嘘だ。うそだ。ウソダ。
こんなの嘘だ、信じたくない。
ずっと崇兄を信じようって決めたのに。その矢先なのに。
なのに、こんなのない。
ひどいよ、崇兄。
あたしのこと、好きだって言ったくせに。
あたしだって……崇兄のことだけが好きなのに。大好きなのに。
まだまだ……いっぱい構って欲しいのに。
『しょーがねーだろ、あいつはお前と違って身持ちが堅いんだよ』
『だからって私のところ来る? あーあ、彼女さんかわいそ』
『呼んだのはお前だろ』
『来たのはそっちでしょ』
だけど、目の前で交わされる会話は紛れもなく現実そのもので。逃げ出したい。今すぐ
背を向けて、反対方向へと走り去ってしまいたい。
なのに身体はなおも彼らを追いかける。体内の臓器が全て機能を停止して冷え切って
しまったような、そんな冷たさを内に秘めたまま。脚が勝手に進んでいく。
『いいのー? 幼なじみさんと付き合ってるんでしょ? バレたら後が…』
『バレなきゃ問題無いだろ。それに俺が今ここにいんのは向こうに問題があるからだしな』
『問題って何?』
身体、地面、空気。その瞬間、全てが凍てつく。空間がそこだけ切り取られ、隔離される。
『さ……紗枝…?』
我慢できずに話に割り込んだわけではなかった。そういう次元の話じゃなかった。気が付けば
問いかけていた。問いかけられた彼は、恐る恐るこちらに振り向き、彼女の名前を掠れた声で呟く。
『ねえ、どういうこと? 問題ってなに? 崇兄……今から何しようとしてたの?』
目がかち合って、彼の瞳はより一層見開かれ揺れ動く。
紛れもなく、彼は彼女の「彼」だった。
今村崇之。物心ついた時にはもう「崇兄」という愛称で呼んでいて、ずっとずっと一緒に
育ってきたのだ。後姿だったとはいえ、今更見間違えるはずもなかった。
『この人……昔崇兄と付き合ってた人だよね? 答えてよ、何しようとしてたんだよ』
そしてもちろん、崇之の隣にいる女性が誰であったかも紗枝はしっかりと覚えている。
忘れられるはずが無い。泣きそうになるのも、叫びたくなるのも、全てを耐えて、自分の
気持ちを必死に隠しながら、一度はこの二人を祝福したのだから。
『あーらら……お邪魔になりそうだから、私帰るね』
『ちょ、お前待てって…』
『崇兄!!』
突然の大声に言葉を失う周りの人々の替わりに、その瞬間強く吹いた風に揺られ、並木の
葉っぱが擦れてざわりと騒ぎ立てる。
修羅場の気配を感じ取り、面倒はゴメンだと退散しかける元カノを彼は呼び止めようと
したものの、それよりも大きな声で名を呼ばれ、起こしかけた行動を止めざるをえなかった。
その間に、彼女は雑踏の中へ姿を溶け込ませていってしまう。
『いや、これはその……偶然そこで出会って…』
流石に口八丁で鳴らしたこの男も、今回の状況では舌と頭がちゃんと回ってくれない様子。
『……』
『別にさ! その、なんだ…えー、特別な意図があって会ったわけじゃ…』
『話、聞いてたんだよ。あたし』
『……』
『子守の気分だとか、バレなきゃ問題ないとか、こうしてこっそり会ってるのはあたしにも
問題があるとか…全部……聞いてたんだよ…?』
大きかったのは最初の一言だけで、あとは俯いて、微かに震えて、消え入りそうな涙声で。
顔を手で覆わずに口をギュッと結んだ様子を見せるのは、せめてもの強がりで。
『…と、とりあえずここ人目があるから。な? ちょっと、違う場所で……』
『答えてよ…崇兄……』
周りの目を気にして、崇之に手首を掴まれようとする。だけどそれを振り払う。そんな
ことよりも先に、答えが聞きたかった。
悲しいけど、信じたいから。辛いけど、嘘だと思いたいから。
少しでも早く、この気持ちから解放されたいから。
『ほんとのこと、言って…?』
だから、なりふりは構わなかった。
『……』
『……』
崇之は大きく息を吐く。頭を掻いて発すべき、返すべき言葉を捜しているようだった。
その眉間に、これまで以上の強い皺が走る。それまでずっと逸らし続けていたこちらの
視線を、今になって初めて見返してくる。
そして。
『その……悪かった』
『……!』
刹那の後。
カッコウの鳴き声に代わりに響いた、ひどく乾いた爆ぜる音。
ひりつく頬を指先で撫でると、頭を抱えて天を仰ぐ。顔を顰めて舌を打つその様子は
彼女から見ても痛々しく映った。
赤く染まっていく目でそんな自失した様子の彼を睨みつけると、紗枝は微かな嗚咽と共に、
地面を叩く足音を残して走り去ってしまう。甘く疼き続けた少し前の日々に嘲笑われたようで、
惨めな思いを噛み締める。
背後から、足音は追いかけてこない。それが余計に悲しくて、視界はただただ歪むばかりだった。
わずか五ヶ月、まだ半年にも満たない僅かな時間。それなのに、既に大きくすれ違って
しまっていることに、紗枝はこみ上げる悲しさをせき止められなかった。
『今なら言える、何度でも言えるさ』
『なーに照れてんだよ、恋人同士だろこ・い・び・と』
痛くて、辛くて、何に対してこの感情をぶつけたらいいのか分からなくて。それを誤魔化す
ように、彼女は人垣の間を縫うように走り続ける。
全てが、もう遠い昔のことのようだった―――
「はー……そりゃもう確定だねぇ」
「疑惑じゃなくて、向こうも認めちゃったんだ」
「どうしようもないわね」
紗枝の臨場感溢れる詳細を聞き終わり、溜息とともに返される三様の印象。長々とした
体験談を語り終えた当人はというと、喉を潤す為に話の合間に頼んだお代わりのオレンジ
ジュースを口にしている。やがてカラン、と氷の音を立ててそれを飲み干し、今度は鼻から
息を吐いた。食道や胃に冷たい感覚が走り、少しだけ気分が改まる。
「それから会ったり話したりしてないの?」
「……何度か事情を聞こうと思って連絡したんだけどね。はぐらかされるばっかりで」
「話は? 取り付けなかったの?」
「さっきのメールがその返信」
「……はー…っ、大変ね」
あれから平静を取り戻し、詳しい事情を聞こうとするものの、反応は一向に返ってくる
気配も無いようで。何を考えているかは分からないが、向こうは向こうで傷つけ追い詰め
られてるのは確かなようだ。
「もう…どうすればいいか分かんないよ…」
経緯を詳しく語ったことで、またまたその時の感情がぶり返してきたのか、またしても
頭を垂れ、周りの喧騒に消え入りそうなほど小さな声で一言だけ漏らす。
「あー……じゃあさ、考え方変えてみようよ」
「……?」
「どういうこと?」
このまま話題共々彼女が萎れるのをあまりに不憫と思ったのか、三つ編みの娘が提案を
してくる。
「ずっと以前に紗枝から聞いてきたお兄さんのイメージを思い浮かべるとさ、そんなに
悪い人に思えないし。もしかしたら、紗枝の方にも問題があったのかもしれないよ?」
「え…」
びしいっ、と人差し指を眼前に立てられ、紗枝は思わず面食らう。
自分に非があるだなんて、考えること自体無かった。彼女にとっては、崇之の行動が
何の前触れも無く突然振って沸いたものだったからだ。
気持ちだけなら誰にも負けない自信はある。だけど、それを彼が喜んでくれるか、他の
人より自分が勝っていると思える魅力と捉えてくれるかは別問題だった。
「そう? 私が会った限りではいい加減な人だったけど」
「真ー由ー、気持ちは分かるけどいつまでも意固地にならないの。前は『良い人だ』って
言ってたじゃない」
「……自分の見る目の無さを恥じたいわ」
「『おかしな人だけど、紗枝が好きになるのも分かる』だっけ? そう言ってたじゃない」
「なになに、恋愛に興味ない真由がそんなこと言ってたの!? うっわ横恋慕じゃん!」
「ええ!? そんなの困るよ!」
「……」
ずずずずずずっ
過去の発言をほじくり返され、真由は残り少なくなった梅昆布茶を啜ることに終始する
ことで話題から逃げ出してしまう。馬鹿らし過ぎてただ単に言い訳するのが面倒なだけ
なのだろうが、普段必要の無い時以外はあまり喋らない彼女だけに、こんな状態になって
しまうとこの場で口を割らせるのはもはや不可能だろう。
「はいはい変な解釈して勝手に盛り上がらないの。話を戻すけど、どう紗枝? 何かない?」
「でも、あたし心当たりとか」
「無くったっていいの。あたし達が判断するから、とりあえずその崇兄との付き合いだして
からの思い出とか言ってくれない?」
「おぉ面白そう、たまには他人の恋路も聞くもんだよね」
「……うー」
「言いづらいならこっちから色々訊くから、答えてくれないかな」
「…うん、分かった」
本当はあんまり話したくないけれど、他に手立てがないのなら仕方がない。今更この
友人達に、隠し事をしたってしょうがない。
「じゃーさーじゃーさー、早速聞くけどキスは何回くらいしたの?」
「……え゛」
「や、何回くらいしたかでどれくらいお互いに好きなのか分かるじゃん」
茶髪娘のプレーボール直後の内角ストレートのような質問に、思わずどもる。隣にいた
三つ編みの娘は不躾な質問をする彼女に呆れた目線を送るものの、止めに入らないという
ことは、彼女もまた詳細を知りたいらしい。
「えと……えっと…」
親友達の猛攻に紗枝はわたつきながら、指を一本一本丁寧に折って数を数え始める。
付き合って半年近く経つのだ。そんな簡単に、しかも確実に数えられるわけない筈なのだが……
「うーん…十回くらいかな」
「少なっ!」
「え、ちょ……それ本当?」
ところがどっこいあっさり答えを出す紗枝。どうやら彼女達が密に過ごした時間は、
想像以上に少なかったらしい。
「え…少ないのかな」
「少ないって!」
「どう考えても少ないよ!」
友人達が声高にそう口にするのも無理はない。単純計算すれば一ヶ月に二回という頻度
なのだ。いくらなんでも、あまりにありえない。
「でも…だって、崇兄もそういうことやろうって言ってこないし…」
「いちいち口に出してするもんじゃないでしょうが! 大事なのは雰囲気雰囲気!」
「そ、そういうもんなの?」
「ほんっと大事にされてるね、箱入り娘みたい」
「されてないよ! からかわれてばっかりだし!」
どうやら世間一般で言う「付き合う」という行為と、紗枝の中での「付き合う」という
行為は随分とズレが生じているらしい。
「はー……流石にお兄さんに同情したくなるわ」
「こういうことに関しちゃお子様だとは思ってはいたけど、まさかここまでねぇ…」
「……お子様で悪うございました」
「だってさー、いくらなんでもあんまりだよ?」
「お兄さんにとっちゃ生殺しのような五ヶ月間だったかもね」
信じていた友人達が突然敵に回ってしまいそうなこの事態に、紗枝のわたつきはいよいよ
止まらなくなる。
「そんなことないって。だっていきなり、し…舌とか入れてくる時もあったんだよ」
「ほほう舌ですか、これはエロいですね」
「なんかあんたさっきから台詞がオヤジ化してない?」
「あはは、良いじゃん別に。でもまあ、そんな様子じゃまだやることヤってないんだろうね」
「うぅ……」
恋愛経験の拙さか、別に言わなくていいことまで暴露してしまう。しかも、言っても
いないことまでズバリ当てられてしまう。
勇気を振り絞ってカミングアウトした爆弾発言も大した効果を示さず話のツマにされる
始末。友人達のそんな反応に、紗枝の中にも自分にも非があるんだろうかという気持ちが
芽生えかける。
「でさ、あんたその時どうしたの?」
「……」
「まさかディープなのやっといてそこで終わったわけじゃないよね?」
「…いきなりだったから、びっくりして、その、崇兄のこと思わず突き飛ばしちゃったん
だけど……別にいいよね? 仕方ないよね?」
「……」
「……」
「……」
「だ、だってあれは崇兄が悪いんだよ? 何も言わずにいきなり、し、してくるし」
今度こその衝撃のカミングアウトに触発され、信じられないものを見るような目つきに
なった六つの瞳に射抜かれながらも、必死に自分の正当性を訴える。
「採決を取ります。紗枝にも問題があると思う人」
ばっ
しかし、そんな必死の主張も虚しく、ほぼ同時に挙がる右腕三つ。二人は当然としても、
崇之に対して否定的なスタンスを取っていた真由まで手を挙げている。
「う〜〜、なんで真由まで……」
ずずずずずずっ
梅昆布茶を全て飲み干し、湯飲みをテーブルにゴトリと置くと、不平を口にされた真由は
ゆっくりと紗枝の方へ視線を送る。
「一つ、聞きたいんだけど」
「な、何かな」
普段口数が少ない友人だけに、こういう時の威圧感は崇之以上である。
「それって付き合ってるって言えるの?」
見えない拳銃が紗枝の心を貫く。それほど威力のある質問だった。
「付き合ってるよ! 付き合ってなかったら…そんなこと……し、しないよ」
「……」
いささか誤解を招きそうな発言ではあるものの、確かにその通りなのだが。いかんせん
回数と頻度が少なすぎる為に、そう思わざるをえない。
真由からすれば紗枝の行動の方が不可解だった。あれだけ崇之のことを好きだった彼女だから、
いざ付き合い始めたら、トントン拍子で関係が進むものとばかり思っていた。
しかし現実は、その真逆。感情が表に出やすい彼女だから、普段ならすぐに考えていることが
分かるのに。今回はまるで気持ちが読めない。こんなこと、今まで一度も無かった。
それは幼なじみの彼も同じなのだろう。でなければ浮気なんてするはずが無い。
〜〜〜♪〜〜〜〜♪〜♪〜〜♪♪〜
その時だった。紗枝の携帯電話がけたたましい音を放ち始める。流れ始めたこの着メロは
メールではなくて電話の方だ。
友人達に裏切られしょんぼりとしながらも、彼女は携帯の液晶画面を開く。そしてそこに
表示された名前を見ると。
「崇兄だ……!」
思わず紗枝がそう漏らしたのとほぼ同時に、友人達三人が一斉に彼女の方へ振り向く。
真剣な話をしているはずなのにどこかしら緩んでいた妙な雰囲気が、その瞬間サッと消え
失せてしまった。
つい数時間前には、まったくもってやる気のない返事をしてきたのに、今更何の用事が
あるんだろう。何か言い忘れていたことでもあるのだろうか。でもそれなら、メールで
伝えた方が手っ取り早い。
液晶画面を見つめながら、不安が募る。何を言われるのか怖くて、そして何を言ってしまう
のか自分でも分からなくて。何度も話をしようと思って出来なかったのに、突然かかってきた
電話に落ち着きを失いつつあって。あの一連の出来事も、またありありと脳裏に浮かんでくる。
〜〜〜♪〜〜〜〜♪〜♪〜〜♪♪〜
そんな紗枝の気持ちを知ってか知らずか、彼女の携帯電話は、淡々と着メロを流し続けるのだった―――――