パシャはぱちりと目を開けた。  
 次いで二、三度瞬いて周囲へ意識を巡らせる。  
 四方はひらひらと薄い布で囲まれ、消毒薬のつんとした臭いが鼻をついた。  
 戦から帰還するたびにここへ世話になるのは、前衛を任される彼女にとって避けられないことだ。  
 この刺激臭も慣れたものだった。  
 
「──」  
「──」  
 話し声が耳に届き、記憶にあるその二人へそっと耳をそばだてた。  
 
「たぶん痺れ毒は…コカの亜種の一つだ。後遺症はないと思う。細かい傷の手当はキオに任せるよ」  
「おー。慣れたもんだからな。……にしてもあいつには気の毒だったか」  
「……そりゃまあ、皆少しはパシャを見る目を変えるとは思うけど、キオの機転があったしな。  
 かえって、もっと人気出るんじゃん?」  
「そりゃ周りの反応だろーが。俺が言ってるのはパシャの気持ちだよ。  
 本人が隠したいものを抉り出されて、ましてや同情なんかもらったところで虚しいだけだろーよ」  
 
 二人の会話が自分のことだと分かり、パシャの傷痕がぴりりと引き攣れる。  
 
「へいへい。おアツイことで」  
「てめっ」  
「…《不屈》で強化されてない拳が効くかよ。薬はこんなもんだな」  
「ルッファもくれ。眠れた方がいーだろ」  
「んじゃ、いつものところから一束新しいの、出しといていいから」  
「あいよ」  
「一応安静にさせといてな……俺イヤだからな、ヘンな臭い染み付いた敷布洗うの」  
「チタラ…。俺を何だと思ってるわけ?」  
「ご主人様に好かれ過ぎてて、どう見ても困ってるようには見えないヒト」  
「《脱水》させるぞ、コラ」  
「あー、嘘ウソ。この齢でまだ干からびたくないわ」  
「口ン中だけ《脱水》とかもできんだぜ……」  
「おー怖。……んじゃちょっとウナワルタ団長んとこ診てくる。まだ頭痛いらしい」  
「了解。もう若くねーんだから暴れんなってオヤジに言っとけ」  
「そのまま伝えてやるよ。またあとで」  
 
 そして仕切りを翻し、釣られて揺れた鈴の音が残る。  
 足音が一人分遠ざかって行った。  
 医務室にはパシャともう一人の気配が残される。  
「キオ?」  
 思い切って声をかけてみた。  
 
「お。目さめたかよ」  
 声の主が近付き、寝台を囲む布の隙間から金色の海栗頭を覗かせた。  
 七千を数えるピコン砦と言えども──先の戦でいくらか数を減らしてはいるが、  
 こんな変わった髪型をしているのは一人のヒトしかいない。  
「キオ…一体どうなった?」  
「……そりゃかなり答えにくいな。たくさんありすぎてよ。…あ、とりあえず起きられるか?」  
「ん」  
 パシャは肘を突いて上体を起こし、キオもどこからか小さな椅子を持ってきて寝台の傍らに腰を下ろす。  
 手馴れた様子で治療道具を広げると、  
 乳鉢を左手に持ち、中に入っている粘性のある液体へ粉末を次々と混ぜていく。  
 パシャも無言でその鮮やかな手つきを見ていた。  
「すまない」  
 やがて、それとは気付かないほど小さく唇を震わせた。  
「……なんで謝んだよ」  
 調合し終わった薬液を湿布に塗っていたキオはぶっきらぼうに口を尖らせる。  
「キオが何だか不機嫌そうだから。……不甲斐なくて、すまない」  
「当たり前だ」  
 そしてキオは腰を浮かし、寝台へ身を起こしている彼女へ乗り出した。  
「心配ぐらいさせろ。ちっとあっち向け」  
 言葉遣いは荒っぽいがそれを真正面に受け取るほど、キオに対して無理解ではない。  
 素直に彼が湿布を当てやすいように三本の赤い線が走る右の頬を向ける。  
 すぐにひやりとした気持ちよさが覆い、それをさらに被せるようにキオの温かさも触れた。  
「傷の軽い重いじゃねーぞ」  
 少し言葉が足りないとでも思ったのだろうか、キオは続ける。  
 湿布の上から左手をあてがい、じぃと彼女を見つめる。  
「パシャが傷つきゃ、傷つけやがったクソ野郎にいらつきもする。キゲンも悪くなるさ」  
 そうして再び左用の湿布を作り始めた。  
 
「私は負けた」  
「だから?」  
 パシャは食い下がった。  
 キオの気持ちは分かるが、しくしくと胸が疼く。  
 それに彼の腕を何重にも巻く白い包帯が目に入ってもいた。  
 おぼろげにだが覚えている。オグマの戦爪が食い込んだはずだ。  
「だから……情けない戦いをしてすまない。弱い主人で、キオに迷惑をかけて、すまない」  
「言いたいことはそれだけか」  
 作業を止めたキオが睨みつける。  
「それは俺に謝ることじゃねーだろ。心ン中にいる自分にそーすりゃいいことだ」  
 遠慮のない口調はかすかな怒りを滲ませながら、パシャの立ち上がった山吹色の耳を打った。  
「俺はこーしてパシャの傍にいる。なのに主人に失望した風に俺のことを言うな」  
 同時にキオの怒りはパシャの心の内を強かに鐘打つ。  
 弾かれたように「分かった」と答え、口を閉じて項垂れた。  
 そして顔を上げたときには、キオは既に湿布をもう一枚作り終わっていた。  
「……」  
「……」  
 二人は視線を交わし、お互いに何をするべきかを窺う。  
 パシャは左の頬を差し出し、キオは先程と同じく湿布を反対側にあてがった。  
「毒をなくす薬と、代謝を早くする薬が混ぜてある。それとこれ、よく眠れる薬だから。これ水な」  
 さらに緑色の小粒と水筒を押し付けた。  
「今晩ぐっすり寝て、明日起きれば大丈夫だろ」  
 
 にい、と。  
 そこでキオは柔らかく微笑んだ。  
 
 (……そこで笑うのは、ダメだ)  
 キオにたしなめられて少し怯んだところに、この優しさなのだ。  
 ひび割れに染み込む清水のように何かが彼女の心に行き渡る。  
 (他人は私を『ハチドリ』と呼ぶけれど)  
 強さは多分にして、この優しいヒトに支えられているのだと思う。  
 キオこそが【クェンチィ】の安心できる唯一の宿り木。  
 羽を休め、羽毛を繕い、採ってきた蜜で喉を潤す──  
「キオ……」  
 だからこの金髪の従者に、礼を存分にしたいといつも思う。  
 けれども彼女は、自らの心を上手に表現するには不器用すぎた。  
 彼の言い分を借りれば「素直すぎて言葉が回らない」なのだそうだ。  
 ……となると、軍人としての行き方しか知らないパシャは、報いる手段を一つしか持てないでいる。  
「抱いて…?」  
 本来ならば「抱いてもいい」という許可が妥当なのだろうが、  
 素直な唇は、心の内を正しく読み取ってパシャ本来の希望を言葉に出してしまう。  
 
「だめだ。安静にしてろ」  
 答えは素っ気ない拒絶だった。  
 だがパシャは、彼が少しだけ躊躇った様子を見せたことに満足する。  
「抱いて、欲しい」  
 聞き分けのないフリをしてみる。  
「お前さんはいつも唐突だな」  
「そんなことはない」  
「あ?」  
「私は寝てた時から、キオのことを考えてた」  
「そりゃ、パシャの理屈だろー……」  
 彼の表情はとても複雑だ。  
 その裏で色々なことを考えているに違いない。  
「……良くねーことがあったから、感傷的になってるだけだ」  
「そう?」  
 パシャは可笑しい。  
 先程キオは自分のことを勝手に決め付けるな、と言ったはずなのに、  
 その舌の根が乾かないうちに自分でパシャの心を決め付けている。  
 おそらくそれを指摘したとしても、キオは憮然とした顔で、  
 「俺のことはいーんだよ」そう言うだろう。  
 
「でもよ」  
 そう言って、キオは椅子から寝台の上に体を移した。  
 自然な様子でパシャの肩に手を回すと、ぐいと引き寄せ唇同士を触れ合わせた。  
「いい女放っとくほど、俺は贅沢じゃねーよ……」  
「…ん」  
 薬くさいことを除けば、優しくて甘い唇づけ。  
 パシャは陶然としてそれに酔った。  
「事後処理やら何やらで忙しいだろ。夜にまた来るから……それまで大人しく寝て待ってろ」  
「……ん、分かった」  
 キオはパシャに誘眠薬を飲むように言い、  
 それが終わると抱きかかえた肩を引いて、毛布も次いで引き上げた。  
 
 パシャもされるがままに身体を横たえる。  
 枕に頭を預けた途端、ちらりと安らかな眠気を覚えて浅く息を吐いた。  
 すると、計ったように向こうで呼び鈴が聞こえる。  
「じゃ、行ってくるぜ」  
「ありがとう、キオ」  
 しかし彼はその場を動かない。  
 仰向けのパシャに顔を近づけながら、じっと瞳を見据える。  
「キオ?」  
 黒く濡れたまっすぐな光に戸惑うと、  
「俺もありがとうだ、パシャ」  
 キオはぐりぐりと黄黒二色の髪をかき回し、  
「生きて帰ってくれて、ありがとうだ」  
 再び唇を重ね合わせた。  
 
 
   §   §   §  
 
 
  ──一面の火の海、炎の大波。  
                ──もうもうと立ち込める白煙と黒煙。  
      ──出口一つ無い、狭苦しい室内。  
 
 パシャの意識の深くに刻まれた火炎は消えることはない。  
(珍しいことも、ある……)  
 しかし、日中に二度も炎夢を見ることは今までになかった。  
 なぜだろうと思う間もなく、答えが示された。  
 
 ──そしてそこに、力なく座り込む女性。  
 
 今回の夢はやや様子を違えていた。  
 火の海の中で往生しているのは彼女自身で、その姿も今とそう変わらない。  
(これは…私の記憶……思い出……)  
 一生のうちで二度も大火事に巻き込まれるのは不運としか言いようがないが、  
(キオと出会えた、その日)  
 そのおかげで現在の従者を得ることができたのだ。  
 パシャに限ってだけは幸運と言えるかもしれない。  
 
 
 
 三年前のある日の夜、もう少し経てば空が白けるその刻。  
 パシャが詰めていた砦は一斉に炎に包まれた。  
 草刈衆から奪ったその砦は卑劣にも、時間をおいて発動する種類の罠が仕掛けられていたらしかった。  
 密林の国らしく、キンサンティンスーユ付近では火攻めは好まれない。  
 生い茂る木々は隣人にも等しく、伐採するにもきちんと管理し、神々に祈りを捧げてから切らせて頂くのだ。  
 そのことを考えれば、木の生命力をひどく劣化させるような火を大規模に用いることは、  
 非難の対象となるべきだと理解できるだろう。  
 しかし賊軍は密林の民の基本すら忘れ、罠を残していった。  
 自分たちの砦を奪った官軍の一網打尽を狙ったのだった。  
 
 賊軍の躊躇ない撤退を怪しんでいた近隣の味方部隊がほどよく伏せていたため、  
 
 火攻めから連なる夜襲は逃れたが、火災によって命を失った者は思いの外多かった。  
 パシャも間違いなくその内の一人となっていただろう──彼が『落ちて』来なかったならば。  
 
 
 
 業火が最も勢いを増していたその時、パシャの意識は朦朧としていた。  
 煙を大量に吸い込んだからだ。  
 また、それだけではない。  
 炎に対する純度の高い恐怖は身体を戒め、すくんだような手足はかくかくと震えて使い物にならない。  
 部屋の隅に座り込みながら、呆然と、緩慢と死を受け入れなければならない、と。  
 彼女はそう、覚悟していた。  
 
 "ドシャッ"  
 
 盛大で騒がしく、重い音が落ちてきた。  
 上の階から人間が落下してきたらしい。  
 膝を上手く使って着地した彼は、損害もないようですっくと立ち上がった。  
 そのいでたちにパシャは驚いた。  
 彼の身に着けているものは、官軍の誰とも一致しない。  
 勿論、賊のそれでもない、まったくの見たことのない服だ。  
 荒天時用の合羽に似た形で銀一色。  
 火炎が舐める天井を突き抜けてきたというのに全く燃えていなかった。  
 金属であれば炙られても燃えないだろうが、彼の着る服は柔軟性があり、金属鎧であろうはずがない。  
 
 立ち上がった彼はきょろきょろと慌しく頭を動かし、何かを探しているようだ。  
 そしてパシャの胡乱な視線と彼のそれが絡み合う。  
 すると一瞬の間を置いて彼は何事か叫びだし、頭を抱えた。  
 パシャが覚えている分には、その叫びは罵声のようだった。  
 その様子はまるで迷い苦しんでいるようで、おそらく罵声は自分に対する苛立ち。  
 彼女は直感した。  
 彼は一時の迷いを、その一瞬だけ持て余していた。  
 
 最後に一つ声を荒げ、パシャに近付く。  
 邪魔な木材と家具を次々と持ち上げ──それでも燃えない──道を開け、  
「もう、大丈夫だ」  
 面頬に覆われた仮面が初めて言葉を口にした。  
 パシャが頷くこともできずに見上げていると、その銀色に覆われた両手で彼女を抱きかかえた。  
 そして豪快に振り向き、炎の中を突っ切って足早に進む。  
 
 パシャはただ目を閉じて、彼に任せた。  
 「もう、大丈夫だ」その言葉に、このような状況だというのにひどく安らいだ。  
 いや、安らぐような気分と、得体の知れない興奮のような小波が混じったような。  
 もし身体が自由に動けていたならば、まず間違いなく彼の首を腕を回して抱きついていただろう。  
 極限状況の錯覚かもしれない。  
 それでも、初めて見るはずのこの男に不思議と信頼を溢れさせていた。  
 
 
 
 真っ暗な視界の中で不規則な方向転換が続いた後、パシャは豪快に地面へ投げ出された。  
 驚いて目を開けると、そこはもう何も燃えていなかった。  
 
 夜明けの薄明かりに轟々と砦が燃え上がっているのが向こうに見えるだけだ。  
 次いで、どさり、と音をたててもう一人が投げ落とされた。  
 彼はパシャの他にも、逃げ遅れた女性を一人運び出していたのだ。  
 
 彼女は同じく砦に配属されていた侍女で、名を確かクク・ロカと言った。  
 助かってしまったことをパシャと同じく目を丸くして驚いていた。  
「くそっ……待ってろ、よぉ…」  
 銀色の彼はそんなことを呟きながら、ふらふらと振り返る。  
 その方向は今にも燃え落ちそうな砦。  
 頼りない足取りで、一歩、また一歩と足を進め始めた。  
 彼はまた炎の中へ飛び込むつもりなのか、パシャは戦慄する。  
「死ぬ…つもり?」  
 隣の侍女も同じような感想を持ったのだろう。  
「やめるんだっ……」  
「やめなさいっ!」  
 二人で顔を見合わせると、銀色の鎧を両側から抑えこんでいた。  
「っ、るせーっ!」  
 屈強そうに見えたが、二人の人間を抱えてこの場所まで来たのだ。  
 彼は女二人を振り払うほどの体力を残してはいなかった。  
 引き込まれるように三人は尻餅をついた。  
「まだ、まだ!…残ってっ……!」  
 しかし、二人はその衝撃に手を離してしまい、彼は再び立ち上がった。  
「っそぉ…」  
 そのまま泳ぐように歩き始めたその時だった。  
 ──最後の一線が轟音とともに切断され、砦が崩壊した。  
 
「ぁ…ぁ……ぁ?」  
 銀色の彼は歩みをようやく止め、口からはぶつぶつと何事かが洩れている。  
 同色の兜をむしり取り、ごとりと地面に落とす。  
 汗濡れた黒髪──彼がもつ、元々の髪の色──が湯気を立てて飛び出した。  
「あ……ああ…あ、ぁああ!……」  
 声は次第に大きくなっていたが、糸が切れた人形のように両膝を落とし、両腕は力なく垂れ下がる。  
 そして──  
 
 
    『 唖――――――――――――――――!!! 』  
 
 
 晴れ渡った夜明けの空に遠く長く尾を引くように、彼は力の限り咆哮した。  
 
 畏怖――  
 パシャがそう感じたときにはもう、一粒の涙が頬を伝っていた。  
 隣を見ればクク・ロカもまた同様、だった。  
 
 
 
 パシャが彼と再会したのは三日後だった。  
 あの後意識を失った銀色の戦士は、あの大火からの生存者たちと同じように近くの砦に収容されていた。  
 ようやく身を落ち着け、クク・ロカ侍女と連れ立って彼を見舞った。  
 医務室の粗末な寝台に寝かされていた彼に、二人は思わずはっと息を飲む。  
 
 体のあちこちに打ち身をつくり、包帯を巻かれている。  
 そしてその包帯が両眼をきつく覆っているその痛々しさもあるが、  
「ヒト……」  
 パシャはヒトというものを初めて見た。  
 肌にはまったく毛がなく、白い地肌が広がっている。  
 髭は顔の下半分にまばらに伸びてはいたが──無精髭と言うらしい──  
 頬からピンと長く細く生えているわけではない。  
 鼻や口は、つるつるに磨いた姿見で見るパシャ自身の形のまま。  
 極めつけは、その耳と思われるものの形の奇妙さだった。  
 複雑に捻れて顔の横についている。  
「目を損なったのですか?」  
 傍らのクク・ロカがヒトに付き添っている衛生兵に問いかける。  
「そうではありません。  
 彼が私の姿を見たら驚くでしょうから、目を開ける前にこちらの事情を知ってもらった方が良いかと」  
 収容先の砦付き医務主任である、オセロット族の男性が丁寧な口調で答えた。  
「そ…そうですか」  
 彼女は返答もそこそこに、雄のヒトをしげしげと観察し始めた。  
 パシャも彼女にならって彼を見つめる。  
 
「そろそろ、こいつ取ってくれないッスか?」  
 と、包帯の上から顔をつるりと撫でながら、ヒトが言葉を発した。  
 その声音に『もう、大丈夫だ』あの日の彼の声を重ね、パシャの胸は高鳴った。  
「男がどんな顔してても関係ねー。女が俺の世界の女とそー変わんねーならそれでいいさ」  
 そして、へへっ、と下品とも取れる笑い声が零れた。  
 パシャがある予感に駆られて顔を上げると、案の定、クク・ロカ侍女はその童顔を歪めていた。  
 彼女はひどく男嫌いで有名だ。  
 興味を嫌悪感が上回ったようだ。  
「あんたたち美人なんだってな。年齢も近いっぽいし。得したってもんだ」  
「……不潔ね、あなた」  
 火に油を注いだ彼に、クク・ロカは思い切り蔑んだ。  
 
「私は彼の目を見て、礼を言いたい。包帯を頼めるだろうか」  
「頼ンます」  
 パシャは慌てて医務主任にとりなすが、ヒトの彼はクク・ロカの痛烈な言葉に堪えた様子もない。  
 大物なのか、単なる鈍感なのか、パシャは何やら可笑しい。  
 彼とたっぷり話をしてみたい、漠然とそう感じた。  
 
 
 
「ゆっくり目を開けて、眩しさに徐々に目を慣らして」  
「ういッス」  
 ヒトの彼は起き上がり、既に包帯は解かれている。  
 パシャとクク・ロカも寝台の隣に置かれた椅子に腰を下ろし、彼の目が開くのを待ち受けていた。  
 男嫌いの彼女は憮然とした表情だが去ろうとはしなかった。  
 嫌悪感を礼儀で押さえつけているといった趣きだ。  
 一方のパシャはまんざらでもない。  
 珍しく頬にはわずかに血を昇らせ、ヒトの目が意思を宿す瞬間を期待している。  
「楽しみにしてるぜ……」  
 そして俯いたまま数度瞬かせた後、彼は迷いなく顔を上げた。  
「俺はツキオミ。キオって呼んでくれていいぜ」  
 
 パシャの想像した通りの目をしていた。  
 不適そうな強い光がまっすぐに見つめてくる。  
 ただ、隣の侍女にも目を移した後、オセロット族の衛生兵を見て大げさに驚いた。  
 パシャは思わず吹き出していた、それはもう、随分と久しぶりに。  
 
 それから、キオはパシャとクク・ロカの二人が預かることになった。  
 パシャが主人で、クク・ロカが副主人というように。  
 落ちてきたヒトは通常……身分の高い者へと献上されるのだが、キオの落ちてきた場所が悪かった。  
 軍隊という特殊な環境では守秘義務というものが発生する。  
 一般人がいてはならないのだ。  
 それも火災から逃げ遅れた人間を二名も救助するという非常に目立つことをしたのならば、尚更だ。  
 そこで軍上層部では、  
 「日付を遡ってキオが入隊していた事」「さらに従者が二人の主人を救ったに過ぎなかった事」  
 を強調し、二人にキオの主人になるべく通告した。  
 
 
   §   §   §  
 
 
「ホントに、そんな顔の男ばっかなんだな」  
「怖いか、ヒト」  
「いんや。よく見りゃ愛嬌のある顔してるぜ。それと俺はキオだ」  
「それなら、キオ。  
 今日は二人を助けたお前の勇気を讃える宴であると同時に、  
 あの卑劣な火災で命を落とした、儂らの同僚の魂に杯を献じる宴でもある。どんどん呑め」  
「あー、もしかして目上じゃないッスか? 見た目じゃ分かんなくて、えーっと……」  
「んむ。儂はウナワルタだ。一応将軍と呼ばれる立場ではある。  
 だが……今日は無礼講だ。堅苦しい礼儀などは取っ払え」  
「んじゃ、遠慮なく。……元いた世界では消防士だった。助けられなかったヤツらへの礼儀も心得てる。  
 どんなヤツらだったか……俺にも想像できるように教えてくれ」  
「ふむ、話は長いぞ?」  
「この酒はうまい、いくらでも呑めるぜ」  
「よし、キオ。儂はお前が気に入った。儂の元へ来ぬか?」  
「冗談だろー。美人二人のご主人サマから、色気ねーおっさんに鞍替えなんかしねーよ?」  
「ぬはは、それもそうだな……それではここへ座れ」  
 
 パシャはあっという間に場に溶け込んでしまったキオを横目に見ながら、他の兵士たちと杯を献じている。  
 彼らはパシャが口下手なのを知っているから、それほど話しかけてこない。  
 おかげでゆっくりと酒を嗜むことができる。あまり酒に強いわけではないのだ。  
 周囲を見渡すと、あの侍女の姿は既にない。  
 最初の一杯だけを付き合い、  
 「自室で偉大な魂たちに祈る」とでも言って早々に宴から抜け出したに違いない。  
 しかしその裏では、むさ苦しい男だらけの場にいたくなかっただけだろう。  
 
 ふと、開始早々ウナワルタ守将と酒を酌み交わしていたキオの卓へ、新たに二人が加わっていた。  
 若い彼らともすぐ意気投合したらしく、キオは会話内容に合わせた表情でチチャ酒をあおっている。  
 その顔は先程パシャと二人きりだった時の、ひどく真剣で切羽詰った表情とはまるで違っていた。  
 
 
 
「ご主人サマって呼んだらいーか?」  
「ん、パシャで。あとは時と場を考えて」  
「おう」  
 パシャは臨時に手配されていた部屋にキオを誘った。  
 例の火災で守備隊が半壊してしまったため、いずれ早いうちにどこかの砦へ追加配属されるだろう。  
 それまでに色々とキオに説明しておく必要があった。  
 パシャ自身が一体何者で、軍内でどのような役割を担っているかということについてや、  
 キオに課せられる予定の軍務についてだ。  
 クク・ロカにも同席してもらうように言ったのだが、素っ気無く断られてしまった。  
 「副」主人であることを強調して、彼女は過度の干渉を嫌ったのだった。  
 早い話、パシャはキオの処遇を押し付けられた。  
 
 元々この部屋は仮眠室らしく、簡易寝台が二つ備え付けられていた。  
 成ったばかりの主従二人はそれぞれ寝台の端に腰かけ、向かい合う。  
「どーにも腑に落ちねーことがある。一つ聞く」  
「……何?」  
 逆に彼の方から話しかけられた。  
 唐突に口調が厳しくなっている。  
 何から話し出そうと思い巡らせていたパシャは、その眼光に一瞬気圧された。  
「あの部屋に落ちてきたのは俺だけか?」  
 今までのあっけらかんとした調子は既にどこにもない。  
「そう」  
「ホントだな」  
「嘘を言っても、何の得にもならない」  
 すると、キオは目に見えて明らかに、生気を失ったような顔をした。  
「事情を話して」  
 パシャの唇は自然と動いた。  
 言った後で、はっとする。自分の行動なのに、予想外だった。  
 他人を気遣おうとすること自体、あまりなかった。  
 ただ、キオが悲しそうで、パシャはそれが彼らしくないと感じた。  
 言い淀んだ彼に追い討ちをかける。  
「私は主人」  
「…わかった。実は──」  
 
 キオの話すことによれば、落ちた日のあの時──  
 元いた世界で彼は、地震によって発生した火災から逃げ遅れた人々を助け出す作業をしていたらしい。  
 そしてそれを職業としていることも語った。  
 その極めて似通った状況に口を挟もうとしたが、キオは遮る。  
「助けようとした目の前で、俺の弟がふっと消えた。沈むように消えたんだ」  
 振り分けられた救助活動先で、その燃える建物の中になんと肉親がいた。  
 "要救助者に隊員の肉親がいたならば、彼もしくは彼女を救助するのは最後"という決まり事で、  
 ようやくキオが弟の元にたどり着いたときは、かなりの勢いで火災が進行していた。  
 そして必死に手を伸ばして近づくと、横たわっていた彼は泥沼に沈み込むように消えたらしい。  
「この世界にヒトが『落ちる』ってんなら俺の弟も絶対『落ちて』きてるはずだ。  
 パシャ見ただろ……見たって、言えよっ!」  
 そして踏み込んだキオも彼の弟と同じく『落ちた』というわけだ。  
 これでキオがパシャを担ぎ上げる前に、なぜか苦しんでいたような様子も理解できた。  
 キオは弟を探していたが、その前に、新たな要救助者を発見してしまったから──  
 助けられそうだった弟を置いて行かねばならなくなったから──  
 
「キオ、落ち着いて」  
「落ち着いてられっかよ、これがぁ!」  
 キオは立ち上がって激昂する。  
 顔全体が怒りに紅潮し、話すうちにこみ上がった感情を抑え切れなくて、口元がぴくぴくと引き攣っている。  
 その色を綺麗だと、パシャはこの場にそぐわない思いを抱いた。  
「キオの弟さんを私は見なかった」  
「だったら──」  
「多分!」  
 パシャは声を高めてキオを押し止めた。  
 (さっきは彼をかばって、声を出して笑って、今度は大声を出して──)  
 急に人間くさくなったものだと、内心で苦笑した。  
「……多分、弟さんがこっちの世界の何処かに『落ちて』るのは確か」  
 宥めるようにキオの両手を引く。  
「じゃあ、どっかで助かってるんだな」  
 急激に硬さが抜けたキオは促されるままに、今まで座っていた寝台に腰を下ろす。  
「そうも言えない」  
 しかし、気休めでも嘘を言うことをパシャは好まない。  
「何だと?」  
「誰か人間のいるところに『落ちる』とは限らない。人里離れたところで野垂れ死ぬかもしれない」  
「てめぇっ!」  
 キオは飛び上がって詰め寄り、彼女の襟元を乱暴につかんだ。  
 しかしパシャは全く動じる様子を見せなかった。  
 冷酷に、いきり立つ視線を受け止める。  
「んな簡単に、人の弟を死ぬとかぬかすなっ!」  
「例え人間に拾われたとしても他の国に『落ちた』ら大変。奴隷商人に売り飛ばされる。可哀想だけど、現実」  
 
 
 キオは急に立ち上がり出口へと向かう。  
「……だったら弟を探しに行く。すまねーがご主人サマごっこもこれまでだ。  
 介抱してもらった恩もあるが、俺もパシャを助けてやったってことでひとつ頼むわ」  
「ふざけないで」  
 それを許すわけがない。  
 奇妙な縁だとは思うが、幸運にも拾われた彼をむざむざと死なせたくはない。  
 素早く彼の身に着ける衣服をつかむと、元いた寝台の上に投げつける。  
 さらにパシャは彼の上に滑らかに圧し掛かる。  
 キオも跳ね除けようとするが、  
「ヒトの力は弱い、雄と言っても」  
 ジャガー族の圧力に、手も足も出ない。  
「ここから逃げ出してどうするの?」  
「どーにかすんに決まってだろ!」  
 (ああ、やはり……)  
 冷静にキオを見据える。  
 炎の中から自分やクク・ロカを助け出し、人間離れした印象を抱いていたが、  
 彼もやはり同じような思考を持つ人間なのだ、と。  
 焦りもすれば、冷静になり切れず感情に任せた行動を取ろうとする。  
 しかしそれに失望したというわけではなく、一層親近感を強めただけだ。  
「地図は? お金は? どうやって身を守る?」  
「くそっ、放せよ!」  
「この通り、ヒトは弱い。奴隷扱いされるにはそれだけの理由がある」  
「……」  
 組み伏せられた彼はばたつかせていた手足を止め、力を抜いた。  
「だったら、弟のことを放ったらかしにして! ご主人様ごっこしてればいいってのかよっ」  
 それでもキオの眼光が消えることはなかった。  
 少し気紛れを起こせば触れ合ってしまいそうなほど近距離で、二人は見詰め合う。  
 
 仮眠室にはしばらく沈黙が居座っていたが、  
「一つ提案」  
「んだよ」  
 その間にパシャはあることを思いついていた。  
 良い考えだとすら感じられる。  
「私はあと五年、兵役を務めれば休暇を得る資格ができる」  
「……」  
 おかしな話になったものだ、とパシャは思う。  
 けれども、どうにか激情を抑えこもうとしているこの男は、勇者の素質を持っている。  
 キオが身に着けていた銀色の鎧は非常に燃えにくい材質で作られているらしいと聞いてはいたが、  
 キンサンティンスーユの民の誰が、あの服を着て火炎の中に飛び込めるだろう。  
 パシャほどではないにしても炎に対する恐怖は、密林の民の心に潜在的にある。  
 弱いはずのヒトが誰にも成し得ないことをやってのける。  
 だから、主従の壁を越えて従者のために尽くすことに何の躊躇いも生まれない。  
「それまでキオが従者になってくれれば、その休暇を使って、弟さんを探しに協力してもいい」  
 何も生み出せず、失うだけの人生。  
 そして敵にいつか斬られる運命、それだけの一生。  
 その下らない生き方に、キオの弟を救うという使命があれば、  
 この世で命を永らえたその意味もきっと、少しは見出せるだろう。  
 パシャは考えるだけでなく言葉に出すことで、その思いが強くなっていくのを感じていた。  
 
 
   §   §   §  
 
 
 キオはパシャの従者となることに渋々ながら首を縦にした。  
 他に有効な手段を見つけられるまでの繋ぎという条件だったが。  
 まずはこの世界に慣れることが重要だと、冷静になったらしかった。  
 数日後、ウナワルタ将軍を始めとした生存者全員がピコン砦の増築に伴って編入されることが伝えられた。  
 機動部隊としての部隊運用力に定評のあるウナワルタ将軍の力が買われたからだ。  
 それに合わせて元いた将軍は逆に防砦組織力を認められ、前線にあるほかの砦に転じたらしい。  
 
 同じくパシャは斬込隊の一隊を任され、クク・ロカも中衛司令補佐の一人に昇格した。  
 一方ヒトであるキオは衛生兵として数えられた。  
 無力だからといって、日々を無為に過ごさせるほど甘くはない。  
 配属当初、物珍しいキオへ皆の視線が集まった。  
 しかし彼は持ち前の陽気さで途端に打ち解けた。  
 キオを連れて砦内を歩くたび、すれ違う兵士たちが好意的に彼へ挨拶する。  
 
 
 
 時には砦内の広場で、細々とした空き時間中に得物の扱い方を教えてもらったりするのだ。  
 パシャはいつも中庭にある切り株を椅子代わりにしながら、頬杖をついて様子を眺めることにしていた。  
 初めのうちは監督するのも主人の役目だろうと、彼女なりに不慣れな立場をこなしていただけだった。  
 
 しかし、次第にそうでもなくなってきた。  
 キオを見ていると、楽しい。  
 
「深くすんな! 数突け、浅くだ!」  
 パシャの視界で目まぐるしく動くうちの一人は、赤銅色の体毛をしたピューマ戦士。  
 左手を仰々しい包帯で吊りながらも、右手に構えた手槍で鮮やかに軌跡を描く。  
「……!」  
 もう一人は訓練を必死でこなすキオの姿だった。  
 汗でびしょ濡れた上衣は既に脱ぎ捨てている。  
 両手持ちの長槍を、荒っぽく呼吸しながら突き出す。  
 しかし布の巻きつけられた先端は軽々と跳ね上げられる。  
「槍先奪られたら負けだろうが!」  
 ピューマ戦士の手槍が一転して、最小距離でキオの額を小突く。  
 同じように穂先の代わりに布が詰められた手槍だったが、仰け反ったキオの額は腫れたように赤く染まる。  
 
「話にならんな」  
「……ん? 何か言った?」  
 パシャはキオの様子をただ何となしに眺めていたので、観客がもう一人いることをすっかり失念していた。  
 ヒトは体毛を持たないので、通常その下に隠れているはずの筋肉のうねりが直接的に見える。  
 運動に上気した白い肌につい見惚れていた。  
「話にならん、と言った」  
 パシャの傍らでどっしりと胡坐をかいているのは、錆びた鉄色をしたジャガー族の男性だ。  
 彼女の同僚で、斬込隊長同士知らない顔ではない。  
 むしろ親しいと言える。  
 キオの相手をしているピューマ族の上司で、上司が部下の様子を見に来たというわけだ。  
「でも、ユパ。キオは全てにおいて「話にならない」と?」  
「むうん……パシャの言いたいことも分かるが」  
「彼は"目"がいい」  
「ただ、筋肉の伸縮がまったく間に合わん」  
 
 熟成された戦士の見極めはパシャのそれと合致していた。  
 一対一で向かい合い、先に仕掛けられたとしよう。  
 相手の初動から視覚情報を受け取り、その攻撃を避けるか受け止めるか捌くかを判断し、行動に移す。  
 傍観者二人が見る分には、キオは視覚情報を処理する速度が素晴らしい。  
 一方で行動に移すために必要な、筋肉の動きが「素晴らしいまでに遅い」。  
 "目"で得た利を、のろのろとした"行動"で全て使い果たし、逆に負債を背負うほどだ。  
 
 見るとキオはまだ座り込んだままだった。  
 何事か呟いたようで、手にした長槍をピューマの彼に投げつける。  
 しかし、彼は回転する柄を自分の持つ手槍ごと楽々と掴み取ると、キオの頭を手加減しながら叩く。  
「キオの負け、な。食券五枚忘れるなよ?」  
 叩き続ける。  
「しかし、ちょいとましな槍も使い物にならなかったなぁ?」  
 ついには、石突の部分で黒髪の分け目をごりごりと擦り上げた。  
「ハゲんだろーが! サキトハてめー調子こきやがってっ!」  
 怒り心頭に達したキオが長槍をつかもうと両手を振り上げるが、  
 サキトハと呼ばれた男は既に木の棒を撤退させている。  
「あれぇ? あれあれぇ?」  
 座ったまま両手を振り上げて、なんとも情けない格好でぷるぷると震えるキオに、  
 サキトハが揶揄して追い討ちをかける。  
 
「サキトハ。てめーは俺を怒らせた」  
「で?」  
「一発殴らせろっ」  
 
「バカどもが。子供か……」  
「……いいと思う。仲良い証拠」  
 キオがサキトハに飛び掛り、飛び掛られた方は簡単に突進を避ける。  
 ピューマ族の彼がキオの指導を提案したのは、  
 左腕が今も無事に肩から生えているその恩義も少なからずあるだろう。  
 
 ピコン砦に着任したばかりの時、賊とのちょっとした小競り合いが発生した。  
 そこでサキトハはある事故から左腕に深傷を負い、キオがそれに応急処置を施した。  
 技術として、ひどい出血には止血帯を用いるのだが、周期的に止血帯を弛め血流を再開させなければならない。  
 しかし、きつく縛った結び目を解き、再び縛るという作業はかなりの時間を有することだった。  
 時間の浪費は体組織の死を意味する。  
 告生司祭のもとに運び込んだ時に修復不可能であれば悲劇で済まない。  
 《治癒》の奇跡でも限界がある。《完治》の奇跡は高位の司祭に限られるからだ。  
 
 そこでキオはヒトの世界の知識を効果的に実践し、血流の確保を短時間で成し遂げた。  
 短い枝を使って結び目の固さを自在に操るその技は、  
 搬送時間も同じく短縮し、おかげでサキトハの左手は切断を免れた。  
 それ以来療養中のサキトハとキオは親交を持ち、この場に至っている。  
 
「俺だけ年寄りにするつもりか」  
「……ふ。ユパは苦労人」  
 体中に鉄鎖を巻きつけたジャガー族の彼は自分の目を疑った。  
 ピコン砦で偶然再会はしたが、  
 国内にある養成所で見知っていた彼女は冷笑すら浮かべない無感情に近い人物だった。  
 それが注意深く見ればと言う条件がつくが、顔を少しだけ綻ばせた。  
「パシャ…」  
「ん?」  
「……すまん、何も……ああ、キオは今何をしている?」  
 二人が見る向こうで、キオがサキトハに殴りかかっていた。  
 二つの拳を顎の前に引き上げ、軽快に動き回っている。  
「拳闘。元いた世界でそういう闘い方を少し齧ったらしい」  
「拳に拠って闘う、か。心意気は買うが――」  
 言い終わらないうちにサキトハが、突き出された拳をあっさりといなした。  
 そしてすかさず、作ったばかりの額の赤い斑点へと手槍の先を正確に合わせた。  
「――むう。動きの組み立て具合は、まだまともだが」  
「あれは、今晩にも痣確定」  
「……そのようだ」  
 額を押さえて悶絶するキオに、サキトハは再び黒髪へ石突の部分を擦り付けている。  
 彼の嫌がることが大好きなようだ。  
 
「……ふ、ふふ」  
 隣のユパがちらちらと盗み見てくるのも構わず、パシャは笑みを洩らした。  
 言いにくそうにしていたのも、自分の変化であろうと推測していた。  
 この砦には彼以外にも軍養成所時代の同期が生き残っていて、さながら同窓会のような様を呈していた。  
 「星の456期生」と呼ばれた猛者揃い──  
 ジャグゥスーユに大きく構える軍養成所では、今もその華々しい武勇伝が語られているらしい。  
 
 そして、その同期生たちは不躾にもパシャが随分と笑えるようになったと冷やかすのが、照れくさかった。  
 それを否定する気持ちは彼女にはない。  
 当然かもしれないとさえ思うほどだ。  
 
 ……それについての根拠らしいものもある。  
 幼い頃出くわした、両親と子を産む機能を奪った火事以来、  
 平均して三日に一度見ていた悪夢を見なくなったからだ。  
 正しくは、見慣れた夢の中にキオと思われる銀色の救い主が現れるようになったからだが。  
 キオには何度感謝してもし足りないと思う。  
 あの恐怖は鳴りを潜め、すっきりと安心するような目覚めを迎えていれば、  
 憂鬱さを隠すための無感情さとは無縁でいられるだろう。  
 もっとも、顔の筋肉は動かないことに慣れ親しんでしまうくらい怠けたままだ。  
 可笑しいことがあっても、ちょっぴりと寝返りをうつ程度しか動いてくれない。  
 
 
 
 ふと、ユパがいつまでも落ち着かない様子を続けていた。  
「しかし、なんだ」  
 この曖昧な物言いは、若いながらも貫禄を見せる第三斬込隊隊長としての彼らしくない。  
 そのうろつく視線の先をたどる。  
「これ? キオが、こうした方がいいって」  
 パシャは足首から膝上までを覆う、濃紺をした筒状の脚貫を摘んで見せた。  
 
 布製のそれは、軍衣の一部を改良したものだ。  
 正式なそれは腰に巻く布と二本の筒状になった布を、下半身の形に合うようにまとめた衣服だ。  
 キオの防火服の下衣も同じような形をしていた。  
 がさつく皮製の脛当てや膝当てから肌を守るためとはいえ、この暑苦しい軍衣は女性兵士に不評だった。  
 そこでキオが助言したのが、太腿の上部で、腰の部分と脚の部分を切り分けてしまうことだった。  
 そうすることでくつろぎたい自室などでは脚だけを取り外してのびのびとできる。  
 わざわざ穿き替える必要がない。  
 
 また、最近キンサンティンスーユで流行りつつある、女性用の短い丈の腰布と相性が良かった。  
 ひらひらした軽めの生地でできたそれは、動くたびに風に揺れて可愛らしいと評判だ。  
 この戦地でも流行は例外ではない。着てみたいと思う女性兵士も多いはずだ。  
 ……しかし、それは脚部の大部分がむき出しで軍規に合わない。  
 そこで地肌が見える箇所に、切り離した軍衣の脚部分を穿く、という発想になった。  
 
 奇抜な発想をしたキオはさらに、なぜか腰布と脚部分の間を厳密に測り、  
 地肌を少しだけ見せるようにこだわった。  
 この肌の見える部分を「絶対領域」と言うらしい。  
「むう……うう…」  
 ユパはパシャの狭い褐色の部分を特に見ていた。  
(何、この男。照れている?)  
 そう思った瞬間、パシャは閃いた。  
(……もしかして)  
 キオの「絶対領域」という物々しい言い方に、ヒトならではの知恵かと思っていたが、そうではないらしい。  
 これが世の男性が好むという、  
 「見えそうで見えない極意」とか「ちらりと垣間見える隙間の極意」とか言うものだ、と。  
(キオ……)  
 教えてくれた時の彼の何とも楽しそうな表情を思い出して、頭が痛くなる。  
 
 彼が喜んでいるのに純粋に嬉しさを感じ、怪しむこともなかった。  
 この服装は気に入っているから別にやめるつもりはないが、キオには後でゆっくりと説明してもらおう。  
 既にサキトハに苛められている彼にはとても申し訳ないが――  
 とりあえず腹いせに、無遠慮に凝視し続けるユパの両眼に山吹色の尾を力いっぱい叩きつけた。  
 
 
   §   §   §  
 
 
 またある時――会話の端々に夏至大祭についての話題が上るようになった頃。  
 ピコン砦内でも、太陽神を祝福する祭りをささやかながら行おうと、  
 パシャの他数人の女性兵士が飾り付けの準備をしていた。  
 そこに、水気で体毛を撫でつけた体へ、大き目の布をぶら下げた兵士の集団が寄って来た。  
「パシャ。パシャ!」  
 彼女の名を呼ぶのは一人のオセロットだった。  
 彼も456期生出身で、今は撹乱を得意とする隊に所属している。  
 その彼が珍しく興奮気味にがなりたてる。  
「水練場で今いいもんやっからよう! 見に行ってみい!」  
 美しく優美な曲線を描く尻尾の先から滴を垂らしている様子からすると、訓練から帰ってきたばかりだろう。  
 パシャは周りの女性たちと顔を見合わせた。  
 
 男たちは男たちで、戦地ゆえに参加できない本国の夏至大祭の気分を味わおうと、  
 砦と目と鼻の先にある支流で泳いでいるらしい。  
 その国民的な感謝祭では毎年、定例行事として大規模な水泳大会が催されている。  
 そこで優秀な成績を修めるのは大変な栄誉だ。  
 何といっても各集落から代表者を一名選出し、全国民が注目する。  
 さらに皇后も天覧するとあれば、誰でも奮い立つだろう。  
 
「どうだろう?」  
 パシャは一緒に作業していた女たちに聞いてみた。  
 キオに謀られた例の服装がもとで彼女たちと仲良くさせてもらっている。  
「ちょっとぐらいなら……ってもう! サッリェさん行っちゃったし……」  
 詳しく聞く間もなく、微かに若葉色の体毛を持つ小兵は体を拭きながら立ち去っていた。  
 結局、好奇心のままにパシャたちは川べりに移動した。  
 
 
 
 そこはかなりの人だかりで、水に濡れた兵士たちがひしめいている。  
「少し、いい?」  
 パシャは手近な兵士の肩を叩き、「いいもの」を聞いてみようとしたのだが、  
「ご主人様のお着きだ!」  
 彼は声高に叫び、人だかりが一斉に振り向く。  
「審判! 少し合図待て!」  
「パシャが来たんかぁ。場所空けてやれなぁ!」  
 妙な雰囲気に明らかに怯む女たちを余所に、兵士の集団は真ん中からぱくりと割れた。  
 河川周辺の様子がはっきりとわかる。  
 さらに促されて近くまで寄ると、そこには見知ったヒトがいた。  
 
「よっ。ご主人サマ」  
「キオ!」  
 
 急遽作られた飛び込み台の上で、白い半裸の姿が手首やら足首やらをぶらぶらとほぐしていた。  
 他にも十人ほどがキオと同じく泳ぐ準備をしていた。  
(また、キオは……)  
 パシャは内心、溜息をついた。彼はいつもこうだ、と。  
 興味を持ったことには何にでも首を突っ込む性格のようだった。  
 それでいて別に飽きっぽいというわけでもないのでいいとは思うのだが、どうしてもヒトは劣る。  
 危なっかしくて彼女は気が気ではない。  
 
 さらにこの頃になると、キオを道化【カニチュ】のように扱う人々が増えてきた。  
 当初は仲が良い証拠と笑っていられたパシャだったが、それが頻繁になると目に余る。  
 キオはヒトだが、人にからかわれるために存在しているのではない。  
 それが面白くない。  
「キオ、泳ぐの?」  
「見ての通りだなー」  
 おそらくサッリェの言う「いいもの」とは、パシャの従者が泳ぐその様。  
 まさか溺れるのを面白がるというほど悪趣味ではないだろうから、彼は泳げるのだろう。  
 となると、キオの泳ぎ方が滑稽であるか、ひどく遅いかのどちらかだ。  
 カニチュは観客に笑われるから、道化。  
 
「私も泳ぐ」  
 
 パシャは問い詰めたい。  
 キオがあの火災の時に何をしてのけたか知っているのか、と。  
 確かに武芸はてんで使い物にならないし、軍人らしい強さとはかけ離れている。  
 それでも命を救い、助ける時の勇気は誰にも負けないはずだ。  
 ……だから、キオを貶ようとする輩は許さない。  
 
 
 
「ちょっと、パシャ。落ち着いて――」  
「心配いらない。私は落ち着いている」  
 女友達の声もパシャの耳には入らない。  
 装備を次々と外して彼女に持つように押し付ける。  
 耳を疑い、彼女の変わった提案に驚いた男たちも、展開が飲み込めるとがやがやと騒ぎ出した。  
 小波のように情報は集団に伝わり、状況を詳しく見ようと木に登って客席を確保する者もいる。  
 
 夏至大祭において泳ぐのは男女ともだが、きちんと性別に分かれて記録会は行われる。  
 平均記録は男性の方が肉体的有利を活かして僅かに速い。  
 パシャも女性の例外には洩れないだろう。  
 どうしても男性には勝てないはずだと全員が思った。  
 負けると分かっている勝負に、わざわざ参加するパシャは何を思うのだろうか。  
 
「おおおっ!」  
 軍衣の脚部分が取り払われ、伸びやかな脚線美が露になると、俄然騒ぎが大きくなった。  
 好色そうな口笛が吹き鳴らされているほどだ。  
「ちょっ、パシャ。下着見えるぞ……」  
「知らない。見たいなら見れば」  
 小声で注意するキオも、主人の公開脱衣に戸惑う。  
 みるみるうちに、喉元の上まで覆う袖のないぴったりとした上衣と、ひらひらした腰布のみの服装になった。  
 薄い生地は彼女の胸を窮屈そうに押し込めている。  
 
 次に山吹色に黒色の筋がいくつも走る、肩までの髪を紐で束ねると、  
 「うなじの色気」を知る密林の民たちは一様にごくりと喉を鳴らした。  
「審判、キオの隣でいい?」  
 誰もがパシャの言うことに逆らわない。  
 キオの右側に並ぶ選手たちは一個ずつ右にずれて、席を譲った。  
 
「おーい、どうしたんだー、パシャー、らしくないぞー」  
 パシャの心の内を知らないキオは声を潜ませて、隣に立つ主人の顔を窺う。  
「私はキオの主人」  
「いや……それはそーだろーけどさ」  
 パシャは自覚していなかったが、ぎらつく瞳の光は従者を明らかに怯えさせていた。  
「用意ぃ【ウィプハル】!」  
 審判の声が響き渡っても、一向に観客は黙らなかった。  
「用意っつってんだ!」  
 五度目の「用意」に審判が怒号を上げると、どっと笑い声が起こり、その後ようやく話し声は収まっていった。  
 
「ウィプハル!」  
 パシャは足先に指先をつける、柔軟体操のような「用意」の姿勢をとる。  
 尻尾で隠そうにも丸見えな下着は無理やりに意識の外に押し出す。  
 この胸に残る傷跡が露になることに比べれば、物の数ではない。  
 
 女性であるパシャが到底勝てるものではないと、とうに理解している。  
 終わりから二つの席次を主従で独占してしまうことも。  
 しかし主人が無責任に傍観して、キオだけを道化にしてしまうよりは格段に良いはずだ。  
(キオだけを笑いものにはさせない)  
 パシャをむきにさせているのは、まさにそれだった。  
 劣るヒトを笑うのは、彼の主人でもある自分をも笑うことだと知らしめてやりたい。  
 ハチドリ【クェンチィ】は決して、同胞を無下にしない。  
 
 
 
「飛べッッ【オクハル】!」  
 
 号砲一発。  
 打ち鳴らされた鐘の音に、ケモノたちが一斉に飛び込み台を蹴りつけた。  
 巨大投槍器【ヤトゥン・チュナム】から放たれた大槍の如く飛び出していく。  
 この蹴り足の強さ、即ち飛距離を稼げるのが男性の強みだった。  
 パシャも女性ゆえに男性よりも早く投射の頂点を過ぎ、水面へ落下する姿勢をとる。  
 そして背後の様子が見えてくると、予想通りの状況が見て取れた。  
 
 案の定キオの蹴り足は弱い。  
 パシャはまだ水面に届くまで距離があるというのに、出遅れたキオは水飛沫を上げて着水していた。  
 一時遅れてパシャも同じく着水する。  
 ざぶんと深く潜ると、気持ちいい冷たさがパシャの全身を流れていく。  
 手と足をかき回して頼りない水の抵抗を押しのける。  
 そして前方で白い泡の塊がいくつも出現し、男性兵士たちも飛行から潜行へと状態を移行させていく。  
 
 そして――  
 
 パシャの傍らをもの凄い速度で物体が通過して行った。  
 
 彼女は一瞬、それを水中で生活するという白百足かと見間違えた。  
 しかしその実際は、  
(キ、キオ!)  
 白百足にしては巨大すぎる。  
 信じられないことに、パシャの従者が細い白肌を波打たせて突っ込んで行った。  
 その泳法はキンサンティンスーユに一般的なものではなかった。  
 手足で水をかくことで前へ進むのが水泳の基本。  
 それなのに、ヒトは風に靡く一枚の旗のようにうねりながら前へ前へと泳いでいく。  
 
「ふあっ!」  
 パシャは急いで水面に顔を出す。  
 まだキオは浮上してきていない。  
 パシャは水上に首から上のみを浮かべ、水中の四本ある動力を全力で回転させつつ、  
 従者の出現を今かと待つ。  
 白い身体が浮かび上がったのはそれからさらに後。  
 先行する男性兵士たちがすべて水上に顔を出してからだった。  
(ああっ)  
 パシャの驚きは一人だけのものではなかった。  
 確認しようもないが、確信は持てる。  
 水をかき回して進む全員が、大げさに水飛沫を立てて「先頭」を泳ぐヒトに顔を向けていた。  
 
 顔は水上に、それ以下は水面下に。  
 常にそれを保って泳ぐのが、密林の民が経験上学んだ泳法だった。  
 しかし――他の運動ではすべて劣っていたはずのヒトの泳ぎ方は秀逸だった。  
 顔は水面につけている。  
 必要な呼吸は左右に顔を振り、水上に口元を出すことで可能にしている。  
 さらに頭の動きに合わせて両腕が半円を空中に描くように、交互に飛び出ている。  
 両足はといえばこれも交互にばたつかせて、盛んに水飛沫と水泡を生み出している。  
 
 不思議なこともあるものだ。  
 だが別にそれほど驚くことではないだろう。  
 キンサンティンスーユの民が得意なこともあれば、ヒトの得意なこともあっておかしくはない。  
(よし! そういうこと!)  
 キオの泳法が速いのならば、体の構造が近いパシャにも可能だろう。  
 鋭敏な戦士である彼女の洞察力は速く泳ぐための機構を素早く察知していた。  
 
 泳ぐための四本ある櫂は半分ほど空中に出すことで、水の抵抗を減らしている。  
 そして広い空間を得た腕と脚は大きな力を生む。  
 回転数の上がった動力は自ずと速力に繋がるはず――  
 気を抜けば笑い出してしまいたいような気分が、パシャの全身を包んでいた。  
 キオの動きを少し真似ただけで倍以上の速力が出る。  
(何より、身体が軽い!)  
 水と空気の違いは分かっていたつもりだが、実感してみるとかなりの規模だった。  
 呆然とキオを見送る他の選手たちの脇を同じように水飛沫を上げたパシャが轟然と抜き去る。  
 
 パシャの目の前に折り返しの川岸が見えてきた。  
 キオは既に手が届きそうなほど岸に近い。  
 そして、再びキオの妙技が偶然前方を見ていたパシャの目の前で起こる。  
 岸の直前でぐるりと前方回転を行うと、足の裏を岸壁につけ、  
 うずくまるように折りたたまれた膝の反動を利用して白百足のように潜行していく。  
 
 横回転ではなく、縦回転にすることもまた発想の転換だった。  
 首から上を沈めないパシャたちには思いもつかない。  
 彼女の卓越した運動神経はキオの折り返しを正確になぞるが、自分の動きに彼女自身が違和を感じていた。  
 確かに、速い。  
 だからこそ速い自分に驚きを隠せない。  
 前進する速度をそのまま縦回転への動力と換え、足裏で岩肌を捉えると全力で蹴りつけた。  
 
 ジャガーの脚力と肺活量は主従の差をかなり縮めていた。  
 パシャが前方を確認せずとも、キオの両脚が生み出す白い泡が真横に少しだけ見える。  
 次第に二人の耳に、観客が上げる声援が色濃く聞こえてきた。  
 誰にも予想しえなかった順位でキオとパシャが競り合う。  
 この時点になると、パシャの頭の中には唯一つがあった。  
 自分の認めたキオが他人に軽んじられるのを反発する気持ちは朝靄のように、既に消えている。  
 前を行くキオを捉える、より速く――それは純粋に勝負を楽しむ気持ち。  
 
 やがて、左右に首を振って泳ぐパシャの視界に、暴れるキオの下半身が並んだ――と思った刹那、  
 突然彼の足がふいと消える。  
 それに驚く間もなく、  
「――――!!!!」  
 ごつん、という衝撃がパシャの頭を襲った。  
 (痛い……)  
 つい「殴ったのは誰だ」と思ってしまい、水中に深く潜りながらパシャは赤面した。  
 キオとの勝負に熱中するあまり終着点を確認していなかった。  
 間抜けと言われても反論できない。  
 パシャは終わりの岸壁に思い切り頭をぶつけてしまったのだった。  
 
 その音は大きく鳴り、当然観客たちも気付いているだろう。  
 (は、恥ずかしい……)  
 パシャは恐る恐る浮上した。  
「おかえり。ご主人サマ」  
 浮き上がるときに分かってはいたが、水を通すのと通さないのでは大違いだった。  
 川べりは大歓声に包まれている。  
 それでも、パシャの従者の声はしっかりと耳に届いた。  
 既に水中から上がっていた彼は座り込み、浮かんできた主人に手を差し伸べている。  
「ははっ! この俺がキンサンティンスーユで一番速いんだってよ!」  
 水時計が指す目盛りの値と、周辺を飛び交う「新記録」という単語がそれを証明している。  
 キオは本当に嬉しそうだ。  
 パシャは素直に手を取った。  
「それっ!」  
 大げさに掛け声を上げて、キオは主人を引き上げた。  
「そんでパシャが女で一番速いってことだ。おめっとさん」  
 続いてパシャは、肩から厚手の大きい布をかけられた。  
 さすがに激情が去った後ではこの格好は恥ずかしいものだったから、キオの好意がありがたい。  
「いや、しかし焦った。パシャの追い上げすげーんだもんよ」  
「キオのおかげ」  
「あ? ……ああ、もしかして俺の見て途中から真似ッコしたわけ?」  
「ん」  
「それ、普通にパシャの方が速いってことじゃねーか……」  
 どうやらキオは最初から勝算があったらしい。  
 ヒトの泳法の方が速いという情報がきっと前からあったのだ。  
 
「だってよー。お前ら完全に『イヌカキ』だしな。勝てんに決まってんだろ」  
「空を飛ぶみたいだった。身体がすごく軽かった」  
 身体の線を流れていく水の感触をつい思い出し、パシャの口調も僅かに熱くなる。  
 ……サッリェはたまたまキオが泳ぐのを見ていて、この偶発的な競泳に出るように言ったのだろう。  
 「いいもの」とは、従者の活躍を間近で応援してやれというような、彼なりの気遣いだった。  
 もっともパシャまでも出場するとは思っていなかっただろうが。  
「サッリェ……」  
 オセロットの彼にもできないことはなかっただろうが、一本気質なサッリェらしい。  
 他人の手柄を掠めるような人物ではない。  
 それとは逆に、  
 (自分は果たしてどうだったろうか……)  
 自問すれば答えはすぐに出た。  
「私は、恥ずかしい」  
 パシャは小さく独白する。  
 
 『私は、恥ずかしい』   
 その声は小さかったがはっきりとキオたちに届いた。  
 親しい仲間たちでじゃれ合っていたが、談笑を止めて全員がはっと振り向く。  
 パシャは肩にかけられた白い外套を翻していた。  
 一瞬だけ見えた横顔は少しだけ、憂い顔。  
 視線を下に落とし、うつむくような彼女はまるで「らしく」なかった。  
 男たちの注目を受け止めて堂々と服を脱ぎ散らした彼女とかみ合わない。  
 去りつつある彼女の後ろで揺れる山吹色の尾が垂れ下がっているのは、  
 水を吸って重くなっているから、というだけではないだろう。  
「……」  
 ほぼ全員が顔を見合わせて惑う中で、キオだけがじっとパシャを見送っていた。  
 
 
 
 ――その後は随分と気の早いお祭り騒ぎが続いた。  
 誰もが試したいと競泳に参加し、キオは参加できない者からの質問攻めにあった。  
 順応性の高い戦士たちはそれこそ水を得た魚のように泳ぎまくる。  
 そしてキオの出した新記録はキンサンティンスーユの民によって次々と塗り替えられはしたが、  
 確かにこの日、キオは革命者だった。  
 また、この革命には二つの後日談がある。  
 ヒトの泳法に野心を持ち「本国の夏至大祭にどうしても参加して記録を残したい」というものが百人を越え、  
 ウナワルタ守将によって大目玉を食ったこと――  
 水練の一種として取り入れられた技は戦士たちによって磨き上げられ、  
 ヨリコテ砦の救援をそもそも成功させた、濁流を泳ぎきるという非常に大きな戦果をもたらしたこと――  
 

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