落ち着いたように振舞っても、胸の中で脈打つ鼓動は、平静にはならなかった。どくんと  
波打つ強い音が、耳の真横から聞こえてくるようで、今目の前にいる崇兄の顔を見つめる  
余裕が持てなかった。  
 
『じゃあ、な。元気でやれ』  
 
 夢の中で呟かれた最後の言葉が、紗枝の身体の震えを加速させる。確かに、夢の出来事で  
良かったと思う。それが分かった時、全身の力が抜けるくらいにホッとした。だけどそれが、  
現実にならないという保障はどこにもないのだ。  
 
「大事な……話なんだ」  
 
 話をするようけしかけられ、重たくなってしまった唇を必死に動かし始める。漏れだす  
気持ちを必死に抑えて、言葉を紡ごうとする。  
 
 最初は昔のようにつまらないことで喧嘩していたのに、途端に変化していったあの様相は、  
まるで上手くいかずにここまで来てしまった二人の関係を、あの一時に隙間無く締め固めた  
ようだった。途中でつまらない意地を張ったものだから、興味を失われ彼も失ってしまった。  
そしてそれは、現実でも同じ道を歩もうとしている。  
 
「本当は……会いたくなかったんだろ…?」  
 
 途中まで同じ道をなぞられたのだ。それが彼女には、どうしようもなく怖かった。  
 
「……」  
 彼は言い返してこない。否定もされない。  
   
 本当は首を横に振って欲しかった。「そんなわけないだろ」と言って欲しかった。だけど、  
そう言ってくれるわけないってことも分かっている。距離を置こう、そう言ってきたのは  
崇兄のほうだから。  
 実際、こうして久しぶりに彼と顔を合わせても、あまり歓迎されてる様子が無い。仕方ない  
ことだけど、大好きな人にそんな顔をされるのがやっぱり悲しくて。  
 
「どうして…あんなこと言ったんだよ」  
 
 泣きそうになる気持ちを抑えようとすると、どうしても言葉が乱暴になってしまう。  
 だけど、彼女はもう引かなかった。何よりも恐れる事態を、仮想の世界で味わってしまった  
ことに、皮肉にも背中を押されてしまう。両手で、彼の片方の手のひらをぎゅっと握る。  
夢の中で頭を撫でられたほうの手を、無意識におもむろに掴んでしまっていた。それは  
口調とは裏腹な、縋りつくような弱々しい仕草だった。  
 
「理由は…言わなくても分かるんじゃないか」  
 振りほどかれることなく、だけど握り返されることもなく、答えが返ってくる。声にも  
抑揚が無い。どうやらギリギリのところで気持ちを押さえ込んでいるのは、彼女だけじゃ  
ないらしい。  
 
「……」  
「お前のほうが、分かってるんじゃないか」  
 
 どうしてだろう。どうして崇兄がそんな声を出すんだろう。  
   
 視線と同じように、言葉も気持ちもすれ違ってばっかりで。彼女は入り口側、彼は窓側に  
首を僅かに捻らせてしまう。見たいけど、見れない。合わしたほうがいいのだろうけど、  
合わせられない。余計なことを言って相手を不愉快にさせて、もう目の前でタバコを吸われたり  
頭を撫でたりして欲しくないのだ。  
 
「嫌じゃないのか」  
 言われた瞬間、その時の一場面が脳裏に鮮明に浮かび上がってしまう。具体的なこと  
なんて何一つそこには無かったけれど、それが何を指しているか、分からないはずもなくて。  
それだけのことでビクリと緊張してしまう自分が、情けなくて腹立たしかった。  
 
「お前は……辛くないのか」  
 
 現実と夢が交錯する。彼の部屋にいるのかと思えば、背景が並木道に入れ替わったり、  
何も無い真っ白な空間になってしまったり。台詞が被っただけなのに、強烈な既視感を  
覚えてしまう。  
 彼が、紗枝が今まで見ていた夢の内容なんて知るはずがない。言おうとしていることは、  
何日か前に彼自身が犯した過失のことなのだろう。嫌だとか辛いだとか、自分を卑下する  
その態度に、普段に無いその態度に、胸にちりちりとした違和感を覚える。  
 
「確かに…辛かったけどさ」  
 
 辛かったし、今も辛い。だけどここでこらえなければ、もっと辛い未来が待っている。  
それが逆に、紗枝の心を強くさせる。彼女にとって一番辛いことは、隣に彼がいないこと  
なのだから。  
「一度誤解しちゃってたし…今度は信じようって思った矢先だったから……辛かったけどさ」  
 もう一週間以上も前の出来事なのに、今でもはっきりと思い出せる、思い出したくない  
最悪の現実。一度関係が終わってしまった時と同じくらいに、悲痛な気持ちを味わって  
しまった認めたくない事実。あの出来事を、責め立てたい気持ちが無いわけじゃない。  
 
 
「けど……崇兄と会えなくなるのは、もっと嫌だ」  
 
 
 だけど、その度に胸に宿った想いはいつも同じで。実際顔を合わせれば、意地を張って  
文句や嫌味が口をついて出てしまうのに、家に帰って一人部屋に戻れば、ベッドの上に  
寝そべって、一緒に写った写真をじっと見つめ続けるという行為を繰り返し続けていた。  
 一人になったら膝を抱えて後悔して。付き合い始めた頃はもう二度とやらないだろうと  
思っていたその行為が、今日まで続いてしまっていることに、戸惑いは隠せなかった。  
「嫌か」  
「嫌だ」  
 最後の一言を反芻されて、反芻し返す。いちいち迷っていたら、興味を失ったような  
溜息を吐かれてしまいそうで、それが怖かった。何かを言うたびに相手の反応を待って  
しまうのは、やっぱり別れを切り出されることが怖いのだ。  
 
「けど…そういう時期も、前にあったろ」  
「……」  
 距離を置いたっていいじゃねえか。一度お互いに経験してるし問題ないだろ、そういう  
ことを、彼は伝えたいんだろう。  
 
 だけど当然、納得できない。こうして会えたのが、いつ以来のことだと思ってるんだろう。  
こうして話をしているのが、いつ以来のことだと思ってるんだろう。  
 
「あの時は…話をしないどころか、会うことさえ無かったわけだしな」  
 なんでそんなに、時間と距離を挟みたがるんだろう。会うことも、話すことだってこうして  
出来ているのに。  
 それはもしかして、もしかしたら……  
 
「ずっと傍にいたい、いて欲しいって思っちゃいけないの?」  
 
 視界が揺れる。信じたくない、信じたくないけど、今までの結果は全て最悪な道筋を  
通ってきた。引き裂かれるような痛みが、胸に大きなひびを作る。  
 距離を置こう、時間を置こうって言ってるのは、あくまで傷つけないように仄めかした  
建前で、本音は自分のことが鬱陶しくなって、もう別れたいんじゃないのかと悲観した考えが  
頭にまとわりついてしまう。  
 
バキリッ  
 
「…!」  
「そうじゃねえ…」  
「……」  
「俺が言いたいことは……そうじゃねえんだ」  
 そんな思考を遮られるように、彼の口の中で大きな音が爆ぜる。舌の上で転がしていた  
飴玉を、奥歯で一気に噛み砕いたようだ。バリボリと何度も音を立てていると、やがて喉を  
動かして甘い欠片を一気に飲み込んでしまう。  
 
「お前と別れたいとか、この関係を終わらせたいとか、そんなこと思ってるわけじゃない」  
 
 そこで初めて、握りしめていた手に力を込められ握り返される。温かいはずなのに、  
どこか冷たい。待ち望んでいた行為だったのに、頭の中が冷めてしまっている。それは  
おそらく、これから彼が言おうとしていることに、不安が膨らんでいるからだ。  
「お互い冷静になれてないし、このままだとこじれるだけと思ったからああ言ったんだよ」  
「……」  
「実際、今こうして話してても、俺の言いたいことが伝わってないみたいだしな…」  
 飴玉を噛み砕いたのは、冷静になるためだったのか。それとも今言ったような不満が募って  
爆発してしまったのか。  
 だけど、真意が伝わってないのはこっちだって同じこと。気持ちをしっかり伝えたいのは、  
こっちだって同じことなのだ。  
 
 
「あたし達は…恋人同士の前に、幼なじみなんだよ?」  
 
 
 揺れて歪み、曲がってくねる。震えて霞み、潤んで溜まる。  
 
「……?」  
 親友に言われるまで、ずっと忘れていた当たり前のこと。未だに顔は合わせられない。  
だけど空気の震えが、彼の表情を教えてくれる。なんで今そんなことを言うんだ、そんな  
感情が伝わってくる。  
 
「あたしのこと……何年も付き合ってるんだから、分かってくれてるんだろ…?」  
 
 八ヵ月前に、自分の気持ちの歯止めを取っ払ってしまった彼の言葉を、今この時になって  
言い返す。  
「それは…」  
   
「どれだけの間…崇兄のことを好きだったと思ってるんだよ……」  
 
 物心ついた時には、もう携えていた高鳴る想い。それは決して消え去ることなく、ずっと  
重なり募り続けてきた。たとえ崇兄に、自分じゃない恋人が出来ても。逆に彼のことを  
忘れようと、自分が他の人と付き合い始めても。どこがいいのかなんて分からない、相手が  
彼じゃないとダメなんだというある意味理不尽なこの感情は、恋とも愛とも言えないもの  
だった。  
 
「崇兄があたしのこと、恋人として扱ってくれるのは凄く嬉しいって思う。けど、恋人と  
しての役割だけなら、あたしじゃなくても出来るじゃないか」  
 
 少しでも、彼の存在や時間を、他の人より独占したかった。  
 
 家が離れ離れになっても、友達と遊ぶ時間を潰してまで彼に会いに行った、それが理由。  
 
「だからあたしは……崇兄の全部がいい」  
 
 大事にされたことなんて無かったから、大事にされようと努力した。  
 
 性格を改善したり、似合ってると言われた髪形を続けてるのは、全部彼に意識してもらう為。  
 
 恋人としてだけじゃなくて、幼なじみとしての役割も果たしたかった。今でもたまには、  
妹のように甘やかして欲しかった。ワガママだと分かっていても、心臓を壊すこの気持ちを  
止めることなんて出来ないし、逆らうことなんてもっと出来ない。  
 それだけ、これまで生きてきた分と同じ年月を重ねた慕情は膨らんでしまっていて、  
求めるものも増えてしまっていたのだ。  
 
「確かに…さ。お互いすれ違ってて、上手くいかなくて、会えなかったりしたけどさ」  
 
 信じられなかったのも、起こってしまったことも、それらはいくら目を背けても変わる  
ことはない。  
 
「けど、崇兄、言ってただろ。『お前のこと好きだ』って。『何度でも言える』って」  
   
 そして夢の中の仮想世界も起こりえる、未来の可能性としてあり得ることなのだ。  
 
 振って沸いて急激に強めていった想いと。そこにあるのが当たり前で、年齢の分だけ  
胸のうちに携え続けてきた想い。  
 
 これ以上傷つけたくなかったから、お互いに冷静にならないといけないと思ったからと  
あくまで彼は言うけれど。彼女からすればそれは、別れ話にしか聞こえなかった。そこに  
込められた意味がどうであれ、言葉そのままに傷つけられ、身体を貫かれてしまうのだ。  
 
 
 幼なじみだから知っている。今村崇之という男は、性格や行動パターンは正確に見抜いて  
はくるけれど、その時の気持ちまでは考えてくれないということを。  
距離を置こう、そう言われた時に紗枝自身がどう感じるのか、それに気付いてはくれないのだ。  
   
「崇兄はいいよ。あたしと別れても、しばらく経ったら他に好きな人作れるんだしさ」  
   
「紗枝……」  
 少し考えれば分かることだけど、崇兄のことだから考えようともしなかったに違いない。  
ずっと嫉妬する気持ちを押し殺して、新しい彼女を紹介されるたびに笑顔で祝福せざるを  
得なかったあの気持ちも、彼は知らないままに違いない。  
 
「けど……だけどさ…」  
 
 そして本当は、こんな汚いことを言う自分を見て欲しくなんかないのだ。  
 
 
 
「あたし…あたしには……崇兄だけだもん…っ」  
 
 
 
 それまでずっと乱暴な口調だったのが、途端に幼くなってしまう。  
 
 お互いには当然のことだから、分からなくて当たり前なのだけど。彼女は彼以外の相手には、  
決してそんな口調では話しかけなかった。それが隠そうとしても隠し切れないままだった、  
彼女自身も気付いていない、何よりの気持ちの表れだった。  
 
 夢であって欲しい、夢なのかもしれない。そんな現実を味わってきた。心細くなりそうな、  
黄昏時の河原の傍で。人通りもまばらな、曇り空広がる駅前の交差点で。似ていて異なる、  
だけど想いは真逆の二つの記憶。  
 
 五ヶ月前、初めて秘め事を交わして手を繋いで帰路につく途中のこと。その時のことを  
紗枝はよく覚えていない。  
 
 覚えているのは唇に感じた初めての感覚と、心配をかけ続けた両親にひたすら謝り続けた  
ことと、確信の持てない霞掛かった記憶だけ。ようやく元のカタチになって、更に想いが  
叶った直後の帰路の途中。どんな会話をあの時交わしたのかまるで覚えてなくて、それを  
思い出せないことが歯痒くて、だけど崇兄に聞くのは照れ臭くて。嬉しさよりも戸惑いが  
勝っていたのも、片想いする期間が余りにも長かったからだった。一週間後の初デートの  
時に彼が遅刻して腹を立てるまで、その夢心地には脚を突っ込んだままだった。  
 
 優しくして欲しいのに、いざ優しくされたら戸惑うばっかり。からかったりされるのが  
悔しくて普段から散々文句を言うのに、いざされなくなったらどことなく寂しかったり。  
   
 恋人同士になって、初めて分かったことだった。声が聞ければ、話が出来たら、傍にいれたら。  
その時間が長くなっただけでも、嬉しかったのだ。  
 だけどそんな真っ白すぎる想いが相手の、崇兄の気持ちを裏切り続けたことに、自分では  
気付けなかった。  
 
「だから……やだ」  
「……」  
 声は完全に涙に覆われていた。その身体は、布団に横たわっていた時よりも随分小さく  
なってしまったようにも思えて。  
 
「……別れるとか…終わらせるとか、……そんなこと、考えたくない」  
 
 ずっと手を握り続けていた両手が、沿うようにするすると身体を上っていく。そのまま  
両肩口に恐る恐るもたれかかる。紗枝は膝を立て、崇兄は腰を下ろしたままで、普段とは  
背の高さが逆のまま、そのまま自然と二人の距離が近づいていく。  
 
「……」  
「……っ」  
 
 久しぶりの感触は、深くて、長くて、触れた箇所から脳の芯まで、全てが溶けてしまい  
そうで。紗枝からするのも初めてで、それだけに余計に甘い痛みが走る。  
「……お願い、崇兄」  
 吐息を強く混じらせてしまいながら、頭の中で考える言葉と、実際に出る言葉が大きく  
剥がれて離れてしまいながらもそっと呟く。  
 この言葉を彼はどんな思いで聞いてるんだろう。言葉とは別の場所で、頭がそんな不安を  
よぎらせる。  
 
「もう構ってくれなくてもいいから…いくらでも浮気したっていいから……」  
 震える髪の毛、漏れる嗚咽。それが伝わるのが、どうしようもなく切なかった。  
 
 
「だから……そんなこと…言わない…で……」  
 
 
 好きでいるのが当たり前だった人。  
 何をしても何をされても、それを全て大切な想い出にしてくれた人。  
 長い年月をかけてゴールして、新たにスタートしたかけがえのない気持ち。それだけは、  
その気持ちを向ける本人自身が相手だとしても、変えることも譲ることも出来なかった。  
「……」  
 歪んでしまった視界に、歪んだ表情の崇兄が映る。その顔が、黙ったまま見上げてくる。  
自分の気持ちで精一杯だった彼女には、それがどういう表情なのか、もう分からなくなって  
しまっていた。  
 
「そんなこと、言わなくていい」  
   
 燻る不安を掬い取られて、彼にひどく穏やかな声で言葉を返される。静かに背中に手を  
回され、抱き留められ力を込められると、少し隙間の空いていた距離が零になる。  
「悪いのは俺だ。それなのに、お前が折れることない」  
「……」  
 怖がってしまったのは、直前に見た夢のせいでもあった。されたこともないくらいの  
冷たい態度に打ちのめされ、目覚めてもすぐ傍に崇兄がいて、明確な夢と現の境界線を  
引くことが出来なかった。だから、どうしても素直に顔を合わせることが出来なくて、  
今度は思わず目を瞑ってしまう。  
 
「ごめんな、紗枝」  
 
「え…」  
 すると、謝られてしまう。こんなこと、今まで一度も無かった。  
「こっそり他の女と会って、約束すっぽかして、それでお前とは会わない方がいいとか、  
自分でも最悪なことばっかやってると思ってる」  
 背中に感じていた手の平の感覚が段々と下がっていき、やがて無くなってしまう。  
 
「正直……お前に三行半を突きつけられても仕方が無いことだと思ってる」  
 
「……」  
 今までに無い態度と彼の言葉に、ようやく気付いたのだった。  
 
(崇兄……あたしが別れ話をしに来たと思ってるんだ)  
 
 本当のことを、本心を言って欲しい。そういった言外に込められた意味を、感じ取る。  
彼は紗枝が今まで言い放った言葉を、まだ信じていないのだ。自分自身が、どれだけ  
彼女から愛されているか、分かっていないのだ。  
 
「本当の…ことなら……もう言ったよ…?」  
 
 そこでようやく、その目を怖がることなくしっかりと見据えられる。すると崇兄の眉間のが  
ぴくりと僅かに反応した。首の後ろにしゅるりと腕ごと手を回してしがみつくと、もう一度、  
今度はさっきよりも短く、だけど深くつがわせる。  
 
「あたしが好きなのは……崇兄…だけだよ…?」  
 
 嘘じゃない、ほんとの気持ち。今だけじゃなくて、ずっと変わらなかった正直な気持ち。  
 そのまま彼の頭をぎゅっと掻き抱く。今までに無かった気持ちが背中を押してくれるのか、  
兄妹という枠から逸脱した仕草を、ごく自然にとってしまう。  
 
「……」  
 黙ったまま、されるがままの頭を、生まれて初めてくしゃりと撫でる。それは夢の中で  
された、仕返しという意味もあった。  
「……いいのか、それで。…後悔するかもしれんぞ」  
「しないよ。崇兄なら……後悔なんてしない」  
 もう一度同じ質問を問いかけられるけど、もう迷わなかった。間髪入れずに、言葉を返す。  
「…そか」  
 そしてまた、大事な物を胸の中に収めるように、ギュッと抱き締めなおす。  
「あたしが好きだったのは崇兄だけだし……これからも…そうだもん」  
「……そか」  
 全く同じ抑揚の応答だったけど。二度目の反応は、一度目より少し遅れていて。それが  
少し、可愛くて。腕が勝手に力を込める。  
 すると。  
 
「はー……っ」  
 
 疲れきったような、全てを吐き出すような溜息が、胸元をなぞってくる。  
弱さを見せた彼の声は既に知っていたけど、姿を見るのは初めてだった。  
 
「あ〜〜〜……っ、良かった」  
 
 声が掠れきっていたのは、そこに溜息が強く混じっていたからなのか。肩口にぐったりと  
頭をもたれさせてきながら、また背中に腕を回してくる。張り詰めていた糸が全部一気に  
切れてしまったかのように、その身体から力が抜けていく。  
 
 
「本当に"別れよう"って言われたら、どうしようかと思ってた」  
 
 
 ……  
 
「……ずっと?」  
「ずっと」  
「…ほんとに?」  
「ほんとに」  
 同じ言葉が、イントネーションだけ変わって、インターバルを置くことも無く返ってきて。  
「……」  
 自分にもたれかかって後頭部しか見えないけれど、今どんな表情をしているのか無性に  
見たくなってしまう。だけどそんなことすればひねくれてる彼のこと、ぶすくれだって  
途端に機嫌を悪くするに決まってる。  
 だから、やらない。もうちょっとだけでいいから、こんな崇兄を見ていたかった。  
 
「あたしも…崇兄に嫌われたんじゃなくて良かった」  
 
 代わりに、今の素直な気持ちを、そのまま口にする。  
「……ごめんな、紗枝」  
 すると彼の頭が少し動いて、微かな吐息でさえ届きそうな距離から、真っ直ぐと見つめ  
返してきた。  
「もうお前に、寂しい思いさせないから」  
 声はもう掠れてはいなくて。彼の顔を見つめ返していると、何故かまたさっきまでとは  
違う理由で涙腺が緩みだす。  
 
「俺もお前を、嫌いになるなんてことないから」  
 
「……」  
 ずくぅ、と胸が強く疼く。ここまで強く、大事に想われてただなんて知らなかった。  
「それに悪いのは全部、俺だしな…」  
 
 ……  
 
 そして今の言葉に、違和感を覚えた。  
「それは……違うんじゃ…ないかな」  
「…?」  
 だから、反発する。  
 
 やっぱり、彼が浮気をしたのは自分の態度が原因だったって気付いたから。真っ白すぎる  
思いばかりを大事にしすぎていて、相手のことなんてまるで考えられなくなっていたから。  
そしてそれを自分一人で気付くことができなかったのも、本当に申し訳なかった。  
 
「あたしも…前と同じで、さ。……崇兄に悪いこと…しちゃったし」  
「何言ってんだよ、お前は別に…」  
「だって」  
 反論しようとした彼の言葉を、ぴしゃりと遮る。  
 
「だって…崇兄が何もしてこなかったのは、あたしのこと考えててくれたからでしょ?」  
 
 彼の本心を知った今だから分かること。今の本当の距離感が分かったから言えること。  
「あたしがこういうことに慣れてないから…ペースあわせてくれて我慢してくれて……  
それで我慢できなくなって、浮気しちゃったんでしょ?」  
 言うと同時に、バツが悪かったのか決して口にしなかった本心を言い当てられたのか、  
崇兄はふいと顔を逸らしてしまう。  
「……まあ、な」  
「でしょ?」  
 全ての責任を大好きな人になすりつけるなんてことを、したくはなかった。そんなことを  
したくない相手だから、いちばん大好きな人なのだ。  
 
「同じくらい、お互い問題があったなら、なのに崇兄が謝ってくれるなら…あたしも何か、  
しなくちゃいけないと思うんだ」  
 
「……」  
 そんな様子に愛しさを募らせながら、自分がどうしたいかをしっかりと伝える。意見や  
気持ちをしっかりと言わなかったから、すれ違ってしまってたわけだから。  
「崇兄は…どうしたらいいと思う?」  
 だけど具体的に何をすれば良いかが分からなくて、相手にそれを尋ねてしまう。  
 
「……」  
「……崇兄?」  
 すると、それまでずっとぐったりとしていた彼の身体が、ふいに軽くなった。背中に  
回されていた両腕も即座に動いて、右腕で右肩を力強く肩を抱かれてしまう。そのせいで  
しっかりと正面を向き合っていた身体は、横向きに変わってしまった。残っていた左腕は、  
両膝の裏に通され太腿をやんわりと包まれる。  
 
「わ……え…っと」  
 
 分かりやすく言えば、お互いに尻餅をついている状態のまま、お姫様抱っこをされて  
しまったのだった。  
 
 脚を掬われたことで唯一不安定に床と接していたお尻の周りも、あぐらを掻いていた  
彼の両脚にしっかり包まれてしまって、自由に身体を動かせなくなってしまう。不安定に  
なってしまった体勢をどうにかしようとして、比較的自由に動かせる右手を崇兄の胸元に  
添わせてしまう。  
 
「…お前さ」  
「……?」  
 随分と緊張しているような面持ちだった。それがどうしてなのか、紗枝には分からない。  
「自分がどういうこと言ってるか…分かってるか?」  
 途端に声色が変化する。すると急に、顔の周りの空気が張り詰めた。  
「え…」  
「この状況でンなこと言ったら、俺がどういうこと言うかくらい…分かるだろ」  
 体勢が変わってしまったことで、ずっと密着していた身体に若干の距離ができてしまう。  
それがちょっとだけ不満でもう一度その距離を埋めたいと思ってしまうものの、がっちりと  
抱き止められてしまっていて、上手く体勢を変えることが出来ない。  
 
「あ…」  
 
 だから思わず、また彼の顔を見つめ返してしまう。  
 
 いつもいつも、真面目な顔なんて見せてくれなかった。それは裏を返せば、それだけ  
甘やかされてるということだったんだろうけど、それが嫌だったわけじゃないんだけど。  
やっぱり、いちばん大好きな人のいろんな表情を見たいと思ってしまうのは、当然の話な  
わけで。  
   
 見たい見たいと、願い続けていたわけじゃないけれど。幼なじみだった自分には、一度  
だって覗かせてくれなかったその表情を、自分じゃない違う女の子に振り撒いているのを  
見てしまった時。泣きたくなるくらいに、心はいつも燻りちりついていた。  
 
 だから。  
 
 だけど。   
 
 この場で一体、何度目の「初めて」なのだろう。  
 
 
 崇之が見せた、何事にも迷わず惑わされないような、ひねくれた男の真っ正直な表情は。  
彼が異性を求める時にだけ垣間見せるものなのだと、紗枝はその時知ったのだった。  
 
 
「…ぇ…ぅ……」  
 崇兄の言った台詞に、具体的なことを表す言葉は何一つなかったけれど。それでも、  
何を言おうとしているのか、分かってしまって。  
 たじろがずにはいられなかった。それを彼がこの状況で敢えて言ったということが、  
どういうことなのか。他に理由が見つけられなかった。  
 
「…えと……ぅ…」  
 
 声を、鼓動がかき消してしまう。自分の身体全体が、一つの心臓になってしまったんじゃ  
ないかと錯覚してしまうくらいに、その音は大きくなってしまう。  
 
「さっき、俺が相手なら後悔しないって言ったもんな」  
「それは! その…それは……ぁぅ…」  
 
 また段々と崇兄の顔が近づいてきて、ごちりと額を当てられると、それに併せて口調も  
たどたどしくなって、声も小さくなってしまう。この距離で彼の顔を見つめるのは、本当に  
心臓に悪い。  
 六畳はある部屋なのに、狭い狭いダンボールに二人で閉じ込められたような錯覚を覚える。  
その異常なまでの閉塞感が、紗枝の頭から身体を離すという選択肢を奪い取ってしまう。  
 
「わっ、分かんないよ」  
「んー?」  
 
「その、あたしが言ってることは、そのままで、別に、ほ、他に、意味なんて無いってば」  
 イヤだとか、ダメだとか、そういう言葉をせっかくのこの場この瞬間に使いたくなくて。  
バレバレなのは自分でも分かっていても、とぼけた振りをしてその追求から逃げ出そうと  
してしまう。  
「ほんとかぁ?」  
「だよっ」  
「ほんとにぃ?」  
「だから、そう言ってるだろっ」  
「…そか」  
 売り言葉に買い言葉ってわけじゃないのだが、分かりきった嘘に付き合ってくれる彼の  
優しさに甘えてしまって、そのまま今の言葉を突き通そうとしてしまう。  
 やっぱりどれだけ想いが強くても、長い時間かけて変えることもできず培ってしまった  
性格は、上手く抑え込むが出来ない。  
 そしてそう口走ってしまった直後に、またほんの少しだけ後悔を募らせてしまう。  
「じゃあ、そろそろ離してもいいか?」  
「え…?」  
 
 
「正直、これ以上抱きしめてたら、自信無い」  
 
 
「……」  
 耳の皮膚が勝手にうごめく。大した運動じゃないのに、それがものすごく熱い。  
   
 勇気を振り絞ってここまで来たけれど、紗枝の頭の中には、今以上のことをしようなんて  
考えは存在していなかった。仲直りできて、また崇兄にこうして抱き留められるだけで、  
十分嬉しかった。  
   
 長い長い片想いをしていた頃は、時折彼とのそういったことを想像したりはしていた。  
とはいってもその様子は、あまりにもぼやけてて、あまりにも断片的だったわけだけど。  
 だけど晴れて恋人同士になれてからは、付き合うという事実だけで満足してしまって、  
自然と考えなくなっていた。  
「……」  
 そういうのが苦手だったっていう理由もあるけれど、やっぱり嬉しかったから。あの時は、  
崇兄の時間を今まで以上に一人で占領出来るようになった事が、何よりも嬉しかったから。  
彼女の恋愛には刹那の秘め事の先は無く、そこで終わりだったのだ。  
 
 そしてそれが、真っ白すぎた想いを生んでしまったわけだが。  
 
「だから、な? 離すぞ」  
 その言葉と共に、彼はかち合わせていた額を離す。身体が急に、寒くなる。  
「……」  
 寂しがりやっていう性格もあった。それだけに、お互いの距離を零にしてしまう行為が、  
何よりも好きになってしまっていた。  
   
 終わりかけた状態からまた、一番幸せな状態に舞い戻れたのだ。仲がこじれてしまった  
ことで足りなくなってしまった時間を、そうすることで埋め合わせていたかった。まだまだ、  
彼との距離を狭めていたかった。  
 
 
ぎゅっ  
 
 
 それで例え、終わりの先を知ることになっても。  
 
 
「……紗枝?」  
「…崇兄……」  
 肩に頭をもたれさせたまま、添わせていた右手に力を込める。彼の服の胸元の部分を、  
皺が走るくらいに強く握り締めてしまう。  
   
 それに、あの、あの崇兄が謝ってくれたのだから。自分も何かしなくちゃいけないという  
気持ちも未だ胸に在り続けている。そのどちらもが、心の底からの本心だった。  
 
「一つ……お願いしていい…?」  
「……何だ?」  
 聞き返してくる声があまりにも優しくて、それだけで涙が出そうになる。  
 
「……」  
 物凄く息苦しくなって、呼吸の仕方を再確認してしまうくらいに気が動転してしまう。  
水に潜ったわけじゃないのにこんなにも息が乱れてしまうのは、それだけ気持ちが精一杯  
だという証明だった。  
 
 
 
「今までで…一番……優しくしてくれる…?」  
 
 
 
 自分がそういうことをしたいとか、そんな風に思われたくなくて。言い慣れない台詞に、  
顔から火が出るくらいの恥ずかしさを覚えて、完全に瞳が潤んでしまう。  
 彼の顔を見れなくなったわけじゃなくて。今度は、自分のそんな表情を見られたくなくて、  
また俯いてしまった。  
 
「……」  
 視界から彼の顔を外す直前、ひどく驚いた表情だったのが見える。肩を抱く手の力が、  
またほんの少しだけ強くなった。  
 
「……だめ…?」  
 
 答えが返ってこなくて、自分の胸元を見ながら不安な気持ちに襲われる。  
気付くと、額が撫でられるように手の平で覆われていて、そのままくっと力を込められる。  
顔の向きを動かされて、今度は強制的に瞳をかち合わせてしまう。かろうじて収まって  
くれていた、そしてまた急速に縁に溜まり始めた瞳の雫。それがその瞬間、音を立てずに  
零れ落ちて、すらりと流線を描いていく。  
 また目を逸らしたいのに手が額を離れてくれなくて、それが出来ない。  
 
 雰囲気はもう移ろい終えて、気持ちも切り替わってしまっていて。  
 
 問いかけに、首を縦に振ってもらうだけじゃ駄目だった。  
 
 もし彼が嬉しさのあまり、いつものように茶化してきたりでもしたら、きっとそれだけで  
泣きじゃくってしまう。そうなった時の顔を、もう見られたくなんかないのに。強くなったと  
思われたいから、また自分の弱さを曝け出してしまうことが、怖かった。  
 
「……いや…」  
 だけど彼は幼なじみだから。生まれてから今まで、ずっと一緒にいてくれた人だから。  
そして物心ついた時から、いちばん大事で大好きな人だから。  
 
 
「ちゃんと優しく…してやる」  
 
 
 そんな気持ちを、ちゃんと分かってくれていて。  
   
 
「一番優しく……してやる」  
 
 
 額を抑えつけていた手が、耳と輪郭と顎をなぞりながら離れていく。  
 その時彼がフッと微かに笑顔を見せたのは、無理をしてくれた彼女の気持ちが、純粋に  
嬉しかったのだろう。  
「……ほんと…?」  
「ほんとだ」  
 何度目の確認になるのだろう。何度目の切り返しなのだろう。そんなこと、もう分からない。  
   
 乾いたはずの、抑え込んだはずの感情がまたしても沸き上がってくる。そして今度は、  
こらえることが出来なかった。  
「うっ……ひぅぅ…」  
「……」  
 ああ、イヤだ。結局泣いてしまった。笑った表情の彼は、きゅっと抱き締めてくる。  
ぐすぐすと啜ってしまう鼻の音が、余計に恥ずかしかった。  
 
「うっ…うぅ〜〜〜〜〜」  
 
 幸せなはずなのに、嬉しいはずなのに、どうして涙が出るんだろう。それだけじゃなくて、  
どうして声まで漏らしてしまうんだろう。  
「俺は……お前を泣かせてばっかりだな」  
 そう言うと、彼はまた少しだけ困った表情の顔を近づけてくる。密接した身体を一度  
離すのが嫌みたいで、背中をゆっくりと擦られる。  
「ごめん…崇兄、ごめんなさい……」  
「いいから」  
 こんな時に泣いちゃってごめんね、折角なのに悲しんでるみたいでごめんね。情けなくて  
恥ずかしくてついつい謝ってしまうけれど、すぐに許されてしまう。  
「お前が強くなったってことは……ちゃんと分かってる」  
「……ひっく……ひぅ…」  
 その言葉に、赤くなってしまった目で、くしゃくしゃになった視界のまま、彼の顔を  
見つめ返す。  
   
 じゃあ、あたしこのまま泣いてていいの?  
 
 もう、我慢しなくていいの?  
 
 表情だけでそう訴えると、崇兄は微かに歯を零した笑みを浮かべて、首を少しだけ縦に  
振ってくれる。  
「……っ」  
 釣られるように、顔が更に歪んでしまう。  
   
 やっとの思いで到達できた、取り戻すことの出来た、五ヶ月前のあの頃の想い。  
 
 やっと手に入れることのできた、そこから先に進む、欲にまみれた純粋な気持ち。  
 
 数日前、彼の浮気現場を目撃してからずっと襲われ続けてきた感情に、紗枝はようやく  
解放される。  
   
そして、この場で三度目となる感覚を。触れた箇所から頭の芯まで、全てが溶けてしまい  
そうな感触を覚えるのだった――――――  
 
 
 

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