「っし、できた」
テーブルの上に置いた仄かな香りを放つ茶色く甘い食べ物を改めて眺め返すと、満足した
ように彼女はパンと一つ柏手を打つ。手や指のあちこちに少々火傷を負ってしまったものの、
それでも努力した結果が形を成してくれたのだから良しとしよう。
「おかーさーん! ちょっと出掛けてくるねー!」
使っていた鍋やボウルを手早く片付け、今し方作り上げたそれを用意していた箱に閉じ込め
ラッピングを施すと、リビングでテレビを見ている母親に声を張り上げる。
「なるべく早く帰ってくるんだよ。夜も遅いんだから」
「分かってるー。じゃ、行ってきまーす」
外は晴れているといえ冬の夜。コートを羽織り手袋にマフラーを身につけると、箱を身体の
前で大切そうに両手で抱えて玄関の扉を開ける。
(わぁ…やっぱり寒い)
ハァッと息を吐くと、それが白く濁って闇にまぎれる。暖房の部屋から身を切るような寒さの
空間に出たことで、肌がきゅっと緊張する。
時間を確認すれば夜の11時を回っている。
(急がなきゃ)
どうしても今日中に渡したかった。
普段こんな時間に外出を許してくれない母親が二つ返事でそれを許可してくれたのは、
今日が2月14日という特別な日だから。そしてこれを作るように促したのは、その母親
自身だから。
バレンタインデー。
箱の中にある食べ物とは、言うまでも無くチョコレート。
河川敷傍の坂の上のあぜ道を小走りで駆けながら、2、3キロ先にあるボロアパートに住む、
これを渡したい相手の顔を思い浮かべる。
受け取ってくれるかな。喜んでくれるかな。
幼なじみだから、渡したことはこれまで何度かあるけれど。だけど手作りを渡すのは初めてで。
彼にはもう、付き合っている女の子がいるけれど。だけど気持ちを口にしなければ、渡すのも
自由だと思うから。
「はっ…はっ……はぁー」
アパートの前に着いて少し息を整えると、建物を見上げる。彼の部屋は二階の右から二番目
なのだけど、何故か明かりがついていない。アルバイトがあるとは、言ってなかった筈だけど。
(飲みに行ってるのかな…)
白い息を何度も吐き出しながら、不安げに痛んだ扉を見上げ続ける。今日になって母親に
けしかけられ、突発的に作ったから来るということは当然伝えてない。受け取ってくれない
かもしれないという不安はあったが、家にいないかもしれないとは考えなかった。
(…どうしよう)
ずくぅと強い不安が、スッと胸をよぎっていく。急いで来てしまったあまりに、携帯電話は
持ってこなかった。だけど立ち尽くしたままだと、身を切られるような寒さに襲われ続ける。
どうしようもなくなって、扉の前にまで移動してしまう。
コンコン
明日バイトが早くてもう寝てるのかもしれない、そう一縷の望みを持って扉をノックをする。
もしそうだとしたら、起こすのは悪いけど。だけどどうしても、生まれて初めて作ったものを、
一年で今日だけの特別な日に食べてほしかった。
「……?」
すると、家の中からドスドスと床を踏みしめる音が近づいてくる。
ガチャ
「おう、どした」
「あ……うん」
真夜中だというのに嫌な顔一つせずに対応してくれて、それだけで胸の鼓動が耳の横で
聞こえてしまう。声の感じを聞く限り、どうやら寝ていたようではないみたいだ。それなら、
どうして電気をつけてないのだろう。
色々な疑問が湧き上がってくる。けれど、それ以上に彼女の興味を引いたものがあった。
「寒ぃな、部屋に上がれよ」
「……ごめんね、遅くに来て」
「今更ンなこと気にする仲かよ。ホラ、入れ」
箱を身体の後ろで隠したままでいると、部屋着だった彼には玄関先でも寒さが身にしみた
ようで、中に招き入れられる。本来なら他意があってもおかしくない行為なのだが、そこは
二人が幼なじみだからという理由が、それを微塵も感じさせなくなってしまう。
「……」
電気がついてないままの部屋に通され、折りたたみ式のテーブルの傍に腰を下ろす。
彼はというと、窓の縁に腰掛けて、そこから何も言わず外の景色を眺め始める。
その手に、煙草と灰皿を携えたまま。
「……」
『今度の奴は、煙草が嫌いみたいでな。だから禁煙しないといけなくなった』
苦笑しながら惚気る彼の言葉を、彼女はしっかりと覚えている。だけど、彼は今それを
吸っている。明かりをつけることもなく、寒さの強い窓際で。普段なら何かしら話しかけて
きてくれるのに、今日に限ってはそれも無い。
こんな夜遅くに来たっていうのに、その理由をいつまで経っても聞いてこない。
「……ふぅ」
白く濁って吐き出された空気が、部屋の空気にまぎれて消える。それは彼女が、ここに
来るまで吐き出し続けていたものとは違っていた。
別れたんだ、きっと。
だから、電気もつけずに煙草を吸ってるんだ。
幼なじみという関係が、それを見抜かせてしまう。どっちが切り出した話なのかまでは、
分からなかったけど。
「あのさ」
かわいそうだ。何もこんな日に。思わず同情めいた感情を寄せてしまう。
「ん?」
だけどその一方で、彼が付き合っていた女性と別れたという事実を知り、ホッとして
しまっている彼女自身も胸の中で目覚めてしまって。
それが自分でも凄く嫌だった。
「……これ」
だから、それを誤魔化すためにも早く渡したかった。
「?」
白い箱に入ったそれを差し出すと、彼は不思議そうな表情を浮かべる。小さな声で、
「別に誕生日じゃねえよな」と呟いて頭をぽりぽりと掻き始める。
「その…作ってきた」
「あぁ」
それだけ言うと、どうやら今日の日がどういう意味を含んでいるのか思い出したようで。
煙草を灰皿に押し付けると、口元にフッと笑みを浮かべながら受け取ってくれる。
「…? 作ってきた? 自分で作ったのか?」
「まぁね」
今までは市販のもの(といっても結構豪華な物だったが)ばかり渡していたから、そう
訝しがられるのも当然の話なわけで。
「湯煎して溶かしてまた固めただけなのにか?」
「う、うるさいなぁ!」
だけどどうやって作ったかはしっかり見抜かれていたわけで。
「いらないっていうんだったら別に良いよ!」
「ごめんごめん。食べたい、あー凄く食べたいなー」
手渡したばかりの白い箱を再び取り戻そうと襲い掛かるけど、軽くいなされるように
かわされ続ける。
「……味見してないからね」
「不安なら渡すなよ」
ぷぅと頬を膨らまして口を尖らせると、彼は喉を鳴らして笑い始める。
ああ、やっぱり同じなんだ。
チョコレートを渡すっていう行為でも、そのチョコが手作りでも。
あたし達の関係は変わらないままなんだ。
「おー、ちゃんと形になってんじゃねーか」
分かっていたけど少し悲しい。少し悲しいけど、そういう意味であっても彼の特別で
いられるなら、充分に嬉しかった。
「んじゃー毒見だ」
「せめて味見って言ってくんない」
次の瞬間、彼の口元でパキリと大きな音が響く。明かりがついていないから、音でしか
判断することができない。
「どう?」
「ん〜、ちょっと苦くてほんのり甘くてカカオの香りがするな」
「元々そういう食べ物だろ」
「そういう食べ物になってるってことは食えるってことだろうが」
もごもご口を動かす音がする。ということは、ちゃんと味わってくれてるのだ。
「それって褒めてんの?」
「褒めてるに決まってんじゃねーか。お前の作ったものをちゃんと食べ物扱いしてんだぞ」
「……なんか嬉しくない」
なんだか釈然としない。いくら付き合いが古くても、こんな時まで言葉をぼやけさせて
ほしくなかった。そのために、手作りのチョコをプレゼントしたのだから。
「お前が嬉しくなくても俺は嬉しい」
「……またそーゆーこと言う」
かといってまっすぐ感謝の気持ちを口にされても、照れてしまってまっすぐにそれを
受け止めることは出来ないのが彼女の性格なわけで。
もっともこの性格も、今のこの髪型も、彼がそういうのが好きだからと知ったから、
そうなるよう一生懸命努力した結果なわけなのだが。
「でもなんで手作りなんだ?」
「予行演習」
「そういう名目の本命ということだな、いやーこれは困った」
「うっさい」
用意しておいた言い訳も、やっぱりあっさりからかいの材料に使われてしまうけど。
それでも少し元気が出てきた様子の彼を見て、彼女はホッと胸を撫で下ろしたのだった。
「んじゃ、送ってやろう。夜も遅いしな」
「……チョコは?」
「歩きながら食うよ。今日中に食べて欲しいんだろ?」
去年までは向かいの家に住んでいた彼だけど、今は少し、離れてしまったけど。それでも
こうして、大して関係が変わることなく続いているのは嬉しかった。
気持ちはいつまで経ってもなかなか伝わってくれないけど。それでもこうして、彼の時間を
独占できる時間があるのは、充分満足だった。
あと15分。
あと15分で、今日だけの魔力は溶けて解けようとしていた――――