「……怖いか?」  
またその身体に覆い被さるように、崇之は紗枝の腰の横に手をつく。布団の傍には、  
既に脱ぎ捨てられたカーゴパンツとトランクス、封を切られ四角いビニールが転がっていた。  
この格好には、流石に若干の恥ずかしさを覚えてしまう。  
 
「……わかんない」  
紗枝の方も、下腹部を覆い隠していたスカートを剥ぎ取られていた。下着も片足首に  
辛うじて引っ掛かる程度で、他に身に付けているのは汗ばんだシャツに解けかけた紐タイ、  
殆ど役割を果たしていないブラと紺色のソックスという様相だった。  
 両手で拳を作り胸元を隠そうとしているその様子は、何かに祈りを捧げているようにも  
見える。  
 
「…そか」  
スカートを脱がせてから、その表情は今にも舌を噛みきりそうなくらいに強張っている。  
こんな顔を目の当たりにすれば、さすがにこれ以上脱がせるのは躊躇われた。もっとも、  
半端に着衣を残しているからこそ、余計に興奮してしまっているのも確かなわけだが。  
 
「……」  
「ぁ…っ……」  
 
両脚を抱え下腹部を近づけ、よく見えていなかったその場所を眼下に映す。  
 紗枝は胸の前で組んでいた拳を解いて、腕で自分の目線を隠してしまう。既に指で弄った  
とはいえ、見られるとなるとまた違った恥ずかしさがこみ上げてくるのだろう。  
己の昂ぶりの先端を、静かにあてがう。それと同時に、顔を組み隠す両腕の手首を握り締め、  
ゆっくりと解いていく。  
「あっ…やぁあ…!」  
「…落ち着け」  
どれだけ頑張ろうとしても、この時ばかりは羞恥心に打ち勝つことは出来ないのだろう。  
半ば脚を開かれ、じたばたともがく彼女をゆっくりと宥める。再び指ごと絡めて腕の動きを  
封じると、落ち着かせるように唇を重ねた。  
 
「いくぞ?」  
 
 風を受けた窓ガラスが、震えてガタンと音を立てる。  
 
「……」  
 
 雫を目の縁にたくさん溜めて、口許をやんわり握った手で隠して、紗枝は微かに頷いた。  
 
下腹部に力を込め、少しずつ腰を押し進めていく。  
 
「ひっ…うっ……!」  
 
徐々に抵抗が増していくものの、崇之は止まらない。歯を強く食いしばって、快感とも  
言い表し難い窮屈な感覚が局部を襲う。  
 
「いっ……ぅああっ…!」  
「……っ」  
 痛々しく見えるほどに強張ったその表情は、極度な程に緊張しきっている。シーツは  
最早布団ではなく、彼女の身体を覆い尽くそうとしていた。  
 
ずちゅ…  
 
 音が跳ねる。根元まで突き入れると、丁度奥にまで到達した。  
「は…はいった……の?」  
「……ああ」  
 全部繋がってるぞ、そう付け加えると紗枝は握り締めていたままのシーツで顔を隠す。  
 とりあえずしばらくはこの状態にいて、彼女が慣れるのを待とうとふっと息をついた。  
 
「……動いて」  
 
 端から両方の瞳をちろりとはみ出させて、申し訳なさげに懇願される。自分から動く勇気が、  
まだ持てないでいるのだろう。  
「……」  
 崇之は目を丸くした。全く逆のことを言われると思っていただけに、一瞬呆然としてしまう。  
「…痛くないのか?」  
 数滴の赤い跡がそこに走っているのに、恥ずかしがってはいてもあまり痛がる様子は  
見えない。まず間違いなく無理していると分かっているのに、思わず問い掛けてしまう。  
 
 
「大丈夫……いちばん大好きな人なんだから…」  
 
 
 言い終えると同時に、その瞳から涙が零れ落ちる。  
「……」  
 肯定とも否定とも受け取れてしまう、一番大事にしたい彼女の言葉は、またしてもその心を  
燃え上がらせてしまう。  
 
 顔を覗きこめば、視線が絡み合う。答えを返す必要は、もう無かった。  
 
「んっ…うぅん……あっ…はぅぅ…」  
 ゆっくりとぎこちなく、身体を揺り動かし刻んでいく。眉間に強い皺を寄せるその表情が、  
やっぱり隠しきれなかった本心を伝えてくる。  
「紗枝…っ」  
「いやぁ…みっ、見ないでぇぇ…!」  
 だけど触れてほしくなかったのか、手の平で様々な身体の箇所をまさぐっていた時には  
投げかけられなかった台詞を、今になって突きつけられる。  
 慣れない感覚に玩ばれる身体を目の当たりにされた時ではなく、痛みをこらえる表情を  
盗み見られた時にそれを言うのは、やはり意地っ張りという性格が作用したからなのだろう。  
 
「やぅ…っ! んんっ、ふう…んぁうっ……!」  
 
 肌が擦れあい、合間合間に水音が跳ねる。  
 額から流れてくる汗を拭う余裕さえ、今の崇之は持ち合わせていなかった。同様に身体中が  
汗ばみ、微かな光沢さえ放っている紗枝の媚態に、自意識をもぎ取られそうになるくらいに  
心奪われる。今身体を動かしているのは、欲望というより本能に近かった。  
 
「いっ…うぅっ……くぅ…んうぅぅ…」  
 いつの間にか前傾姿勢になり始め、お互いの間に挟む空気の冷たさを嫌ったのか、首の  
後ろに手を回される。  
 
「……っ」  
「ひうっ!?」  
 崇之も同様に、紗枝の背中の後ろに手を回す。そのまま起き上がらせ、体勢を座位へと  
移行する。擦れあう勢いに重力が加わり、互いにを襲う刺激が増加していく。  
 
「うああっ、あっ…いっ…いうぅ、いあああ!」  
 身体の繋げ方を変えてしまったせいか、それまで紗枝の口から放たれていた声とは、  
明らかに質が変わってしまう。「痛い」と何度も言いかけて、その度に口をぎゅっと結ばせる。  
「……!」  
 その様を間近で見てしまい、崇之は自我を取り戻し腰の動きを止めてしまう。息を切らせ  
ながら、彼女の頬を撫で様子を伺う。  
「……っ」  
 すると、潤んだ瞳でキッと睨まれてしまう。痛かったことに不満を抱えているのではなく、  
なんで止まるんだよ、そんな意味合いがこめられているような気がした。  
「無理するな」  
「して…ないっ、してないってばぁ……っ」  
 言い返すというよりも、自分に言い聞かせるように紗枝は言葉を紡ぎ続ける。  
 
「いっ…痛くなんか……ない…もんっっ」  
 
 瞳を、ただひたすらに硬く固く瞑り続ける。  
 
「全然…っ、大丈夫……だもんっ」  
 
 だけど崇之は、言葉をそのままに受け止めることが出来ないでいた。目の当たりにする  
表情がそれとは裏腹で、首の後ろに回された手には爪を立てられ、皮膚を所々削られている。  
優しくするって約束した。だから今は、そうしてはいけないと思ったのだ。  
 
「あたしは……大丈夫だから…」  
「……」  
 背中に手を回したまま、縋りつかれるような目を向けられ懇願されても崇之は動かない。  
随分と焦りを見せている、自暴自棄になりかけている彼女の気持ちを許すのは、躊躇いが  
湧いた。 優しくして欲しいと言ったのに、自分を軽んじるその様子に違和感が募ってしまう。  
 
 崇之は知らない。  
 
 紗枝が夢の中で味わった、あまりにも悲痛な想いを知らないのだ。  
 
「焦ることない。俺はちゃんと、お前だけ見てる」  
 諭すように、やんわりとした口調で崇之は続ける。それが、彼女を余計に惨めな気持ちに  
させてしまうことに、気付かないまま。  
「……っ」  
 
どさっ  
 
 その身体を更に慈しむように抱きしめようとしたその時、倒れこむ音と共に、視界が回った。  
「……?」  
 崇之は一瞬、何が起こったのか分からずに、呆然としながら天井を見つめる。改めて状況を  
確認すると、身体を繋げたまま、どうやら押し倒されてしまったらしい。  
 彼女の身体はやや猫背になっているものの、もたれかかってくることもなく起きたままだ。  
しばらくの間密着していただけに、どうにもうすら寒い。  
 
「……じゃあ、あたしが…動く…っ」  
「紗枝っ」  
 起き上がろうとするが、両肩を抑えられ阻まれる。いかに体格や力の差があったとしても、  
寝そべり跨がれしかも肩を掴まれては起き上がれない。  
 
「崇兄は…動かなくていいよ」  
「やめろって、なんでそんな無理…」  
「してない……無理なんてしてない…!」  
 ひどくぎこちなくゆっくりと、だけど確実に腰が揺すられ始める。  
 
「いっ……うぅ…ぅ」  
「……紗枝…っ」  
「つっ……ふぁう…っ…!」  
 下半身に極度の快感を伴った痺れを覚え、それに耐えながら名前を紡ぐ。だけど目を閉じ、  
腰をたどたどしく動かす行為に没頭しようとする彼女は、反応を示さない。  
 
「くぁぁ…っ! うううっ…ああぁぁっ!」  
 反応が、徐々に大きくなる。肩を抑えつけていた手の平は、度重なる振動でそこからずれ落ち、  
崇之の頭の両横に添えられていた。口の端からはだらしなく涎が垂れ、重力に従い時折彼の  
胸元や首筋に落ちてくる。それが、赤く熱く火照った身体には不可思議なほどに冷たく感じられてしまう。  
「あぁっ…あぁっ……うああっ…!」  
「……っ…うっ…く」  
 下腹部を襲う甘い刺激に襲われ、垂れ下がる紐タイに頬をくすぐられ、彼女が身体を  
起こしてもなお形と張りを保ち続ける小ぶりな膨らみを目の前に、またしても理性や自制心が  
吹き飛びかける。  
 圧し掛かられ、激しい熱を保ったまま繋がれた己の昂ぶりは、抗うことも出来ずに蹂躙  
され続けた。  
 
「紗枝…っ、止めろ…!」  
 なんでこんなことするんだ、なんでこんな無理するんだ。怒りにも似た感情が湧き上がる。  
優しくして欲しいとお願いしてきた癖に、どうしてそれを自分からそれをないがしろにするのか  
理解出来なかった。  
「やぁ…っ、止めない…もん……!」  
「お前…っ」  
 髪を振り乱して、紗枝は拒み続ける。腰の動きも、止まろうとはしない。  
崇之は困惑する。からかったことは数知れないが、怒ったことは殆ど記憶にない。  
だから強い口調で注意すれば、きっと折れると思っていた。動きを止めると思っていた。  
 
「やだ…やだもん…っ……一緒にいたいもん…」  
「……っ?」  
 動きを止めようと更に言葉を続けようとするが、彼女の台詞を耳にして、それをこらえる。  
口走っている内容が、今の状況からずれ始めていることに気付いたのだ。  
 
「置いて……いかれたく…ない…っ……もんっ…!」  
 
 自棄になりかけたようなその台詞に、彼女の異変にようやく気付く。部屋に帰ってきた時、  
起こしたばかりの様子が変だったことも、唐突に脳裏に蘇ってくる。  
「紗枝…?」  
「やぁ……お願い…、いかないで……っ」  
 明らかに様子がおかしい。初めての感覚に、現実と夢の境界線を失ってしまっているよう  
だった。完全に、自我を失っていた。  
 
 
 そんな様相に、崇之は確信する。  
 
 
「……」  
 両手を、身体に沿わせて上らせていく。片方を背中、もう片方を後頭部に置いて、ぐいと  
引き寄せた。  
 
「あ…っ!?」  
 
「大丈夫、大丈夫だ」  
 また胸元が引っ付いて、互いの肌がこもった熱を奪い合う。後頭部にやった手をすぐに  
動かして、背中をさすっていた手と繋ぎ合わせる。そうすることで、また紗枝が身体を  
起こせないようにした。  
「ちゃんと、ずっと、傍にいる」  
 至近距離から、しっかとその目を見つめながら、確かな言霊を放つ。  
 
 プライドも照れ臭さもかなぐり捨てた、本音だけの本心。  
「俺も、お前の傍にいたいんだ」  
 
 一番大事にしたい娘を、失いたくない。  
 
 いちばん大好きな人に、置いていかれたくない。  
 
 多少の言葉の違いはあっても、こめられた意味は寸分違わぬ同じものだった。  
 
 
「だから…そんな無理をするな」  
 
 
「……っ」  
 瞳に色が灯る。どうやら、手放しかけていた正気を取り戻したらしい。  
 だけどその表情は、存外に悔しそうな意味合いに染め抜かれている。そのせいで、緊張を  
解くことが出来ない。  
 
「今更そんなこと…言わないでよぉ……」  
 呟かれたのは恨み言。気持ちがぶり返してしまったのか、情緒不安定になってしまって  
いるようだった。そのことに不安を余切らせながらも、それでも彼はじっとその顔を  
見据え続ける。  
 
「あたしを…あたしのこと……変えたくせに…っ」  
 紗枝はその体勢のまま、半ば無理矢理に腰を動かし始める。しかし今度は、それを咎め  
なかった。掴んでしまった確信は、間違いなく核心をついていた。  
 
 
「崇兄が……崇兄がしたんだ…っ、あたしを…こんな風に……ぃ…っ!」  
 
 
「……」  
 昔は、大人しい奴だった。髪も長くて人見知りで、いつも後ろからついてきていて。  
 
 だけど今の彼女はそれとはまるで別人だった。  
 
 明るくて元気で、友達もたくさんいて。そして随分と意地っ張りな性格になってしまっていた。  
 
 今になってようやく実感する。  
   
 彼女の心に常にあり続けた、一番根っこにある心情を。  
 
 
「紗枝……っ」  
「ひぁっ…!?」  
 勢いをつけ、今度こそがばりと起き上がる。倒される前の状態のように、座った状態で  
向かい合う。身体が離れてしまわないよう背中に手を回し、首の後ろに回される。  
 
 崇之はそこから更に脚を動かす。あぐらの状態から、膝をつき腰を浮かせたまま正座する。  
身体を動かしやすいように。  
 
ずちゅんっ  
 
「うああっ!」  
 
 二人同時に下腹部を前に押し進めてしまったことで、奥の奥まで繋がってしまう。激しい  
衝撃に、紗枝の背中が折れそうなくらいに反り上がる。  
 
 限界はもう、すぐそこまで近付いていた。  
 
「あぁっ…、ひぁあ……やっ、やぁ、やあぁー!」  
 痛みを無くしたのかのように、紗枝は狂い続ける。意識も視覚も、半ば機能していない  
ようだった。明確な意志が感じられるのは、最早首の後ろに回された腕だけだった。  
 
「っつ…!」  
 昂ぶった先端が収束し始める。意識や感覚を根こそぎ奪ってしまうほどの強烈な快感が、  
すぐそこにまで近付いてきていた。  
 
「あはぁ…ああぁっ、んんっ、ふむうぅっ、んぅぅっ!」  
「つ……ぅ…ふっ…く…っ!」  
 本能で、半開かれた唇をむさぼりむさぼられる。繋がれるのも一瞬、繋がれないのも一瞬。  
キスと言うには、あまりにも拙く理性に欠けていて。全部が、全てが、加速していく。  
 
「やぁ、あぁぁ…た…たかにぃぃ……っ!」  
「紗枝……紗枝…っ」  
 
 名前を呼ぶ声が、吐息が混じって交錯する。  
 
 新たな爪痕が、崇之の背中を走る。  
 
 ごちりと、額同士がぶつかり合う。  
 
 互いに目を閉じていても、確かにお互いを感じ取っていた。  
「……っ…っ」  
「やっ…あっ…あああっ…!」  
 
 五感全てが弾けて爆ぜる。  
 
「……っっ…っつ!」  
 
 それを手放した瞬間、崇之は白く濁った想いの塊を気の赴くままに解き放つ。  
 
「――――っ!」  
   
 紗枝の華奢な身体が一度だけ、言葉にならない悲鳴と共に大きく律動した――――  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ガタンッ  
 
 
「…ん……」  
 風に強く吹かれたのか、はめ込まれた窓ガラスが音を立てて震える。それにつられるように、  
紗枝はそれまで閉じていた瞼に力を込める。  
 
「……」  
 
 何だか、とても懐かしい夢を見ていた気がする。  
 
 どんな内容だったのかは欠片も覚えていなかったが、懐かしいという余韻だけが胸に  
残り続けていた。ひどく現実離れしていたような気もするが、一体どんな夢だったのだろう。  
 
 ぼやけた視界がやがて定まると、目の前をじっーと見つめ始める。それに従うように、  
思考も現実の世界へと傾いていく。そこには、おそらく横たわった時から今もなお腕枕を  
してくれてる、いちばん大好きな人の寝顔があった。  
 鼻息しか立てずに眠りこける彼の顔は、思ってたよりもずっと幼くてあどけなくて。性格は  
ひねくれてるのに、なんでこんな表情を見せるんだろうと、思わず微笑んでしまう。  
 
つん  
 
 そしたら何だかちょっかいを出したくなったりして。数時間前、彼に全く同じ悪戯を  
されたことを彼女は知らない。  
 
つんつん  
 
 くすぐったそうに顔を歪める様子にくすくすと笑いながら、人差し指を彼の頬に突き立て  
続ける。  
「はー…」  
 声を出すから起こしてしまったかとも思ったが、目を開く様子は無い。どうやらただの  
寝言だったようだ。  
 
「……」  
 
(しちゃったんだ…あたし……崇兄と)  
 ふいに思い出して、頬が赤くなる。一糸纏わぬ身体を隠すように体勢を入れ替えうつ伏せに  
なると、腕ではない本当の枕を掴んでぎゅっと抱き締める。そのまま顔を半分、口元を  
そこにうずめさせた。見られていなくても、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。  
 
 あの後、ほとんど身体を動かせなかった自分を尻目に彼はせかせかと後始末をしてくれた。  
繋がっていた身体を離して、汚れた箇所をティッシュで拭いてくれて、汗で身体を冷やしたら  
いけないと半端に身に着けていた衣類を全て脱がせてくれて。それが終わったらすぐに  
隣で横になって腕を差し出してくれて、一枚の布団を共に被った。  
 その行為全てが嬉しくて、だけどやっぱり違和感を覚えてしまうことに苦笑を浮かべて  
しまって。  
 
 友人に注いでもらった勇気を使い果たし、夢の中の仮初めの思い出にひどく打ちのめされて  
いたのに。それ以前からも、ずっと気持ちが沈んでいたのに。  
 
 やっぱり崇兄はずるい。こんなに簡単に、幸せな気持ちにさせるなんて。  
だけどその力を持っているのは、崇兄だけなのだ。  
 
「ありがとね…」  
 身体を動かした際、下腹部につきりとした痛みを覚えながらも、それを表情には出さない。  
ずっと腕を貸してくれてたことに感謝をしながら、また眠った横顔を見つめだす。  
 
『ちゃんと…優しくしてやる』  
 
 ちゃんと、優しくしてくれた。  
 
『今までで……一番優しくしてやる』  
 
 今までで、一番優しくしてくれた。  
 
 溺れてしまいそうになるくらい恥ずかしかったけど、それ以上に嬉しくて。やっぱり、  
とっくに幼なじみや妹としては見られてなかったんだと分かって申し訳なくなったけど、  
お互いに本心を明かすことが出来て、仲直り出来て本当に良かった。  
「……」  
 
ちゅっ  
 
 そんな気持ちが交錯していき、思わず作ってしまう赤い跡。それが一つ二つと増えていって、  
やがて同じ箇所をまた重ね合わせてしまう。  
 
「だいすき…」  
 
 まるで小さな子供が、父親に対して言い放つような、たどたどしくも無垢色に染まりきった  
愛情表現。  
 本当は起きている時にしたいのだけれど。素直になるって、やっぱり難しい。  
 
「たかにぃ……」  
 
「呼んだか」  
 
かばっ  
 
「うわぁっ!?」  
 
 そしたら突然覆い被され、背後から伸びてきた二本の腕にがっしり捕まえられてしまった。  
ただでさえ近かった距離が、更に狭まってしまう。  
「こういうことやったりそういうこと言ったりすんのは……起きてる時にして欲しいもんだな」  
「ちょっ…お、起きてたの!?」  
「最近、年でな。すーぐ目が覚めるんだわ」  
 さすさすもぞもぞと、お尻を撫でてくる手を払いのけながら始まる、向こうが主導権を  
握ったある意味いつも通りの痴話喧嘩。やっぱり彼との付き合いは、心臓にはとても良くない。  
「やっ…触るなぁぁ」  
「んー? どこを?」  
「あたしのお尻!」  
 下腹部に痛みのせいで上手く身体を動かせなくて、わにわにと蠢く指から逃げ出すことが  
できない。顔と顔、身体と身体も徐々に狭まっていく。引いていた赤みが、再びさっと  
差していく。  
 
「も…もう! ほんとすけべなんだから!」  
「しょうがねーだろ。半年近くお預け食らってたんだからな」  
「それは…その、悪かったと思ってるけど。だからってこんな…」  
 言い返され言い返そうとした時、紗枝は太ももあたりに妙な違和感を覚える。何か熱くて  
固いものが当たっているのだ。しかもそれは強く脈打ちどんどんと大きくなってきて―――  
 
 
「やーーーっ!!」  
 
 
 それが何なのか気付くと、思わずじたばたと暴れだしてしまう。  
「いやぁー! 変態ー! エロー! 痴漢ー!」  
「ンなこと言われてもなぁ…生理現象はどうしようもねぇだろ」  
 収まっていた腕の中から抜け出して、そのまま起き上がり枕でばっすんばっすんと彼の  
頭を叩きつける。しかし何度叩いても意に介されることもなく、首を傾げられ、言い訳される  
ばかりだった。  
「なんでそんなに元気なんだよ!」  
「そりゃー半年近くもお預けを食らったら、一回ぐらいじゃあな」  
「うるさいっ!」  
「お前から聞いてきたから答えてやったんぢゃねーか」  
「うるさいうるさいっ!」  
 相変わらずというかなんというか。仲直りしても関係が進んでも、端から聞いてると  
"らぶこめちっく"にしか聞こえない二人の喧嘩には、一向に変化が訪れる様子がない。  
 
「ったくうるせーな。何発も叩きやがって」  
「あっ!」  
 と、意識をそちらに集中させてしまっていたせいか、あっさりと枕を奪われてしまった。  
これじゃ彼の頭を叩く道具が無い。  
「返してよっ」  
「俺のだろうが」  
 奪い返そうと素早く手を伸ばすが、悲しいかなあっさりかわされ空を切るばかり。  
 
がしっ  
 
 それどころか、せわしなく動かしていた両腕はあっさりと彼に掴まれてしまう。  
 
がばりっ  
 
「わっ…」  
「ほら、暴れるのはもういいからもうちょっと寝とけ」  
 しかも、彼の腕の中に身体を閉じ込められてしまう。こうなるともう、どれだけもがいても  
無駄な努力に終わるだけだ。  
「もう…ずるい……」  
「そう言うな。裸だと寒いだろ?」  
 鼻腔が、崇兄の匂いで満たされる。同時に、胸が様々な感情で満たされる。昨日までとは  
あまりに不釣合いな幸せの連続に、どうにも慣れることが出来ない。  
「……もう…」  
「ははは」  
 たくさん言いたいことがあったはずなのに。文句だけじゃなくて、お礼や伝えたいことが  
たくさんあったはずなのに、それがちっとも出てこない。恥ずかしさと悔しさで俯いて  
そこに埋まってみせれば、満足げに笑う声に鼓膜をくすぐられた。  
 
 外を見やるとかなり薄暗い。まだ太陽は、地平線の向こうから完全に顔を出してはいない  
ようだ。時計に視線を移すと、時刻は四時半を過ぎたあたり。随分眠ったとも思ったが、  
この部屋に入った時刻を思い起こし、まだこんな時間なのも仕方ないかと考え直す。  
 
 
「でも…」  
「ん?」  
「お腹空いたね」  
「……まーな」  
 当初は話だけをして帰るつもりだったから、昨晩は夕食をとっていない。意識がはっきり  
していけばしていくほど、寝起きとはいえ空腹感を覚えてしまう。  
「食べる?」  
 部屋を掃除した時、確か流しの傍に食パンが無造作に置かれていた気がする。それを  
トースターで焼けばちょっとした腹ごなしにはなるだろう。  
「いや、いい」  
「……」  
 ところそれを拒まれる。お腹が空いてることに同意したのになんで断るんだろうと、  
訝しがるように視線をその表情に向けた。  
 
 
「寒いし、眠い」  
 
 
「……」  
 その瞼は既に、静かに閉じられている。回された腕の力が、ほんの少しだけ強まった気がした。  
「へへー」  
「…ンだよ」  
 言葉に隠れた彼の本心をしっかりと感じ取り、どうにも顔のにやけが収まらなくなってしまう。  
 
 幼なじみだから知っている。  
 
 こんなひねくれた性格で、あまり自分の気持ちとかを語ろうとしない人だから。「好きだ」  
とか言う時は決まってふざけてる時で、その本音を表す時は、決まって言葉を濁したり  
はぐらかしたり遠まわしな台詞を口にしたりするのだ。  
 
「嬉しい」  
「……」  
 にこりと笑みを浮かべて、曲がりくねったボールをまっすぐ投げ返してみれば、片方の  
瞼が少しだけ開く。少し不機嫌そうに口元を歪めると、ふいと顔を逸らした。  
「…調子乗ってるとまた泣きを見るぞ」  
「崇兄が……傍にいてくれるもん」  
「……」  
 布団と彼の暖かさに包まれて、また少しだけ瞳がとろついてしまう。  
おかしい。崇兄が珍しく自分に対する気持ちを口にしてくれたっていうのに、こうまで  
素直になれる自分は、どうにもおかしい。普段だったら、頬や耳や顔や身体が全部赤くなって  
熱くなって何も言い返せなくなってしまうのに。というか、ついさっきまでそんな感じだった  
はずなのに。  
 もしかしたら、抱きしめて時点でもう眠ってしまっていて、これも夢なのかもしれない。  
それならちょっと納得がいく。  
 
「ま、そう言ってもらえるのは光栄だし嬉しい限りだが」  
 
 背中に回されていた大きな手の平が、少しずつ、少しずつ上に上がってくる。肩、首筋、  
後頭部を撫でて、そしてそのまま―――  
 
 
くしゃり  
 
 
「あんま信用すんなよ?」  
 頭を、ゆっくりと撫でられてしまう。  
 
 わしゃわしゃと、跳ね返った癖っ毛を軽く押さえつけられるように。  
 
「……」  
「……」  
 
 お互いに、じっと見つめあう。片や目を丸くして、驚いた表情で。片や眠たそうに、  
少し不機嫌な表情で。  
「……」  
 紗枝は、ただ驚いていた。どうして分かったんだろう。どうして、頭を撫でて欲しい  
なんて思っていたことを、見抜かれたんだろう。  
 
 昔からずっとされ続けてきた行為は、去年の夏終わりの河川敷で、もう一つの大きな意味を  
携えることになった。その時のあの奇妙な色した空の様子は、今でもよく覚えている。  
 
「なんで…分かったの?」  
「? 何をだ?」  
「その……撫でて欲しいって思ってたこと」  
 夢の中でされた時は激しく傷つけられた行為だったけど、一度抱いてもらった今なら、  
もう大丈夫だと思っていた。何より、そうされることが、幼い頃から好きだった。そこに  
どんな意味があったとしても、相手がそれを込めていなければ大丈夫だと思えたのだ。  
 
 だけどして欲しいなんてまだ口にも態度にも出してなかったし、崇兄の方からしてくれる  
なんて思ってもいなかった。  
 
「さぁ、よく分からん」  
 首を傾げそう答える彼は、本当に自分でも良く分かっていない様子だった。  
「ただ…気付いたらもう撫でてた」  
 なんでなんだろうな、そう呟くと彼の手の平は再び背中を掻き抱く。  
「お前がそうしてほしいと思ってたなら、良かったけどな」  
 ふっと短く息をつくと、それが微かに顔をくすぐる。また距離がぐっと近くなって、  
間近で見つめることになったその表情には、明らかに安堵の色が浮かんでいた。  
 
「……」  
 
 その表情を垣間見た時、彼女の心にもまた、不可解な欲求が灯ってしまう。何故なのか、  
理由は分からない。だけど彼が頭を撫でてくれたのなら、自分もそうしなきゃいけない  
という使命感にも似た気持ちが、ふつふつと湧き上がってきたことだけは確かだった。  
 
「あ、あの…」  
「ん?」  
「あ…ありがと……」  
「どういたしまして」  
 それは、こうしてお礼を言うことじゃない。  
 慣れないことだから、というより今まで一度もしたことないことだから。  
 
「…た……たか…」  
 
「…?」  
 当然、鼓動はペースを速めていく。胸の前でぎゅっと手の平を握り締めて、彼の胸に  
額をトンともたれさせながら。紗枝は消え入るような声で、微かに口を動かした。  
 
 
 
「た…崇……ゆ…き……っ」  
 
 
 
「……」  
「……」  
「…………え?」  
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ」  
 間の抜けた声が頭の上から降ってくると、途端に視界が爆発を起こす。彼から身体を背けて  
小さく丸まってしまおうとするものの、更に力強さを増した絡み付く腕が、それを許して  
くれない。  
「やっ…ご、ごめんなさい」  
 何を言われるのか怖くなって、思わず謝ってしまう。そんなことで怒るような人じゃない  
ってことは、とっくに分かってるはずなのに。  
 
「呼び捨てしやがってコノヤロー」  
 
 口調の汚さとは裏腹に随分嬉しそうな色合いで響いたその台詞は、彼女の混乱を余計に  
助長させることとなった。  
「ごめん…っ……ごめんなさい…」  
「全くだ。四つも年上の人を呼び捨てとか酷いぞ」  
 
 幼なじみだから知っている。  
 
 こんなひねくれた性格で、あまり自分の気持ちとかを語ろうとしない人だから。「好きだ」  
とか言う時は決まってふざけてる時で、その本音を表す時は、決まって言葉を濁したり  
はぐらかしたり遠まわしな台詞を口にしたりするのだ。  
 
 だけど、知っていても困惑が止まってくれない。慣れないことはするもんじゃないと、  
今になって激しく後悔するのだった。  
 
 
「さぁ、じゃあもうちょっと寝るか」  
「こ、このまま?」  
「このまま」  
 裸のままぎゅっと抱き寄せられたこの状態は、眠るには適していない。体勢が悪いし  
少し暑苦しいし、何より心臓に多大な負担がかかる。  
 彼は、分かっているようだった。どうしていきなり、呼び捨てで名前を呼ばれたのか。  
理由を聞いてしまった自分とは違ったその様子が、どうにも悔しい。  
 
「おやすみ」  
「……」  
 
 自分の意見や気持ちを丸々無視するその態度を、やっぱり彼らしいと思って微笑んで  
しまうのはおかしなことだと思う。冷たくされて喜ぶなんて、考えなくても変だ。だけど、  
こうして育ってきた。二人にとっては当たり前のことなのだった。だからこれは、おかしな  
ことでもなんでもない。当たり前のことなのだ。  
 
「うん……おやすみ」  
 
 それから少し時間を置いて、自分でも聞き取れないくらいの声で、彼女は囁き目を閉じる。  
 
 
 その瞬間、瞼の裏には見たこともない、だけどなんだか懐かしい夕餉時の光景が浮かんで  
消える。崇兄と、自分と、そして小さな男の子と女の子の四人が並んであぜ道を歩く、  
思い出写真にも思える刹那の一幕。  
 
 
 それが一瞬、浮かんで消えてしまう。  
 
 
 何を表しているのか、まるで分からなかった。  
 
   
 どうしてそんなものが見えてしまったのかも、分からなかった。  
 
 
 唯一つ、たった一つ分かっていたのは。  
 
 
 それがひどく、現実離れしている情景だということだけだった――――――  
 
 
 
 

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