僕が妹の姫百合と一緒に引っ越してきたその小さな村は、何かがおかしかった。
決して日が昇ることがなく、まるで時が止まってしまったかのように永遠に満月が照らす世界。
そこは、人間でないものたちが暮らす世界だった。
「山小屋の掃除?」
「うん。村長さんがお願いしますって」
朝ごはんの卵を炒めながら、姫百合は僕に背中を向けたままそう続けた。
「山って…案山子山かな?」
「あそこしかこの辺には山なんてないでしょ」
「………」
村長さんにはとてもお世話になっている。
僕らの暮らすこのログハウスをくれたのは村長さんだ。
しかも僕らは一週間前に引っ越してきたばかりだ。こんなに早いうちから恩人の頼みを断るというのはどう考えても良くない。
それに案山子山というのはこの村の隅にある傾斜も緩やかな小さな山のことである。
別に登るのもそんなに苦ではない。
なにも問題はないはず。
だけど…なんだろう…なにか不安がある。
「はいお兄ちゃん」
と、姫百合が僕の分の朝食を持ってきてくれた。
それを食べているうちに、漠然とした不安はどこかに消えてしまった。
窓からは綺麗な満月が見えた。雲ひとつない、清々しい"朝"であった。
「やっぱりすごいなぁ…」
家を出てすぐ、向かいにある三メートルほどの高さのあるでっかい金魚鉢を見て思わずつぶやいてしまう。
隣接したキノコ型の薬屋とあいまって、独特の奇妙な趣がある。
このままいつまでも見ていてもいいのだけど、残念だが今日の僕には目的がある。
いつまでも呆けてはいられないのだ。
「あれー、ひーくんどこ行くの?」
歩き出そうとしたところで、金魚鉢のほうからの能天気な声に呼び止められた。
鉢から身を乗り出して、人魚のみなもさんが手を振っていた。
鉢の近くまで行って答える。
「案山子山の小屋を掃除しに行くんですよ」
「ふ〜んそれじゃ今日は遊べないの?」
童話の人魚姫さながらに魅力的な彼女からの誘いは嬉しいが、残念だけど今日は掃除をしなければならない。
ごめんなさいと断ると、
「うん。またいつか遊ぼうね〜」
そう笑顔で告げて、ポシャン――と人魚は水の中へ消えていった。
「ふーん。楽しそうね…伊達クン…」
「うひゃっ!」
魔女のラセフィアさんに突然耳元で話しかけられ、僕は驚いて情けない声をあげてしまう。
「そんなに驚かなくてもいいでしょ…」
「いきなりあんなことされれば誰だって驚きますよ…」
「あんな魚女相手に楽しそうにしてるからよ」
よく分からないけど僕が悪いらしい。
ラセフィアさんは金魚鉢に隣接した薬屋の主人であるが、何かとみなもさんと仲が悪いようだ。それは一週間という短い期間の間でもよく分かった。
「でも…いくらびっくりしても男の子がそんな声出したら駄目でしょ…」
つつ……とラセフィアさんが僕の頬を撫でながら妖艶な笑みを浮かべる。
「え…や…その…それは…」
「そんなことだと食べられちゃうよ…」
僕の胸に指でのの字を書きながら、そんなことを言い出す。
…こ…これは…誘われている!?
「行くんでしょ?案山子山」
まぁ誘われてるわけないわな…
「ええ…そうですけど…」
何で知っているんだろうとは言わなかった。
「じゃあこれをあげる」
ラセフィアさんは懐から毒々しい色の液体の入った小さなビンを取り出すと、僕のポケットに入れてくれた。
「え…でも…いいんですか?」
「いいのよ…伊達クンだもの…」
そう言いながら、ラセフィアさんはどこへともなく歩いていった。
その姿をボーっと見送りながら、
「……そういえば…食べられるってどういうことだろう…」
朝食前に感じた不安が、より確かなものになって蘇っていることに気が付いた。