『なぁ、紗枝』
『? 何?』
『今度さ、二人で旅行に行かないか』
麗らかな放課後、珍しく人気の少ない駅前の並木道を、ゆるりと手を繋ぎながら。崇兄が
前を向いたまま、穏やかな表情のまま話を切り出してくる。
『……旅行?』
『そう、旅行。つってもあれだよ。近場で一泊程度の予定のつもりなんだけどな』
思わぬ申し出に、紗枝は無意識にその表情を覗き込もうとする。しかし生憎、彼は正面を
じっと見据えたまま。こっちを向いて欲しいのに、前を見つめるばかりだった。
『……嫌か?』
そのことに集中しすぎて、返事どころか反応することさえ忘れてしまっていた。しかし
それが功を奏したのか、ようやく彼がこっちを振り向く。珍しいことに、少しだけ不安が
入り混じった顔で聞いてくる。
『え…あ、その…』
内容があまりにも唐突すぎて、なんと言えばいいのか分からなかった。しどろもどろに
なりながら、視線をあちこちに動かしながら答えを探そうとする。しかしそんなものが、
これ見よがしに目に映るはずもなく。
『はっは、そう焦ることでもねーだろ。泊りがけでデートするようなもんだ』
少し寂しそうに微かな溜息をつくと、彼はそれをかき乱し打ち消すように笑みを浮かべ、
おどけながら言葉を付け加える。
『でもさ、泊まりがけってことは……色々やるんだろ?』
『あぁ、色々やるな』
『二人で遊んで色んな場所に寄ってご飯食べて……、夜、一緒に寝るんだろ?』
『あぁ、一緒に寝るな』
『そしたら……何かするんだろ?』
『あぁ、何かするな』
『……行かない』
『 何 故 だ っ ! 』
『下心丸出しで何言ってんだよ』
やっぱりというか案の定というか、本心はそこのところにあったようで。というか、
そこ以外に何かあるはずも無いだろうが。
『お前な、エロいこと=よくないこととかその年になって思ってるわけじゃないだろうな』
『そういうわけじゃないけど、そうガツガツされるとさぁ』
『ほーお、半年近く付き合った彼氏に未だヤらせないどころか、舌を絡めるのも嫌がる
潔癖症のお嬢様は流石言うことが違うな』
『なっ』
『本当のことだろ』
思わず言い返そうとしてしまったが、確かに彼の言ったことは紛れもない事実である。
だから言葉を詰まらせてしまう。それを切り出されたら、何も言い返すことが出来ない。
『何か間違ってること言ったか? そんな調子だったらそりゃガツガツしたくもなるわ』
皮肉を言われそっぽを向くように彼はまた正面へと向き直ってしまう。素直に首を縦に
振ってもらえるとは思ってなかったのだろうけど、余りに冷たい対応に少し拗ねてしまって
いるようにも見えてしまって。ふだん滅多に見せることのない子供っぽい仕草に、ついつい
相好が崩れてしまう。
『ンだよ』
『んーん、何にもー』
不機嫌な様子の問いかけに、上機嫌に切り返す。答える立場にあるからかもしれないが、
それでも紗枝は、自分が珍しく主導権を握れていることに、ひそかな優越感を覚えた。
『……ったくよー、甘やかしてりゃすぐつけあがるんだもんな』
『普段セクハラばっかりしてくるそっちはどうなんだよ』
『付き合い始めてからはしてないだろ』
『そうなる前の話。崇兄があたしの身体でまだ触ってない箇所なんて、もう無いじゃないかー』
椅子になってくれたり照れることなく手を繋いでくれたりと、身体を密着させる機会は
相変わらずとはいえ、意外なことに付き合い始めてからの崇兄は、やらしい意味での過度な
スキンシップを全く行わなくなっていた。もっとも、それまで顔をあわせる度にそういった
行為を行い続け、これまでの合計回数が軽く二桁を超えているのもまた事実なわけで。
当然のことながら、話は延々と平行線を辿ろうとし始める。
『いや? まだ触ってないとこもあるぞ?』
『何言ってんだよ。こういうのはした方よりされた方が良く覚えてるんだからな』
『……つってもなぁ、ここを触った覚えは無いんだがなぁ』
その言葉と共に、スススと近づく繋いでないもう片方の手。その腕が速度を変えること
なく紗枝の下腹部あたりへと近づいてきて―――
ギュッ
『痛って!』
目的地に到達しようとした寸前、彼女はその手の甲を思いっきり抓ったのだった。
『何すんだ!』
『あたしの台詞だそれは! どこ触ろうとしてんだよ!』
『そりゃーもちろんお前の…』
『言うな!』
『聞いてきたのはお前だろーが!』
人目のあるところでこんなことすんな、と更に言い返そうとして抑え込む。屁理屈が得意な
彼のことだ。今の言葉を言おうものなら『じゃあ人目の無いところならいいんだな?』とか
なんとか言って、いかがわしい場所に連れ込もうとするのは目に見えている。もし言わない
としたら、向こうからそういう空気に持ってこうするに違いない。
『あのなぁ、お前は恥ずかしくてつい嫌がっちまうんだろうけど、恋人同士ならこういう
ことは普通ヤってて当たり前だぞ?』
『……何故最後を強調する』
ほうら始まった。字面がこっそり変わっているであろうことも、しっかりと察知する。
『そもそもだな、付き合いだしてから俺はお前のことをちゃーんと"恋人"として接して
やってるのに、お前はどうなんだお前は! 手ぇ握るくらいで満足しやがって! 半年近く
お預けを食らう俺の身にもなれ!』
『恋人だからってすぐそういうことしたがるのはおかしいよ。もっとさ、お互いのことを
よーく知ってからでも』
『幼なじみ。俺達幼なじみ』
反論しようとすると、崇兄はそれを遮り自分と彼女を何度も指差しながら言い返してくる。
その時紗枝の脳裏には、いつぞやのバレンタインデーに彼にチョコレートを渡そうとして、
あくまで「幼なじみ」なんだという関係を再確認させられてしまった、あの時の情景が
浮かび上がっていた。
不安が、よぎる。
『……そうは言ってもさ、やっぱり付き合ってからは何となく感じが違うし。もうちょっと
仲良くなってからでも…』
だけどその不安を打ち消して言い返す。すると、崇兄の表情がみるみる変わっていく。
鼻頭も小さくピクリと痙攣して、それまでのふざけた様子が、瞬時に消え去る。
『付き合うってことがそういうことなんじゃないのか? お前まさか結婚するまで操を
立てたいとか思ってるわけじゃないだろうな』
『ち……違うよ』
言葉の歯切れが悪くなる。自覚はあるのだ。待たせ続けていることに、負い目を感じて
ないわけじゃないのだ。
『あー、もういい。分かったわかった』
謝ろうとした矢先に、鬱陶しそうに手をプラプラと振りながら遮られる。彼のその態度に、
紗枝の胸に一度は封じ込めたはずの不安が、更に大きく強くなって、ロウソクの火のように
ゆらりと宿る。
『アレだろ? 結局お前はまだそういうことはしたくないんだろ? 普通に遊んだり手を
繋いだりしてるだけで今は満足なんだろ?』
『うん……まあ』
だけど、好きな人に嘘をつきたくなくて、不安感をそのままに素直に首を縦に振る。
正直な気持ちは時に相手を傷つけるということを、彼女は知らなかった。
『別にそれって、相手が俺じゃなくてもいいよな』
『え…?』
膨らむ不安が、自分の身体という殻を破って外に飛び出してしまう。
『自由に出来ないなら、自由にさせてくれ』
手を、解かれる。歩みを止めても、崇兄は止めない。すぐ隣にあったはずの背中が、
少しずつ遠ざかろうとする。
『……どういう、こと?』
『……』
肩越しに視線を送り返されると、鼻から大きく息を吐きながら彼は振り返る。しかし
それまで彼女の手を握っていたその手には、いつの間にか煙草とライターが手にされていて。
カチッ
シュボッ
吐き出された煙が風に乗って、紗枝の頬を掠っていく。思わず顔を顰める。その煙たさが
苦手だから、煙草が嫌いだった。好きな人の身体から、ヤニの臭いがするのも嫌だった。
だけど今は。目の前の出来事を受け止めるだけで精一杯で。
『……』
彼がどういう時にそれを吸ってきたのか、当然彼女は知っている。
『どういう……つもりだよ』
『……んー?』
だけど今の状況で、その行為をそのままの意味に捉えることがどうしても出来なかった。
いや、出来なかったわけではなくて、怖かった。
手に持つそれを口に咥え、スッと息を吸い込み濁った息を吐き出す、彼はそんな行為を
繰り返す。やがてまた指に挟んで、今度は煙草自体から煙をくゆらせ始めた。いつもの
ように口喧嘩をしていた雰囲気は、もうどこかへ過ぎ去ってしまっていた。
急に変わっていく場の空気に、ついて行くことが出来ない。視界と身体が、ゆらゆらと
揺れ始める。
『どう言って欲しいんだ』
『……言わなくても、分かってるだろ』
声が少し潤んだ。悔しい。こんなことくらいで傷つくような、弱々しい女の子だなんて
もう思われたくないのに。いっぱい心配をかけてしまった相手だから、もう心配されない
ように強くなりたいと思ってるのに。
それは自分の為でもあるけど、同時に今目の前にいる大好きな人の為でもあるのに。
『……』
なのに彼は、付き合う前は分かってくれてたそういうところを、今ではまるで分かって
くれなくて。気付いてて欲しいわけじゃないけど、その変化が少し悲しくて。
地面に落としてそれを踏み消すと、崇兄は再び紗枝の下へゆっくりと近づいてくる。
だけどその表情は渋いまま。
『あ…』
『……』
抱きしめられそうなくらい近寄られて、思わず怖々とした声を上げてしまう。少しだけ
俯いて、見下ろしてくる表情から顔を逸らしてしまう。そんな彼女の頭に、何度も繋いだ
手の平が降りてきて―――
くしゃ…
『! や、やだっ!』
『……』
頭を撫でられるのは嫌いじゃない。むしろ、今でも撫でて欲しいと思ってる。
だけど今は事情が違う。付き合いだしてからは、当然一度も撫でられることは無かった。
その理由も、もちろん分かってる。
最後に撫でられたのは、季節が移ろい始めていた、あの黄昏時だ。
『…どうして……?』
どうして、どうして。立て続けの余りの仕打ちに、沸いて出るのはその一言だけ。
『どうして、か。……ほんと、どうしてなんだろうな』
『……』
『……付き合い始めてから、上手くいってないよな。俺達』
意味が分からない。頭が凍り付いて、何も理解出来ない。
『お前だからか…幼なじみだからかよく分からんけどな。こんなに疲れるとは思わなかった』
違う、違うよ崇兄。一緒に遊んでたい、手を繋いでくれるだけでいいって言ったのは、
相手が崇兄だからなんだよ。いつもはこんなこと言わなくても分かってくれるのに、何で
今は分かってくれないの?
そう思うだけで、言葉は出てこない。それ以前に、崇兄はもうこっちを見てはくれない。
付き合い始めてから上手くいかない。今しがた紡がれた言葉が、強く深く突き刺さる。
『お前は、辛くないのか』
そんな葛藤を、分かってくれるはずもなく。この前とよく似た台詞を口にされる。
『浮気されて、構ってもらえなくて、挙句怒ってばっかりで、辛くないのか?』
並木道を歩いていたはずなのに、いつの間にか自分と彼以外の全てのものが、その存在を
消してしまっていることに気付く。ただ延々と、地平線が見えるくらいに白い空間が広がり
続けるばかりで、まるでとてつもなく大きな白い箱の中にに閉じ込められたようで、現実では
ありえない状況が平常心を奪い取り、思考さえも凍てついてしまう。
『あた…し……あたしは……』
震えが、止まらない。全部を全部、この場所で失ってしまいそうで。髪の毛のような
細い糸が舌に絡んで言葉が上手く出てこない。
泣いてしまっていることに今更気付いて、今度はしゃくりが止まらなくなる。
今しかないのに。用意してきた答えを言うのは、今しかないのに。
だけど。
怖くて。
焦って。
辛くて。
寂しくて。
泣いてしまって。
一緒にいたくて。
構って欲しくて。
だけど彼のことは好きなままで。
胸に宿る全ての感情があちこちにばらまかれ、互いに強烈に主張しあって鍔競り合う。
それに気圧され心臓の鼓動が壊れ始める。言わなきゃいけないと思えば思うほど、口への
信号が伝わらなくなる。
『……あの…』
『……』
『ぁ……あの…』
『はー……』
その先が、言えない。言えずにいたら、とうとう彼が、興味を失ったように溜息をついて
しまった。時間切れ。そんな意味合いが込められたような態度だった。
『…た、崇兄……』
『いいよ、もう。無理すんな』
少し寂しそうに笑うと、彼は一言そう言って。それは泣きじゃくる妹を、泣き止ませよう
とする兄のような、ひどく柔らかい口調で。
『付き合わない方が、良かったな。少なくともお前にとっちゃ』
『……』
『酷い目にあわせてばっかりで……ごめんな』
『…何……言って…』
優しくされてるはずなのに、傷つくことがあるなんて。こんな気持ち、彼女は知らない。
『じゃあ、な。元気でやれ』
そして最後にそう言い放たれた時も、彼は寂しく笑ったままで。
『待っ…』
背中を向けられ、手を振り立ち去り始めた崇兄に、立ち止まってもらおうと声をかけよう
とするものの。
次の瞬間、その後ろ姿は瞬く間に白い空間へ溶け込んで、掻き消えてしまう。
それこそ、身体に纏わせていた煙のように。跡形も、なく。
『崇兄…?』
吐き出したはずの言葉は、形にならずに崩れ去る。
『崇兄……どこ…?』
どこからも返事は無い。目の前には、何も、無い。
『さえー! はやく来ないと置いてくぞー!』
『うわああああん! まってよー!!』
そして一瞬だけ浮かんで消えた幻聴と幻覚が、とうとう彼女に止めを刺してしまった。
『…っ―――――!』
一人きり。傍にもう、誰もいない。
その目の前の光景に紗枝は、声にならない悲鳴を上げる―――――――
「んー……」
崇之は困っていた。いくら身体を揺すろうがトントンと肩を叩こうが、紗枝が一向に
目を覚まさないのだ。よっぽど深く寝入ってしまっているのだろうが、それでもさすがに
ここまでやれば、目を覚ますと思うのだが。
「おーい、起きろって」
埒が明かないながらも他に方法がなく、彼女の肩を揺らし続ける。嗚咽が漏れ始めた時と
比べても、その表情は明らかに歪んでしまっていた。
自分で起きるまで放っておこうかとも思い始めるが、眠りながらもくすんくすんと鼻を
啜る所作は止みそうにない。そしてその度合いが段々と酷くなっていく様子を目の当たり
にすると、ジクジクと胸に痛みが走り、不安を覚えてしまう。
……
やっぱり、ちゃんと起こしてやるか。
メトロノームのように左右に激しく揺れ動く気持ちを整理して、彼女を起こしにかかる。
どうやら今の今までは、本気で起こすつもりが無かったらしい。やっぱり心のどこかで、
まだこの寝顔を見ていたかったようだ。
「起きろ、紗枝」
体勢を入れ替えると、腕に力をこめる。それまでは起こした時に機嫌を損ねたくなくて
本当に触れる程度だったが、今度はしっかりと力をこめ、声も少し張り上げ強く揺らして
起こそうとする。嫌がられるように顔や身体を背けられても、もうその動作を止めたりは
しなかった。
「…っ……ぅ…?」
しばらくの間その状態を続けると、眠っていた彼女はそれまでとは違った反応を示しだす。
どうやらようやく意識が戻りかけているようだ。
「紗枝」
それと同時に、その行為とは裏腹に、出来るだけ優しく名前を口にする。身体から手を
離してその顔をじっと見下ろしていると、開かれた瞳と己の視線がゆるりとかち合った。
「……」
「よっ」
手を立て、軽い雰囲気を纏わせ声をかける。しかし彼女は、その状態のまま動かない。
驚いて身を起こすわけでもなく、寝ている間に流した涙の跡を拭うわけでもなく、ただただ
じっと見つめ返してくるだけだ。
「崇兄……?」
「おはよう」
挨拶し返すと、紗枝の表情が僅かにくぐもる。一瞬眉間に微かな皺が走った。
「あ……」
「……」
なんだか様子がおかしい。やっぱり、あまり楽しくない夢でも見てたんだろう。
「ほんとに……崇兄なの…?」
「……会わないうちに俺の顔忘れたのかよ」
流石にこの言葉にはショックを隠しきれなかった。どう解釈しても、好意的に受け止め
られなかった。今まで、そんなこと言ってきたことなんて無かったのだが。
「あ…違うよ、そういう意味じゃなくて……」
紗枝はふらふらと上半身を起こすと、バツが悪そうに言葉を放つ。そして、尻餅をついた
状態のまま脚をもぞもぞと動かして、少しずつ後ずさっていく。
「どうしたんだよ」
おかしな反応を見せ続ける紗枝の様子を訝しがり、無意識に声を少し張り上げてしまう。
「っ……」
その瞬間、肩が大きく震えたのを、崇之は見逃さなかった。怖がるように顔を俯けて、
息も少しだけ乱れている。相変わらず目の縁に走った跡を拭う様子もない。
「……」
ふーっと息をつくと、崇之は腰を上げ無造作に近づいていく。なおも後ずさろうとする
彼女の肩を掴んで動きを制止させると、あぐらを掻いてまたすぐに腰を下ろした。掴んだ
手をそのまま腕に沿わせていって、一回り小さな手の平を、安心させるようにやんわりと
両手で包み込む。
「あっ…」
「随分ぐっすり寝てたな」
なおも怖がろうとする紗枝に、出来るだけ優しく声をかける。
具体的には分からないけれど、どんな感じの夢を見ていたのか、おおよその見当はついて
いた。ひどく怯える彼女の様子を目の当たりにして、気付かない方がおかしい。ずっと
一緒にいる間柄なのだから。
「怖い夢でも見たか」
「…夢……」
慰めるように囁くと、彼女は「夢」という言葉だけを反芻する。その瞬間ハッと気付いた
ような表情になって、バッと顔を上げ、まじまじと見つめ返してきた。悲しそうにかたどって
いた眉の形が、安心したように緩やかになる。
「どうかしたか?」
「ぁ……なんでも…ない……」
彼女の気持ちを推し量って、敢えて分かってない振りして様子を伺う。その怖い夢に
俺が出てきたんじゃないか、何か酷いこと言われたんじゃないか。頭の中で推理を働かせる。
だけど働かせるだけで、口には出さない。
「……よかった」
肩の力をドッと抜きながら、彼女は背中を丸め猫背になっていく。溜め息混じりの微かな
言葉は、崇之の耳には届かなかった。
「本当に大丈夫か?」
「うん…心配させちゃってごめんね」
幼なじみだから、どこまで彼女の気持ちを探ればいいか、その度合いも大体は把握している。
だから演技を続けた。分かっているからといってそれを無闇に掘り下げて、また傷つけたく
なかった。
「……」
「……窓」
「ん?」
「閉めても…いい?」
「…ああ」
ふわゆらと風にたなびくカーテンが視界の端に入ることを鬱陶しがったのか、おずおずと
いった様子で聞いてくる。それを、感情を表に出さずに頷き返す。ガラガラとうるさい音を
立てて、窓が閉められる。
外はすっかり夜色に染まっていた。携帯を取り出して時間を確認してみると、あと少しで
七時半になろうとしている。そういえば、まだ晩飯を食べていない。だけど、腹は大して
減っていない。それでもせめて何か腹に入れておこうと、飴玉を取り出し口の中に放り込む。
袋の中に残っていた、最後の一粒だった。
紗枝はというと、窓を閉め終えるとまた布団の上に座り込んでいる。ただ、さっきとは
違って正座をしていた。夢の中に落ちていたせいなのか、目を覚ましたばかりなのかは
分からないが、普段はピンと伸びている背中がどことなく猫背気味で、電話で話をした時の
ような凛とした様子は感じられなかった。
「何か用事があるんじゃないのか」
出来るだけ穏やかな口調を作りながらきっかけを振る。一方で、起き上がってからは
途端に目線を合わせてくれなくなったという事実に、不安が膨らんでしまう。それが徐々に
溶けていく飴玉とはまるっきり裏腹で、甘ったるくなった唾液が口の中に溜まっていく。
「……」
長い沈黙の後。
「……うん」
首を動かすことなく、言葉だけで頷かれる。垂れ下がった前髪に隠れてしまって、表情は
分からなかった。分かるのは、ずっとたどたどしいままの、その口調。
「大事な話…なんだ」
不安は消えず、膨らんで。唾も飲み込めず喉も鳴らない。瞼が錆び付き、動いてくれない。
つられて徐々に目が乾いていく。見えない刃物に、痛みもないまま胸を貫かれる。
またか、またなのか。
よぎった最悪の結末が息苦しくて、空気に溺れてしまいそうになる。
「本当は……会いたくなかったんだろ…?」
とうとう始まる、話の本題の一言目は。
彼女の口からは久しぶりに聞いた、女の子とは思えない乱暴な口調だった――――