空はもう、夕焼けの色が落ちようとしていた。  
 
 真由と別れてから、紗枝は寄り道することなく彼の家へと足を向けた。随分と久しぶりに  
来たけれど、懐かしさを覚えることは無かった。崇兄が引っ越した今でも、彼女の中では  
窓から見える向かいの家が、彼の部屋だったからだ。  
 
 鞄の中に大事に入れておいた合鍵を取り出す。付き合い始めて最初にプレゼントされた  
ものが、この使い古された感のある光沢を失った合鍵だった。貰った時は、物凄く嬉しかった  
けれど、渡してくれた時の崇兄の複雑そうな表情が、今でも不思議でならない。  
   
 赤く錆びた鉄の階段を、カンカンと音を立てて上っていく。二階の右から二番目の部屋が  
彼の家だ。握り締めていた鍵を鍵穴に差し込んで、ドアノブをひねって部屋の中に入る。  
玄関には、脱ぎ捨てられた靴があちこちに散らばっていた。  
 
 パタンッ  
 
 中に入り、頭をぐるりと動かし部屋の様子を伺う。薄い板一枚で仕切られてるとは思えない  
くらい、言い表し難い匂いが鼻腔を貫いた。  
(うわあぁぁ……)  
 この部屋に入るのは一ヶ月ぶりくらいになるんだろうか。いつもちゃんと整頓している  
自分の部屋と比べて、相変わらず部屋の様子は閉口したくなるような惨状である。足の  
踏み場が無いというほど散らかっているわけじゃないが、それでも、お世辞にもあまり  
綺麗とはいえない。  
「……はーっ…」  
 だけど前に来た時に、くたくたになるまでこの部屋の掃除をしたのだ。その時の様子が  
あまり残っていなくて、思わず溜息が漏らしてしまう。あの時の苦労は何だったんだろう。  
あたしは家政婦さんじゃないのに。一応その、えと、恋人のはずなのに。   
 靴を脱ぎ、畳を踏みしめながら部屋に上がり、こもった空気を逃がす為に窓を開ける。  
その足元には、敷きっぱなしの布団が一組。  
 あれだけ万年床はやめろって言ったのに。自分が注意したことも守られてなくて、また  
苛立ちと虚しさが募る。本当にあたしは彼に大切に想われているんだろうか、そんな考えが  
浮かんでくるのは、もう何度目になるんだろう。  
 
「……ふぅ」  
 唯一の救いは、汚れているといってもゴミが散乱しているわけじゃなくて、漫画や雑誌が  
床に放置されている状況だったこと。時間をかけて整理整頓をすればそれなりに綺麗になった。  
脱ぎ捨てられていた靴も靴箱にしまいこんで、流しに放置されていた食器も洗剤で洗って  
所定の位置に戻す。これで少しはまともになっただろう。  
 
「……」  
 そしてまた、足元に敷かれ畳を覆っているものに視線を移す。  
 
 眼下に広がる、少しばかり汚れた布団。毎日寝る時に使っている、少しばかりよれた布団。  
そこにはつまり、彼の匂いもそこに染み付いているわけで。  
 
 掃除する際にそこに置いてあった自分の鞄を、傍にあった折りたたみ式の机の上に移動  
させる。  
 そして布団も押し入れに片付けるのかと思いきや、ゆっくりと膝を突いてその場に座り  
込んだ。そのまま手もついて四つん這いになる。皺でもみくちゃになっているシーツを、  
ゆっくり伸ばしていく。  
 
(崇兄の…匂いだ……)  
 
 距離が少し近づいたことで鼻を微かにくすぐってくる、今一番会いたくて、今一番自分の  
気持ちをぶつけたい相手の残り香。皴を伸ばし終わると同時に、紗枝は半ば無意識に頭を  
枕に、身を布団の上に委ねた。  
 
 そうすると残り香はより一層強くなる。まるで、彼に思いっきり優しく抱きとめられて  
いるような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。自分以外誰もいないのをいいことに、鼻から  
強く息を吸い込んで、僅かに身をくねらせて、その感覚を存分に楽しもうとする。  
 
「……はぁ…」  
 
 最後に本人に思いっきり抱きしめてもらったのは、もうどれくらい前になるんだろうか。  
少なくともここのところは会ってすらいない。街中で、見てはいけない場面をこの目で  
見てしまった時のことは、カウントに入れたくなかった。  
 
 半ば半端の夢心地。そんなふわついた感覚が、彼女に一番楽しかった頃の情景を脳裏に  
思い起こさせてしまう。  
 
 
 
 
 ………――――――  
 
 
『ちょっとー、部屋掃除しろよー』  
『んー? なんで?』  
『汚いからに決まってるだろ』  
 久々に部屋に訪れたら、見渡さなくても臭いで分かった。至る所から腐臭を感じ取り、  
露骨に顔をしかめて部屋を主でもあり、汚した張本人に改善を要求する。日頃バイトなどで  
家を空けることが多いのに、なんでここまで汚すことが出来るのだろう。  
『バカお前これは散らかってるんじゃなくて、置いてんだよ。ちゃんと全部計算し尽された  
ところに物をばっちり配置してるわけよ』  
 面倒臭がり口八丁の彼のことだから、素直に頷いてもらえるとは思わなかったけど。  
それでもこの手の言い訳にいい加減辟易してしまうのは、付き合いの長さからくるものなのか  
どうなのか。想像通りの答えを返され、肩にドッと疲れが圧し掛かる。  
『……どう考えて配置したとしても、机の上にバナナの皮はいらないと思うんだけど』  
 ほとんど真っ黒になってしまっている本来黄色いはずの物体を、鼻をつまみながら指先で  
掴むと、ゴミ箱の中に放り投げる。窓を全開にしてこもった臭いを逃し、洗い場で手を  
洗いハンカチで拭きながら、ジト目で彼を睨みつけた。  
 
『あぁ分かった分かった。今度ちゃんと掃除しとくから。それよりホラ、こっち来い』  
『……え』  
『早く来いって』  
 生返事で応答され少しばかり腹を立てて更に文句を言おうとしたら、それを完全に無視した  
いつものお誘い。不意な申し出に、とめどなく溢れ出しそうだった不平不満が、それだけで  
ぴたりと止まってしまう。  
 
『いつもの?』  
『いつもの』  
 恋人同士になってからよく交わすようになった、言葉は同じでイントネーションだけが  
違っている台詞の掛け合いが、紗枝は嫌いじゃなかった。一言だけでお互いの意思を疎通  
出来ることが、嬉しかったからだ。   
 
『……恥ずかしいんだけどな』  
『最初にやって欲しいって言ったのはお前の方だろーが』  
『それは、そうだけどさ』  
 口で勝負して勝てないことなんて分かってるのに。それでもいちいち売ってしまうのは  
そういう性格だから。こればっかりは、治そうと思ってもなかなか上手くいかなかった。  
もっとも、そういうところを彼は特に好きでいてくれているようだけど。  
というよりか、彼の好む性格になろうと幼い頃必死に努力した結果なのだから、むしろ  
当たり前の話なのだが。それが元でよくからかわれてしまったりするのだから、やっぱり  
治したいと思う気持ちもどこかにあるわけで。  
『だろ?』  
『……』  
 
ぽすんっ  
 
ぎゅっ  
 
『はい、よく出来ました』  
『うー…恥ずかしいのに…』  
 恥ずかしいと言った割には自分から収まりに行ったのだから、おかしな話なのだけれど。  
だけどその時の気持ちとは裏腹な言葉を言わずにはいられないのも、そういう性格だから。  
 
 そして、彼はそういうところも好きみたいで。  
 
『そう言うなって、誰も見てないしいいじゃねーか』  
 だからなのかもしれないが、そういう態度をとってしまった時は、いつも以上に優しく  
してくれるのだ。  
『でもさ…』  
 恥ずかしくて、照れ臭くて。だけどそこに深く腰掛けてしまうのは、相手の鼓動の音を  
知りたくて、自分の鼓動の音を知って欲しいから。  
『……じゃあやめるか?』  
『え…』  
 だから不意な言葉に、またしても戸惑う。  
『お前がそこまで言うなら、別にやめてもいいけど』  
『……』  
『どうする?』  
 こういう時だけ、気持ちを聞いてくるのだから。  
 
 彼女の好きな人は、本当に意地が悪い。  
 
『……やだ』  
『はっは、だよな』  
 そして、逆らえないことも知っていて聞いてくるのだから、性格も悪い。  
『…だったら、もう少し大人しくしとけ』  
『う〜〜〜』  
 悔しくて悔しくて仕方が無いけれど、それと同じくらい嬉しくてドキドキして。  
 
 だけどそんな思い出すだけで胸が高鳴る記憶も、今はもう、昔の話で―――――  
 
 
 
 
「……」  
 付き合い始めた頃は当たり前だった頃の情景。それがふと頭をよぎり胸が一瞬ツキリと  
痛む。一度冗談めいて椅子になって欲しいと言ったら、彼はそれがよほど嬉しかったらしく、  
喜んで手を広げて体を受け止めてくれた。  
 胸元に後頭部を預け、全身をもたれかけて、お腹の前でベルトのように手を回して繋いで  
もらって。凄くドキドキしたけれど、凄く嬉しかったあの感覚。甘酸っぱい感情が身体中を  
巡った違和感とも思えたあの気分は、それこそ味わったことのないくらいの至福の瞬間だった。  
 
 そして今仮想ではあるものの、それに近い気分を味わっている。色々と大事な話をしに  
来たというのに、そんな気分はもうどこかに吹き飛びかけていた。もぞもぞと身体を動かし  
瞼が降りかけ、また静かに大きく息を吸い込む。  
 
「たかにぃ……」  
 
 目がとろつく。本当は、単に寂しいだけなのだ。言いたいことはたくさんあるけれど、  
それ以上に以前のようにいつものように時間を共有したかった。会えない時間が多くなった  
ことにもどかしさを抱え続けていることを、彼は知ってくれているのだろうか。  
 
(仲直り……できるかな…)  
 「今」の関係を考え直してもいいんじゃないのかと聞かれた時、紗枝はそこで初めて、  
崇兄が悩んでいたことを知った。  
 彼女の中で、その想いは変わらないままだった。それがいけなかったのかもしれないと  
いうことは、友人に指摘されるまで気付かなかった。もっと違う形を彼が望んでいたのなら、  
これまでずっと我慢し続けてくれてたのだ。そうすると、浮気しちゃったのも仕方ないのかな  
と考えてしまう。約束を守れなかったり向こうも自分のことを悪いと思っているかもしれない  
けれど、あれは仕方がなかったわけだし。仕事と自分と天秤にかけさせるなんて、そんなの  
相手を苦しめるだけだ。  
   
 そしてそんな感情をベースに、崇兄からの問いかけの答えを用意した。問いかけられた事  
自体、泣き出しそうになるくらい悲しいことだったけど。今ならその原因も、気持ちの疎通が  
出来なくてまるで分からなかった相手の気持ちも、ちゃんと分かっている。  
   
 
 だけどそれも、今の気持ちが沈みこむ歯止めにはならなかった。  
 
 
 親友に相談に乗ってもらったことで手に入れた勇気や前向きな気持ちも、一人になって  
まだ上手くいっていた頃の甘い思い出や、すれ違い始めてからの関係を思い起こしたりして  
いるうちに、既に失いつつあった。代わりに胸によぎるのは、自分の部屋で横になった時と  
同じような、後ろを向いた考えばかり。  
(ちゃんと…話できるのかな……)  
 ずっと上手くいっていた関係だからこそ、上手くいかなくなってしまった時の耐性を  
持っていなかった。そしてそれは多分片方だけじゃなくて、お互いに当てはまるのだろう。  
 
「崇兄…たかにぃ……」  
 そんな思考から逃げ出したくて、この場にいない部屋主の名を口にし続ける。この状況で  
考えこんでも、沸いてくるのは悲しさだけだ。だから、再び没頭する。幸せを感じられた時の  
ことだけを頭の中に浮かべて、本人には呼びかけたことの無いくらい、甘ったるい声で彼の  
名前を呼び続ける。そうすると、また記憶の中の優しくしてくれるのだ。  
 
 久しぶりに味わう安らかな気持ちは、やがて彼女から全身の力を奪っていく。  
 
 頭はもちろん、身体や四肢、瞼を上げる力でさえ奪われ、瞳が徐々に重くなっていく。  
 
 昨日の夜はベッドに潜り込んでからも、留守電に伝言を残した彼の真意が分からなくて、  
そのことばかり考えを巡らせていた。当然、満足な睡眠時間を得ることは出来なかった。  
久しぶりに胸をよぎった穏やかな気分に、その疲れもドッと上乗せされてしまっていた。  
 
 嫌なことを全部忘れて、好きな人のことだけを、その人と作り上げた思い出のことだけ  
を考えながら。楽しかった頃の、楽しかったことだけを脳裏にしっかり写したまま。  
 
 
 そうして彼女は少しずつ、だけど確実に夢の世界へと落ちていったのだった――――  
 
 
 
 
 
「くはぁーっ……」  
 
 バイトを終え、自分で自分の肩をトントンと叩きながら崇之は帰宅の徒につく。今日は  
久々に長く働いたもんだから、随分と疲れが溜まった。本来なら、さっさと晩飯を食べて  
シャワーを浴びて、しばらく時間潰したら適当な時間に就寝するのだが、今日はこれからが  
本番である。  
 
(紗枝の奴…いるんだろうなぁ)  
 
 怒りながらか、今にも泣きそうになりながらか、そのどちらかの表情をたたえながら  
待ち構えているのだろう。そして、彼女の行動パターンが読めなくなってしまっている自分に  
向けても鬱屈した気分が溜まっていく。関係が深くなって、気持ちが逆に読めなくなる  
なんてどう考えても、つーか考えなくてもおかしい。  
 途端に頬がひりつきだす。そこは、つい一週間ほど前に街中で彼女に叩かれた箇所だった。  
遅れて併せるように思い起こされる、無実の罪を責め立てられた時の記憶。  
 
 紗枝には随分辛いことを言ってしまった。だけどまた今日もあんな態度をとられたら、  
彼女のことを大切に想う気持ちが無くなってしまいそうで、怖かった。  
 
 崇之にとっての発端は、紗枝が抱え続けた自分に対する変わらなすぎた真っ白な想い。  
 紗枝にとっての発端は、崇之が一時の気の迷いに流された疑惑ではない本当の浮気。  
 
 そのことはもう分かっている。  
 
 身から出た錆を処理するのは大変な作業なのだということを思い知らされ、ぼりぼりと  
髪を掻きながら、苦々しい顔で空を仰ぐ。  
今日はバッチリ星月が一面に広がっている。今までのパターンからすると、こういう時は  
必ず曇り空だったのだが。どうやら天気には早々に裏切られてしまったらしい。  
 
「……」  
 
 扉の前まで戻ってきたところで、足が止まる。明かりが点いている。出掛ける前は確実に  
消していた明かりが、今は光を放っている。ということは、誰かいる。その誰かが誰なのかは、  
もちろん言うまでもない。毎日開け閉めしている扉なのに、今日に限ってはノブに触れること  
にさえ勇気を必要としてしまう。  
   
 いやいやしかし、ここは自分の家だ。なんで躊躇う必要がある。  
 
 そう思い立って、一転迷いを振り切ってドアを開き、あくまで平静を装って部屋に入る。  
足元を視線に落とし靴を脱いでいると、彼女のローファーだけしか視界に入らず、自分の  
靴がちゃんと仕舞われていることに気付き、また一段と気分が重たくなった。この様子じゃ  
部屋の中も掃除してくれているのだろう。これでまた負い目がひとつ出来てしまった。  
 どんな言葉で声をかけようか、どんな言葉をかけられるのか頭の中で逡巡し、苦虫を潰した  
ような顔になってしまう。どんな反応をされるだろう。  
 
「……?」  
 
 そういえば、おかしい。扉を開け、部屋に入った時点で何かしら反応があるはずなのに、  
なんら応答されることもない。  
 
「……紗枝?」  
 
 顔を上げるが姿も見えない。電気が点いているということは家の中にいるはずなのに。  
途中で外出する用事があったのなら、ちゃんと消していくし、鍵も忘れずにかけていく奴だ。  
一体どうしたんだろう。  
 
「くぅ……すぅ…」  
 
「んー?」  
 何やら寝息が聞こえてくる。玄関からは、布団を敷いている辺りはテーブルの陰に隠れて  
丁度死角になっている。身体ごと首を傾け、視界の角度を変えて死角だった辺りの場所を  
覗き込んでみる。  
 そこに見えたのは、布団に沿うように倒れている、紺色のソックスに包まれた二本の脚。  
部屋に上がり、足音を忍ばせて徐々に近づくと、掛け布団に身体半分ほど埋まった可憐な  
眠り姫が夢の世界へと落ちてしまっていた。  
「すぅ…すぅ……んん…っ…」  
 しかも何故かことあるとごとに、布団に自ら埋まっていくかのように身体を擦り寄らせる。  
掛け布団をそっと握り締め、口元あたりだけ覆っている。  
 
「……」  
 
 足をかがめてそのまま尻を床につくと、掛け布団の位置を少しずらして、紗枝の寝顔を  
あらわにする。反射的に、人差し指で頬をつっついてみた。  
「ん〜……っ」  
 割れた声で反応を示すものの、起きる様子はない。この反応が琴線に触れてしまって、  
もう一度頬をつっついて様子を伺ってみる。  
「んっ」  
 嫌がるように一瞬眉をひそめ、拗ねたように声を上げると、無意識げに顔を布団の中に  
隠してしまった。そしてまたもぞもぞと身体を動かすと、布団の下から深呼吸をする声が  
耳に届く。  
 
(やべ……マジ可愛い)  
 
 すっかり頭の中から抜け落ちていた事実を、今更になって思い出したようだ。  
 
 恋人というのは、相手の浮気を詰問して叱り飛ばしてくるのが役割じゃない。お互いに  
時間を共有して、一緒にいるだけでも心を満たしてくれるような、他の何物にも変え難い  
大事な存在なのだ。  
 それを、ここ最近の関係の悪化が原因ですっかり忘れてしまっていたのだろう。  
 
 そういえば、幼なじみだったけれどこうして紗枝の寝顔を拝むのはほとんど記憶にない。  
あったとしても、それは彼女がまだ赤ん坊の頃の話。あの時も確か似たような言葉の感想を  
抱いたと思うが、その意味合いは今とはまるで違っている。  
 
 だから、この姿は新鮮だった。年上だった分、紗枝のほとんどの表情を知り尽くしていた  
ことも手伝ってか、いつもよりも心を揺すぶられた。だからまた、掛かった布団をゆっくりと  
払いのけて、その寝顔を覗き込む。いつもよりも全てにおいて可愛さが増しているのは、  
最近はあまり見せてくれなかった紺色のブレザー、深緑の色をした紐タイ、チェック柄の  
プリーツスカートという組み合わせの制服姿のままだからなのだろうか。どうやら学校帰りの  
まま、帰宅することなくここへ来たらしい。  
 
 自分と彼女の関係がどういうものだったかを思い出せたおかげか、帰る直前まで引き摺って  
いた考えがあっさりと消え失せる。そしてこれまでの鬱憤を晴らすように、突然くだけた  
行動に出てしまう。  
「……」  
 身体を横向きに滑らせて、無防備なプリーツスカートの中身をそっと確認しようとする。  
が、その直前で身体が固まった。どうやら思いとどまったらしい。  
 
 いかんいかん、これじゃまるで変態じゃないか。それとも、やろうと思った時点でもう  
十分に変態か。いやいや、どうせ男は全員変態だ。というわけで覗いてやる。こんな所で  
寝るこいつも悪いんだ。  
   
 結局欲望に負けたようである。首をぐぐぐっと動かして、奥を確認する。  
 
ちらっ  
 
 見えた! ちょっとだけ見えましたよ! 色は薄い緑、ペパミントグリーンというやつだ。  
この野郎、色気のある下着つけやがって。少しだけ興奮しちまったじゃねーか。  
 
「すぅ……すぅ…」  
 多大な戦果に充分満足して、体勢を元に戻す。  
 話をするために起こそうかとも思ったが、だけどもう少しこの寝顔を見ていたかった。  
むしろまだまだ眺め続けていたかった。傍であぐらを掻いて、顔元の布団をどけて静かに  
見つめ続ける。  
 これ以上ちょっかい出すと目を覚まされそうなので、我慢する意味もこめて腕を組む。  
紗枝の制服姿は、普段は余りスカートを履きたがらないことも手伝ってかよく似合い、  
そして普段以上に可愛らしく思えた。  
 
 
『見て見て、たかにぃと同じ学校のせーふくだよ!』  
 
 
 ああ。  
 
 そういえばそうだった。  
 
 まだ紗枝の家の向かいに住んでいた頃。進学、衣替えをする度に、彼女はその制服姿を  
窓越しに見せ付けてきた。そんな埃被った記憶の断片が、急に脳裏に浮かび上がってくる。  
   
 年が四つ離れているもんだから、中学と高校は共に通うことが出来なくて。それだけに  
たまに下校途中でばったりと出くわした時は、いつも以上に減らず口を叩いてきて、いつも  
以上に嬉しそうな表情をしていた。今はもう彼が通学していないせいか、そんな思い出を  
作れる機会が、もう無いわけだが。  
 崇之が高校を卒業すると同時に、紗枝は途端に制服姿を見せることを渋るようになった。  
その理由は明かさなかったけど、なんとなく分かっていた。自分一人だけって言う状況が、  
嫌だったんだろう。  
 そのおかげか、こうして彼女の制服姿を改めてまじまじと見つめ返すことで、さっきから  
胸をむず痒い感覚が駆けずり回っている。それが増せば増すほど、奇妙な充実感と、彼女が  
どんな答えを用意したのかという不安が沸いてくる。  
 
 思えば馬鹿なことを口走ったもんだが、だからといってあの時、代わりにどう言えば  
良かったのかと思い直そうとすると、今の状況も仕方ないと思えてしまう。気持ちだけじゃ  
どうにもならないことがあるということくらい、彼は知っている。  
 
 自分が悪いのか、彼女が悪いのか、きっかけを作ったのはどっちか、向き合ったと思って  
いた時に実は向き合ってなかったんじゃないのか。考えることはそんなことばっかりで、  
しかもその答えを全部綺麗に出せるわけが無いのだから、それだけ歯痒さも増していく。  
 だけど、そんな頭を抱えたくなるような問題をすぐに忘れさせてくれるくらいの魅力が、  
今目の前に横たわる彼女にはあった。  
 
 
 もし恋人でなくなったとしても、崇之にとって紗枝は大事な存在なのだ。それだけは  
確かなのだ。お互いの立場とか関係無しに、ずっと一緒にいたいのだ。  
 
 
「……」  
   
 そうなると、やっぱり馬鹿なことを言ってしまったという気分に襲われてしまう。自分の  
尻尾を、その場でぐるぐる回って追いかけ続ける犬になったような気分だった。  
(あーあ…)  
 思わず、頭を抱えてしまう。今まで付き合ってきた女の子は何人かいるが、崇之はいつも  
振られる立場だった。その理由が、今更ではあるが何となく分かってしまう。  
 
 
 その時だった。  
 
 
「…っ……っ…」  
 
 それまで規則的だった紗枝の寝息が、段々と乱れだしていることに気付く。つられて  
表情もそれまで安らかなものだったのが、徐々に変化が現れる。穏やかな線形を描いていた  
眉や口も、少しずつ形を乱していく。  
 
「……ぐすっ…」  
 
「……」  
 そして、鼻を啜った。  
 
 もしかして。いやいやそんなまさか。いくらなんでもありえない。  
   
 冗談だろ勘弁してくれ今そんなもん流されたらマジどうしようもないぞ。  
 
 そう思いながら、再び顔の辺りまで近づいて恐る恐る様子を伺ってみる。  
(……マジか)  
 目尻の縁に溜まった、微かな滴。それは紛れもなく、いうまでも無いもので。  
 
 その表情は、見たことがあった。  
 
 泣きじゃくって、駄々っ子のように首を横に振り続け、こっちの言い分になかなか納得  
してくれなかった。あの、黄昏時の河川敷で見た泣き顔そのものだった。  
 
「……なぁ、紗枝」  
 まだまだ彼女の寝顔を見つめ続けていたかったのが本心ではあったが。  
「どんな夢、見てんだ……?」  
 だけど、問いかけずにはいられなかった。それがそういう意味を含んだ涙なのだとしたら、  
夢の中で彼女を泣かしているのは、夢の中の己だということになってしまう。  
   
 髪を撫でて、そのまま指先で耳から顎筋をそっとなぞる。それは今までしたことのない、  
淫靡な雰囲気を纏った仕草だった。そのまま手を動かして肩先、鎖骨が浮き出た辺りを  
優しくポンポンと叩き始める。  
 
 もし本当に、夢の中で彼女を泣かせているのが自分だったら。謝らないといけないのも  
自分でないといけない。だから現の世界から、優しく彼女を起こそうとする。だが睫毛を  
濡らしていた雫が重力に引かれた瞬間、胸の中が大きく跳ねてしまった。  
「紗枝、起きろ」  
 仕草は優しいままだったけど、声が無意識に切羽詰まる。理由はもう言った。今更余裕  
なんて必要ない。  
 
 気持ちか、関係か、それとも今の感情か。  
 
 満天の星を臨むことの出来ていた夜空に、徐々に薄い雲が翳っていく。  
 
 
 崇之は、そのことには気付かないまま、紗枝を起こそうとし続けるのだった―――――  
 
 
 
 
 

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