「もぐもぐ……じゃ、ごちそうさまでした」
「はい、どうもお粗末様でした。今、お茶をお煎れしますね」
朝食を食べ終わると、佳乃が笑みを浮かべながら急須を取り出す。
「どうしたのじゃ、佳乃? 何だか、信幸殿への接し方が変わっているようだが?」
「え? い、いえ。さ、左様なことはございませぬが?」
首を傾げながら、佳乃に質問をする絹代。さすがに絹代の目から見ても、そう思えるよなあ……。
一方の佳乃は、何でもないと言うふうに答えてはいるが、手にしている急須と湯飲みがぶつかって、
カチカチと鳴り響いている音が、佳乃の動揺っぷりを如実に物語っている。
「ふうむ、そうなのか。わらわはてっきり、信幸殿の御力を認めたのかと思っておったのに」
佳乃からお茶を受け取り、ズズズッと啜りながら残念そうにつぶやく絹代。
…………鋭いのか鈍いのか、よく分からない反応だな。
「ま、まあそれはさておき。ひと休みしてから、早速琢磨様の元へ参るとしましょう。
信幸様をいつまでも、こちらにお引止めする訳にも参りますまい」
「う、うむ。そうでござるな。…………信幸殿、本当に申し訳ござらんが、よろしくお頼み申す」
「ああ、分かったよ。何とかなるだろ」
絹代は佳乃の言葉に頷き、こちらにお辞儀をしてきた。
まあ、絹代の父さんに会ってそれで終わりだろ。だったら一日もあればケリはつくはずだ。
一日くらいなら、会社に連絡しなくてもなんとかなるさ。……………………多分。
「さて、それではお支度は出来ましたかな?」
「うむ。わらわは大丈夫じゃ。………信行殿は大丈夫か?」
「ああ、忘れ物は無いし、大丈夫」
絹代の言葉に持ち物を確認する。…と言っても、本来は日帰りだったはずだから、
そもそもそんなに荷物を持ってきていなかったんだけどな。
「そうですか。それでは、参るとしましょうか」
ううむ、天狗の里か……滅多に無い体験をした、と前向きに考えよう。
まあ、まだ見ぬ結婚相手の父親への、予行演習だと思えば何てことはないか……。
一方その頃、某会社にて……
「あれ? おい、山内はどうしたんだ?」
「さあ? どうしたんでしょうかね?」
「……ああ課長、1週間くらい休暇くれってメール着てますね。お袋さんが危ないそうで」
「何だ……それなら仕方ないか。で、山内がいなくて仕事のほうは大丈夫なのか?」
「ううん…システム障害さえ起きなければ、なんとかなるでしょう」
「そうか。ま、大変かもしれないが、頑張ってくれ」
「はいはい、了解しました〜」
まったく…ああでも言わなかったら、休みを与えることないからな……あのヅラ課長。
というか人がいない分、自分が頑張るという発想にならないところが凄いねまったく……。
これじゃ、今週はずっと残業かな……まあ、仕方ないか。
とりあえず、山内に口裏合わせの連絡でもして……あら? 圏外か。本当にどこ行ったんだ?
紅葉を見に行くとか言ってたから、まさか遭難しちまった、とかじゃないだろな?
んー、しゃあない。とりあえずメールしとこ……。
【課長には『お袋さんが危篤で1週間くらい休む』と報告しておいた。
たまにはゆっくり休め。ついでに、おみやげは忘れるなよ。片山】
「さて、この洞窟を抜けるとわらわの里じゃ。足元に気をつけてな」
「あ、ああ」
……洞窟、というより山肌に出来た小さな亀裂じゃないか、これじゃ。
通っているときに、崩れたりしないだろうな?
「気をつけてくださいね、信幸様。ここではぐれてしまうと、帰れなくなってしまうかもしれませんから」
佳乃が俺の手を取りながら、そら恐ろしいことを平然とつぶやく。
背筋がゾクゾクしてきたのは、洞窟の寒さだけでは決してないだろう。
思わず俺は、佳乃の手をぎゅっと握り返していた。
……やれやれ、ホラー映画をカップルで観に行った女の子か、俺は。
「何を言っておる佳乃。我らとは違って、計り知れない修行を積まれた信幸殿なのだ。
これしきのこと、物の数ではなかろうて」
俺が佳乃の手を握り締めているのを知ってか知らずか、絹代は妙に明るい声で笑いかけていた。
真っ暗なので、お互いの姿が見えなかったのが、唯一の救いと言うべきか……。
「見えてきた、な。あれがわらわの里、じゃ」
「ふうん、あれが……」
洞窟の中を進むことしばし、前方に小さな光が見え、絹代が微妙なニュアンスで話しかけてきた。
……あんまり帰りたくなさそうだな。ま、それもそうか。帰れば気乗りしない縁談が待っているんだしな。
「さ、ここまで来たら、もう大丈夫でしょう。お手をお離しくだされ」
「え? あ、ああ……どうもありがと」
そんなことを考えていると、佳乃が小声で俺に話しかけてきた。
……そういや、ずっと握りっぱなしだったっけか。俺は佳乃の手をぱっと離し、耳元でそっと礼を述べた。
「礼には及ばぬ。信幸様に何かあれば、絹代様が縁談を承諾せねばならなくなる。
ただそれだけのこと、だ。………そう、ただそれだけ………」
俺の返事に、佳乃はぽそぽそとつぶやいた。それは、俺に向かって言っていたのか、
それとも佳乃が自分自身に言い聞かせていたのか、どちらとも言い難いニュアンスだった。
「ふうむ。久々に戻ってきたが、ここは変わってないのう。……などと感慨に浸っていても仕方がない。
……信幸殿、わらわの家は里を突き抜けた一番奥じゃ。早々に参るとしよう」
「ん。ああ…」
ここが絹代の里、か。何だか、日光○戸村みたいな雰囲気だねえ。
というか、本当に時代劇で見るような服装の人たちばっかりだ。
逆に、絹代みたいな山伏の服装なのがいないんだけど、本当に天狗の里なのか?
「絹代様だ……」
「そういえば、輿入れが決まったとか……」
「だとすると、隣の若者は何者だ?」
「まあ、佳乃がいるからなあ……」
里の中を歩いていると、住人がこちらを指差し、口々に何かつぶやいている。
佳乃は苦々しい顔をして、絹代はどことなく不機嫌そうな顔をしている。と、
「何なのだ、おぬしたち。久々にわらわが里に帰って来たのが、そんなに気に入らないのか?」
「い、いえ。そんな滅相も無い……」
絹代がいきなり住人に向かって問い掛け、一番側にいた住人は慌てて首を振りながら答える。
「ふうむ、ならばよいが……さっきから、わらわ達のことを何やら噂していたようだが、
用があるのならば、本人に直接話しかければよいではないか? なあ、光宏よ」
「え? いや…そんな……」
ジロリと絹代がひと睨みすると、光宏と呼ばれた男は顔を伏せ、ぼそぼそと口ごもった。
……ううん、絹代って本当に偉い人、もとい天狗だったんだなあ。
「き、絹代様。せっかく里に戻ってきたのです、まずは琢磨様にご挨拶せねば」
「うむ、そうであるな。……信幸殿、お見苦しいところをお見せした。さ、こちらへどうぞ……」
佳乃が絹代をたしなめると、絹代は不承不承ながらも頷き、俺に語りかけてきた。
里を抜けた田んぼの向こう側に、塀に囲まれた大きな屋敷が見えてきた。
……まさか、あれが絹代の家、か? 本当にでかいな……。
「さて、ここがわらわの家じゃ。……絹代が戻ってきたぞ! 誰かおらぬか!?」
「こ、これは絹代様! お帰りなさいませ! お変わりなさそうで何よりで! ささ、どうぞ中へ!」
絹代が屋敷の中に向かって叫ぶと、妙齢の女性が現れた。…何だか女中さんみたい。
「うむ、薫も変わりなさそうだな。……とりあえず、父上に会いたいのだがどこにいる?」
「は、はいっ。琢磨様は長老達と一緒に、大広間におわします」
「何? 長老達もおるのか? まあいい、そのほうが話が早いか。さ、信幸殿、どうぞこちらへ」
玄関ではなく、庭先を指差す絹代。ううむ……いよいよ絹代の父さんとご対面、か……。
庭先を通り抜けると庭園が広がっていて、そこを見渡せるように襖を全開にした広間がある。
と、広間に何人か座っているけれど……真ん中に座っているのが、絹代の父さん、か?
「ただいま戻りました、父上」
「おお、絹代か。久しぶりだな。早速だが手紙の件なのだが……」
どうやら正解だったようで、縁側に上った絹代が恭しくお辞儀をすると、
真ん中に座っていた男が笑みを浮かべながら、ゆっくりと頷いた。
ふうむ……絵に描いたような天狗様だが……絹代とは全然似てないな。母親似なのかね?
などと場違いな感想を抱いていると、絹代は手をぱっと伸ばして琢磨氏の言葉を遮っていた。
「父上には申し訳ないのだが、今回わらわが戻ってきたのは嫁入りのためではありませぬ。
実は、父上にお会いして頂きたい方が、おりますのじゃ」
「い…今、何と申した絹代!?」
絹代の言葉に笑顔が固まり、あからさまに動揺する琢磨氏。まあ、確かに父親なら動揺するだろうな。
まして、縁談を持ち掛けた途端に『会ってもらいたい人がいる』なんて言われた日には……。
「父上には黙っていて、本当に申し訳ないと思っている。……信幸殿」
「さ、信幸様。……お気をつけて」
「あ、あのう。は、初めまして。絹代さんには、色々とお付き合いをさせていただいて……」
縁側に上っていた絹代が、こちらへ手招きをする。と同時に、佳乃が耳元でそっとささやく。
ええい、ここまで来たらもう後には引けない。靴を脱いで、縁側に上がりとりあえず挨拶をした。
「何? ま、まま、まさか、こ、こここ、この男が………?」
俺を見た琢磨氏だが、どもりまくって言葉になっていない。さらに、どんどん顔が真っ赤に染まっていく。
おお、まさに天狗だ…………って、そんな感慨に浸っている場合じゃなさような気がしてきたが。
「こ…この不届き者があっ!!」
琢磨氏は突然叫びながら立ち上がった。その手に光るは抜き身の太刀。…ちょ、ちょっと待てえ!!
「おやっさん、刀は、刀はよしてくだせえぇっ!」
「お、御館様!」
「ち、父上!」
周りの家臣らしき連中や、絹代が止めるにも関わらず、琢磨氏は宙を舞いながら俺に斬りかかってきた。
さすが天狗だ、宙を舞うなんて。………んなこと言ってる場合じゃねええ!!
「の、信幸様!」
背後から佳乃の叫び声が聞こえるが、俺はまるで金縛りにでもあったかのように、
声を出すことも出来ず、ただ目をつぶるしかことしか出来なかった。
ガシッ
何か、硬い物同士がぶつかった音がする。……あ、あれ? 全然痛くない。……何があった……?
恐る恐る顔をあげると、琢磨氏の振り上げた刀が鴨居に突き刺さっている。
俺は笑いがこみあげてくるのを必死にこらえ、じっと琢磨氏を見つめていた。
琢磨氏は、刀を引き抜こうと力を込めているが、深く食い込んだ刀はどうしても抜けない。
「ふ、ふん。私の刀を見切るとは、さすが絹代が見初めただけの男ではある。
だが、それとこれとは話が別、だ」
やがて諦めたのか、琢磨氏はそんなことをつぶやきながら踵を返した。
……おいおい、この刀、いったいどうすんだよ。
ふと辺りを見渡すと、皆仏頂面をしていたが、何人かは必死に笑いを堪えているようにも見える。
そんな中、一人ケタケタ笑い転げているのがいた。……琢磨氏の娘である絹代だ。
だが、あまり笑い転げられると、こちらまで釣られて笑いだしそうになってしまう。
必死に誤魔化そうと、佳乃のほうを振り返ると、真面目なはずの佳乃でさえ、
笑いを堪えてか、床に顔を突っ伏してプルプル全身を震わせている。……ま、そりゃそうだわな。
何だか天狗、いや、琢磨氏に対する威厳と言うものが、一気に薄れてしまったような気がする……。
「……で、信幸殿は我らよりも遥かに優れた御方なのです!」
あれからしばし、場には微妙な空気が漂っていたが、薫さんがお茶を持ってきたことにより、
妙な緊張感から解かれ、絹代は琢磨氏や周りの長老に必死に力説を始めていた。
やれたちどころに火を熾すだの、やれ不思議な操って傷口を癒やしてしまうだの……
確かに事実だが、それって俺の力では無いのだがな……。
ただ佳乃から『信幸様が、穢れを聖なる液体に替える力を持つことは、内緒にしたほうがいい』
とあらかじめ言われていたので、それだけは伏せているようだった。
絹代は最初、何故内緒にするのか疑問に思っていたようだったが、
俺が『これは無闇に人に見せるものじゃないんだ』とか適当なことを言ったら、どうにか了承してくれた。
そりゃそうだ。本当のことがバレたら琢磨氏が怒り狂う前に、間違いなく俺が絹代に殺される。
だが…いつかは本当のことを話さなければ、ならないんだろうなあ……。
勿論、このままバックレてしまっても構わないが、後から絹代が真実を知った方が怖いし可哀想だ。
でもどういうタイミングで言えば、波風が立たないのかねえ……。
「ふうむ、なるほどな。確かに絹代の鼻を見ていると、嘘をついているようには見えないな」
しばし考え事をしていた俺は、琢磨氏の言葉に、はっと我に返った。
そういえば、絹代は嘘をつくと鼻が伸びるんだっけか。言われて見ると、絹代の鼻は普通どおりだ。
でもまあ、嘘を真実と信じ込んでいる場合でも、嘘とは見なされないだろうからなあ。
「で、では!」
「そう急くでない。絹代様が御覧になられたとしても、我らがこの目でしかと見た訳ではないのだ。
信じるに足る根拠が、今ひとつ不足なのじゃ」
琢磨氏の言葉に身を乗り出す絹代だが、長老の一人が軽くたしなめる。そりゃそうだ。
特に絹代みたいに純真無垢な性格では、俺のような嘘を嘘で塗り固めるようなのを相手にすると、
嘘をつかれていることさえ、気づかないだろう。……聖なる液体が、いいサンプルのように。
「では、信幸殿が真に絹代の婿にふさわしいかどうか、見極めさせてもらおう。
…………妖刀白菊を手に入れてきていただきたい」
ざわ…ざわざわ……
「妖刀白菊だと……」
「まさか、そんな……」
しばし考え事をしていた琢磨氏が、目をカッと見開いて俺に向かって言ったかと思うと、
たちまち長老たちがざわめきの声をあげる。なーんか、嫌な予感がしてきたのだが。
「ち、父上! かような物を試練とするなんて! 無茶苦茶です!」
「黙らぬか、絹代」
食って掛かる絹代を、琢磨氏が厳格な顔で制す。……あの件が無ければ、威厳を感じたんだがなあ。
そう思いつつ振り返った先には、未だ鴨居にぶら下がっている太刀がある。
時折、風に吹かれて揺れる姿が、侘しさをさらに助長させていた。何だかそれで一句作れそうな……。
「し、しかし!」
「黙らぬか、と言っておる。そもそも今回の輿入れは、我が望んで芳光殿に申し入れたこと。
それをこちらからいきなり、『別の者が婿になる』などと持ちかけてみよ。
我が芳光殿の顔を潰す、ということになるのだぞ。
なれば芳光殿の顔を立てる為にも、信幸殿には試練に耐えていただく必要があろう。
それも、我々だけではなく、誰しもが納得しうるような試練が、な」
尚も抗弁する絹代を諭しながら、俺に向かって宣言するように琢磨氏が言った。
ううむ……何だか、話がややこしいことになってきたような……。
「白菊を取りに行けとは……琢磨様も何て御無体なことを……」
「な、何なんだよ。その白菊ってのは?」
俺の隣で顔を青くさせ、小声でつぶやく佳乃の袖を引っ張って、小声で問い掛けた。
……すでに絹代と琢磨氏の会話で、嫌な予感が当たってそうな気はしているのだが、な。
「うむ、我が一族に伝わる妖刀だ。何でも、手にした者は絶大な力を得ることが出来るというが、
手に入れるには恐るべき試練を克服せねばならぬらしい。今まで名のある方たちが試練に挑んだが、
未だかつて試練に打ち勝ち、生きて帰ってきた者はいないゆえ、妖刀の名を冠せられているのだ」
やはり小声で答える佳乃。………琢磨氏は、遠まわしに俺に死ねと言っているのか?
「さて……信幸殿よ。御主の素性はあえて問わぬ。
問題は、絹代の婿となるにふさわしい力を携えているかどうか、だ。
少々骨の折れる試練だとは思うが、絹代を嫁に迎えるためだ。引き受けられるな?」
「「の…信幸――…」」
「殿」と「様」で語尾が違ったものの、絹代と佳乃の声がぴったり重なった。
ふと顔をあげると、不安げな表情で二人がじっとこちらを見つめている。
そう……さな、今さら後になんて引けないやな……。
「分かりました。行ってきます」
「「の…信幸――!!…」」
俺の言葉に、これまた語尾が違ったものの、絹代と佳乃の声が重なる。
絹代は申し訳なさそうにしながらも、どこかしら嬉しそうな顔で、
一方の佳乃は心底驚いた顔で、俺をじっと見つめていた。
「なるほど……さすが、絹代様が見込まれた方だけのことはある。立派な心意気ですな。
かと言って、この山に慣れていない信幸殿御一人では、何かと不都合が多かろうて。
信行殿に、案内役を付けると言うのは如何でしょうかな?」
「うむ…………そうだな。誰か適任なのは………」
取り巻きの一人が、大仰に頷いたかと思うと琢磨氏に向かって語りかけ、琢磨氏が頷いた。
「恐れながら、既に適任者はおられます。……佳乃、信幸殿の案内役を命ずる。
信幸殿が白菊を手にされるのを、しかと見届けよ」
「は? …………はっ」
琢磨氏の言葉を受け、待ってましたとばかりに男は再び語りだし、佳乃に向かって言った。
不意に名前を出された佳乃は、一瞬目を丸くさせていたが、深々と頭を下げながら返事をする。
頭を垂れたとき、俺にしか聞こえないような大きさで、佳乃が歯軋りをするのが聞こえた。