どこにいたのか、何をしていたのか。  
 
 一体いつから、いつの間にこんなところにいるのだろう。  
 
 彼に抱きしめられるように眠ったはずなのに、紗枝は何もない空間を歩き続けていた。  
その意識は、まどろみの中を漂っている。ただぼやけていただけの視界はやがて形を成し、  
見慣れた情景をかたどっていく。  
 
 形となったのは、黄昏時の河川敷。  
 
 その坂の上を通るあぜ道を、彼女はいつの間にか歩いていた。  
 
 そういえば崇兄に一度振られた時も、周りの様子はこんな感じだった気がする。そんな  
悲しいだけだった思い出にも、今では懐かしさすら覚えてしまう。あの出来事も、いつかは  
笑い話として語ることが出来るような気がした。  
 
「ひっく……ひぅ…」  
 
 ふと前を向くと、小さな女の子が目をこすりながら泣きじゃくっている。年はまだ四、五歳  
くらいだろうか。大人しそうな印象とは裏腹に、身につけている白いワンピースのあちこちを、  
泥や土で汚してしまっている。  
 
「どうしたの?」  
 こんな年端もいかない子供がこんな時間に一人きりなら、さぞかし寂しいに違いない。  
迷子なのだろうと分かっていながらも、しゃがみこんで声をかける。  
「……おいてかれたの」  
 すんすんと泣きじゃくりながら、女の子は呟く。周りには誰もおらず、ひどく心細かった  
のだろう。  
「そっか……家の場所分かる?」  
「……」  
 無理だろうと思いながら聞いてみたが、案の定首をぶんぶんと横に振られてしまう。  
交番は遠いが、家の場所が分からないのであればそこ以外に連れて行く場所も思い当たらない。  
まさか、自分の家に連れて行くわけにもいかないわけで。  
「じゃあ、おまわりさんのところに行こっか」  
「……」  
「ね?」  
 不安げに見つめ返されるが、ニコッと笑い返すと、女の子はおずおずと手を伸ばしてきた。  
差し出されたそれを握り返すと、女の子の歩調に合わせて、またゆっくりと歩き始める―――  
 
 
「そっか、酷いお兄ちゃんだね」  
「……」  
 手を繋ぎながら、紗枝は呟く。  
 女の子がなかなか口を開いてくれず、事情を知るのはなかなか難儀だった。簡潔に  
言ってしまえば、一緒に遊んでいた男の子と、家路につく途中ではぐれてしまったらしい。  
「ち、ちがうの…お兄ちゃんはひどくないの。わるいのは…ちゃんとついていかなかった  
あたしなの」  
 普段からあまり口を開かない子なのだろう。どうにも口調がたどたどしい。  
「そう、ごめんね」  
 泣きそうな顔になる女の子をあやすように、素直に謝る。この子にとって、そのお兄ちゃんは  
とても大切な存在らしい。あまりに可愛らしいその仕草言葉に、思わず微笑んでしまう。  
 
「お兄ちゃんのこと、大好きなんだ」  
「……」  
 女の子は、思いきり顔を縦に振る。だけど置いていかれた寂しさからか、表情は冴えない。  
「どんなところが好きなの?」  
「……」  
「……そっか」  
 
 今度はぶんぶんと、思いきり横に振る。その理由は、女の子自身も分からないのだろう。  
分からないけど、「好き」なのだ。  
 
「お姉ちゃんは…いるの?」  
「ん?」  
「…すきな人」  
 聞かれて少し逡巡する。言うにしても、ちょっとは躊躇ってしまう質問だし、何より  
この大人しそうな娘にそんなことを聞かれるとは思っていなかった。  
 
「いるよ」  
 
 だけど次の瞬間には、そう口走っていた。こんな小さな子にのろけるなんて、我ながら  
おかしいと思う。  
「その人は…お姉ちゃんのことすきなの?」  
 弱々しいながらも、しっかりと視線を向けられる。似たような形の瞳で、それをやんわりと  
見つめ返す。  
「……ずっと言ってくれなかったんだけどね。この前大好きだって言ってもらえたよ」  
「そっか…」  
 しょんぼりとうなだれる女の子を見て、大人気なかったかなと直後に感じてしまう。  
だけど言ってもらえた時は、それくらい嬉しかったのだ。それくらい、気持ち想い全てが  
あの瞬間に爆ぜたのだ。  
 
「いいなぁ……」  
 
 いかにも羨ましいといった声に、微笑みと苦笑が入れ替わる。そのお兄ちゃんに、  
既にしっかりと大事にされてるってことには、まだ気付くことが出来ていないらしい。  
「でも、あたしも頑張ったから」  
「……そうなの?」  
「うん、どうしても好きになってもらいたくて、その人が好きな性格になろうとしたり、  
褒めてもらった髪型をずっとそのままにしたりね」  
 大したことじゃないんだけどね、と付け加えてはにかんでみせる。横から降り注いでくる  
オレンジ色の太陽の光が、どうにも眩しい。  
 
「じゃあ…あたしもがんばれば、お兄ちゃんもあたしのこと……みてくれるのかな…」  
 
 そう言うと、女の子は顔を真っ赤にして俯いてしまった。「お兄ちゃん」なんて呼んで  
しまっているけど、ほんとは一人の女の子として見てもらいたいのだろう。その気持ちは、  
痛いほどによく分かる。紗枝自身も、ずっと、ずっと矛盾した想いと戦い続けてきたのだから。  
 
「ずっと…好きでいられればね。きっと見てもらえるよ」  
 
「……うん」  
 すると、女の子はそこで初めて口元に笑みを浮かべる。綻んだその表情は、とっても  
可愛らしい。  
 
「でもそれだけじゃ大変だよ? ちゃんと繋ぎ止めておかないと、お兄ちゃん他の娘の  
ところに行っちゃうよ?」  
「え……」  
 くれぐれも油断しないように注意をつけ加えると、途端に浮かんでいた笑みは消え去って、  
今にも泣き出しそうになる。  
 かわいそうなことしたかなとも思うが、望んだ未来を手に入れるためには、想いだけじゃ  
足りないのだ。彼の不条理な行動に耐えるために必要な強さも、ちゃんと手に入れてないと  
いけないのだ。  
 
「どう…どうしたらいいの……?」  
「ん?」  
「どうしたら…お兄ちゃん、ほかの女の子のところに行かなくなるの……?」  
「そうだね…」  
 
 少しだけ考え込む。どう行動したら、もっと早く彼に異性として意識されていたか。  
どんな態度で接していれば、もっと早く彼と両想いになれていたか。  
 
「もっと素直になって…もっとワガママになって……それで一番大事なのは、もっと勇気を  
持つことじゃないかな」  
 考えぬいた結果、あの時の自分の心の中には無かったものを、彼女は探り当て言葉にこめる。  
沈みかけた太陽はなかなか傾いていかず、地平線から半月状の姿を晒している。  
 
「素直になれないと誤解を生んじゃうことがあるし、ワガママになれないと大事な時に  
引いちゃうし、それに……勇気を持てなきゃいつまで経っても関係は変わらないままだからね」  
   
 少し難しい言葉を使ってしまったから、理解してもらえないかもしれない。実際に、  
女の子は何も言わずじっと見つめてくるものの、その瞳には戸惑いの色が浮かんでいる。  
顔を傾け思案に暮れるものの、それが晴れる様子は一向に訪れない。  
「今は分かんなくても、覚えていればそのうち分かるよ」  
 頭の上にぽすんと手を置いて、ゆっくり撫でる。猫のように顔をむず痒そうに歪める  
女の子の表情に、たまらず微笑みを零してしまうのだった。  
 
 そういえば、彼にはもう随分としてもらっていない。仕方ないこととはいえ、そうされるのが  
嫌いじゃなかっただけに、それが少しだけ寂しかった。  
 
「さえーっ!」  
 
 すると突然、背後から大きな声をかけられる。二人が同時に振り返りその目に映ったのは、  
いかにも活発そうな少年と、自転車にまたがった彼女の彼が、こっちに向かって駆けてくる  
ところだった。  
 
 
 とくんと一つ、音が跳ねる。  
 
 
 追いかけてくる青年と少年の姿に、紗枝は軽く目を見張り、女の子はくしゃりと顔を  
歪めてしまう―――  
 
 
 
 
 
 どこにいたのか、何をしていたのか。  
 
 一体いつから、いつの間にかこんなところにいるのだろう。  
 
 彼女を抱きしめるように眠ったはずなのに、崇之は何もない空間を歩き続けていた。  
その意識は、まどろみの中を漂っている。ただぼやけていただけの視界はやがて形を成し、  
見慣れた情景をかたどっていく。  
 
 形となったのは、駅前のスクランブル交差点。  
 
 それなりに人ごみで溢れかえっているのに、彼は何故か見覚えの無い自転車を手でカラカラと  
押し続けている。それが自分でもよく分からない。まあ折角あるのだから、人ごみを抜けたら  
このまま漕いで家に帰るとしよう。  
 ふと、駅前の様子をぐるりと見渡す。一度彼女との関係が終わって久々に顔を合わせたのも、  
正直に向き合って初めて秘め事を交わしたのもこの場所だった。あれからまだ半年も経って  
いないのに、なんだかひどく懐かしい。それなりに辛い思い出だったはずなのに、思い起こせば、  
ついつい頬と口元が緩んでしまうのはどうしてなのだろう。  
 時間はそろそろ夕餉時で、太陽は赤く焼け落ちようとしている。そういえば随分と腹が  
減った。早く家に帰って何か食いたい。  
 
「はぁ…はぁ…はぁっ……」  
 と、ふいに激しく息を切らす声が耳に届いてくる。その方向に顔を何気なく向けてみると、  
野球帽を被った小学三年生くらい男の子が、膝に手をつき肩で息をしているのが視界に  
飛び込んできた。  
「はぁ…はぁ……どこにいるんだよ…っ」  
 どうやら人を探しているらしい。再び走り出そうとするものの、もはや身体が限界なのか  
のろのろと歩を進めるので精一杯のようだ。  
 
「おい」  
 
 思わず声をかけてしまう。普段なら、こんな小さな男のに声を掛けるなんてことは絶対に  
しないのに。自分の行動に疑問を抱いてしまうものの、彼はそのまま言葉を続ける。  
「誰を探してんだ?」  
「はぁ…はぁ……」  
 自分に声をかけられていることに気付かないのか、それともそんな余裕が無いのか。  
少年は息も絶え絶えに歩みを進めていく。  
 
「……お前に言ってんだがよ」  
「うぉわっ!?」  
 それでも無視されたことに変わりはない。そのことに少しだけ腹を立てながら、男の子の  
野球帽を掠め取る。  
「なにすんだ!」  
「てめーが人の話聞かねーからだ」  
 盗んだ帽子を人差し指の先に引っ掛け、くるくると回し始める。この男、本当に大人げない。  
 
「女の子さがしてんだよ! 早くかえせよう!」  
「途中で置いてきたのかよ、酷い彼氏だな」  
「あいつが遅いのがわるいんだ。それに彼女じゃねえ、どっちかっていうと妹だ」  
「あー? なんだそりゃ」  
 答えを返され、弄んでいた帽子を素直に男の子の頭に被せ直し、会話を重ねながらその後を  
ついていく。というより、たまたま家路と同じ方角なだけなのだが。  
 
「向かいの家にすんでる小さい女の子なんだ。俺がいないと何にもできないやつだから、  
早くさがしてやらないと……」  
「はー……なるほどね」  
 適当な相槌を打ちながらも、眉間に皺を走らせ深く長く溜息をつく。そういうことか、  
まったく面倒臭い話だ。  
「つーかなんでついてくんだよ、あっち行けよう」  
「あのな、家がこっちなんだよ」  
 男の子の方はこれ以上付き合いたくないらしく、減らず口を叩きながら段々早足になっていく。  
しかし、所詮は子供の歩幅である。大した差がつくはずもない。  
 
「なんだよう、気持ちわりーなぁ」  
「まあそう言うなって。どうだ? なんなら後ろに乗っけてその子探すの手伝ってやるぞ?」  
 もう自分の行動に疑問を抱くこともない。人の波も少なくなり、ゆっくりとサドルにまたがると、  
その場にカラカラと車輪の回る音が響き始める。  
「マジか! いいのか!?」  
 するとそれまでの邪険ぶりはどこへやら、男の子は途端に顔をパッと顔を輝かせる。  
口では何だかんだ言っておきながら、体力的にはもう限界だったらしい。  
 
「わざわざそんな嘘つかねーよ面倒臭え」  
「そっか! じゃあ早くうしろにのせろ!」  
「『乗せて下さい』だ馬鹿野郎」  
 たしなめている間に、男の子は既に後部座席に座り込む。随分と無礼な行為なのだが、  
やっぱりどことなく親近感を覚えてしまう。  
「んじゃしっかり掴まってるんだぞ、落ちても拾わねーからな」  
「おう。……でも、もうどこをさがせばいいかわかんないんだよな、いつはぐれたかも  
おぼえてないし」  
 
「……とりあえず河川敷行ってみるか。どうせいつもそこで遊んでんだろ?」  
「なんでわかるんだ!?」  
「勘だよ勘。んじゃ行くぞ」  
 分かりきっていたことだから、大して偉ぶることもない。男の子の当然の疑問にも、  
適当に受け流す。  
 
チリンチリーン  
 
 ベルを鳴らして、崇之はまた強くペダルを踏みしめだす。それに連動して、自転車は徐々に  
スピードが速まっていく。  
 吹きつけてくる風と赤く染まった夕日を顔に受け、行き慣れた河川敷への道を、二人は  
ゆっくりとたどり始めるのだった―――  
 
 
 
 
「だからさー、もうカンベンしてもらいたいんだよなー」  
 河川敷へ向かう道中、男の子はずっと喋り続けていた。内容はというと、はぐれてしまった  
女の子への愚痴不満である。面倒を見てやってるのに更にやっかい事を増やされてしまった  
ことに、どうやら我慢がならなかったらしい。  
 崇之はそれを半分聞き流し、適当に相槌を打っている。ちゃんと聞いていなくても、その内容が  
ほとんど分かっているからだ。  
「こまったらすぐ泣きわめくし。毎回俺がなぐさめてんだぜー?」  
「はっは、そりゃ大変だな」  
 言いたいことは分かるし、共感も出来る。でもそれが、言葉そのままの真っ正面な本心で  
ないことも分かっていた。  
 
「ほんとジャマなんだよなー、ついて来られるとうっとおしいし友達にからかわれるし」  
 
「ほー……」  
 
 だから心にもないことを言ってきたなら、それもすぐに分かってしまうのだ。  
 
「本当は凄く大事にしたいくせによく言うぜ」  
「なっ」  
「図星だろう」  
「ふっ、ふざけたこと言うなよ!」  
 本心をずばり突っ込んでみれば、案の定取り乱す。昔こんな時代があったのかと思うと、  
どうにも鼻で笑いたくなってしまう。  
 
「隣からいなくなって、それでようやく色々気付くようじゃ…本当は駄目なんだぞ」  
 
「……なんだよ、それ」  
「はははさあな」  
 それが皮肉であり惚気であることに、男の子は当然気付かない。  
 
 そうこうしているうちに、目的地まですぐの地点までやって来る。橋の袂にある舗装されて  
ない脇道が、河川敷の坂の上を通るあぜ道だ。  
 車体をガタつかせながら車輪を転がしていくと、やがて前方に人影が見え始める。  
目を凝らしてみると、高校生くらいの女の子と小さな女の子が、手を繋いでゆっくりと  
歩いている姿のようだ。  
「あ! あのちっちゃい方がそうだ!」  
(紗枝じゃねーか、何やってんだあいつ)  
 
 心の声と耳に届いた声が重なる。  
 
「おい、おろしてくれ!」  
「『降ろしてください』、だろ」  
 
 その口汚さを注意しながらも、崇之はゆっくりと自転車の速度を落としていく。  
 気が逸ったのか余程心配していたのか、男の子は止まりきらないうちにそこから飛び降りる。  
体勢を大きく崩しながらも脚をしかと前へと踏み出し、声を大きく張り上げる。  
 
 
「さえー!」  
 
 
 その声に弾かれるように二人は振り向く。少女の方は今にも泣き出しそうに顔を歪め、  
紗枝の方は声を発した少年ではなく、崇之の方を向いて目を見張らせた。  
 
「ふぇ…っ」  
「……っ」  
 
 お互いに不安だったのだろう、二人の間で男の子と女の子は揉み合うように抱きしめ合う。  
 
「…ちゃんとついて来いよな」  
「ごめんなさい……」  
「何もなかったからいいけどな。あってからじゃ…おそいんだぞ?」  
「……ひっく…」  
 お互いに小さな身体が、更にきゅっとひっつき合う。  
 
 崇之は鼻を鳴らしながら自転車を降り、その場に止める。紗枝はホッとしたように表情を  
綻ばせ、彼の傍に近寄っていく。互いに寄り添い、小さな身体が重なる様子を見つめ続ける。  
「……懐かしいね」  
「そうだな…」  
 隣り合い、思い出されるのは昔話。  
 
 いつもの、ことだった。  
 
 どんなに落ち度があっても、彼は絶対に謝らなくて。  
 どんなに落ち度が無くても、彼女は絶対に謝って。  
 
 どう見ても心配している様子なのに、頑なにそれを認めなくて。口調は責め立ててるのに、  
声は思いの他優しくて。  
 なかなか泣き止めないけれど、胸の中は見つけてもらえた安心感でいっぱいで。いつも  
ああして怒られるけど、顔を上げれば心底心配している様子の表情がそこにあって。  
 
「ケガとかしなかったか?」  
「……だいじょぶ」  
「…次からは気をつけるんだぞ?」  
「うん……ごめんなさい」  
 
わしゃわしゃ  
 
「あ…」  
「……」  
 おもむろに、男の子はその小さな頭をくしゃりと撫でる。  
 その様子に紗枝は羨ましそうに、崇之は目を細めて反応を示す。今の二人には出来ない  
行為が、随分と眩しく懐かしい。  
 
「そか。じゃあ、帰るか」  
「ぁ…ちょっとまって」  
 
 女の子はそう言うと、トテテテと紗枝の傍に近付きゆっくりお辞儀をする。  
「あの…ありがとうございました」  
「どういたしまして」  
 なんとも微笑ましくも可愛らしい仕草にまたまた頬が緩む。紗枝が軽く手を横に振りながら  
それに応えると、女の子はホッと安堵の溜息をこぼした。  
 
「何かしてもらったのか?」  
 戻っていった彼女に、男の子は声をかける。本来人見知りのはずのその娘が、自分以外の  
人と話をしたことが珍しかったのだろう。  
 
「うん。いろいろだいじなことおしえてもらって…あたまもなでてもらったよ」  
「……」  
 はにかみながらの嬉しげな台詞に、男の子の表情はみるみる渋っていく。不満を一杯に  
携えて、今度は彼の方が紗枝の元へやって来る。  
「あのさ」  
「なあに?」  
「こいつのメンドウ見てくれたことには、ありがとうだけどさ」  
 その顔が変化することはない。男の子はそこで一呼吸置くと、一層大きな声で口を張り上げた。  
 
 
「こいつの頭をなでていいのは、俺だけなんだからな!」  
 
 
「ぇ…」  
 
 夕日。赤色。風陰り。  
 
 舞った言霊は、すぐにさらわれていく。  
 
 その台詞に、紗枝は驚きながら僅かに頬を赤らめる。崇之は露骨に顔を歪め、舌打ちし  
溜息をついて目頭を押さえる。  
「分かったら返事しろよう!」  
「あ、う、うん。ごめんね」  
 なおも詰め寄られ、困惑したまま頭を下げる。その様子を見て、彼は満足したように  
フフンと鼻を鳴らすのだが、次の瞬間、崇之に平手で頭をバシンと叩かれてしまうのだった。  
 
「いってぇ!」  
「余計なこと言ってんぢゃねーよ」  
「なんでたたくんだよ!」  
「自分で気付けバーカ」  
 東の方角へ細く長く伸びきった、四つのうち二つの影が踊りくねる。小さい影は素早く  
動き回り、大きい影はそれを容易くいなし続ける。  
 
 
「や、やめてよぉ」  
 
 
 そして、しばらく止まないようにも思えたその争いをすぐに止めさせたのは、今にも  
泣きだしてしまいそうなほどに小さい、女の子の声だった。  
 
「あたしのお兄ちゃん…いじめないでよぉ……」  
 
 両手ともワンピースのスカート部分をギュッと掴み。俯く長い前髪の向こうからは、  
微かにしゃくりをあげる声が聞こえてくる。  
「な、泣くなよ、さえ。ほら、ケンカならもうやめたぞ?」  
「あー……ごめんなお嬢ちゃん。俺がちょっと大人げなかった。悪かったな」  
 この様子にはさすがに崇之も男の子も参ったようで、大人しく謝り女の子をあやしにかかる。  
まあ、大人気ないのはちょっとどころではないのだが。  
 
「……ほんと?」  
「ほんとほんと! なぁ、俺たちもうケンカしてないよな!」  
「まーな」  
「だから泣きやめ。な?」  
「うん…わかった」  
「よーし」  
 
 言いながらまた頭を撫でると、女の子はすぐに機嫌を直して笑顔を浮かべる。それに  
釣られたのかどうなのか、今度は崇之が笑みを漏らし、紗枝が顔を背けるのだった。  
 
 こんなにクソ生意気だったのか。  
 
 こんなに繊細だったんだ。  
 
 二人のやりとりを見ての印象が、二人の頭によぎる。だけどそれが、少年少女に気付かれる  
ことはない。  
 
「それと、あのさ」  
「……?」  
「もう『お兄ちゃん』てよぶなって、言わなかったか? ほんとの兄妹でもないのに、  
そうよぶのはおかしいって、ちゃんと言ったと思うんだけどさ」  
「…」  
 突然切り替わった話に、女の子は見るからにショックを受け、瞳の色が悲哀に満ちる。  
ただでさえ小さな身体が、余計に小さくなってしまったように思えた。  
「その、なんだ。それに俺がそうよばせてるみたいにほかのヤツに思われてるみたいでさぁ、  
なんつーか、はずかしいんだよ」  
「……ごめんなさい」  
 またじわじわと、瞳の縁に涙が貯まっていく。男の子もそれが分かっているのだろう、  
敢えて見当違いの方向を向いて、その顔を見ないようにしている。  
 
「じゃあ…」  
 
「ん?」  
「じゃああたし、もう…なまえ、よべないの?」  
 当然の不安ではあった。物心ついてからずっと使っていた呼び名を否定されてしまっては、  
そう考えてしまうのも仕方なかった。  
 
 
「ああ、それでだ。今日から俺のことを『崇兄』ってよぶんだぞ?」  
 
 
 その言葉に、少女ではなく紗枝が目を見開き、崇之の顔を覗きこむ。彼の方はと言うと、  
視線を見つめ返しながら、少し照れたように口元を手で隠すばかり。それでも、指の隙間からは  
にやついた笑みがこぼれている。  
 
「たか…にぃ…?」  
「そうだ。かっこういいだろ? 崇之の『たか』と、兄の『にい』をつなげたんだ」  
 そう呼ばせようと思い立ったのは、当時の戦隊モノか何かのテレビ番組に触発されたのが  
きっかけだったような気がする。中途半端なところで止めた呼び名が、随分と荒っぽく  
格好良い響きに聞こえたものだ。それにこの呼び名なら、他の人がいるところで呼ばれても  
恥ずかしくないだろうと考えたのである。  
 
「というわけだ、これからはそうよべ。そしてこれからも、俺のことをうやまうのだ」  
 
 一転自信ありげな満面の笑顔を浮かべて、ビシッと立てた親指で自分の顔を指している。  
本人的はその仕草が最高に格好良いと思っているようだが、傍から見ていると物凄く滑稽に  
見えてしまうのは、この際黙っておこう。  
 
「……」  
「さえ?」  
「……」  
「……もしかして、いやか?」  
「……"うやまう"って、どういういみなの?」  
 新しい呼び名を使うことに抵抗を示したのかと思いきや、聞き慣れない言葉の意味が  
分からなかっただけらしい。男の子も一瞬戸惑ったが、その質問にすぐに気を取り直す。  
 
「あ、あぁ。"うやまう"っていうのは…その、……えー、うーん……、あこがれとか、  
好きとか、たしかそういう意味だな!」  
 だけど彼自身もまだ幼く語彙が少ないせいか、なんだか断片的で、よく分からない説明に  
なってしまう。分かってはいるのだが、そんな様子に傍から見守る二人は、片方はやっぱり  
頭を抱え、もう片方はくすくすと笑みを零し続けるわけで。  
 
「……すき…」  
 
 しかし一部の言葉だけを反芻する少女を見るに、それだけでも充分だったようだ。憂いを  
帯び続けていたその瞳が、爛々と輝き始める。  
「よし、一回よんでみてくれ」  
「……いま?」  
「今!」  
「……」  
 その反応に、受けは悪くないという手応えを掴んだのだろう。男の子は、新しい呼び名で  
名前を呼ばせることを強要する。こういう自分本位なところは、今でもあまり変化が無い。  
 
「………た…」  
「た?」  
 
 俯いて汚れたスカートの裾を掴む少女の顔色は、夕陽の逆光に阻まれ分からなかった。  
 
 
「……たか…にぃ…」  
 
 
 呟かれた台詞は、ひどく小さい。  
 
「おう!」  
 
 それでも、これでもかというくらいに喜びを爆発させる男の子の様子に、女の子は  
少しだけ、ほんの少しだけはにかんだ笑みを浮かべるのだった。  
 
「じゃ、いくぞ。もうはぐれるなよ」  
「……うん」  
 きゅっと小さな手の平を繋ぎ合わせると、二人は夕陽の照らされる方角へと歩いていく。  
 
 いつの間にか、お互いの空間は隔離されていたのだ。  
 
「……」  
「……」  
 崇之も紗枝も声を発することなく、その様子を見届ける。うねったあぜ道に沿っていく  
二人の小さな後ろ姿は、しばらくすると見えなくなってしまった。それでも、じっとその  
方角を見つめ続ける。  
 
「……覚えてなかったか」  
「崇兄は、覚えてたの?」  
 共に並んで、ゆっくりと歩き始める。崇之が乗ってきた自転車は、いつの間にか姿を  
消してしまっている。  
「まぁな、自分から言い出したことだったし」  
「……ずーっと『崇兄』って呼んでるもんだと思ってた」  
 現実にはありえないその事態にも、特に驚くこともない。  
 
「にしても、ちっちゃかったなぁ」  
「あはは、そーだね」  
 やがて道から外れ、二人はオレンジ色の草を踏みしめざしざしと坂を降りていく。  
 
「……あんなに可愛かったんだね」  
「うるさいの間違いじゃねーのか」  
「えー、可愛かったってば」  
「その意見には同意できんな」  
 河辺まで歩みを進めて、隣り合ったまま、どちらからともなく腰を下ろす。  
 
「えー、だってさ」  
「? なんだよ」  
 
「『こいつの頭をなでていいのは、俺だけなんだからな!』、だよ?」  
「……」  
 
「『あたしのお兄ちゃん…いじめないでよぉ……』、だっけ?」  
「……」  
 
「……」  
 
「……」  
 
「……」  
 
「……」  
 
 
「「何だよ」」  
 
 
 お互いに対する不満は、同時に噴出する。そしてこれまた同時にそっぽを向くが、それも  
長くは続かないわけで。  
 
「ねぇねぇ」  
「ん?」  
「あたしからも、一つお願いがあるんだけどさ」  
 並んで座り込むこの状態は、いつぞやの状態をリフレインさせてくる。だけどそれが頭に  
よぎっても、もう心がざわめくことも無い。  
 
 
「その…頭、……撫でて欲しいな」  
 
 
 それはこうして今までのように、そして今まで以上に隣にいることができているからであって―――  
 
 
「……は?」  
「やっぱり…だめ?」  
「いや、駄目とかじゃなくてだな…」  
 思わずどもってしまうほどに、その申し出は意外なものだった。彼の右手が、硬く強く  
握られる。彼女の髪の毛が、さらさらと揺らされる。  
「いいのか?」  
「うん」  
「……んー」  
 あの時の傷口は、どちらがより大きかったのか。あの仕草が好きだったのは、どちらの方  
だったのか。  
 
「あたしがして欲しいの!」  
「……」  
 珍しく歯切れの悪い崇之の様子に、紗枝は声を響かせる。そのくせ、頭を彼の肩にもたれ  
かからせ静かに目を閉じ甘えるのだから、どうにも意図が読み取れない。  
 
「わーったよ。代わりに、お前にも俺の頼みを聞いてもらうぞ?」  
「できることならね」  
 そんな彼女の髪の匂いを嗅ぐように、彼も頭を彼女の方へと傾ける。跳ね返った毛先が、  
妙にくすぐったい。  
 
「……じゃあ、名前で呼んでもらおうかね」  
「へ…?」  
 あまりに意外な申し出だった。  
 どうやら、甘えたがりだったのは紗枝一人ではなかったらしい。もちろんその度合いは、  
ダントツで彼女の方が勝っているのだろうけれど。  
「名前で?」  
「愛称でなくてな」  
 やっぱり、恋人には知らない面を見せるものなんだなと改めて互いに思うわけで。それは  
やっぱり、今まで以上に大事で特別にな存在になってしまったからなわけで。  
「難しいか?」  
「え…その……」  
 からからと笑う彼の横で、彼女は指先を突っつき合い、必死に気持ちを抑えようとする。  
やっぱり最終的には、彼がその権利を握ってしまうらしい。  
   
「……がんばる」  
「おう、頑張れ」  
 それがどれだけ勇気を要することか、言わなくても分かることだ。ついさっき見かけた、  
少女が少年に向かって「崇兄」と呼びかける様子は、随分と初々しく微笑ましかったがものの、  
それと似たことを今度は自分がするとなると、やっぱり胸がどぎまぎしてしまう。  
 
「あ……そろそろ…」  
「ん?」  
「時間…みたい……」  
「そか」  
 お互いに寄り添い合いながら川の流れを眺めていると、唐突に紗枝が場にそぐわない  
発言をしてしまう。しかしその瞬間、微かに彼女の身体が薄くなってしまう。まだ手の平で  
触れられるけれども、その身体は明らかに透き通り始めていた。  
 
「忘れてたら、どうしよ」  
「そん時は…そん時だな」  
「んー…」  
「これからも、機会はたくさんあるわけだしな。そうだろ?」  
「…ん」  
 崇之は紗枝の腰に手を回す。紗枝は崇之の肩に手を触れさせる。もたれあっていた頭を  
ゆっくりと起こして、穏やかな表情のまま見つめあう。  
 
「じゃあ、続きはまた後で」  
「…うん」  
 唇より先に、額がごちりと音を立てる。角度を変えてお互いの表情をまっすぐに捉えると、  
崇之は嬉しげに口の端を上げ、紗枝は眩しげに目を閉じてしまう。  
 
「…覚えておけるといいな」  
 
「お互いに、ね…」  
 
 
 瞬間。触れ合い。シルエット。  
 
 
 崇之もつられるように目を閉じて、紗枝は強く擦り寄ってくる。抱きとめ、抱きとめられ、  
背後から吹かれる風が、やがて二人をあっという間に追い抜いていく。  
 
 
 
 しばらくして崇之がゆっくりと目を開けると、そこにはもう、誰もいなかった。  
 
 
 人がいた痕跡すら、欠片も残っていなかった。  
 
 
「……さあて」  
 ゆっくりと伸びをしながら彼も立ち上がる。もうこの場所に、用は無い。やることを全て  
やり終えた安堵感と満足感が、その胸の中を満たしていた。  
 
(俺も行くか)  
 
 右から左に流れる川を眺め終えると、振り返り草を踏みしめ坂をざしざしと登っていく。  
その間にも、頬をつつかれるような奇妙な感覚が走ってくるのだが、特にそれを気にする  
ことも無い。  
「はー…」  
 ホッと一息を着きながら、これまでのことを振り返っていく。  
 
 長かった。  
 
 一言で言えば、そう表すことしかできない八ヶ月間だった。  
 
 
『ありがとね…』  
 
 
 風に紛れ込んだその声色に、物思いに耽る彼は気付かない。その姿は、身体の向こう側が  
透き通るように薄くなっているようにも見えた。  
 
 今度は身体のあちこちを、ついばまれてしまうようなおかしな感覚を覚える。それが  
繰り返されれば繰り返されるほど、その表情は笑顔へと変化していく。もし覚えていなくとも、  
先に交わした約束は、是非とも自分が先に達成したいところだ。  
 
 
『だいすき…』  
 
 
 そしてまた、一瞬の強い風が吹く。  
 
 
 それが吹き終える頃には、もう河川敷一帯に、人影が見当たることはなかった―――――  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「あー…そこ、すげー気持ちいい」  
「ここ?」  
 
 さて、さてさて。  
 初めて繋がった一夜から数日が経ち、あれから指折り数えて最初の日曜日。  
 
「そこそこ。お前上手いな…」  
「そうかな。ありがと」  
 相変わらずと言うべきなのか久しぶりと表すべきなのか、二人はボロアパートの一室で  
仲良く睦み合い続けていた。ハートマークを幾つも作り出しては空中に飛ばしていくような  
その様子は、傍目から見ていれば食傷じみた感覚が湧き上がるに違いない。  
 
「はい、じゃこれで終わり」  
「はー…もうちょっとやって欲しかったな」  
「またその内やってあげるってば」  
 とろけそうな表情を携えて、崇之は正座した紗枝の太ももに頭をぐったりと預け続けている。  
要するに、膝枕である。  
「ほら、終わったんだしどいてよ」  
「んー…」  
「もう……ちゃんとしてあげたんだから、早く遊びに行こうよー」  
「んー…」  
 この体勢でしてあげたというのだから、言うまでもなくそれは耳掃除のことなわけで。  
それが彼にはよほど気持ち良かったらしく、生返事を返すばかりでその場からちっとも  
動こうとしない。まあ気持ち良いという感覚は、現在も続行中なのだろうが。  
「あと五分〜」  
「だーめ、いい加減起きてよ。スカートが皺だらけになるじゃんかー」  
 ちなみに彼女は、普段のようなシャツと短パンといったラフな姿をしていない。いつぞやの、  
あの時彼には見せることが出来なかったベージュのフレアスカート、ミルク色のカットソー、  
その上に薄手のリボンカーディガンという女性らしいの服装を身に纏っている。らしくは  
ないが、何とも可憐でどことなく淑やかな雰囲気を醸し出していた。  
 
「ねー、早く行こうってばー」  
 それだけに、紗枝の苛立ちは募る。こうしておめかしして来たのは、部屋に閉じこもって  
膝を貸して耳を掃除してあげるためじゃないのだ。  
「待て待て。じゃあ最後にこれだけ…」  
 促す言葉にようやく反応して、崇之はもそもそと身体を動かし始める。といっても起き上がる  
様子は全く無く、単に寝返りを打っただけのようだった。身体をごろりと回転させてうつ伏せに  
なり、顔をちょうど紗枝の股ぐら辺りに埋め込ませてしまう。  
 
「あー…ここもすげー落ち着く」  
 これ見よがしに深呼吸一つ。  
 
「……」  
 そして彼が寝返りを打ってその台詞を言い放つまで、彼女は突然の事態に固まったままで。  
 
 
がすっ!  
 
 
 意識を取り戻すと、無言のまま当然容赦することなく、後頭部に向かって折り曲げた肘を  
振り下ろすのだった。  
 
「まったく……ほんとすけべなんだから」  
 うっすらと頬を染めて口を尖らせるその様は、いつものように可愛らしい。  
 
 ……背後に、「ぎぃやあぁぁああぁぁぁ!」と醜い悲鳴を上げながら、殴られた箇所を  
押さえてゴロゴロ転がり悶絶する彼の姿が、無かったらの話であるが。  
 
 
「……仕方ねぇ、そろそろ行くか」  
 ひとしきり部屋中を転がり続けひとしきり口論を終えた後、彼は少しばかり肩を上下させ  
ながら、大の字に寝っ転がってぼそりと呟く。  
「じゃあ早く準備してよ。外で待ってるから」  
「ん? あぁ…」  
 やっと外へ遊びに行けると紗枝が満を持して立ち上がると、崇之の口からは相変わらずの  
生返事とは裏腹な、随分と真剣味が籠もった唸り声。  
「…どしたの?」  
「……」  
 眉間に皺を寄せ、ある一点をしかと見つめ続けるその様は、随分と強い意志が込められて  
いるようで、その表情に、見下ろす彼女も少しばかりどぎまぎしてしまう。  
 
 
「薄い青か。水色とも少し違うな」  
 
 
「……へ?」  
 ちなみに余談ではあるが、彼女が本日身につけている下着は、まさにその色で彩られている。  
「この前の薄い緑のヤツもそうだが、見えないところまでしっかりオシャレするのは、  
なかなか偉いぞ」  
「……」  
 更に余談ではあるが、その下着の色は本来彼女自身しか把握してないはずである。  
 
 スカートの中を覗かなければ、の話だが。   
 
 
げしっ!  
 
 
「ぐぉあっ!!」  
 直後、崇之の頭部はまるでサッカーボールのように蹴り上げられ、勢い良く跳ね飛ばされて  
しまう。肩を怒らせて部屋を後にする彼女に声をかける余裕があるはずもなく、崇之は  
再び頭を押さえて床をのたうち回るのだった――――  
 
 
 
 
 
 
 
 
「つっ……痛ってーな、コブ出来てんぞコブ」  
「自業自得」  
「仕方ねーだろ、お前が立ち上がって急に目に飛び込んできたんだし。覗こうと思って  
覗いた訳じゃないんだぞ?」  
「見れば一緒」  
 部屋を後にして一時間。どうにかこうにか街中まで連れあい来れたものの、交わす会話は  
どうにも弾まず薄ら寒い。まあ、弾む方がおかしい話だが。  
「そんなに怒るなよー」  
「怒ってない」  
「いや怒ってるだろ」  
「怒ってない!」  
 それでも以前までなら、紗枝は一人で先にせかせかと早足で歩いて、崇之がそれを後から  
追いかけるというのが常だった。ところが今の二人は、隣りあい並んで歩みを進めている  
どころかしっかりと手を繋いで、指もしっかり結びあっているわけで。  
 
 
 
「俺が悪かったから。だから機嫌直してくれ。な?」  
「……」  
 埒が明かなくなり、正直に自分の非を認めて謝るが、軽く膨らんだその両頬は引っ込み  
そうもない。  
 まるで木の実を頬張ったリスみたいだなと、崇之は心の中でこっそり毒づくのだが、  
何故かその瞬間ぎろりと睨まれ、慌てて視線を逸らしてしまう。  
 
「そういうことじゃないっ」  
 
「……」  
 いかにも拗ねてますといったその口調は、崇之の顔に苦笑を浮かべさせる。  
 
 あれから彼は、またちょくちょくセクハラするようになっていた。その意図に気付いて  
いるのかどうかは分からないが、これに対して紗枝は怒りを露わにすることはあっても、  
以前のように手足を飛ばしてくることはほとんど無くなっていた。  
 
 だから今日に限ってこんな態度を見せる彼女の様子に、少しばかり困惑していたところ  
だったのだが。  
 
 
 そういうことだったのか。  
 
 
 よくよく見てみれば、普段はあちこち跳ね返っている癖っ毛も、今日はほとんど目立って  
ない。もちろんその姿に、気付かなかったわけじゃない。ただ、どう言えばいいか言葉に  
詰まっただけなのだ。  
 決して、慣れない彼女の姿が照れ臭さを覚えたわけではないのだ。本当である。断じて  
嘘ではないのである。  
「あぁ……ごめんな」  
 絡ませあっていた指を緩やかにほどいて、手の平を彼女の頭に持っていく。  
 
「正直、ここまで似合ってるとは思ってなかった」  
 
 その髪型を極力崩さないように、ポンポンと軽く髪に触れる。釣られるように、もう一方の  
手で別に痒くもない顎筋を撫で隠してしまう。  
「……」  
「嘘じゃないぞ。本当だぞ」  
 目立った反応を示さない彼女に業を煮やし、今度は彼女の目を見つめながら言葉を放つ。  
 
「…う、うるさいなぁぁ」  
 
 その視線から逃げるように、紗枝は向こう側へと顔を背けてしまう。だけど尖った口調とは  
裏腹に、先程まで膨らんでいた両頬はすっかりしぼんでいるのだった。  
 
「ははは」  
「もう…」  
 ずっとそう言って欲しかったのに、いざ耳にしてみれば、どうにもからかわれている気が  
してならない。本当は心の中で腹を抱えて笑ってるんじゃないだろうか。だとしたら、  
後々のことを考えて平手打ちでもかましておくべきだろうか。  
 
「あたし……振り回されてばっかりじゃないか…」  
 
 心の中で思う存分毒づいておきながら、自分も充分彼のことを振り回していることには、  
てんで気付いてないらしい。  
「それはしょうがないな」  
「何がしょうがないんだよ」  
「だってお前からかうと面白いし」  
「…っ」  
 そしてだからこそ、彼にこうして弄られることにも気付けないままなのだ。  
 
「俺はお前の、そういうとこが好きだからな」  
 
「〜〜〜〜っ」  
「ま、しょうがないよなぁ」  
 人通り激しい街中での、あまりに唐突な愛情表現。  
 
 紗枝は露骨に顔を引きつらせ、誰かに聞かれてないか周りを見回している。そんな様子が、  
どうにも可愛い。  
 
「い、い、いきなり変なこと言わないでよ!」  
「変なことじゃないだろ。俺の、真っ正直な心の底からの本心だ」  
 好きだとか、愛してるとか、ずっと一緒にいたいとか。  
 使い古された言葉ではあるけれど、相手を想いながらカタチにすれば、多分に甘酸っぱさを  
含んでいるわけで。  
 
「……ぅぅぅ」  
「おやおやぁ? そんな顔してどうしたのかなぁ紗枝ちゃんは」  
「うっ…うるさいうるさいっ!」  
「はっはー、照れるなよー」  
 あまりの大声に、今度こそ周りの人達に振り返られ注目を浴びてしまう。それに気付いて  
いないのは、叫んだ本人のみだ。  
 
「あたしは…っ、崇兄のそんなところが嫌いっ!」  
「あぁ、分かってる分かってる」  
 嫌いだとか、好きじゃないとか、会いたくないとか。  
 使い古された言葉ではあるけれど、顔を真っ赤にして言ってしまえば、それはまったく  
逆の意味合いを含んだものになってしまうわけで。  
 
「いやー、ここまでお前に愛されてるとは思わなかった」  
「そんなこと言ってない! 崇兄のことなんか嫌いだって言ったの!」  
 
 今日は、陽だまりの日曜日。  
 
 ありきたりで、いつもと同じで、そしてそんな時間が二人には、ちょっとだけ久しく  
感じられる日曜日。  
 
「もう…なんであたしばっかり……」  
「"自業自得"じゃないのか?」  
「うぅ、ううう〜〜〜〜」  
 再びぎゅっと手の平を重ね合わせて、街中の並木道を練り歩く。ちゃんとした目的地や、  
明確なプランがあるわけでもない。  
 それでも、こうしてなんでもないような時間を共に過ごすだけで、言いようのない幸福感に  
包まれる。  
 
 こういうのも、特別って言うんだろうか。  
 
「分かった分かった。もうちょっと大人しくしろ」  
「…だったらもう少し、優しくしてくれたって……」  
 
 口ではお互い、そんなこと言うけれど。  
 
 覚えてないし気付いてないんだろうけれど。  
 
 野球帽を被った不器用な優しさは、今もそこに在り続けていて。  
 
 白いワンピースの面影も、未だ微かに残っているのだ。  
 
 仲直りしたばかりなのに、共にいることを何気ないと思ってしまうのは、それだけ一緒に  
いるのが当たり前過ぎているわけで。  
 
 
 二人は喋り、歩き続ける。  
 
 
 耳を傾けてみればその内容は、大半が言葉尻の掴み合いだったり喧しい口喧嘩だったり。  
 
 
 だけど心の中ではその当たり前を、いつまでもなんて、そっと願ってたりするのだ。  
 
 
 気だるげで、顎を擦り、苦笑を浮かべ、あくびを繰り返す。  
 
 
 顔赤くして、すぐに喚いて、涙目になって、頬を膨らませる。  
 
 
 そんな二人の、おかしな二人の関係は。  
 
 
 色々な間柄を含みながら、時にはそれを変えながら。  
 
 
 まだまだこれからも、果てしなく続くのであった―――――  
 
 
 

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