§   §   § 
 
 
 呼び鈴に招かれ、捻れた金髪をもつヒトが医務室から顔を出した。 
 入り口の垂れ幕をひょいと引き上げ、辺りを見回す。 
「おー、誰かと思ったらルッカか」 
 にい、と陽気な笑いの下から、彼だけが呼ぶ愛称。そこには彼のもう一人の主人が待ち受けていた。 
 パシャを正主人とするなら、彼女はいわば副主人。 
 そして高位の侍女であると同時にキオの師でもある、クク・ロカだった。 
 甘柿色の編み込んだお下げをちびちびと弄りつつ、顔を伏せていたクク・ロカだが、当の従者が現れるときっと眉を険しくさせた。 
「いたら悪かったかしら?」 
 その童顔よりの可愛らしい目鼻立ちのせいで、子供が拗ねているようにしか見えない。 
「そうね、パシャと二人きりだったものね」 
「ま、確かに」 
 それからしばらく二人は見つめ合っていたが、ふい、とクク・ロカが先に立った。 
 頭の後ろで束ねられたお下げが歩みに合わせて左右に揺れる。 
 
 キオも足早に彼女の横に追いつく。 
「言っとくけど、今昼間だから、な?」 
 その弁解に、 
「へえぇ? ほおぉ? ふぅん? ……どうだか」 
 彼女はまったく取り合わない。しかしちらりと彼に視線だけを移すと、わずかにふっと頬をゆるませた。 
 自分より頭一つ低いクク・ロカの変化に、キオは気付かない。 
 例えたまたま下を見ていたとしても、その特徴的な髪型に目が引かれてしまうだろう。 
 この主従三人が詰めている、ピコン砦の兵士たちが影で呼ぶ「海老の尾」に。(今では、ほんの少しだけ愛称に近づいたが) 
 和らいだとはいえクク・ロカは男嫌いの気配を持つし、面と向かってそう評したらどのような奇跡が飛んでくるか知れない。 
 月神ママキヤの武具召喚奇跡《欠月》の一刀か、接射か、はたまたキオ譲りの素手喧嘩か。 
 「海老の尾」という影のあだ名には、触れれば劇的に反応する水棲生物の様子と、 
 迂闊につっついたら火の如く怒るクク・ロカの短気さがかけられている。 
 
「将軍方がアナタを呼んでるわ」 
 クク・ロカは従者を探しに来た理由を歩きながらに話し始めた。 
「やっぱりか」 
「お気楽ね。けど、分かっていて? アナタがヨリコテ砦の放棄を、無断で賊に保障してしまったこと。 
 決定権なんて欠片もないのに。砦が奪われるなんて、何十年ぶりかしら、ね?」 
 クク・ロカの口調は穏やか。しかしその穏やかさがキオには恐ろしい。できることなら、歩みを逆に転進したい。 
 確かめるまでもなく、彼女はぷりぷりと怒っているではないか、と。 
「キオ。アナタには煽動の疑いがかかってるの。副主人のわたしの身を、考えて?」 
 一応キオだって悪びれてはいるのだが、クク・ロカも共犯だと思っている節がある。 
「そ、そー言われても、なぁ?」 
「ウナワルタ将軍がなだめてはいるけど、ワキパル将軍はカンカンよ。あの方、経歴とかにうるさいんだから」 
「……そこをどーにか」 
 いまいち反応の悪いキオだったが、ピコン砦の長ウナワルタ将軍の名が出ると、一瞬だけ口調に真剣味が混じった。 
 クク・ロカにはすぐに分かった。 
(わたしが困るのはよくて将軍が困るのはダメなわけ? ……キオが将軍と仲がいいのは知ってるけど。けど!) 
 きりきりとクク・ロカの不満が募っていく。 
 
「ご主人サマぁ……」 
 しかし、その様子に気づけないキオは歩きながら覗き込んできた。 
 いかにもな喉撫で声にクク・ロカは動かずにはいられない。のほほんと歩いているわけにはいかなかった。 
「その気持ち悪い声を止めなさい」 
「……ひっ!」 
 クク・ロカは思わず、手にしていた杖をキオに向けて突き出していた。 
 気圧されたように立ち止まった彼の顔が、押されるように上がっていく。 
「アナタ、今わたしをからかった?」 
 精一杯に抑えた凄みを利かせて睨みつける。自分は怒っているという仕草だ。甘柿色の尾もたんたん、と床を打ち付ける。 
「あ、いや、悪い。調子乗った」 
 釣り針のように攻撃的に眉が逆立っていて、キオはすぐに態度を改めた。 
 これ以上彼女の機嫌を損ねれば、脅しではなく本当に奇跡が飛来するだろう。 
 
 (感謝しなさいよ、キオ。本気で睨まないだけ――わたしも甘いことね) 
 生まれから何から平和に染まったヒトを脅かすのは、実のところ楽しい。 
 凛々しいまでの戦ぶりを見せた彼も、奇跡の施しを解けばこうまでも弱々しくなるのが、もしかしたら可笑しいのかもしれない。 
 (ま、それはそれで別。わたしは怒ってるんだから) 
「……チャーハン」 
「えっ……と?」 
 クク・ロカがぽつりと呟いた。目を点にして驚くキオだったが、 
「チャーハン一つ、それも今まで食べたことのない味がいいわ」 
 どうやら副主人の彼女は見返りを要求しているらしいと、分かった。 
「もうこれ以上俺の知ってる味付けはねーんだが……。 
 まあ……賄い程度のあれを気に入ってもらえてるのはすげー嬉しいぞ?」 
 キオはそう言いながら、薄いまま一向に膨らもうとしない自分の財布をそれとなく確かめていた。 
 キンサンティンスーユにおいて、米は高価な代物だ。おいそれと国境外れの戦地で調達できるものではない。 
「そんなの、知らない」 
 しかし、彼女はひどく冷酷なのだった。ここぞとばかりに反撃を試みている。 
「わたしは、ア、ナ、タ、の、た、め、に、ワキパル将軍にとりなしてあげるって言ってるの。 
 これがどんなに負担なのか分かっていて?」 
「俺には想像もつかないぐらい、ってほどには」 
「よし。それに釣り合う報酬を要求するのはおかしいかしら? ……新しいチャーハンを考え出すくらい、やってみなさいよ」 
「……あー、うん」 
 そこでようやくクク・ロカは突き出していた杖を払い、前を向きなおした。 
 「うん」などと素直すぎる了解を返したキオに、彼女はどうやら満足したらしい。 
 もしくは、前を向いて顔を隠さなければいけない何かが、クク・ロカの頬に上ったのか。 
「分かればいいの」 
 そして再び、細い尾を一振りして歩き出す。キオもやや遅れて、斜め後ろに続いた。 
 
 しばらく二人の主従は、ただコツコツと床を鳴らし続けていたが、 
「ねえ……」 
 前を行くクク・ロカの小さな唇から息が洩れた。 
「……」 
「キオ?」 
 首を捻れば、口元に手を当てながら何やら考え込んでいるキオ。 
「――スープチャーハンってのもあったか……でも、うわ、やり方知らねー……」 
 どうやらこのヒトは主人の言うことに耳を傾けてはいないらしい。クク・ロカは再びにゅっと杖を伸ばす。 
「どの《欠月》を……お望み?」 
「てっ! 今ちょっと当たっ……すんません」 
「刻まれたいの……不憫ね、キオ」 
「そんなことねーからっ!」 
 (まあ、わたしの出した課題を律儀に考えてくれてるし) 
 彼のこういったところを嬉しいと感じてしまうのが、もう、どうしようもないなあ、と。 
 しかし、それを表に出してしまうことはクク・ロカの高い矜持が許さない。 
 秘めていたとしても、彼とともに在ることができるのだから、さして問題ではないだろう。 
 (だって、できるわけないじゃない。わたしは……副、なんだから) 
 
「雰囲気も何もあったものじゃないわ、まったく。パシャを助けてくれてありがとう。ただそれが言いたかっただけ」 
 そしてクク・ロカは、杖を恭しく突き上げるように捧げ、杖の中ほどにあしらわれた二つの聖印をじっと見つめる。 
 月夜神ママキヤと火星神アウカヨックの象徴を。 
「アナタがいなければきっと」 
 動転するばかりだった少し前の自分に、クク・ロカは牙を噛む思いだ。 
 だれが神聖な"決闘"に殴りこみをかけることを思いつくというのか。 
 稀有な才能を持っていたとしても彼に言われるまで、どうしようもなかったのだ。 
 促され、奇跡によって犯人を捕まえただけ。そして……彼の強い想いを、思い知らされただけ。 
「違うな」 
 断言する言葉は短く、クク・ロカは聖なる印から目を離した。感じる彼の真摯な気配。 
 力づけられるようでいて、そして、キオにそう言って欲しかったのだと、クク・ロカは気づいた。 
「俺がいて、ルッカがいて、あいつらがいてくれたからだ」 
「……まったく、そうね。でもアナタは確かに頭脳で、わたしたちは爪牙だった。頭脳なくして――」 
 
 ――その時、交差した廊下の向こうで兵士の小集団が声高に呼ぶ。 
 別にその方角を確認するまでもない。いかにも楽しそうな空気はピコン砦の人気者と話したがっている。 
「行っていいわ、キオ」 
「いいのかよ?」 
 キオは手を閉じたり開いたり、彼らに礼を返しながら聞く。 
「……ええ。今さらだけど、アナタがいない方が事は楽に運びそうに思えてきたの。これは名案。うん、そう」 
「そいつはひでーな。ま、ルッカが言うならそーいうことなんだろーよ。 
 んじゃ行かせてもらう……チャーハン、楽しみにしとけよ」 
 最後にもう一度、にい、と朗らかに笑いかけるとキオは早足で歩き出し、クク・ロカはそれをじっと見送った。 
 そして集団に混ざった彼は、笑いあいながら散々にどつかれている。 
 きっと先程の"決闘"における活躍をからかわれているのだろう。 
 酒好きな彼らのことだ。隠れて呑みながら、友好をさらに深めるに違いない。 
 その騒がしい集団が通路の角を曲がって完全に姿を消すと―― 
 立ち止まって見送っていたクク・ロカはきょろきょろと周囲を見渡す。 
 誰の気配もしないことを確認して、ふと可愛らしく唇を曲げた。 
 (おかしくなかった、よね? 自然に約束、とりつけられた、よね?) 
 そう自問しながら、キオとの他愛ない会話を始めから思い返す。記憶に永く留めるように何度もそれをたどる。 
 キオから頼られていることも、逆に自分も彼に頼っていることも、クク・ロカにはくすぐったいような心地よさ。 
 だから、迷うことなくキオが去ってしまっても、彼に信頼されていると誇りたい気分だった。 
「よし」 
 こん、と杖を床に突いたクク・ロカは、力強く右足を踏み出す。 
 
 
 
 すでにクク・ロカの頭には、キオの逸脱行為をいかにして庇うかという問題はない。 
 彼に会う前に解決済み、だからだ。 
 ヨリコテ砦の長は力及ばず、要衝を陥落させたことを憤慨し、自らの汚点を恥じている。 
 キオへの怒りはその矛先が向いてしまっただけに違いない。 
 まさか人員入れ替えの隙を衝かれた軍上層部へ堂々と抗議できるほど、かの将軍は俗っぽくはない。 
 ウナワルタ将軍のような人物は稀だ。もっとも、かの老将軍のような指揮官ばかりの軍隊などそら恐ろしい。 
 そこで、だ。 
 その汚点をより大きな美点で覆ってしまえばどうなるだろうか。 
 当初の歴然とした戦力差は誰もが理解しているわけだから、情状酌量の余地はふんだんにある。 
 つまり、援軍が来るまで砦を保たせたことを少し大げさに賞賛すればいいのだ。 
 そのための繋がりをクク・ロカは持っていた。 
 本当に限られた人物にしか知られていないが、彼女はこの国の中枢である皇族院議員の一人を義母と頼っている。 
 そこで彼女に働きかけてもらい、皇族からの勲章のひとつでも、ワキパル将軍に贈ってもらえればいいだろう。 
 その為の正式な書簡をすでに投函済みだ。 
 (余談だが、媒体としての紙はその記される内容の重要性に沿って、紙から木材へと厚みを変えていく。 
  結縄【キープ】と同じく、旧き時代の名残だ) 
 そうすれば彼の性格からして感激限りなく、キオへの怒りを解くだろう。 
 実際、ヨリコテ砦の死守ぶりはすばらしかった。何も問題はないだろう。 
 ――この他愛ないと表現するにはやや危ういことも、義母は面白そうにやってのけてしまうだろう。 
 ――奮闘する自分を影で支えると言って憚らないように。 
 
 結局キオを呼び出したのは会話するきっかけが欲しかっただけだ。それと覚えるのは幾ばくかの嫉妬、後ろめたさ。 
 以上を求めながらも未満で抑え、それを自虐する気持ちももちろんある。 
 しかし、彼の恋人に迷惑をかけるつもりはない。山吹色の彼女を友人として失いたくもない。 
 たとえるならそれは出口のない迷路。クク・ロカは軽く前髪を揺らして、答えの見つからない問いから逃げ出す。 
 (アナタは覚えてなんかいないけど。責任取れって言わないだけ感謝して欲しいの) 
 将軍たち上級将校が集っている会議室に向かう甘柿色の侍女。 
 厚い雲の所々に空いた隙間から、陽の光が柱となって差し込むのを目を細めて眺める。 
 歩みにつれて左右に触れる「海老の尾」は楽しげに踊る。 
 そこには男たちに見せるいかめしい顔も、賊に見せる陰陽侍女としての闘争心に溢れる顔も、まったく見当たらない。 
 あえて言うならば、 
 
「クク・ロカ。締りがありませんよ。口元を拭いたらどうですか?」 
 
 窓側を見ていたせいで、クク・ロカはまったく気づかなかった。 
 そして、慌てて神官衣の袖を持ち上げてしまってから気づく。「しまった」と。 
「良いものを見せてもらいました。いえいえ、まったくの偶然です。我はそこから出てきて、ばったり」 
「そうね。そのとおりね。この廊下に、ウィラコチャ神の祭壇室があるのをすっかり忘れていたの。不覚だわ」 
「いえいえ。我は光栄ですよ」 
「うっさい」 
「まあ、クク・ロカ。あの殿方の真似ですか? 良いですね」 
 なにが良いのかまったく分からない、しかもあの男は「うるせー」と言うだろう、とクク・ロカは思いつつ、見上げた。 
 もっとも、彼女が見上げる必要のない人物は少ないのだが。 
 神官衣を着てもすらりと縦に細長い身体は、風にそよぐ一本の茎。 
 その先に咲いているのは、細くて量の多い菊の花。紐解けばかなり長いのは明らかに、後頭部で渦を巻くように結っている。 
 その渦巻きは根元から黒色の毛髪が少量混じる。つまり、ジャガー族の女性。 
「それで、ティーエはいつもの、というところかしら」 
 ――太陽神ウィラコチャにつかえるジャガーの侍女、ティーエと言う。 
「はい。良い茶葉が手に入りましたので。先生と、ご一緒できればと」 
 
 彼女の言う「先生」とは、黄土色のオセロットのことだ。ずっとティーエは目を患っていて、治療を受けて長い。 
 本来ならキンサンティンスーユに戻るべきなのだが、ジャガーの司祭・侍女は圧倒的に数が少ない。 
 太陽神を崇める大多数の戦士のためにも、彼女は必要なのだった。 
 大半の奇跡を病のために行使できずとも、略式の儀式でさえ司祭・侍女は複数なくてはならない存在だ。 
 そのため、優秀な医者を備えるこの砦に配属された経歴を持つ。 
「よくあんな散らかったところにいられるわ。わたしには無理」 
「いえいえ。我はお掃除が苦ではありません」 
 ティーエはウィラコチャ神の聖印のついた杖を片手で持ち直すと、右目の眼帯を得意げにととのえた。 
 自分で縫ったのだろう、その眼帯を縁取るふりふりの装飾がいかにも彼女らしい。 
 だが、たまにティーエの美的感覚は暴走することがあり、見習い時代の「全神官衣の聖印に刺繍事件」は有名だ。 
 今度は眼帯から何かが飛び出す、くらいのことが起きてもクク・ロカは受け入れてしまうだろう。 
「行くたびに掃除しなおすのって腹立たないの? あなたをあてに散らかし放題ではなくて?」 
 即座に、言い過ぎたかもしれない、とやや自己嫌悪。 
 悪い癖だとは分かっているのだが、いつの間にか染み付いた癖を直すには時間が必要らしい。 
 ばつが悪いクク・ロカは目的の会議室に向けて再び歩き出した。 
 
「ごめんなさい、ティーエ。嫌ならこうも通ったりしないわね」 
「可愛らしいクク・ロカが見ることができたので、我は今機嫌が良いのです。気にしていません」 
 進路の同じティーエに、すぐ後ろから、くすり、と鼻で笑われた。 
 ここでまたむかっとするのがこれまでのクク・ロカだった。しかし。 
 可愛らしいと評されるのは、可愛らしさの基準を探求する今の彼女にとって重要なことだ。 
 クク・ロカなりにさりげなく、素敵な女性の見本のような彼女の反応を確かめる。 
「それって、締りのない顔をしていたところ? それとも……もしかして、本当に、何か口から垂れていたとか」 
 可能性は低いが、もし後者だったらどうしよう、とクク・ロカは内心びくびくだ。 
 涎を垂らして我慢しきれない、という顔の方が可愛らしいというのなら、非常に由々しきことだ。 
 予定のチャーハンは楽しみだが、そこで彼に腹ペコでどうしようもない幼子のように振舞えというのだろうか、と。 
 (でも、ちっちゃい子は確かに可愛らしいわ。なるほど、父性というものを刺激する、ということかしら) 
「クク・ロカ、クク・ロカ。お願いですから、なにやらおかしな想像はおやめになって」 
「では、締りのない顔のほうが、ということ?」 
「いえいえ。ですから、我の知らない葛藤を飛び越えて発言するのもおやめになって」 
 つい振り返ってしまったクク・ロカは、しばらくの間、ティーエの困ったような顔を見つめる。 
 さらに見つめる。ティーエは小首を傾げる。 
 じっと、見つめる。ティーエの額に見えない汗が流れる。 
 菊の花が急に萎れたように、頭を垂れた。 
 
「クク・ロカが無防備に見えまして。それはきっと良いことがあったのだろう、と我なりに推測をつけまして」 
 すると、こく、と可憐に頷く。 
 それを見て、ティーエはすぐに思考を切り替えた。 
 最近ぐっと女らしくなった、そしてさらにと自然に願うクク・ロカに、惜しむ助言はない。 
 分が悪いのは確かだが、実らないにしても、恋の種を育てる土壌に水をきらしてはいけない、と。 
「そのような貴女をからかっただけなのです。 
 良いことを思い出して、楽しそうな様子が可愛らしかったのであって、呆けた顔のことではありませんよ」 
 ティーエは、その楽しそうな顔を彼にも見せてやれ、とは言わない。 
 彼と親愛なる口喧嘩をしているときのクク・ロカがもっとも、可愛らしいと思うからだ。 
 そして、それを指摘したら最後、彼女はどっぷりと悩んでしまうのは確実だ。 
 友人のひとりとして、クク・ロカ「らしい」そんなひと時に、下手に口を出すべきではないと感じていた。 
「ですが、呆けた顔、というのも時として可愛らしいこともあります」 
「ティーエ。そんなことがまさか、本当にまさか……」 
「いえいえ。殿方を満足させ、達成感を覚えさせ、さらなる自信をつけさせることができるのです」 
 クク・ロカにとって、かなりの衝撃のようだ。隠そうとして失敗し、ありありと噴き出している彼女の期待。 
 この後続けるつもりの「それ」がもたらすであろう反応に、ティーエはやや恐怖を覚える。 
 しかし、既に調子に乗って話し始めてしまったのだ。 
 どれもこれも、可愛らしいクク・ロカがいけない、と覚悟を決めた。 
 腰を落として彼女の甘柿色をした尖った耳にささやく。 
「それはですね」 
 耳だけがぴぴっと跳ねる。 
 びしりと固まって待ち受ける風のクク・ロカ。杖を両手できゅっと握り締めている。 
「寝台で殿方に抱かれたあとにすると良いですよ、クク・ロカ。 
 呆けた顔をして、殿方と交換し合った愛の雫を、こう、つつっと垂らして」 
 
 
 
 クク・ロカは医務室へと向かう曲がり角で、ティーエの風吹けば折れてしまいそうな高い背を見送る。 
 遠ざかるのは、菊の花。 
 自分の髪質を意識しているためか、結った髪から花びらのように、細かい付け毛をぴょんぴょんと差し込んでいる。 
 ティーエのそのたおやかさは、ピコン砦でも人気がある。特にジャガー戦士たちの礼拝出席率は目を見張るものがある。 
 確かに彼女のように、自分の容姿を理解して花を添え、信徒たちの興味を集めるのも立派な行いだ。 
 そしてきっかけはどうあれ、信仰のすばらしさを知ってもらい、深めてもらえるのならば侍女として誇り高いことだ。 
 気づけば、クク・ロカは自分の「海老の尾」の毛先をいじっていた。 
 (しっかりなさい、クク・ロカ。この髪は、誰のための髪なのか。何が為に信仰がある、よ) 
 クク・ロカのクク・ロカたる所以。 
 それの一つがこの子供っぽい、やや野暮ったい髪型。 
 そのお下げをちぐはぐに結ってしまったかのように、今は落ち着かない。 
 うきうきと、またさらに遠ざかっていく後姿に、恨みがましい目を向けずにはいられなかった。 
 
 さっきのはやりすぎだ、と、再び頬が熱もつのを感じる。 
 呆けた顔は情事のあとに似合うなどとささやき、挙句に爪の先でつつ、と唇の端から下になぞったティーエ。 
 (――もしかして、さっきティーエに見られてしまったのは、じょ、情事のあとを連想させるものだったというの) 
 (――クク・ロカ、クク・ロカ。そのようなことに大声を出すものではありませんよ。聞いていますか、クク・ロカ?) 
 またもや、からかわれてしまったクク・ロカは愕然となった。 
 当然、一気に沸騰してしまい、それを抱きすくめられて宥められたのも納得がいかなかった。 
 ティーエは、すぐに誰かを抱きしめてしまう癖もある。 
 あの高い身長もあってやりやすいのだろう。小さいクク・ロカやオセロットの侍女はよく標的になっている。 
 彼女と知り合ってからはいろいろと世話を焼かれ、仕える神こそ違え互いの信仰を尊敬し合ってきた。 
 もっとも仲の深まった人物のうちの一人だ。 
 その彼女のために何かしてあげたい気持ちはあるが、ティーエは万事にそつがなくて足手まといにしかなれない。 
 そして、最近のティーエは何か変わったようだ。 
 言葉で表すなら、まぶしすぎる。そうクク・ロカは思わずにはいられない。 
 (あ……そういえば) 
 先ほどティーエの腕の中でじたばたと暴れたときに感じたことがあった。 
 (少し腰まわりが大きくなったかもしれない) 
 そう思い至ると、見送った菊の花も、茎がややしっかりしていたような記憶。  
「うん、そうね。食欲が出たのはいいこと。ティーエは儚すぎるもの。もうちょっと、ふっくらしてもいいくらい」 
 そう、クク・ロカは独り言を呟き、再び会議室へ向けて歩き出した。 
 もし仮にこの一部始終を全て知る者がいたのならば、絶句するか笑い出すか頬を染めるか、のどれかに間違いなかった。 
 
 
 
 
 
 クク・ロカはさらに廊下を進み、いったん中庭に出る。そこにも彼女の見知った女性がいた。 
 身にまとっているのは、真っ白な神官衣を裾上げ、切詰め、動きやすくしたもの。 
 手にしているのは、棒状武器のひとつ、長巻。長さは柄、刀身ともに約四チルケ。(一チルケは手首から肘までの長さ) 
 一方、幅広の刀身は美しい刃紋を描く相当の業物。得物自体の重心の位置も考慮に入れれば、「重斬」型だろう。 
 
 彼女の黒色の直毛は、吸いついたまま離れなそうななほどの艶で、短く切ってしっとりと潤っている。 
 そのため、立ち上がった耳が若干大きめに映える。 
 さらにこうして見るとまったく見分けがつかないのだが、黒一色の髪はジャガー族女性の特徴を完全に埋めてしまっている。 
 そう、彼女は種族特性に執着しない、ちょっと変わったジャガー。 
 オセロトゥスーユにそびえるアウサンカタ山脈にある霧深い牧場で育ったという。 
「クク・ロカ。もしかして、これから会議なノ?」 
「ええ、レンネ。まだ時間はたっぷりあるのだけれど。……訓練のおじゃまでなくて?」 
「ううン、これはただ血の滾りがおさまらないだケ。良い"決闘"だったヨ。まだ、ここが、熱イ」 
「それなら、ここで少し太刀筋を学ばせてもらうわ」 
「フ。これはたどるだけの型だヨ? 
 ……自分のことながら難しいネ。これをしないト、闘気が抜けてくれなイ。ワタシなりの儀式というところカモ」 
 語尾にオセロトゥスーユ最東方特有の山訛り。その火照った身体を中庭で冷ましている様子は軽戦士と見紛う。 
 汗止めらしい、腰の下まで垂らしている白い鉢巻を見ても、戦士と言えなくもない。 
 しかし実際、彼女は金星神アウキヤに仕えている見習い侍女。名をレンネ。 
 アウキヤ神が両性具有の中立神であるのも手伝ってか、 
 年下の女性兵士がつい憧れてしまうくらいに、中性的な女性でもある。 
 
 クク・ロカは中庭に備え付けられている横倒しの木の幹に腰掛けた。 
 ついでに杖をたてかけ、葉のたくさん生い茂った枝に背をもたせかける。お下げは襟から胸の前に。 
 この三角黒耳の特徴的なジャガーの女性は、誰から見ても惚れ惚れするくらいに凛々しい。 
 パシャとは違った凛々しさだ。パシャが一陣の突風なら、彼女は霧裂く風。 
 高地育ちの身体は高い持久力を秘め、霧の中で過ごした肌はジャガーなのにオセロットに近い白さ。 
 ただ、今は襟元に火照りを紅くちりばめている。 
「パシャ殿の爪捌きはすごかったヨ。彼女は何を遣わせてモ、一流以上に遣って見せル」 
「まったくね。あ、パシャだけど、ほぼ異常なしとのことよ」 
「ウンウン。あれほどの戦士がたやすく倒れるわけがなイ」 
 
 刹那。 
 クク・ロカは最初、ただの耳鳴りに感じた。 
 しかしいきなり次の瞬間には、凝縮を完了させた錬気。クク・ロカの肺が巻き込まれまいと咄嗟に備える。 
「……ハァッ!」 
 裂帛の気合とともに、レンネが大上段から長巻を振り下ろした。 
 
 一拍遅れて、髪から雫。 
 落ちる水滴、刹那に持ち替え、上向く刃。 
 一足踏み込み、空を斬り上げ、またもや一拍、滴る雫。 
「ハァ!」 
 半身を入れ代え、握りを引きつけ、散る雫。 
 落ちる重心、撃ち込む一足、描く弧月。 
「っ……ヤァ!」 
 後ろ振り向き、地を這う重心、弾ける雫。 
 踵突き刺し、爪先地を噛み、描く円月。 
「……」 
 残身。 
 
 理性と野性が互いに喉笛を噛み切ったような鮮烈さ。 
 長巻を上段から振り下ろし、手首を返しての、押し上げ。 
 腰を思い切り後ろにしならせながら、最大まで振りかぶった長巻を地面すれすれまで踏み込んだ縦割り。 
 重心を落としきらないうちに後方へ流れるように振り返り、遅れて浮いてくる長巻を、完璧に振り抜いた横薙ぎ。 
 白い扇が縦に横に、描かれた花が開くようだった。 
 いや、血潮に濡れる花びらはクク・ロカの幻視だ。 
 
「……たどるだけって、あなた。息も出来なかったわ」 
 クク・ロカは思わず、彼女独自の……改良に改良を重ねた演舞を拍手で迎えていた。 
「それにほら、手が汗でべっとり、よ」 
「何を言うノ、クク・ロカ。さっきノ、ワタシの錬気から残身まで完璧に見切ってたよネ?」 
 どうやら試されたらしい、とクク・ロカは気づいた。しかし、悪い気はしない。 
 ティーエと信仰論を交し合ったように、このレンネとは戦技論を交し合っている。 
 互いに信頼する相手の手の内を確かめ合っただけだ。 
 ふと、残身から身を起こしたレンネが汗を額に光らせて笑い、手首に巻いた布でぬぐっていた。 
 そこには香水をまぶしているのか、ほのかな芳香が香る。 
 見え隠れする眉は太くはっきりとした胡桃色。これがレンネの地の色。 
「ワタシにはこの【カリビ】を振るう技しか……ネ。しかも、《日蝕》も《月蝕》も補助しきれない見習い侍女だモン。 
 それに、『使役【クナ=クナ】』のクク・ロカに褒められたとあってはくすぐったいヨ」 
 次に黒耳白装束の侍女は流れるように赤銅色の鞘を手に取ると、 
 『人喰らい【カリビ】』と名付けている長巻を納めた。 
 凶悪そのものな得物なのに、まぶしいものを見るような彼女の顔つきに、クク・ロカは複雑な気分だ。 
 レンネにその鞘を贈った赤銅色の彼とは一応、和解しているが苦手なことには変わりない。 
 これまでいがみあいすぎた。 
 一方、あの女たらしがぴったりと火遊びをやめたのも、どう解釈していいか分からない。 
 アウキヤ神に仕えるこの親友が幸せそうに笑う限り、クク・ロカはその解答を保留することにしている。 
 
「やめてよ、レンネ。そんなの誰も言わないでしょ? わたしも、恥ずかしいし」 
「そうなノ?《欠月》の十二、《火星座群【クハチャ=アウカヨックナ】》の十七。 
 それぞれ偏ることなく全て操ることができるのニ? せいぜいその半分だヨ?」 
「それでも、百の凡技よりも一の神技に、人は重きを置くものよ。 
 あ、僻みでも揶揄でもなくてよ? 『白扇』レンネは、わたしの親友にして好敵手だもの」 
 そんなクク・ロカのぎごちないおべっかに、それでも彼女は照れたようにわたわたと【カリビ】を佩く。 
 『白扇』というあだ名で呼ばれるのが、嬉しいのだ。 
 ――『鉄笛』の音に合わせて『白扇』は踊る、と。 
 クク・ロカは、あの男がレンネをこうも可愛らしくしていると思うと本当に不思議だ、と感慨深い。 
「さっきのところだけど、正確には」 
「ン?」 
「《満月》の一を加えて一、十二、十七、の三十ね。 
 けれども、こういう数え方もできるわ。 
 《欠月》のそれぞれと《満月》は重複できないから、平行行使となると《欠月》と《満月》で固定の一。 
 《火星座群》だと、季節の関係で同じく重複できない組合せがあるから、同じく並行行使で最多十一、最少三。 
 もっとも、最多で行使しようとしたら触媒も足りないし、きっと"難聴"ね」 
「なるほど、失礼ヲ。」 
 もう一度、最後に汗をぬぐったレンネが向かいの倒木に腰を落ち着ける。 
 【カリビ】を大事そうに抱えながら後ろに手を伸ばすと、その手には水筒があった。 
「どウ?」 
「ええ、いただくわ」 
 注ぎ口にかぶせられていた盃のうち一つを受け取ると、とっとっ、と冷たい液体がかさを増していく。 
「今気づいた。喉からからよ!……んっ。ああ、生き返ったみたい。ありがとう」 
「ウン。どういたしましテ。あ、クク・ロカ、今気づいたんだケド」 
「何かしら」 
「『使役』の奇跡にはもう一個足りないんじゃナイ?」 
 思わず、クク・ロカの傾ける盃が停止する。レンネの表情は影で見えない。何か悪い予感が。 
 
「だって《月臣【キオ】》の奇跡を足したら、全部で三十一個。【クナ=クナ】はヒトですら使役すル」 
 そう、ひそりと。 
 
 また、からかわれた。 
 クク・ロカはぐっと詰まりながらも、どうにか干し終えた盃を得意げなレンネに返す。 
「うっさい」 
「あっははははっ! かわいいんダ、クク・ロカ。赤くなっちゃっテ」 
「なってない」 
「でも、ドキドキしてル」 
「さりげなく心音聞き取ったりしないでよ。これは……その……まだ、レンネの演舞の残響が」 
「ウンウン」 
 何が、うんうん、なのか問い詰めたいクク・ロカ。 
 しかし踏み込んだら返り討ちにあってしまうのは、簡単に予想できた。 
 実際に仕合うのとはわけが違う。この場合は好敵手ではなく、ただの狩り手と獲物だ。 
 どちらがどちらかは言うまでもない。 
「なんだか、昔のあなたを思い出してきちゃった。 
 絶対にいつか殺してやる、みたいなすごい目をして追いかけてたものね」 
 しかし一矢報いてやらなければ、とクク・ロカはおどおどと弓を引く。 
「ウン。でもあんなに夢中になったカラ、今のワタシがあると思うノ。 
 ネ、クク・ロカ。憎悪と愛情って裏返しなノ、アナタも知ってるはずだヨ?」 
 あっさりと弦を斬られた。矢が力を失う。 
 《欠月》ならそんなことはないのに、と一瞬だけ思う。 
「両方とも、とっても一途。通じなくても、構わなイ。通じるまで、貫き通ス」 
 斬られた弦が跳ね飛び、頬をむち打つ。 
 《火星座群》なら、召還手に仇なしたりはしない、と同じく一瞬だけ思う。 
「そして……あは、もう言わない方がいいカモ」 
「そうして」 
 とどめは免れたようだ。クク・ロカは沸騰寸前の熱を逃がす。 
 しかしそれは、狩猟者が獲物をいいように遊ぶ機会を後に作っただけということに、彼女は気づいていない。 
 
 
 
「……ピクェロ。彼は本当にヒトなノ?」 
 どきん、と。一気に冷や汗。 
 クク・ロカの心臓が飛び跳ねる。鼓動は急に、収まらない。 
 つい今までからかわれていて良かった、と咄嗟に思った。 
 ただ、あの男のあだ名が出たから動揺した、とでも勘違いしてくれるだろう、とも。 
「零距離からの《脱水》、すごかッタ。直前のは《蜃気楼【マチュ・ピチュ】》かナ? 
 師として、クク・ロカも嬉しいでショ?」 
「……ま、まあ、当然よ。導いたのは、このわたしだもの……本人の努力もあるけど」 
「あは」 
 言葉をつむぐうちに動揺が落ち着いていくのが、彼女自身にも分かった。 
 やはり、レンネはあの男の"決闘"についての感想を言いたかっただけだった。 
 
 瞬時に、記憶が再生される。 
 ――神殿で、予想通り奇跡を習得しきれなかったあの男。 
 ――帰途で起きた、事故。あれは事故。自分をかばい、倒れたあの男。 
 ――戦地を縦横に引っかき回したあの夜の全容を知るのは、自分とパシャだけ。 
 ――それと、それと。パシャでも知らないこと。あの男だって知らない……覚えていない。 
 
「規格外のヒトであることは、確かね」 
 嘘は言っていない、とクク・ロカは自分自身に確認を取る。 
 あの男は依然としてヒトだ。少し変わったヒトになってしまったのは否定できないのだが。 
「でネ、クク・ロカ。聞きたいことがあるノ。ピクェロの言ってたことが、理解できなくテ。 
 分かりやすく教えてくれないカナ?」 
「いいわ。お安い御用。どこが分からないの?」 
 興味津々に黒耳を立てて、身を乗り出すレンネは真剣そのものだ。 
 あの男が打った一芝居のことを知りたいらしい。展開が急すぎてついていけなかったのだろう。 
 そして、分からないことに一切恥を覚えない様子は、彼女らしくて好ましい。 
 
「ウン。どこが分からないのカ、も分からなイ」 
「うん、最初からね。 
 鍵となるのは、毒物の在り処。不愉快きわまりないことだけど、この際そういう感情は無視」 
「もちろン」 
「まず、最初に「毒を使った」と宣言してしまったから、そこですでに解答が出てしまった。 
 けれども、そもそも口の動きを読まなければ、だれもそのことを疑わなかった。 
 だから、誰も何も言わなかったなら、あの賊が「偶然」戦爪の汚れを拭っても、誰も気づけない。怪しまない」 
「ウン、確かニ」 
「その油断、驕りにあの男はつけ入ったのよ。レンネ、あの男が何をしたか言ってみて?」 
「分かっタ。ピクェロは次に……相手の戦爪に毒がついてないのを太陽神に誓わせタ」 
「そう。もうその時点で勝っていた。ここが重要なんだけど、「毒物が残っていると言われたら負けていた」の。 
 あの芝居の幕は実のところ、ここで下りていた可能性もあった」 
「エ? どういうこト?」 
 やはり、ここが瀬戸際だった、クク・ロカは思った。 
 あの防壁上にいた戦士たちを含めて、どれくらいが本当に理解していたのだろうか。 
 言伝で火付け役を依頼しておいて良かったとも、彼女は胸を頭の中で撫でおろす。 
 そして、あの男ほどではないが、拙い芝居を打つことにした。 
 
「……あ、痛たたたた」 
 クク・ロカは突然下腹部を押さえながら、身体を二つに折る。 
「クク・ロカ?」 
 当然、レンネは様子を不安そうに聞いてくる。 
「お腹、急に痛くなって……レンネ、さっきのお水、毒でも入ってたんじゃない?」 
 あらかじめ台詞を用意しておくというのは、ちょっと恥ずかしいものだ。 
 ……そして、あの男は全て一人でやり切った。 
 大観衆の中心で、一つも足を踏み外すことなく。 
 決して平静ではない心だっただろうに、唇の端ですら余計な動きは見せなかった。 
「嘘! 自分で汲んできて、ワタシだって飲んだよ! 知らなイ!」 
 けれども、このレンネの反応のように、書いた脚本がばっちり合ったときの達成感は最高なのだろう。 
 この些細な芝居でも、クク・ロカの胸はすうっと、してやったりの風が撫でて行く。 
 
 クク・ロカは、一転、なんでもなかったように上体を起こす。 
 実際、どこにも異常はない。かえってすっきりしてしまったくらいだ。 
「そう。何も知らない人なら、「知らない」って正直に言うわよね?」 
「あ! 分かってきタ。相手はあそこで「知らない」って言うべきだっタ!」 
「正解よ、レンネ。知らない、で通されたら、あそこであの男は何もできなかった。 
 シラをきられるのが最も恐れていたことなの。あの賊に「誰かの陰謀だ」とか「何かの間違いだ」とか」 
「言いがかりはやめろ、とカ?」 
「そうなの。一度分かればたいしたことないでしょう? そこがあの男の「たいしたこと」でもあるけど」 
 あの時点が一番、身が竦んだ。 
 おそらく、周りに備えていた三人の戦士も。鉄鎖が不安に軋み、槍先が焦燥に揺れ、小太刀が緊張に震えていた。 
 そしてクク・ロカといえば、 
 《火星座群》を"難聴"寸前まで最大数展開後、《欠月》で突撃する戦士を援護、それだけがあの時頭にあった。 
 最悪を想定して対応策を考えるのが、クク・ロカだった。 
 
「ヒュ〜」 
 レンネが口笛を鳴らして、にやついている。 
 クク・ロカはあの時を思い出していたから、表情を本気で険しくさせてしまった。きっと睨む。 
「……ゴメンナサイ。ワタシ、今、クク・ロカに教えてもらってタ」 
 しかし、ぺこりとすぐに謝る黒髪に感じるのは可笑しさだ。 
 クク・ロカの機嫌はすぐに直っていた。これもレンネの人徳だろう、と。 
「……よろしい、許します。 
 続きね。戻るけど、最初に「毒を使っただろう」と確信を突いたことで、賊の動揺を誘った。 
 他にも弱いところをたくさん叩いていた。平常心をまず、砕いた」 
「牽制には重い一撃だネ」 
「ふふっ、レンネの仕掛けよりは軽いんじゃないかしら。 
 ……というより、あれすでに立派な致命打ね。こう、いきなり密着して肝腹強連打……」 
 レンネの発言を受けて、あのときの状況を、あの男に教えてもらった拳闘術に当てはめていたのだが、 
 素手喧嘩を嗜む彼女はその時実際に拳を握っていて、集中していたのですぐに気づいた。 
 身をすばやく捻って正面に拳を数度突き出すと、 
「……レンネ?」 
「ハイ! もうしませン!」 
 あの男の話をし始めたことに、にやにやと調子に乗っていた長巻使いは、背筋を伸ばしてこう答えていた。 
「調子いいんだから。そういうとこまで、『鉄笛』に踊らされなくていいのに」 
「エヘヘ」 
「誉めてない。誉めてないから、レンネ」 
 
「もう一個あル」 
「どうぞ?」 
「どうして、自分の黒い戦爪に毒を塗らなかっタ? 浅傷を与えて、後で拭えばよかったはズ。 
 もしパシャ殿の銀爪に毒を塗るのに失敗したら意味がなくなイ?」 
「それはもっと簡単よ。少し、ほんの少しだけ、毒物を潜り込ませなければならなかったの。 
 もしうっかり深く入ったら、劇的に症状を出してしまう。頬をちょっと切る、くらいじゃないとだめだった」 
「ようするニ……あの相手はパシャ殿に手加減する余裕がなかっタ。浅い傷を狙えるほどの自信がなかったのネ」 
 あの賊も熟練した遣い手であっただけに、パシャに自分が及ばないことが分かってしまったのかもしれなかった。 
 クク・ロカは続いて、自分なら勝てたかどうか想像し、やはり自分は侍女なのだという思いを強くした。 
 奇跡なしに、ピューマ族の神聖武器を満足に振るえるほど扱いに熟練していない。 
 奇跡行使が可能ならば、決して負けない、とも。 
「こう予想できたりもするわね。 
 あの一連のヨリコテ砦救援戦の責任を取れ、さもなければ、とでも言われたのかもしれない」 
「アア、相手は連隊長だったネ。そういえバ」 
「おそらく、あの賊はもう後がなかった。だから形振りかまわずに、毒物に手を出した。間諜まで使って、ね」 
 
 
 
 クク・ロカはそう言いながら、ふと焦点を遠くに外していた。 
 ぼやけた視界で、瞳を大きくして何度も頷いているレンネと同じく、「そういえば」と思いを巡らせる。 
 
 あの賊の指揮官。どうやら、パシャたち「星の456期生」と何か因縁のある相手だったようだ。 
 (ユパ。私がやる。あの男は、私が) 
 (これは絶対譲れん。いつものように誤魔化しは効かんぞ。アレを殺るのは俺だ。もう一度言う、アレは俺の獲物だ) 
 (どうしても?) 
 (見ろ、アレを。不ぞろいの玉蜀黍め、おめおめと生延びて……待っていろ。すぐ、もぎ取る。すぐだ。心配要らん) 
 (ふう。決闘は戦爪を用いる。その鉄鎖ではない、ユパ。決着をつけるのは、全ての発端となった私) 
 (パ、シャ? 何を、言て、るうんっだ) 
 (どもってるの、自分で分かる? ん。皆をあの夜に巻き込んでしまった、この私がオグマを討つと言っている) 
 (サキトハぁっ!) 
 (俺じゃねぇっ! ……もしか、っ、キオか! キオだな! てめぇ! 言っていいことと悪いことあんだろ!) 
 (そーだな) 
 (……なんで知らねぇって言わねぇんだ、キオ。あぁん? ちっとそこに直れよ) 
 (やめて、サキトハ。私、思い出した、いろいろ。ユパがあの夜、雷神の侍女様に祝福を受けたこととか) 
 (……) 
 (起きてたみたい。かすかにだけど、はっきり思い出した) 
 (ぱ、シャ) 
 (まず、聞いて、ユパ。ユパはその鉄鎖でしか、草刈衆を討ってはいけないと思う) 
 (誓い、だからな) 
 (……私はっ! 私は、許す! ユパ! あなたを!) 
 (っ!) 
 (ね? ユパになら私は構わない。ユパは私を助けてくれた。だから、許す。命の恩人に、向けるのは感謝だけ…… 
  だから……泣かないで、ユパ。もう、涙もろい。戦士なのに。ふふっ、大丈夫、私は負けない。皆がついてる。ん) 
 クク・ロカに壁越しで聞こえてきたのは以上のような会話。 
 そして、その後すれ違ったあの男が「借りは返した」という類のことを呟いていた。 
 彼がどんな顔をしていたのかまでは、振り返っても分からなかった。 
 
 甘柿色の陰陽侍女。あの男のもう一人の主人であるクク・ロカ。 
 しかし、主人仲間でありながら、正当な主人であるところの山吹色の彼女と、その戦友たちの輪に、入ることはできない。 
 あの輪が閉じているわけではない。 
 ヒトであるあの男だってすんなりと入り込んでしまった輪だ。 
 しかし、それでもあれほどに強い絆。クク・ロカには息が詰まってしまいそうだ。 
 そして……パシャとこれ以上接近してしまうことが耐えられない。 
 なにか恐ろしいことが起きそうで、友人ではあるが、親友になるための行動には踏み切れない。 
 いや、あの"事故"のときに感じはした。 
 ともにあの男を……キオを救うために駆け回ったとき、確かに友情のようなものを交わした。 
 パシャとの間で信頼の縄がぎゅっと、確かに結ばれたのだ。 
 孤高を保っていたクク・ロカにとっても、それは本当に心地よかった。 
 いや、保っていたからこそかもしれないが、心震えたのだ。 
 
 でも、その時の心にはなれない。 
 どうやっても、戻れないだろう。 
 芽が吹いてしまったのだ。 
 毒素をもつ芋の芽が、じわじわと実を侵食するように。 
 隅から隅まで浸透していったその毒。 
 そして、その毒に侵されてしまった実。 
 千切って放り投げても、種芋になってまた生えてくる、生態系。 
 
 クク・ロカのぼんやりと焦点の合っていない視界。今度は恋人との惚気話をし始めた親友。 
 同じくぼんやりとそれらしい相槌を打ちながら思う。 
 どうして自分の恋心は、こうも、息が詰まるほど、苦しいのかと。 
 どうして他人の恋心は、こうも、指を咥えたくなるほど、美味しそうなのかと。 
 
 クク・ロカは、傍らに立てかけておいた杖を握り締めようとして……いつの間にか倒れて地面に落ちていたことを知った。 
 わざわざ拾って握り締める気には、なれなかった。 
 代わりに、編み込んだ甘柿色のお下げの先をちびちびと弄る。 
 医務室で二人きりの主従に、いつ呼び鈴を鳴らしたら良いのかと、ずっと廊下で悩んでいたときと同じように。 
 
 

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