「そういやさ」  
「ん?」  
「大学とか短大とか、行きたいとは思わなかったのか?」  
 並んで歩きながら、唐突に湧き上がった疑問を口にしてみる。そこの角を曲がれば、昔よく  
遊び場にしていた河川敷に出る。それを過ぎれば、駅前にあるバイト先はすぐそこだ。  
「お前の友達のほとんどは大学か短大かに進んだんだろ? それか就職か」  
「まあね」  
 内容的にちょっと嫌がるかとも思ったが、穏やかな表情を崩さずに相槌を打ってくる。  
こいつの中では既に、踏ん切りがついていることらしい。  
「でもそういうのって、友達と一緒にいたいから通うもんでもないでしょ?」  
「まーな」  
「なりたい職業とか、やってみたいこととか無かったしね。崇兄と一緒」  
「……」  
 にひひと笑う紗枝の顔を見て、気付かされる。  
そういう暇が無かったんだろうってことを。  
一番根っこにあった気持ちに構うことで精一杯になって、その時その時がギリギリで、  
将来のことを考えてる余裕が、あの時の紗枝にあったとは思えなかった。  
 やっぱり、逞しくなったなぁ。その結果が職業家事手伝いなわけだが。  
「お母さんにも言われたしね、『今のうちに家事全部叩きこんでやる』って」  
「まあ、昔のお前の料理の腕は恐かったからなぁ」  
「うるさいなあ、やってないことを最初から上手く出来るわけないじゃん」  
「でも、自覚あったんだろ?」  
「……あたしの料理食べて真っ赤になったり真っ青になったりする崇兄の顔を見たら、  
自覚したくもなります」  
 全部の料理が不味いってわけじゃないが、昔のこいつの腕前はとにかくムラがあった。  
美味いものとそうでないものの差がとにかく激しくて、そうでないものを食べる時は胃と  
血圧に多大な負担をかけたもんだ。  
「まぁその結果、俺は美味い飯食えてんだからありがたい話だけどな」  
「ふへへー、ありがと」  
 
 本人が気にしてないならいいか。そもそも学費出してもらえそうもなかったみたいだし。  
『大学とか短大通わせても今のあんたにゃ暇潰しにしかならないでしょ。それなのに何十万も  
払うなんて馬鹿げてるよ』  
 進路に迷っていた時、おばちゃんにそう言われたようなのだが、明らかに他意がこもり  
まくっているように聞こえるのは何故だ。  
 この前飯一緒に食った時も、またちっさい頃の思い出話されたからなぁ。「崇之君が家に  
帰っただけでこの娘涙ぐんでたんだよ」だの「『崇之君のお嫁さんになりたい?』って聞いたら  
すぐ頷き返してきてねぇ、可愛かったねぇ」だの。いやまぁ、紗枝の方が大変だったとは  
思うが。  
 
 
「崇兄に喜んでもらえるなら、それで良かったと思うよ」  
「どーも」  
 恥ずかしがることもなく、さらりとそんなこと言ってくる。以前なら、こんなセリフ  
絶対に言わなかったのにな。嬉しいやら寂しいやら。  
「大人になったなぁ、紗枝」  
 けどまあ、以前のようにちょっとしたことで浮気の疑いをかけられなくなってきたのも  
事実だ。ここはありがたく思っておくとするか、半分諦められてるだけなのかもしれんが。  
 
「……そうかな」  
 う、そんな目でこっち見んな。相変わらずお前のそういう顔は苦手なんだよ俺は。  
「身体の方も」  
「……言うと思った」  
 突っ込まれるとやばかったので、ふざけてかわす。俺の方はなんだかあれからちっとも  
変わってないような気がする。どうなんだそれって、男として。  
「崇兄が色々あたしに変なことするからいけないんだろ」  
 あ、やべ。家出る時にも同じ手口使ってたんだった。不満を溜めさせてたのをすっかり  
忘れてた。  
 
「つってもなぁ、あそこまで身持ち固くされたらな」  
 拒まれると、あの手この手を使ってどうにかして身体を開かせたくなる男の性というものを  
こいつはどうにも理解できないでいるらしい。  
 ただ単に恥ずかしいだけなのかもしれんが。  
「う、うるさいなぁ。しょうがないだろ」  
「何なら今ここで…」  
「ばかぁ!」  
 生意気な態度も、がさつな口調も、あの時だけは影を潜める。涙目で、しおらしくて、  
普段とのギャップがあるからいつものことながら燃えてしまう。口では身持ちが固いだの  
なんだの不満げに言ってしまうが、だからこそ紗枝なわけで、あけすけになってくると  
ぶっちゃけ嫌な部分もある。っつーか嫌だ。  
 ……俺って本当にワガママだな。  
 
「まったく…本当にエロですけべでそういうことしか考えてないんだからっ」  
「男という生き物は例外なくそう生き物でして」  
「……崇兄は特別だと思う」  
 付き合う前からセクハラとかしてたしなぁ。胸揉んだり尻触ったり着替え覗いたり色々  
楽しませてもらったことを思い起こす。付き合い始めてからはそういうことしなくなったが、  
あれはあれで実に楽しかったなぁ、ふはははは。  
「大体さ、妹と思いこんでた相手にそういうことするの?」  
「あの時だけお前を一人の女として見てんだ。可愛かったぞー、ちょっと触るだけですげー  
反応してくれるからな」  
「……」  
 じろりと軽蔑の眼差しを向けられても、堂々と言い返す。最近主導権を握られる機会が  
増えてきたからな。こういう時は今まで通りでいたい。  
「はぁー…」  
 そしたら、心の奥底から吐き出すような深い溜息をつかれる。半ば呆れられてるような  
気がしないでもないが気にしない。気にしたら負けだ。  
「…まさか崇兄がこんなに変態だなんて思わなかったっ」  
「変態だぁ?」  
 おいおい穏やかじゃねえな。エロだのすけべだの言われることにはもう慣れたが、そう  
言われるのは初めてだ。俺は単に自分の欲望に忠実なだけだぞ。  
「あんなことされるなんて! 思いませんでした!」  
「……あんなこと?」  
「あんなこと!」  
「……」  
「もうっ!」  
 あんなこととかそんな抽象的に言われてもだな。ボディタッチのことなら既に言ったし  
他のこととなると心当たりがありすぎてどれのことなのか……うーん、さっぱり分からん。  
   
 幾つか挙げるなら、紗枝が高校卒業したっていうのについつい悪乗りしてブレザー着せて  
前から後ろからやりたい放題したこととか、珍しく無実だったのに浮気の冤罪かけられて  
その弱みに付け込んでスカートを本人にめくらせてそれを眺めたりそこに顔つっこんだりして  
楽しんだこととか、あまりにも生意気な口調にちょっとカチンときた時に手首を縛って抵抗  
出来ないようにしてから吊り責めして最後の最後まで半ば無理やりに事に及んだこととか、  
俺が窓縁に座って紗枝は立ったままの状態で抱きしめ合ってた時に隙をついて紗枝の下着と  
スカート思いっきりずり下ろして一瞬で下半身だけ真っ裸の状態にしてその後は言わずもがなな  
展開に持ち込んだこととか、多分そこら辺になるんだろうが……どれだ?  
 
「どれもだよ! このド変態!」  
「えー」  
 心の狭い奴だなぁ、そういう時は精一杯その状況を楽しんだほうが楽しいぞ。  
「そうかぁ? 俺はすっげー楽しかったぞ」  
「崇兄はそうだとしても、あたしは嫌なの!」  
「大人になれよ、紗枝」  
「ついさっき『大人になったなぁ』って言ったくせに」  
 
「でもお前だってそういう風にした方が普段より濡れt」  
 
「   何   か   言   っ   た   ?   」  
 
「あ、いや、その、なんでもない…です、スイマセン」  
「まったくもう」  
 おおお…怖ぇ。ついつい調子に乗ってしまった。最近なんだか尻に敷かれてる気がする。  
ここんとこ構ってやれてなかったからなのか、それともふざけ過ぎだからか、なんだか威圧  
されることが多い。  
 
 互いに砂利を踏みしめて、流れる川を横目にゆっくり練り歩く。子供の頃、毎日のように  
通ったこの道は、昔はもっと長かった。道端に備え付けられた自動販売機やごみ箱も、今より  
ずっとでかかった。小さくなったと実感した頃には、もうこの河川敷で遊ぶことはなくなっていた。  
 いつまでと続くと思っていた交友関係も、クラスや学校が変われば簡単に途切れてしまった。  
中には気まずくなって、話をすることも無くなった奴もいて。新しい友人を作る度に、昔の  
友人の数は減っていった。  
 そんな中で、ずっと変わらず傍にいてくれた奴もいるけれど。その結果、お互いにとてつも  
ないくらいに傷ついた。変わることのないものなんて、あるはずないのに。  
「? どしたの?」  
「……」  
 さっきまでの怒りはどこへやら、無垢な表情でこっちの様子を訝しがってくる。今なら  
分かる。こいつにどれだけ助けられてきたかってことが。  
「…ちょっとな」  
「うわっ」  
 不意打ち気味に、ちっちゃい身体をぽすんと腕の中に閉じ込めてみる。  
柔らかい髪の匂いが鼻腔を擽った。実は俺も、こいつの匂いは嫌いじゃない。  
「な、なんだよぅ…」  
「んー?」  
「いきなり何なんだよぉっ」  
 付き合い始めた頃のような初心な反応に、一人満足する。心の準備をさせなければ平静を  
保てないってことは、やっぱり普段は懸命に背伸びしてるってことだよな。  
「匂い嗅いでる」  
「……やっぱり変態だ」  
 すーっと鼻から息を吸い込んでいると、また厳しい言葉をかっ食らう。いっつも人の布団に  
縋りついてんのは誰だと言いたくなったが、今はそういう空気じゃないので止めておく。  
「嫌なら振りほどけよ」  
「フンだ」  
「……」  
 言葉とは裏腹に、暴れる様子は一向に見られない。  
 
 ……  
 
 折角の雰囲気だし、な。  
 
 やるか。  
 
 畔道の終わりも近い。ちょうどこの辺りが、あの場所だった。俺達の関係が終わって  
変わる、きっかけになった場所だった。  
「ちょっと降りようぜ」  
「わっ」  
 それを思い出した途端、紗枝の腕を掴んで引っ張って、道を外れていく。  
「え、でもバイトがあるんじゃ」  
「まだ時間に余裕ある。いいから来い」  
「あ、ちょっと!」  
 
 雑草だらけの畔坂を、滑るように駆け下りていく。夏の暑い日ならともかく、春一番が  
吹いたばかりのこの時期じゃ、まだまだ冷え込む。そんな寒さの中、ここで遊ぶような  
子供達は見かけない。  
 ざしざしと地面を踏みしめて、川辺にまで来て立ち止まる。さすがに今回は、腰を下したり  
しないが。  
 
「やーっぱり嘘だったんだね」  
 開口一番、紗枝は口を尖らせる。不満げな顔をしてるが、実のところあまり怒ってない  
んだろうってことも、表情から読み取れる。  
「ははは」  
「都合が悪くなるといっつもこれなんだから」  
「ははははは」  
 乾いた笑いで誤魔化すと、隣の拗ねた表情をまた覗き込む。目線だけ一瞬こっちに向いて、  
ふいと背かれた。  
 
「あん時は、夕暮れ時だったか」  
「……」  
「もう三年近く前か。早いもんだな」  
 今でもはっきり思い出せる自分が情けない。あの時まで、自分はもっといい加減で大雑把な  
人間だと思っていた。  
「あたしは……よく覚えてないなぁ」  
 ここから、ここから始まった。それは今考えれば、まさに夢だった。頭に「悪」っていう  
文字がつくけどな。  
「俺はよーく覚えてるけどな」  
「どうして?」  
「お前が幼なじみだろうとそうでなかろうと、女の子からの告白を忘れるほど野暮じゃないぞ」  
 オレンジと紫が入り混じった奇妙な色をした大空と、夏から秋に変わることを告げる  
冷たい風と、その風が揺らすススキの擦れる音と。そして肺に覚えた、一瞬だけ面倒なことを  
忘れさせてくれる煙たさを。  
「……告白、だったのかな」  
「まあな。お前だって少しくらいは覚えてるだろ?」  
 
 俺は、覚えている。ずっと、覚えている。  
 
「……」  
「…思い出したくないか?」  
「え…」  
 流れ続ける川へ顔を向けたまま、片方の手を紗枝の頭の上にぽすんと置いて問いかける。  
覚えてるから、聞かざるを得なかった。  
 だって俺より、こいつの方が…な。  
 
「首を横に振ったら嘘になるけど」  
 
 空っぽのコルクボードと。捨てることもアルバムにしまうことも出来なかった思い出写真と。  
 
「けど、あの時が無かったら今が無かったんだからさ」  
 
 電気が点くことのなかった部屋と。曇り空が広がった早朝の駅前の交差点と。  
 
「大事な思い出だよ」  
 
 全部が全部、脳裏にははっきりと刻み込まれていて。あんまり覚えてないんだけどね、  
苦笑しながらそう呟く紗枝に、あの頃の脆さはもうほとんど残っていない。  
 幸か不幸か、俺の浮気癖が紗枝を強くしてしまった。無責任にも嬉しく思うが、一方で、  
以前ほどころころと表情を変えなくなってきたことが、やっぱり少しつまらない。  
 
「でもあんまり覚えてないんだろ?」  
「揚げ足とらないでよー」  
 不安もあったし、それが的中したこともあった。一度距離を置こうと真剣に考えたこともある。  
大人に成りきれてなかったのは紗枝だけじゃなかった。苦悩していたのは俺だけじゃなかった。  
けど、それを乗り越えたから今がある。幼なじみでも、付き合い始めてからは知らない表情を  
見せられることも少なくなかった。  
 
「あんまり覚えてなくても、大事な思い出なの!」  
   
 しかしまあ本当に逞しくなったと思う。というか、なりすぎたような。  
「そうか」  
 照れと幼さが、今は照れと凛々しさが入り混じった表情に絆される。くしゃくしゃと髪を  
撫でて手を離すと、髪型を乱されたことに、文字通り少しだけ口を尖らせる。  
「うぅぅ、ちゃんとセットしたのに」  
「俺のための髪型なんだしいいじゃねーか」  
「崇兄のためじゃないよ、お洒落だもん」  
 よく言うぜ、俺がまた髪型戻して欲しいって言ったら、「崇兄が言ったから伸ばしたのに!」  
って言いながらボカスカ殴ってきたくせに。  
余談になるが、いざ切ってきた時に「やっぱりその髪型が一番可愛いな」って素直に言ったら  
また殴られたんだけどな、そん時も笑いが止まらんかったが。  
 
「ま、幼なじみだからな」  
「……」  
「付き合う前から、本当に大事な奴だったからな」  
「もー、またそうやってふざけたこと…」  
「そう思うか?」  
「……」  
 今度は優しく、手のひらをきゅっと握って微笑み返す。戸惑った色が、今度は消えない。  
照れ臭さより悪戯心より、強く宿った感情が、頭の中を覆っていく。  
今から、嘘は言わない。  
「…そう、思うか?」  
 同じ質問を、少しゆっくり問い直す。答えは分かっている。紗枝の性格を考えれば、  
どう答えるかなんとなく分かっている。  
 
「……思う」  
 やっぱり、どれだけ変わっても紗枝は紗枝だ。  
 
「だろうな」  
「フンだ」  
 返事はどうでも良かった。俺の中の紗枝と、本当の紗枝が重なってくれたことが、何よりも  
嬉しい。  
 
「でもあたし、崇兄の考えてること、よく分かんないよ」  
   
 そんな俺の様子を察したのか、少し沈んだ様子で言葉が続く。  
「? そうなのか?」  
 そう言われることは意外だった。  
 俺だって、行動や思考パターンを読まれることは少なくない。だから、大体の性格は  
掴まれてるもんだと思っていたんだが。  
「いっつもふざけてばっかりだし、あたしの気持ち分かってて無視するし」  
「……」  
   
 そうした方が、可愛いお前が見れるからなんてとてもじゃないが言えなかった。言えば  
必ず鉄拳が飛んでくる。正直に言ったところで、信じてもらえなかったら嘘と変わらん。  
 
「崇兄がこれからどうしたいのかぜーんぜん分かんないし!」  
 
 ……  
 
 やっぱり、そこか。  
 
「あたしだって、ほんとは…」  
 
 今しか、ないよな。  
 
「ほんとは……ほんとはね?」  
 
 鉛のように重かった、ポケットの中に入れてあった答えを、そっと握りしめる。  
 
「俺は、やっぱりいつものお前がいい」  
「でも…それじゃ」  
 穏やかな口調を装って、続きを遮る。  
 幸せの中にも辛さがあることに、違和感をずっと拭えなかったんだろう。泣きそうに  
焦った顔は、初めて重なった日にも垣間見せたものだった。  
 
 そんなに、心配するなよ紗枝。  
 
「ほれ」  
 
 お前の気持ちはもう全部知ってる。それを捨てることなんて出来ねえよ。  
 
「……?」  
「わはははは」  
 
 用意していた答えを、頭の上にぽすんと載せてやる。  
「わっ…」  
「じゃ、そろそろ時間だから行くわ」  
 ずり落ちかけたそれを慌てて手で支えたのを見届けてから、一人先に雑草を踏みしめ  
坂の方へと向かっていく。  
「あ、ちょっと崇兄!」  
 焦ったように呼びかける声にも、敢えて反応せず振り向かない。そのまま無視して坂を  
上りきり、バイト先へ向かう。  
 
「ちょっと! 待ってってば!」  
 
 服の裾を後ろからぐいっと引っ張られ、無理やりその場に押し留められる。振り向くと、  
肩を上下させた彼女がいた。右手に裾を、左手に答えを握って。  
「開けたのか?」  
「え?」  
「それ」  
 顎をしゃくって左手に握られたものを指し示すと、釣られるようにそちらを向く。その瞬間、  
捉えた瞳が大きく見開いた。  
「え、え…」  
「まだなんだろ?」  
 それだけ言うと、掴まれた手を振り払い再び歩き始める。坂の上の畔道は、もうすぐ  
終わりを迎える。  
「…あ、もう!」  
 そしたらまた同じ箇所を掴まれた。どうやら今の彼女の最優先事項は、昔からの親友と  
待ち合わせることでも、渡した答えを開けることでもなく、俺と一緒にいることらしい。  
 
「…なんなの?」  
「追いかけるなら、中身見てからにしてくれ」  
「……」  
 訝しげな表情になって、今度は向こうから手を離す。  
 その答えの中身は、開けなくてもこの箱さえ見ればほぼ確実に分かるものだ。だけど、  
やっぱり実際にその目で見て確かめて欲しいわけで。  
「……っ」  
 こくりと喉を鳴らせながら、震える手で、彼女はスリットの入った箱を開けた。それと  
同時に、俺も歩みを止めてその様子をじっと見つめる。  
 
「これ……」  
 
 けどそれがどうしても出来なくなって、川の方へと視線を逃がしてしまう。  
眩しくなんかないのに、顔をしかめて目を細める。  
 
 何だかんだ言いながらやっぱあれだ、なんかあれだ。  
「え…え、でも、え?」  
 その中身と、俺の顔を何度も交互に見返す様子が、視界の端に映り込む。  
 
 慌てふためいてしどろもどろになる彼女が何よりも好きで、それを見るたびに落ち着けてた  
もんだが。流石に今回ばかりは勝手が違う。  
違って当たり前だ。俺だって初めてのことをする時は、こんな心持ちになる。  
 
「紗枝」  
 
 生まれた頃から、一緒に育ってきた。年が離れてたから、向かいの家に住んでる妹だった。  
そんな考えが間違ってたと気付いたのはほんの数年前で、その時だけこいつは一緒じゃなくて、  
傍にもいなかった。  
 そしてその僅かな時期が、僅かとはいえないくらいに長く感じられ、気付かない振りを  
し続けていたこの気持ちに、真正面から向き合うきっかけにもなった。  
「これって…その……」  
「……」  
 まだ、視線は戻せない。名前だけは何とか呼べたけど、その次に何をどう言えば良いか、  
混乱して分からなかった。  
 
「その……崇兄…?」  
 
 戸惑った表情をそのままに、問いかけるような言葉をこぼしながら、紗枝の顔が視界の  
中心に入りこんでくる。  
 
 耳が跳ね、心臓が爆ぜる。  
 
「……ま、好きに受け取れ」  
 気付かれたくなくて、敢えて軽口を叩いて頭を撫でる。  
「小遣いが欲しけりゃ、換金しても構わんぞ」  
 それだけならまだしも、臆病にも保険までかけてしまう。  
 普段からずっとぬるま湯に浸かり続けてるから、こういうことが、どうにも上手くできない。  
 
「……」  
 両手でその小箱を握りしめ俯くその顔が、みるみる顔色が赤くなっていっていく。こんな  
紗枝を見るのは、ちょっと久し振りだった。  
 
「こ、これって、その…」  
 
「……」  
 
「そういう…ことなの……かな…?」  
 
 頭が、痺れる。  
 
「……」  
 
 耳が、熱かった。  
 
「まあ、お前がどうしてもって言うんならな」  
 
 鼓動が、身体全体から発せられてるようだった。  
 
「そういう意味で渡してやってもいいぞ」  
 
 視界がひどく狭くて、開いてるはずの目が閉じているようにも思える。  
 
 顔を隠すように眉尻を親指で掻く。  
 いきなり紗枝が目の前に来たもんだから、顔はまだそっぽを向いたままだった。  
当初考えていた台詞とは全く違う言葉が、意識する暇もなく飛び出していく。こんな情け  
なくて恩着せがましい言い方をするつもりなんてなかった。事前に色々考えてたのに。  
本当はもっとこう、なんだ、えー……どう言いたかったんだっけか。  
「……」  
「……」  
「……じゃあ」  
 後になって、この時の紗枝の表情を見てなかったことを、俺は死ぬほど後悔することに  
なるんだろう。  
 
「そういう意味で……受け取っても、いい…?」  
 
 でも今は、それどころじゃなかった。  
 
「崇…兄……」  
 
 そこでようやく、向き直れる。見たかった表情は、既に俯いてしまっていた。  
 
「…好きにしろ」  
 
 涙ぐみながら笑った顔が、一瞬だけぼやけて見える。それがまた、情けない。  
 
「でも、知らねーぞ?」  
「……」  
「これからも、苦労かけるぞ?」  
 渡すのは、満を持したタイミングじゃなくて、何か用事がある直前にと決めていた。  
「……分かってる」  
 一緒になることはできても、いつでもずっと一緒にいることはできないから。  
「色々辛いことが、あるかもしんねーぞ?」  
「…分かってる」  
 たまにしか見れないから、その価値が分かることだってあるよな。  
 
「……そか」  
「……うん」  
 渡した小箱を、胸の前でぎゅっと握りしめる。  
 
「心配すんな紗枝!」  
 
 さっきは緊張しすぎで言えなかった。だから今度は言ってやる。  
 
「一緒なのはこれからも変わらん!」  
 
 やっぱりまた、今度は身体ごと川の方に向いてしまっていたけれど。耳の真横で心臓の  
鼓動が聞こえていたけれど。  
 
「……うん」  
 
 頷いた紗枝の声は、確かに聞こえた。  
 
 何だろうこの異常なまでの達成感と爽快感は。  
 それが何なのかは分からんが、俺が今、とてつもなく幸せだということだけは確かだ。  
もう何を言われても大丈夫で全てを許して受け入れることができそうな気がする。  
「でも、あのさ」  
「ん?」  
 目尻を拭いながら、鼻を啜りながら、紗枝は口を開く。そんなに喜んでくれたのか、  
勇気を振り絞った甲斐があった。もうお前の顔から視線を逸らさないぞ。  
 
「そしたらもう……もう崇兄、浮気なんかしないよね?」  
 
 ……  
 
「え゛?」  
 
「しないよね?」  
「……」  
 
 思わず顔を背けた。  
 
「……ふへへへー」  
 笑いかけてくる紗枝の両手が俺の首に絡みつく。  
「するの?」  
 そしたら、今しがたまで涙ぐんでた声が、一気に低くなった。  
 いや、ちょっと待て、なんだこれ。  
「ははは馬鹿言うな」  
「じゃあしないよね?」  
「……」  
 
 どうしよう、正直、自信無い。とまでは言わないが、合コンぐらいは行ってしまう可能性が  
無いというか低いとは言い切れないのがちょっとあれだ。  
 
「それは、あれだ」  
 どうにか言い訳しようと考え抜いたその結果。  
「お前が俺のこと、ちゃんと名前で呼べるようになってからの話だな」  
 口から出たのは苦し紛れの方向転換。  
 
「えええ、だって」  
 ところがどっこい、これが功を奏したらしい。  
「旦那になった時が来ても兄呼ばわりはちょっとなぁ」  
 反撃の糸口を掴んだ俺は、途端にふんぞり返って居丈高になる。  
「と、時々呼んでるじゃん…」  
 その時々っていうのがいつのことなのか、言わなくても分かるよな。  
「いつも呼んでくれんことにはなぁ」  
「ううう…」  
 ニヤニヤしながら言い返すと、頭から湯気が出そうな勢いでその顔色が染まっていく。  
抱きしめられることにも甘い言葉囁かれることにも、抱かれることにさえ慣れてきてるって  
いうのに、なんで名前一つ呼ぶことに慣れないんだか。  
 ま、だからこそ紗枝なんだろうけどな。  
 
「…じゃあ、今呼ぶ」  
「ほほう、それは嬉しい」  
 出来ないことは言うもんじゃないぜお嬢さん。  
「そんなことないもん! 言えるもん!」  
 ここにきて唐突に口調まで幼くなるのはどういうことなんだろうなぁ、いやはや、これは  
楽しい。  
 
「い、いくよ」  
「おう!」  
  満面の笑顔で、両手を大きく広げて言葉を待つ。その瞬間、鳩の群れがバサバサと  
羽音を立てながら空を駆け抜けていった。  
「たっ……たっ……」  
 案の定どもる。  
「た……たっ…」  
「ちなみに俺の名前は崇之っていうんだぞ」  
「知ってるよっ!」  
「あ、忘れてなかったのか。ごめんな!」  
「…う〜〜〜」  
 あーあ、顔押えてしゃがみこんでしまった。ほんの少しだけもしかしたらとも思ったが、  
こりゃやっぱり無理だな。  
 
「無理すんなって」  
「だって……だって…」  
 今になって泣きそうな顔を見せる紗枝を、にやけたまま宥める。  
「ゆっくりでいいって。子供ができた時くらいまでに言えるようになってれば」  
「こどっ…!?」  
「はっはっはっはっは、どーした紗枝」  
 フフ、なんとか誤魔化せたな。しかもこんなに楽しい思いまでさせてくれるとは、なんて  
良い奴なんだお前は。  
 
「もう! さっさとバイトに行ってこい!」  
「おお、そういえばそうだったな。じゃあ行ってくるぞ妻よ」  
「まだ妻じゃない!」  
「でも将来は決まりだろ」  
「まだ決まってない!」  
「またまたー、照れちゃってもー可愛いなぁお前は!」  
「言っとくけど、もう許してあげないからね」  
「何を」  
「合コン。行ったらこれ突っ返すから」  
 げっ、しっかり覚えてやがった。面倒くさい奴だなまったく。  
 
「それは反則だろー」  
「嘘じゃないからね! 半分諦めてたけど、これ貰ったからにはまた厳しくいくからね!」  
「……心が狭い」  
「何なら今返してもいいけど」  
「あーウソウソウソウソ! それじゃバイト行ってくるわ!」  
 ふー、危ねぇ危ねぇ。折角渡したのに突っ返されたら意味がなくなってしまう。  
 まー仕方ないか。これからは俺も少しは身持ちを固めないといかんかな。でないと、  
未来の嫁をまた泣かせてしまう。  
 
「じゃあバイト終わったら、お前の家行くぞ」  
「え、なんで」  
「先に既成事実をおじさんおばさんに言っておいて、いざという時お前が断れないように  
するためにだな…」  
「ピッチャー第一球…」  
「というのは冗談でな! もちろんこのことの報告にだ!」  
「……ならいいけど」  
 ったく、冗談が通じないなんて頭が硬いったらありゃしねえぜ。やっぱり、紗枝は紗枝  
だな。根っこの部分は変わりようもない。  
 
「それじゃな」  
 くしゃりと頭を撫でて、鼻腔を擽らせる。  
「……うんっ」  
 少しの沈黙の後、元気な返事が返ってきた。  
 
 軽く手を振りあって、紗枝と別れる。名残惜しそうな表情を見せたが、それを言葉には  
出さなかった。俺がどうして、バイトに行く直前なんていう妙なタイミングであれを渡したのか、  
その理由をちゃんと分かってくれているみたいだった。  
 
 
 生まれた頃から、一緒に育ってきた。年が離れてたから、向かいの家に住んでる妹だった。  
そんな考えが間違ってたと気付いたのはほんの数年前で、その時だけこいつは一緒じゃなくて、  
傍にもいなかった。  
 けど、これからはもう一緒にいられる。ずっと、ずっとな。その「約束」を交わすことが  
出来て、良かったと思う。  
 
『さえー! はやく来ないとおいてくぞー!』  
 
 もう、置いていったりなんかしない。それだけは自信を持って、確実に言えることだ。  
 
『うわああああん! まってよー!』  
 
 なるべく泣かせたくない。悲しませて辛い目に遭わせたくないのもまた本心だ。今まで、  
ずっと我慢し続けてくれたんだからな。  
 
 
 余談にはなるが、この一ヶ月後、俺は渡した小箱を中身ごと突っ返されることになる。  
 
 
 理由はもちろん、合コンに行ったのがバレたからだ。  
 
 
 更に余談になるが、それから二年後、俺はまた紗枝を泣かすことになる。  
 
 
 俺が黒のタキシードを、紗枝が白いドレスに身を包んだその場所で、だ――――  
 
 
 
 

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