「うおぉぉぉ〜〜〜頭が〜〜頭が割れるように痛い〜〜〜〜」
「……あれだけカキ氷一気食いすれば当たり前だろ」
「お前な…あんなこと言われたら誰だって必死になるだろ……」
両手でこめかみを押さえながら唸る俺に向かって、紗枝が呆れ混じりな台詞をほざいて
くる。お前も煽った一人だろうが。
事の顛末を分かりやすく説明すると、だ。海の家の座敷席に座り込んでオーダーしてる
時に、真由ちゃんが唐突にこんなことを言ってくれたわけだ。
『こういう時って、年長者が全員分払うもんですよね』
間髪入れずに周りの皆も一斉に賛同しているところを見ると、どうやら裏で示し合わせ
ていたらしい。紗枝はともかく、初対面の俺にそんな厚かましいお願いをしてくる彼らの
将来が非常に心配だと僕は思うわけですよ。橋本君が俺を誘った時に気付くべきだったか。
「私何回か会ってますけど」
「バイト先で何度も会ってますけど」
うるせえんだよそこの狐とコウモリが。
しかし当然いきなりそんなこと言われても、当然納得できるわけ無く。猛烈に抗議した
結果、カキ氷早食い勝負の結果次第で俺が金を出すか否かを決めることになったわけだ。
向こうの代表は体育会系の橋本君。そしていざ尋常に勝負!!
はい、ちなみに結果は惨敗でした。
仕方無いだろ、俺は普段大食いじゃねーんだよ。さよなら俺の5250円。つーか他人の金
だからってお前ら食いすぎだこのクソ共。
そして負けた挙句に今の俺はカキ氷食った後に襲ってくる頭痛に悩まされているわけだ。
なんか海に来てからろくな目に遭ってない気がするぞ。
「大丈夫なの?」
「うー、なんか腹も痛くなってきた」
冷たいものを一気食いしたからか、下っ腹がシクシク痛み出す。ああ……我ながら本当
に情けない。
「ちとトイレ行ってくる……」
「……本当に大丈夫?」
「お前が気にする必要はねえよ。皆と遊びたかったんだろ?」
「う、うん。そうだけど……」
「だったらさっさと皆のところに行けって。お前また皆のこと待たせてるぞ」
やたらと心配面してくる紗枝を向こうに追いやる。俺が調子を取り戻さないと、帰りの
運転手がいなくなっちまうからな。
キュルルルルルッ
うををを……こいつはヤバイ。何でこんな時だけ活発に活動するんだ俺の内臓よ。いや
こんな時だからこそ活発に活動すんのか。あ、やばいヤバイやばい出口に近づいてやがる。
海のトイレってのは例外なく汚いもんだが背に腹は変えられんな……。
ちなみに結果から語ると、トイレから出てきてからも俺はまた腹が冷えるのが嫌だった
ので、これ以降も海に入らないことに決めた。マジで何しに来たんだろう俺。
せめて肌だけでも焼いて帰るか。虚しいことこの上ないが、また他にやること無いんだ
から仕方ない。
「大丈夫ッスか?」
「んー?」
「さっきまでトイレにこもりっきりだったみたいなんで。勝負相手としてはちょっと責任
も感じたんですけど」
「あー。とりあえず水着も無いし、海に入ることは諦めたよ」
午前に紗枝、兵太ときて午後は橋本君か。今日はよく人とお喋りする日だ。
「あっはっはっは、それに関しては運が悪かったとしか言うしかないッスね」
「我ながら馬鹿としか言いようがねぇけどな」
彼は午前中に話した二人と違って今日知り合ったばっかりだから、少し襟元を正して話を
しないといけないな。上着脱いでっから今上半身裸だけど。
「クラスだと紗枝はどんな感じなんだ?」
「……お、やっぱそういうの気になりますか」
別に気になるって程でもないんだが、俺と彼の共通点はそこしか無いからなぁ。紗枝の
話でもしないと間が持たないし、そんな雰囲気は最高に苦手なので話を振ってみる。
「人気者なんじゃないかな、男子と話してるところも結構見るし」
「相手が誰でも分け隔てなく付き合える奴だからな」
「あー、確かにそんな感じっスね」
思春期で恋愛経験の無い男子高校生っていうのは、女子に話しかけられただけで相手を
意識したり向こうが好意持ってくれてるんじゃないかとか都合のいい解釈をするもんだからな。
紗枝のことだから、勘違いされまくってんじゃねーかな。
「で、今日の六人は特に仲の良いグループなのか」
「そうですね。まあ、大抵は男と女で分かれてますけど比較的仲の良い方だと思いますよ。
で、夏にどこかで遊びたいって話になりまして」
「ふーん、それで海に行こうって話になったわけか」
「冗談で俺が海に行きたいって言ったのが発端になったんですけどね。今村さんには感謝
してます。でなきゃ今日こんなに長く遊べなかっただろうし」
「その点に関しては文字通り海より深く感謝してくれたまえ」
えーっと今の時間は……三時過半ってとこか。思ってたよりも便意との格闘で時間を
潰してしまっていたらしい。あと一時間半くらい経ったら帰るとするか、親御さんを心配
させるわけにもいかんからな。何かあったら責任取るのは当然年長者の俺になるわけだし。
「んで、俺からもちょっと聞きたいんですけど」
……なんか数時間前に兵太からもよく似た台詞を聞いた気がする。こうも色々聞かれる
となるとちょっとばかり辟易するな。まあ、ここは聞いといてやるか。
「どうして今日、車出してくれたんですか?」
「んー?」
「森本や兵太とは知り合いだったみたいッスけど、それでもなんつーか……」
「なかなか失礼な奴だね君も」
「あ……スイマセン」
「ああ、そんな謝らなくていいよ。そんなつもりで言ったんじゃねえんだ」
言われて、改めて考えてみる。何で俺は今日、運転手なんてしてやったんだろう。特に
親しくもないどころか、知り合いでもない奴らのために休日を潰してしまったのは馬鹿な
真似としか言えない。明日からまたバイト三昧の日々が待ってるというのにですよ、ええ。
「……平松に頼まれたからですか?」
「んー、そうだな」
頼まれたというか、半分以上脅しだったような気もするが。色々酷いこと言いながらも
俺もまだまだ紗枝には甘いらしい。これからは少し厳しく……って。
「おい、どうしたー?」
「……あ、いや……別に何も」
誤魔化し白い歯を見せる彼だが、今の引きつった表情は「別に」で済ませられるような
ものじゃない。つーことはつまり……。
「あーあー、勘違いすんなよ」
「…何がッスか?」
「アイツは俺にとって妹みたいなモンでね。昔から知り合いだしどっちも一人っ子だった
んで、やっぱお互いに甘えたり甘やかしたりはしちまうんだ。今回のこれだってそうさ。
だから、そんな目に見えて焦らなくてもいいぞ」
「え、いや。別に俺は……そんな焦ってなんか」
目が物凄い勢いで泳いでやがる。初心な男ってのは傍から見てると滑稽なもんだな。
推測が確信に変わる。
「ははは、バレバレだぜぇ?」
「え゛」
どもり始めた橋本君にニヤニヤしながら遠まわしに振ってみると、彼はビシリと石化し
てしまった。この反応見る限り、恋愛慣れしてないねこりゃ。結構モテそうに見えるけど、
部活に高校生活捧げるタイプだったか。
「まぁ紗枝のことだから、欠片も気付いて無いだろうな」
「〜〜〜〜〜〜」
そういやこいつは比較的紗枝の傍にいたり、気にかけてたりしたよな。俺が紗枝と話し
てた時も、声をかけたのは確か彼だった。青春の日々はぁ〜青いレモンの香りぃ〜〜か。
なんかケツが燃えるようにむず痒くなってきたぞ。
「ま、俺からは頑張れとしか言えんが。一度きりの青春を存分に謳歌したまえ」
それだけ言うと、あくびをかみ殺して橋本君を視界から外す。
俺の高校時代はというと、青春と言えるほど爽やかだったのは一年の一学期の時だけで、
あとはずっと性欲と煙草に乱れまみれた、教育委員会から確実にNG喰らいそうな日々
だったからなぁ。甘酸っぱい想いに苛まれ続ける彼が少しばかり羨ましかったりする。
「……どうも。俺、不安だったんですよ」
「俺と紗枝の関係がか」
「ええ。それで兵太にも協力してもらったりして、今村さんの気持ちを探らせてもらった
んです……どうもスイマセンでした」
そう言いながら、ぺこりと頭を下げる橋本君。なるほど、兵太のあの微妙な反応はそう
いうわけだったのか。少し納得。
「別に構わねーよ、誰だってそういうのは気になるもんだろ」
「……はぁ、どうも」
会った時は結構大人びてる奴って印象があったが、そうでもないな。
紗枝の好きな奴は結局分からずじまいになりそうだが、紗枝のことを好きな奴がいたって
ことは分かったから、これで良しとしよう。
……しっかし、紗枝を好きになる奴がいるとはねぇ。あんなちんちくりんのどこに惚れた
のやら。ちと気になったが流石にそこまでずけずけとは聞けない。
もう一度だけ、彼の横顔を盗み見てると、その顔は今までに無いスッキリとした表情を見せている。
…………
なーんか、面白くねえ。
頭で考えてるのと、いざその場面に立ち会うのとでは、やっぱ違うな。
まあなんだ、今日改めて思ったが、あいつの友人てのは似たり寄ったりだな。兵太といい
橋本君といい、扱いやすい奴が多い。類は友を呼ぶってやつか。
「真由ー! タオル返してよーー!!」
「……高校二年になってけろけろ○ろっぴのタオルはどうかと思うわ、紗枝」
………………約一名除いてだが。
「よし、んじゃそろそろ帰るぞー」
時刻も五時を過ぎ、紗枝達に向かって、帰り支度をさせるために声を張り上げる。結局、
俺はあれからさっきまでずーっと熟睡してしまった。今日はいつもより朝が早かったし、
普段から若干寝不足だからな。仕方ないといえば仕方ない。
水着忘れて海に入らなかったせいか、俺の帰り支度はほとんど無いと言ってよかった。
一人先にワンボックスカーの傍で待ち呆ける。いわし雲が広がった空は、ほんの少しだけ
オレンジ掛かり始めていた。
「本当に今日、何しに来たんだろうな俺……」
結局、海には入るどころか近づきもしなかった。ナンパは連れがたくさんいるから敢行
出来ず。水着鑑賞会は紗枝のせいで心半ばにして中断せざるを得なくなってしまった。
まあ、そんなに親しくも無い彼らと一緒に来たところで、あまり楽しめないということは
最初から分かってはいたんだが。それでもちょっとばかし納得できん。
「お待たせしましたー」
「準備OKです」
車体に寄りかかって水平線をなんとなく見つめていたら、兵太達が合流する。まだ全員
準備が終わってないのか、今来たのは兵太と真由ちゃんと小関君と、えーと……あと一人
彼女の名前は何だっけ。
「戸部さんです」
そうそれ、耳元でナイスアシスト真由ちゃん。
あと来てないのは紗枝と橋本君か。
…………
紗枝と、橋本君か。昨日の今日どころか、今日の今日だな。
「気になります?」
「あ?」
そのまま側にいた真由ちゃんが問いかけてくる。と言っても、その瞳にはからかいの色
は見て取ることは出来ない。むしろ俺に向けるには珍しい、真剣な眼差しだ。
「ああ、気になるね」
その言葉に反応して兵太もこっちに振り向くのが、視界の端に捉えられた。真由ちゃん
もピクリと身体を強張らせる。
「あいつらだけ随分遅いもんな」
言いながらパイプを咥え、今兵太達が来た、これから二人が来るだろう方向に視線を送る。
「……」
俺の答えが納得いかなかったのか、真由ちゃんは僅かに眉を顰めて溜息をつく。
「悪い、待たせたー!」
そこでようやく、まだ来ていなかった二人が連れ立って歩いてくる。紗枝はというと、
顔を俯き気にして橋本君の後ろをついて来ている。何にせよ、これでようやく全員揃ったか。
「よぅし、じゃあ帰るか」
「ああ……またあの恐怖の運転で帰るんですね」
「平和慣れしてしまった皆の生活を憂いてスリルを味あわせてやってんだ、感謝しろ」
「そんなスリルいらないです」
皆を代表して兵太が不平を口にする。行きの道中、交差点でドリフト使って曲がったの
が余程トラウマになっているらしい。
「素直に運転音痴だって認めてください」
「黙れや狐っ娘」
我慢できなくなったのか、今度は真由ちゃんが口を挟みこむ。相変わらず歯に衣着せぬ
物言いをする娘だな。
「私はれっきとした人間ですけど」
「歩いて帰るかい?」
「……」
観念したのか、彼女も短く溜息をつくと無言で車に乗り始める。それを皮切りに、皆
すごすごと乗り始める。まあ、ここから歩いて帰るとなると相当な時間を要するからな。
そこは妥協したみたいだ。
「全員乗りましたよ今村さん」
「そうか」
兵太のその言葉に俺も運転席に乗り込む。しょうがない、帰りは可能な限り安全運転で
帰ってやるとするか。俺もちょっと疲れてるし。
「じゃ行くぞー」
シートベルトを締め、扉が半ドアになってないのを確認すると、キーを鍵穴に差し込む。
ボロ車のせいか、二、三回捻ってようやくエンジンがかかった。
「あー楽しかった、また来たいね」
「今度はビーチボールとか、もっと遊ぶものも持って来たいな」
バックして駐車場を出始める頃には、雑談が始まる。来た時に比べ、俺を含めて皆肌が
黒々としている。やっぱ海ってのは肌が焼けるもんだな。
「何時くらいに着きます?」
「今は五時半か。混んでたら七時は過ぎるかもな」
兵太の質問に答えると同時に、車は左折し駐車場から道路へと出ていく。その際に、
助手席に座った紗枝の顔が目に入った。
「……」
後ろを向いて皆との会話に参加しているが、その表情が、ほんの少しだけ引きつってる
ことに気付く。頭の中で立てた推論が、少しばかり確信の方へと傾いた。
俺は一人会話にも参加せずに車を走らせる。何も言わないまま、車道を走る。法定速度
を守りながら、ゆっくりと家路に着く。
行きとはまるで別人のような、ペーパードライバーのような運転で――――
「それじゃお疲れー」
「ああ、またその内に遊ぼうぜー」
「じゃまた、バイト先でな」
「お疲れ様です」
家の近くまで来たということなので、兵太もここで降ろし別れの挨拶を済ませる。これ
で全員送り終えたな。あとは紗枝の家に帰って車置いて、家に帰って飯食って寝よう。
兵太の姿が見えなくなると、車を発進させる。
「崇兄……今日はごめんね」
「何がだ?」
「その…ほとんど楽しめてなかったみたいだし」
「何今更なこと言ってんだよ。そんな事は最初っから分かってたことだろうが」
「う、うん……」
おずおずとしながら頷く紗枝。やっぱり様子がおかしいな、帰りの道中もずっとこんな
感じだったし。
「侘びよりは礼を言ってもらいてぇな」
「え?」
「そっちのほうがお互いに気分良いだろ?」
「うん……ありがと、崇兄」
「おし」
まあ、その理由も分かってる。橋本君と交わした話と、二人だけ来るのが遅かったこと
を考えれば気付かないほうがどうかしている。
「……」
「……」
紗枝と二人きりになるのは珍しいことじゃない。というか、会う時はいつも二人きりだ。
それなのに、会話が続かない。聞こえてくるのは車のエンジン音ばっかりだ。こんなこと
は初めてなんじゃないかな。少なくとも、俺の記憶にはない。
「紗枝、なんか喋れ」
「え、うん」
居心地悪くなったので、何か話をするよう促してみる。
「き、今日はごめんね。車運転してもらうだけになって」
「それはさっき聞いたばっかりだろうが」
「う゛……」
どうやら俺と話してる場合じゃないみたいだなこりゃ。気持ちを整理するだけで精一杯
のようだ。信号に引っかかっている隙に、憂いを帯びている紗枝の横顔を覗き込む。
「遊び疲れて眠いんだったら、いいから寝とけ。家に着いたら起こしてやるから」
「……うん」
俺の言葉に、紗枝はおずおずと身を縮め始めた。寝やすい体勢を取ろうとしている。
ガリッ
思わずパイプを噛み締めてしまう。
知っていて誤魔化した。分かっているのに、気付かない振りをした。流石に、そこまで
紗枝の心に踏み入ることは、出来なかった。
……でも、なんなんだろうな。昼間、橋本君と話してたときはちょっとした違和感程度
のものだったのに。今は、何かもやついたものがずっと胸に引っかかってるような感覚に
襲われ続けている。なんだか、気分が悪い。
……
…………
馬鹿馬鹿しい。
コイツは俺の幼なじみで、妹みたいなもんだ。普段、紗枝が俺に懐いてくるのも、互い
に一人っ子で家がたまたま近かって、その幼い頃の環境から脱却できないだけだ。
ガリガリッ
俺の言ったことを素直に聞き入れてか、紗枝は隣で目をつぶり小さな寝息を立て始めて
いる。もっとも、それが本当に寝ているのか狸寝入りなのかまでは分からんが。
今の俺には、普段は聞き慣れたパイプを噛み締める音が自分の焦りを代弁してるように
も聞こえてしまう。それが、異常なほど不愉快だった。
ユサユサ
「紗枝、着いたぞ。起きろ」
「んぅ…」
ワンボックスカーを、朝来た時に置いてあった所定の位置で駐車してから紗枝の身体を
揺らして起こす。
「起きろー」
ぺちぺちと頬を叩いてみるが、反応はあるものの目を覚ます様子はない。おかしいな、
あれからそんなに時間が経ってないんだが。それとも本当にそこまで疲れてたのか?
「紗枝ー」
相変わらず起きない。何だよーふざけんなよー俺だってすぐ帰って寝たいんだよー。
そんな俺の気持ちを嘲笑うかのようにくーくー寝息をたてる紗枝。と、その時、口内に唾
でも溜まったのか、紗枝の喉がゴクリと動く。
「……」
ふにょっ
「ひゃあっ!」
「寝た振りしてんじゃねーよ」
過度なスキンシップをとって紗枝を起こす。恨みをこめて、今度は素早く服の中に手を
突っ込んで直に触ってやった。夏の薄着だから出来る早業だ。これからは是非俺のことを
達人と呼んで崇め奉ってくれ。
「なっ……なっ……!」
「いちいち手ぇ煩わせんな」
ちなみに紗枝が狸寝入りしてると分かったのは、喉が動いたから。人間眠ると唾の分泌
をしなくなるから、必然的に喉も動かなくなるわけだ。これからは是非俺のことを博士と
呼んで崇め奉ってくれ。
おっと、紗枝にまたどつかれてはたまらん。ここはさっさと逃げるとしよう……って、ん?
「……」
触った直後こそ驚いて身体を強張らせてたのに、またすぐに意気消沈してしまっている。
俺に特に何か言うわけでもなく、いそいそと車から降りてしまった。こいつは相当重症だな。
俺も車から降りると、扉を閉めて車のキーを紗枝の方へと放り投げる。いきなりのこと
に反応できなかったのか、紗枝はそれを地面に取り落としてしまう。
「あ……」
「ちゃんと取れよ」
「い、いきなり投げないでよ」
言い返してくる口調にも、普段の元気はない。
「運動神経が良いお前なら、普段だと取れてるはずだけどな」
「……」
言外に伝える。言いたいことがあるなら聞いてやる。そんな台詞を今の言葉に込める。
紗枝も黙り込んだってことは、俺の意図には気付いてるってことだ。
こういう時、幼なじみは楽でいい。一から十まで伝えなくても、相手はそれを汲み取れる。
聞かなくても、紗枝が何で悩んでるかはおおよそ分かっている。でもさっきも言ったが、
それをこちらから聞き出すつもりはない。こいつも一応思春期だし。
ただ、紗枝の口から言わせれば、話は別になるって俺自身が心のどこかで思ってるのか
もしれない。
「寝たフリまでしてたのは、構って欲しかったんだろ」
「……」
もちろん紗枝が俺の信号に気付けるなら、俺も紗枝の信号に気付けるわけで。
ついさっきのコイツの不可解な行動の真意は、これで間違ってないはずだ。その証拠に、
紗枝は沈黙を守り続けている。てことは訂正する必要がない、ズバリってことだよな。
「紗枝」
「……」
「何も言わないんなら、とっとと帰るけどよ」
この時。
どうしてか分からなかったが、俺は逸った。
目の前に佇んでいるコイツの悩み事がそう簡単に口に出せないことだっていうのは、
ちゃんと分かっていたはずなのにな。
「あ……待って」
焦って口を開いて、紗枝は俺を引き止める。しかし、そうは言ったものの視線は彷徨い、
手元は落ち着きを失っている。俺が帰る間際になり、いよいよ余裕がなくなってしまった
ようだ。
「なんだよ」
「あのね…実は……」
紗枝のことなのに、何故か俺が焦れて、そして焦っている。
「ハッシーに……橋本君に…告白……された」
もごもごしていた紗枝の口元が、とうとう言葉を紡いでしまう。
「……へぇ」
分かっていたはずの台詞なのに、何故か急に息苦しくなる。もしかしたら、心の準備が
出来てなかったのは俺のほうだったのか。
「どうしたら、いいのかな……」
とても嬉しがっているとは思えない口調だった。
「……お前はどう思ってるんだ? 橋本君のことは」
「好きなことは好きだけど…それは友達だからで、そういう対象として見たことは…」
「ふーん」
動揺している。多分生まれて初めて告白されたんだろうし、動揺しないほうがおかしいか。
それも仲の良い、友達だと思っていた奴に唐突に言われてしまったら、平常心を失うのも
仕方ないだろうよ。
「……どうしたらいいのかな」
視線が縋ってくる。俺が、苦手としている時の紗枝の表情だ。
「今言ったことをそのまま伝えればいいんじゃないのか?」
「で、でも! そんなことしたら……疎遠になっちゃうかもしれないし…」
紗枝のその言葉に、それまでポケットにしまっていたパイプを取り出し咥える。
「どっちにしろ」
今の状態のコイツに見つめられることに居た堪れなくなって、ついつい視線を逸らした。
「橋本君がお前に告白した時点で、もうお前らは元には戻れないと思うがな」
「……」
「慣れてないだろ、そういうことには」
「…そうかもしれないけど」
俺の言葉が納得出来るものじゃなかったのか、紗枝は口を僅かに尖らせる。
「まあ、橋本君もそれを分かった上でお前に告白したんだ。自分自身で考えて、ちゃんと
答えを見つけないとな」
「……」
「俺から言えることはそれだけだ」
紗枝は俺が答えるのを面倒臭がって突き放されたと思うかもしれないが、事実これ以上
言うことはない。誰の手も借りず、コイツ自身でどうこうしなきゃいけない問題だ。
「……崇兄は…崇兄はそれでもいいの?」
一瞬、後ろ髪を引っ張られた気がしたのは、なんだったんだろう。
「……いいも何も、お前の問題だろ。俺がどうこう口出ししていいことじゃない」
「……」
「紗枝、聞いてんのか」
「……」
「紗枝」
「…………分かった」
不承不承ながら、ようやく紗枝も頷いてくれた。「頷く」って言っていいのかどうか迷う
くらい、微かな動きだったが。
「じゃあおじさんもおばさんも買い物かなんかでいないみたいだし、これで帰るわ」
「うん…今日はありがと」
「それじゃな」
最後に軽く手を振って帰路につく。紗枝の表情はやっぱり最後まで晴れなかったけど、
こればっかりはどうしようもない。
しかしあれだよな、今日海に行った面子の中に紗枝の好きな奴がいるかと思ったんだが、
さっきの反応を見る限り橋本君では無さそうだし、兵太とも考えづらい。あと一人は論外
だろうし。もしかして俺の早とちりだったか。
クタクタで晩飯作るの面倒だからコンビニで飯買ってくか、家にも食材とか残ってるけど。
お茶は家にあるから、弁当だけ買っていこう。えーと財布財布…………ん? おかしい。
無い、無いな、どこにも無いぞ。げっ、もしかして車の中にでも忘れてきたのか。どっちに
しろ面倒な事態になっちまった。まあ、銀行のカードは家に置いてあるからそんなに支障
は無いが、紗枝にメール送って取っておいてもらうか。
『車の中に財布忘れたみたいだから、悪いけど回収しといてくれ』
よし、送信。これで次に会う時に持ってきてくれるだろう。悩んでるだろうけど、この
くらいはやってくれるだろうし。
日差しが強かった朝と違い、夜は随分と涼しく感じることが出来た。熱帯夜じゃないし
疲れてるし、今日はぐっすりと眠れそうだ。明日のバイトのための鋭気を、帰って存分に
養うとしよう。
河川敷横の歩道を抜け、ようやく家に到着する。鍵を開けて中に入ると、相変わらずの
ボロい部屋が俺を出迎える。あ、飯の準備しないといけないんだった。確かシーチキンの
缶が転がってたから、マヨネーズとポン酢を和えてご飯にぶっかけるか。さもしい晩飯だけど。
飯を炊く準備を終えてから、換気しようと窓を開ける。空気が澄んでいないのか、
なかなか星を見つけることが出来ない。見えるのはせいぜい一等星くらいだ。
昔はもっと綺麗な空だった気がするんだがなぁ。
でもそれだけに、もうすぐ満月を迎える月が夜空に映えているような気もする。
夜風が、吹き込んでくる。
紗枝からのメールは、返ってこなかった―――――