ある日の午後、津島多香子はクラスメイトから、幼なじみの横川恭二が怪我を負ったと  
いうニュースを聞いた。なんでも恭二は、世界つきゆび選手権とかいう大会に出場し、  
決勝戦でアメリカ代表と死闘を繰り広げた末、負傷したというのだ。今は自宅で療養中  
という事で、今日は学校にも出てきていないという。  
 
「何の大会よ!まったく、恭二のやつ!」  
気がつけば多香子は、まだ午後の授業が残っているにも関わらず、学校を飛び出して  
いた。そして、たまたま自転車で通りがかった大学生風の若者に肘打ちをかますと、  
「これ、借ります!」  
そう言って、無理矢理拝借した自転車に乗って、凄まじい勢いで走り去って行ったので  
ある。  
 
「恭二、今行くからね!」  
時速六十キロ近いスピードで自転車を漕ぐ多香子の脳裏に、幼なじみの事が浮かんだ。  
怪我の具合はどうなのか。無事だったらいいけれども、万が一の事があったらどうしよう。  
恭二の家に着くまで、多香子は不安で胸が張り裂けそうだった。  
「ごめんくださーい!」  
恭二の家まで来ると、多香子は自転車に乗ったまま、玄関をぶち破った。津島家と横川  
家は家族ぐるみの付き合いなので、ノックは無用というのが多香子の考えである。ちなみ  
に両家は隣り合った建て売り住宅に住んでおり、間取りもほぼ一緒。家族構成も父母と  
それぞれ娘、息子の三人暮らしという、似たもの同士であった。  
 
「恭二、大丈夫?」  
多香子が恭二の部屋に入ると、怪我を負ったという幼なじみは布団を頭まで被り、ベッド  
の上にいた。そして、なにやらウン、スンと唸っているではないか。多香子はそれを聞き  
つけ、慌ててベッドに駆け寄った。すると──  
 
「ふんっ、ふんっ!ウウ・・・もうすぐイクよ、まるみちゃん」  
・・・・・なんと、恭二はエロ本を見ながら、自慰をしていた。それも、多香子の声すら耳に  
入らぬほど熱中しているという状態だった。  
「きょ、恭二・・・」  
多香子の全身から力が抜けていく。人が心配して駆けつけてみれば、何という有り様か。  
「もう、イヤ!こんな人のために、学校までさぼって・・・何やってんだろう、私」  
胸が張り裂けんばかりに恭二の身を案じた分、その反動で怒りがふつふつと湧いてきた。  
多香子は部屋の片隅にあったハリセンを手に取ると、怒りに任せて恭二の頭をぶっ叩い  
てやった。  
 
「この大バカ野郎!学校休んで、何やってんのよ!」  
「わっ!多香子、何しにきた?」  
自家発電中だった恭二は、いきなり現れた隣家に住む幼なじみの顔を見て目を丸くする。  
多感な少年が自慰の真っ最中を見られたのだから、その驚きは察して余りある。  
「あんたが怪我したっていうから、心配して来てやったのよ!それが・・・」  
このケダモノ、と多香子はハリセンで恭二を滅多打ちにした。何故なら彼が、多香子の顔  
を見ても自慰をやめなかったからである。  
 
「心配かけたな」  
落ち着きを取り戻した多香子に、恭二がお茶と茶菓子を差し出した。お茶はサンガリア  
のウーロン茶で、茶菓子はチョコバットである。  
 
「手は洗ったんでしょうね。あんなモノを握っておいて」  
「ちゃんと石鹸で洗ったよ」  
「だったら、いい」  
多香子はハア、とため息をひとつつく。クラスメイトから聞いた恭二の怪我というのは、  
単なる足の小指の突き指だった。まあ、世界つきゆび選手権とやらに出場していたの  
だから、それは妥当と言えよう。問題は、授業をさぼった多香子の方だ。  
 
「今から学校に戻っても、ホームルームにも間に合わないな・・・後で先生にどやされる  
んだろうなあ」  
何も言わずに学校を飛び出したので、後の事が気になる多香子。恭二が怪我をしたと  
聞いて、つい反射的にここへ来てしまったが、いくら悔やんでもすでに後のカーニバル  
である。まず、間違い無くお小言は貰うであろう。  
「親、呼び出しかもな」  
「あんたのせいよ!」  
「そう言われてもなあ・・・」  
「来年は大学受験だし、内申が悪くなるのは避けたかったのに・・・これでもし、推薦もら  
えなかったら、あんたの事、一生恨むからね!」  
ぎろり、と目を剥く多香子。彼女は、推薦入学を狙っていたので、教師の心証を悪くする  
のだけは避けたかったのだ。  
 
「授業さぼった事、なんて言い訳したら良いのやら」  
「何かが憑依した、というのはどうだろう。もしくは、私の中にいるもうひとりの私がやった  
事ですとか」  
「バカ!推薦どころか、精神科に放り込まれるわよ!」  
ろくなアイデアを出さぬ恭二に、多香子は怒りをぶちまけた。しかし、元をただせば自分  
の早とちりに端を発した事である。一方的に恭二ばかりを責めるのは、酷というものだ。  
 
「ま、いいや。もしもの時は、色仕掛けで先生を懐柔してみせるから」  
「お前ならやりかねないな。恐ろしい」  
「アハハ!恭二の怪我も大した事無かったし、この話はここまでにしようか」  
いくら考えても仕方がないので、多香子は気分を変える事にした。案外、楽天家なので  
ある。  
 
「さあ、家に帰るにはまだ早いし、どうしようかな」  
多香子はふと、先ほど恭二が自慰の際に使用していたエロ本を手に取った。ページの  
あちこちが糊付けされたように引っ付いているのが、何とも切ない感じである。  
「俺のエロ本、返せよ」  
「やだ・・・あんたって、こんなの見て、シコシコやってんの?」  
多香子は本の中で体を戒められている女性の姿に目を奪われた。そのページにはふせ  
んが貼ってあり、恭二の趣味がここに集中されている証になっている。  
 
「これ、SMとかって言うんでしょ?あんた、縛らなきゃ女もやれないわけ?」  
「何言ってるんだ。SMは芸術だぞ。ただ女を縛ればいいってもんじゃないんだ」  
恭二は戒める事で女の羞恥を引き出し、それを昇華させるのがSMの醍醐味であると言  
う。しかし、多香子にはそんな経験が無いので、それが理解しがたいと反論した。  
 
「お前はまだ若いから、そう思うんだろうけど・・・こういうものは大人の女性じゃないと受け  
入れられないんじゃないかなあ、ウン」  
と、恭二が悦に浸りながらほざくので、多香子は声を荒げて突っ込む。  
「じゃあ、あんたは女とヤッた事あるの?」  
「ありません、ゴメンナサイ」  
「なんだ、童貞か」  
それと分かると、多香子はにひひと微笑んだ。なんだか、恭二を言い負かした気になった  
からだ。  
 
「そう言うけど、お前だって処女だろ?俺の事は笑えないんじゃ・・・」  
「残念!とっくに膜はありませんよ」  
多香子は顎に手を当て、目を伏せて過去を振り返るような仕草をした。  
「まさか」  
「本当だってば。今から五年も前に、塾の先生に処女を捧げてしまったのです」  
今、二人は高校二年生の十六歳。となると、多香子は小O生の時に、女になっている計算  
になる。  
「塾の先生って、あのメガネかけた大学生か?そういえばお前、やけにアイツと親しげだっ  
たが・・・」  
「ご察しのとおりです。ウフフ」  
当時、恭二も多香子と同じ塾に通っていたので、その人物の事はおぼろげに覚えている。  
恭二には、子供好きの良い青年だったという印象が残っていた。  
 
「あの野郎、色んな意味で子供好きだったんだな・・・なんかムカツク」  
「そんな事、言わないでよ。まがりなりにも、私の初めての人なんだから」  
「ロリコンだぞ」  
「それでも、好きだったから」  
多香子がその先生とやらを庇うので、恭二は面白くなかった。それ以上に、隣に住む幼  
なじみが無垢ではないと知り、彼は何だか焦りのような物を感じた。いつも近くにいる多  
香子が、少し遠い存在になった気がするのだ。  
 
「今も付き合ってるのか?」  
「ううん。とっくに別れてる。っていうか、お付き合いってほどの関係じゃないもの」  
「ふうん・・・さばけてるな」  
「そんな言い方って、ない」  
多香子は顔を横に向け、恭二の視線を意識的に避けている。この部屋の中に漂う、気ま  
ずい空気に身を揉まれているようだった。  
 
「なあ、俺たちって、世間でいうところの幼なじみだよな」  
「なによあらたまって」  
話題が切り替わると、多香子が頬を緩めた。互いが幼なじみという微妙な関係にあるのは  
理解しているが、あえて言われるとちょっと照れくさいのだ。  
「あんまり近くにいるせいか、男と女でもどちらかといえば、兄妹のような関係だと今までは  
思ってたんだが」  
「あ、そういうの、分かる」  
その意見には、多香子も同調した。他人とは言えあまりに近しい間柄だと、互いを異性とし  
て見る事が難しいのである。  
 
「俺、やっぱりお前の事、好きかもしれない」  
恭二がそう言うと、多香子はにやにやと笑って、  
「実は、私もそうなんだよ」  
と、呟いた。  
 
「何か言いにくかったけど、私は恭二の事、ずっと好きだったよ」  
指で畳にのの字を書く多香子。随分と指先に力が込められているようで、畳の目が解れ  
ている。  
「かあ〜・・・そうだったか。何で今まで気がつかなかったんだろう、俺」  
「仕方ないよ。私たち、家族付き合いだったからね」  
どちらの両親ともに親しい関係である事を考えれば、その子供たちはあまりおかしな真似  
が出来ない。そんな思いが、いつしか二人の心にブレーキをかけていたのだろう。いわば、  
恭二と多香子は遅咲きの蕾なのだ。しかし今、どちらも大輪の花を咲かそうと懸命になっ  
ている。  
 
「これからは・・・どうやって付き合っていこうか」  
多香子が上目遣いに訊ねると、  
「堂々と付き合えばいいさ。普通に、な」  
恭二は照れながら答えた。何も身構える必要はない。ただ、自然に愛し合えば良いのだ、  
と。  
「じゃあ、あらためてご挨拶といこうか。恭二、ここへ座って」  
「正座?」  
「そう。今がスタートになるんだから、挨拶はキチンとしなくちゃね」  
二人は向かい合い、ぴたりと膝を突き合わせた。  
 
「え〜、汝、横川恭二は妻、津島多香子を生涯の伴侶として、病める時も健やかな時も  
愛し続けると誓いますか?」  
「いきなり結婚の誓いかよ。ちょっと、飛ばしすぎじゃないか?」  
「いいのよ。こういうのは勢いが大事なの」  
多香子は得意げに言うのだが、恭二はどこか困惑気味だった。  
 
「何となく誓います」  
「微妙ねえ・・・いかにもあんたらしいわ」  
恭二の言葉に多香子は笑ったような呆れ顔を見せる。幼なじみから関係が一歩、進んだ  
とは言え、まだまだそれに馴染んだ訳ではないのだ。恭二が曖昧な表現をするのも、無理  
はない。  
「婚約指輪は・・・今度買ってくれればいいから、誓いのキス、いこうか」  
「え?そんな金、ないぞ」  
「ん、もう!甲斐性なしねえ。まあ、いいわ」  
多香子が顔を傾け、恭二と唇を重ねた。驚く無かれ、二人でキスをするのは、これが初め  
てである。  
 
「ん、ふん・・・どうだった?キスの味は」  
多香子が鼻を鳴らすと、  
「・・・チョコバットの味だった」  
と、恭二は初キスの感想を語った。それを聞いて多香子は満足げに頷くと、  
「さあ、それじゃあ、初夜といきましょうか」  
そう言って恭二の手を取り、ベッドへとなだれ込むのであった。  
 
おしまい  
 

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