物心がついたときには、もう隣にいた。  
 
 親同士の仲が良くて、家も向かい合っていて。外へ遊びに行く時には無理やり連れて行くか、  
勝手に付いてくるのが常だった。その頃は、今からは考えられないくらい大人しい奴で、  
髪の毛で自分の顔を隠したがるほど臆病で、誰か知らない人と話す時はいつも俺の身体の  
陰に隠れてた。  
 
 それがいつだったか、必死の様子なあいつの質問に何気なく答えてから、性格はどんどんと  
変わっていった。人見知りもしなくなっていって、小学校高学年になったぐらいには、  
もう小さい頃の面影はほとんど残っていなかった。  
 変わらなかったところもある。制服を衣替えするたびに、窓越しにその姿を見せつけたり。  
減らず口を叩いたり、文句を言うようにはなっていったけど、一緒に登校したがったり。  
 新しい髪型を褒めた時に見せた屈託の無い笑顔も、もう何年も前のことになるけど、  
今でもよく覚えている。  
 
 思えば、高校卒業と同時に家を出ることになった時、どうにか納得させたのに別れの  
言葉を口にした直後、服の端をくいとつかまれたあの仕草で、もう確信めいたものがあった  
のかもしれない。  
 
 週に一度は会いには来てくれたけど、以前と比べて話をする時間は随分と減った。それでも  
あいつは嬉しそうだった。意識するしない以前に、その時垣間見せる笑顔が好きだった。  
 
 そうやって紗枝がいつも懐いてくれてたから、いつしか錯覚していたんだな。  
 
 高校を卒業して半社会人として揉まれていくうちに、理想論を振りかざし思い描いていた  
ことに気付き、現実に目を向けるようになっていっても。紗枝との擬似兄妹みたいな関係  
だけは崩したくなかった。  
 
 
 どっちにしろ、俺にはあいつが絶対必要だったんだ。  
 
 
 最初から、頭の中だけで理解させることなんて無理だったんだよ。  
 
 
 
 
 
 結論から言うと、推測通り紗枝は駅前にいた。  
 
 二ヶ月前と同じように、鉄柵の上に腰掛けて、濁った空を見上げていた。  
 
「……」  
 息を整えながら、ゆっくりと近づく。始発が出て間もない時間帯のせいなのか、駅前の  
スクランブル交差点を行き来する人影は、まだまばらだった。  
 
 
ザッ  
 
   
 どうやって話し掛けたらいいのか分からず、舗装された道路と靴底を擦らせた音で  
紗枝をこちらに気付かせる。  
「あ……」  
「……」  
 振り向いたのを確認して、正面にまで近づく。顔を拭いたのか、跡は見られなかった。  
気付かせ、傍に来たのまでは良かったけど、やっぱり何を言えばいいのか分からなくて、  
何も言い出せずに立ち尽くしてしまう。  
 
 
「崇兄なら、見つけると思った」  
 
 
 そんな雰囲気を察したのか、先に紗枝が口を開く。  
「……」  
 部屋にいた時とは、まるで雰囲気が変わっている。すっきりした表情で、口許は微かに  
笑みさえ浮かんでいる。  
「急に出て行ったりしてごめんね」  
「気にすんな……こうして見つけられたしな」  
 天気のせいか、湿気た空気が身体に纏わりつく。重たく、ぬるい。心地よい感覚と言う  
には程遠かった。  
 
「ハッシーに……」  
「…!」  
 紗枝の口から彼の名前が出たことで思わず顔がピクリと反応する。それを紗枝に盗み  
見られ、表情が少しだけ濃くなる。笑顔の種類が、変わったようだった。  
「ハッシーにね、言われたんだ」  
「……」  
 淡々としている。部屋で話をした時は、あんなに自分を保ててなかったっていうのに。  
俺の知っている姿以上に穏やかで、その表情も至って平静だ。どうやら、久しぶりに外に  
出たことで、気持ちに余裕が生まれたようだった。  
 
 
「『俺じゃお前を幸せにできない』って……そう言われたんだ」  
 
 
「……」  
 
 
 顔は緩やかな笑みをたたえたままだった。  
 
 それを言われた時、こいつはどんな気持ちだったんだろう。どんな思いで、その言葉を  
受け止めざるを得なかったんだろう。  
「『俺と付き合い始めてからどんどん元気なくなってって、今の方が辛く見える』んだって」  
 言葉の途中で、突然その表情を伏せてしまう。  
 俺は立ち尽くし、紗枝は座っている。だけど、顔が見えなくてもどんな表情をしている  
のかは、分かってしまっていた。  
 
 
「だから言われたんだ……『別れよう』って。『お互いに、そうした方がいい』って…っ」  
 
 
 言葉尻が、震えた。手で目尻を拭い、一度だけ鼻をすする。  
「…そっ……か」  
 顔だけじゃなくて、その姿全部を見ちゃいけない気がして、自分の足元に視線を落とす。  
 
 
「結局ね、ハッシーとは何にも無かったんだ」  
「……」  
「何にもしてない。ただ、遊んでただけ」  
 どうにか気持ちを抑えこみながら、再び淡々と口を動かし始める。  
「お互いに全部が初めてのことだったってのもあると思うんだけど……それでもお互い、  
ちょっと構えすぎてたのかな」  
 少し前のことを思い返しているその顔は、俺が妹扱いしてきた紗枝の顔じゃなかった。  
「臆病……すぎたんだよね」  
 その言葉が少し寂しそうだったのは、橋本君に対する申し訳なさがそうさせたのだろうか。  
 
「崇兄は…自分責めてたけど、そんなことない」  
「……?」  
「凄く悩んで、考えて……一生懸命に答えてくれたもん。あたしの気持ちは……届かなかった  
けどね」  
「……紗枝」  
 苦笑を浮かべる。もう、全部吹っ切ったようにも見えた。自分の恋心も。橋本君との関係にも。  
いや、吹っ切ったんじゃなくて、諦めているようだった。  
 
「だから……悪いのは…全部、あたし」  
 
「何言ってんだよ、そんなわけ…」  
「崇兄はただあたしの気持ちに返事しただけだし、ハッシーもあたしを大事にしてくれた。  
なのに……二人とも、すっごく辛い目に遭ってる」  
「……」  
 否定は、出来なかった。そんなことないって言うのは簡単だったけど、今更になって、  
嘘をつきたくなかった。  
 
 
「だからさ……あたしは…っ」  
 
 
 ……やっぱり、ギリギリだったんだな。紗枝の声が、途端に上ずってしまう。  
 
 
 
「きっと……幸せになっちゃいけないんだよ……」  
 
 
 
 それだけ言うと、とうとう両手で顔を覆ってしまう。  
「傷つけたのは…崇兄じゃない…っ…あたし…なんだよ…」  
「……」  
「だから……だからっ……」  
 しゃくりをあげて、なおも言葉を続けようとする。だけど、二言目はほとんど形を成して  
いなかった。くしゃくしゃになった顔を隠して、流れる雫を袖で拭き続ける。  
「紗枝…もういいから」  
「あたし…ごめん……崇兄の……気持ちには…応え…られない…っ……」  
 言いながら、紗枝はまた右の袖で、涙を拭こうとする。  
 
 
ガシッ  
 
 
「あ……っ」  
「……」  
 その手首を俺は、無意識に、強引に左手で掴んでいた。  
 
 
 
「お前は……ほんっと意地っ張りだな…」  
 
 
 
 吐き出す台詞も、半ば無意識だった。ごしごしと、袖で涙を拭ってやる。  
 
「あ…? え……?」  
 
 何がなんだか分からないと言った様子の紗枝に、今度は俺が苦笑を漏らす番だった。  
「一生懸命考えてさ、そういう結論出したかもしれんが…それは間違ってるぞ」  
「そ、そんなこと……」  
「そんなことある。俺だって、似たようなこと考えてたしな」  
「……」  
 
 
「その結果はさ……全てが、余計に悪い方向に向かっちまっただけだったよ」  
 
 
 想いを伝えられないまま生きていく。伝えるには一生分の勇気が必要で。だけどそれを  
振り絞れなかったら一生後悔してしまう。気持ちを抱えたまま口にも出せないでいるのは、  
日常生活を普通に送ることさえ難しくさせてしまう。  
 
 今更になって紗枝を好きになり、だけどもう関係は終わっていて。宙に浮いたまま、  
どうしようもない想いを抱えて生きていく。  
 これほどうってつけな償い方があるだろうか。あの時の俺はそう思った。  
 
 
 だけどそれは間違ってた。  
 
 
 決して叶うことの無い感情が余計に燻って。上手くいかずに潰えた関係を生み出した  
だけだった。  
 何一つ、良い方向へは向かなかった。  
 
「お前がそう言いたくなる気持ちも分かる。でもな」  
   
 言葉を続ける。俺は、紗枝の手首を掴んだまま。紗枝は鉄柵に腰掛け、うつむいたまま。  
 
「橋本君だって、お前が幸せそうじゃないと思ったから別れを切り出したわけだろ」  
「……」  
 
「お前も幸せになれる相手を見つけて欲しいと思ったから、そう言ったわけだろ」  
 
 その時の彼の気持ちが、痛いほど分かった。  
 おそらくそれは、あの黄昏時に俺の胸によぎったものと、寸分違わぬ同じものだった  
だろうから。  
 自分の気持ちより、紗枝の様子を優先するなんてな。  
 
 
「だからさ……そんなこと、言うなよ」  
「……だって…」  
 また言い返してこようとする紗枝の言葉を遮ろうと、もう一度袖で涙を拭う。  
そして、駄々をこねる子供をあやすように、俺はそっと囁いた。  
 
 
 
 
「俺といる時くらい……意地、張るなよ」  
 
 
 
 
「…う」  
 額から頭を撫でるように手を這わせて、前髪に隠れていた紗枝の瞳が露わになる。  
かちあった瞬間、その表情は、ぐにゃりと歪んだ。真一文字だった口も、形を失う。  
 
「紗枝、俺は……『明るく』て、『元気』で……『素直』な娘が好きだぞ」  
 
「……!」  
 幼い頃の何気ない質問。その時に俺が返した答え。そこに、一つ新たに項目を加える。  
 
 
「今…俺の目の前に『明るく』て、『元気』な娘はいるけど……その娘は生憎かなりの  
『意地っ張り』でな」  
 
 
「だけど、俺がたった一度『似合ってる』って言った髪型を、未だに変えてなくてな」  
 
 
 少しだけ言葉をおどけさせながら、どっちつかずに言葉をばら撒く。俺としたことが、  
紗枝の扱い方をすっかり忘れていた。  
 今までずっと、17年間ずっと、そうやって紗枝をからかってきたのにな。  
 
 
「なぁ紗枝、どうしたらいいと思う?」  
 
 
 
 押して駄目なら、引けばいい―――  
 
 
 
 何故か、微かに笑うことさえ出来ていた。  
 涙目のままだったけど、悔しそうな顔を浮かべる紗枝の顔が、とてつもなく懐かしくて。  
 
 
 あぁ……こいつ、こんなに可愛かったんだな。  
 
 
「……いつも、そうだ」  
「……?」  
「崇兄は…いつもそうだ。いつもそうやって……あたしの考えてること見透かすんだ…」  
   
 新たに流れる透き通った雫は、音を伴わなかった。  
 
「…そりゃ、ずっと見てたからな。お前のこと」  
 
 顔を、無意識に近づける。  
 
「幼なじみで家も隣で、お前は俺のこと慕ってくれてて……これでお前のこと分かって  
なかったら、俺はどんだけバカなんだって話になるだろ?」  
   
 近づきすぎて、額同士がこつんと当たる。  
 
「まあでも…お前の考えや性格は見抜けても……気持ちは全然分かってなかったんだけどな」  
「……」  
 髪の毛が、震えている。当たった額と掴んだ手と。触れた箇所からそれが伝わってくる。  
 
 
「…崇兄のそういうとこ、好きじゃない……」  
「……お前ね」  
 
 
 距離は、止まらず近づいていく。あまりに近くなりすぎて気恥ずかしくなったのか、  
紗枝は目の縁に涙をたたえたまま、そっと目を閉じてしまう。  
 
「あたしのこと妹扱いしてて……いつでもあたしのこと分かってるみたいなこと言って、  
なのにあたしの気持ちだけ全然分かってくれなくて……」  
 
 だけど言葉とは裏腹に、紗枝はもう逆らない。泣き顔のまま、顔の角度を恐る恐る上げて、  
しっかりと向き合った。  
 
「あたしのこと振ったくせに…今更好きだって言ってきて……そうやっていつもあたしを  
振り回して……」  
 
 態度は素直になっても言葉だけは意地を張りっぱなしなのが、いかにも紗枝らしくて。  
 
 
「嫌いだ……っ」  
 
   
 消え入りそうな声で紡がれたのは、態度とは真逆の、相手を嫌がる否定的な言葉。  
 
 
「崇兄なんか……大っ嫌いだ……っ」  
 
 
 
 
 
 
 その言葉を最後に。距離が一瞬、零になる。  
 
 
 
 
 
 
 時間は早朝、天気は曇り、場所は駅前の交差点。  
 
 
 
 
 
 
 車のクラクションに、靴底がアスファルトを叩く音。  
 
 
 
 
 
 
 信号が変わったことを伝えるカッコウの鳴き声が、辺りから俺の耳に届いてくる。  
 
 
 
 
 
 
 そんないつもと同じような、日常が流れる片隅で。  
 
 
 
 
 
 
 知り合って久しい幼なじみと、初めて交わした刹那の秘め事。  
 
 
 
 
 
 
 多分俺は、今の感触を忘れることは一生無いと思う。  
 
 
 
 
 
 
 掴んだままでいた手首をくいと引っ張りながら、自身も重心を前に倒す。そのまま紗枝  
の身体を、ポスンと腕の中に収めた。  
 
「ひっく……ぐす……」  
「泣くなよ…」  
   
 肩口に顔を埋めて、しがみついてくる紗枝をゆっくりと宥める。  
 
「だって……だって……」  
「……だから…泣くなって…」   
   
 こっちからも、紗枝をギュッと抱きしめる。お互いの顔が擦れ違いそうになり、お互いの  
耳が隣り合う。背中に回した手から、微かな鼓動を感じ取れた。  
 身体の中で凝り固まっていた異物が、泡を立てて溶けていく。緊張し続けていた心が、  
ようやく平静を取り戻す。  
 
 
「いいのかな……」  
 
 
「……?」  
 肘あたりを、そっと掴まれる。  
 
「崇兄にも……ハッシーにも酷いことしたのに…」  
 
 胸元辺りにも、湿った感触を覚える。  
「なのに……また、崇兄の隣にいてもいいのかな…」  
 
 
 むず痒い感覚が、胸をよぎった。  
 
 
 
「崇兄のこと……また好きになってもいいのかな……」  
 
 
 
「……」  
 ああ、なんだ。変わってねーじゃねえか。昔の面影、まだ残ってるじゃねえか。  
 
 感情が溢れそうになる。どれだけ、この瞬間を望んでいたんだっけか。一度は失った大切  
なものが一つ。だけどそれは二つになってまた俺の手元に戻ってきた。  
 
 
 
「おかえり……紗枝」  
 
 
 
 二つの問い掛けに、返す答えは一言だけ。  
 
 
 
 本当は頭を撫でたかったけど、それをこらえて言葉で返す。代わりにまた、紗枝の身体を  
覆うように回していた腕に、少しだけ力をこめる。極まって、溜息も漏れる。  
「うぅ……」  
 泣き止もうとする紗枝の様子が、可愛くて仕方が無かった。  
 
 
 
 思えば、親が離婚した時も。引っ越す時が決まり、紗枝との距離が離れる時も。そして  
紗枝の気持ちに応えられず、紗枝との関係に幕が引かれた時も。  
 
「……?」  
 
 俺は泣かなかった。そういった感情はもう自分の中では、必要の無いものだと切り捨て  
られてるもんだとばかり思っていた。  
 
「崇兄……?」  
 
 
 だけど、今。俺の視界は、微かに歪んでいて。  
 
 
 ってことは、そういうことなんだろうが。認めたくなかったし、見られたくなかった。  
こいつにそんな目に遭わされただなんて、一生この先、誰にも言えない。  
「あぁ……なんでもない」  
「……」  
 紗枝の問いかけにも、声を作って誤魔化した。  
 
 
 
「それじゃ…」  
「……?」  
「一旦…帰るか。おじさんとおばさんも、心配してる」  
 視界の歪みを無理やり直して、紗枝が落ち着くのを待ってから、俺は静かに隣り合って  
いた頭を再び向かい合わせて、距離をとる。  
 時計は回り、会社へ通勤するサラリーマンの姿が目立ち始めていた。  
 
「……うん」  
 
 掴んでいた手首も放す。  
 
 今は、手を繋がなくても互いを隣に歩くだけでも充分だと思ったから。  
 
 
 
『さえー! はやく来ないと置いてくぞー!』  
 
 
『うわああああん! まってよー!!』  
 
 
 肩を並べて帰路に着き始めたその視界に、一瞬小学生くらいの男の子と、まだ幼稚園児  
くらいの女の子の幻が見えたのは、一睡もしていなかったせいなのだろうか。  
   
 
 その姿は、すぐに空気に掻き消えてしまう。  
 
 
 でも、それで良いと思った。  
 
 
 今はもう、お互いに願いを叶えることができたから。  
 それはつまり、幼なじみである前に、また新たな関係が出来たってことだ。  
 
 ま、それが何かは、遭えて言う必要もないだろ。  
 
 口に出すには、まだちょっと照れ臭いしな。  
 
 
 
 紗枝の歩調にあわせて、俺達はゆっくり、ゆっくり帰路につく。  
   
 
 
 分厚い雲からは、段々と晴れ間が覗き始めていた――――――  
   
 
 
 
 
 
 
 
ピリリリリリリッ、ピリリリリリリッ  
 
 
 …んぐ……んが? なんなんだこの音は。人がせっかく日々の疲れを癒そうとぐっすり  
すっきりじっくり寝てるっていうのに。これじゃー目が覚めちまうだろうが。  
 
 
ピリリリリリリッ、ピリリリリリリッ  
 
 
 あー……携帯鳴ってんのか。こんな時間に俺に連絡が来るとは珍しい。くっそー、まだ  
横になってたいのに誰だ。  
 
 
ピッ  
 
 
「……んー…?」  
 枕元においてあったそれを掴むと、寝起きっつーことで割れてしまってた声で応答する。  
『……』  
「……」  
 なんだぁ? 向こうからかけてきたくせに何も喋ってこねーぞ。間違い電話かもしかして。  
つーか相手誰だ。  
『崇兄、待ち合わせ何時だったっけ?』  
 
 
 ……紗枝か。なんか口調が明らかに怒ってんな。そういや、今日はデートの約束してた  
んだっけか。忘れてたわけじゃないんだが……うーん。  
 
 
「えーっと、確か10時だっ……け…」  
 その時、なんとなしにぐるりと部屋を見回していた俺の視界に、これまた枕元に置いて  
あった目覚まし時計が捉えられる。その時計が教えるに、今の時刻は午前10時半を過ぎた  
ところらしい。  
『今何時か知ってる?』  
「……確認した」  
『寝てたんだろ』  
「うるせーよ、日頃仕事で疲れてんだよ」  
『その言い訳もう聞き飽きたよ』  
 呆れ交じりの声が電話の向こうから響いてくる。  
 肩と頬で携帯を挟んで会話しながら、服を引っ張り出してそそくさと着替え始める。  
シャワーを浴びる時間も無いな。身嗜みも大事だが、それ以上にあいつは待たせれば  
待たせるほど機嫌を損ねるからな。着替えて顔洗って髪型セットしたらさっさと行くか。  
 
『もぉ……』  
「悪かったって、急いで行くからもうちょっと待ってろ」  
 窓の外を見ると、いつぞやのように天気は下り坂の模様。もうちょっと厚着していった  
ほうがいいか。  
『どのくらいかかる?』  
「11時までには行くよ、んじゃな」  
 財布を掴みながら携帯を切ると、両方をはき終えていたズボンのポケットにしまいこむ。  
飯も食う暇ねーな。昼にがっつり食おう。  
 ジェルでパパッと髪をセットすると、コートを掴んで部屋を飛び出す。鍵を閉めて靴を  
しっかりと履きなおすと、待ち合わせ場所へと急いで向かう――――  
 
 
「……」  
「……」  
 
   
すたすたすたすたすたすた  
 
 
 前を歩く紗枝を追いかけるように、俺は後ろからついていく。顔は見えないが、口をへの字に  
曲げていることだけは分かる。すたすたすたすた、お互い何も言わず、早足で歩き続ける。  
 うおーい、このまんまじゃ埒があかねーよ。  
 
「紗ー枝ー、悪かったからー」  
「……口調がそう言ってない」  
 謝ったのにちっとも許してくれない。そりゃ豪快に寝坊したのは悪かったが、だからって  
何もここまで怒らなくたっていいだろうが。  
 
「せっかくの『はぢめてのデート』なんだからもっと楽しもうとは思わんのか」  
   
 ついついその態度にカチンときて言い返してみる。すると、それまでせかせか歩き続けて  
いた紗枝の脚がぴたりと止まった。同時に、ゆっくりと俺のほうへ振り返る。  
 
「その『はぢめてのデート』に30分以上遅刻したのはどこの誰?」  
 
 押し殺すような低い声に睨み殺すような鋭い眼光。なーるほど、機嫌が悪い理由はやっぱり  
そこにあったわけだな。「初めて」ってのが紗枝の中で特別な事由に当たったらしい。  
「だから悪かったって。怒ってばっかで今日を終わらせたいのか」  
「……だって」  
「そう拗ねるなよ」  
「拗ねてない!」  
 また口を尖らせる。どこをどう見ても拗ねてます、本当にありがとうございました。  
なんでこう、こいつはテンション次第で性格が幼くなったりするんだろう。  
「そろそろ機嫌なおせ。な?」  
「じゃあ、今日は全部崇兄の奢りね」  
「じゃあもクソも、高校生相手に割り勘にするほど俺の器は小さくねーよ」  
 ま、俺はフリーターとはいえ一応働いてるからな。最初から金を出させるつもりなんざ  
毛頭ない。この半年間バイトばっかりで無駄遣いしなかったし、パチンコやスロットの  
勝率もそう悪いもんじゃなかったからな。  
「ん、よろしい」  
 そう言うと、紗枝はようやくにっこりと笑顔を浮かべる。  
 お姫様の機嫌もようやく直ってきたみたいだ。まったく、毎度毎度宥めるのに苦労するわ。  
そして、今度はちゃんと肩を並べて歩き出す。さっきまでよりスピードを落として。  
 
 
 今日の日付は12月25日、世間一般で言うクリスマスだ。紗枝との関係を修復し、また  
新たな関係を作り始めてから早くも一週間経った。  
 あれから、俺の生活は全てが元通りになろうとしている。いや、全く違った形で始まろう  
としているって言った方が良いのかな。  
 
 紗枝もまた、ちゃんと学校へ行くようになった。まだクラスメイトとはギクシャクしてる  
ところもあるようだけど、紗枝の気持ちが限界を超えないように、この一週間は毎日紗枝の  
顔を見に行った。クラスでは、真由ちゃんと兵太がなんとか取り持ってくれているらしい。  
 もちろん、橋本君ともそれは当てはまってるようで。紗枝が俺と付き合うと言うことを  
聞かされた時、彼は笑顔で祝福してくれたそうだ。色々言いたいこともあっただろうにな。  
 そんな風に人間が出来てる彼のことだ。いつか紗枝以上に可愛く優しい彼女をきっと  
見つけられるだろう。  
 
「なんか言った?」  
「いや別に」  
 ……今のは口に出してなかったんだが。女の直感は鋭すぎる。  
 
 まあクリスマスにデートっつーことで、本来なら恋人同士でその日の夜にあれやこれや  
色々とヤることがあるんだが、付き合い始めてすぐだしなぁ。俺もまだまだこいつのことを  
妹として見てしまってる部分もあるし、焦らずゆっくりやろうと思う。  
 だから今日はいつも通りでいい。こうして紗枝と遊ぶこと自体が、随分と久しぶりのこと  
なんだしな。  
 
 とはいうものの、そういう気持ちが全く無いわけでもないんだけどな。  
 
「またなんか…」  
「だから何にも言ってねーって」   
 こういうのにやたらと敏感なところだけ、普通の女の子と一緒なんだよなぁ。まったく、  
扱いにくいったらありゃしない。  
   
 
「で、なんだっけか。見たい映画があるんだよな」  
「うん」  
 頭の中で無理やり自分を納得させ、並んで歩きながらまず今日の最初の行き先を再確認  
する。そういや、どんな映画かまだ知らないんだよな。ちょっと聞いてみよう。  
「ジャンルは?」  
「ラブロマンス」  
   
 …………  
 
 
 え゛。  
 
   
「……あのさ、俺さっき起きたばっかりなんだけど」  
「寝坊したのが悪い」  
 をいをい、なんか急に肩の荷が増した気がするぞ。頭もちゃんと働いてない寝起きにその  
ジャンルはキツい。つーか寝る。確実に寝る。興味無いジャンルだし。  
「一応まだ午前中だぜ?」  
「いいだろ、見たかったんだから」  
「……」  
 おっかしーな、こいつここまで甘えてくるような奴だったかな。やっぱり、どんだけ長く  
知り合ってても、恋人に見せる顔ってのは違うもんだな。  
「どんなの見ると思ってたの?」  
「えーっと、アン○ンマンとか」  
 
   
げしっ!  
 
 
「そんなの見に行くわけないだろ!」  
「冗談だろーが! いちいち蹴んな!」  
 あーもー、付き合いだしてからこいつのことがよく分かんなくなってきたぞ。手足を出す  
タイミングも随分と早い。今までならまだ減らず口止まりだっていうのに。  
 
 
「ったく、中学生になってもウサギのバックプリントとか履いてたくせに……」  
 
 
めきょっ!  
 
 
 次の瞬間、紗枝の拳が俺の頬に思いっきりめり込んだ。  
 
「今度またそれ言ったら殺す」  
「……頼まれても言わねー」  
 この前までの弱々しい紗枝と、本当に同一人物なのか疑いたくなるぐらいの逞しさだ。  
まあ、それだけようやく元気が出てきたってことなんだけど。ここは素直に喜んどくか、  
殴る蹴るの暴行を受ける羽目にはなったが。  
 
「で? 行くの? 行かないの?」  
 釣り上がった目で俺をじっと睨みつけ、怒気を含ませながら問いかけてくる。そんな  
様子を横目に見ながらも、俺は短く溜息をつき、自分の中で定めた今日の取り決めを静か  
に反芻させた。  
 
『紗枝のわがままに全部付き合う』っていう、取り決めをな。  
 
「誰も行かないなんて言ってないだろ」  
 それでもやっぱり腹に据えかねたので、ちょっとばかしひねくれた言葉で返してみる。  
誰が紗枝の言うことに素直に従ってやるか。  
「態度が『行きたくない』って言ってましたぁー」  
「喋ることが出来るのは口だけですぅー」  
「『目は口ほどにものを言う』っていう諺を崇兄は知らないんだね、あーバカでかわいそ」  
 
 
むかっ  
 
 
 おかしい……なんか今日の俺はいつもより口に出してることがガキっぽい気がする。  
ついこの前まではシリアスかつ不幸とタバコの似合うダークな雰囲気纏ったシニカルガイ  
だったのに。それもこれも全部こいつのせいだ、ちきしょう。  
 とはいえ、怒りに任せて紗枝の頭をひっぱたくわけにもいかない。代わりに両手を乱暴に  
ジャンパーのポケットへしまいこむことで気を紛らわす。  
 走ってきたことで火照った身体も、そろそろ冬の寒さに負けて無くなりかけてるからな。  
手もかじかんできてたし丁度いいか。  
「崇兄、手袋して来なかったの?」  
「まーな、寝坊して急いで来たせいで忘れた」  
「ふーん……」  
   
んー? なんでそんなことわざわざ聞いてくるんだ?  
   
 別に聞かなくてもいいことを聞いてくる紗枝を訝しがって、またその表情を伺ってみる。  
すると俺が振り向くと同時に、慌しく顔を前に向けてしまった。それでも、その反応が少し  
ばかり遅かったので、こいつが今どこを見ていたのかはしっかりと確認できた。  
 
 
 確か今、俺の腕辺りを見てたな。なんでまたそんなところ……  
 
 
 …………  
 
 
 ははぁ、なるほど。  
 
 
「お前は手袋してんのか」  
「いいだろー、あったかいよコレ」  
 俺がそう言うとにひひ、と笑いながら俺に見やすいように両手を顔の前でかざす。どうやら、  
手袋を忘れてきた俺へのあてつけらしい。  
 その手袋は黒一色に彩られ、男女どちらも身につけられそうな中性的なデザインをしている。  
これなら俺がつけても違和感無いかな。  
「じゃあ片方だけ貸せよ」  
「え?」  
 言うが早いが、俺は自分に近い方の紗枝の左手から、その手袋を掠め取る。そして自分の  
左手にはめてみる。思いの他、サイズはピッタリだった。ほほぅ、これは確かにあったかい。  
それまで紗枝が身につけていたこともあって、俺の左手はすぐに温かくなっていく。  
 
「あっ、返せ!」  
「片っぽだけだろ、別にいいだろーが」  
「何にもよくない、あたしの手が冷えるだろ」  
 俺の左手めがけて、紗枝の両腕が手袋を奪い返そうと襲い掛かる。  
「あー、うざい」  
「なら早く返してよっ」  
「しつけーな。じゃあ…」  
 いつまでもじゃれあうつもりもないので、その動きを軽くいなして、右手で紗枝の左手  
ギュッと掴む。  
 
 
 お互いに外気に晒された手の平同士を、強く繋ぎ合わせた。  
 
 
「これでもう冷えないだろ?」  
「……っ」  
 頬のあたりがうっすら赤くなっていくのが分かる。  
 
 いやー久しぶりだけどこいつをからかうのはやっぱり面白いね。思わずにたーっとした  
笑みが顔に浮かぶ。更に紗枝が悔しそうに見つめてくるもんだから、もう楽しくて仕方がない。  
 
「ちょ……離せってば!」  
「なーに照れてんだよ、恋人同士だろこ・い・び・と」  
「やっ、離せー! 気持ち悪いー!!」  
「照れるな照れるな」  
「照れてなんかない!」  
 まったく、いつになったら素直になるのやら。こりゃあしばらくはお守り感覚だな。  
 
「ちょ…やめてよー!」  
「ったく、うるせーな」  
 とは言うものの、紗枝の方は一向に喚くのを止めようとしない。すれ違う人達のうち  
何人かが迷惑そうな顔してすれ違っていくし、ここは一旦、手を放したほうがいいか。  
 そして次の瞬間、俺は右手にこめていた力を抜き去る。紗枝がぶんぶんと手を振って  
いたこともあって、繋がれていた手はあっさりと振りほどかれた。  
 
「あ…」  
   
 紗枝も、こんな簡単に手を離されると思ってなかったんだろう。あっけにとられたように  
声を上げる。  
「ほら、これでいいんだろ。行くぞ」  
 紗枝の反応も待たず、またすたすたと歩き始める。  
 
「……」  
「何だよ、映画見に行きたいんじゃなかったのか?」  
 振り向いて見てみると、紗枝がついて来ない。振りほどかれた手も、そのままの位置に  
とどめたままだ。  
「紗枝」  
 ちょっと苛立ったように声をかける。もちろん、全てを分かった上での演技なんです  
けどね? うふわはははは愉快愉快。  
 
「あ、あの……崇兄」  
 
 声をかけられ、宙に浮かせていた腕を胸の前に移動させ、片や素手、片や手袋という  
白と黒という対照的な色をした両手を、もじもじと動かし始める。  
 いつだったか、今と全く同じような照れ方をしていたのを思い出し、またまた思わず  
相好を崩してしまう。あー、こいつこんなに可愛かったんだな。つい一週間前も同じこと  
言ったような気がするが。  
「なに? やっぱり手袋も返して欲しい? しょうがねーなまったく…」  
「そ、そうじゃなくて」  
「んー?」  
 頬をこする振りをして、手で口を覆う。口のにやけを見られるわけにはいかねーからな。  
「その……やっぱり…」  
「なんだよ?」  
 
 言葉尻が聞こえなくなった代わりに、おずおずと、振りほどかれた左手を差し出してきた。  
 
「え、何コレ?」  
「だっ、だから分かるだろ! 何が可笑しいんだよ!」  
 とうとう顔を真っ赤にして怒鳴りだした。表情を指摘されたと言うことは、口許を隠して  
いたつもりでも、実は隠しきれなかったってことらしい。  
「いやー紗枝が何したいのか俺さっぱり分かんねーよ」  
「さっぱりって…そんなわけ…」  
 
「ほらさー誰かさんが言うとおり俺ってバカで可哀想な人間だからさー、ちゃんと何か  
 言ってくれないとお前の意図とかさっぱり分かんないわけよー、ごめんなー?」  
 
「ぐ……っ」  
 俗に言うっつーかどこからどう見てもさっきの仕返しだ。やられっぱなしじゃ終わらない  
俺の性格を、平松さん家のお嬢さんはすっかり忘れていたらしい。  
「じゃ早く行こーぜ、混んでるかもしれねーし」  
 振り返り、そのまま映画館へ向かって歩き出そうとしたその時である。  
 
 
がしっ  
 
 
 右腕を引っ張られたような感覚を覚え、また思わず振り返る。  
 そして視界に映ったのは、案の定、怒ったような顔で俺の手を握り締める紗枝の姿。  
「……っ」  
 分かってたくせに、視線がそう語っている。まさに目が口ほどにものを言っている。  
やー、こんな愉快な気持ちになるのは海でこいつをからかった時以来だなぁ。  
 
「嫌なんじゃなかったのか」  
「……うるさいっ」  
 そうボソッと呟きながら、ふいと顔を逸らす。しょうがねーな、態度だけでもようやく  
素直になったことだし、もうからかうのは止めてやるか。  
「ま、よくできました」  
「…やっぱり分かってたんだな」  
「そりゃそうだろ、お前じゃあるまいし」  
「……うーっ」  
「ついでと言っちゃあなんだが、これはよくできたご褒美な」  
 そう言うと、俺はただ繋がれていただけ手を動かす。指を一つ一つ絡ませ、文字通り  
がっしりと握った。肌同士の触れ合う面積が広がり、伝わる熱も強まっていく。  
「ちょ……」  
「こっちのほうがあったかいだろ?」  
 先ほどと同じようなことを言って、お互いの顔の間で繋がれた両手を振りかざす。  
 
「……もういい」  
 紗枝はというとまたぶすくれだって、消え入るような声を漏らしている。  
「素直で宜しい。いつもこうだともーっと可愛いんだけどなー」  
「う、うるさいなぁ、しょうがないだろ」  
 こういう性格なんだから、と愚痴る横顔を盗み見る。これからの生活にあたって、自分の  
性格が一番の難敵だということは、どうやら本人も重々承知していることらしい。  
 
    
 まあいいか、いっつも素直だと、さっきまでみたいな可愛い仕草を見ることも出来なく  
なるわけだしな。  
   
 
「じゃ、行くか」  
「…うん」  
 言葉と共に、繋ぐ手に力を込める。そして込められる。  
 
 今はまだ、やっぱり幼なじみに近いんだけど。  
 
 それでもいつかは、形だけじゃない恋人同士になれる時が来ると思うんだ。  
 
 まあ、どのくらい時間がかかるかは分からないけど。  
 
 
 そんな急ぐ必要もないわけだ。  
 
 
 ずっと大事にする。そう、決めたし。  
 
 
 そう思うと、堅く握って繋がれた手が、まるで俺達の絆みたいにも思えて、ついつい  
笑みがこぼれてしまう。  
「? どうしたの?」  
 それを紗枝に突っ込まれ、笑みが苦笑に変わった。  
 
 いや、幸せだなーと思ってな。軽くおどけながら、そう口にすると紗枝はまた顔を赤く  
してしまう。だけど悪態こそついてくるものの、その表情は綻んでいた。その様子がまた、  
俺を幸せな気分に浸らせてくれる。  
 
 
「あっ…」  
 
 と、紗枝が一声あげながら空を見上げる。つられて俺も顔を上げると、いつかの日のような  
曇り空から、ちらちらと白く冷たい欠片が降りてくる情景を目にすることが出来た。  
「ホワイトクリスマスだね」  
 そう話しかけてきながら、俺のほうへ振り向く。  
 
   
 その時の笑顔が、俺が一番見たかった、俺が一番好きな紗枝の顔で。  
 
 
 照れ隠しに頭を掻きながら、俺はその言葉に軽く頷いて見せたのだった。  
 
 
 
 
 終わって終わって始まって。再び手にした大事な存在は、もう二度と手放したくない、  
かけがえの無いものとなって俺の許へ帰ってきた。  
「ねえ、崇兄」  
 そしてその大事な存在は、幼なじみから恋人へと変わっていた。  
 つい数ヶ月前には、考えられなかったことだな。  
 
「これからは、ずっと一緒なんだよね?」  
 
 分かりきったこと聞くなよ、そう言いかけて口を噤む。もうこいつは俺の恋人なんだから。  
いつまでも妹、子供扱いするわけにもいかないよな。そういった考えが頭によぎる。  
 
 甘えてくるなら、昔のように少し甘やかしてやってもいいよな。  
 
 
 
 手を握り、顔を会わせ、お互いに笑顔を携えながら。俺は一言、言葉を紡ぐ。  
 
 
 
「……そうだな」  
 
 
 
 もう決して歪むことの無い、初めて紗枝と気持ちを確かめ合った時に広がっていた、  
あの時と同じような曇り空を見つめながら。紗枝の部屋を訪れた時とはお互いの気持ちが  
まるで違うこの場面で、敢えてその時と同じ返しの台詞を口にしたのだった。  
 
 
  全てが今までと同じなようで、どこか何かが変わろうとしている。  
    
 
 それがどう変わっていくのか。 それがなんなのかは分からないけど。  
   
 終わって終わったことで、ようやく始まったこの関係を。ようやく訪れたこの時間を。  
 
 
 俺はずっと大事にしたいと思う。  
 
 
 これから先、全てが上手くいくとは限らないだろうし。  
喧嘩してしまうことだってあるだろうけど。  
 
 今携えているこの気持ちがあれば、きっと、大丈夫だ。  
 
 
 
     
    じゃあ、もう行くぜ。  
 
 
 
 
            紗枝が待ってる。  
 
 
 
 
                     またいつか、会えるといいな。  
 
 
 
 
   もちろん幼なじみと、恋人と。  
 
 
 
 
           ちゃんと二人分、大事にするさ。  
 
 
 
 
                 俺達の新しい関係は、始まったばっかりだしな。  
     
 
 
 
 白い欠片が降りてくる。地面に木々に降り積もる。漏れる吐息は紛れて消える。  
 
 今日も明日も、どこへ行けばいいか分からない日々を乗り越えて。  
 
 もう二度と戻らない日々を、探し見つけて、形を成した新しいカタチ。  
 
 今度こそ、溢れてくる熱いものは必要ない。  
 
 
 
 
 また、空を見上げる。  
 
 
 雲の隙間から、光を持たない月が見え隠れしていた―――――  
 
 
 
                    〈 fin 〉  
 
 

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