ピリリリリリリッ、ピリリリリリリッ
頭の隅っこの方から聞こえてくる電子コールの音が、意識を覚醒させる。
ったく、うるせえな。今日は久々にバイトも休みだし、早く起きる理由はこれっぽっちも
ない筈だ。だから主人の機嫌を損ねるんじゃねえ、枕元に置いてある俺の携帯電話よ。
ピリリリリリリッ、ピリリリリリリッ
機械というやつは、とことん己の任務を完遂させる為だけに生まれてきたのだと痛感さ
せられる。くそう……こんなことなら留守電にしときゃ良かった。布団一枚じゃ当然この
うるさい音を遮断できるわけもなく。渋々手を伸ばすと、相手が誰なのかろくに確認せず
通話ボタンをプッシュした。
『やーーーっと出た。崇兄、目ぇ覚めたかー?』
プチッ
相手がどうでもいい奴だと分かると、即座に電話を切る。
再び布団の中に潜り込む。再び訪れる至福の時間、こんにちは。会いたかったよ。
ピリリリリリリッ、ピリリリリリリッ
……懲りない奴。
無下な扱いを受けたら諦めると思ったんだが、そうもいかないようだ。
液晶画面から相手がまた同じ奴だということを理解すると、反射的に電話を切る。
そしてそのままボタンを押し続け、ついでに電源も切ることにした。
くくくく、これでもう俺の睡眠を妨げることは出来まい。
さぁ、昼まで寝よ寝よ。
ピンポンピンポンピンポンピンポーーーン!!
ドンドンドンドンドンッ!!
「崇兄開けろッ! いるのは分かってるんだぞ!!」
けたたましく鳴り響く、備え付けのチャイムの音とひたすらに扉を叩く音。
どうやらかなりご立腹のようだ。すぐに電話を切ったのがいたく気に入らなかったらしい。
ってか、俺の家の前にいたんだったら掛けてくる必要ねえだろうが。
このまま放置しても面白いんだが、立て続けに襲ってきた騒がしさに眠気はすっかり霧散
してしまっていた。舌打ちしながら嫌々布団から抜け出した。
「うるせえぞ紗枝。何の罪もない周りの住人の方々に迷惑がかかるだろうが」
寝起き特有のガラガラ声で不満をぶちまけながら玄関の扉に近付く。
なんか最近、建て付けが悪くなっているような気がする。もし壊れて大家さんに弁償する
よう言われたら、こいつが扉を叩きまくったせいだと言って責任を押し付けよう。
んで、渋々扉を開く。
「いきなり電話を切る崇兄が悪いんだろ」
そこに立っていたのは、つっけんどんな口調とは裏腹に、生意気そうな笑みを浮かべた
女の子が一人。
「……」
何しに来やがったんだ、俺の至福の時間を邪魔しやがって。
露骨にそう顔に出してみせるが、そんなことをこいつが気にするわけもなく。屈託のない
笑顔が逆に腹立たしかった。
本当ならすぐに追っ払いたかったんだが、そんな扱いをすれば、またうるさく喚かれるに
決まっている。それにいつまでも玄関先で話していると、他の部屋の人達の迷惑になって
しまうだろう。誠に遺憾ではあるが、中に入れてやることにした。
顎をしゃくって部屋に上がるよう指示すると、ふつふつと沸き始めた次なる欲求を満たす
為に、昨日作り過ぎて余ってしまっていた味噌汁が入っている鍋に火にかけた。
「ったく、すぐ電話切るなんてどうかしてるよ」
万年床の布団の傍に胡坐(あぐら)をかいて座り込むと、紗枝はさっきと同じことを呟く。
あーうるせえうるせえ。何で無理やりたたき起こされた挙句、朝っぱらからこいつの愚痴
を聞かにゃならんのだ。ムカつく。果てしなくムカつく。
「崇兄の頭の中には"常識"という言葉が無いのかなー?」
ぴきっ
「ほう、朝っぱらからチャイム押しまくったり扉を何度も叩いたりでかい声張り上げたり
するのは常識のある行為なのか。それは知らなかった」
表情を変えないまま皮肉を言い返すと、紗枝はぐっと言葉に詰まっている。
くくく、ざまあみろ。俺の睡眠を妨げた罪は海よりも深いのだ。
勝利の余韻と共に、具がもやしだけの味噌汁を喉の奥に流し込む。
自己紹介が遅れたな。
俺の名前は今村崇之。三年前まで青春真っ盛りな高校生だったが、今はただのフリーター。
やってる。一応その頃の同級生の娘と付き合ったりしていたから、経験もそれなりにある。
学業の方は、可もなく不可もなくといった成績からちょっと上にいる位の点数は稼いでは
いたから、大学に進学できる程度の頭は持っていた。が、家の金銭事情の為あえなく断念。
まあ受験も面倒だったし、別に後悔なんかしてねえ。人生の中でもかなり貴重なこの時間
を、勉学というつまらないものに当てはめてたまるかという思いも強かった。卒業しても
気楽にプーでもやって、そのうちやりたいことを見つけて……みたいなやる気のない人生
設計がいつの間にか俺の脳内には出来上がっていたっけな。
そんな俺に天罰が下ったのかどうかは知らないが、俺の卒業を機に両親が離婚。
なんでもお互いにやりたいことがあったらしく、前々から考えていたのだそうだ。
二人とも満面の笑み浮かべて離婚届に判を押したんだとか。加○茶夫妻かお前らは。
まあ、不倫が原因でドロドロした離婚っていうのも御免だけどよ。
俺の卒業を機に離婚したっていうことは、大体想像つくよな。俺が親から貰った言葉。
『崇之。お前も高校卒業したんだし、今まで立派な男に育ててきたつもりだ。一人で生き
ていけるだろう。父さんも母さんもお前の面倒は一切見ないからそのつもりでな』
とりあえずちょっと待てと。まず離婚するお前らに"立派に育ててきた"とか言われた
くないぞと。あ○る優が「犯罪はいけません!」って口にするようなもんだぞ。
それに俺の意思は完璧無視か。たった一人のお前らの子供なんだから少し位心配しろ。
結局地元を出る勇気も無く、親の知り合いの不動産屋にワンルームの安いボロアパート
を紹介してもらい、そこに住むことにしたわけだ。ちなみに前の家から二キロと離れてい
ない。生活の為にバイトも始め、それから丸二年以上自適なフリーター生活を送っている。
ちなみにやりたいことは未だに見つかっていない。
で、さっきから俺に憎まれ口を叩き続けているのが、前の家の隣に住んでいた平松さん
とこの一人娘、紗枝。確か俺より四つ年下だから現在は高校二年のはずだ。
物心つく頃には知り合ってたから、コイツとの関係は一応幼なじみってことになるのかな。
個人的には他人同士なんだけど兄妹、っていう表現の方がしっくりくるんだが。
今でこそクソ生意気なガキだけど、昔は体がちっちゃくてよく苛められてたんだよなー。
家が近い縁もあったせいか俺が何度か(というかいつも)助けてやったりしたんだが、あの頃
の紗枝は素直だったなぁ。助けてやると必ずお礼を言ってきたし。
ところがどっこいどこでどう道を間違えたのか、前述したとおり順調に生意気に成長し
ている。聞いての通り、言葉遣いも非常によろしくない。その反面、体の方は余り成長し
ているようには見えない。胸も腰も尻も、全てが真っ平らな気がする。こいつ本当は中学
生なんじゃないだろうか。それだとコイツの未発達な性格も体つきも説明がつくんだが。
あ、それとも実は男だったっていうオチなのかも。
ガンッ!
「ッ!? 痛ってぇ〜!」
「誰が中学生で男だって!?」
無防備に考えに耽っていたところに、紗枝の拳が俺の脳天に容赦なく振り下ろされた。
拍子に手に持っていた椀の中の味噌汁がこぼれる。
おおおぉ……痛え、マジで痛え。女の拳とは思えねえ。思わず殴られた箇所を手で擦る。
「お前……俺の考えていることが分かるだなんてエスパーにでもなったか」
「何言ってんだよ。途中から口に出してたじゃんか」
おっとそれは迂闊だった。俺としたことがそんな初歩的なミスをしてしまうとは。
「それより謝ってよね。言いたい放題言っちゃってさ」
俺の真実極まりない言葉に何故かひどく腹を立てたらしく、腰に手を置きながら頬を膨
らませて俺を睨みつけてくる。ふむ、こいつも女としての自覚があったのか。実に意外だ。
椀を持っていないほうの手を縦に構えて、申し訳なさそうな仕草をしながら口を開く。
「すまん紗枝、本心だ」
げしっ!!
今度は踵(かかと)が俺の脳天に突き刺さり、味噌汁も盛大にぶちまける。
余りの痛さに、俺は唸りながら辺りを転がるしかなかった。
「……で、何しに来たんだ?」
未だに頭を擦りながら、紗枝に問いかけてみる。
「んー、崇兄の生存確認をしに」
「オイ」
相変わらず減らねえ口だ。
女は殴らない主義を貫いてきた俺だが、コイツだけは別にしてしまおうか。
「ところでお前学校は?」
そもそも今日は土曜でも日曜でも祝日でもない。平日の朝に何で来てやがるんだ。
不良娘め、おじさんとおばさんに言いつけるぞ。
「へへへー、今日から夏休みなんだ」
…………あー、そういやそんなものあったな。フリーターの俺には全く関係のないこと
だからすっかり忘れていた。
「さぁ、崇兄が汗水垂らして必死に働いてる間にあたしは目一杯友達と遊ぶかなー」
なんて伸びをしながら言ってきやがる。
女は殴らない主義を貫いてきた俺だが、コイツだけは(ry
と、そこまでいってはたと気付いた。
「だったら、それこそ俺の家に来る必要なんか無いだろうが」
「……うっ」
また言葉を詰まらせる紗枝。
本当にコイツ何しに来たんだ。鬱陶しいを通り越して気持ち悪い。
「用件がないならさっさと帰れ。俺は忙しいんだ」
「忙しいって……どうせ寝るだけでしょ?」
「アホか。俺はほとんど毎日労働基準法に違反するぐらい働いているんだぞ。たまの休日
に昼まで寝たとしても罰は当たらんだろう」
俺がバイトしている店は、24時間営業している外食チェーン店なわけなのだが。時給は
結構高いし、待遇も文句ないんだが大通りに面しているからそれ相応に忙しい。結構内容
もキツいもんだから新入りは大抵一、二ヶ月で辞めていく。
要するに常に人材不足なんだ。その皺寄せがどこに行くかは、言わなくても分かるよな。
「もう、せっかく来てあげたんだからそんなに邪険にしなくたって……」
「頼んだ覚えはねえ。友達と遊ぶか家で勉強でもしてろ。この幼児体型が」
ゆっくり寝ようと思っていたのに無理やり起こされたのだから、俺の機嫌が良いはずが
無い。冷たく突き放す。
「……酷いよ」
瞬間、紗枝の顔がくしゃりと悲しげに歪んだ気がした。
む……やばい、ちょっと言い過ぎたかな。意外と打たれ弱いからなコイツ。
「幼児体型とか言っちゃってさ!」
………………うん、あれだ、前言撤回。一瞬でも後悔した俺が馬鹿だった。
ただ単に怒りを溜めこんでいただけらしい。
「これでもちゃんと日々成長してるんだよ? あたしだってもう高校生なんだから」
「はー……俺には全くそうは見えんぞ」
「そんなことないってば! ほらっ」
あまりに否定されたもんだから、金切り声を上げながら胸を反らす。少しでも自分の胸
を大きく見せたいんだろうな。ふむ、これは紗枝の気持ちを汲み取らんわけにはいくまい。
どれどれ。
むぎゅっ
「へっ?」
もみもみもみもみもみもみ
両手で紗枝の胸を適度にこねくり回す。
むむ、確かにちゃんと膨らんでいる。つっても大きさは80くらいか、やっぱ貧乳だな。
しかし形は椀形と悪くない。硬すぎず柔らかすぎず、あっさりかつコクのある良い乳だ。
何も言わない紗枝を訝しがってその表情を窺ってみる。顔が真っ赤だ。
なんだちゃんと反応してるじゃないか。ということは感度もそれなりだな。
侮っていたがなかなかどうしてイイもん持っている。こいつはまたさっきとは違った意味
で前言撤回する必要がありそうだ。ついでに紗枝の(身体的)評価も改める必要が……
「いっ、いやああーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
ボロアパートを倒壊させかねないほどの大音声が響き渡る。
んがー、うるせぇぇーー! どっからこんなデカイ声出してんだ、口からか。
両人差し指で耳を塞ぐがそれでもうるさい。
文句を言おうと再び紗枝の方へと向き直る。
しかしその視界に飛び込んできたのは、先ほど俺を嫌というほど悶絶させた、強烈な威力
を持つ右の拳だった―――
「おい紗枝」
「…………(ギロッ)」
「紗ー枝ちゃーん」
「…………(プイッ)」
さっきからずっとこの調子だ。用心のためか俺が日頃使っている枕を体の前で抱きしめ
ながら、ひたすら睨みつけてくる。俺の言葉にも耳を貸そうとしやがらねえ。
ったく、ほんのちょっぴり過度なスキンシップ取っただけじゃねえか。
「言っておくがその枕、俺が一人暮らし始めてから一度も洗ってないぞ」
ばふっ!
言い終わると同時に枕が顔面に飛んできた。
人の家に上がりこんでおきながら何とも横暴な奴だ。貰い手がいなくなるぞ。
「いっ、いい加減にしてよ!」
「そんな怒ってばっかりだと気が滅入るぞ」
「 怒 ら せ て る の は ど こ の 誰 ? 」
口調がおかしくなってきた。そろそろ限界が近いらしい。
「いやあ、お前が胸突き出してくるもんだから触っていいのかと思ってつい……」
「んなわけないだろっ!」
「そうカリカリするな、俺とお前の仲じゃないか」
菩薩のような笑みを浮かべ(菩薩は笑顔じゃない、という無粋な突っ込みは不要だ)ながら
両手を大きく広げる俺。
「『親しき仲にも礼儀あり』って言葉知ってる?」
かー、心が狭いだけじゃなく身持ちも固いときてやがる。
そんなんだからいつまでたっても異性と付き合えないんだぞ、分かってんのか?
かと言って、このままでは紗枝の怒りは解けそうにも見えない。
ちっ、しょうがねえ。
「そうか……済まなかったな、紗枝」
「……え」
「いくらなんでも悪ふざけが過ぎたな。本当に……悪かった」
こういう時は攻め方を変えてみる。押して駄目なら引けばいい。
真摯な口調で謝罪の言葉を重ねる。頭を抱えながら溜息をつき、自省の念に駆られたよう
に見せかける。言葉を途切れ途切れにさせると効果は抜群だ!
「え、あ……ちょっと崇兄…」
紗枝は元々人が善い。こちらが必要以上に反省したように見せつければ、きっと良心に
苛まれて向こうから折れてくれるだろう。事実、俺がいきなり素直に謝ってから、紗枝の
視線が所在無さ気にあちこちへと彷徨っている。くくく、単純な奴よのう。
「べ、別にあたしそこまで怒ってないし……」
よし、想像通り。
「そうか、良かった」
ため息をつきながら(無論演技だ)、心底安心したように呟く。
心の中の俺の表情がニヤリと笑ったことは言うまでもない。
いやでも本当に良かった。これでまたコイツをおもちゃにすることが出来るからな。
「……崇兄」
「ん?」
「本当に……そう思ってる?」
ギクリ
ぬうぅ……腐っても幼なじみだ。俺の考えることはある程度見通せるらしい。
かといってここでそれを認めてしまえば、俺も紗枝もお互いに居心地が悪い。つーわけで
ここはシラを切り通した方がいい。あくまで誤魔化そう。
「……紗枝、お前がそう言いたい気持も分かる。でも……」
「……」
「信じてもらえないって……辛いな…」
「……!」
「……!」
我ながら実にありえない芝居だと思う。
笑いたければ笑え、冷めた視線を向けたいのなら遠慮せずに向けて来い。
でも、こういうのは言葉じゃない。その場の空気と気持ちがモノを言う。いや、この場合
気持ちがモノを言わせたら困るわけだが。まあ、俺が何を言いたいかというと、だ。頼む
紗枝、ここは大人しく騙されてくれ。
「……」
黙りこんだまま、謝る俺をじっと見据える。俺も気持ちを分かってもらうために、紗枝
の視線をじっと見つめ返す。結構な時間この状態でいたと思う。外からはセミの鳴き声が
容赦なくせわしなく聞こえてくる。やがて。
「……そう、だよね」
よぉし、勝った!
無論顔には出さない。深層の中の俺は既にガッツポーズを取っている。
この姿を紗枝に見せ付けられないのが少々惜しい。見せ付けたらぶん殴られるだろうが。
「普段ちゃらけてる崇兄がそこまで言うなら、そうだよね」
その言葉はちょっと釈然としないぞ。普段からちゃんとビシッとしてるだろうが。
まあいい、許しはもらえた。あとはダメ押ししておくか。
「ありがとう、紗枝」
最後は謝罪の言葉を重ねるよりも、感謝の気持ちを表した方がいい。
己の視線と紗枝の視線を絡ませる。自分からは決して逸らさない。でないとバレる。
「い、いいよ。そこまで言わなくたって」
照れ臭くなったのか、幾分顔を赤くしてとうとう紗枝から顔を逸らす。
ふはは、勝った。これでこの件で負い目を感じる必要は無いだろう。
さあ、一段落ついたし禁煙パイプでも咥えるとするか。
最初は禁煙の辛さを紛らわす一時凌ぎのつもりだったんだが、未だにやめられない。
というかこっちの味の方が癖になってきている。我ながら少し情けない。
「……」
「ん? どうした」
俺がパイプを咥えてから、紗枝がちらちらとこっちの様子を窺ってくる。
じっと見てこずに体を背けたままなのは、さっきのことが原因なのだろう。
相変わらず初心な奴だ。
「崇兄……まだ禁煙してたんだ」
「そんなに意外か?」
「意外だよ。煙たいからやめてってあたしがいくら言っても、聞いてくれなかったじゃん」
そうだったかな。紗枝は俺が頻繁に吸っていたみたいな言い方をするが、記憶にない。
まあ、あの頃は初めての彼女と別れた頃だったのもあると思うけどな。
「でも崇兄意志が弱いから、またいつの間にか吸ってそうだけど」
「けっ」
悪態をつきながら、パイプをカリカリと噛みしめる。これが最近の俺の癖だ。
紗枝はああ言うが、禁煙し始めてからは体調も昔ほど悪くはならなくなったし、そういう
意味ではまだまだ続けることが出来ると思うぞ。
「崇兄、ちょっと暑いから窓開けてもいい?」
「ああ、構わんぞ」
このアパートはボロくてトイレは共用、風呂も付いていない格安物件なのだが、日当り
だけは抜群に良い。だから夏は馬鹿みたいに暑い。紗枝の体は少し汗ばんでいるのがその
証拠だ。
ガラガラッ
「ここ座るね」
「おう。あんまり体重かけんなよ、壊れるかもしれないからな」
「ん、分かった」
俺の台詞に苦笑を浮かべながら、開けた窓の縁(へり)の部分に腰を下ろす。
朝方だからなのだろう、夏場にしては珍しく涼しい風が吹き込んできた。
紗枝の髪が、さらされ揺れる。
首元辺りよりちょっとだけ長く伸びた髪の毛がコイツのトレードマークだ。セミロング
って言えばいいのかな。その髪が、陽の光に当たって微かに茶色がかったように見える。
そういや性格は随分変わったけど、髪型の方は高校に入学した頃から全く変わってないな。
「ねえねえ」
「ん?」
窓の外に視線を向けたまま紗枝が話しかけてきた。
「夏休みになるんだから、バイトも少しは人が増えるんでしょ?」
「その間だけな。どうせ今回も一、二ヶ月で辞める根性無しばっかりだろうし」
自分で言って鬱屈な気分になる。
ああ……今日一日が終われば明日もバイトか、ヤダヤダ。
「だったらさ、今度どっかに遊びに行こうよ」
「……」
何いきなり馬鹿なことをほざいちゃってくれちゃってるんだろうか。
「お前さっき、"働く俺を横目に友達と遊びまくろう!"とか言ってなかったか?」
「え? そんなこと言ったっけ?」
この若さで痴呆症か、重症だな。自分の発言にはちゃんと責任を持て。
「ねえ崇兄……」
言い訳をするつもりはないのか。都合の悪いことはすぐに黒歴史になるようだ。
俺の顔ををじっと見て、上目遣いに答えを待っている。
「駄目かな?」
……ちっ、そんな顔で俺を見るな。
いつもみたいに騒いでいればたやすく手玉に取れるんだが、こんな風にしおらしい紗枝は
苦手だ。なんつーか、調子が狂う。つーかあれだね、女の上目遣いに勝てる男っていない
よね、うん。
「暇が出来たらな」
いたたまれなくなって顔を逸らす。言っておくが照れたわけじゃないぞ。
紗枝の表情がパッと明るくなるのが見なくても分かった。
「うん!」
あー、俺も甘いな。思わず舌打ちしてしまった。
「約束だよ? 絶対だからね!」
「分かった分かった」
コロコロ表情変えやがって。そんなんだから中学生に見えるんだぞ。
〜〜〜♪〜〜〜〜♪〜♪〜〜♪♪〜
と、いきなり紗枝のポケットからメロディが流れ出した。
素早く携帯を取り出すと、通話ボタンを押して会話を始める。
「もしもーし、真由ちゃん?」
友達か。多分お遊びの誘い電話だな。
「あ……うん。でも…」
二つ返事で承諾するのかと思って耳を傾けていたが、紗枝はなかなか首を縦に振ろうと
しない。何迷ってんだ。視線を向けてみると、ちらちらとこっちを見て俺の様子を窺って
くる。遠慮でもしてんのか? 紗枝らしくもねえ。
片方の手を左右に振り、ジェスチャーでバイバイしてみせる。『行ってこい』ってことだ。
「あぁゴメン、やっぱり行くよ。うん、うん。それじゃ」
ピッ
「ごめん崇兄、用事出来ちゃった」
「謝る必要は無いぞ。お前が来たこと自体そもそもイレギュラーだからな」
言いながら手でシッシッと追い払う。
そんな俺の態度に、紗枝は少しムッとした表情を浮かべて口を尖らせた。
「崇兄、前から言いたかったんだけどさ」
目も三白眼にキリキリと吊り上がっていく。余程腹に据えかねたか。
俺としてはこういう紗枝のほうが扱いやすいから、こっちの方がいいがな。
「あ? なんだよ」
浮かび上がりそうになる邪悪な笑みを噛み殺し、俺も不機嫌そうに応答してみせる。
「女の子には優しくしないと駄目だろ」
「"優しさ"だけじゃ満足しないのが女って生き物だ」
くくく、恋愛経験のないお前がそんな台詞を吐くのは十年早い。
「たっ、崇兄にはその"優しさ"がないじゃないかっ」
「お前以外の女には持ち合わせている。余計なお世話だ」
「〜〜〜〜〜!!」
お前が俺に口で勝てるわけないだろうが。いい加減無闇に喧嘩売ってくるのは止めろ。
とは言うものの、こうやって紗枝を言い負かすのも俺の大きな愉しみでもあるわけだがな。
「ほら、友達が待ってるんだろ? さっさと行け」
「ふんだ! 崇兄なんか過労で倒れればいいんだ!」
玄関に行き靴を履くと、俺にアッカンベーをかましながら外へ出て行き姿を消した。
いつまで経っても成長しない奴だな。中学生どころか小学生並みかもしれん。まあしかし、
胸だけは例外だということにしてやろう。
あー、そういや女の胸を触ったのって久しぶりだな。
両手をわにわにと動かして、さっきの感触を思い出す。
胸の持ち主が紗枝だったっていうのが幾分マイナスだが、まあいい。
また無理やりな理由をつけて触ってやるとしよう。胸は揉むと大きくなるって言うしな。
さあ、あいつのせいで予定より大分早く起きちまったけど何しようかね。
二度寝は起きた時だるいし、買い物したってどうせ大体の食材はほとんど手を付けられず
に腐らせちまうし、雑貨品は滅多に使わないしなぁ。
布団干してしばらく時間潰したら、軍資金持ってスロットにでも行くかな――――