あらゆる『自己』が否定される空間がある。
その名を聞けば誰もが膝を叩くだろう、アメリカはブロードウェイの高名なミュージカル劇団。
そこでは役者が己の個性を出す事を禁じている。
役者はそのキャラクターに徹底的になりきって、ただそのキャラクターを演じる為の機械となる事を強制される。
役を通して自分を表現するなど、役者本位の甘い考えに過ぎない。観客はそんな物を望んでいない。
監督や演出家、脚本家、そして観客の望む姿を完璧に表現する――
それがプロフェッショナルに求められる唯一にして絶対の条件だ。
自分が役柄を演じるだけの道具として扱われる。それを受け入れなければならない世界。
役者のキャラクターを重視する、今の演劇界では想像もできないやり方だろう。
そんなある意味非人道的な、しかしそれゆえ完璧な演技の数々は、
見る者に透明な芸術的感動を与え、その魂を揺り動かす。
だからこそ、その劇団は名誉と賞賛と万雷の拍手を欲しいままにしているのだ。
しかし――たった1度だけ、役者が演劇で『自己』を表現するのを許される瞬間がある。
それは、役者の『引退公演』。最後の舞台に立つ瞬間。
今まで残酷なまでに自己を押し殺してきたスターに敬意を表して、
その舞台だけは自分の好きなように歌い、演じ、踊る事が許される。
最後の舞台に、最後のスターは踊る。
それが、本当の自分が輝ける、最初で最後の舞台だと知っているから。
スターは踊る。
踊る。
踊る。
そんな最後の踊り子の姿は、狂おしく、美しく、悲しく、儚い――
ひでぼんの書 外伝
ラストダンサー
1.『ARROW HEAD』
満天の星空ってヤツは、どうも好きになれない。
それなりに歳食った連中なら、俺じゃなくてもそう思うだろう。
キラキラピカピカ無節操に輝く星の海に感動できるのは、純真無垢なガキどもだけだ。
俺みたいにスれた奴にとっては、思い出したくもないトラウマを
胸の中から無理矢理掻き出されるような気がして、飲んでもいないのに反吐が出る気分になる。
まぁ、ここは不夜城・東京都心のど真ん中。
大気汚染で星空なんて数十年前からカケラも見えなくなってると言う奴もいるだろう。
だが、こうして地上1000mの高みから神様みたいに下界を見下ろしてると、
100万ドルの夜景とやらが星々の代わりに地平線の果てまで煌いて、
うんざりするくらい夜空のそれを連想させてくれる。
おまけに寒風吹き荒ぶ中で1人ぽつんと空中に浮いているのだから、体感的にも寒いんだよクソッタレめ。
無論、俺の背中には白鳥の翼も蝙蝠の皮膜も生えていない。
手品師よろしくワイヤーで吊るされているわけでもない。
これは『術』――いわゆる『魔法』の力だ。
両足の踝に刺さっている、髪の毛ほどの『針』の力で、
俺は何の支えも無しに天空に浮かんでいるってわけだ。
まぁ、浮遊術なんて俺のような退魔師にとっては基本中の基本なんで、自慢にもならないけどな。
同じように、俺の目ん玉にも針が刺さっている。この針には透視術が付与してあるから、
眼下1000mの廃ビルの地下まで空気みたいに見通せるって寸法だ。
で、なんで俺がこんな七面倒くさい方法でピーピング・トム紛いの事をしてるのかと言えば――
「くはぁあああああ……うぅうん……」
まるで蜘蛛が這いまわるように、ごつい男の掌が白い乳房を蹂躙した。
発情期の虎よりも貧欲に、全裸の中年男性が髪の長い美女の裸身を抱きしめ、しゃぶり回し、揉み解す。
ケモノのようなセックスだった。一見、しがないサラリーマンのような男の顔も、
血走った眼を見開き涎を撒き散らす狂人のようだ。
「あはぁ……やあぁああん」
すぐ隣では、下手すれば中学生にも満たない少女の股をかき開いて、
ヤンキー風の青年がスジにしか見えない性器にむしゃぶりついて滲み出る愛液を啜っている。
水に飢えた遭難者よりも必死な形相だ。
その傍には高校生くらいの男女が69の体勢で互いの性器を舐め合い、
さらに隣には嬌声を上げる妖艶な熟女の尻を抱いて、バックから肉棒を叩きつける少年の姿もある。
遥か眼下の廃ビルの地下には、ちょっとした体育館ほどもある薄暗く広大な空間が広がっており、
その中で数十人の男女が乱交パーティーを繰り広げていた。
これだけなら少々――いや、かなり異様だが退廃した背徳の宴として片付けられる光景だけど、
問題は絡み合う男女の『女』の方にある。
年齢や外見は様々だが、全員が異常なまでに色気の漂う極上の美女だった。
艶かしい肌は奇妙に青白く、瞳の色は薔薇よりも赤い真紅だった。
そして、その濡れた唇の端からは、鋭く尖った白い牙が覗いていた。
――『吸血鬼』――バンパイアだ。
数十体の女吸血鬼が、同数の男達とフリーセックスと洒落こんでいるわけだ。畜生、羨ましい話だぜ。
俺は独りでに出た舌打ちを飲み込み、その悔しさをバネにして今回のターゲットどもの観察を続行した。
こうして見る限り、ターゲットの女達――吸血鬼どもは、
いわゆる“宗教型”の“レッサーバインパイア”しかいないようだ。
ちと数が多いのは面倒だが、これならあまりてこずる事もなく退魔完了できるだろう。
男達は女吸血鬼どもに見初められ、精神的にも肉体的にも奴隷と化した“犠牲者”か……
可哀想だが、ここまで魅惑されてしまっては魂まで食い尽くされているだろうな。
成仏させてやるのが情けってやつだ。
「うおおぉっ!!」
そんな俺の考えも知らずに、男達は狂ったように雄叫びを上げながら腰をピストンさせている。
吸血鬼と犠牲者が異性同士である場合、こうして血を吸わずにセックスで精気を搾り取るケースはわりと多い。
牙を突き立てて血を啜るよりも証拠が見つかりにくいし、快楽で犠牲者を簡単に虜にできるからだ。
昔は吸血鬼がインキュバスやサキュバスのような夢魔と同一視されていたというのも、頷ける話だろう。
だが……パーティもそろそろお開きにしてもらうか。
俺は両目に刺さった針を抜き取ると、愛用の錫杖を真っ直ぐ真下の廃ビルに向けた。
軽く深呼吸してから、両足の飛行術を付与してある針に別の指令を送る。
一瞬の浮遊感と、体感ベクトルの反転――
次の瞬間、俺は天空から放たれた銀の矢と化し、真っ直ぐに廃ビルを貫いた――
……いてて、少し腰を打っちまったな。
久しぶりの実戦なんだから、もう少し大人しい奇襲作戦を選ぶべきだったか。
雨のようにパラパラ降り注ぐコンクリート片を避けながら、俺は瓦礫の山の上から起き上がった。
地上1000mの上空から地下室まで一気に廃ビルを貫通した当然の結果として、
周囲は濃霧のような粉塵にかき消えている。
くそっ、久しぶりに箪笥の中から取り出した黒袈裟が、粉砂糖をまぶしたみたいに真っ白になっちまった。
後でクリーニングだな。
「な、何が起こったの!?」
「敵襲か!」
まわりの動揺する吸血鬼どもの声の数は、上空から数えた分より半分ぐらい減っている。
残り半分は瓦礫の下敷きだろう。奇襲作戦はとりあえず成功といった所か。
それから数秒も経たない内に粉塵は晴れて、
瓦礫の山の周囲に群がる吸血鬼と犠牲者達の姿が浮かび上がり、
俺の推測がおおむね当たっている事を教えてくれた。
さて……始めるか。
俺は軽く深呼吸すると、手に持つ錫杖の石突を瓦礫に打ちつけた。
しゃりん!
澄んだ音が荒廃した地下室に凛と響く。
吸血鬼と犠牲者の群れが、驚愕の表情で一斉に俺を見上げた。
「“闇高野”所属退魔師“M”だ。御仏に代わって汝等に仏罰を与える」
できるだけ機械的な口調で、俺は名乗った。
……なぜわざわざ御丁寧に敵に対して名乗らなきゃいけねぇんだと常々思うが、
国際条約で決まってるんだから仕方がない。
それに、ハッタリを効かせる意味では全く無意味というわけでもないんだな、これが。
「闇高野……退魔師だと!?」
案の定、闇高野の名前を知ってるらしい何匹かの吸血鬼が、青白い顔色をますます青くして後退った。
闇高野といえば国内屈指の武闘派退魔組織であり、
宗教系退魔組織としてはキリスト教圏の“テンプラーズ”やイ
スラム教圏の“アズラエル・アイ”に並んで三本の指に入る、超ド級の名門退魔組織だ。
魔物どもにとっては1番出会いたくない存在の一つだろうな。
特に吸血鬼のような不死身を売りにしている魔物にとっては、闇高野の名は絶対の恐怖だ。
闇高野には『退魔剣法』という、対象の種族的、魔法的な防御的特性を完全に無効化して、
存在そのものにダメージを与える事ができる独自の退魔武術がある。
実体の無いゴーストだろうが、不死身の吸血鬼だろうが、無限に肉体が再生する肉人だろうが、
闇高野退魔師の前ではその辺にいる尋常な生き物に成り下がってしまうわけだ。
まぁ、全ての闇高野退魔師が『退魔剣法』をマスターしてるわけじゃないが、
少なくとも俺自身はそれなりに習得している。
だからこそ、吸血鬼退治なんて七面倒くさい退魔業に駆り出されたわけなんだが……
「何をブツブツ呟いている!!」
――と、目の前の現状を把握してないらしい犠牲者の何人かが、
しびれを切らした様子で襲いかかってきた。吸血鬼の下僕に過ぎない存在とは言え、
肉体のポテンシャルを100%発揮できる犠牲者の身体能力は常人のそれを遥かに凌駕する。
瞬きにも満たない一瞬で瓦礫の上に立つ俺の頭上5mの高さまで跳躍し、猿(ましら)の如く踊りかかった。
その数3体。
鉄骨をも引き千切る指が俺の頭に触れる瞬間――手に持つ錫杖が脈動した。
「ごはっ!」
跳ね上がった錫杖頭に顎を砕かれた犠牲者の鳩尾に、すかさず石突で突きを入れる。
「ぐふぅ!」
間髪入れずに脇に挟んだ錫杖を旋回させて、
背後から襲いかかろうとしていた犠牲者の胴体に叩きつけ、くの字に曲がった身体を蹴り飛ばす。
「ぎゃあ!」
最後にワンテンポ遅れて跳躍した犠牲者の頭を片手大上段から叩き潰した。
一呼吸で返り討ちにした3体の犠牲者は、瓦礫の山から転がり落ちるより先にミイラ化して、
物言わぬ尋常な死者に浄化されていた。
気の毒だが、死体だけでも人間に戻れるだけマシと考えて、迷わず成仏してくれよ。
「くっ……きさま、ただの人間じゃないな!?」
まだ現状を把握してないらしい吸血鬼の1人に、
「もう名乗っただろう。お前等化け物の天敵、退魔師だってな」
俺は軽い調子でウインクを送った。
人間の限界を遥かに上回る戦闘能力を持つ魔物に対抗するには、
魔法や科学の力を使ってこちらも魔物に匹敵する戦闘能力を持つしかない。
俺がマスターしている武術『退魔剣法』もその1つだ。
無論、それだけでは様々な特殊能力を持つ魔物とガチンコするのは色々と七面倒くさいので、
一応は退魔師と名乗れるくらいには呪術――ぶっちゃけ様々な魔法も習得している。
とんがり帽子をかぶっているわけじゃないが、俺も一応は魔法使いって事だ。
まぁ、魔法使いといっても高らかに呪文を唱えては大鍋の中の薬をかき混ぜて魔法を使うわけじゃない。
これは俺に限った話ではなく、退魔師は大抵の場合何らかの“触媒”にあらかじめ魔法を封じ込めて、
使用する際に開放、発動する手段を取る。
実戦の場でいちいち呪文を唱えていては「今のうちに攻撃してください」と敵に言ってるようなものだし、
自分の魔力だけで魔法を紡ぎ出すより、触媒の力を借りる方が遥かに楽だからだ。
例えるなら、地面に穴を掘る際、素手でも穴は掘れるが、
スコップやショベルカーを使う方が楽に早く掘れるって感じか。
ちなみに、こうした“触媒”として使われるアイテムが、魔法使いでお馴染みの杖だったり、
数珠や十字架のような聖具、怪しげな呪文の書かれた札だったりする。
そして、俺の使う“触媒”というのが――
「さっきから誰に解説しているの!!」
非難の声と同時に、火の尾を引いた瓦礫の欠片が俺の顔面に炸裂した。
単なる瓦礫も吸血鬼の怪力で投げれば音速を軽く超え、空気抵抗で発火するほどの凶器と化す。
「ぎぃい!?」
しかし、苦悶の悲鳴を上げたのは投擲した吸血鬼の方だった。
仰け反りながら顔面を押さえる掌の指の間には、
長さ5cm、太さは0.1mmにも満たない極細の“針”が生えていた。次の瞬間――
ぼん
緊張感の無い音と共に針に封じられていた爆砕魔法が開放されて、
吸血鬼の頭部はスイカのように弾け消えた。汚ぇ花火ってやつかな。
そして――俺の顔面に命中したかに見えただろう瓦礫は、
俺がセクシーな唇で咥えてる“針”に刺し止められていた。
封じてあった防御魔法を開放した針に。
そう、俺が術に使う触媒は『針』だ。
ちなみに、体内に埋め込んである針を、含み針の要領で使用している。
「き、きさま……っ」
瞬きにも満たない間にお仲間を滅ぼされた事実が信じられないのか、明らかに動揺する吸血鬼どもに、
「来ないのかい?」
俺は肩をすくめながら瓦礫付きの針をぷっと吐き捨てた。
ほとんど同時に前方から吸血鬼が3匹、後方から1匹飛びかかってきた。
さっき同じ構図で犠牲者達が返り討ちにあったのを見てただろうに。
進歩のない野郎だ――じゃない、女どもだ。
次の瞬間、豹のように俊敏に襲いかかる吸血鬼3匹の全身に数百本の針が生えて、
その身体は燃え上がり、凍結し、粉砕した。
同時に腋の下から背面に繰り出した錫杖が、残る一匹の心臓を正確に刺し貫いている。
後ろも見ずに引き抜いた錫杖をくるりと1回転させて手の内に収めた頃には、
襲いかかってきた吸血鬼どもは全員灰と化していた。
「…………」
残る吸血鬼どもと犠牲者は声も無いようだ。全員が絶望に身体を硬直させて、
惚けたような顔を見せている。まぁ、これだけ実力差を見せ付ければ、そんな顔しかできないだろう。
俺は軽く溜息を吐くと、少しだけ甘い顔をして唇の端を吊り上げて見せた。
「降伏しな。そうすれば苦しまないように滅ぼしてやるよ。輪廻転生処理もサービスするぜ」
おそらくお互いにとって幸いな事に、その後の処理は極めてスムーズに進んだ。
「これで退魔完了、かな」
数十分後――人っ子1人いない廃ビルの地下室で、俺はぽつりと呟いた。意識的に声を出して。
仕事そのものは簡単に終わったが……どうも気に入らねぇ。
あまりにも簡単な仕事過ぎる。この程度の退魔業なら、その辺にいる退魔師でも楽にこなせるレベルだ。
もう引退していた俺を――自慢じゃねぇが、こう見えても闇高野で3本の指に入る退魔師だった俺を、
わざわざ使う仕事とはとても思えない。
吸血鬼どもの動きも妙だった。最初は抵抗したものの。すぐに大人しく退魔された。
普通の吸血鬼なら地獄に落ちても抵抗するはずだ。
それに、あの場にいたのはレッサーバンパイアと犠牲者だけで、
そいつらの親玉である“バンパイア”の姿が見えないのも気にかかる。
レッサーバンパイアとは、バンパイアが血を吸った犠牲者の中から、
自分の花嫁(あるいは花婿)として迎え入れた、いわばバンパイアのお気に入りだ。
バンパイアと犠牲者であるレッサーバンパイアは精神的に繋がっているから、
そいつらが危機に陥ったら数分と経たずにテレポートなり何なりで戦いの場に飛び込んで来るだろう。
親玉であるバンパイアが滅ぼされたり封印されているなら、
犠牲者達も同じ運命をたどるから、もうこの世にいないとは考えられないし……
まぁ、これはあくまで“宗教型”吸血鬼のパターンだからな。
宗教型吸血鬼に似た習性を持つ別種の吸血鬼である可能性も無くは無い。
それに、自分の花嫁を見捨てた根性無しのバンパイアだったのかもしれないし……前例は無いけど。
とにかく、どこかモヤモヤとした釈然としない心地にあった俺は、一仕事済んだ後も現場をうろついていた。
だけど……別に怪しいモンがあるわけでもないんだがなぁ。
念のため、探査用の“針”で周囲を調べてみたが、ネズミの一匹も反応は無い。
やっぱり考え過ぎだったかな。
ちと突入の方法が派手だったから、人気の無い町外れの廃ビルとはいえ、そろそろ人が集まってくるだろう。
面倒な事にならないうちに、とっとと御山に戻って報告書を書いて、お役目御免と病院に帰ろうか――
……ッ!……
その時――“音”が地下室に静かに、しかし確実に響いた。
絶対にありえない音が。
俺は動かなかった。いや、動けなかった。
今、この地下室に存在するのは、瓦礫の山と埃っぽい空気と俺だけだ。
それだけは間違いないと断言できる。
じゃあ、なぜあの壊れかけたロッカーの中から、子供の嗚咽が聞こえるんだ?
ほんの数分前に探査用の針はロッカーの中を調べ尽くしていた。
念の為に俺が直接開けて中を覗きこんでもいる。中身は空っぽのはずだった。
そして、何より俺を戦慄させているのは、
探査用の針からは今でも『ロッカーの中には何も存在しない』という情報が送られている事だ。
「誰だ!?」
思わず俺は叫んでいた。叫びつつ、針を発射していた。
数十万本の極細針がロッカー全体をハリネズミにして、瞬く間にそれを埃と化した。
大量の極細の針が物体の分子構造をズタズタにして破壊する、短針銃の原理だ。
そして、中から降臨したのは――
「ううっ……ひっく……ぐすん」
正直に告白しよう。その姿を見た瞬間、俺の心臓は誇張抜きで凍りついた。
いや、薄暗い地下室の空間も凍結し、時間すら止まったかもしれない。
1秒が百億年にも思える刹那の刻。
『この世界に絶対に存在しないはずの少年』――それがここにいた。
年の頃は12歳くらいか。子供向けのスパッツを身に付けて大人向けのワイシャツを羽織った少年は、
赤ん坊のように泣きじゃくっていた。
しかし、その顔が天使のように愛らしく、悪魔のように美しいのが、世界を凍結させた理由ではない。
ボブカットの髪が不吉の月のように白く、どんな鮮血よりも鮮やかに紅い瞳が、
明らかな人外の存在である事を如実に表しているからでもない。
理解(わか)る。
俺にだけは理解できる。
その『匂い』が、俺にか弱そうな少年の正体を教えてくれる。
あらゆる“吸血鬼”の頂点に位置する究極の吸血鬼――“邪神”の力を持つ唯一の吸血鬼。
HPLを殺した吸血鬼。
俺は白痴のように呟いた。その名前を呟いてしまった。
虚ろな“名”が、無限の闇に儚く響く。
「……“星の精(スター・バンパイア)”……」
続く