「信幸様……信幸様、朝でございますよ………」
「ん? あ、ああ……お、おはよう……」
俺は何者かに揺り起こされ、目を覚ました。目の前には、白菊が微笑みを浮かべている。
「さあ、朝餉が出来ております。今日もいいお天気ですよ」
「そっか……ありがと」
微笑みを浮かべたまま、白菊は鍋の中身をお椀によそって、俺に手渡す。
ほかほかと白い湯気が沸き立ち、食欲を刺激させる。フーフーと息を吹きかけ、ひとくちすすり……
「あ、あれ?」
「ど、どういたしましたか?」
「お、お前……佳乃、か?」
「…………え? な、何故?」
思わず声をあげてしまう。
そんな俺を見て、白菊は心配そうにこちらを見つめるが、次の俺の言葉に目を丸くさせていた。
「あ……いや、何だかこの味が………」
もうひとくち、味噌汁をすすってみる。……うん、これは何日か前の朝に食べたのと同じ味、だ。
「ふうむ。よく分かりましたね、さすがです。仰るとおり、この朝餉は姉君様が作られました」
「や、やっぱり。……で、でも今は……?」
箸で、椀の中身を軽くかき混ぜながら、白菊はコクリと頷く。だが…だが、姉君様ということは……?
「はい、今はわらわ……白菊です。姉君様は今朝方、わらわより早くお目覚めになりまして、
朝餉を作られたと思ったら、すぐにまた、わらわと入れ替わってしまいました………」
「な、何で!?」
顔をうつむかせてつぶやく白菊。その言葉に、俺は思わず声を荒げてしまう。
いったい、何がどうしたっていうんだよ……佳乃……。
「それは……………」
「………それも、佳乃から直接聞いたほうがよさそうだな。………じゃ、飯の続きにしようや」
だが白菊は、俺から視線を逸らし、それ以上のことは何も言おうとしない。
心の中に、釈然としないものを感じながら、俺は半ば自らを納得させるようにつぶやき、
味噌汁を口に含ませた。
「………と。ここが、宗宏を祀っていた場所、か」
朝食を済ませ、再び旅を始めた俺たちの前に、かなり古びた建物が姿を現した。
狛犬こそは無かったが、いかにも神社という雰囲気が出ているし、雑草も綺麗に刈り取られている。
……何なんだよ、この白菊との差はよ。
「さて、いよいよだな………あ、あれ? おい、白菊?」
何の気なしに、横にいるはずの白菊に声を掛けたが、返事は返ってこなかった。
辺りを見回すと、敷地の手前で立ちすくんでいる、白菊の姿が目に入る。……な、何してるんだ?
「……………」
後戻りして、白菊の目の前で立ち止まるが、白菊は社を見ていた。
いや、社を見ているようで、別の”何か”を見ているようにも見える。
「どうした?」
「あ…いや、その………。………何でもありません、参りましょう!」
「あ、ああ……わ、わかった」
俺が声を掛けると、白菊ははっと我に返ったようで、しどろもどろになって、顔を伏せる。
が、急にぱっと顔をあげ、スタスタと歩き出した。
俺は白菊の変わりように戸惑いながら、慌ててその後を追い始めた。
…まさか、今のは佳乃だった、のか………?
「ふむ……。やはりやってきたか。そろそろとは、思っていたがな」
襖を開けると、中では宮司みたいな格好をした男が、机の前に座って書き物をしている。
俺たちの気配に気がついたのか、男は向こう側を向いたまま、俺たちに向かって声を掛けてきた。
……ま、まさかこいつが……?
「えっと……お宅が宗宏か?」
「如何にも私が宗宏だ。あのような扱いを受けたのだ。当然のことながら…………ん?」
俺の問いかけに、ようやく男は手を止め、ゆっくりとこちらを振り向いて答える。……見た目は若い、な。
宗宏と名乗る男は、鷹揚に語りかけてくるが、その言葉がピタリと止まった。
「あ……あ、ああ……」
「な、何? まさか?」
視線の先には………涙をポロポロこぼし、ぎくしゃくと足を踏み出す白菊がいる。
そんな白菊の姿を見て、怪訝そうな顔で、戸惑いの声をあげる宗宏。
「…………お忘れですか、宗宏様? 白菊にございます」
「し、白菊! 白菊だと!? 本当に、本当に白菊なのか!?」
全身をブルブル震わせながら、振り絞るような声で宗宏に語りかける白菊。
宗宏は白菊の告白を受け、目をカッと見開き、叫び声をあげた。
「宗宏様! お、お会いしたかった……ずっと、ずっと………!」
その声が引き金になったか、白菊は宗宏の胸目掛け、飛び込んだ。が、
「な、何だ!?」
白菊の体は、宗宏の体をすり抜け、そのまま前方につんのめっていた。思わず叫び声が漏れる。
「ああ……む、宗宏様………」
床に突っ伏した白菊は、顔だけをゆっくりとこちらに振り向かせた。
信じられないという表情で、口だけをパクパク動かしながら――
部屋の真ん中で、座卓を囲むようにして、3人で顔を付き合わせる。
俺は未だ動揺している白菊に代わり、今までの出来事をかいつまんで宗宏に説明することにした。
白菊が、天狗の里では妖刀として、伝説となっていたこと、
事情があって、俺自身が白菊を探索することになってしまったこと、
白菊に出会ったが、ふとしたことから心と刀が分離して、心が佳乃の体に入ってしまったこと、
琢磨氏の病が呪いであると白菊に教えられ、宗宏に会いにきたこと、などを。
「なるほど、そういうことだったのか……」
俺の説明に、宗宏は軽く頷きながら、お茶をすすった。は? お茶をすする!?
「なあ、何かおかしくないか? あんた、普通に物に触ることは出来るのに、
何で白菊は、すり抜けてしまったんだ?」
そもそも初めて見たときは、筆を執って書き物してたよな。
「そ、それは分からぬ。白菊の心が、佳乃殿の中に入り込んでしまったことと、
何か関係があるやもしれぬが………」
「じゃ、じゃあさ……」
「そ、それより宗宏様。我が贄となってから、何があったのですか? 何故、宗宏様までが贄に?」
ゆっくりと首を振る宗宏に、俺は白菊と佳乃を、元に戻す方法があるか問いかけようとしたが、
ようやく落ち着いたのか、白菊が俺の言葉を遮るように、宗宏に語りかけてきた。
もっとも、その辺りの事情は、俺も知りたかったから、あえて自分の言葉を続けようとはしなかった。
「……………うむ。あれから一体、どれだけの月日が流れたことか………。
だが今でも、あの日の出来事は、昨日のように思えてしまう……」
宗宏は白菊の言葉に、遠い目をして、ゆっくりと語りだした――
「村の会議の結果、白菊は私と通じた不義の罰として、刀の贄となることが決まった。
そのとき、私も同じ罰を受けるべきだと主張したのだ」
「! な、宗宏様!?」
「当たり前であろう。原因は紛れも無く、私にあるのだからな」
「そ、そんなことはございませぬ! 何故、何故………」
「慌てるでない、白菊よ。こんな私でも、橘家の跡取りなのだ。
私の主張は、受け入れられなかったのだよ」
宗宏の言葉に慌てふためく白菊を、優しく制する宗宏。……え? 主張は受け入れられなかった?
じゃ、罰を受けて今の姿になった、というわけじゃないってことか?
「な……ならば、何故………」
「早百合は、許婚であることは関係無しに、私のことを好いてくれていた。
だが私の心には、常に早百合ではなく白菊、お前がいた。そんな己の心を偽ってまで、
また、早百合を心の中で裏切ったままで、一緒になろうとは到底思えなかった」
「な! ま……まさ…か………」
「そう……ある夜、私は白菊と結ばれようとしたあの場所で、自害して果てたのだ。
その後、気がつくと、私はこの姿でここに祀られていた」
「そ……そん…な………」
「しかしよくまあ、白菊と同じ姿にしてもらえたものだな。そのまま葬られても、不思議は無いだろうに」
宗宏の告白に、息をのむ白菊。まあ、すでに終わってしまったことだから、どうこう言っても始まらないが、
下手したら葬られるどころか、心中まがいなことして、打ち捨てられててもおかしくなかったんじゃないか?
「うむ。恐らくは、早百合のおかげだろう。彼女には本当に、悪いことをしたものだ……」
俺から視線を逸らし、そっとつぶやく宗宏。……ふうむ、何と言えばいいのか。
早百合とか言う人……もとい天狗か、も大変な思いをしたんだろうねえ……。
「そ……そうだったのですか」
「お、おいおい。何も、泣くことはないだろう。こうして再び、相見えたのだからな」
宗宏の言葉に、白菊は悲しくて儚げな、それでもどこかほっとしたような表情で、相槌をうつ。
その目には涙が次々と溢れていた。そんな白菊を見て、優しく声を掛ける宗宏。
まあ、無理も無いやな。俺は二人を見ながら、昨夜の白菊の話を思い出していた。
白菊は、ずっとずっと、宗宏のことを信じ続けていたのだ。
もしかしたら、裏切られたのではないかという疑念と、ずっと戦い続けていたのだ。
それがようやく報われたのだ。宗宏の「常に私の心に白菊がいる」という、ただひと言で。
この言葉をどれだけの間、待ち望んでいたのだろうか……。
その反面、結果的にとはいえ、自分の想いが想い人の命を絶たせることになった、
という事実もまた、白菊の感情を揺さぶっている原因なのだろう、と思う。
それに、白菊に関する文献が残っていなかった理由も、何となく分かったような気がする。
俺はそんなことをぼんやりと考えながら、二人をじっと見ていた。
……よく考えたら、これってお邪魔虫か? でも、これで解決したわけじゃないし、な。
「あんたがそうなった経緯は、だいたい分かった。
で、問題はこれからの話だ。何故あんたは、琢磨氏に呪いをかけたんだ?
それと、白菊と佳乃……この体は、どうすれば元に戻るか、分かるか?」
俺は顔をあげ、さっき質問しかけていたことを、宗宏に問いかけた。
二人には悪いが過去は過去として、今は佳乃と琢磨氏を元に戻すのが、先だと思ったからだ。
「う、うむ。まず呪いの話、か。彼は私を鴨居に突き刺した挙句、そのまま捨て置いたのだ。
まさか、あのような仕打ちを受けるとは、夢にも思わなかったわ」
「え、えっと…それって………」
どう考えても、絹代が琢磨氏に俺を紹介した、”あの場面”だろうな。何だか気まずさを感じる……。
「もうひとつの問いだが、私たちは刀を寄り代として、かろうじてこの世に留まっている、
いわば心だけの、非常に安定しづらい存在なのだ。ゆえに、何か共鳴した存在があると、
そちらに魅かれてしまうことがあるらしいのだ。………滅多にないこと、らしいがな」
「ふむふむ……って、じゃあ白菊は佳乃の何に、魅かれてしまったというんだよ?」
……まさかとは思うが、佳乃に後ろの穴を貫かれたことが原因、とかじゃないだろうな?
「私も大昔に文献を少し見ただけで、詳しいことはよく分からないのだが、
恐らく、白菊の心の奥底に残った思いが、佳乃殿の心の奥底とを深く結びつける、
糊しろのようなものに、なってしまったのであろう。
であれば、その糊しろを、白菊が深く心に残していることを解放すれば、元に戻ると思われるが……」
し、白菊が、深く心に残していること? 昨日言ってたけど、それって確か………。
「こればかりは、白菊に聞かねば分からぬな。白菊よ、お前が心残しに思っていること、とは何だ?」
「え? あ、そ、その…………」
あ。本人に問いかけてしまった。……おいおい、あんたが聞くなよ……。思わず天を仰いでしまう。
目を真ん丸に見開き、しどろもどろになっている白菊。そりゃそうだよな。
「ど、どうしたのだ白菊? 佳乃殿から、離れたくはないのか?」
「わ、わらわにとっての心残しとは……そ、その………あ、あの夜の…つ、続きを……」
「な…そ、それは………す、済まぬことを聞いた」
さらに問い詰める宗宏に、白菊は顔を真っ赤に染め上げながら、ポツポツと語りだした。
白菊の心の内を知り、気まずそうに顔を背ける宗宏。………あ〜あ、知〜らね。
「わ、私も心残りでない、と言えば嘘になる。一応、男だしな。……だが、今の私と白菊では………」
しばしの間、沈黙が辺りを支配していたが、やがて目線を外したまま、宗宏がゆっくりと口を開く。
確かに、お互い触れることも出来なければ、ヤレるはずがないやな。
「であれば、宗宏殿のお心が、信幸様のお身体に入り込むというのは、如何でしょうか?」
などと考えていると、思わぬ方向から思わぬ声がした。
「え?」
「ま、まさか……よ、佳乃、か?」
「……………。どうでしょうか? であれば、お互いに触れ合うことが、出来ると思われますが?」
「う、うむ。確かにそうかもしれぬが……それでは……」
俺の問いかけに答えることなく、白菊、いや佳乃は宗宏に向かって言った。
宗宏は佳乃の申し出に、目を泳がせている。そりゃそうだろ。
「われに依存はありませぬ。ですが、信幸様は………」
「えっと……い、いい、よ。佳乃がいいっていうのなら、俺の体でよければ、な」
だが佳乃は、毅然とした顔で答え、ちらりと俺を見る。
佳乃がここまで言っているのに、俺が非協力的なわけにはいかないよな。
そう思いながら、俺はゆっくりと頷いた。
「では……心を落ち着かせ、肩の力を抜いてくだされ」
宗宏は、俺の両肩に手を置き、声をかけてくる。
言葉どおり、俺は肩の力を抜き、心を落ち着かせようとした。
途端に目の前が暗くなり、段々と意識がぼやけていった。
次に気がついたとき、俺は誰かの背中を見ていた。
それが、自分の背中であることに気づくのに、しばらく時間が掛かってしまった。
『気がつかれたか、信幸殿よ』
『えっと……宗宏、か?』
突然、聞き覚えのある声を感じた。そう、耳から聞こえたのではなく、頭の中に直接感じたのだ。
通じるかどうか分からないが、心の中で思い浮かべてみた。
『うむ。……これが、生きているという感覚なのだな。長らく忘れていたわ』
再び頭の中で声がしたかと思うと、目の前の”俺”は、手を開いたり握ったりを繰り返している。
これは、どちらかというと、乗っ取られたというのが正しい表現な気がする。それに……。
『なあ、何がどうなっているんだ? 佳乃たちみたいに、心が通じ合っているんじゃないのか?』
確か昨夜、白菊は「佳乃と心が通じ合っている」と言っていた。
が、俺には宗宏と、心が通じ合ったような感覚は無い。まさかこれが、天狗と人間の違い、か?
『あまり深く結びつくのは危険だ。それに心のうちなど、お互い知らないほうが、幸せなものだろう?』
ま、それはそうかも。それに、自分の姿を客観的に見るなんて、滅多に経験できないことだしな。
「む、宗宏様……?」
「白菊……これで、これでお前に触ることが出来る、ぞ」
おずおずと、白菊が”俺”に向かって手を伸ばしてくる。”俺”もまた、白菊の手を握り返していた。
「ああ…む、宗宏様………」
「白菊、白菊……」
「あ、ああっ、宗宏様……ん…っ………」
やがて、二人は熱い抱擁を交わしたかと思うと、そのままくちびるを重ねた。
ううむ。何だか妙な気分だな。自分の濡れ場をこうして見てるってのは。
AV男優が自分の出演映画を見るのは、こんな気分なのかね。しかも、相手は”佳乃”だしな……。
「い、いくぞ…白菊……」
「はい……」
その”佳乃”を押し倒したまま、声を掛ける”俺”と、コクリと頷く”佳乃”。
ああ。そういえば、俺って佳乃と何回かコトに及んでいるけど、こういう風に同意の上で、
ってことないやな……。今度は同意の上で……って、そういう問題じゃねえや。
そもそも、佳乃が俺のことをどう思っているか、よく分からないし。
「え? あ、あれ……」
と、”俺”は”佳乃”の下腹部を見つめ、戸惑い気味な声を漏らす。
そりゃそうだ、佳乃はいわゆるフタナリだし……あ、あれ? な、無い?
何故か、俺とヤッた時には生えていたはずの、佳乃の”男の部分”が生えていない。
だとすると、何を戸惑っているというんだ、宗宏は?
「あ……む、宗宏様……も、もう少し下、です……」
顔を真っ赤にさせながら、”佳乃”はポソポソとつぶやく。………お、おいおい。
これで一夜を共にしようとしてたのか、まったく……まあ、誰でも最初は初めてだろうけどよ……。
「あ、そ、そこ…あ、ああっ……」
「し、白菊……く、くうっ……」
やがて、場所を確認した”俺”は、”佳乃”の中へと潜り込んでいった。
同時に二人の口からあえぎ声が漏れ始める。
「あ……き、気持ちイイです…む、宗宏様……」
「ああ……私もだよ、白菊……」
”俺”の頬をそっと撫で上げながら、目を潤ませる”佳乃”と、
”佳乃”を抱き締めながらも、一心不乱に腰を動かし続ける”俺”。
……よく考えたら、俺はこうやって完全に第三者の目で、自分がヤッてる姿を見ているけど、
佳乃は、どうなんだろうか? 俺と同じように、第三者でいるのか、それとも………。
「白菊…わ、私はもう、もう……白菊…っ……」
「宗宏様……わ、わらわも…わらわも、む、宗宏様あっ……」
などと考えている間もなく、二人はそろそろ絶頂に達しようとしていた。
あ、あれ? 何だか、二人の甲高い声に合わせて……意識が、遠く……?
「白菊! し、白菊っ……」
「宗宏様! あ、あ! はああっ!!」
二人の絶頂の声とともに、俺の意識は完全に闇の中へと消えていった――
「えっと……あ、あれっ!?」
「信幸様…気がつかれましたか」
意識を取り戻した俺の目の前に、目を閉じたままの佳乃――いや、白菊がいた。
と、背後から女性の声がする。この声は……白菊?
振り返ると、そこにはツインテール姿の白菊と宗宏が、寄り添うように立ち尽くしていた。
「え? あ……し、白菊? だとすると………」
「…………の、信幸様」
「あ? よ、佳乃? 佳乃か!?」
俺は目の前の佳乃に再び視線を落とした。すると、佳乃が俺をじっと見つめている。
感極まった俺は歓声とともに、佳乃を力いっぱい抱きしめた。
「そうか。元に戻ったんだ……よかった。…よかった……」
「ええ。これも、お二人のおかげです……」
「私からも、礼を言わせていただきたい。ありがとう、信幸殿」
佳乃を抱きしめながら、つぶやき続ける俺に、二人が礼の言葉を述べてくる。
「いや、そんな……」
何だかくすぐったいような感触を覚え、誤魔化すように俺は頭をボリボリかいた。と、
「……あ、あのう、信幸様……」
「な、何? 佳乃?」
抱きしめる俺の腕を、手のひらでヒタヒタと叩きながら、佳乃は俺に話しかけてくる。
ぱっと顔をあげ、佳乃をじっと見つめ返した。
「で、できれば……その、どけていただければな、と思いまして……」
「え? あ、ああっ! ゴ、ゴメン!」
頬をほんのり赤らめ、困ったような顔で小首を傾げる佳乃を見て、ようやく俺は、
お互い、一糸まとわぬ状態で抱き合っていたことに気づき、慌てて佳乃から離れた。
「信幸様、姉君様……。本当に……ありがとう、ございました………何と、お礼を言えばいいのか……」
「そんな、礼を言われるほどのことじゃないし」
涙をポロポロこぼしながら、白菊が俺たちに再び頭を下げてきた。
そう。そもそもが、成り行きに近かったわけだし。
「いやいや。信幸殿がおいでにならなければ、こうして私たちが、再び出会うことも無かったのだ。
信幸殿は、私たちの恩人だよ。本当にありがとう」
白菊の肩を優しく抱きながら、宗宏も俺たちに礼を言ってきた。
……何だか、本当に照れくさいのだが。
ちなみに、白菊と宗宏の二人は、ここで一緒に暮らすことになった。
刀が寄り代だといっても、常に寄り代の傍にいなければならない、というものではないそうだ。
だが、寄り代が傍に無い場合は、自由に動き回れる範囲が、非常に制限されてしまうらしい。
もっとも、今は一緒に過ごせるのだから、二人にとって、それは大した問題では無いのだろう。
これからは、二人の失われた時間を、ゆっくり取り戻して欲しいと思った。
幸いなことに、彼らに時間というものは、たっぷりと残されているし、
二人の仲を裂こうとする者は、この世にはいないのだから。
「うー、いやその……とりあえず、戻りますわ。また今度、ゆっくり遊びに来ますね」
「ぜひそうしてください。姉君様も、お待ちしてますよ」
「うむ。……………白菊殿も達者でな」
俺の言葉に、白菊はにっこりと微笑み、佳乃にも声をかける。…また今度、があるかどうかは謎だが。
声を掛けられた佳乃は軽く頷き、しばらくの間、白菊をじっと見つめていた。
「姉君様……………お達者で。……どうか、どうかお幸せに………」
「……………。それでは、二人仲良くな」
憂いを帯びた表情で、佳乃に語りかける白菊。
佳乃は寂しそうにため息をつきながら、別れの言葉を口にした――
「な、なあ佳乃――」
「さあどうぞ。毎度同じ味で、飽きてしまわれたかもしれませぬが」
帰りの道中、佳乃はひとことも口を開かなかった。
夜になり、野営の時に、ようやく口を開く機会が出来たと思ったら、
俺の言葉を遮るように、味噌汁の入った椀を差し出す佳乃。その仕草はどこかそっけない。
「い、いや、そんなことないよ。佳乃の料理なら、例え毎日同じのを食べても飽きやしないさ」
「…………! ご、ご冗談は、お止めくだされ」
俺は佳乃の料理を口にしながら、素直に感想を述べた。実際美味しいし、飽きがこない。
そんな俺の言葉に、佳乃は一瞬だけぱっと顔をあげるが、すぐに視線を逸らす。
……照れてるのか? でも前から同じようなこと言ってたし、今さら照れることもないだろうし……。
「冗談じゃな――」
「では、温かいうちにお召し上がりください」
冗談じゃないさ、本当だよ、と答えようとした、俺の言葉に覆いかぶさるように、佳乃が言う。
それ以上、何も言えなくなった俺は、無言で佳乃の料理を口に運び続けた。
まあいいさ。食べ終わってから、聞けばいいか。
「で、佳――」
「申し訳ありません、信幸様。今宵は疲れていますので、もう、休ませていただいてよろしいですか?」
「え? あ、ああ。お、お休み……ゆっくり休んでね……」
夕食を食べ終えた俺は、佳乃に再び声を掛けようとした。
が、佳乃は再び俺の言葉を遮るように、ペコリと頭をさげる。
ここまでされると、さすがに俺もそれ以上、佳乃に話しかけることが出来なかった。
佳乃……あれからいったい、何があったというんだ?