あれからもう一ヶ月くらい経つのかな。紗枝がいなくなった生活を送るようになってから。  
 もちろん最初は慣れなかった。幼い頃から当たり前のようにいた存在が、いなくなって  
しまったんだからな。  
 かといって、今ではもう慣れてしまったかというと、そういうわけでもない。  
 
 紗枝のいない生活を当たり前のように受け入れることは、まだまだ出来てない。  
 慣れてしまったのは、そのことで頭や胸に襲い掛かってくる言いようの無い不快感だ。  
 
 意図的に考えないようにはしていた。考えると、ドロッとした気持ち悪さが、体の中に  
注ぎ込まれていくようだったから。けれどそれも、いつしか慣れてしまった。  
 
「……久しぶり…だな。元気でやってるか」  
 
 だからなのかもしれない。  
 偶然にも出くわして、目も合わせた以上、無言のまま立ち去るなんてことが、今の俺には  
出来なかった。  
「……」  
 車の侵入を阻むチェーンを繋ぐ鉄柵に腰掛けていた紗枝は、もの言わず視線を逸らす。  
逆にそれが、俺の存在を認識しているという裏づけになった。  
 まだ姿を現さない待ち合わせ相手を急かすためなのか、無言のままカコカコと携帯電話  
のボタンを押し続けている。  
「話すこと特に無いなら、さっさとどっか行ってくれないかな」  
 液晶画面を見つめて、メールの続きを打ちながら、そう冷たく言い放たれる。  
 
「……」  
 やっぱりあの瞬間から、紗枝は俺の知る紗枝じゃなくなってしまったようだ。もう  
くだらない口喧嘩をすることも、あの人懐っこい笑顔を見ることも無いわけだ。  
 
 
 もう…ずっと過去のままなわけだ。  
 
 
「上手くやれてんのか」  
「関係ないだろ」  
 送信し終えたのか、携帯をパチンと折りたたみ、ポケットの中にしまい込む。  
 
「振った女の子のこと詮索するなんて……趣味悪いよ」  
 
 紗枝は、決して俺のほうを向かなかった。スクランブル交差点を行き来する雑踏を、ただ  
じっと見つめ続けている。眠たそうで、それでいて何もこもっていないような目で。  
「ちょっとした世間話くらい付き合えよ」  
「……やだね」  
 見下すように、一瞬ちらりと舌先を覗かせる。もちろん、俺に視線を向けないまま。  
 
 
「そんなにあたしをバカにしたいなら、勝手にしてよ」  
 
   
「そのかわり、関わってこないでよ」  
 
 
「もう、なんでもないんだからさ」  
 
 
「……」  
 紗枝はどうやら、俺が自分に惨めな思いをさせるために話しかけてるんだと思っている  
ようだった。  
 
 
 
 
 違和感って言葉だけじゃ片付けられなかった。  
 
 
 
 
 外見だけそのままで、中身全てが入れ替わってるような、そんな感覚。今ここで、初めて  
出会った者同士のような短くたどたどしすぎる会話。  
 全てが終わって、変わっていた。  
 
 
「こっちは順調だよ。毎日楽しくやってる」  
 
 
 やがて、一度は語ることを拒否した近況を口にし始める。そうでもしないと、俺がここから  
立ち去らないと思ったのだろう。  
「学校は相変わらず楽しいし、ハッシーも部活で忙しいみたいだけど、週末は空いた時間で  
一緒に遊んでるし、誰かさんみたいにセクハラもしてこないよ」  
 
 
「そうか……」  
 
 
 紗枝の口から橋本君の名前が出ると同時に、心臓あたりが異常なほど燻った。  
 
 
 瞬間、ふっと聴覚が遮断される。視界も、紗枝以外真っ白にボケてしまった。  
「……」  
 と同時に、俺は気付き、思い出す。  
 
「こっちは特に変わり無しだ」  
「……」  
「バイト三昧だよ、たまにスロット行くくらいでな」  
「別に…聞いてないよ」  
「合コンする暇もねーんだわ」  
「……」  
   
 紗枝の言葉を敢えて無視して自分の近況を話し続ける。  
 何がどうしてそうさせるのか、自分でもよく分からなかった。ただ、どんなに気まずくても、  
やっぱりこの瞬間を大事にしたかったのかもしれない。  
 
 
「……もう、興味ないから」  
 
 
 ……。  
 
 
 もう、か。顔を会わさなかった間も、橋本君と付き合いだしてからも、色々と悩んでた  
みたいだな。  
 
 
 ついさっきまでの、真由ちゃんと交わした会話が、断片的に脳裏に焼き付く。  
 
『無理……してるんだと思います』  
 
『明るくて元気な娘が好きだから、だから頑張って性格を改善したんだって。初めて誉めて  
もらった髪型だから、ずっとこの髪型にしていようって。似合ってるって言ってもらえた  
のが、本当に嬉しかったんだそうですよ』  
 
 あれから一ヶ月経つ。受け入れたくないことだが、確かに性格は変わってしまっていた。  
目の前にいる紗枝は、もう俺の知ってる紗枝じゃない。  
 
 
 
 だけどその言葉と性格とは裏腹に、髪型に……変化は見られなかった。  
 
 
 
 そして性格の他に、もう一つ変化があったのが。  
 
 その、表情。  
 
 疲れきったような、追い詰められているような、そんな顔。それでも、他人だとまず  
気付かないだろう、幼なじみだった俺だからこそ分かる微かな変化だった。  
 変わったところと、変わってないところ。それが両方あるってことは、それはつまり、  
まだ悩んでるんじゃないか。  
「ねえ」  
「……」  
「ハッシーがそろそろ来るからさ、もう行ってくんないかな」  
「……分かった」  
 流石にこれ以上は限界だった。無理を感じ、敢えて顔を向けることなく、またゆっくり  
と歩き始める。  
「じゃ、元気でやれよ」  
 そう言いながら、紗枝の目の前を擦れ違う。  
 
 
 
 
「ばかやろ……」  
 
 
 
 
「…!」  
 思わず振り向く。聞き逃してもおかしくないほどの小さな声だったけど、確かに聞こえた。  
それまでとは違った、感情のこもった声で。悲しくて辛くて、泣きそうな声で。置いてかれる  
ことを寂しがるようにも聞こえたのは、はたして気のせいだったのか。  
 振り向き紗枝の表情を伺っても、先程までとなんら変化は無かった。それどころか眉を  
わずかに顰め、一体いつになったら俺がここから立ち去るのか、苛立っているようにしか  
見えなかった。  
 
(紗枝…お前……)  
 
 無理してるんじゃないのか? そう言おうとしたその時、人波をかき分けるようにこの場へ  
向かって歩いてくる男の姿が捉えられる。顔はまだよく分からない。だけど、誰かは分かる。  
 
 
   
「……」  
 再び身を翻す。今度こそ足早にその場を立ち去り、もう振り向かなかった。  
 
 
 
 しばらく歩いてから、また歩く速度をゆっくり落とす。  
 今日二本目のタバコを咥えながら、逡巡し始める。色々なことを。スロットに行く気は  
もうすっかり消え失せていた。  
 
 紗枝の様子もそうだけど、それ以上に戸惑ったことがあった。  
 
 あいつが橋本君の名前を口にした時に、胸によぎった燻る感覚。この感覚には覚えが  
あった。ジクジクと侵食されて、キリキリと痛む。陳腐な表現をするならそう表すことの  
出来る感覚。  
(……)  
 受け入れるには抵抗がありすぎた。  
 確かに紗枝は俺にとって特別だったけど、そういう意味合いの特別じゃなかったはずだ。  
 
 
(マジか…ふざけんなよ……)  
 
 
 文句を言いたくなるのも、仕方なかった。今更にも程がある。うんざりしたように吐き捨て、  
自分のものではなくなってしまったような心に悪態をつく。  
 ついイラついて、まだ充分長さを保ったままのタバコを路上に投げ捨て足で踏み消す。  
だけどもし認めてしまったら、今よりもっと辛くなる。分かりきっていることだ。だから  
自分の心を宥めることが出来なかった。  
 
 いつか時間が慣れさせてくれる。どんなことでも、きっと抱えたまま生きていける。  
 
 今になって、もう無くしてしまったものを、また違う形で欲しがろうとしている。  
 
 なにもかもが思い通りになる人生なんて無い。  
 
 認めたくないのに、気持ちだけが加速する。  
 
 左右に大きく揺れ動く、自分の過去の本音に従った建前と、今の本音に従った本心に、  
平衡感覚さえ失いそうになる。  
 関係が変わって、紗枝が変わって、俺も変わって。真由ちゃんに、俺の知らなかった  
紗枝の本心を聞いて。目まぐるしく変わる立ち位置と、とめどなく頭に飛び込む情報。  
それらが、俺の頭を激しく、そして静かに回転させ始める。  
 
 
 
 今なら分かる。  
 
 
 
 紗枝が俺のことを好きだったと知り、この今更な気持ちを抱えてしまった今なら。  
 
 
 
 認めなくたって、気付いてしまえばそれは、もうほとんど意味を成さない気がした。  
 
 
 
 そうだな……今なら、分かる気がする。  
 
 
 
『崇兄のばかっ!』  
 
 
 
 取り乱した紗枝をからかうのが、どうしてあんなに楽しかったのか。  
 
 
 
『……どうしたらいいのかな』  
 
 
 
 しおらしい態度をとる時の紗枝が、なんで苦手だったのか。  
 
 
 
 紗枝をからかうのが楽しかったのは、その時が一番、兄妹みたいに感じられたから。  
しおらしい紗枝が苦手なのは、そこにあいつの、異性としての表情を感じ取れそうな  
気がしたから。それが無意識だったもんだから、パッと考えても理由が出てこなかったんだ。  
 
 
 なんだ……簡単なことだったんじゃねーか。  
 
 
 川原での会話の時以来、ずっと抱えてた胸の錘。  
 これは、紗枝との関係が終わったことによる辛さが起因してるものじゃ、なかったんだ。  
   
 ただ、嘘をつき続けていたような。  
 
 ただ、分かっていることなのに分からない振りをしていたような。  
   
 そんな後ろめたさと背徳感。     
 
 なんだよ……そういうことかよ……。  
 
 
 普通、妹と思っていた相手に告白なんかされたら、頭の中なんか真っ白になるはずだ。  
思考なんか当然働くわけ無い。今みたいに、自分の中でモノローグみたいに言葉を語り続ける  
ことなんて、出来るわけ無い。  
   
 
 なのにあの時の俺の心は、動揺こそしたものの、後は何も変わらなかった。  
 
 
 いつものように考えを張り巡らせ、いつものように目に見えるものをちゃんと認識して。  
頭が真っ白になるかどうか、そんなんじゃなかった。それとは真逆なくらい、あの瞬間に  
佇んでいた。心は驚くほど動揺してたけど、頭の中は普段通り、冷静だった。  
   
 一つ胸のつかえが取れると、それに連動するように一つ、また一つと胸の内に溜まった  
疑問が解けていく。絡まった糸が解けていくような、難しかった数式が瞬く間に解けていく  
ような、そんな感覚に襲われる。  
 
 気付かなかったわけじゃない。気付いていたから、特に何も感じることが無かったんだ。  
 
 肩の骨が外れたように、またズシリと重たい荷物が双肩にかかる。   
真由ちゃんが、あそこまで俺に辛く当たるのも当然だと思った。今の俺が他人だったら、  
一発ぶん殴るじゃ済まない。いや、たとえ何発殴ったとしても、気分は晴れないだろう。  
 
 
カチッ、シュボッ  
 
 
 ……  
 
 
 ……フーッ。  
 
 
 自覚するまで……随分…時間……掛かっちまったな……。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 俺は……紗枝が俺のことを好きだったってこと……とっくの昔から知ってたんだ……。  
 
 
 
 
 
 
 
 
「ハハハッ……」  
 自虐の笑い声が零れる。  
 何が兄貴面だよ、兄貴にもなれてねえよ。とんだ悪人じゃねえか、このクソ野郎が。  
誰のせいで紗枝があんな目に遭ったと思ってんだよ。  
 
 
 
 …………  
 
 
 
 ……まあ、いいさ。  
 
 これから償えばいい。紗枝は、もう俺のいない生活を手に入れようとしているんだしな。  
紗枝に告白されたのがきっかけで…気付くのが……ちょっとだけ遅かっただけだ。  
 
 
 だから俺は、紗枝のいない生活を受け入れないまま、過ごせばいいわけだ。  
 
 
 未だに時間でさえ解決できないことしな。償う罪としては充分だろ。  
 あいつが微かに見せたあの表情と、一瞬呟いたあの言葉は、日々悩まされ続けた俺に対する  
嫌味に違いない。そう解釈させてもらうことにした。そうでも思わないと、やってられなかった。  
 
 
 また、空を見上げる。今日も曇り、隙間から光が差し込むことなんて無いくらい分厚い  
雲に覆われている。  
 
ポッ  
 
 見上げたと同時に、微かな雨粒が頬を叩いた。  
「……」  
 雨脚は随分と遅いようで、続けざまに水滴が落ちてくる様子は無い。  
 
 おもむろに、片手を空にかざす。周りからは、雨が降ってきてるかどうか確認している  
ようにしか見えないだろう。タバコを咥えたまま、陽の光の無い空を眩しそうに見上げる。  
 
 片目を閉じる。  
 
 伸ばした腕越しに、掌を透かしてみせた。  
 
 
 
 
 
 なぁ、紗枝……  
 
 
 
 
 
 今俺が…お前のことを好きだって言ったら……  
 
 
 
 
 
 お前は……どんな顔して…なんて言うんだろうな……――――――  
 
 
 
 
 そうしてまた新たな錘を抱えたまま、俺は流れる時間を無機質に過ごしていく。  
 
 
 
 起きて働き、帰って寝る。ただ、それだけの毎日。  
 
 
 
 いつの間にやらクリスマスまであと三週間を切り、街路樹には既にイルミネーションが  
とりつけられ始めていた。簡易的なネオンも目立つようになってきている。  
 
 
 もう、二ヶ月の月日が経っていた。  
 
 
 あれ以来、紗枝にも橋本君にも顔を会わすことは無かった。すれ違うことさえ無かった。  
真由ちゃんも俺に会おうとしては来ず、兵太とはいつも通りで、何も変わらなかった。  
 大切なものを失ってしまった抜け殻の日常と、今更になって気づいてしまった、宙に  
浮いたままの想いと。それによる大きな傷を負ったまま、それが癒されることの無いまま、  
だけどその状態に慣れてしまったまま、ただ無意味な時間を過ごし続けていた。  
 
 
 そんな時だった。兵太からメールが届いたのは。  
 
 
 バイト中に受信された、『留守電で繋がらないからメールで失礼します』、その一文から  
始まったメールは、仕事を終えたばかりの俺の頭の中を、今度こそ真っ白に消し飛ばして  
しまう程の衝撃を携えていた。  
一度は上手く抑え込んだ湧き上がり、胸の辺りが疼く。平静を保つことなんて無理だった。  
 
 書かれてあったのは、紗枝に関する二つの近況。  
その一つはどう受け止めたらいいのか分からず、もう一つはとてもじゃないが信じられない  
ことだった。  
 もしかして見間違いだったかもしれない。そう思い立って、家に着いてから改めてその  
メールに目を通す。当然、内容は変わっていなかった。携帯をパチンと折りたたみ机の上に  
放り投げる。そのまま大の字になって布団に倒れこみ、鼻から大きく息を吐く。  
 
兵太自身も慌てていたようで、メールにはところどころに誤字脱字が目立った。けど、  
肝心の箇所は、俺の知り得なかった二つの事実を冷たく無機質に伝えていた。  
 
 
『別れたみたいなんです』  
 
 
『平松が、学校に来なくなりました』  
 
 
 事実だとしたら、とてもじゃないが信じられない。  
 冗談にしては、度が過ぎている。  
 人との付き合いでトラブルを起こしたことも無ければ、元気が取り柄の奴だっていうのに。  
 
 
 何が、あったんだよ。紗枝。  
 
 
 頭の中の紗枝の姿は、人懐っこい笑顔を浮かべたまま、答えることはなかった―――――  
 

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