俺が高校に入学して間もない頃、当時の友人達によく言われていたことがある。
『いいよなーお前は、あんな可愛い女の子が知り合いでさ。中学生だって?』
『しかも幼なじみなんだろ? あんな娘とずっと一緒に育ってきたのか羨ましいねぇ』
『保険がある奴は楽でいいな。というか俺だったら喜んであの娘で手を打つけど』
たまたま一緒になった紗枝と帰るところを目撃されてから、友人達に毎日のようにそう
やってからかわれ続けていた。その頃の俺は、まだ異性と付き合ったことなんて無かったし、
後の最初の彼女に片思いしていた頃だったから、そんな風に茶化されても「別になんとも
思ってない」とか「アイツは妹みたいなもんだ」とか、ありきたりな言い訳をすることで
精一杯だった。もちろん言うまでもなく、その時は顔が熱くなってたから、俺の顔色を見た
奴らには余計にはやしたてられてたわけだが。
でも、それでもその時から今まで、微塵も思わなかったことがある。
それは、紗枝が俺のことを異性として意識しているってことだ。
俺にとって、紗枝は妹みたいなもんだから。紗枝は俺のことを兄として見てくれている
だろうという先入観があったからかなのもしれない。やがて恋愛経験を積んでいくうちに、
そういった思春期特有の過剰な考えには段々囚われなくなっていった。何故か、逆に紗枝
もそんな考えに囚われるかもしれない、なんてことは最初から念頭に無かった。
「告白されただけで…こんなに悩むわけないだろ…。あたしにも…ずっと好きだった人
がいるからこんなに辛いんじゃないか……」
なのに俺は今、思い知らされようとしている。ずっと紗枝が隠し続けてきた本心を、
本人から明かされようとしている。
そしてしばらくの間、しゃくりを上げ続けた後に。紗枝はとうとう、その先の気持ちを
形にするために、たどたどしく口を動かした。
「あたしは…あたしは崇兄のことが……ずっと、ずっと好きなんだよ……?」
ああ、ちょっと待て。やっぱお前はパニくってるだけなんだよ。少しは落ち着けって。
よく考えてみろ。俺とお前は兄妹みたいな関係だっただろ。俺が昔そういうこと言った時、
お前も笑って喜んでたじゃねえか。こんな状況で、そんな冗談言うなよ。
「……ぐすっ……ひっく…」
全てを言い終えると、紗枝はまた嗚咽をあげて顔を伏せる。
……おかしいだろ、こんなの。
今まで、告白をしたこともされたこともある。そりゃ昔はありえないくらい緊張してた
けど、今はとっくに慣れて耐性だって出来ている。
なのに、なんで今更息苦しくなる?
なんで、こんなに視界が揺れ動かなきゃいけない?
なんで、ここまで動揺しなきゃいけねえんだ?
今、目の前にいるのが。相手が、紗枝だからか?
だったら。尚更おかしいだろ、こんなの。
「いつから……なんだ?」
勝手に口が動く。
「…?」
「いつから…俺のこと好きだったんだ?」
ああ、俺もちょっと待て。今俺が聞きたいことや言いたいことは、そういうことじゃないだろ。
「そんなの…分かんないよぉ……」
「分かんない……?」
表情だけじゃなく、紗枝の声にまで涙が滲んだ。
喉が、また酷く痛い。頭で考えていることと、口に出して言いたいことが食い違って
しまうなんて、初めてのことだった。
「…最初から……昔から……もう…ずっと……」
「そう…なのか」
途中で紡げなくなってしまった紗枝の言葉を、汲み取ってやる。
一時的な気の迷い……じゃないんだな。思春期どころの話じゃない。自分の年齢の分だけ、
こいつはずっと俺のこと―――
「……ねえ……崇兄…」
また、紗枝の口が震える。
「こたえて……」
その声もまた、俺が今まで聞いたことのない声色で。
「お願い……こたえて…」
紗枝が縋るように俺の顔を覗き込んでくる。地面についていた俺の手の甲に、自分の手
を重ね合わせながら問い詰めてようとしてくる。
「……」
答えが、出せない。
同時に、強烈に自分を責め立てずにはいられなくなる。
紗枝に真っ正面から気持ちをぶつけられておきながら、今俺は逃げ出そうとしている。
あの時「自分だけで答えを見つけ出せ」と紗枝に言っておきながら、自分は見つけられない
でいる。
俺自身が、答えを返すことで、紗枝との関係が変わってしまうことを恐れている。
「崇兄お願い……こたえて…!」
紗枝の口調が弱々しいそれまでのものとは一転、普段のように鋭くなる。それでも、
その目元には一杯の涙が溜まったままだ。さっきから、あれだけ泣いてるっていうのに。
「紗枝……」
答えないといけないのか。
応えないといけないのか。
そう考えると、どうしても口を動かすことを躊躇ってしまった。
「……」
空いていた手を、おもむろにゆっくりと動かす。
そして迷った挙句に俺がとった苦し紛れの行動は、偶然の産物になった。
わしゃわしゃ
「あ…っ」
口で言えないなら、態度で表すしかない。無意識に、そんな考えがあったんだろうか。
擦り寄ってきた紗枝の頭を二回三回、たどたどしくゆっくりと撫でる。
「……」
そこでようやく、俺は自分の本心にようやく気付いた。気付かされた。
少し、懐かしかった。こうしてやるのは俺が引っ越して以来だから、二年ぶりになるのかな。
撫で終えた手を元の位置に戻すと、揺れ動く紗枝の瞳をじっと見つめ返す。
「……崇兄…?」
「……」
俺の行動の意図が掴めなかったのか、くすぐったそうにしていたその顔に動揺が広がる。
でも、コイツもきっと覚えてるはずだ。俺がどういう時にコイツの頭を撫でてやってたか。
顔を少しだけ伏せると、動揺した表情のまま考え込む。過去に頭を撫でられた記憶と、
今のこの状況を必死に繋ぎ合わせようとしている。
昔は、泣きながら俺に駆け寄ってくる度に頭を撫でてやっていた。泣き止もうとしない
こいつを、なんとかしてあやそうしてやっていた。
びーびー泣き喚いて俺の服を掴んでくる紗枝に、困り顔でかまい続ける俺。その様子を
見て、紗枝の頭を撫でる俺の様子を目にした母親や紗枝のおばちゃんなんかには、よく言われた。
『なんかもう、本当の兄妹みたいだね』ってな。
「…まさか……」
気付いた、か。
……ごめんな紗枝。お前の気持ちを知って、嬉しくないわけでも迷惑なわけでもねえんだ。
『うわああああん! まってよぉーー!!』
俺に物心がついた時の一番古い記憶は、赤ん坊のお前を見つめてるところなんだぜ。
『見て見て、たかにぃとおなじ学校のせーふくだよ!』
お前だけじゃない。俺だって、お前がずっと隣にいてくれて良かったと思ってる。
『ひ……引っ越すって嘘だよね? 崇兄……隣からいなくなったりしないよね?』
あの時だって、本当は引っ越したくなんかなかったさ。
『崇兄開けろッ! いるのは分かってるんだぞ!!』
……でも、駄目なんだよ。
『約束だよ? 絶対だからね!』
どんなにお前が俺のことを好きでいてくれても、それに応えることはできない。
『なっ、なんでそんなに点数が低いんだよ!』
俺にとって、お前がどういう存在かっていうのは、あの頃からずっと変わってないんだ。
『……崇兄は…崇兄はそれでもいいの?』
だって……しょうがないだろ?
――――――――お前は、俺の昔からの「幼なじみ」で、「妹」なんだから。
だから、頭を撫でたのかもな。縋って泣きついてくる妹を宥めるように。お互いの立場
を再認識させる意味もこめて、あの頃を思い出させるように。
撫でた時、紗枝は嫌がろうとしなかった。猫のように顔をむず痒そうに変えると、ほんの
少し安心したような表情を浮かべていた。
その顔は、もう既に俺に脳裏に強く焼きついてしまってる。そしてその表情を、俺は今
絶望の淵に叩き落としちまったわけだ。
そう思うと、今更外面を取り澄ますことなんて出来るわけなかった。
「……悪い」
うなだれたまま、今度は耳鳴りを覚える。顔の周りの空気も、急に張り詰めた。
「…や……やだ……」
まるで油が切れかけた、ゼンマイ仕掛けの人形のようだった。
ぎこちなくゆっくりと、紗枝は首を左右にふるふると振り始める。あまりの悲しさから
なのか、紗枝の瞳が狂ってしまったかのように色を失った。
「…やだ……やだぁ……」
壊れてしまったかのように同じことばかりを呟き、幼児のように駄々をこね続ける。
「紗枝……」
分かってる。今、紗枝を酷く打ちのめしているのは俺だ。
だけど、しょうがない。この問いかけに嘘なんかつけない。もし嘘をついてしまっても、
紗枝が余計に傷つくだけだ。
「ゴメンな…分かってくれ」
「……ぅ…」
紗枝の泣き顔を、正面から見つめるのは辛かった。
だけど、それでも。もうこいつの頭を撫でるわけにはいかなかった。
「…ぅ…ぅぅ…」
また、俯いてしまう。この場だけで、この様子を見るのはもう何度目になるのだろう。
「……っ」
うな垂れ、唇を噛み締めているんだろうか。
地面をつく両手は微かに震えていて。口も真一文字に結んでいるんだろうか。必死に、
泣くまいとして耐えているようだった。
太陽は、もう完全に地平線の下へ隠れてしまっていた。
俺も、紗枝も。何も言わない。ものを言うのは風に揺らされた草木だけ。そんな状態が、幾時も続く。
やがて。
「わかった……」
また、一瞬だけ鼓動が止まる。
顔を俺に見せないまま、紗枝は土を払いながらよろよろと立ち上がる。もう、俺の方に
振り向くことはなかった。
「……それが…崇兄の"答え"なんだね…?」
涙が混じったままだった。それでも、これまでとは一転、口調は毅然としていた。
「ああ」
「……」
迷うことなく同意する。また紗枝の表情が歪んだような気がして、余計な傷をつけた
迂闊な自分の言動を、少なからず悔やんだ。
「……じゃああたし…ハッシーと付き合うことにする……」
「……!」
息が、止まる。
「ハッシーなら…崇兄と違っていつでも優しくしてくれるだろうし、崇兄と違ってあたしを
酷い目に遭わせたりセクハラしたりしないから」
紗枝に初めて、悪意をぶつけられる。
「あたし一人じゃ、絶対立ち直れそうにもないから」
冷たい、声だと思った。
「こんな気持ちで付き合うのは、悪いと思うけど。それでもいつか、ハッシーのこと崇兄より
好きになれると思うから」
俺の知ってる紗枝の姿を、俺自身で砕いてしまったことを痛烈に思い知らされる。
「あたしは、そんなに強く…ないから……」
……当然の、選択だ。
紗枝の俺への気持ちはもしかしたら、コイツの中で最も根っこにあるものかもしれなかったんだから。
そしてそれを今、俺が全て引っこ抜いてしまったんだから。
「だから……ハッシーと付き合う」
「そうか」
精一杯だった。それ以上何も言えなかった。
ビュウウウッ
夏だってのに、随分強く冷たい風が吹く。顔を歪めたくなるくらいに、体のどこかが
ひどく痛む。
「……」
「……」
ようやく、パイプを拾い上げる。
「じゃあ、あたし帰るから」
「……ああ」
俺の言葉にまた少し俯くと、紗枝は坂に向かって歩き出す。迷っている様子は、微塵も
感じられなかった。背後から耳に届く草を踏みしめる音は、砂利の混じった土を踏みしめる
ものへと変わり、やがて聞こえなくなっていく。
「……」
別れの言葉は、言えなかった。
終わっちまった。紗枝との関係が。
随分、あっけないもんだな。17年間、ずっと一緒だったのに。終わる時は一瞬だった。
遅れて俺も立ち上がる。紗枝が立ち去ってから、何分くらい経ったんだったろうか。
紗枝の頭を撫でてから見つめ続けていた川から、ようやく視線を離して身を翻す。ここに
来た時と比べて、随分と足が重いような気がした。
坂を上がりきったところで、またパイプを取り落とす。何度目かの同じ失態に、流石に
苛立ちが募った。
「……」
それを拾おうとして、パイプが落ちたすぐ傍に100円ライターが落ちてることに気付く。
中の液体はまだ充分に残っている。パイプと一緒に拾い上げて何となく火を付けてみる。
シュボッ
予想していた通り、そのライターは小さな小さな火を灯した。まだ緩やかに吹き続く風に
揺らめきながらも、頼りないオレンジ色の光を灯し続ける。
「……」
それを見て、拾い上げたばかりのパイプを再び地面へと落とす。そして。
パキリッ
愛着さえ湧きかけていたパイプを、迷うことなく足で踏み砕いた。軽い破壊音が、靴の下
から耳へと届く。代わりに手に入れたライターを持ったまま、すぐ傍に佇んでいる煙草の
自販機のところまで移動し立ち止まる。
ポケットの中に残っていた硬貨を入れ、適当な銘柄を選びボタンを押す。ガタンッという
音と共に、中から煙草の箱が一つ吐き出された。
「……ハッ」
手に持った煙草の箱を見つめながら、自虐の笑みがこぼれた。紗枝にあんなことを言って
おきながら、結局逃げるような答え方しか出来なかった。笑わずにはいられなかった。
箱の端を叩いて中身を一本取り出すと、口に咥えて煙草に火をつける。そのまま一気に
思い切り息を吸い込むと、肺の中に大量の煙が進入してくる。
「ゲホッ! ゲホッゲホッ!!」
久しぶりの感覚に、思わずむせてしまった。息を落ち着かせてから、再び煙を吸い込む。
溜息をつくようにフーッとゆっくり息を吐くと、白く濁った気体が空気に紛れて消えていく。
久しぶりの感覚に、思わずむせてしまった。息を落ち着かせてから、再び煙を吸い込む。
溜息をつくようにフーッとゆっくり息を吐くと、白く濁った気体が空気に紛れて消えていく。
今まで我慢してきたのに、突然吸いたくなった。そういや吸い始めたきっかけは、最初
の彼女に振られた辛さをどうにかして誤魔化して、紛らわす為だったっけな。その理由が
童貞臭くて、自分の行動に酔ってるようで、トラウマにもなりかけてた筈なんだが。
「……」
紗枝がいなくなるこれからの生活に、光を見つけられないことを誤魔化したいんだろうか、俺は。
家路につきながら、そんなことを考えながら上空を見上げる。紫とオレンジの奇妙な色
は既に消え失せていて、そこにはもう夜空が広がっている。殺風景な雰囲気をぶち壊す、
遠くのビル街の明かりが、慎ましやかな星の光を消し去ろうとしているようにも思えた。
唐突に紗枝の顔が浮かんでくる。それと同時に、アイツと作り上げてきた思い出の欠片
が空のあちこちへと散らばっていく。それを必死にかき集めるべきなのか、いっそのこと、
ここで捨て去るべきなのか、もう俺には分からなくなっていた。ついさっきまではとても
大切なものだったはずなのに、今はそれらに対する執着心が一向に湧いてこない。
風が冷たい。今年の夏は珍しく残暑が無さそうだ。ちびた煙草を路上に投げ捨てると、
舌打ちしながら乱暴気味にポケットの中へ手を突っ込む。紗枝の顔を思い浮かべた時の、
痛いくらいの胸の疼きを、それこそ誤魔化そうとする為に。
寒さから逃げるように、背中を丸めて家路につく。
視界は、最後まで歪むことはなかった――――