつく」  
 自転車を漕ぎながらなされる他愛なき会話。それでいいのだ。それ以上を望  
むから問題が起こる。千佳が俺を好きでないなら問題ない。俺がどう思っていようと。  
 幾層にも雲が空を覆い始めた。突然閃光が宙を貫き、街を照らす。  
 巨大な音が耳を劈いた。雷だ。  
「夕立か」  
「雨降りそうだね、あっち」  
「おう」  
 俺たちは近くのお店の庇に駆け込み、自転車を置いて雨宿りした。駆け込む  
と同時に大粒の雨がアスファルトを叩きだす。雷雨だった。降りしきる雨と、  
時折聞こえてくる落雷の音と光。鳥の鳴き声も、虫の音も、車のエンジン音も  
何も聞こえない。ただ大雨だけ。  
「凄いね。折り畳み傘出しても折れちゃいそう」  
「まいるな。つーかこんな雨じゃ出したって無駄だろ」  
「うん。ねえお兄ちゃん」  
 右側にいる千佳が、俺の瞳をみつめた。  
「ん?」  
「これでサッカーやってたら大変じゃない? 色々片さなくちゃいけないし」  
「大雨でもやるよ。霙でもやったし。土がぬかるんでても、それがいいんだよ」  
「うっそ〜!?」  
「ホントだって」  
「びしょびしょになったら大変じゃない」  
「いーんだよそんなの」  
 にやにやと笑う千佳。「本当に、好きなんだね」  
「お、おう」  
 なぜかドキマギする。  
「じゃあお兄ちゃん、質問です。私が好きなのは何でしょう?」  
 なんか嫌な予感がした。  
「食べ物か? お子様ランチとか?」  
「お兄ちゃんだよ」  
「……嘘だろ」  
「去年、お兄ちゃんから誕生日プレゼントもらったでしょ? 偽物のグッチの鞄」  
「ああ、はいはい」  
 去年の千佳の誕生日にあげたグッチの鞄は偽物だった。「ン十万の鞄が今な  
ら何と一万五千円! 一万五千円での大放出でございます」こんなチラシにほ  
いほい騙された俺も悪いのだろうが、偽物と知って買ったのなら値段相応の商  
品らしい。千佳がその時とても喜んだのが今でも思い出せる。  
 目を輝かせて、頬を紅潮させてキャーキャー騒ぎまくる千佳。隣で罪悪感に  
かられる俺。つらくて死にそうだった。一時間以上興奮の極致にあった千佳を  
どうにも止められず、その後ようやく本当の事が言えた。  
「それ、実は偽物なんだ……すまん」  
 屈辱で最後の言葉が濁った。千佳からどんな罵倒も悲哀の言葉も受け入れる  
つもりだった。だが千佳は「グッチって何?」と言った。  
 千佳は有名ブランドの名前も知らず、兄からデザインの優れた製品を貰えて  
有頂天になったのであって、グッチだから喜んだのではなかったのだ。無知と  
は偉大だと思い知らされた一日だった。まあ製品としてまともなものを、妥当  
な価格で買えたと思えばいい。今でこその笑い話だ。  
「なくしちゃった。あの……本当に、ごめんなさい」  
「いいよ。また買えばいいから」  
 千佳は首を振って否定した。  
「ううん。あれは世界に一つしかない鞄だから。お兄ちゃんから貰ったただ一  
つのプレゼントだから、もう買えないよ。あの鞄じゃないから」  
「じゃあさ、千佳。次の誕生日には、また何かプレゼントするからさ。それじゃ、駄目か?」  
 無くしたと告白した事で文句を言われると思ったのか。いや、本当に残念がっているようだ。  
「うん。お兄ちゃん」  
「何だよ」  
 心臓が早鐘を打つ。俺までドキドキしてくる。千佳の声一つ一つが耳に響く。  
「ありがとう」  
「おう」  
「もう絶対になくさないから。なくしたくないから、だから身に付けられるも  
のがいいな。指輪とか、ネックレスとか。十万くらいの頂戴」  
「インパッシブル(不可能です)」  
「あ、やっぱり」  
 茶目っ気たっぷりに微笑む千佳。  
「オフコース(当たり前だ)」  
 俺たちはどちらからともなく笑いあった。何があっても笑ってしまう、そん  
な時もある。俺たちは笑いまくり、気づいたら雨は止んでいた。  
 辺りは水浸しになっていた。道路も屋根もベランダも電柱も木々も草花も車  
も塀も、皆水に濡れていた。冷たい風が漂ってくる。空は曇っていた。俺が軒  
下から一歩出ようとしたら、千佳が俺の右腕をぐいっと引っ張った。  
「お兄ちゃん。行かないで」  
「え?」  
 千佳は突然、俺の腰にしがみついてきた。ほのかなシャンプーの香り、  
腕に廻された千佳の両手と制服越しの胸の柔らかい感触。千佳の鼓動が伝わる。  
ドク、ドク、ドク……。早いペースだ。  
 俺は相変わらず、固まっていた。  
「好き」  
「……」  
 千佳が上目遣いで俺を見上げてくる。無防備な視線だ。わずかに開いた口元  
が、キスを誘っているように見える。  
「千佳」  
「何?」  
 どんなに千佳を傷つけようとも、言わなくちゃいけない。  
「好きって言うな。そんなの変だ」  
 
 
 その言葉が胸をえぐる。途端に全身が緊張した。  
「変? 変って、それどーいうこと!?」  
「兄妹同士、好きなんて言わないよ普通」  
 お兄ちゃんはこともなげに言った。  
「何それ? じゃあ私がお兄ちゃんを好きなのが変だって言うの? 好きだか  
ら好きって言っちゃいけないの?」  
「そうだ」  
「何で!?」  
「兄妹だからだ」  
「何よそれ? 全然意味わかんないよ。兄弟だから何だっていうのよ」  
「お前知らないのか? 兄妹は結婚できないって。だからお前が俺を好きだと  
しても、法律がそれを認めないんだぜ」  
「はあ? 法律が何だってのよ! ただ私の気持ちを言ってるだけじゃない!  
 誰も結婚したいなんて言ってないじゃない。ただお兄ちゃんを好きってだけ  
でいけないの? 法律違反なの?」  
 お兄ちゃんはその質問には答えない。だがその頑なな態度が、全てを語っていた。  
「……変だよ。絶対おかしいよ! お兄ちゃん本気でそんな事言ってんの?」  
「当然だ」  
「馬鹿みたい」  
 泣きたくなった。なぜお兄ちゃんは私を拒むのか、理解できなかった。何で  
そんな事が言えるのか。  
「お兄ちゃん」  
「なんだ?」  
「私はおにいちゃんが好き。じゃあお兄ちゃんは? 私の事、嫌いなの?」  
「その質問には、答えたくない」  
 私の予想を遥かに上回る、聞きたくない答えだった。  
 
 
 思い出すのも苦痛だ。避妊に失敗しても責任取れるほど大人じゃないし、千  
佳を不幸な目に合わせる気もない。だから、嘘をつくことにした。俺はお前の  
ことなど何とも思ってない。いつまでも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」言うなと。  
そう言おうとしたが、言えなかった。  
 俺が千佳を好きかどうか千佳は聞いたが、俺の中途な返事が千佳の顔を歪ま  
せた。小学生のように泣き喚くわけではなかった。千佳は顔をくしゃくしゃに  
して声を出さず、泣き出した。  
 涙が瞳から溢れ、頬を伝ってアスファルトに零れ落ちた。雫は水溜りに落ち、  
波紋を作った。  
 なぜ千佳を悲しませるのか。他に方法はなかったか。最良の決断をしたはず  
なのに、胸に去来するのは重いため息だけだった。  
 俺は何だ。  
 千佳の頬を拭う──普段なら何気なくやっていた行為さえ許されなかった。  
 
ただ千佳を見つめた。  
 
 その後、千佳は「九時には帰るから」と言ってどこかへ消えた。帰ってきた  
のは十一時半。遅れるのに連絡しなかったことをお母さんは怒り、千佳は謝っ  
た。どこにいたのかと聞かれて、千佳は「友達の家」と答えた。夕食は食べて  
きたらしい。必要最低限のことしか言わず、二階に上がった。  
 千佳がこれほど気落ちしたことがあったろうか。少なくともお母さんが何度  
も仔細を問いただしたほど、千佳の口は堅かった。お母さんの追及は俺にも及  
んだ。知らぬ存ぜぬで突き通そうとしたが、お母さんは突如聞くのをやめた。  
態度の軟化にこちらが戸惑った。  
「いつか話せる時が来たら、お願いね。あそうそう。ちゃんと千佳にフォロー  
いれときなさいよ」  
 台所からひょい、と顔を覗かせていうお母さん。  
「だからさ──」  
「嘘はもういいわ。言いたくないならそう言いなさい。許してやるわよ。智彦  
も子供じゃないんだし。ねえ智彦?」  
「何?」  
「千佳のこと、いつか話してくれる? ……それとも絶対に話せないような内容?」  
 俺は逡巡した。  
「話せる、かもしれない。もしかしたら、一生話せないかも」  
 一生他人に言えないような、重い楔を打ち込む可能性だってあった。そう思  
えば、千佳の告白を受け入れられるわけがない。嫌われたとしても、断るべきだ。  
 俺が思いつめた表情をしてしまったのか、お母さんはふっと笑ってため息をついた。  
「分かったから千佳の部屋いっときなさい。ほら」  
「うん」  
 お母さんは小さく笑って、再び食器を洗い始めた。ガチャガチャ、きゅっき  
ゅと食器や洗剤の音が聞こえてくる。俺は椅子から立ち上がり、千佳の部屋に向かった。  
 
 千佳の部屋のドア中央部には、コルク製ボードが据え付けられている。『外  
出中』のボードが一番表に掛けられていた。いつもはマメに取り替える千佳だ  
が、今日は流石に気が回らなかったらしい。  
 俺はドアを二度叩いた。が、部屋に誰もいないかのように、反応はなかった。  
改めて二度、ノックした。数秒遅れて返事が来た。  
「はい……お兄、ちゃん?」  
 千佳の声は弱々しかった。  
「うん。ちょっと、いいかな?」  
 千佳からの返事はなかなかなかった。本当ならドアを開け、千佳の傍にいて  
やりたい。だがそれは俺の役目ではない。  
「駄目」  
「そうか。なら、明日でもいいか? 話したいことがあるんだ」  
「うん。明日ね」  
「おう」  
「ごめん。今、顔がぼろぼろだから会いたくない」  
「うん」  
「声も聞きたくないの」  
「……」  
「何で、お兄──」  
「言うなっ!」  
 咄嗟に大声を出してしまった。一階のお母さんに聞こえるかもしれないから、  
極力小声で話さなくてはいけないのに。  
「お兄ちゃん」  
「ん?」  
「明日は……普通に戻るから。いつもの千佳に戻るから。もう言わないから」  
「おやすみ」  
「おやすみ。お兄ちゃん?」  
「ん?」  
「好き」  
 俺は返事をしなかった。聞こえなかったかのように、「おやすみ」とだけ言って自室に戻った。  
 自分の部屋に戻り、ベッドに倒れた。思い出してはため息をつき、ごろんご  
ろんのた打ち回ってはため息をついた。  
 
 次の日、つまり今朝の千佳は何かが吹っ切れたかのように快活だった。昨日  
の慟哭が嘘のようだった。戸惑いつつも、千佳に合わせて馬鹿話を始める俺。  
本当は話したくなくて、会いたくないのかもしれない。一日で悲しみが薄れる  
はずがない。だが、食卓を重くしたくはないのだろう。そういうことにした。  
 
「決めたの。もう中途半端はヤだから。彼に悪いもん、それにお兄ちゃんの答え聞いてないよ」  
 今朝のテンションは、帰ってからも続いた。俺は、話し合うことを敢えて避  
けていた。  
「……後で話す」  
「ヤダ、今言って」  
「ヤダってあのなあ」  
「イ ヤ」  
「ガキ」  
「ガキって言った方がガキです!」  
 俺は息を呑んでいう。  
「お前なんか嫌いだ」  
 おどけた口調だった。だが千佳には伝わるだろう。俺がお前を受け入れない  
ことを。二度と惚れたはれたの関係になるまいと伝えるためだ。  
 だが千佳には俺の言葉が効かなかった。  
「信じられないよそんなの。言うなら私の目の前で言ってよ!」  
 俺はノブを掴んでドアを開いた。  
 廊下には薄い桃色のワンピースにエプロン姿の千佳が立っていた。お盆の上  
には苺のショートケーキと淹れたての紅茶が載っている。  
 可憐で強気な、芯の通った美少女が目の前にいた。  
「俺は」  
 刹那、「ウギャーーーーーーーーーーーー!!」という声が後ろから聞こえ  
てきた。千佳の声がそれに重なる。  
「え? ええええ〜〜〜〜!!」  
 俺が後ろを振り返ると、直人が開いた箪笥からリアルドールと共に部屋の真  
ん中に倒れこんだ。ドレス姿の人形を厚い胸板、太い手首、暑苦しい顔で抱き  
寄せたまま一緒に床にダイブする直人は、己が史上最悪のタイミングでバラン  
スを崩した事を、一番よく知っていた。  
 人形は先輩のものだ。だから安易に潰してはいけない。人形に衝撃が当たら  
ないように、不安定な体勢でも人形を死守する。そうすると、トモや千佳ちゃ  
んに見えないように隠すことはできない。待てよ、隠さなければいいんだ。  
 落ち着け、俺。ちょっとヤバすぎるぞそれは。  
 他人に自分の性癖を見られた瞬間が頭の中にフラッシュバックしていった。  
今回の事も、きっと想い出になるに違いない。だから千佳ちゃん、そんなに引かないで。  
 住友直人は混乱しながら、ばたりと床に倒れた。  
 倒れこむと同時にずおおぉん、と衝撃が床を伝わる。さすが体重86キロ。  
「直人、お前……まだいたんだ」  
「開けないって約束したじゃんか!」  
 直人がリアルドールに股間もろとも抱きつきながら、悲痛な叫びをあげる。  
「すまん。すっかり忘れてた」  
「ヒドイッ!」  
 

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