『……』  
 時刻は四時を回っていた。仕事を引き継ぎ終えてから、急いで待ち合わせの場所に来ては  
みたものの。当然ながら、待ち合わせていた場所には誰もいなかった。雨脚は相変わらず  
傍を歩いている。だけどそれが理由にならないことくらい分かっている。予定していたことが、  
上手くいかずに終わってしまうなんてことは、別にクソ珍しくも無いことだ。  
 よくある話で、それだけの話。もう、いつものことだ。  
『はぁ……あー…』  
 ひねくれて斜めに傾いてしまった自分自身と、意地っ張りで強情っ張りな彼女の性格を  
考えれば、そんな二人が幼なじみとしてじゃなく恋人として付き合うなら、いつかはこんな  
ことになるんじゃないだろうかとは思っていた。だけど実際には、想像していた以上に  
上手くいかないことばかりだった。  
 フッと短く息を吐くと、だらけた姿勢のまま帰路につき始める。終わったことをいちいち  
掘り返すのはあまり好きじゃないが、沸いて出てくるのは後ろ向きな考えばかりだった。  
現実なら漫画や小説みたいなことが起こらないと、決まった話でもない。むしろそうで  
あってくれたならどれだけマシなことか。  
 
ピッ  
 
 三時間ほど前の発信履歴をなぞって、彼女の携帯番号を液晶画面に映し出す。特に何も  
考えることも無いまま、発信ボタンをプッシュした。  
 無機質に鳴り始めるコール音を聞いても、苛立ちすら募らない。問題ない、どうせ本人には  
繋がらない。  
 
ガチャ  
 
「留守番サービスセンターに、接続します」  
 案の定の機会じみた声。別に落ち込む話でもない。彼女の性格と前に交わした会話を  
思い起こせば、すぐに分かることだ。  
 
 あいつはもちろんだが、俺だって悪くない。悪かったのはタイミングだ。楽しみにしてた  
みたいだから、今は酷く落ち込んでいるだろうが、しばらく時間を置けばきっと分かって  
くれるはずだ。  
 そう思い込みながら、携帯電話に耳を傾ける。  
『ピーッという発信音の後に、メッセージをどうぞ』  
 
ピーッ  
 
『あぁ……俺だ』  
 俺だって今のままでいいと思ってるわけじゃない。俺だって、お前のことが好きだから、  
だから何とかしたいと思ったんだぞ。  
 まぁ、分かんねえわな。浮気されて、デートすっぽかされて、分かる方が凄いわな。  
 
『―――――』  
 雨はもう随分と前に止んでしまっていて、少しだけオレンジ掛かった空が、雲の隙間から  
見え隠れしていた。地面に敷き詰められたタイルは、大体の部分が乾き始めている。  
 折りたたんだ傘の先で何度も地面を突きながら、その音で誤魔化すように、彼は小さく  
言葉を吐き出す。  
『――――――――――――――――』  
 言いたいことはたくさんあったけど、今更言える話でもなかった。信じてもらえない話を  
したって、余計に腹立たせるだけだ。  
 
ピッ  
 
 続けて二言三言吹き込むと、鼻から息を吐いて携帯を折りたたみポケットへ仕舞い込む。  
本当は言いたくないことだったけれど、そうでもしないとこれからもすれ違っていくだろう  
から。それを防ぎたかったという意味合いと、もし最悪の事態になった時に己に降りかかって  
くるダメージを、少しでも軽減したくてメッセージを吹き込んだのだった。  
   
 考える時間と一人になる時間が、欲しかった。  
 そして彼女に、今までの関係と今の関係が、似ていて実はまるで違っているということに  
気付いて欲しかった。  
 
『くぁ……』  
 出勤したのが早朝だったから、仕事を終えた安堵感も手伝ってあくびが漏れる。すると、  
途端に睡魔に襲われだす。中途半端な時間だけど、帰ったら一旦横になることにしよう。  
どうせ今日はもう、何の予定もない。あったはずだけど、もう何もない。  
 
 こんな想いしたくて、あいつを好きになったわけじゃないのにな。いなくなって初めて  
気付いて、ずっと傍にいて欲しいと思ったから好きになったっつーのに。一体どういうこと  
なんだろうなぁ。ったく、どうすりゃいいのやら。  
   
 そう考え込んでしまう自分が煩(わずら)わしく煩(うるさ)く思えてしまって。  
 こういう気分な時はアレに頼るのが一番なのだが、一応彼女と付き合っている今は、  
そうするわけにはいかなかった。それがまた、鬱屈した気分に拍車をかけるのだった。  
   
 歯の奥に挟まったヤニの味を舌先でほじくりながら、右親指で、ライターをつける時の  
ような空仕草を繰り返す。  
 今更になって晴れ間を覗かせる空模様が今の自分の気持ちとまるっきり正反対で、それが  
無性に腹立たしくて。いつまで経っても溜息は止まらず、項垂れたままなのだった――――  
 
 
 
 
 
「ふーん」  
 全てを打ち明け一息つくと同時に、そんなつっけんどんな返事を返される。  
「ねぇ真由、どうなのかな…」  
 目の前の友人に微妙な反応を返され、ひどく心細くなってしまいながらも、紗枝は  
助けを求め続ける。  
「どっちが悪いって話じゃないんじゃない。あえて言うのなら、間が悪かったって話だと  
思うけど」  
 店も同じ、時間帯も同じ、服装も学校の制服のままと前回とあまり差異はないものの、  
その場にいるのは紗枝と、彼女の一番の親友である真由の二人だけだった。  
 
 この前は、何人もの友人に同時に助けを求めたのがいけなかった。自分一人では気付け  
なかった良いアドバイスは貰えたけれど、あんなに弄られまわっては身がもたない。だから  
今日は、親友一人だけにこの前の雨の日での出来事と、その後彼が留守電に入れてきていた  
メッセージの内容を打ち明けたのだ。  
 
「それは分かってるんだけどね…」  
「まあ気持ちは分かるけど。楽しみにしてたなら、そう言いたくなるのも仕方ないわね」  
 折れそうになる気持ちを必死に繋ぎとめてくれる、それでいて自分の気持ちとその時の  
彼の気持ちを推し量ってくれるその言葉が、本当にありがたかった。  
 
『あぁ……俺だ』  
 
 デートをすっぽかされた(厳密には違うが)のは、もう一昨日の話になる。  
 深夜になって留守電を聞いたら、案の定吹き込まれていた崇兄の声。聞くつもりなんて  
無かったけれど、それでも耳を傾けてしまったのは、やっぱり言うまでもない話で。だけど、  
そこに吹き込まれていたメッセージは、予測すら出来ないないような内容だった。  
 
 
『もう……考え直すか?』  
 
 
 目を閉じて聞いていたけど、そう言われた瞬間思わず開いてしまっていて。持っていた  
手も、大きく震えてしまっていた。  
 
『……少なくとも、しばらく会わない方がいいかもしんねぇな。ちょっと時間が必要だろ…お互いに』  
 
 それだけ言うと、そこで伝言は途切れる。きっと謝ってくるだろうと思っていただけに、  
あまりにも飛躍した内容に、頭の中がぐらりと揺れた。ベッドに寝そべったまま、口元を  
掛け布団で隠したまま、その体勢から動けなくなってしまった。  
 
 今まで、そんな弱気な台詞を聞いたことなんて無かった。いつも余裕ぶってて口調は  
乱暴で、気持ちは分かってくれることはあってもそれを気遣ってくれることなんてほとんど  
無かった。  
 だけどそんな崇兄が初めて見せた、ひどく寂しく悲しそうな言葉。  
 お互いの関係を改めて考え直すように言われて、ショックを受けなかったわけじゃない。  
けれど、それ以上にそんな態度が頭に引っかかった。  
 
 崇兄とは中学や高校を同じ時期に通えなかったくらいに年が離れていたから、どれだけ  
辛いことがあっても、泣き言や愚痴を漏らしてこなかったし、滅多なことでは落ち込んだ  
様子も見せなかった。そんな様子を見たのは、何年か前のバレンタインデーの時くらいだった。  
 彼の両親が離婚したことでさえ自分の親から聞いたことだったし、その詳細を聞きに  
行った時でさえ、黙り込むどころか逆に離れてしまうことにショックを受けていた自分を  
慰めようと、やんわり微笑みかけながら優しく頭を撫で続けてくれたのだ。  
 
 だから、困惑が止まらず走り続けた。以前の崇兄なら、あんなこと言ってこなかったのに。  
 
 紗枝の中で崇兄の立ち位置はずっと変わってない。親が親であること、友人が友人で  
あることを誰もが当たり前のように受け入れるのと同様に、彼女にとって彼は「いちばん  
大好きな人」なのだ。幼なじみで兄みたいな人だったっていうのも確かだけど、それ以上に  
その意味合いがずっとずっと強いのだ。  
 いくら失望するようなことをされても、自分の年齢と同じだけの気持ちを捨て去ることが  
出来ないのは、付き合う経緯を思い起こせば明白なこと。それが、本来打たれ弱い彼女が  
唯一築くことの出来た、確固な想いだった。  
 
 問いかけられた問いに、答えが出なくて真由に助けを求めたわけじゃなかった。答えなら、  
考えるまでも無くはじき出せているのだから。知りたかったのは、今までずっと一緒に  
育ってきた彼の唐突な変化の理由だった。一人で考えてもみたけれど、ここのところ上手く  
いってないことばかりだったせいか、湧き上がってくるのは不安な内容ばっかりで。  
 
 もしかしたら、崇兄に飽きられちゃったのかな。  
 
 あたし、もういらないのかな。必要とされてないのかな。  
 
 本当は別れを切り出したかったけれど、だけどそれを包み隠した形にしたからああいう  
ことを言ってきたのかな。  
 
 ずっと妹扱いされてきたから、本心を打ち明けてくれたことなんてほとんど無い。  
だから性格や行動パターンは分かっていても、その時その時で彼が何を考えているのかは、  
彼女には分からなかった。思考が、後ろを向かざるを得なかった。  
   
「やっぱり…謝ったほうがいいのかな」  
「そこまで折れることは無いんじゃない、すっぽかされたのは事実なんだし。『気にしてない』  
って言えば良い程度でしょ」  
「うーん……」  
 
 あの時、怒らずに待っていた方が良かったんだろうけど。だけど楽しみにしていた分、  
いつ来てくれるか分からない状況になってしまったのは我慢できなかった。落ち着いた  
今なら、崇兄のせいじゃないって分かっているけど、気持ちを抑えこむことがどうしても  
できなかった。  
 
「まあでも」  
 すると、これまで聞き役に回っていた真由が、初めて自分から口を開く。  
 
「この前と質問内容とあまり変化がない気がするけど」  
 
「……え」  
 それは紗枝からすれば、想像すらしていなかった台詞だった。  
「だってそうでしょ? 結局原因が変わってないように見えるし」  
「原因…」  
 言われてから自分の頭の中を探ってみる。  
 
 そういえば、この前友人四人で話を進めていた時に、一つ指摘されていたことがあった。  
話を聞いた限りでは、恋人同士の割りにそれらしい密な時間を過ごしている機会があまり  
にも少なすぎると。それじゃあ立場が変わっただけで他は何も変わってないと、贔屓目に  
見ても彼が可哀想だと、あの時散々言われたのだった。  
 
「それって……やっぱりあたしが悪いってことなの…かな?」  
「どっちが悪いとかそういうことじゃなくて。あれが原因って決まったわけじゃないけど、  
どうせまだお兄さんにそのこと聞いてないんでしょ? 怒って途中で電話切るくらいだし」  
「う゛…」  
 鋭い意見にどもる言葉。なんでこう、いつもいつも行動パターンをばっちり読まれて  
しまうのか。自分で自分の性格を恨みたくなる。  
「でも、それが理由だって決まったわけじゃないし」  
「そうかしら」  
「…?」  
 
「私には、それ以外考えられないと思うけど」  
 
 ふいと正面から視線を外して涼しげな表情を携えたままの彼女の言葉に、紗枝は思わず  
平静さを失ってしまう。  
「なっ、なんで真由にそんなことが分かるの!?」  
 カーッと頭に血が上って、親友に対して珍しく怒りを露わにしてしまうのだった。  
 納得できなかった。崇兄とは幼なじみだし、今では(一応)付き合っているし、自分の方が  
彼のことをいっぱいいっぱい知ってるはずなのに。それなのに、彼女が自分の知らない  
崇兄の表情を知っているように思えてしまって、強い嫉妬心を覚えてしまう。  
「だって、知ってるもの」  
「……何を?」  
 しかもその印象は、ばっちりしっかり当たってしまっていたようで。余裕綽々といった  
雰囲気を崩さない親友に、不満を抱えてしまう。  
 それでもその詳しい内容を聞きたがってしまうのは、やっぱり紗枝自身も崇兄との関係を  
一刻も早く修復したいと願っているからに他ならなかった。  
 
「あなたの知らないお兄さんの顔」  
 
「っ…!」  
 目の前の親友は、頬杖をつきながらにっこりと笑みを浮かべる。  
「それも、あなたじゃ絶対見られない表情をね」  
「なっ…っ…!」  
 普段あまり表情を崩さない彼女が満面を浮かべるのは、決まって弄り倒そうとしてくる時。  
それを知ってるはずなのに、嫉妬する気持ちに歯止めが掛けられない。  
 
「知りたい?」  
「知りたくないっ」  
 まさか真由にまで粉かけてたんだろうか。そんな考えさえ浮かんでしまうのは、彼への  
慕情の裏返し。本当は知りたくて仕方が無いのに、ついつい本心とは真逆の言葉が口を  
ついて出てしまう。  
「そんな大声出さないの。周りの人の迷惑になるでしょ」  
「だって…それって……!」  
 自分の推論に、自分自身が打ちのめされてしまう。目に映るもの全てが、ぐにゃりと  
歪んだような錯覚を覚えたその時だった。  
 
「勘違いしないの。私が言ってるのは、あなたと顔を合わせていなかった時のお兄さんの  
ことよ」  
 
「…え」  
「あなたには知りようが無くて当然でしょう?」  
「……」  
 無意識に身体中にこもっていた力が、プシューっと音を立てて抜けていく。そのまま  
ぐったりと背もたれにしなだれかかってしまう。  
「それならそうって言ってよ……」  
「だって見ていて面白いんだもの」  
 ああ、そういえば彼女はこういう性格だった。ある意味、崇兄と似通っているんだった。  
助けを求めることばかり考えてて、そのことをすっかり忘れていた。  
「真ー由ー……っ」  
 文句を言いたい気持ちとホッとした気持ちが混ざり合って、溜息混じりに言葉を吐き出す。  
弄るにしても、せめて時と場合を選んで欲しかった。  
 もっとも、選んでたら好きに弄ってもらって構わないというつもりも無いのだが。  
 
「そんな感じね」  
 
「……何が?」  
 そんな考えに囚われてて、一瞬その台詞の意味が理解できなかった。  
「その時のお兄さんの表情」  
「……」  
「何をどうしたら良いのか、どうしたいのか全然分かってない顔をしてたわ」  
 そう言うと、真由はジュースに刺さったストローをぐるりと一度かき混ぜる。グラスと  
氷が跳ね返って、カランと軽い音が立ち響く。  
 
「今のあなたと同じね。煮え切らないところとか、ウジウジしてばっかりなところとか」  
 似た者同士、暗にそんなことを言われたような気がした。  
   
「聞いてみたらいいじゃない」  
 答えはわかりきっているのに、どうしたらいいのか分からない。その時の崇兄も、同じ  
ような気持ちだったんだろうか。  
「…それは、その」  
 だけど、聞くのが怖かった。  
 そうしたことでまた傷ついてしまったら、どうなってしまうんだろう。  
「何言われるか…分かんないし」  
 今まで一度も崇兄の気持ちを探ったことなんて無かったし、それでもし怒られでもしたら、  
一人で立ち直れるかどうか不安だった。  
 
「手っ取り早いのは、実際に会って二人で話をすることだと思うけど。いつ以来会ってないの?」  
「えっと…浮気してるとこ見ちゃった時以来かな」  
「そんなに?」  
「だって…デートの約束してくれるまで会ってくれなかったし」  
 自分で言ってて悲しくなってきた。言葉尻が、弱々しく萎んでしまう。  
「なら会いに行かなきゃ。別れたくないんでしょ?」  
 その言葉に、物言わず紗枝は首を縦に振る。  
「好きなんでしょ?」  
 もう一度縦に振る。一度目よりも、強く。  
 
「じゃあ尚更ね。お兄さんに言われたことを守らなきゃいけないじゃないし」  
「……そう、かな」  
 返す言葉は、やっぱりたどたどしくなってしまう。  
もし彼の言うことを聞かずに会いに行った時、もし怒られたりしたらと思うと不安だった。  
今まで一度も怒鳴られたりされたことなんて無かったから、もしそんなことになったら、  
自分でもどうなってしまうか分からなくて怖かった。好きだからこそ、突き放された時の  
危機感も、それ相応に持ち続けていた。  
 
 あんなこと言われても平静を保っていられるのは、今こうして話をしているからであって。  
 
 もし一人で部屋に閉じこもっていたら、またどこまでも落ち込んでしまいそうだった。  
 
「……」  
 だけど、落ち込んでこれまでのように会わないままでいたら、事態は好転するだろうか。  
答えは分かりきっている。崇兄のことだから、付き合っているという意識が希薄になって  
きたら、また違う誰かと浮気をするに決まってる。  
 
 
 そんなの、イヤだ。  
 
 
 絶対、イヤだ。  
 
 
「…分かった」  
 
 
 また崇兄と、一緒に時間を過ごしたいという気持ちが、その恐怖心を打ち砕く。ずっと  
目を背け続けてきたことに、初めて見据える覚悟をしたのだった。  
 自分一人じゃまず到達できなかっただろうこれからの行動の指針を示してくれた友人に  
感謝しながら、紗枝は腰掛けていた椅子から立ち上がる。  
 
「会って話、してくる」  
「そう」  
 
 決意を告げると、また真由のグラスからカランという音が放たれる。  
「ならこの場は奢ってあげる」  
「……いいの?」  
「別れたら奢ってもらうからいいわ」  
 ジュースを飲み干すと、彼女も伝票を指で挟んで立ち上がる。そして先程とは違った、  
ごく自然な笑みを浮かべながら鞄を掴むのだった。  
「じゃあ、奢ってあげられないね」  
「どうかしら。相手があのお兄さんだもの」  
「あたしには優しいよ。真由にはどうなのか知らないけど」  
「そんなこと言う余裕ができたなら、大丈夫そうね」  
 お互いに皮肉をぶつけ合って交し合って、清算を済ませて店を後にする。空はもう微かに  
オレンジ掛かっていて、雲もほとんど消え失せている。ビル群に少しだけ隠れた太陽を背に、  
二人は歩みを進め始める。  
 
 
「いつ会いに行くつもりなの?」  
「今から行く。善は急げって言うし」  
「そう」  
「うん」  
 鮮やかな色合いの西日を受けながら、二人は自らの長い影を見つめながら帰路につく。  
 
 そういえば、崇兄と河川敷で遊んだ後はこうして自分の影を追いかけながら帰っていた。  
他の友達と野球やサッカーをしてるのを眺めるだけのことが多かったけど、邪魔者扱い  
せずにいつも傍に居させてくれた。格好良いところを見せようとして、ホームラン予告を  
して豪快に三振したり、ボールを蹴ろうとして思いっきり地面を抉ったり、見てるだけでも  
楽しかった。そして帰りは手を繋ぎながら、「お前がもうちょっと大きくなったら、みんなに  
言って参加させてやるからな」と言ってくれるのがお決まりだった。あの頃は大人しかった  
けど、その言葉にはいつも「うん!」と強く頷いてたのは、今でもよく覚えている。  
 
 参加できるようになった年の頃には、もう崇兄と河川敷と遊ぶことはなくなっていて、  
結局その約束が果たされることは無かったけれど。そのことを窓越しにいかにも不満げに  
口にしたら、家の前の道でキャッチボールをしてくれて。そういえばあの時も、こんな感じの  
夕焼け時だった。  
 
 オレンジ色に染まった、忘れることの出来ない大切な思い出。  
 
 あたしには、忘れることの出来ない大切な思い出。  
 
 崇兄は…覚えてるのかな。  
 
「じゃ、この辺で」  
「あ、うん」  
 昔の記憶に思いを馳せていると、いつの間にか別れ道のところまで歩いてきてたようで、  
声をかけられ現実に引き戻される。  
「上手くいくといいわね」  
「……」  
「それじゃ」  
 そして背を向け自分とは違う道に沿っていこうとする彼女が最後に放った言葉に、紗枝の  
頭に一つの疑問が生まれるのだった。  
 
「ねえ真由」  
 
「ん?」  
「どうして、そんな親身になってくれるの?」  
 気になってしまって、わざわざ呼び止め聞いてみる。そんな不躾なことが出来るのも、  
彼女もまた付き合いが古くなりつつある、大事な親友だったから。  
 
 あえて言葉に出すまでも無いことだから口には出さなかったけれど、真由はあまり崇兄  
に好意を抱いていない。二人の関係に話が及ぶと、何かと「別れたら?」と言ってくるのが  
茶飯事だった。その理由はもう知っているし、自分のことを心配していてくれてたのだから  
ありがたい話なのだけれども。それでも、長年かけて叶えることの出来た気持ちを友人に  
祝福してもらえないのは、ずっと気掛かりにしていたことでもあった。  
「さあ」  
 だけど吊り目で、少しキツネっぽい顔立ちをした彼女のこと。  
「どうしてかしらね」  
 煙に巻かれることもなく、微妙な含みを持たれたまま、投げかけた質問をかわされて  
しまう。  
「それとも答えないと不満?」  
「ううん」  
 答えないってことは、答えたくないってことだから。興味が無いわけじゃなかったけれど、  
相手の心情を推し量って、そこで追究を止めるのだった。  
 
「それじゃ紗枝、また休み明けにね」  
「あれ、休みの間に誘っちゃ駄目?」  
 明日からは世間も学校もゴールデンウィーク、一週間弱の連休に突入することになる。  
春を連想させる桜の花びらは、とうに散り終えていた。  
「お兄さんに断られたから私とっていう理由なら、考えさせてもらうかもね」  
「う、うるさいなぁ」  
 純粋に気になって聞いてみれば、返ってくるのは茶化し台詞。口を尖らせてしまったら、  
声を殺して笑われてしまう。  
「冗談よ、そんなに心配することないと思うわ」  
「……そうかな」  
 
「あなたが寂しがってるなら、きっとお兄さんもそうなんじゃない?」  
 
 一人になった時の心細さが別れる直前になってぶり返してきて、また少し不安になって  
しまっていると。「似た者同士」という意味を込められた、さっきとよく似た言葉を投げかけ  
られる。  
「一度裏切られたからって信じるのを止めてしまうのは、あなたらしくないわ」  
「……」  
 
 
「幼なじみでしょ?」  
 
 
「……!」  
 そして最後に付け加えられたのは、付き合いだしてからは忘れかけていた、幼い頃の  
時間を積み重ね続けた、何気ない毎日の日々。  
 
 記憶や思い出ばかりを大切にしていて、その関係自体を軽視してしまっていたことに、  
紗枝は今更気付くのだった。  
「…うん」  
 それは、崇兄をいちばん好きな人と捉えたかった彼女には、仕方ないことだったのだけれど。  
「じゃあ、頑張って」  
「うん、頑張る」  
 だけど、自分達の繋がりの一番根っこにある関係を大事にしなければ、すれ違ってしまう  
のも、当然の話だったわけで。  
 
「それじゃ、ね」  
「うん、また」  
 お互いに背を向けて、長く伸びた影も少しずつ離れていく。  
 感謝の言葉を口にしなかったのは、少し照れ臭かったからだけど。崇兄とちゃんと会って  
話をしようとする気が起きたのも、そもそもの原因が自分にあったのかもしれないと思える  
ようになったのも、全部彼女のおかげだ。  
 
 携帯電話を取り出して、崇兄の連絡先を映し出す。面倒臭がりな性格だから、バイト中  
でも留守電になってたことなんて一度も無い。もし電話に出なかったら、後でメールする  
ことにしよう。  
 
 灼けた色した夕日を浴びながら、彼女は発信ボタンをプッシュする。自分の耳にそれを  
押し当てて、ゆっくりと歩みを進め続けるのだった――――  
 
 
 
 
 
「はーっ……」  
 あくびとも溜息とも取れるような、深く長い息を吐きつくす。ブラインドの隙間から  
漏れてくる橙色の光が、やけに眩しかった。  
 ようやくの休憩時間を更衣室で過ごすものの、特に休むわけでもなく手持ち無沙汰だった。  
どうしようもなくなって自分のロッカーから携帯電話を取り出すと、それを左の手の中で  
遊ばせる。  
 
(……)  
 紗枝との関係を失ってしまった時のような。何の感慨も沸かないような不愉快な感覚。  
二度と味わいたくなかったあの時のそれに似たような気分が、今の崇之の身体を再び覆い  
つくそうとしていた。  
「あーあ…」  
 自分から申し出たこととはいえ、やっぱりどうにも参ってしまう。もうこれで、全部  
終わってしまうかもしれない。またあの空っぽな時間がやって来るんだろうか、億劫な話だ。  
考えてしまうのはそんなことばかり。舌先で奥歯に溜まったヤニをほじりながらも、眉間に  
深い皺が走ってしまう。  
 
ブーーッ  
 
「うおっ」   
 すると、握り締めていた携帯が突然小刻みに震えだす。マナーモードにしていたものの、  
掴んでる真っ最中に着信するとは思ってなくて、大袈裟気味に驚いてしまった。  
「…およ」  
 その驚きは、画面を開くと更に倍加する。電話をかけてきた相手が、ありえなかったからだ。  
 
 
『平松紗枝』  
 
 
「……」  
 留守電をまだ聞いてないのだろうか。それとも、聞いたからかけてきたのだろうか。  
幸い休憩は始まったばかりで、まだ少し時間はある。  
 
ピッ  
 
 居留守を使うのも釈然とせず、とりあえず通話ボタンを押してみる。自分から逃げ出した  
くせに、都合のいい話だとまた自嘲してしまうのだった。  
『もしもし?』  
「……おう」  
『今、家なの?』  
「いや、休憩中」  
 しばらく聞くことも無かったかもしれない紗枝の声を聞いて、崇之は軽い違和感を覚える。  
これまでのように沈んだりしてない。いつも通りの、最近は聞けなかったあいつの声だ。  
 
『…そっか』  
「何か用か?」  
 たとえ表面上だけであっても、こうやっていつものような感じで話をするのは、一体  
いつ以来になるのだろう。  
 
『あのね、その…』  
 
 どもった。それだけで、彼女が何を言おうとしているのか、察知してしまう。  
 
『今日、会いに行って良い?』  
   
「……」  
 どうやら、留守電に吹き込んだ言葉は聞いているようだ。でなけりゃ、向こうから会いに  
来ようとするはずがない。  
 でもそれなら、どうして伝えたことと逆の行動をとるのだろう。文句を言われることは  
多かったけど、逆らわれたことはあまり記憶に無い。  
「まだしばらく働かなきゃならんのだが」  
『それじゃ、崇兄の家で待っててもいい?』  
「……」  
 言外に会う気がないと伝えても、一歩も引く様子が無い。むしろ気付いてないと言った方が  
正しかったのかもしれない。違和感と同時に、何故か既視感が沸き上がる。本当に、なんで  
なんだろう。  
「…好きにしろ」  
『じゃあ、待ってるね。仕事頑張って』  
 
ピッ  
 
「……」  
 待ち合わせの約束を一方的に決められると、唐突に電話を切られてしまった。なんとも  
忙しない話だ。冷たく言い放てば引くかとも思ったのだが、結局そんな様子は微塵も見せ  
なかった。  
 
(あーあ…)  
 彼女には、付き合い始めた頃に家の合鍵を渡している。それは彼が、お互いの関係が  
変わったことをちゃんと認識して欲しいという思惑も含めて渡したものだった。もっとも、  
紗枝の方は渡されただけで満面の笑みを浮かべて満足してしまっていたのだが。  
それを、今になって後悔してしまう。  
 
 
 何かしら言いたいことがあるのだろう。それがもしかしたら三行半を突きつけられること  
なのかもしれないと考えると、気分はいよいよどん底にまで落ち込むのだった。  
 ドッと疲れが出て、ぐったりと椅子に寄りかかる。携帯の角で、自分の額を打ちつける  
のがここ最近の彼の癖だった。  
 
 ブラインドの隙間から差し込む光が、徐々に弱まる。赤々と照り続ける太陽が、ビル群と  
地平線の陰にもう半分ほど隠れ始めていた。  
 
 再び自分のロッカーを開けると、ポケットを弄って飴玉が入った袋を取り出す。  
 
 袋を破って中身を口の中に放り込むと、舌の上で転がすことも無く、奥歯で思いっ切り  
噛み砕き始めるのだった―――――  
 
 

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