『G−SHOCK』  
 
 カシオが開発した“決して壊れない”腕時計。  
 外殻から独立した内部機構やポリウレタン製の衝撃吸収材など、数々の対衝撃機構を備え、  
あらゆる状況下でも壊れず、狂わず、傷付かない堅牢さを売りとする腕時計。  
 そのタフさから軍人やダイバー等、過酷な環境下で活動する職種の者達に長年愛用されてきた腕時計。  
 そうした「絶対に壊れない、タフで男らしい」という宣伝文で一介の中学生を惚れ込ませて、  
死に物狂いで貯金させ、今もこうして愛用させている腕時計。  
 しかし、ただ1つ――この時計には欠点がある。それも俺にとってはある意味致命的とも言える問題が。  
 
 ある推理小説曰く――刑事にGショックは似合わない。  
 
 
  ひでぼんの書・外伝2  
 
  『スカーフェイス“G”』  
 
1.「G」  
 
「聞いているのか、緋硯(ひすずり)警部」  
「聞いてるよ、五十鈴警視」  
 嫌味臭い眼鏡の弦を嫌味臭く弄る嫌味臭い眼鏡――五十鈴警視の嫌味臭い声に、  
俺はGショックの溝に溜まったホコリを爪楊枝で取り除きながら答えた。  
無論、目を合わせもしない。  
 この、本体外殻の溝に汚れが溜まりやすいという欠点さえ無ければ、こいつは最高の相棒なんだが。  
 だが、あの眼鏡上司から嫌味臭さという欠点が無くなっても、あいつとは仕事上の相棒という関係にはなれそうもない。  
「……先輩、ヤバイっすよ」  
 背後のパイプ椅子に座る部下に背中を突付かれて、俺は心の中で溜息を吐き吐き前を向いた。  
一応は部下を預かる身としては、あまり上司に対する反抗的態度を見せ続けるわけにはいかない。  
 薄暗い会議室の正面に鎮座する巨大なプロジェクターモニターに写る映像に、  
俺はこれで当分肉料理は食えそうにないな、という月並みな感想を抱いた。  
 
 警視庁○○署刑事課超常現象特殊強行犯係――巷じゃ国連直下の退魔組織である  
『IMSO(国際妖魔対策委員会)』の出張所と揶揄されている――  
警視庁直属の退魔組織ともいえるこの部署は、平安の時代には陰陽寮だの呼ばれていた怪しい組織が母体となっているらしいが、  
そういった事に全く興味の無い俺には詳しい事はよく分からない。  
 早い話が、『人間以外の魔物の類や魔術師等の超常能力者による犯罪を担当する警察部署』ってわけだ。  
 今更言うまでもないが、この世界には文字通りの人外の力をふるう様々な魔物や妖怪、  
幽霊にUMA、魔術師に超常能力者、神々や悪魔の類までもが実在している。  
 そういった存在から治安を守り、または引き起こした犯罪を捜査解決する能力が、当然ながら俺達警察機構にも必要となる。  
 しかし、国家権力というコネと警察権という大義名分があっても、悲しいかな俺達一般人には  
魔物どもが使う様々な魔法、妖術、超常能力の類には対抗できないのが現状だ。  
いや、単に魔物をブチのめすだけなら現状の兵器でも可能なんだが、  
犯罪捜査のような繊細さを必要とする行為はほとんど不可能といっていい。  
 結果として警察は、古来よりそうした魔物達と接触、交流、  
そして応戦していた組織――『退魔組織』に捜査協力を依頼していく事となった。  
小は個人経営しているフリーの退魔師から、大は数千年の歴史を持つ宗教系退魔組織まで、  
公務員の安月給とは比べる気にもなれないバカ高い依頼料と引き換えに、だ。  
 当然ながら、調査を外注せざるを得ない超常現象特殊強行犯係は、  
予算はともかく設備と人員は最低限の規模であり、そのまま窓際族としてひっそりと警察署の隅にいる存在となった。  
 いや、なっていた――数年前までは。  
 そんな窓際部署が急速な拡大を遂げて、今や警察組織内でも最大級の部署となり、  
こうして通常の強行班に所属していた俺までが、警部への昇進と引き換えに引き抜かれる結果となったのは、  
IMSOがそうした超常の力に対抗する画期的な理論を完成させたからだが――  
 
「聞いているのか、緋硯警部」  
「聞いてるよ、五十鈴警視」  
 嫌味眼鏡に生返事しつつ、俺は2人を除いて誰もいなくなった会議室を見回した。  
最近改築したばかりで内装は無駄に豪華だが、同時に無駄にだだっ広いだけに、  
こうなると空っ風でも吹きそうな虚しさが部屋中に漂っている。  
どこかで虚しい口笛が聞こえたような気がしたのは、さすがに幻聴だろうが。  
「相変わらず目上の話を聞かない男だ。警察学校の頃から変わってないな」  
「うるせぇ、いいから本題に入れ」  
 捜査会議中にGショックを弄り回してばかりで、ロクに話を聞いていなかったからという理不尽な理由で、  
俺は1人居残って嫌味眼鏡――五十鈴警視の捜査報告をもう一度聞く羽目になった。  
どうせ俺個人に対して何かオフレコの話があるので人払いしたんだろうが、そんな小学生みたいな理由があるか。  
ちくしょう、退室する部下の視線が痛かったぞ。  
「……で、本当に捜査報告は聞いていたのか?」  
「そこまでボケちゃいねぇよ。要は――」  
 要は、不可能犯罪が発生したって事だろ。  
 壁掛け式の大型プロジェクターに映し出されている映像――それは、  
軍隊顔負けの重火器で武装した屈強なヤクザ十数人が、誇張表現抜きでミンチと化している猟奇的な殺害現場だった。  
 事件の概要はこうだ。昨日未明、広域指定暴力団○○組の組長邸宅に襲撃事件が発生。  
屋敷にいた組長以下十数人の武闘派暴力団員が皆殺しにあうという凄惨な事件だった。  
だが、それだけなら普通の警察の仕事の範疇であり、わざわざ超常現象特殊強行犯係が担当するような事件じゃない。  
 問題は、襲撃者がたった1人――それも近所にいた幼稚園児の女の子だったという事だ。  
 取調べによると、女の子には事件の記憶が全く無かったという。  
当然ながら女の子に十数人のヤクザを挽肉にする動機も無ければ、そんな行為ができる装備もない。  
 5歳の幼女が、素手で熊も捻り殺しそうな強面のヤクザを、それも近々計画されていたという抗争の為の準備として、  
軍払い下げの重火器で武装していた連中を1人も残さずに“セント・バレンタインズ・ディ”と来たもんだ。  
到底まともな事件じゃないって事は、それこそ幼稚園児でもわかるだろう。  
 
 だがそれも、背後に魔物や魔法といった超常の力が絡んでいれば話は違ってくる。  
 たちの悪い悪霊の類に憑依されたり、精神操作系の術で洗脳されれば、純朴な少女が殺人鬼に変貌するのも不思議じゃない。  
武装したヤクザ集団を素手でミンチにするのも、そうした超常の力を使えば十分あり得る話だ。  
つまり、それだけなら超常現象特殊強行犯係にとっては特別な事件じゃなかったわけだが――  
「――『今回のケースにおいて、魔物・魔法その他あらゆる超常の力が関与した痕跡を認められず』――  
IMSOから返ってきた調査報告だ」  
 五十鈴警視の感情を極力伏した言葉は、そんな常識を木っ端微塵に打ち砕くものだった。  
「信じられねぇな……報告ミスって線は無いのか?」  
「そっちは確認済みだよ」  
 氷の仮面を着けたような表情は崩さずに、五十鈴警視は一度眼鏡を外してしばらくレンズを眺めた後、再びかけ直した。  
昔から変わらない、困惑した時のこいつの癖だ。  
 困惑するのも無理はない。正直言えば俺も似たような気分だ。  
 魔物や魔術の類――超常の力を使わずに、どうすれば幼稚園児がヤクザどもを皆殺しにできる?  
 さっぱり見当もつかない。  
「さすがのお前も困惑しているようだな」  
 0.1ミリグラムほどの苦笑を混ぜた液体窒素みたいな声に、  
俺は自分の左目から顎の下に走る傷痕を、無意識の内に撫でている事に気付いた。  
 昔から変わらない、困惑した時の俺の癖らしい。  
「いいからさっさと本題に入れよ。まさか本当に事件の再確認の為に、わざわざ俺を残したわけじゃねぇだろうが」  
 内心の僅かな動揺をごまかしつつ、俺は50%の本気を込めて目の前の嫌味眼鏡を睨んだ。  
だが、部下なら一発で震え上がるメンチ切りも、相手がガキの時分からの馴染みでは、眼を逸らさせる事もできやしない。くそったれ。  
「無論だ――なら単刀直入に言おう。お前には一時的に捜査班から外れて、独自に別方面から事件を捜査して欲しい」  
「……ぁあ?」  
 あまりにも普段と変わらない調子で嫌味眼鏡は言い放ったので、俺は生返事を漏らす事しかできなかった。  
「早い話が、お前だけチームから抜けて1人で捜査しろという事だ。この件が解決するまで、お前の部下は私が預かる」  
「……ふざけんじゃねぇ!」  
 俺は激昂した。当然だろう。  
 捜査班から俺だけが追い出された挙句、1人で捜査しろだぁ!?  
 理不尽なんてレベルじゃねぇぞ。イジメかこれは。  
「そう吼えるな、ちゃんと理由があっての事だ」  
 マホガニーのデスクが凹むほど拳を叩きつけ、鼻先を噛み付かんばかりに怒鳴りつけても、  
五十鈴警視のポーカーフェイスは変わらなかった。その度が過ぎた冷静沈着っぷりに、  
不本意ながら俺の怒りもたちまち萎えちまう。あまり認めたくはないが、これが人の上に立つ者の人心操作術という奴か。  
腕っ節と恫喝で部下を従えている俺には程遠い要素だ。  
「『闇高野』の名前は知ってるな?」  
「資料を読んだ程度にはな」  
 なぜ急にその名前が出るのかと訝しみながら、俺はこの部署に引き抜かれた際に渡された資料の中身を思い起こした。  
 
 『闇高野』――それは国内最強と称されている宗教系退魔組織だ。  
 名前の通り表向きは仏教系退魔組織の体裁を取っているが、  
その中身は様々な東洋系古代退魔技術をベースに独自の体系を組み込んだ、極めて実戦的な戦闘退魔集団だという。  
 まだ人類が文字を書くこともできなかった時代から、様々な魔物を退魔し続けていたその実績は凄まじく、  
こんな東洋のちっぽけな島国の一退魔組織に過ぎない存在でありながら、バチカン直属の『テンプラーズ』、  
イスラム圏最大の退魔組織『アズラエル・アイ』、仙人達の総本山『崑崙山』に並び称されているって話だ。  
 だが、それほどの歴史と格と実績を併せ持った退魔組織にもかかわらず、  
闇高野は常に数多くの人々から忌み嫌われていた存在だったらしい。  
それは、そのあまりにも優秀過ぎる退魔戦闘能力への不信と、一部の目撃談から浮上した噂からもたらされる物だった。  
 曰く――闇高野の退魔師は人間ではない。人間に姿を変えた魔物達が、自分の同族を狩っているのだ。  
 曰く――そのため、闇高野の退魔師は、人間と魔物双方から裏切り者と呼ばれている。  
 曰く――そうした退魔師の中でも特に力ある者は、“邪神”と呼ばれる超越存在の眷属で……  
 そんな噂を信じていたわけでもないだろうが、以前の超常現象特殊強行犯係も  
闇高野に捜査を依頼するのはかなり稀なケースだったようだ。  
基本的に報酬は寸志しか受け取らないらしいので、ガンガン依頼すればいいんじゃねぇかと個人的に思うが、  
やはり長年積み重なった疑惑の念は、ちょっとやそっとじゃ拭えないらしい。  
そんな事情もあってか、IMSOが例の技術を開発して以降は、  
闇高野は完全に俺達警察機構とは関わりのない存在となった。  
 ……いや、関わりのない存在となった筈だった。  
「お前には、その闇高野の退魔師と組んで事件を捜査してもらう」  
「はぁ?」  
 さすがに少しよろめいた。  
「なぜ今更あんなインチキ臭ぇ連中とつるまなきゃならねぇんだ?  
そもそもこの件にそうした魔物や超常の力は関与してないって話だろうが。  
何の意味があるんだオイ!?」  
 再び激昂する俺に対しても、五十鈴の眼鏡はいつもの冷たい光を返すだけだ。  
「だからこそ超常的な事件のプロと捜査して欲しいのだよ。この一件がある種の不可能犯罪である事を忘れたのか?」  
「…………」  
 言い方はムカつくが、中身はあながち的外れなわけじゃない。  
 魔法や超常の力を使っていない事件――しかし魔法や超常の力を使わなければ成り立たない事件。  
 そうした矛盾した事件を調査するには、複数の可能性を考慮して、双方向から調べるのがセオリーだ。  
 つまり『魔法を使わずに、魔法を使ったとしか思えないトリックを使った事件』であるケースと、  
『魔法を使ったが、どうにかしてその痕跡を完全に消した事件』であった場合にと。  
 あの嫌味眼鏡は、俺に後者のケースとして調査しろというわけか。  
 だが……  
 
「……だが、なぜ担当する捜査員が俺1人なんだ? 部下を取り上げる必要はないだろうが」  
「闇高野の方から指定してきたのだよ」  
「はぁ?」  
「闇高野がお前を名指しで選んだのだ。警察側の捜査官はお前1人だけでいいと。  
その条件さえ飲めば闇高野は全面的に調査に協力すると。おまけに捜査費用は闇高野側で持つとな」  
 もう一度俺はよろめいた。  
「理由がさっぱりわからねぇ……つい先日この部署に配属されたばかりの素人を指名するなんて、  
どんな了見だ!? いくら闇高野側が全面的に協力するといってもだな……」  
「全面的な協力といっても、あちらが送ってきたのは1人だけだがな」  
 今度は流石にずっこけた。  
「…………」  
「呆れて怒る気にもなれないといった態だな……そう腐るな。  
確かに送られてきた退魔師は1人だけだが、闇高野でも3本の指に入る凄腕だそうだ」  
「捜査員が2人だけで凄腕もクソもないだろ……」  
 ケツに付いた埃を叩き、Gショックが汚れなかったかチェックしながら、俺は何とか立ち上がった。  
正直あのままずっと床に伏していたい気分だったが。  
「資料によれば、その退魔師は闇高野退魔剣法を極めつくした伝説の剣士にして、  
同時に世界最高位の“風使い”らしい。  
闇高野でも最古参メンバーの1人で、その驚異的な戦闘能力は魔物すら凌駕するのではないかという噂だ」  
「どれも犯罪捜査には何の役にも立ちそうにねぇデータだなオイ」  
 五十鈴警視の言うとおり、もう怒る気にもなれねぇ。  
 本庁はこの事件を真面目に解決する気があるのか?  
「愚痴をこぼすのは勝手だが、もうこの件は決定事項だ。正式な命令だと思え」  
 まるで厄介払いをするかのように、五十鈴警視は無造作に指令書を手渡した。  
「で、その退魔師がそろそろ到着する時刻だ。一応は外部協力者だからな、正面門まで迎えに行けよ」  
 
「……クソ寒ぃ」  
 陰鬱な気分で外に出た俺を迎えてくれたのは、同じくらい陰鬱な冬の空と、身を切るような冷風だった。  
地球は温暖化している筈じゃなかったのか? と理不尽な考えが浮かぶくらい、今日は一段と寒い。  
ひゅぅるるるるる、と電線や枝先が立てる口笛みたいな音――虎落笛(もがりぶえ)が鳴り響く度に、  
俺は震えながらペラペラのコートの襟を寄せた。体脂肪率が5%を切っている俺にとって、この季節は実に辛い。  
「ふぅ……」  
 何十度目かの白い溜息が漏れる。  
 駐輪場に止まるパトカーを横目に、俺はとぼとぼと正面門に足を進めた。  
 なぜ俺があんなわけのわからん方法で事件を捜査しなきゃならないんだ?  
 自分が上司部下同僚と例外なく疎ましく思われているのは承知しているし、それを改めようとは微塵も思わないが、  
まさかこんな露骨な嫌がらせを受けるとは思わなかったぜ。どうせその退魔師とやらも――ん?  
 そういえば、俺はその退魔師の名前も外見も全然知らされてないぞ!?  
「それでどうやって迎えに行けっていうんだ……」  
 どうやら五十鈴警視の嫌味眼鏡も、あまり真面目に胡散臭い退魔師を相手にする気はないらしい。  
「……まぁ、どうせ退魔師って言うくらいだから、いかにも退魔師な感じの姿格好なんだろうが」  
 勝手にそう決めつつ、俺はやたらでかい正面門――完全に門を開放すれば、幅80mを超えるらしい――の脇に建てられた、  
対照的に小さな守衛の詰所の脇を抜けようとして――  
「ねぇねぇ、返してくださいよぉ……」  
「だめだめ、子供がこんな物を持ってちゃあ……」  
 その何ともノホホンとした言い争いの声を聞いた。  
「どうしたんだい、おやっさん」  
 俺は無遠慮に詰所の中に立ち入った。本音を言えば、あまりの寒さにちょっと暖を取りたくなったからだが。  
「よぉ緋硯」  
 シュンシュンと湯気を漏らす薬缶を載せた電気ストーブが何よりも魅力的な、狭苦しく雑然とした詰所の中で、  
顔馴染みのおやっさん――昔の上司で、定年退職した今はここで守衛をやっている――が  
白い顎鬚を綻ばせながら片手を上げた。その手に長さ80cmほどの無骨な杖が握られているのを見て、  
「おやっさん、また腰を悪くしたのか」と苦笑しかけたその時だった。  
「その杖がないと困るんでさぁ……」  
 おやっさんの背後から、その子がひょっこりと姿を見せたのは。  
 
 その瞬間――世界が止まった。  
 ここに断言しておく。  
 断じて、俺に幼児趣向の気はない。むしろ俺の好みは幼女とは正反対の属性だ。それは俺を知る誰もが認めている。  
「…………」  
 にもかかわらず、俺はその『少女』に完全に見惚れていた。  
 美しい。可愛い。愛らしい。可憐だ。綺麗だ。華麗だ――どんな美の形容を使えば、この少女を表現できるんだ?  
それができた者は世界一の詩人と称えられ、歴史にも名を残せるだろう。  
当然ながら俺のような無骨を絵に描いた男にそんな資格があるわけない。  
 ただ1つ確実に言えるのは、俺は今まで37年間生きていて、彼女ほど美しい少女を見た事が無いという事実。  
そしてこれからの人生で、彼女より美しい少女を見る事は決して無いだろうという絶対の確信だ。  
 年の頃は5〜6歳ぐらいだろうか。この時分に珍しい真紅の着物を藤色の帯で締めていた。  
星を散りばめた様な限りなく黒に近い紫色の髪は、肩口で綺麗に切り揃えられている。透き通るような乳白の肌。  
形の良い耳に小さな鼻。薄桃色の花弁を貼り付けたような薄い唇。抱き寄せればそのまま消えて無くなりそうな華奢な身体――  
全てのパーツが神の精度で完璧な美少女を完成させていた。  
もしも“それ”が無かったら、冗談抜きで俺はいつまでもその少女に見惚れ続けていたかもしれない。  
 “それ”とは、その少女のやや釣り目気味の大きな瞳だった。  
 その瞳には光が無かった。  
 ハイライトが完全に欠落した黒瞳は、それだけで少女が『盲目』である事を如実に語っていた。  
そして、その瞳の奇妙な存在感は、不思議な事にそれだけで少女の美しさを得体の知れない不気味さで覆い隠しているのだ。  
 あたかも猛毒を持つ美しい蛇が、その奇怪な目だけで己が危険な生物だと訴えているかのように。  
 
 はっと我に返った俺は、そこでようやく少女がおやっさんの周りをぐるぐる回りながら、  
頭上にかかげた杖に向かって不器用に手を伸ばしている理由に気付いた。  
「おいおやっさん、意地悪しないで杖を返してやれよ」  
 呆れた調子で俺はおやっさんに苦笑を向けた。盲人にとって杖は必需品だろう。  
少女が取り返そうと必死なのも当然だ。  
しかしあのおやっさんは、そんな子供っぽい真似をするような人じゃなかった筈だが……  
「いや、俺も好きで意地悪しているわけじゃねぇんだけどなぁ」  
 申し訳なさそうなおやっさんの空いた片手が杖の反対側を掴むと、  
あまり高価そうには見えない杖から白銀の輝きがあふれ出た。  
「おい、これは……」  
「そうだ、仕込み刀ってやつだな。  
さっき正面門を通ろうとしたお嬢ちゃんが、門の危険物探知センサーに引っかかったんだ」  
 映画や漫画では定番の隠し武器だが、実物を見るのは俺も初めてだ。  
杖の柄から真っ直ぐに伸びる薄手の刃は、それ自体が銀光を放つように妖しく輝いている……が、  
「やっぱり返してやりなよ、おやっさん」  
「おいおい、あんたも規則は知ってるだろ?  
許可無く敷地内に危険物を持ち込むのは禁止されて――」  
「危険物じゃねぇよ」  
 俺は無造作に仕込み杖の刀身を握り締めると、そのままぐいっと引き抜いた。  
何の抵抗も無く刃が掌に食い込みながら滑り抜ける。  
おやっさんの小さな悲鳴が聞こえたが、俺は何事も無かったようにウインクしながら掌を広げて見せた。  
「ありゃ?これは」  
「見ての通りさ」  
 自分でもごついと思う俺の掌には、うっすらと赤い筋が走っているだけだった。  
「模造刀だよこれは。紙も切れないこけ脅しだ」  
「なるほどねぇ……しかしよく見破れたもんだ」  
「職業柄かな」  
 地響きと共に大地が揺れたのはその時だった。  
断続的な振動と重量感のある轟音が立て続けに詰所を揺らし、  
慌てておやっさんが積み重ねられた書類の山を押さえる。  
「地震か――」  
「違うね、あれを見なよ」  
 
 おやっさんに促されて外を見ると、いつの間にか全開状態の正面門から、  
何台もの大型トラックが地響きを立てながら次々と敷地内に入っていくという、なかなか迫力のある光景が展開されていた。  
 しかし何より目を引いたのは、大型トラックそのものよりも、その荷台に積まれたデカブツだ。  
「あれは危険物にならないのかい」  
「危険物には違ぇねぇが、もうそっちの許可は得ているよ」  
 体長6mを超える巨大な金属製のゴリラとでも言うべきか。  
『Martense03型強化外骨格』――米軍払い下げの対大型魔物鎮圧用パワードスーツだ。  
そういえば今日5台ほど配備納入される予定だったな。  
「こんな漫画みたいなロボットを乗り回せるたぁ、俺がいた頃と比べて超常強行も出世したモンだねぇ」  
「金だけは無駄にある部署だからな。どうせ無人操縦で動かすんだろうが」  
「へぇ、人が乗らなくても動かせるのかい」  
「おやっさんがいた時代と違って、人工知能も随分進歩したんだよ」  
「ふぅん……何だか俺がガキの時分にあったゾイなんとかってオモチャに似ているねぇこいつ」  
「その辺はあまり突っ込まないでやってくれ」  
「んじゃ、ちょっと入門許可証をチェックしてくるわ。こういう物騒なモンの搬入手続きって面倒臭ぇんだよなぁ」  
「頑張りな」  
 かったるそうにトラックに向かうおやっさんを尻目に、  
例の退魔師とやらが来るまで茶でも飲もうと、ストーブ上の薬缶に顔を向けた――その時、  
「あらららら?」  
「!?」  
 さっきまでふらふらと危なっかしく俺とおやっさんの周りをうろついていた少女が、  
絶え間無く続く地響きによろめいたのか、沸騰する薬缶が載ったストーブに向かって、今にも倒れそうな事に気付いた。  
「危ねぇ!!」  
 叫ぶよりも先に体が勝手に動いていた。運の悪い事に、突進する俺と少女の間にストーブが置いてある。  
少女を受け止めるのは間に合わないと咄嗟に判断した俺は、  
スライディング気味に飛び込みながら、ストーブに横殴りの足払いを食らわせた。  
狙い違わず真横に吹っ飛ぶストーブが電気ストーブだったのは不幸中の幸いか。  
上に載っていた薬缶が派手にぶちまけられて、熱湯の飛沫をモロに浴びたが、  
これくらいで音を上げるほどヤワな身体はしていない。  
「きゃあ!」  
「ぬおっ!?」  
 だが、次に目の前に飛び込んできた光景には声を上げずにはいられなかった。ちくしょう。  
 
 一体どういう転び方をしたんだか、着物の裾を腰までめくり上げた大股開きの姿勢で、  
少女の股間がバックから俺様の顔面に直撃した。しかもご丁寧にもパンツをはいていないときたもんだ。  
いや、着物だからそれでいいのか? いわゆる69の体位で床に倒れた俺の視界一杯に、  
少女のスジや尻が広がっているわけだが、ロリコンのロの字も持ち合わせてない俺にとっては全然嬉しくもなんともない。  
あーションベン臭ぇ。  
「ふわぁ?なになになにが起こったんスかぁ?」  
「うぷっ、暴れるな嬢ちゃん」  
 状況が理解できてないらしい少女がジタバタ暴れる度に、顔面に押し付けられる股間に辟易しながら、  
俺は必死に起き上がろうとしていた。この状況はあらゆる意味で危険過ぎる。  
誰かに見られたら俺が今まで築いてきた社会的立場はオシマイだ――  
「……緋硯よぉ」  
 ……オシマイだ。  
「ちょっと見ないうちに、ずいぶんその子と深い仲になったもんだねぇ」  
「いや、これはだな……」  
 詰所の入り口から俺達を見下ろすおやっさんを、少女の股間越しに目撃してしまった俺は、  
慌てて誤解を解こうとして――おやっさんの背後に立つ“それ”も目撃した。  
「危ねぇ!!」  
 今度も叫ぶより先に体が動いた。少女を抱きかかえながら素早く起き上がり、おやっさんの腰めがけてタックルする。  
「ぬおぉ!?」  
「ふえぇ!?」  
 間一髪だった。  
 俺と少女が詰所から転がり出て、ついでにおやっさんをはね飛ばすと同時に、  
巨大な鋼の塊が小さな詰所を文字通り粉砕した。  
爆音に等しい破砕音と土煙が荒れ狂う中、完全に瓦礫と化した詰所の残骸の上に鎮座するのは、  
巨大な鋼の類人猿――Martense03型強化外骨格!?  
「痛ててて……な、なんだこりゃ!?」  
「ふわぁ……杖はまだ返してくれないんスかね」  
 緊張に強張るおやっさんと緊張感のない少女を背後にかばいつつ、俺は懐から拳銃を取り出した。  
ついさっきまでトラックで搬入されていたパワードスーツが勝手に起動して動き出し、あげくに襲いかかってきただと!!  
一体何が起こったんだ!?  
「な、何が起こったんだよ緋硯ぃ」  
「さっぱりわからねぇよ……だがな」  
 詰所を一撃で瓦礫と化したゴリラだけじゃない。  
いつのまにか残る4機のMartense03型強化外骨格までもが起動していて、俺達を完全に包囲していやがる。  
「俺達をミンチにしたがっているのは確かだと思うぜ」  
 残酷なくらい無機的な電子の瞳が5つ、まっすぐに俺達を見据えていた。  
何の警告もなく襲い掛かり、じりじりと包囲網を狭めてくる鋼の類人猿からは何の殺意も感じられない。  
それがかえって不気味だった。  
一体どこのどいつがこんな真似を? 誰かに命を狙われるような覚えは……色々あるな。  
だが魔物鎮圧用パワードスーツ5機がかりで襲いかかってくるような相手なんて見当も付かねぇ。  
「何の悪ふざけだ!!誰が操縦して――」  
 台詞すらまともに言わせてもらえずに、巨大な拳が叩きつけられた。間一髪でアスファルトの上を転がり避ける。  
その固いアスファルトが拳の一発でスポンジのように凹むのを見て、俺の心臓が早鐘と化した。  
「くそっ」  
 無駄だと思いつつ拳銃の引き金を引いたが、案の定強化外骨格の表面に火花を散らせただけだった。  
巨龍クラスの魔物との戦闘を想定して設計されたMartense03型の特殊装甲は、  
戦車砲の直撃にも傷1つ付かず、100年間放置してもサビ1つ浮かないという話だ。現状の装備じゃとてもかなう相手じゃなかった。  
かといって三十六計しようにも、こう完全に周りを囲まれては……くそっ、万事休すか?  
せめておやっさんとあの少女だけでも逃がせないか――うおっ!?  
 
「うおっ!?」  
 何の前振りもない横殴りの攻撃をかわせたのは99%偶然だ。  
だがはずみで無様に尻餅をついた俺にとっては、死神の手が瞼に触れるのを数秒ほど遅らせただけの事だった。  
鋼鉄の類人猿の豪腕が頭上に振り上げられるのを、俺は絶望的な心地で見つめていた。  
 
 ぱちん  
 
 だから、その豪腕が目の前でピタリと停止したのは幻覚だと思った。  
次の瞬間に鋼の腕が賽の目切りに分断されて、その破片が顔に当たってから初めて現実の光景だと気付いた。  
 
 ぐおおおおおお……  
 
 片腕を失ったパワードスーツが苦悶の叫びを漏らすのを、俺は確かに聞いた。  
 な、何が起こったんだ!?  
「すいませんねぇダンナ、勝手に杖を返してもらいましたぜ」  
 やたら爺むさい口調で俺に語りかけたのは、まるで石か草のように何の気配も立てずに静かに佇む、  
仕込み杖を手にした真紅の着物姿の少女だった。  
「お、おい……」  
「ダンナ、危ないから下がっていてくださいな」  
 そりゃ俺の台詞だと答える余裕もなく、隻腕の巨大な類人猿が少女に踊りかかる。  
 
 ぱちん  
 
 その脅威が見えないかのように――いや見えないんだろうが――ゆっくりとした動作で、少女は仕込み刀を杖に納めた。  
 そう、刀を抜いたんじゃない。刀を納めたんだ。  
 その恐るべき意味に気付いた瞬間――Martense03型強化外骨格は、四肢を細切れに切断されて、  
外部装甲が粉微塵となり、誰もいないコックピットブロックが剥き出しとなった内部機関を無様に晒す鉄屑と化した……  
「ありゃ、中に人間さんはいないんですかい」  
「……ああ……無人操縦らしい……」  
 達人技を通り越した神技、魔技とさえ称せる居合い術を披露した気概なんて欠片も見せない、  
春の野原を散歩しているように静かに微笑む少女に生返事で答えながら、俺は五十鈴警視の言葉を思い出していた。  
 
 ――その退魔師は闇高野退魔剣法を極めつくした伝説の剣士にして――  
 
「じゃあ、こっちの方が手っ取り早いですかねぇ」  
 少女が僅かに唇を尖らせた。その幼い容姿にそぐわない妖艶な唇から漏れたのは――虎落笛だった。  
 真冬の冷風が枝先や電線を吹き抜ける時、  
ひゅうひゅうぴゅるるると鳴くあの寂しげな笛の音――虎落笛。  
 四方を囲む鋼の類人猿達は、その物悲しい調べに殉じたのかもしれない。  
 100年間放置してもサビ1つ浮かないと称される、Martense03型の特殊装甲。  
 だが、もし、100億年間放置した場合はどうなる?  
 眼前に広がる光景が回答だった。  
 刹那にも満たない刻――特殊装甲が、いやMartense03型強化外骨格そのものが  
瞬時に錆びた粉塵と化して、真冬の風に吹かれて灰色の空に消えていくのを、俺は呆然と見つめていた。  
 
 ――世界最高位の“風使い”らしい――  
 
 おい……冗談だろ……  
 まさか、あのチンチクリンが――!?  
「やれやれ、最近は何かと物騒ですなァ」  
 一瞬にして4機のMartense03型強化外骨格を“風化”させた幼い少女は、  
盲人特有のどこかぎこちない動作で、傍らで腰を抜かして茫然自失しているおやっさんに肩を貸していた。  
 
 ――闇高野でも最古参メンバーの1人で、  
その驚異的な戦闘能力は魔物すら凌駕するのではないかという噂だ――  
 
 手首のGショックが妙に熱い。  
 顔の痕を撫でる手の震えが止まらない。  
「ええと……挨拶が遅れちまいましたが……緋硯 鯨人(ひすずり げいと)さんですね」  
 真紅の着物を身にまとい、盲人用の杖をついた少女の、  
細く、小さな、か弱い、そして恐るべき掌が差し出された。  
「初めまして。闇高野退魔師“G”と申します」  
 その『盲目のもの』は静かに微笑んだ。  
 
 虎落笛が鳴いた。  
 
 
続く  
 

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