『もー、寝るのはともかくイビキまでかくなんてひどいよ』  
『しょうがないだろ、寝起きにラブロマンスとかありえねーよ』  
『……寝起きなのにまた寝たのはどういうことなんだよ』  
『二度寝ってやつだな!』  
『堂々と言うなっ』  
 
 雪がちらつく曇り空の下、二人は口喧嘩を交わしながら街を練り歩く。だけど身長差の  
ある背丈が、そんな様子を仲睦まじく変えてしまう。クリスマスという特別な日を彩る、  
様々な色をした街のイルミネーションが、どことなく気持ちを浮つかせてしまう。  
『まぁそう言うなって。今日は一日中一緒にいてやるから』  
 そしてこうして笑顔を携えながら彼女と接するのが随分と久しぶりのことだったから、  
いつも以上に優しい言葉をかけてしまっていた。  
『……別に嬉しくないし』  
『はいもろバレの嘘頂きましたー』  
『別にどっちだっていいし!』  
『そうは言いながらも顔は赤い紗枝ちゃんであった』  
『うっさい!』  
 
 そんないつもの会話がとてつもなく懐かしくて。相変わらず可愛らしくて意地っ張りな  
反応を見せる彼女を見ていて、思わず頬が緩む。  
 これまでずっと想いを寄せてくれてたことも手伝って、どうして今まで彼女を異性として  
捉えてこなかったのか、自分で自分が不思議になる。いつも通り何気ない会話一つ一つが  
充分な満足感を与えてくれて、つられて口元も歪みだす。  
 
『何ニヤニヤしてんだよ、気持ち悪い』  
 
 そんな様子が彼女の癪に障ったのか、いつも以上に痛烈な言葉を浴びせかけてきた。  
 口調が乱暴だからこそ、照れたり頬を染めたりするのが余計に可愛く見えたりすることに、  
彼はようやく気付くのだった。  
『相変わらず減らねぇ口だな。また手繋いで欲しいのか?』  
『やだ、あんな恥ずかしい真似もうしたくない』  
『俺が手を振りほどいた後、その手を差し出してきたのはどこのどなたでしたっけ?』  
『記憶にございませんー』  
 会話が止まらないのは、こうして普段通り話が出来るようになったこと自体が随分と  
久しぶりのことだから。久々なら所々に不自然な会話が起きても不思議じゃないのだが、  
それが全く起きないところに、二人がこれまでどんな関係を築き上げてきたかが表れている。  
 
『じゃ、もう繋いでやんね』  
 
 目には目を、歯には歯を、そして幼い態度には幼い態度を。そう言い捨てると、大仰に  
彼女から顔を逸らし、並んで歩いていたお互いの距離も少しだけ離れる。ちなみにこの男、  
こんな態度をとってはいるが今年で23歳である。  
『……』  
 すると空いてしまった距離を埋めるように、彼女は黙ったままついてきた。速足になると  
同じように速足で追いかけ、歩調を緩めるとこれまた同じようにゆっくり歩いて距離を  
保とうとする。だけどそれに反発するように、目線はこれまた彼の方とは逆に向いたままだ。  
 
『おや』  
『……』  
『おやおや』  
『……なんだよ』  
『ん? 別にー?』  
 片やにやついたしたり顔。片やぶすくれだった不満顔。これがお互いに一番よく見せる、  
いつもの表情。ほんと、まさにこれが愉快で仕方ない。  
 
 
『別に繋いで欲しいなんて言ってないだろ』  
『別にまだ何も言ってねぇ』  
『わざとらしく「おやおや」とか言ってただろ、何だよそれ』  
 今度は口を尖らせたまま噛み付いてきた。どうやらもう彼女の頭の中では、今日のこれが  
「はぢめてのデート」という特別な出来事だっていうことが、消え去りかけてしまっている  
ようだ。  
『いやぁ? 文句ばっかり言ってる割には、ついて来るんだなと思ってな』  
『それは…だって、今日一日一緒にいてくれるって言ったし』  
『お前は別にどっちでもいいんじゃねーの?』  
『崇兄がそう言うから聞いてあげてるだけだよ!』  
 図星をついたり、言い訳出来ないような矛盾をつきつければ大声張り上げてしまう性格は、  
まるで出会うことのなかった四ヶ月の時を挟んでも、ちっとも治せなかったようだ。  
 
 それが嬉しくて、また底意地の悪い笑みが深くなる。  
 
『そうだな』  
 だけどそれを必死に打ち消すと、映画館に入る前と同じようにぎゅっと手を繋ぐ。  
『……っ』  
 
 
『俺は、お前と一緒にいたい。手も繋ぎたい』  
 
 
 今までふざけた雰囲気をスッと打ち消して、また彼女の方へ振り向いた。  
『……』  
『それじゃダメか?』  
 手は、振りほどかれない。それどころか、少しだけ力を込められる。  
『……そこまで言うなら…まあ……』  
『そか!』  
 途中までだったその言葉を遮ると、これまで以上に強く手を握り返した。  
 
『たっ…崇兄が言うから仕方なくだよ! あたしがしたいわけじゃないんだからね!』  
『分かってるって、紗枝もぎゅってしたかったんだよな』  
『しーたーくーなーいーっ!』  
 だけどそんな真摯な態度を見せるのはやっぱりほんの一瞬だけなわけで。なんでそんな  
ことをするかというと、そうした方がよりよくからかえるわけで。  
 
『じゃー昼飯でも食いに行くかー』  
『その前に手を放せー!』  
   
 付き合い始めてから一週間目での、初めてのデート。  
 
『俺が繋ぎたい、それで良いっつったろ―――』  
『やっぱり駄目ぇ――――』  
 
 この時は、まだ信じていた。彼女をずっと大切にしていけると。決めていた。彼女をもう  
泣かさないようにしようと。そう信じてた、決めていたはずなのに。  
 
 だけど、感情はいつも揺れ動くもの。あの時の気持ちを、今の崇之は持ち合わせては  
いなかった。だからこそ、焦りが募って平静を保てなかった。  
 
 また、この頃のように戻りたかった――――  
 
 
 
「ありがとうございましたー」  
 
「いらっしゃいませー」  
 
 時刻は丁度正午を挟む昼飯時。入れ代わり立ち代わりやってくる客の数に目まぐるしく  
なるような忙しさを覚えながらも、崇之はちらちらと時計を盗み見ながら業務に打ち込む。  
(あと少しだな……)  
 時計の針が数字の6に差し掛かれば今日の分の業務は終わりだ。最っ高に忙しい時間帯に  
途中で抜け出させてもらうのはなんとも気が引けてしまうが、それでも今日の彼にはそれが  
どうでもいいように思えてしまうくらい大事な予定がこの後に控えている。今日のシフトの  
時間を同僚達に確認された時は随分と恨めしい顔で睨まれはしたが、そこはまあ恋人との  
大事な時間を割くために、彼らには犠牲になってもらおう。  
 
 天気は雨。それほど強いわけでもないが、傘を差さないといけないぐらいに雨脚が近い。  
紗枝はもう待ってたりするんだろうか。傘持ってなかったらどうしてるだろう、駅構内に  
入って雨宿りでもしているだろうか。なんにせよ、早く会いに行ってやりたい。  
 
 時計はまもなく、数字の3あたりを指そうとしている。あと15分強だ。この中途半端な  
時間が妙に長ったらしく思えてしまうのは多分気のせいじゃない。つーか終わって欲しい。  
「注文はいりました、並一丁お願いしまーす」  
ここ最近、ずっと意図的に紗枝を避けてきたのにおかしな話だ。それもこれも、約束を  
取り付けた時の彼女の台詞が原因だった。  
 
『あ…崇兄』  
『ん?』  
 
『……遅れてもいいから、ちゃんと来てよね』  
 
『……ああ、分かってる』  
『……うん』  
『それじゃな』  
『…うん』  
 
 随分と寂しそうで、本当に会いたがっているんだなという気持ちが色濃く伝わってきた  
あの日の会話。  
 正直、勢いで電話をかけたものの、あの電話の時点で恨みつらみをぶちまけられても  
仕方ないと思っていた。だけど、返ってきたのはただ会いたい会いたいとせがまれ続けた  
寂しそうな言葉だった。  
 
 それが、頭の隅に張り付いて離れない。  
 
 
「ありがとうございます、××屋××駅前店です」  
 
 接客している背後から、電話の応答をする同僚の声が聞こえてくる。外線がかかってくる  
のは別段珍しいことじゃないから、大して気にもせず業務に打ち込む。  
「あ、店長お疲れ様です」  
 電話の主は店長らしい。時間になれば責任業務を受け継いでもらうのだ。早く来て欲しい  
のだが。そこはまあ、店長なのだから色々と忙しいだろうし仕方ないのだろう。  
「ありがとうございましたー」  
 正面にいた客に空っぽになった丼を無言で差し出され、それを受け取り流しに溜めた水に  
漬ける。逸る気持ちを抑えて、黙々と働き続ける。  
 
 
「えっ! 大丈夫ですか!?」  
 
 
「…?」  
 と、外線で店長と話をしていた同僚が途端に大きな声を張り上げる。働いていた従業員も  
カウンターに座っていた客も、何事かと一瞬そちらに視線を向ける。  
「あ…はい、分かりました。それじゃ、失礼します」  
 それに気付いて口元を隠して小声になりながら応答している。どうやら、店長の身に  
何かあったらしい。  
 
「今村さん、あの、ちょっとお願いします」  
 同僚は電話を切ると、硬い表情のまま崇之に話しかけてきた。その様子になんだか嫌な  
予感を覚えながらも、彼は客の迷惑にならないよう、その従業員と共に奥に引っ込む。  
「なんだ」  
 こちとらもうすぐ大事な用事が控えているのだ。出来れば、面倒な事態は御免被りたい  
ところなわけで、それだけに若干の苛立ちを覚える。  
 しかし、その同僚が打ち明けた話というのは、いろんな意味で最悪のものだった。  
 
「あの…店長が事故に遭ったらしくて」  
 
「は!?」  
「本人から電話かかってきたんで命には別状無いみたいですけどね。信号待ちしてるところを  
後ろから追突されたそうです」  
 そういえば二十分くらい前、サイレンを鳴らしたパトカーや救急車が店の前を通過して  
いったのを思い出す。どこかで事故でも起こったのかとは思ってはいたが、まさか店長が  
当事者だったとは思いもよらなかった。  
「じゃあ…、店長は…」  
「一応病院で検査してくるとか」  
「そうか……まあ、軽傷ってのが不幸中の幸いだな」  
 一つの懸念があっさりと立ち消え、安心したようにフッと短く息をつく。  
 しかし、もう片方の懸念は消えることなく更に大きく膨らんでしまったことに、直後に  
気付くのだった。  
 
「それでですね。運転してたのが会社の車だったらしくて、病院を出てからも事故処理に  
負われるんだそうです」  
 
「……」  
 
 どくんと一つ、鼓動が大きく脈を打つ。それがひどく、不快だった。  
 
「それで、その……悪いけど今村さんに引き続き…業務を続けて欲しいと」  
 そこまで聞かされた時、頭がくらっとよろめいてしまった。そんなことだろうとは思っては  
いたが、やっぱりいざ耳にするとダメージは桁違いだった。  
「……」  
「今村さん?」  
「……ああ、聞いてる」  
 頭を抱えて、ふらふらと壁によりかかる。よりによって、何でこんな時にこんなことが  
起こるのか。浮気現場を見られたときといい、あまりにもタイミングが悪すぎる。  
「何か予定でもあるんですか?」  
「あー……、まぁな」  
 まさか自分の恋人とデートするんだとは言えない。適当に相槌を打って言葉を濁す。  
 
 職場には必ず責任者か、もしくはその代行業務を引き受けることが出来るサブチーフが  
一人いなくてはならない。崇之はアルバイトだが、キャリアが長いので非公式ながらその  
立場に立つことを許されていた。そして現在、彼以外にその役職に就ける人物は出勤して  
いない。  
 つまり、代わりのチーフが来るまで彼はこの場にいないといけないのだ。  
 
 
 どうしよう、マジでどうしよう。こじれにこじれた紗枝との関係を、一気に取り戻そうと  
今日という日を待ち望んでたのに。時間だって遅れるつもり無いというのに。強烈な眩暈が  
身体に襲いかかってくる。  
 
「……ちと、レストにさせてくれ。代わりに来てくれるサブチーフがいないか連絡したい」  
「分かりました。でも、もしいなかったら…」  
「そん時は残るよ。しょうがねえだろ」  
 本当は今すぐ駆け出したいがそんなこと出来るわけもなく。断腸の思いで言葉を吐き出す。  
紗枝も大事だが、自分の生活を支える仕事も大事だ。バイトだからとはいえ、立場もある。  
疎かには出来なかった。  
 
 ずるずると足を引きずってロッカールームにたどり着くと、自分のロッカーを開けて  
私服のポケットから携帯電話を取り出す。  
 そこで強く大きな溜息が漏らす。頭を抱えたって仕方ないのだが、こんな悲惨なことが  
あっていいのだろうか。デートにさえ行ければ、彼女の機嫌を治す自信は大いにあった。  
彼女の思考パターンは嗜好なんかはほとんど熟知している。それだけに、賭けていた。  
 
 痺れかけた頭に活を入れようと、またカツカツと自分の額に携帯の角を打ちつける。  
天井を見上げながら、鬱屈した気分のままロッカーにもたれしゃがみこむ。  
 一応連絡はしてみるが、代わりに来てくれる奴が現れる可能性はかなり低い。話も事態も  
突発的すぎるからだ。しかも帰りたい理由がデートなのだから、それを話せば、向こうから  
すれば溜まったもんじゃないだろう。  
 シフトを確認してみると、店長の後に責任者代行が現れるのは18時と書かれてある。  
ということは最悪、その時間まで働かなくてはならないということだ。いつになったら  
あがれるかどうかも分からないのだから、紗枝に待っていて欲しいと言うべきか、それとも  
また次の機会を設けるべきかもすぐには決めかねてしまう。  
 
 
「はー……」  
 がりがりと頭を掻き毟る。胃の中を鉄の重りで占領されてしまったかのように身体全体が  
重たい。そんな気分を溜め込んだまま、彼はカコカコとボタンを押し始めるのだった―――  
 
 
 
 
 昼下がり。風が植えられた木々を揺らしながら、サァーっと一瞬強く吹き抜けていく。  
紗枝はそれを身体に受け、はためかさないようスカートを抑えた。  
「……」  
 駅前に設置された時計は、長い針が10のあたりを過ぎようとしている。  
 
 崇兄が遅刻魔なのはとうの昔から知っている。それは、付き合い始めた今でも変わって  
いない。何度かデートはしたけれど、約束してた時間通りに来てくれたことなんてほとんど  
無かった。  
「……」  
 だから、まだ不安を感じる必要なんて無いのに。なんで今日はこんなに胸がざわつくん  
だろう。久々に彼と会うのが、そんなに怖いのだろうか。自分の鼓動が分からない。  
 
 昨夜悩みに悩んだ服装は、風にはためくベージュのフレアスカート、ミルク色を基調と  
したカットソーに、その上には羽織った薄手のリボンカーディガンという組み合わせ。  
普段の活発的でシンプルな服装とは一線を画すような季節を強く意識したもので、それに  
あわせて普段は跳ねっ返りが多い髪の毛も、今日は若干大人しくなっている。  
 
 親友と買い物に行った時に「似合うから」と半ば強引に買わされたものだったのだが、  
自分では似合っているのかそうでないのかよく分からない。それだけに、その姿で立って  
いるだけで照れが混じる。  
   
 早く、早く来てよ崇兄。恥ずかしいよ。  
 
 雨の中、傘を差して顔を隠せているのが不幸中の幸いだった。駅の構内で雨宿りをする  
選択肢が無いわけでもなかったけど、待ち合わせの場所は「駅前」だったから、できれば  
そこから動きたくなかった。一刻も早く、見つけて欲しかった。  
 
 この格好を見たら、どんな反応をされるんだろう。とりあえず付き合う前の崇兄だったら  
指をさしてきながら腹を抱えてげらげら笑うんだろうけど。今の崇兄なら、ここのところ  
ずっと会ってもいなかったのだから、素直に似合ってると言ってくれそうな気がした。  
 
 慣れなくて恥ずかしいけど、それと同じくらいにちゃんと「女の子」の格好をした自分の  
姿を見て欲しかった。  
 
 
 
〜〜〜♪〜〜〜〜♪〜♪〜〜♪♪〜  
 
 
 その時。手にしていたバッグの中から、振動と共にメロディが流れ始める。この着メロは  
誰かさん専用のものだ。性格も考え方もひねくれた、だけどいちばん大好きな誰かさん  
専用のものだ。  
「……」  
 普段ならかかってくるだけで嬉しくなるそのメロディも、ここ最近は聞く機会がまるで  
無かった。しかもこのタイミングでかかってきたことに、家を出た時から胸に宿り続けて  
いた不安が、大きく膨らんでしまう。  
 
ピッ  
 
「……もしもし」  
 お願い、気のせいであって欲しい。そう強く願いながら彼女は電話に出る。  
『あぁ…もしもし』  
 向こうからひどく疲れたような、ひどく打ちひしがれたような声が返ってきた。だけど  
町の喧騒や雨音が聞こえてこない。  
ということは、彼はまだバイト先にいるのだ。  
 
 
 その声色を聞いた時、紗枝は自分の予感が当たってしまったのだと直感する。  
 
 
『今、どこだ?』  
「一応、待ち合わせの場所にいるけど……」  
 溜息が強く混じっていて、言葉が聞き取りにくい。何があったのかは分からないけど、  
だけどこれから何を言われるかは、もう分かってしまっていた。  
 
『……』  
 
「だめ、なの?」  
 
『…え』  
 
「崇兄、来れないの?」  
 
 雨が降っていてくれて良かった。雨が地面を叩けば、それだけ自分の声が歪もうとして  
いるのも誤魔化してくれる。  
『泣くなよ…』  
「泣いてない」  
 歪んでいたのは声だけじゃなくて、視界もだった。傘を深く被らせて、周りの人からは  
自分の顔が見えないように遮る。  
『……』  
 
「泣いてないってば!」  
 
 途端に黙ってしまった彼に、もう一度強く叫び返す。だけどその後、鼻を啜ってしまう。  
これじゃ、泣いていると教えてしまっているようなものだ。そんな自分が物凄く情けなく  
なってしまう。  
 
『その、な。俺と交代するはずの人が、急に来れなくなったんだ。だからその分、俺がまだ  
職場にいないといけなくなってな』  
「……」  
『一応サブチーフ扱いしてもらってるんでな。責任者代行出来るの、俺しかいねーし……  
だから、その……』  
 もう一度強く鼻を啜る。しゃくりをかみ殺すだけで精一杯だった。雫は流れてないけど、  
瞳には溜まり始めていた。  
 
「分かった」  
 
 これ以上話をしたくなくて、これ以上声を聞かれたくなくて。そんなすぐに納得なんて  
出来るはずもないのに、分かった振りをする。  
「もういい」  
 言葉を選んでいられる余裕なんて無くて、かろうじてそれだけ言い放つ。  
 
『待て紗枝、それで…』  
 
ピッ  
 
 まだ何か喋っていたけれど、それ以上聞く気になれなかった。仕事の都合なのだから、  
崇兄はちっとも悪くないし、仕方ない。だけど、そんなすぐに割り切れない。彼の言葉の  
続きが、終わるまで待ってて欲しいという台詞でも、日を改めてまた今度という台詞でも、  
どっちにしても失望してしまうのだから聞きたくなかった。  
 
 どうせ崇兄は知らないんだ。あたしが、今日どれだけ楽しみにしてたか知らないんだ。  
 
 約束なんて、しなけりゃよかった。どうせ、守ってくれたことの方が少なかったのだ。  
一人おめかしをして、家を早く出て待ちぼうけを食らって、結局崇兄は現れない。  
 もういい。こんなこと望んでいたんじゃない。こんなこと経験するために、彼を好きに  
になったわけじゃない。ずっと一緒にいて欲しかったのに、ずっと時間を共有したかった  
だけなのに。そんなことも叶えてくれないくらい、あたしのことはどうでもいいんだ。  
ひどい、ひどいよ。こんなのないよ。  
 
 彼には何の非も無いことは、もちろん分かっている。だけどこれが引き金となって、  
これまでも我慢していた不満が噴出してくる。何かじゃなく、誰か。誰かじゃなく、彼を。  
そうでもしないと、自分の気持ちを保つことが出来なかった。  
 
 
 電話を切った後も、彼女は携帯を握り締めたまま立ち呆ける。  
 
 
 雨は降る。雨脚はまだまだ弱まることもなければ、これ以上強まることもない。駅前で、  
彼女は一人寂しく佇み続ける。傍を横切り駅に入っていく、駅から出てくる通行人には、  
気に留められることもない。  
   
 涙を流すことなく、傘の柄をぎゅっと握り締め。紗枝はその中から微かな泣き声を零し  
続けるのだった――――――  
 
 

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