お兄ちゃんの部屋に直人さんがいるのは分かってた。廊下や階段にまで響く  
声で、いつものように語っていたのだから当然だ。だけど、直人さんに人形に  
抱きつく趣味があるとは知らなかった。  
 身体が震えてお盆の上のカップがかちゃかちゃ鳴った。置かなくちゃ。右足  
を出して、左足を寄せて、出す。お兄ちゃんの座ってる所でゆっくり膝をついて、お盆を床に置いた。  
「じゃ、じゃあ失礼しました。ごゆっくり」  
 ふら付かないようすっと立ち上がり、ぎこちない笑みを浮かべる。  
「ち、千佳ちゃん?」  
 直人さんが人形を脇に置いて、立ち上がる。  
「千佳、待て」お兄ちゃんも立ち上がろうとする。  
「別に人の趣味をとやかく言うつもりはありません。でも」  
 お兄ちゃんを睨みつける。「最ッ低」  
「千佳、お前誤解してるぞ」  
「誤解? 別に私がどう誤解してようといいじゃない。好きにすれば!」  
「俺はそんな趣味はない!」  
「じゃあ何でこんなものお兄ちゃんの部屋にあるのよ!」  
「こいつが勝手に持ってきた」  
「証拠は?」  
「直人。お前が言え」  
「千佳ちゃん。ぼ、僕がこれに抱きついてたのはだね。え、えっとこれを隠そ  
うとしてでもトモがドア開けようとするから吃驚しちゃってそれで思わず」  
「直人! 違う。お前のものかどうか言えって言ってんだ」  
「あー、これは僕のものじゃなくて」  
「誰も所有権なんて聞いてない! お前が持ってきたって言え」  
「そうです。その通り。僕が持ってきました。はい」  
 会話は私の耳を通り抜けた。なぜお兄ちゃん達はこんな白々しい会話をでき  
るのだ。お兄ちゃんのものならそう言えばいい。なぜ私に嘘をつく必  
要があるのか。人形が好きなら好きでいい。だけど。  
「私が好きじゃないならそう言えばいいじゃない。何でこんな──こんなものを!」  
「はあ!? 何でそんなこと言うために持ってこなくちゃいけねえんだ!」  
「じゃあ何で持ってるのよ。人形を好きだってアピールするため? 私を嫌いにするため?」  
「お前……」  
 お兄ちゃんの表情が硬くこわばる。「違──」  
「千佳ちゃん! トモはリアルドール……これのことね。リアルドール好きを  
証明するために、俺に持って来いって言ったのさ。そうだろうトモ?」  
 お兄ちゃんの顔がキっと後ろを向く。直人さんを睨み付けている。  
「直人、お前何言ってんだ?」  
「千佳ちゃんのことを別に好きじゃないって見せつけるために、俺に持って来  
いって言ったんだよな? トモ」  
「……ああ、そうだ」  
 どこまでが本気か分からない。本当に、お兄ちゃんはこんなのが好きなのか。  
信じられない。信じたくない。  
「本当なの? お兄ちゃん」  
「ああ」  
「じゃあ、証明してよ」  
「さて両者とも同意の上ですので、お二方にはあることをやっていただきます」  
 ベッドの上に飛び乗って、お兄ちゃんと私に語りかける直人さん。司会者みたい。  
「それは愛の象徴。フレンチキスです」  
「「フレンチキス!?」」  
 お兄ちゃんと私がハモる。  
 小鳥が啄ばむようなイメージがわいた。  
 直人さんが両の掌を合わせ、指を絡ませる。  
「あー、千佳ちゃん。一応説明するけど、フレンチキスってのは相手とディー  
プキス、つまり相手の口腔に舌を入れたりする、大人のキスのことを言うんだよ。分かるかな」  
 直人さんの腕や指、掌をくねくねと動いてついたり離れたりする。何となく  
判った気がする。ねちっこいキスということか。  
「……それって、お兄ちゃんとですか?」  
 直人さんの左手が自身の左胸に置かれ、心拍数の変化を左手を小刻みに動かして表現している。  
「そう。その上で心拍数と顔の赤みを見ます。赤くなればビンゴです」  
「釈然としないな。俺がキス初めてで千佳にだって赤くなるかもしれないじゃねえか」  
「嘘つけトモ。お前キスは何度もやってきたじゃねえか」  
「くっ……」  
「但し」と直人さんは言った。「トモにはもう一人とやってもらいます。千佳  
ちゃんはお兄ちゃんとだけで構いません。これはトモの、相手に対する想いの  
尺度を図るのが目的ですから。トモ、選べよ。お前リアルドールと俺、どっちとシたい?」  
「はぁ!?」  
 直人さんがとんでもない問いをした。さすがのお兄ちゃんも驚いて口を大仰に開ける。  
「待てよ。トモはリアルドール好きだから人形とキスするのは当然か。なら選べ、俺とキスするか否か!」  
「お前……大丈夫か?」  
「お前馬鹿? お前リアルドール好きを証明したいんだろ。ならお前は、リア  
ルドールとキスしなくちゃいけないんだ。今ここで!」  
「ちょ、ちょ、ちょっと待てよ。落ち着け。どっか頭の回路が切れたんじゃねえか?」  
「嗚呼嗚呼〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」  
 素っ頓狂な雄たけびを上げて、直人さんはベッドから飛び降りてお兄ちゃん  
の耳元に何か囁いた。お兄ちゃんは直人さんに反抗するが、結局うなだれる。  
「直人、もう一回言ってくれ。俺は何を選ぶって?」  
「よろしい」直人さんは再びベッドに戻った。「トモ。お前は二人以上の相手  
とこれからキスします。一人はリアルドール。お前がリアルドールを愛してい  
るのなら、キスぐらい簡単だろう? もう一人は千佳ちゃん。お前が千佳ちゃ  
んを何とも思ってないなら、別段顔は赤くならないだろう? さらに」  
 直人さんはベッドからゆっくりと降りてきた。  
「この実験の精度を更に上げるために、俺というサ〜ンプルが必要だと、そう思わないか?」  
 お兄ちゃんは一生懸命首を左右に振った。  
「思わない」  
「思えよ。おホモ達だろ」  
「ふざけんな。冗談は顔だけにしろ」  
「オッ! 使い古されたジョーク……そうとう動揺してるな」  
「……勘弁してくれよ」  
「本来なら俺かリアルドールか千佳ちゃんか選んでもいいんだが、今回は話が  
違う。さあ、俺とフレンチキス!!」  
「嫌だ!」  
「決まったな」直人さんはベッドに座り、肘を膝について頬骨を乗せる。  
「千佳ちゃん、トモ。君たちはキスをする。トモ、お前はその後人形とキスす  
る。それでいいかな、千佳ちゃん?」  
 お兄ちゃんの真意が分かるかもしれない。お兄ちゃんがこの、リアルドール  
とキスすることで、もしくは私とキスすることで、何かが分かるかもしれない。  
そんな気がした。もう嘘はいい。  
「はい。いいです」  
「トモ、凹んでんな! それでいいよな勿論」  
「マジかよ」  
「いいよなって聞いたんだ。答えろ」  
「勝手にしろ」  
「OK!」パンパンと手を叩いて立ち上がる直人さん。「千佳ちゃんこっち座って」  
 直人さんが私をベッドに座るよう言いながら、私の持ってきた紅茶を私に渡してくれる。  
「あ、ありがとございます」  
 ばふっとベッドにお尻をつけて、礼を言った。  
「なんの。冷めちゃったけどね」  
 そういって微笑む直人さん。私は紅茶の入ったティーカップを受け取り、鼻  
に近づけた。林檎のいい香りがする。もう少し熱かったらもっとよかったのだけれど。  
「あ、お菓子三つあるんだね」  
「あの……もしかしたら部屋に入れてくれるかと思って、私の分も出しちゃったの」  
 そう言うと直人さんは苦笑した。「僕がこんなの持ってこなければ、こんな  
事にはならなかったんだけどね。ちょっと休憩。お菓子いる?」  
「はい」  
 直人さんが栗羊羹を手渡してくれた。筋肉むちむちのマッチョだけど、物腰  
は柔らかい。お兄ちゃんもこうならいいのに。  
「トモぉ!」  
 直人さんの声が一オクターブ上がった。「お前もベッドに座れぇ!」  
 直人さんはお兄ちゃんの体を軽々と持ち上げて、ベッドの上に強引に座らせ  
た。お兄ちゃんは物凄い嫌そうな顔で辺りを見渡している。  
 直人さんが紅茶とお菓子をお兄ちゃんに突きつけて、お兄ちゃんは囚人のよ  
うに機械的に口に入れる。  
 お兄ちゃんは私とキスするのが嫌なのか、それとも人形とするのが嫌なのか。  
もしかしたら両方かもしれない。そう思ってドキリとする。  
 お兄ちゃんは私を別に好きじゃなくて、この人形も好きじゃなくて、別の人  
が好きかもしれない。けどこの茶番を終わらせたところで、その人の名は出て  
こない。人形と、もしくは私とキスしたくないと分かるだけだ。  
 それでもいい。  
 お兄ちゃんが私を好きじゃないのなら、私の気持ちの整理がつくならそれでいい。  
 栗羊羹を口に入れる。どうしてこんなにおいしいのか。分からない。不思議  
だ。今いる現状が分からない。でも何は変わる。  
 直人さんがリアルドールをベッドとは反対側の壁に掛けて、しゃがんで人形  
の服についた埃を払った。  
「さてトモ!」  
「よっしゃ!」  
 お兄ちゃんが空元気を出して立ち上がった。自暴自棄になっているのかもし  
れない。「直人、提案がある」  
「何だ。ルールに違反しない限り聞いてやる」  
 直人さんが立ち上がってお兄ちゃんに対面する。  
「ラップ唇にかけてキスしていいか?」  
「ホワチャァ!!」  
「あうっ」  
 直人さんがお兄ちゃんの眉間をデコピンした。  
「それじゃディープキスじゃねえだろ! 観念しろ」  
「No〜〜〜〜!」  
 心底うんざりしたため息をつくお兄ちゃん。  
「直人。俺を目覚めさせる気か?」  
 直人さんは目をぱちくりさせて答える。  
「トモ。それはお前次第だ。お前がキスしたぐらいで目覚めるのなら、それまでだ」  
「ありえね〜〜〜〜!」  
「シャラップ! では始めます。千佳ちゃん、トモに寄って」  
「はい」  
 私はベッドのシーツに手を置いて、腰を浮かせておにいちゃんの元に近づく。  
お兄ちゃんも、ドキドキしてるだろうか。  
「おら、トモ。お前も寄れ」  
 だけどお兄ちゃんは動こうとしなかった。  
「トモ?」  
「駄目だ」  
「あん?」  
「俺はやらない。こんなことしちゃいけないんだ。千佳」  
「……何」  
「俺は、千佳。お前が嫌いだ。だからこんな事しちゃいけないんだ。お前は彼氏とキスしろ」  
「いや」  
 私は立ち上がった。  
「嫌じゃない」  
「……お兄ちゃんは、私の事が嫌いなの?」  
「おう」  
 私は窓を見つめる。ずんずんとお兄ちゃんと直人さんの横を通り抜け、ベラ  
ンダの窓に手を置いて開けた。途端に生暖かい風が吹く。七月とはいえ強い日  
差しだ。私はベランダに足を乗せた。  
「死ぬほど嫌い?」  
 重心を右足にかけてベランダに身を乗り出す。腰をベランダのフェンスにかけた。  
「おい!」  
「答えて!」  
 腰を浮かせてフェンスに乗った。上体を後ろに倒して両手を離したらまっ逆  
さまに落ちる。本気で死にたいと思ってるわけじゃない。だけど、そうしなく  
てはいけない思いがあった。  
「千佳ッ! ここにこい」  
「いや」  
「ふざけんなッ! てめーハッ倒すぞ」  
 お兄ちゃんは本気で怒った。  
「私の事嫌いなんでしょ? ならどうなろうと関係ないじゃない!」  
「関係ないわけねえだろ! 俺の妹だ」  
「じゃあなんで嫌いとか言うの? 私が何か悪い事した?」  
「してねえよ!」  
「じゃあ何でよ!」  
「俺が──」  
「何よ? 何で黙るの!?」  
「俺がお前を、好きになっちゃいけないからだ」  
 好きになっちゃいけない。それは私だ。今までどれだけ思いを隠してきたか。  
お兄ちゃんを好きにさえならなければ、こんな思いはしなくてすんだ。お兄ち  
ゃんでなければ普通に恋愛だってできた。好きになっちゃいけない、それは好きということだ。  
「それ……好きって事?」  
「ブラヴォー! その通りだよ千佳ちゃん」  
「え」  
 直人さんだった。  
「直人! てめえ」  
「トモ、お前も約束破ったじゃんか。だからお相子さ、もっとも約束なんかな  
くたって言ったがね。千佳ちゃん。こいつは間違いなく君に惚れてる。保証す  
るよ。だから君がわざわざ命を危険にさらしてまで、こいつの気持ちを確かめ  
る必要はない。だろ? トモ」  
「……ああ」  
「信用、できないよ」  
 私は顔を歪ませて笑った。  
「俺はお前が好きだ。だから降りて来い」  
 空虚な言葉がお兄ちゃんから漏れた。そんなこと誰が信じるというのか。  
「嘘。私がこんなことしてるから言ってるだけでしょ?」  
「違う」  
「こんな我侭な妹、嫌いでしょ?」  
「違う!」  
「じゃあ──して」  
「え」  
「キス、して」  
「……分かった」  
 お兄ちゃんは一歩一歩、足を進めてきた。  
「待って、お兄ちゃん」  
「何だ」  
「お兄ちゃん。キスしないで私引き摺り降ろす気でしょ?」  
「……お前、何でそんなに勘がいいんだ?」  
「誰だってそうするよ。だから来ないで」  
「いや……キスするよ」  
「嘘! 嘘だよ」  
「お前が信用しないならそれでいい。俺はするから」  
 胸のもやもやが取れていく。どうしてお兄ちゃんの言葉を信じたくなるのだ  
ろう。お兄ちゃんはベランダまで来て、手を差し伸べてくる。  
 お兄ちゃんの手は、いつも大きかった。いつも背が高くて追いつかなかった。  
ファンデーションを初めて買った時もそうだ。お兄ちゃんはその手でひょい、  
と私のそれを取り、私の顔に落書きした。鏡の中の私はそれはもう酷かった。  
悔しいのでお兄ちゃんの顔にも落書きした。傑作だったのでカメラで何枚も記念  
撮影した。その写真は今はもうない。  
 浅黒く日焼けしたお兄ちゃんの手にそっと右手を触れた。大きくて、熱い手  
だ。途端に右手を引っ張られ、お兄ちゃんの左手が私の背中を覆った。  
 抱きしめられた。  
 厚い胸板、広い掌、ほのかに汗ばんだ体臭、お兄ちゃんの心臓の音。ずっと、  
ずっとこのままでいたかった。締めつけられるように胸が苦しい。だけど、そ  
れでよかった。お兄ちゃんを感じていられるなら、それだけでいい。  
 キスしなくちゃ。  
 忘れてた。今でなくちゃできないことを、しよう。  
「お兄ちゃん?」  
「馬鹿だよ、お前」  
 確かに馬鹿なことかもしれない。謝らなくてはいけないことかもしれない。  
だけど、お兄ちゃんには分かって欲しかった。  
「馬鹿だもん!」  
「ふふっ……お前ほんっとに馬鹿」  
 顔を上げると、お兄ちゃんの微笑があった。  
「お兄ちゃんがキスしてくれないからいけないんだもん」  
「凄い論理展開だな」  
 お兄ちゃんは笑って、掌を私の両目に置いた。温かい手だ。私の瞳をお兄ち  
ゃんの手が覆って、そして私は目を閉じた。  
 キスしやすいよう、顎を上げる。お兄ちゃんの手が私の首と背中に落ちる。  
頬に熱い感触がうまれた。  
 目を見開いて抗議の眼差しを向けるが、お兄ちゃんは笑って「ここは危険だ。  
降りようぜ」と言った。  
 私は頬を染めて、つい頷いてしまった。  
 
 その時、直人が大声を出した。  
「あら〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」  
 一斉に俺と千佳が部屋の中に目線を走らせる。直人が人形の首の後ろ側を撫  
でながら凝視している。  
「トモ〜〜!! このリアルドール、もしかしたら風船で出来てるかもしれないぜ?」  
「はあ!?」  
「だってここに空気の吹き込み口がついてる。これ取ると、縮むんだよきっと」  
 直人が人形の首元を指した。「ほら」  
 直人が指で引っ張ると、ビーチボールなどでお馴染みの一センチ程度の吹き込み口が出てきた。  
「えっと、つまりなにか。お前んちに簡単に収納できるようなものを俺ん家に  
わざわざ持ってきて俺と千佳に迷惑を掛けて、今更風船でしたごめんなさいと  
そういって終わりなわけか? オイ!」  
「ど、どうりで軽いわけだ」  
 聞いちゃいない。  
「おい!」  
「気づけよトモ〜!」  
「気づくかボケが! 俺一度も触ってないし」  
「そこで人形萌えパワーですよ」  
「あるか!」  
「……すまん」  
 直人はその巨体を前方に折り曲げた。ガタイのいい身体だ。Tシャツがはちきれそうだ。  
「おう」  
「俺が悪かった。許して」  
「仕方ねー。許してやるよ」  
 そういうと、直人は顔を上げてニパッと笑った。  
「んじゃま、さっそく空気抜いてみるか」  
 直人は早速、吹き込み口の押さえを外した。その途端、人形は物凄い勢いで  
俺と千佳の所に飛んできた。そのスピードはゴキブリに比肩する。フリルの服  
を靡かせて突進するリアルドールは空気抵抗によって微妙に旋回し、その足が俺の首を打った。  
 突然の出来事に避けられずベランダでふらつく俺。その時リアルドールの頭  
が千佳の腹を打っていた。千佳は「あぁ!」と情けない悲鳴をあげて、足を滑  
らせてしまう。俺は上体を窓の外に持っていってでも千佳をベランダに押し返  
そうとするが、そんな俺の脚をリアルドールの頭が強打した。  
 
 どうして人形のくせにこんなに俺をなぎ倒そうとするのか。俺は脚を滑らせて、地上に落下した。  
 
 全身を覆う浮遊感。俺は二階のベランダからまっ逆さまに落下していた。  
 全精力を使って、一番怪我しない体勢を考える。  
 背中から強打。骨が折れること間違いなし。  
 頭から激突。首の骨折って死ねる。  
 では足から落ちる。それなら足の複雑骨折程度で済むかもしれない。  
 だが怪我をしないで降りる方法は。猫のように両手両足を使って、着地する。それしかない。  
 俺は地面を見据える。木が何本も生えている。それに足を引っ掛けて落下速度  
を緩和するのは良い案だ。隣家の木だがそうも言ってられない。俺は両手両足  
をばたばたさせてバランスを取り、両足を木に掛けようとして一気に体重が木  
に掛かって足を変にくじきそうになったので、強気に木を蹴って、両足と両手  
を這い蹲るようにして、手を広げ、膝を曲げて隣家の庭に着地した。  
 途端に手足にかかる加重。それを筋肉でなんとか防ぐ。顔が地面にぶつから  
ないように、ショックを手足で吸収した。  
 完全に体勢を調節できなかった。右手に負荷がかかりすぎて、鈍く痛み始め  
た。だが何とか着地できた俺は、左手で強く地面を押して立ち上がった。足腰  
がやけに重い。だが──  
 上から千佳が降ってきた。  
 俺は千佳を両手で支えることにした。落下地点を見極める。千佳はパニック  
に陥っているのか、背中から地面に激突してしまう格好だった。俺は全力で千  
佳の落ちる所に駆けつけて両手を左右に広げた。それは一瞬だった。俺が力を  
入れて踏ん張ろうとした瞬間、千佳は俺の両手に落ちた。突然かかる何十キロ  
もの体重。五メートル以上の地点から落下した千佳を絶対に怪我させないため  
に歯を食いしばり、腰に力を入れた。顔が真っ赤に染まり、冷や汗が出る。手  
を離したら千佳が怪我をする。そんな事は許されない。  
 千佳の身体が軽くなった気がして気を緩めた時、俺は右手から地面に手をつ  
いてしまった。ぐきりと激痛が親指の付け根に走った。あまりの痛さに眩暈が  
して、千佳を地面に降ろしたまま千佳に倒れ掛かってしまった。  
 
 気づいたら俺は千佳の膝で気を失っていた。直射日光が目に眩しい。俺を見  
下ろす千佳は、輝いていた。俺の目が開いたのに気づいて、小首をかしげて  
「あっ、お兄ちゃん」といった。  
 途端に激痛が右手を走る。この痛みは、打撲程度のものじゃない。骨折した  
かもしれない。顔を歪めた俺に、千佳はいった。「お兄ちゃんが支えてくれたの?」  
「ああ」  
「ありがとう。あんな高いところから落ちたのに、私怪我してないよ」  
「痛いとこないか?」  
 千佳は首を振った。「ないよ。お兄ちゃんは?」  
「俺は……」  
 千佳の顔の横に広がる青空に黒点が見えた。それが徐々に大きくなっていっ  
た。直人と、リアルドールだった。直人はリアルドールの首元を操作しつつ、  
俺たちの元に飛んできた。冷静に考えれば考えるほどおかしな話だ。あれだけ  
高速で暴れまわる人形を直人は追いかけていって掴んで、そのうえ気圧の操作  
までしてここまで飛んできたのか。信じられない。  
 だが信じざるを得ない。  
 俺は小さな怪我をした。千佳は無傷だ。直人は人形を持っている。ただそれ  
だけの話だ。これ以上何を望むというのか。  
 俺はくっくっくと笑い出した。笑いは止まらなかった。千佳が怪訝な表情で俺を見下ろした。  
「どうしたの。お兄ちゃん」  
「あれ見ろよ。直人だぜ」  
 俺は顎でその方角を示し、千佳は俺の目線の先を見上げた。直人は左手をリ  
アルドール──もっとも中身はかなりしぼんでいて、服がしおれている──を  
掴みながら、右手でブンブン手を振っている。元気なマッチョだ。限りなく短  
い時間の中で人形の操縦法も覚えたというのが面白い。こいつはやはり変態だ。  
 千佳が大声をあげた。  
「直人さ〜〜ん! 大丈夫〜〜〜〜?」  
「まかせんさい〜!」  
 右手でピースをする直人。俺は視力2.0だから見えるが、千佳は見えてな  
いだろう。おそらくしていると分かる程度だ。どうしてこんな単細胞が、いや、  
単細胞だからできることもあるのかもしれない。この巨体が空を漂っていると  
いうただそれだけで面白い。  
「直人〜〜!」  
「何だ〜? 心のトモよ!」  
「もう〜〜、お前は〜〜、もう〜〜」  
 駄目だ。手が痛くて頭が回らなくて、おかしくて言葉がでない。  
「大丈夫ですか〜〜、トモ〜〜!」  
「うるせっ〜〜、一生飛んでろ!」  
「ん〜〜、そろそろ着地だ〜」  
 上空十メートル程度まで近づいた直人は、吹き込み口を下に向けて、静かに  
着地した。左手に持つはかつてリアルドールだった風船と豪奢な服の固まり。  
直人はシャワーでも浴びてきたかのような爽やかな笑顔で、「よう!」と笑った。  
「ヨウじゃねえ。このトラブルメーカーが」  
「ま、人生色々さ。これくらいで驚いてちゃこの先、生きていけねえよ」  
「お前が言うな。お前が!」  
「だっはっは〜〜」  
 無邪気に笑う直人と千佳。俺も笑いを一生懸命に隠そうとするが、駄目だった。  
 初夏、七月七日の出来事である。俺たちはいつものように笑い、ささやかな  
トラブルを経て、今に至る。  
 
 
 なお俺ら四名が、二階の窓から集団投身自殺をはかったという噂が後日流れ  
たのだが、それはまた、別のお話。  
 
                               終わり  
 
 おまけ 
 
 
 それから俺と千佳は数時間町の七夕祭りを楽しんだ後、深夜三時まで勉強し  
た。千佳が俺の勉強を手伝ったことで、勉強はさくさく進んだ。  
 一夜が明けた後のテストは見事合格。英語教師を吃驚させた。  
「あと少し勉強できてれば満点だったのにね。惜しいわ」  
 ひたすら惜しいわ惜しいわと嘆く英語担当の美樹先生。皮肉も可愛らしく聞  
こえるところが魅力的だ。  
 問題数は四十問。回答数は三十九問、時間切れで最後の簡単な問を解けなか  
った。右手ならば全問正解できた。  
 確かにあの後七夕で二時間遊んでなければ、または右手を骨折しなければ満  
点だったかもしれない。勿論、色々あったことなど口が裂けてもいうつもりはない。  
「左利きならよかったのにね」  
「左手はマスかき専用ですので」  
「……セクハラです。自粛なさい」  
「自粛します。じしゅく、しゅこしゅこ」  
 俺は包帯の巻かれた右手でピストン運動をした。  
「ファッキュー!」  
「カモン、アウチッ!」  
 その時、先生の特大ハリセンが俺の鼻を叩いた。痛い。俺のあまりの英語の  
上達振りに、先生は目頭が熱くなってつい太いものを掴んでしまったらしい。  
「『暴力教師、自身の太いモノで生徒叩く』イダッ! アダッ!」  
「黙らっしゃい!」  
 ハリセンが俺の顔を強く打つ度に先生の豊胸がぼいんぼいんと揺れ、パァン、  
パアン軽快な音が鳴り響く。まるでエスイー○ックスだ。  
「本当に先生は太いものが好きみたいだ、アウチッ!」  
「聞こえてるってのよ、このセクハラボーイが」  
 
 

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