振り絞れるだけの勇気は携えてきた。紗枝に何をいわれても物怖じしない打たれ強さも、  
今の俺なら持っているはずだ。  
 何より、もう後悔することだけはしたくなかった。四ヶ月間、この扉の向こうにいる  
あいつと何かある度に、自分を殴り飛ばしたくなるくらい後悔して、妥協して、納得させる。  
そんな日々は、もう送りたくない。  
 
 何もせずに後悔するなら、何かやってから後悔したほうがいい。日に日に、そんな思い  
は大きく膨らんでいった。  
 
 
 
コンコン  
 
 
 
「……」  
 ノックをしてから、反応を待つ。しばらくその場に立ち尽くしていたが、部屋の中からは、  
一向に反応が無い。多分、いやきっと、これからもずっと無いに違いない。  
 
ここで引き返すわけにもいかない。扉をゆっくりと開ける。  
 
 パッと部屋を見渡した瞬間は紗枝の姿を確認できなかった。が、よく見るとベッドの  
シーツが不自然に膨らんでいる。  
「……」  
 
 言葉は、無い。  
 
「……」  
 部屋に入ってきたことでもしかしたら何か言ってくるかもしれない、そう思って向こう  
の反応を待ってみるものの、相変わらず部屋の中はただただ無音だ。もしかしたら、俺じゃ  
なくておじさんかおばさんだと思ってるのかもしれない。  
 
 
「二ヶ月ぶり…か、随分だな」  
 
 
「……!」  
 埒が明かなくなって、こっちから口を開く。  
 おじさんとおばさん、そのどちらでもないことを認識させて、部屋の中に入り込んだ。  
部屋の壁に背を預けて座り込み、頭元にあった窓を少しだけ開けると、縁に携帯灰皿を  
置いて肺にヤニを補給する。  
 相変わらず、紗枝の姿は見えない。かろうじて、ぼさぼさになった髪の毛に覆われた頭が  
見える程度だ。  
「……」  
「こんなに顔を会わせなかったのは、初めてか」  
 早くもちびていく煙草の灰を灰皿に落として、またとりとめもないことを口にする。  
「……何しに…」  
 そこでようやく、たどたどしく、紗枝が口を動かす。  
 
「俺がお前に会うのに……理由がいるのか?」  
   
 いつかの時のように、お茶を濁すような曖昧な答え。だけど以前の時と違っていたのは、  
俺が心の底から、本当にそう思っていたから。だから、そう答えた。  
 
 
「……」  
 言い返すかとも思ったが、紗枝はそこで会話を打ち切った。その様子が、無言のまま、  
出て行けと言外に伝わってくるようだった。  
 
 何か無いか、会話を続けることの出来るような事柄が。  
 
 頭の中をほじくっていると、たった一つ、確実に紗枝が反応を示す出来事が思い起こされる。  
 
 ただそれは、最悪の選択だった。この状況では、絶対に選んじゃいけないはずのものだった。  
 
 
「…別れたんだってな」  
「!!」  
 
 
 なのに俺は、迷わなかった。藁に縋ってでも、こいつの口を開かせたかったから。  
いくら俺が言葉を発しても、反応が無ければ意味を成さないと思ったからだった。  
 
 
 布団に包まれた紗枝の顔が強張るのが、見えなくても分かる。  
空気が、張り付く。いつぞやの川原の出来事が、また鮮明に頭の中に蘇ってくる。  
ズシリと部屋全体の雰囲気が、更に重くのしかかる。だけどこんなもの、承知の上だ。  
この四ヶ月間、俺がどんな感情と戦い続けてきたと思ってやがる。  
 
 
「……残念、だったな」  
 
 
 紗枝を包んでいるシーツに、幾重もの皺が刻まれ消えていく。  
「わざわざ……」  
「……」  
「…それだけ…言いに来たの…?」   
 憔悴しきった声が、弱々しく放たれてしまう。  
 
 
 正直。  
 
 
 紗枝のこんな声は、聞きたくなかった。  
 
 
「んなわけないだろ」  
 それが例え俺のせいだとしても。紗枝のこんな声は、聞きたくなかった。  
「じゃあ……」  
 言葉は最後まで放たれることも無く、消え入ってしまう。俺は視線を天井に彷徨わせ、  
煙を吐き一呼吸置く。  
 
「タバコも……」  
「……ん?」  
 これまた途中で消え入ってしまうが、やめたんじゃなかったの? そういうことを言いたいん  
だろうな。俺の吐き出した煙が部屋中を漂い、それが顔にかかって少し煙たかったんだろう。  
僅かに頭を動かしながら、問いかけてくる。  
 
 そういや、紗枝はタバコが苦手だったな。口うるさくやめて欲しいと言われた日々も、  
今となっては懐かしくさえ思えてしまう。  
 
「そりゃ、な」  
 口から離して、指先で弄ぶ。  
「振られたからな、四ヶ月前に」  
 こんな状況でも泣き言か。情けねえな、まるで成長してねえ。  
「ぇ……?」  
「許してくれるとは思ってねえよ。自業自得だしな」  
「……」  
 長くなってきた先端の灰を、携帯灰皿の中へと落とす。そしてまた、煙を肺に蓄える。  
その、繰り返し。  
 
「何…言ってんだよ……振ったのは…そっちだろ……」  
「……"先に"振ったのはな」  
「先に、って……」  
「お前に言われた台詞……ショックだったよ」  
「……」  
「もちろん、お前が受けた分に比べりゃ微々たるもんだろうけどな」  
   
 そう、先に紗枝を振ったのは俺だ。んな事は、言われなくとも分かっている。だけど、だ。  
「……」  
 俺は謝らなかった。謝れなかった。  
 そうしたほうが俺は楽になれるの分かっていたんだが。これが偽善だってことも、な。  
「……何を…今更……」  
 紗枝の台詞に、心が上ずる。  
 
 
 紗枝とほとんど接点の無かった四ヶ月間。  
 
 
 120日間、寝て、起きて、漠然と働き続けた四ヶ月間。  
 
 
 この四ヶ月間で、こいつのいない生活がとてつもなく苦痛だということを、もう俺は  
知ってしまっていた。傍にいて、いつもいて当たり前の存在がいなくなった時の辛さを、  
身をもって思い知らされたんだ。  
 
「あれから……二ヶ月くらいか」  
 この部屋に入った時の第一声を、また口にする。  
「……?」  
 肺の中にたまった煙と空気を、全て吐き出す。  
「長かったよ。もう何年も経った気がすんだ」  
 そう口にした瞬間、一瞬、まだ関係が変わる前の、ちゃんと話がすることが出来ていた頃の  
紗枝の姿が脳裏に浮かぶ。  
 
 煙を逃がすために僅かに開けた窓の隙間からは、冬特有の身を切りそうなほどの冷たい風が  
吹き込んでくる。体感する温度こそまるで違うものの、その緩やかな空気の流れは、あの  
河川敷での出来事を鮮明に思い起こさせてくる。  
 
 
 
 秋が訪れたばかりのあの夕暮れ時。心細くなりそうなあの黄昏時は、俺から大切な存在  
を奪っていった。  
 
 
 
 あの瞬間を、また思い出してしまう。  
 
   
 吸っていた煙草を、携帯灰皿の中に突っ込む。  
 あの日以来毎日のように咥えたこいつにも、そしてこのうざったい気分にも。いい加減  
別れを告げたかった。  
「どういう……」  
「つまりな」  
 紗枝の言葉を遮ることだって、こいつと話をしている実感が出来、また懐かしくなる。  
一瞬息をついて、躊躇わずに次の言葉を紡ぎだす。  
 
 
 
 
「そんくらいの時間があれば、考え方が変わることもあるってことだ」  
 
 
 
 
「……!!」  
 息を呑む。見なくても分かる。幼なじみって関係は、得もするし損もする。一から十を  
言わなくても、相手の意図が伝わることもあれば。相手が気付いて欲しくないことまで、  
気付いてしまうことだってある。  
 
 卑怯だと思った。  
 こんな抽象的で、分かりにくくて、回りくどくて、遠まわしな言い方をする自分が。  
そうすることしか出来ない自分が。  
 
「……」  
 もそり、と紗枝の頭が揺り動き、シーツの衣擦れる音が静まりきった部屋に届く。下の階  
からも、何の音も届いてこない。おじさんもおばさんも、全部俺に任せてくれているようだ。  
 
「遅いよ……」  
 
 そう言い返す紗枝の言葉は、早くも滲みだしていて。  
「遅すぎるよ……っ」  
 悔しさや恨みしかこもっていない重い声が、俺の耳に届く。  
 
 
「今更言われたって……辛いだけだよぉ…!」  
 
   
 ベッドの枕元あたりの壁に掲げられたコルクボードには、何も飾られていない。本来、  
何かしらの写真が飾られるはずのものなのに。  
 
 同時に胸がまた痛くなる。目を逸らしたほうがいい、見ちゃいけない、本能がそう  
語りかける。  
「そうだな……」  
 だけど、目を細めて顔をしかめながらも、俺は視線を動かせない。  
「来るなよぉ……」  
「……そうだな」  
 いよいよすすり泣き始める紗枝の声を耳に、紗枝の顔の代わりに、そのボードを目にして、  
一言ずつ言葉を返す。  
 喉がまたからつく。唾を飲みこむ代わりに、フッと短く溜息を零した。  
 
「……どうせ」  
 しゃくりを必死にせき止めながら、そんな声色だった。  
 
「どうせ…同情なんだろ……」  
 それが一転して、暗く、深く沈む。  
「……」  
 この数日間、部屋に閉じこもった数日間。きっと時間の感覚なんて無かったに違いない。  
何が辛いのか、なんで塞ぎこんでしまったのか、そんなことさえも分からなくなっていた  
のかもしれない。  
「真由に……あたしの様子聞いて…心配になっただけなんだろ……」  
 親友さえも拒絶するようなその口調に、いかに紗枝が苦しんだか、その断片が垣間見えた  
ような気がした。自分の顔が、いつの間にかくぐもっていることに気付く。  
 
 
 
 あの時、紗枝はこう言った。  
『こんな気持ちで付き合うのは、悪いと思うけど。それでもいつか、ハッシーのこと崇兄  
より好きになれると思うから』  
 俺で埋めていた心の拠り所を、あの瞬間から橋本君に求めた。  
『あたしは、そんなに強く…ないから……』  
 それが無いと自分を保てないことを、こいつ自身とっくに分かってたことなんだ。  
 
 
『だから……ハッシーと付き合う』  
 
 
「付き合いだけの関係なんて……嫌だって言ったのに…」  
「……」  
「また兄貴面なんかして来ないでよぉ……!」  
 ああ、それも前に言われたことだったな。お前は俺に、そんな接し方はして欲しくなかった  
んだもんな。  
 
 
 結局、紗枝はその代わりの拠り所も失ってしまった。  
その上で取り繕えるほど器用に振舞えるような奴じゃない。んなことは、幼なじみで、  
ずっと一緒にいて、ずっとこいつを見てきた俺が一番よく分かっている。  
 
「兄貴面なんかしてねぇよ」  
 
「……」  
 紗枝自身が知らない紗枝の姿を、俺だけが知っているんだ。  
「同情や付き合いだけで俺がここまで行動を起こすかどうか、お前はよーく知ってるはず  
だけどな」  
 紗枝も、同じことを俺に対して思ってることを、敢えて口にする。  
 俺の知らない俺の姿を、紗枝だけが知ってる俺の姿を、きっとこいつも知っている筈なんだ。  
   
「……」  
「面倒臭がりでがさつで……お前がいつも俺に向かって言ってたことだよな」  
 ポケットに入っていた煙草の箱を取り出して、そのまま片手で思い切り握り潰す。  
まだ口にしてもいない中身ごと大きくひしゃげる。  
 
 
 
 加速する。受け止めてくれないなら、真正面からぶつけるしかなかった。  
 
 
 
「その面倒臭がりな俺が、面倒なことになると分かってて、ここに来ると思うか」  
 紙とビニールの擦れる音が、無音の空間に強く響く。  
 
 
「……紗枝」  
「…ぅ……」  
 
 
 以前、偶然にも出会った時、その時はお互いに名前を口にすることはなかった。  
 
 四ヶ月ぶりに呼んだ、名前。そう考えるだけで鼓動が速くなる。同時に、もう俺自身も  
こいつをただの幼なじみや、妹みたいな存在と捉えてないことを再認識する。  
 
 
 ちゃんと、一人の女として、紗枝を意識するようにもなっているってことも。  
 
 
 
 ひしゃげたヤニと空気が触れて擦れ、快感には程遠い匂いが、一瞬だけ鼻を掠めた。  
それが逆に、俺を冷静にさせる。落ち着いて、言葉を弾き出させる。  
 
 
 
「俺は、もうお前と兄妹ごっこをするつもりは無いぞ」  
 
 
 
 いつもいつも、自分本位な考えしかしてこなかった。  
 
 
 
「あの時は、お前の気持ちを分かってても、応えることは出来なかった」  
 
 
 
 こんなことにでもならない限り、理解しようとも思わなかった。  
 
 
 
「断ることしか、出来なかった」  
 
 
   
 俺も、紗枝と一緒に育ってきたってことに、気付けなかったんだ。  
 
 
 
「だけど、俺達の関係が変わっちまったようにさ。俺のお前に対する気持ちも変わったんだよ」  
 
 
 
 
 だからこそ、それに気付けた今、紗枝のいない生活がどんなものであるか知ってしまった今、  
何事にも執着してこなかった俺が、初めて強くこだわった。  
 
 
 
 
「そんなこと……」  
 
 今まで傍にいて当たり前だったものを取り戻すために。  
 
 どんなに無様だったっていい。どれだけ失望されたっていい。  
 
「10年以上の関係が、あの時のたったあれだけの会話で一度は終わっちまったんだしな。  
気持ちだって……その、同じようなもんだと思うんだよ」  
 
 紗枝が、紗枝が。  
 
 
「付き合いや、同情なんかじゃない」  
 
 
 まだ、紗枝が俺のことを特別に思ってくれるなら。  
 
 
『約束だよ? 絶対だからね!』  
 
 
 出来ることなら、あの無邪気な笑顔をまた向けてくれるのなら。  
 
 
「今なら、言える。何度でも言えるさ」  
 
 
 俺はもう、迷わない。絶対、後悔なんかしない。  
 
 
 
 
 
 
「お前のこと…好きだってな」  
 
 
 
 
 
 
 シーツから僅かにはみ出る頭をじっと見つめて。  
 
 身体から剥離してしまいそうな心臓あたりを手でギュッと掴んで。  
 
 意識が頭の中から離れそうになるのを必死で抑えて。  
 
 そして脳裏に、紗枝がいつかの日に見せてくれた笑顔を思い浮かべて。  
 
 
 俺は、確かにそう口走ったんだ―――――  
 

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