『崇兄!!』  
『なんだ紗枝か。どうした?』  
『……』  
『どーした?』  
『ひ……引っ越すって嘘だよね? 崇兄……隣からいなくなったりしないよね…?』  
『あぁ、そりゃ本当だよ』  
『え……』  
『親父達は離婚するし、二人とももう俺を養ってくれねーようだし。ここを出て一人暮らし  
するしか無いんだよ』  
『そ、そんな……』  
『この家も元々借家だしな、俺だけじゃなくて皆この家を……って、紗枝?』  
『……』  
『……どうした?』  
『だって…だって、あたし……』  
『あーもう、何泣きそうな顔してんだよ。会えなくなるわけじゃないんだし』  
『ぇ……?』  
『引っ越すたってここから二キロと離れてないんだぜ? お前が会いたいと思ったらすぐ  
会える距離なんだぞ』  
『……でも』  
『そんな顔すんなって』  
『……』  
 
わしゃわしゃわしゃわしゃ  
 
『あ……』  
『しょうがないんだって。俺だってお前が隣にいなくなるのはちょっとばかし寂しくなる  
けどさ。分かってくれ、な?』  
『……』  
 
『会いたくなったら、いつでも来ていいから。だから泣くな』  
『うぅ……』  
『…紗枝、頼むから』  
『……分かった。しょうが……ないもんね』  
『あぁ、ごめんな紗枝――――』  
 
 
ジリリリリリッ  
 
………………  
 
 ……うー? あー……朝か。何気に目覚まし時計の音ってのはガラスを引っかく音並み  
に不快だよな。そう感じるのは俺だけなのかもしれんが。まあ、朝っつってももう九時過ぎ  
なんだけどな。  
 
 
 しかしまた紗枝の夢か。俺が引っ越すって知った時の、紗枝のショックの受けっぷりは  
相当なモンだったからなぁ。あれから後も宥めるのに相当苦労した記憶がある。  
 あの頃の俺はまだ紗枝のことを甘やかしていて、半社会人として世間に揉まれていく内に  
アイツには「冷たくなった」だの「口が悪くなった」だの文句を言われるようになってしまったが。  
まあそんなこと知ったこっちゃない。  
 
「……」  
 
 目に涙を一杯に溜めたあの時のアイツの顔を思い出しながら、その時紗枝の頭をくしゃ  
くしゃに撫でてやった右の手の平をじっと覗き込む。そういや紗枝の頭を撫でたのも泣き  
顔を見たのも、あの時が最後だったような気がする。  
 昔は泣き虫だったし、その度に頭を撫でてあやしてたから、もう日常茶飯事と言えるくらい  
繰り返して来たことなんだけどな。  
 それをもうやらなくなったってことは、ちゃんと紗枝も成長してるってことか。  
 
 
 今日は水曜日、海に行った日から既に三日経過している。マジで何しに行ったのか今でも  
疑問を抱かずにはいられないが、それでもまだバイト三昧な日々よりはマシだった気がする。  
出勤時間までまだ少し余裕があるな、朝飯食ってくか。えーと確かこの辺に食パンが  
転がって……って、うおっ! ちょっとばかしカビが生えてやがる。しょうがねえ、生え  
てる箇所だけむしって食おう。  
 
 
『ハッシーに……橋本君に…告白……された』  
 
 
…………  
 夢に出てきてたせいか、この前の紗枝の台詞が、いきなりリフレインしてくる。というか、  
そのことを意図的に考えないようにしてたのに、脳が勝手に思い出させてくる。いやはや、  
朝から憂鬱な気分にさせてくれるぜまったく。  
 ちなみに、あの日から紗枝とは顔を合わせていないし連絡も取っていない。銀行カード  
を家に置いといたので、それでATMから金を下ろすことで当面の生活費は確保出来ている。  
しかしながら昨日と一昨日はバイトの勤務時間を長めに設定してシフトを提出してたので、  
未だに財布は取りに行けていない。  
 
 パンを頬張ってから出かける準備をし始める。バイト先では、支給されてる制服を着用  
することになってるから服装は別にいいとして、ボサボサの髪形や無精ヒゲはNGだから  
な。店長身嗜みにうるさいし。今日のバイトは確か5時までだったから、それが終わって  
から財布を取りに行くとしよう。また反応ないかもしれんが、一応その旨を紗枝にメール  
で伝えておく。  
 ……そういや、結局返信無かったな。今までアイツが俺のメールに反応しなかったこと  
なんて一度も無かったんだが。受信されてないのか気付いてないのかはたまた無視したのか。  
 
 まあ、実際に会ってみれば分かるか。んじゃ、そろそろ行くとすっか―――  
 
 
 
 
「ありがとうございましたー」  
 食器を片しながら、店を出て行く客の背中に声をかける。  
 ふーっ、今日ももうすぐ終わりか。相変わらず昼時は殺人的に忙しいなこの店は。席が  
空いても直後に新しい客が座るし。店長頼むからコスト削減とか言ってないでもっと人を  
雇ってください。どうせまたすぐ辞めていくんだろうけど。  
「ありがとうございましたー」  
 店内に残っていた僅かの客も、注文したメニューを食べ終わるとさっさと出て行って  
しまう。食器を片付け洗い終えてからカウンターを眺めてみても、人っ子一人座っていない。  
場所が良いこの店にしては珍しく人気が途絶えてしまった。あー、こんな状況になるなら  
少しだけ早く帰らせてくれてもいいだろうに。  
 
ウィーン  
 
 とか何とか言ってると客が来た。労働の神様はいつでも俺達を見張っているらしい。  
「いらっしゃいませ……って」  
「こんにちは」  
 いつもの如く、マニュアルに記載されている形だけの挨拶をしようと客の方を向いた時  
に、一瞬固まってしまった。その客が一週間前に顔を合わせた人物だったからだ。  
「真央ちゃんじゃねーか」  
「真由です」  
 他に客もいないし、今働いてるメンバーの中では俺が一番古参なので、思わず気を緩め  
てしまう。真面目な業務態度を取る奴らからの、痛々しい視線が背中に刺さってるような  
気もするが気にしない。  
「何しに来たの?」  
 
 前々からこの娘にここで働いていることは知られていたが、だからといって来店する  
ことは滅多にない。というか初めてだ。何の目的があって来たのか、ついつい聞いてしまう。  
「……」  
 黙って牛丼の食券を差し出される。おいおい普通の客として来たのかよ。華の女子高生  
がこんな時間にこんな所で一人で食事とは寂しいねぇ。  
 
「どこで何食べようが私の勝手です」  
「人の心を読むなよ……並一丁です」  
 
 わざわざ俺のいる場所から一番近い席に座る彼女に水を差し出す。そして数分後には、  
彼女の目の前には普通盛りの牛丼が置かれていた。  
「どうぞごゆっくりー」  
「……あまり接客態度良くないですよお兄さん」  
「ほっとけ、他に客いないし知り合いだし別にいいだろ」  
「後ろにいる人たちはそう思ってないみたいですけど」  
 紗枝とは別の意味で小うるさい娘だ。理知的なのはいいことだが、誰にでもそんな態度  
とってたら交友関係限られるぞ。この場合は、どう見ても俺に非がある、のかもしれんが。  
 
「ごちそうさま」  
「速ッ!」  
 
 何秒で食ってんだオイ。余りのスピードに後ろにいる奴らも目を丸くして驚いている。  
そのうち早食い選手権とかいう題目のテレビ番組で、この娘の姿を見る機会があるのかも  
しれない。  
「で、本題なんですけど。お兄さんはいつまで仕事ですか」  
「もう終わるよ。5時までだから」  
「そうですか、じゃあ聞きたいことがあるので外で待ってます」  
「聞きたいこと?」  
「外で待ってますね」  
 俺の言葉に耳を貸さず、牛丼屋から出て行くとは思えないくらい優雅に店を後にする。  
しかし聞きたいことってなんだ。別に昨日そんな話もしてないし紗枝のつてで知り合った  
娘だから、そんなに仲が良いわけでもない。ちょっとばかし考え込むが、これだと思える  
ようなことは見つからない。  
 
 時計を見ると、長針が丁度五時を指したところだった。自分自身を労う意味をこめて、  
フーッと息を吐く。それまで被っていた職場の帽子をゆっくりと脱いだ。  
「じゃあそろそろあがります、お先に」  
「「「お疲れ様でしたー」」」  
 帰りの挨拶を交わして、奥に引っ込む。さっさと着替えてとっとと用件済ませるとするか。  
紗枝の家に行って財布も回収しないといけないしな。  
 
「で、何なの聞きたいことって」  
 
 めでたく今日のお勤めを終え無罪放免になり、すぐそばで待ち構えていた真由ちゃんを  
隣に帰路につく。余計な話をして無駄に話を長くしたくなかったんで、いきなり本題から入った。  
「この前、私が車を降りた後に紗枝と何かあったんですか?」  
「? なんでそんなこと聞くんだ?」  
「おっと〜、会話が成り立たないアホが一人「それ以上先は言わんでいい」」  
 先に答えろってか。いくらなんでもその台詞が出てくるとは思んかったぞ。  
 
「あるにはあったよ。つっても俺は第三者的立場な問題だけどな」   
「どんなことですか」  
「それは俺に聞くことじゃないだろ」  
「……」  
「紗枝の問題なんだから本人に聞いとけ。親友ならそのくらい言ってくれるだろ」  
 続けざまに質問してくる彼女を制するように釘を刺す。なんか普段の真由ちゃんと違う  
気がするな。普段はもっとこう飄々としているのに、どことなく必死な様子が見て取れる。  
「で、だ。さっきの俺の質問にも答えてくんねーかな」  
 わざわざ俺の職場にまで訪れたわけだからな。今まではこんなこと一度も無かったし。  
なんか問題でもあったのかね。  
 
「実は…今日は紗枝と遊ぶ約束をしてたんですけど、ドタキャンされまして」  
「若いねぇ、この前あれだけ遊んだのに元気だね」  
 
「茶化さないで下さい。それで、どうしたのか連絡してみたんですけど、返事がこれだけ  
なんです」  
 そういうと真由ちゃんは自分の携帯電話を開いて、カコカコとボタンを数回押してから  
液晶画面を俺に見せ付ける。そこには、紗枝からの受信メールのメッセージが表示されていた。  
 
 
『ゴメン、行けなくなった』  
 
 
「ふーん……おかしいね」  
「だからちょっと心配になって」  
 それまでお互い前に向けていた顔を、初めて合わせる。  
 
 俺といる時はがさつで凶暴な面を前面に押し出してくる紗枝だが、本来は友達想いな奴  
なんで、他人が不快になるような行動をとることはそうそうない。だから、友達との約束  
を破った挙句、その理由も明かさずにつっけんどんな返事をしてくるのはどうにも不自然  
だった。それに本来の紗枝なら、行けなくなった時点で真由ちゃんに連絡するはずだしなぁ。  
 
「でもそれを聞く為だけに、わざわざ俺の職場にまで来るなんて君も中々友達想いだね」  
「元々このあたりで待ち合わせして遊ぶ約束してましたから。……お兄さんから考えて、  
さっき言ってた昨日あったことっていうのは、心当たりになりますか?」  
 度重なる茶化しにもしれっと言葉を返す真由ちゃんだが、普段より随分と口数が多い。  
やっぱり紗枝のことが心配みたいだな。確か彼女と紗枝は中学からの友人だった筈だが、  
その時から数えても初めての事態なんだろう。  
「……さてね」  
 そんな様子に、俺もうっかり口を滑らせてしまう。  
「……そうですか」  
 彼女の表情が僅かに翳った。理由を聞きたいけど俺は口を割らないし、今の紗枝からは  
聞き出しにくいしで、どうすればいいか分からないみたいだ。  
 
「心配なら一緒に来るか? 今から紗枝の家に忘れてきた財布を取りに行くんだけどよ」  
 今まで見たこと無い真由ちゃんの様子を見かねて誘ってみる。  
「やめておきます」  
 一秒で振られた。なんなんだこの超反応。  
「お兄さんが行くなら、邪魔なだけですよ」  
「んー?」  
「それに、他にも用事がありますんで。それじゃ」  
 わざとなのかどうかは分からんが、反論する隙も与えず俺の言葉を遮って理路整然と自分の  
意見を述べると、彼女は身を翻して雑踏の中へ姿を消していく。  
 
 結局俺にこのことを伝えたかったってことなのかね。ご苦労様なことで。  
   
 じゃあ俺もさっさと財布を取りに行くか。未だに紗枝から返事が無いから回収されてる  
のか、つーかそもそも本当に車の中に忘れたのかどうかも分からんのだが。……今更不安  
になってきた。実は海に忘れてきたとかいうオチだったらどうしよう。  
 まあいい、とりあえず行ってみりゃ分かるだろ。それに真由ちゃんが言ってたように、  
紗枝の様子も気になってきた。あれから三日も経ってるから未だにあのことで悩んでると  
は考えにくいが、紗枝のことだからな。友達思いなのが災いして、やっぱりまだまだ答え  
を出せてないかもしれんし。  
 
 
……まあ、そんなことを今から考えてもどうしようもないか。  
さっさと行って財布回収して紗枝の様子見てくるか―――  
 
 
 
 
 
 
「ちっ……」  
 
 ここにもいない。あの野郎、一体どこに行きやがった。  
 
 アイツの家に行って出迎えてくれたおばさんから「回収しといたよ」と財布を渡された  
から、そっちの方はまあOKだとして、だ。  
 もう一つの、紗枝の様子を見るという目的は、アイツが外出して留守ということを伝えられ、  
達成されるのは先送りとなった。  
 それからは、こうして近所を見て回っている。じゃあ家で待ってりゃいい話だったんだが、  
どうにも落ち着かずこうしてあちこちを探してしまっている。が、その姿は中々見つからない。  
太陽は既に地平線の向こうへ半分以上隠れてしまっていて、俺に時間の経過を遠まわしに  
伝えてくる。  
 
「……」  
 
 いねーな。  
 
 携帯電話の電源は切られているようで、何度かけても通じない。あいつ、明らかに俺の  
こと避けてるよな。そんなにこの前のことで行き詰ってるんだろうか。とりあえず一回、  
紗枝の家に戻ってみるか。  
そう考え、俺は河川敷横の歩道を通って来た道を戻り始める。  
 
 
「ん?」  
 
 
 と、その時、前方に見慣れた女の子の後ろ姿が視界に入った。あれは……どう見ても紗枝  
だよな。行く当てもなさそうにトボトボと歩いている。懸命に探して見つからないのに、  
見つけられた時はあっさりだったらそれはそれで腹立たしいもんがあるな、ちきしょう。  
 
 
「紗枝」  
「!! た、崇兄……」  
 
 
 俺が声をかけると、弾かれたように紗枝はこっちを振り向く。その表情が、随分とバツ  
が悪そうに見えたのは、多分気のせいじゃない。  
「探したぞ。ちょっと話があるからこっち来い」  
「え? ええ?」  
 紗枝の腕をがっしりと掴むと、河川敷の坂に生えた雑草を、ザッシザッシと踏みしめて  
河岸まで降りて行く。歩道にいると他の通行人の邪魔になるし、コイツの家にまで戻ると  
おばさんに聞かれるかもしれんからな。誰にも見られたくないし誰にも聞かれたくない。  
だから川の傍へと移動することにした。坂を下りきると、適当な場所に腰を下ろす。  
 
 
「一体何?」  
 
 強引に連れてこられ、ちょっとばかし腹が立ったみたいだな。言葉尻にトゲを生やして  
やがる。それでも観念したのか俺の隣に腰を降ろしたので、俺も紗枝の腕から手を離す。  
セクハラ対策のためか、体操座りで身体を隠して俺の顔を見つめてくる。  
「そりゃ俺の台詞だ。今日お前の家に行くっつってたのに何で留守にしてんだよ」  
「……ぅ」  
「真由ちゃんも約束すっぽかされて困ってたぞ?」  
「……真由に会ったの?」  
「偶然な」  
 
 余計なことを言って面倒な事態になるのは御免なので、そこら辺は捏造しておく。太陽  
は地平線に隠れてしまっていて、ほとんど見えなくなっている。紫とオレンジの絵の具が  
入り混じったような、奇妙な色が空を彩っている。  
 もう黄昏時か、随分長い間紗枝のこと探してたんだな、俺。  
「……悪かったと思ってるけどさ…」  
(それどころじゃなかったってか)  
 表情から、その先の言葉を読み取る。もちろん、口には出さずに。  
「……」  
 口調はずーっと歯切れが悪い。三日前の紗枝とまるで変化がないな。……ってことは、  
まだ悩んでるってことか。  
 
それまで河川の方に向けていた視線を、隣の紗枝の方に向ける。するとそれまで俺の横  
顔を見ていた紗枝が、慌てて視線を逸らしてしまった。  
 
 今度は俺が紗枝の横顔を覗き込む。微かに地平線の上に残っていた太陽の光が、逆光と  
なって見え辛かったけど。その目の下には、明らかにクマみたいなものが出来ている。  
 
 
「崇兄こそ、なんでそんなに……あたしに会おうとしてたんだよ」  
 
 
 俺の質問には答えたくないのか、それとも答えられないのか。口元を自分の膝で隠しな  
がら、紗枝は消え入りそうな低い声で呟いた。  
「財布取りに来るだけなら、あたしと顔合わす必要なんて無いはずだろ」  
「おいおい、今更お前に会うのに理由なんかいるのか」  
 敢えて、軽くおどけるようにして口調で話しかける。  
「……」  
 反応はイマイチだった。少しでも紗枝の気持ちが軽くなればと思ってやってみたんだが、  
あまり効果は無かったみたいだ。というかゼロだな。  
   
「この前別れてから、ちょっとばかし気になってな。メールも返信してこないし、なんか  
俺から避けようとしてるみたいじゃねえか」  
「偶然外に出る用事があっただけだよ。そんなおかしいことじゃないだろ」  
「真由ちゃんの約束をすっぽかして、俺が会いに行くってメールで伝えたら出掛けていた  
お前が言っても説得力無いと思うけどな」  
 
「……ゴメン」  
 
 俺の追及に苛立たしげに謝る。  
 そんなに橋本君との関係が変わってしまうのが怖いのかね。初めて告白されたとはいえ、  
ここまで塞ぎこんでしまう紗枝を見てるとそれだけが理由じゃないような気もしてくる。  
 別人みたいっていうか、別人だ。  
「……ねえ、崇兄…」  
「ん?」  
「普段は意地悪してくるくせに、なんで今日はそんなに心配してくれるの…?」  
   
 
 …………  
 
 
「…あぁ」  
「……」  
 
 
「…俺が、お前を心配するのが、そんなにおかしなことか?」  
 
 
 紗枝に聞かれてから初めて気付いた。  
 
 どうしてここまで心配するのか、自分でも分からなかった。  
適当な理由を思いつくことも出来ず、冗談を言う余裕もなく、慎重に言葉を選んで  
誤魔化してしまう。  
「……」  
   
   
 よそよそしい。  
 
 この前の帰りの車の中と同じだ。いつもの俺達と何かが違う。  
 
 落ち着きを取り戻そうとして、胡坐をかいた足を組みなおす。そしてまたポケットから  
パイプを取り出して、いつものように咥えこむ。  
「……いつもはそんなこと言わないくせに」  
「そう拗ねるなって」  
「拗ねてなんか……」  
「お前の考えてることくらい分かるって」  
 幼なじみってのは友達のようで友達じゃない。当然、俺と紗枝も例外じゃない。いくら  
本当の兄妹のようにお互いが思っていても、それは所詮思い込みでしかない。  
 
 
「何年の付き合いだと思ってんだよ」  
 それでも付き合いが長ければ、ある程度は相手の心を見透かすことは出来る。  
 
 
 
 
「付き合い……?」  
 俺はこの時まで、ずっとそう思っていた。思い込んでいた。  
 
 
 
 
 いつの間にか自分の顔を腕と膝で覆っていた紗枝が、俺が何気なく口にした言葉に敏感  
に反応する。前を向いたまま顔を上げるが、垂れ下がった前髪が邪魔をして、目元を窺う  
ことが出来ない。  
 
 
 
 
「崇兄があたしを心配するのは…ただ、付き合いが長いからなの……?」  
 
 
 
 
「……紗枝?」  
 今、声が震えてなかったか。ちょっと心配になって、あぐらを崩して目線を向ける。  
「付き合いが長いから…それだけで……今まであたしと話してたの……?」  
「何わけの分かんねえことを言ってんだよ。ちょっと落ち着け」  
 震えはやがて、声だけにとどまらなくなる。顔や腕も小刻みに動き出している。  
「その、言葉が悪かった。なんつーかその、一人で抱え込むなって言いたかっただけで」  
 最初は鬱陶しく思ってしまったが、声を耳にしてそんな印象は吹っ飛んでしまう。  
 
「……あの時……肝心な時には冷たかったくせに……」  
 
 声が涙ぐんでる。嗚咽も、混じり始める。  
 
 
 いつものようにパニックを起こしてるような感じでもない。紗枝が、こちらに向き直る。  
「――っ」   
 キッと振り向かれたその表情に、分かっていても思わず息を呑んだ。  
 
 
 泣いて、やがる。  
 
 
「助けて欲しい時に助けてくれなかったのに……なのに…それなのに……! 」  
 
 今までコイツの隣にいながら、俺は色んな表情の紗枝を見てきた。喜んだ顔、怒った顔、  
悲しむ顔、楽しそうな顔。その中には、無くしてしまった記憶もあるかもしれないけど。  
そのほとんどは、俺の過去の想い出として頭の中に残っている。  
 
「こういう時だけ……兄貴面して…!」  
 だけど、今顔を上げた紗枝の顔は。  
 
 
 
「優しくなんてしないでよぉ!!」  
 
 
 
 ――――俺でさえ、一度も見たことのない表情だった。  
 
 
 
「……急に…どうしたんだ?」  
 なんだ、唐突に喉が渇いていく。水が欲しい。口の奥に、何かが詰まってるみたいだ。  
「何が…何があたしのことは分かってるだよ…ずっと……ずっと気付いてくれなかったくせに!」  
 息が苦しくなってきた。鼓動が速くなるのが、胸に手を当てなくても分かる。その余りの  
音の大きさに、心臓が食道あたりに移動してるんじゃないかと本気で思いかける。  
 
「告白されたことを言った時に……止めて欲しかったのに…」  
 ああ、ちょっと待て。それ以上、言うな。  
 
「あの時……"断れ"って、そう言って欲しかったのに!」  
 とりあえず落ち着け。気持ち抑えろって。  
 
「あたしがこんな性格になったのも…ずっと髪形変えてないのも……崇兄が言ってくれたから  
なんだよ……? 明るくて元気な娘が好きだからって……この髪形が凄く似合ってるから  
って……そうあたしに言ってくれたのは、全部…全部崇兄じゃないか……」  
 紗枝の両方の目の淵に溜まった涙が雫となって、ぽろぽろとこぼれ出す。  
 
 
「あたしにも…ずっと好きだった人がいるから……だからこんなに辛いんじゃないか……!」  
 
 
 頼む、それ以上言わないでくれ。  
そこから先をお前が言っちまったら、崩れちまうだろ。今まで築き上げてきた、俺とお前の関係が。  
俺はそれを崩して欲しくないんだ。  
 
 お前には俺の、妹でいて欲しいんだ―――  
 
 
 
 
 
 
 
「あたしは…あたしは崇兄のことが……ずっと、ずっと好きなんだよ……?」  
 
 
 
 
 
「……!」  
 
 心臓が、凍った。  
 
   
 
 上の歩道に自転車が通りベルが鳴る音が聞こえる。  
 
 さっきから緩やかに風が吹いている。  
 
 子供の笑い声がひどく遠くから届いてくる。  
 
 だけど、一瞬。それら全てが、一瞬ピタリと止んだようだった。  
 
 
 いつの間にかパイプを落としてしまっていたことに気付けても、俺はそれを拾うことが  
できないでいた―――  
 
 
 

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