童貞がそんなに悪い事だろうか。智彦は素直にそう思う。確かに恋愛し、性  
交し子を作るのが人間社会形成の重要な一過程なのは否定しないが、「高校生  
にもなってマダ童貞ですか?」という揶揄はあまりにも酷すぎはしないか? いや酷い。  
 それを言ったのは悪友・住友直人だが、実はそいつも童貞だ。お前は他人を  
馬鹿にする前にまず自分が彼女作れと。  
「はぁ……」  
 そんな事はいい。俺にはやることがあるのだ。自転車の前カゴに置いた鞄を  
忌々しく眺めつつ、しばし嘆息した。  
 鞄の中には英語の教科書、グラマー、英和辞書、和英辞書が詰まっている。  
今から家に帰って明日の小テスト対策をする必要があった。  
本来なら近くの公園でサッカーをやる予定だったのが、断りの連絡を入れる暇  
もなく捕まった。つい一時間前の午後四時のことだ。  
 
 
 午後四時三分前、担任の佐藤美樹が俺に教室に残るように言った。教卓にし  
つらえてある椅子に先生は座り、俺にそこらの椅子に座るよう言った。  
「なぜ君に残ってもらったか、分かる?」  
 佐藤美樹、25歳。モデルかと思えるほど美人で独身、明朗快活で授業も面  
白い。生徒の下ネタにもそれなりについてける包容力を持つが、何よりも特筆  
すべきはその胸である。  
 諸君、やはり神が人類に与えたもうた奇跡は胸だとは言えまいか。いや言える(反語)。  
 先生のしっとりとした黒髪はストレートに腰まで下り、胸はEカップと豊か  
だ。先生が廊下を歩く度バストが揺れ、男子生徒から「ヤリスギだ」という声  
が漏れる。その動きたるや圧巻で、計測不可能の大地震だ。どっちに揺れるか  
分からないが、どこへ揺れてもまた戻る。  
 振り子の法則万歳。ニュートン最高。  
「トモくん?」  
「胸は、生きている……」  
 先生がため息をついた。  
 
「トモくんの今回の小テスト。何点か覚えてる?」  
「はい! 1点であります先生」  
「ん。元気があってよろしい。で合格ラインはいくつだっけ?」  
「8点です先生」  
「ん。分かってるじゃない。じゃあこの小テスト告知は何日前?」  
「今日の授業中、アウチッ」  
 その時、先生お手製のハリセンがマッハで俺の鼻を叩いた。鼻の先がひりりと痛む。  
「暴力反対! 婦女子暴行現行犯で逮捕します!」  
「これは粛清です。それはともかくぶー!」  
 先生が大仰に両手を胸の前で交差させると、二の腕で豊かな胸が持ち上がる。  
左手のハリセンを教卓の端に置いて、眼鏡をずり上げながら言う。  
「一週間前です。忘れたの?」  
 俺は首を縦に振って頷くと、先生も首をかくんと落とす。  
「分かりました」  
 先生は教卓の上にある教科書をぱらぱらとめくり始め、「トモくんメモして」  
と言いつつ黒板に白いチョークで数字を書き込んでいった。  
 
 56-63 71 74-80  
 
「貴方には明日、小テストをやってもらいます。範囲はコレ。開始時間は放課  
後の4時15分。逃亡は許しません。欠席も、病欠も、合格ライン未満も許し  
ません。ドゥユアンダスタン?」  
「いぇー──え?」  
 俺はノートにその数字を書き込みながら、それが理解できなかった。問題範  
囲がやけに多い。今日の小テストの二倍ある。  
「えっと、先生。範囲増えてますよ」  
「悪い?」  
「ごめんなさい、それでいいです」  
「『それで』って何よ。素直に喜びなさい」  
「わーい、やったぞ〜! すごいや!」  
 
 先生が頭を抱える。  
「先生、大丈夫ですか?」  
「貴方の頭よりは平気よ。とにかく勉強なさい。もし不合格だったら、昨日街  
中で妹さんと抱き合ってたの皆にばらすわよ」  
「エ!? 俺、そんなことやってないですよ!」  
 俺は立ち上がった。先生は目を細めて「ま、言いふらされたくなかったらち  
ゃんとやるのね」といって立ち上がった。  
「ま、待ってくださいよ先生!」  
「あら、言い訳? それとも賄賂?」  
 俺は舌打ちした。「やりますよ。やりゃあいいんでしょ!」  
 先生は微笑んだ。「つくづく強情ね。でもやる気になってくれて嬉しいわ」  
 先生は教室のドアに手をかけ、ガラガラッとドアを開けた。  
「じゃあね。頑張って」  
 
 
「やりたくね〜!」  
 それからの下校中、俺は自転車のハンドルを適当に掴み、ペダルをため息を  
つくようにゆっくりとこいで家路に向かっていた。上半身は前傾姿勢、無論猫  
背だ。そんな俺の横を自転車に乗った二人の女子校生がセーラー服を靡かせつ  
つ、きゃいのきゃいの言いながら走り去ってゆく。  
「やりてー」  
 俺を抜き去ったとき、強風が吹いた。膝上4センチのスカートを穿いている  
少女のスカートがはためき、裾端にレースが施された黒ショーツが見えた。小  
ぶりなお尻を包み込む精緻なデザインの下着がサドルに乗っている。俺もサド  
ルになって全国津々浦々女子のお尻に押しつぶされて生きてみたい。可愛い子限定。  
 しかし先生に引き止められていなかったらあのお尻に出会えなかった。人生、  
塞翁が馬である。  
「あ、ちょいそこのチミ」  
 自転車を止めて見ず知らずの他人を呼び止める。  
「はい?」  
 
 大学生っぽい眼鏡をかけた男が立ち止まった。  
「さっき自転車に乗ってた子のパンティ、撮った?」  
「はい?」  
「撮ってないの? まさか!」  
 やれやれ。これだから最近の大学生は。言われたことだけやってればいいと  
思って、自分から何でも撮ってやろうという気持ちに欠けている。こんなこと  
では日本はお先真っ暗である。  
「時に大学生よ」  
「……なんだよ」  
「少子化についてどうおもうよ? 大学のレポートで課されなかったか?」  
「いーんじゃねー別に。自分で産みたい奴が産めばいいのさ。日本の経済なん  
て関係ねえ。っつーか自分の経済状況のほうが問題じゃねーか」  
「ふむふむ。言いたいことは分かるよ大学生。だが君は重大な欠点を見落とし  
ている」  
「何だよ。言ってみろよ」  
「少子化が進むと」  
「おう」  
「可愛い子の絶対数も減るんだぜ。パンチラも胸チラも、女子高生も女子  
校生も」  
「あ、そこ意味同じだから」  
「ナイス突っ込みッ!」  
 俺たちは手と手を取り合った。  
「ブルマも廃れた。セーラー服も廃れようとしている現代、これ以上美少女を  
減らしていいものか? いや、いいわけがない! 我々は〜、美少女党である。  
なお私が美少女でないのはご了承いただきたい」  
「俺も美少女になりてぇ!」  
「ファッカー!」俺は大学生を蹴り飛ばした。  
「あぎゃぁ!」へなちょこ大学生はアスファルトに吹っ飛ぶ。  
「美少女が美少女を愛でてどうする! 俺たちにはペニスが必要なのだペニス〜!」  
「ペニス!」  
「そうともペニス〜」  
「俺が間違ってたペニスよ。少子化反対〜ペニス!」  
「はんたーい!」  
 突如携帯が鳴り始めた。胸元のポケットから携帯を取り出した。画面には  
住友直人と表示されている。  
「すまん、突然電話して。今大丈夫か?」  
 隣でペニスペニスと叫ぶ変態大学生を無視して俺は電話に出た。  
「ああ、どうした? 何か用か?」  
「あとでお前んち行っていいか?」  
「んー、いいけど俺今日は勉強するからお前と遊んでらんないぜ?」  
「いいよ。ちょっと遊びいくぐらいだからさ。何時なら大丈夫なんだ?」  
「んー。六時、かな」  
「分かった。じゃあとで」  
「おう」  
 直人の電話を切ってから、やけに奴の口調が切羽詰っている気がした。いつ  
もならまったりと話し合うこともある直人が、さっきはやけに声に力が入って  
いた。だが直人の事だ。「あたらしい素材ゲットしました!」といった破廉恥  
な話題を提供する程度だろう。  
 直人んちは俺んちから結構近くて、自転車で6分もあれば余裕でつく。あい  
つの性格は、簡単に言えば変態だ。下ネタ大好き、女の子大好き、アニメ、漫  
画、ゲーム大好きの格闘技人間だ。あいつとは中学時代からの付き合いだが、  
奴を理解するために一つエピソードを紹介しておこう。  
 以前奴は『こんにゃくで作るオナニーホール』という講義をした事がある。  
彼は事前に作成したレジュメをクラスメートに配布し、バンバンと教卓を叩い  
て「うぉ〜い、始めますよ〜?」と某生物の先生の物まねから始めやがった。  
 無駄に上手い物まねに生徒は爆笑し、「先生ほかの物まねやって〜!」とリ  
クエストが飛び交った。直人はビシッと左手を宙に掲げ、厳かに言い放つ。  
「諸君、静粛に」  
 期待に胸膨らませた生徒たち、その瞳をまんべんなく眺め、直人は「我々に  
はオナニーがある」とのたまった。  
「諸君、我々にはオナニーがあるのだ」  
 「二回も言うなって」という野次に向かって直人は眼を開いた。  
「馬鹿な! 裕太。君はオナニーを馬鹿にするのか!?」  
「だって先生がオナニーっていうなんて!」  
「オナニーって何ですか?」  
「ハーマイオニーの事だよ」  
「お〜、ハリーポッターか!」  
 各々が好き勝手な談義を始めようとするが、直人がそれを許さない。  
「オナニーとは私の事だ」  
 この頃には笑いまくって痙攣する生徒が出始める。こういった生徒には何を  
言っても笑ってもらえる。うんこと連呼し、最後にちんこといっても笑うだろ  
う。生徒の瞳が猥雑になる。「先生もオナニーするんスか?」  
「いや」直人は微笑んだ。「私はオナニーしない」  
 途端に「嘘だ、先生が嘘ついた! センセの嘘つき! センセの嘘つき!」  
のコールが鳴り響いた。  
 直人は再び左手を掲げた。  
「待て。私もかつてオナニストだった。しかし時は非情だ。年々ペニスが立た  
なくなる。だから私はオナニーはしない。ここぞという時のために、精子バン  
クに溜めておこうと思ってね」  
 まあ直人が下ネタ連発しただけの講義だったわけだが、同級生には受けに受  
けた。これにより直人は一部から「先生ッ!」とからかい半分で言われるよう  
になったが、この授業が学年主任にばれて、直人はその後三日間、給食のデザ  
ートを没収された。直人が女の子の次に愛していたデザート。プリン、ケーキ、  
揚げパン。しかし直人は抗議しなかった。直人の代わりに先生に文句を言おう  
としたクラスメートを直人は引きとめ、諭した。  
「たかが下ネタごときで処分するような教師だ。文句言ったらお前も嫌われる  
ぜ。気にするなよ。だけど俺は、今後も言い続けますよマジな話。だって下ネタ好きだもん」  
 直人はオナニーホール、バイブ、ローター、首輪、手錠、荒縄など様々なア  
イテムを自室に所持していた。奴はその殆ど全てを先輩から預かったものだと  
弁解したが、本当の所は分からない。だが──これは直感だが、奴もまだ童貞  
だ。そんな気がする。奴とじゃれあう度に何となく思う。  
 途端に今日の勉強の事が頭に浮かんだ。  
「やりたくね〜!」  
 散々に大声で叫び、歌い、現実逃避をした後、家に帰り着いた。  
 サッカー仲間へ謝罪したのが30分前。自転車をキーコラこいで、やっと家  
まで帰ってきた。学校から家まで約4キロだが、いつになく遠く感じられた。  
 曇天の空を駆け巡る電線と烏の群舞。夕方を越えると、辺りは薄暗くなる。  
いつもならそこらのぺんぺん草にさえ愛想を振りまく俺が、何の感慨もなく自  
宅の駐輪場に自転車を置き、跨っていた足を雑草の上に降ろし、踏みつけ、玄関のドアを開けた。  
「うぅ〜いィヒッ! 旦那様のお帰りですよ〜?」  
 玄関先でわめいても誰の返事も返ってこなかった。至極真面目に靴を脱ぎ、  
居間に入るやいなや、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。  
「キャーーーーーーーーーーー!!」  
 妹の千佳がバスタオル一枚で俺の前に登場し、右手でチョップしてきた。ハ  
イスピードで振り下ろされる手刀を、膝をがくんと曲げて上体をのけぞって避  
けたが、千佳の手は俺の、ちんちんを直撃した。金玉のちょうど真ん中、ちん  
ちんに渾身の一撃を叩きつけられ、情けないうめき声を上げて倒れてしまった。  
 
 
 
 途端に股間を襲う激痛に、我に返る。俺はさっき、大事な箇所を  
妹にスパンキングされた。起き上がろうとするとちんこに激痛が走  
り、顔をしかめた。  
 千佳は目の前でおろおろしていた。巻いていたバスタオルが緩み、  
胸のふくらみが見える。  
「お兄ちゃんッ!」  
 千佳……。  
「何?」  
 目を潤ませて安堵している千佳に言った。  
「胸、見えてるぞ」  
 直後、耳をつんざく激しい悲鳴とともに、千佳は地面に落として  
しまったバスタオルを手にとって体に巻きつけた。咄嗟に巻いたせ  
いで頭まで白のタオルに覆われている。  
 うぅ〜、と唸る千佳の声が耳に心地よい。きっとタオルの中には  
真っ赤な顔があるのだろう。思わず苦笑する。笑い声に千佳の悶え  
た声が唱和する。  
「うぅ〜、お兄ちゃん酷いよ」  
 頭だけタオルを剥いで、朱色の妹が抗議する。  
「最初からずっと起きてたの? 私が裸なの知ってて」  
「あのなぁ、んな暇なことするかよ」  
「むむっ。何それ? 私のナイスバディー馬鹿にしてる?」  
 千佳はタオル越しに「ふんっ!」と胸を突き出してきた。タオル  
で体隠しながら自慢することだろうか?  
「千佳ちゃん? 服着まチョウね〜」  
「ムカつく!」  
「ほら分かったから服着ろって。ほら」  
「わ、分かったわよ」  
 いそいそと千佳が廊下へかけてゆく。前半分を隠しているだけだ  
から尻はもろ見えだった。中2にしては丸みをおびたお尻、水泳で  
鍛えたカモシカのような脚が廊下に消えた。  
 千佳がいなくなってから、笑いがこみ上げてくる。  
 いつもの千佳だった。数日前告白されたのが信じられないく  
らい、俺と千佳の関係は以前のままだ。千佳は相変わらず何事にも  
真剣で、俺は相変わらず適当だった。だが、勉強だけはしなくちゃ  
いけない。あの先生の事だから憶測を交えた噂話を生徒に披露しな  
いだろうが、聞かされた生徒はアレンジするに決まってる。  
 居間に転がっている鞄をあけて、中のプリント、教材などをテー  
ブルの上に並べた。暗記すべき単語が145個。そこからテストに  
出るのは8個。後の2個は文法問題。必ず出るものだけ勉強できれ  
ば効率的だが、世の中そんなに甘くない。  
 とりあえず書こう。書いて覚えていこう。  
「痛ぅ」  
 すこし動くだけで股間がズキズキ痛むが、千佳のお尻を見られた  
ので良しとしよう。ってふざけんなッ! そうじゃねえ!  
 俺が本腰を入れるまで、それから十数分かかった。  
 
 
 私が居間に来たとき、兄はテレビも漫画もゲームもせず、机の  
上で英語の勉強をしていた。ヒョイと横からノートを覗き見るが、  
悪戯書きもしていない。珍しい。こんなの兄じゃない。  
「えぇ〜? お兄ちゃん、何で勉強するの?」  
「日本経済の発展のためだ。国民の責務だろ?」  
「宿題?」  
「違う。明日英語の小テストがあるんだよ」  
「ふぅん。でもお兄ちゃん、『もう勉強はしねえ』とか言ってなかった?」  
「失言だ。訂正させろ」  
 確かに高校入りたてのとき、兄はそう言った。やりたくないことは  
絶対にやらない兄。親の小言も先生の叱責も聞き流した兄。それが  
中二の二学期から、猛烈な勢いで勉強しだした。毎日のサッカ  
ーを半分以下に抑え、図書館と先生を大活用して内申を上げ、見事  
県立トップの高校に入学した。  
 以前の兄を知っている先生やご家族の皆様からは、ため息しか出  
なかった。私もそうだ。何が兄を本気にさせたのかと以前聞いた事  
はあるが、軽くあしらわれた。  
 いずれにせよ高校生となった後、勉強したくない病が再発し、今  
に至るというわけだ。  
「うっそー。信じらんなーい」  
 私は何度も「うっそー」といった。こうなったら徹底的に兄を馬  
鹿にしてやる。悔しがらせてやらねば気が済まない。  
 兄はあぐらを改め、正座した。  
「千佳、そこになおれ」  
「はっ、何でありましょうお兄様」  
 千佳は機敏な返答をし、智彦の向かい側に座った。智彦と同じ、  
正座である。何度目かのお遊戯。お殿様ごっこ。殿様と家臣を演じ  
たいものが唐突にその口調で喋り、パートナーが同調すれば今回の  
ような演技が始まる。  
「わしの決意に揺るぎはない。今日、徹夜で英語を勉強する」  
 兄、智彦は曇りのない清清しい笑顔で妹、千佳を見下ろした。  
 千佳は目を見開いて驚愕する。  
「し、しかしお兄様」  
 うろたえる千佳。しかし智彦は不適な笑みを崩さない。  
「ふっ、そちが戸惑うのは無理もない。わしは今まで勉強とは眠る  
ための儀式としか思っておらんかった。勉強のせいでFFが出来な  
くなった日には、二度と勉強するものかと誓ったわ」  
 カッカッカと笑う智彦。本気で笑っている。  
 千佳の目が鋭くなる。「お兄様! 一つ問題がございます」  
 智彦は「がっはっは」と両手をそらしてソファに仰け反る。  
「許す。申してみぃ」  
 千佳は厳かに発言した。  
「お兄様は、シャープペンシルをお持ちですか?」  
「愚弄するか小童! わしとてシャーペンぐらい持っておる」  
 智彦は学生鞄を取り出して、ボタンを取って中をがさごそと探る。  
「あれ?」  
 智彦は鞄のあちこちを探すが、一向にふでばこも出てこない。教  
科書は大量にあった。数学A、グラマー、現代文、地理B、音楽、  
しかしふでばこはどこにもなかった。  
「おっかしーなー」  
 鞄をひっくり返して左右にぶらぶら振ってみる。風俗店の割引券  
とコンドームが出てくる。  
「ちょっと待てぃ!」  
 瞬時に智彦は鞄を割引券とコンドームの上に被せた。強い力で鞄  
を振り下ろしたせいで、割引券が宙を舞った。  
 ゆっくりと舞い降りる割引券の、キャッチコピーは千佳にも判読  
できた。  
「『包 茎 を 克 服 せ よ』? お兄様、これは一体?」  
 ピンクで可愛らしく書かれた文字の横に、鎧を着た金髪の女子が  
男の一物を片手で持ち、カメラ目線で微笑んでいる。  
「千佳」  
「はっ」  
「わしは仮性人ではない」  
「は?」  
「気にするな。専門用語だ」  
「お兄様は、火星人なのですか?」  
「ヌォウッ! 違うッッ……てか包茎って何?」  
 智彦はわざとらしく千佳に問う。しかし千佳が分かろうはずもない。  
「方形……。申し訳ありませんが存じ上げません。しかしお兄様の反  
応から察するに、あまり良い意味ではなさそうですね」  
「いや、いい意味だよ」  
「本当ですか?」  
「勿論」  
「では、お兄様もかせい、包茎になればよいのですね」  
「ンネウュチッルテッナウモ」  
「火星語ですか?」  
「千佳、お前本当に千佳なのか?」  
「お兄様。お兄様は本当にお兄様なのですか?」  
 智彦はすっくと立ち上がり、窓の外に向かって声高に語りだす。  
「ああ。お前が本当に我が兄を敬う気持ちを持っているのなら、  
私に仮性包茎などという言葉は吐かないでおくれ。妹が兄に向かっ  
てつく戯言の中ではインポに次ぐ猥雑で不敬な言葉だと、お前は知  
らぬらしい」  
 ……お兄様、どこの古代演劇を模しているのですか? などとは  
訊かぬのがここでのたしなみ。  
「お兄様。もし貴方が私のお兄様でなかったら私は更に怠慢でずぼ  
らだと罵ったでしょう。貴方様がブリーフ姿でリビングをうろうろす  
る度に私も自室に旅立ちたくなるのです。妹を女とお思いですか?  
 妹の前にも関わらず風呂上りに半裸で牛乳パック片手飲みをする  
はずがありますまい。妹として、恥ずかしいばかりにございます」  
「コップ取り出すの面倒なのだが」  
「だってお兄ちゃんと間接キ……」  
「わしの唇は汚れていると?」  
「そうじゃ、ないけど……」  
 いつのまにか素に戻ってしまった。  
「まぁいい。ふでばこが消えた。直ちに捜索隊を編成し、調査せよ」  
 よく考えると、お兄ちゃんはさっきまで勉強していた。本気で勉  
強したかったらこんな無駄話などしないはずだ。  
「お兄様」  
「何だ」  
 智彦の目がぎらりと光る。「申せ」  
「ふでばこは消えたのではなく、鞄に入れなかったのではと愚考い  
たしますが」  
「なぜそう思う」  
 兄のニヤニヤ笑いがいやらしい。本当にお兄ちゃんは、勉強した  
くないらしい。全身から遊びたいオーラが発散している。  
「二階の、お兄様の机の上にミッ○ィーちゃんのカンペンがあるか  
らでございます」  
「千佳」  
「はっ」  
「それは幻覚だ」  
「振ったらカシャカシャ音が鳴りました」  
 千佳が両手を前に出し、リズミカルに上下左右に振った。  
「それはまやかしだ──それはマラカス」  
「そもそも俺はミッ○ィーのカンペンなど知らん。そんな趣味はな  
いから買ってない。当然、持っているわけもない」  
「うそー!」  
「嘘じゃない」  
「ホントに?」  
「ああ。何なら二階に行って見て来るか?」  
「うん。じゃ、お兄ちゃん」  
「何だよ」  
「もしカンペンあったらどうする?」  
「今日一日、つっても六時間ぐらいだけど、お前の言う事聞いてやるよ」  
「ホントに!?」  
「勿論。男に二言はない」  
「ありがとう。お兄ちゃんも一緒に行く?」  
 居間のドアに手を掛けた私が兄に問う。兄は怪訝な顔をした。  
「何で? 行ってくりゃいいじゃん」  
「だって私一人で行ったら、不正が発生するかもよ?」  
「不正? 何で」  
 兄が素っ頓狂な声を上げる。「だって私が自分のカンペンで騙す  
かもしれないじゃん。『ね、あったでしょ?』って」  
 兄は苦笑した。  
「馬鹿、お前はンな事しねーよ」  
 そう言ってくれる兄が愛しいし、話す度に好きになる自分がもどかしい。  
 私は胸に疼くものを抱えながら、階上に向かった。  
 
 
 
 俺が再び参考書に目を向けた時、携帯が鳴り出した。直人だ。  
「どうした」  
「トモ。今すぐお前の部屋に来い」  
「ハ!? 何言ってんだ?」  
 途端に直人は悲痛な呻き声をあげた。  
「あばばばばッ──トモ、簡潔に言う。素直に聞いてくれ。俺は今お前の部屋  
にいてお前と電話してる。俺は今お前以外誰とも会いたくないし部屋に入れた  
くない。だからお前はここに来い。今、すぐ! ──うぉぉぉ」  
「合言葉ニ答エテ下サイ。『海』」  
 直人は急に声色を変えて、近くにいる誰かに向かって言ったようだった。  
『え?』  
 千佳の声だった。千佳は今二階に居る。ということは、直人は本当に俺の部  
屋にいるということか?  
『お母さん?』千佳は警戒し始めている。  
「合言葉ニ答エテ下サイ」  
『誰ですか!』千佳が鋭い声を放った。  
「『海』」  
 再び直人が低く抑えた声を出した。  
「トモ〜〜〜ッ!! 何やってんだお前? 早く来い! 事情は後で説明する  
から!」  
「わ、分かった」  
 携帯の電源を切り、携帯を胸ポケに入れて立ち上がり廊下に向かう。  
 何故あいつ俺の部屋にいるんだ。不法侵入じゃねえか。何なんだ。  
 一気に階段を駆け上がり、二階に到着した。  
 
 
 二階の廊下で千佳は、俺の部屋のドアの前で、顔を強張らせて立ち尽くしていた。  
「お兄ちゃん。誰かいる」  
 千佳は静かに話す。  
「ああ」  
 俺は中に居るのが直人だと言わない事にした。  
「どうしよう……お兄ちゃん」  
「任せろ」  
 俺はドアをトントン、と叩いた。  
「合言葉ニ答エテ下サイ。『海』」  
 それは機械的な声だった。音声が変調されているかのようだ。とても直人の  
声とは思えない。こいつ物まねは上手いと思っていたが、ここまで人間っぽく  
ない声を出せるとは思わなかった。あきれ返ると同時に感心する。  
 海。  
 どこかで決めたはずだ。海と言ったら山と言おう、ツーと言われたらカーと  
返そうといった言葉遊びを取り決めたはずだが、海。山じゃないのは確かだ。  
 そういえば去年の春、海とか山で揉めたなぁ。  
 やっぱ夏は海に行こうぜという話になって、いや山でキャンプだろうと反対  
した俺を直人は否定した。  
「海があり 女いるのに ナンパせぬ お前男か ホモなのか」  
 俺はすかさず反論した。  
「純粋な 女子は全て 山にあり キャンプファイヤー くんずほぐれつ」  
 だが、直人は海の魅力を赤裸々に俳句にしやがった。  
「Tバック 裸体拝める 良いチャンス ビキニ! スクール水着! 字余り」  
 その後海に決定し、皆で湘南海岸行ったはいいが暴風雨が吹き荒れてて、サ  
ーファーの兄ちゃんしか居なかったというオチがついた。仕方ないのでサーフ  
ァーの兄ちゃんに色々教えてもらいつつバーベキューして帰った記憶がある。  
高校生相手にビールが振舞われ、皆で陽気に騒ぎまくった。「ビキニ、ビキニ」  
って合唱してたな。  
「ビキニ!」  
「正解ッ!」  
「……何でビキニなの?」  
 幾分平静になった千佳が聞いてきた。お前には知られたくないんだから聞か  
ないでくれ。  
「大人ニハ色々ト事情ガアルノデス。推シ量レ」  
「デハ次の合言葉デス。『温泉』」  
「曲がりマス!」  
「……ファイナルアンサー?」  
「ファイナルアンサー!」  
 正解のはず。何せ一年前混浴に行こうといい始めたのは直人だった。俺は一  
応否定的な発言をして奴をたしなめた。が、奴が「今女生徒が入ってます!」  
と言ったおかげで俺の息子がギンギンに立ってしまい、俺が立ち上がれなくな  
った。俺の息子を笑ったクラスメートの証言をここに紹介しよう。  
「トモくん。親指みたいなちんぽだね」  
「これじゃ彼女に振られるのも当然だな。俺だって振る」  
「お前もホーケー手術するか?」  
 俺と数センチしか違わねえくせに、どいつもこいつも偉そうに講釈しやがっ  
て、といきり立ってた俺は直人のまらを拝見した。でかかった。掌じゃ隠せな  
いくらいに長かった。トランクス越しに見ただけだが、曲がってた。直人もビ  
キビキに屹立しているのだが、左側に伸びている肉棒が、魚肉ソーセージのよ  
うに真ん中でクイッとお曲がりになっていた。それを発見したクラスメイトが  
いたくお喜びになったのは言うまでもない。両手を叩いて音頭を取り、歌い始  
めた。「ちんぽが曲がって 何が悪い〜 あそいそい♪」「月が昇れば〜 ち  
んぽもしぼむ あよいよい♪」  
 散々ネタにされた俺と直人はその後、『曲がりマス』を結成し男子にセクハ  
ラアタックして宿の障子を突き破ってしまったのだが、それは昔の話だ。  
「正解ッ!」  
「曲がり、ます?」  
 またもや千佳が疑問を投げかけてくる。  
「曲がってません!」  
「デハ次の合言葉デス。『山』」  
「テント立ち!」  
「正解ッ!! デハ貴方ダケ、入場ヲ認メマス。ドウゾ」  
 ノブが回り出し、かちゃりと音がしてドアが少し開いた。  
「お、おお〜!」  
 俺と千佳は感嘆の声をあげた。  
 人間一人が横向きで辛うじて入っていけるスペースだ。俺はその隙間に入り  
かけて、振り返った。  
「千佳。一階で待っててくれよ。何かあったら電話するからさ」  
「うん、分かった。お兄ちゃん、本当に気をつけてね」  
「ん。サンキュな」  
 そういって微笑むと、千佳は頷いて、静かに一階に下りていった。  
「もういいか? 入るぞ」  
 千佳が完全にいなくなるのを確認して、俺はいった。  
「ああ」  
 俺はドアを開いた。そこには直人とマネキンがいた。  
 床に胡坐をかいて座っている住友直人。身長183センチ、体重86キロの  
マッチョが、Tシャツ、短パン姿で足を組んでいる。肌が浅黒いがいつものことだ。  
 だが俺の部屋に、見慣れぬものが鎮座していた。入って左にあるベッドに、  
西洋風のドレスを着たマネキンが座っていたのだ。背はさほど高くない。  
瞳は青く、鼻は高く、目は大きく開いて口が僅かに開いて微笑んでいる。やや  
カールされたブロンドの髪が肩の先まで伸びている。かなりの美形だ。  
 ぱっと見、人間の肌と間違えてしまうほど質感に溢れ、きめ細やかな色をしている。  
 服も豪奢で高そうだ。頭にちょこんと乗っているフリルの帽子から黒と白の  
生地で作られたドレスまで、職人の美意識が徹底されているようだった。  
 人形博物館にでも置かれていそうなものが何故、俺の部屋にあるのか。こい  
つのものなのか。どうやって手に入れたのか。この人形を背負って家まで来た  
のか。俺に何を期待してるのか、分からなかった。  
 俺は膝を折ってその場に倒れた。  
 
 

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