大陸北東――カンブリア地方。
万年雪とブリザードによって閉ざされたこの地には、人とは別の高等生物が暮らしていた。
彼らは皆一様に背が高く、毛皮と白熊の耳がある。
神がかつてこの地上を建設した時、人と熊を掛け合わせて作った種だと言われている。
人は神々が黄昏の時代を迎えるころ、この乾坤(せかい)と分離されてしまった。
爾来往来は無い。一部の例外を除けば。そしてここにも例外があった。
「エカさまー!」
少年が一人走り寄ってくる。茶色の髪の毛の下に利発そうなまなこが輝いている。
エカさまこと第三王位継承権者エカテリーナ・ニコラチェファ・ポリャンスカヤの従僕である。
エカさまと呼ばれたエカテリーナは無愛想な顔つきで従僕を迎えた。
「……ラウ、早く来い」
それだけぶっきらぼうに言うと、また背中を向けてすたすた歩き出す。
その後をラウと呼ばれた従僕ブラウンが必死でついていく。
エカテリーナの身長は204センチメートル。
まだ十歳で身長120センチ弱のブラウンと比べればまるで山と竹の子だ。
ここは熊人族の国である。
四方を大山に囲まれ、気候は極めて厳しい。
取れる作物も乏しいが、鉱山から多量の宝石やガラス石が採掘されるので、
国家は交易で富んでいる。
国王はヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリU世と云う。
善政を布く王である。
彼女――エカテリーナはその第三皇女であるが、無口で奇矯なその振る舞いの為に政治からは遠ざけられている。
中には「白痴姫」と陰口を憚らないものまで多い。
しかし、彼女はそんなことなど気にしていないのである。
そんなある日――
「無い、無い、無い」
エカテリーナが何度も呟く。いらいらと忙しなく歩き回り、時々壁に八当たりする。
彼女は彼女が好きな油絵の筆を失くしたのであった。
「エカさま、筆なら別のが用意できています」
そうブラウンが勧めるが、
「――駄目だ」
短く応える。どうもお気に入りの筆であるらしい。
妙なところでこだわりのある彼女は、こうなると聞かない。
愛用の筆がなく彼女のいらだちは極限に達していた。
彼女はきっとブラウンを睨み付けた。
(お前がちゃんとしていないから筆を失くしたんだ)
目は雄弁に語っている。ブラウンは度を失って退出した。
「……逃げやがって。バカ」
それから二時間後――
エカテリーナは今度はブラウン少年が気になって、いらいらしていた。
(あいつ、どこへ行った――?)
「おい、ラウ、どこ行った」
短く宮殿の僕人に尋ねる。
「あの少年なら外に出ましたよ。何でも油絵の筆を探すとか」
「!」
まだ天気が暖かかったころ油絵を書きに近郊の泉までいったことがある。
そのとき筆を失くしたに違いない。
(バカ……!)
体が震えてくる。
外は猛烈なブリザードが吹いている。
人間のましてや少年であるブラウンに耐えられるはずはない。
(ラウ――)
エカテリーナは外に飛び出した。
そのまま一駆けに泉まで走る。距離にして十キロ。
雪は降り積もり、行方を遮る。
(いた――)
ブラウン少年は雪の中にうずくまっていた。
慌ててその体をだき起こす。
「エカさま……」
ブラウンはゆっくり目を開けた。
「これ、筆――」
ブラウンの凍傷になりかけた指の中にはしっかりと筆が握られていた。
(バカ――)
ブラウンの顔に暖かいしずくが零れて粉雪を溶かす。
エカテリーナはぽろぽろ泣いていた。
「エカさまが喜んでくれて、よかった――」
(バカ――)
彼女はブラウンを抱いて嗚咽した。