§  §  §  
 
 
 大地そのものが鳴動している。  
 砦の周囲に暮らす動物たちはその異様な物音と地響きに既に逃げ去っている。  
 およそ三十チルケ(一チルケは手首から肘までの長さ)もある木製の防壁の上で、  
 大勢の兵士たちが所狭しと騒ぎ立てているからだ。  
 刃同士がその硬さを競い合い、甲高い金属音を響かせれば、  
 軍靴が床を蹴りつけて砂埃をもうもうと立てる。  
 野獣の断末魔のような軋んだ音は、声帯をいっぱいに縮めあげた雄叫び。  
 そこには一片の臆病も無い。  
 勇猛な者だけが集い、戦意を高揚させる為だけに特化した音律。  
 互いに鼓舞し合い、高まる勇気を分かち合い、さらなる力を──憎きを屠る力を請い願う。  
 
 そこは、戦場。  
 けれども、戦場という言葉からくる血生臭い印象と「そこ」は噛みあわない。  
 兵士の集団は防壁上できれいさっぱりと二色に分かれながらも、  
 双方は広場によって隔てられ、お互いに攻めかかる気配は感じられないのだ。  
 寧ろひたすらに騒音をかき鳴らし、相手も放つそれに負けまいとしているようにしか見えない。  
 
 その時、硬くなめした皮鎧を黒色に染めた一方の集団が割れる。  
 巨大な貝笛を口に当てた兵が五名現れた。  
 
 ── ボ、オオ、ォ、オオォオォォォ ──  
 
 楽隊と予想される彼らの勇壮な旋律が響くと、両陣営はぴたりと騒音を止める。  
『草刈の輩に勝利の生贄を』  
 黒色の陣が一糸乱れずに唱えれば、  
『皇后陛下の御世に恵光あれ』  
 打ち負かさんと反対側、紫色に備えた陣も一斉に指導者を讃えた。  
 そして、  
 
 ── ボ、オオ、ォ、オオォオォォォ ──  
 
 紫色の陣からも、同様な雄々しいまでの旋律が大気を震わせる。  
 
 
  §  §  §  
 
 
 ここは女系国家キンサンティンスーユ南部、ジャグゥスーユよりもさらに南。  
 緩衝林と呼ばれる地帯に点在する砦のうちの一つ、ピコン砦──  
 要衝とは言えないが最前線に近い部類に入る。  
 詰めている兵士はおよそ七千、砦の機能に拠って守るというよりも討って出て敵を蹴散らし、  
 あわよくば追走して敵砦まで寄せ掛ける機動性が求められた。  
 加えて不利な砦を援護するような遊撃部隊としての役割もある。  
 自然、軽装の兵を中心に編成され軍用のリャマも多数配備された。  
 (軍用リャマとは戦場に着く直前で乗り捨てられる事が前提で、特別な帰巣訓練を受けたリャマの事)  
 
 
>1  
 このような防備が初めてなされたのは約150年前に遡る、ある事件が発端だった。  
 ユリィニシヤ暦341年、一部のジャガー族およそ一万人が蜂起。  
 女性上位の世に不満を持つ彼らは、男性による王政復古を掲げていた。  
 国外南方の緩衝林に拠点を構え、皇館へ離反宣言を叩きつけたのだ。  
 鼻息荒く使者を務めたジャガー族の若者を前にした当時の皇后はどうしたかと言うと、  
 可愛らしく『天の河』を捨蘭、と鳴らしながら、  
「まあ、楽しみ」  
 夕食の献立に好物が出ると聞いた時のように、にこやかに微笑んだという。  
 全く危機感の感じられない発言であったが、皇后の行動は迅速を極めた。  
 
 その日のうちに飛脚を一斉に走らせ、事件の全容を全集落に通達。  
 集落の長だけでなく、立て札にて民一人ひとりに至るまで知らしめた。  
 それには、蜂起したジャガーたち(以降賊軍と呼ぶ)が突きつけた、  
 皇后を非難する文章もそっくり記されていた。  
 ……これには幾らかの理由がある。  
 キンサンティンスーユを統べる君主として後ろ暗いことは何一つ無いという意思を表し、  
 建国以来初となる大規模な反乱に対する余裕と自信をも同時に表す。  
 さらには蜂起した賊軍が女性を拉致していた事を踏まえ、各集落に自衛を促す目的もあった。  
 他にも予備役からの緊急招集、ジャガー族の長を総司令とする鎮守師団の設立、  
 国庫を開いて軍資金の確保、食料・武具等補給物資の増産などが勅として発せられた。  
 
 当時の皇后が採った対策に対して後の歴史家などは一定の評価を与えている。  
 ──国庫をまず第一に開き、戦時増税の開始時期を可能な限り遅延させたこと。  
 ――そして国の余剰資金が尽きる前に、民の総生産を向上させる政策をいくつか打ち出したこと。  
 以上の二つにおいてである。  
 
 これらの政策の中にピコン砦を含む防砦群の建造もあった。  
 緩衝林付近に放った斥候の情報で賊の砦がちらほらと見られたことから、  
 特級建築士と軍関係者の進言に、皇后は一度目を通しただけで建造を許可した。  
 全九個の防砦と全三個の神殿(物資貯蔵を兼ねる)が一年後に完成する。  
 
 戦力の充実、物資の備え、世論の調整──賊軍の鎮圧は時間の問題かと思われた。  
 
 
 
 しかしここで、ある誤算が生まれる。  
 鎮守師団(以降官軍と呼ぶ)が想定していた以上に、賊軍の戦力もまた増強し続けたからである。  
 ジャガー族を中心とする構成は変わらなかったが、  
 彼らだけでなく、ピューマ族やオセロット族からも身を投じる者が続いた。  
 威力偵察の成果を計算すると、その兵数はなんと純粋な戦闘員だけで四万に達すると予想された。  
 官軍総数が六万余であったから一揉みに揉み潰すというわけにはいかない。  
 さらに賊軍は自らを『草刈衆』と自称。(草は初代皇后の蔑称)  
 本拠地マヨルナ砦において催された決起集会では、  
 禁じられて久しいはずの、人間を生贄とした儀式が行われたという。  
 
 この事態に、皇族院・長老院・軍務省は紛糾した。  
 決戦論から慎重論まで…はては賊軍の独立を容認する動きすらあったらしい。  
 そして議論が三千の騎獣隊【ルカノ】、即ち──  
 "侍女"三千と同数"騎化兵"による、ピューマ族最強混合部隊の投入へと落ち着こうとしたその時、  
 
「お止めなさい」  
 物静かで穏やかな皇后の一喝と…一瞬遅れた乳児の泣き声が参内の広間に木霊した。  
 各議員たちは一斉に息を飲む。  
 これまで沈黙を保っていた皇后が、  
「よしよし……ごめんなさいね」  
 御簾を隔ててはいるものの、産んだばかりの乳児を伴っていたその大胆不敵さに瞠目したのだ。  
 乳児が皇后の乳房に吸いつく音を最後に押し黙ると、  
 キンサンティンスーユ国主はやわらかに、流れるように話し出した。  
 
 そして一刻半後、臨時議会はようやく解散した。  
 家路へと、または残務整理へと向かう各議員の表情は一様に蒼白だった。  
 ──誰もが皇后の言う可能性を否定できなかった。  
 ──四代前の皇后からこの事態を前もって予想し、  
    代々練成され続けたその対応策以上を考案することができなかった。  
 
 完璧なる百年の平和を採るのではなく、極少量の不安を抱えた千年の安穏を採る。  
 そういった政治の残酷さを思い知らされた。  
 しかし彼女ら彼らもれっきとした立場ある者。  
 時には民意を操り、最大多数の最大幸福を言い訳に清濁併せ飲む覚悟を持ち合わせていた。  
「そのように肩を落とすことはありません。  
 妾は代々の皇后の遺産を継いでいるだけですから。  
 世を乱す者たちを…強さをはき違えた者たちを一つ処に集わせておく利を解するのです」  
 合同議会の解散を告げる、静かに冷えた音色を思い返したものは皆、畏怖に体毛を逆立てた。  
 
 
 
 ……例えるなら皇后は賊軍を一つの誘蛾灯とみなしたのだった。  
 仮定の話として、あなたは前方にある暗闇の中に蠢く大量の蛾を知覚した。  
 そのまま進んだとすると、  
 目の見えない蛾たちは遠慮なくあなたに頭をぶつけ、あなたは不快な気持ちになることだろう。  
 しかしそこで誘蛾灯を設置すると、  
 光に誘われた蛾たちはあなたではなく、高熱の灯に次々とその身を捧げるだろう。  
 
 これと同じ事を、皇后は代を重ねながら考え出した。  
 誘蛾灯を賊軍、蛾を不満分子、「あなた」をキンサンティンスーユという国自体に、  
 それぞれ例えれば理解してもらえるだろうと思う。  
 ──賊が集う反乱が無ければ、  
    不満分子たちはキンサンティンスーユのあちこちで細かく、いつまでも害をなすだろう。  
    あちこちを手で払わなければならないだろう。  
 そして、  
 ──賊が集う反乱があれば、  
    その反面キンサンティンスーユはおおよその部分で不快とは無縁でいられるだろう。  
    自分本位の力を求める厄介者たちは、南の密林に自ずと集まって行ってくれるだろうから。  
 
 各個撃破の理念にはもとるが、強力な軍を持つからこそ可能な手段であると言えよう。  
 
 このようにして、一種の必要悪として賊たちは求められた。  
 会議での皇后の言を借りれば、騎獣隊の援軍によって彼らを殲滅してはならなかったのだ。  
 反乱が鎮圧されたとしても、またいつか集積した悪意が再び反乱として噴出さない根拠はない。  
 
 
 そして……度重なる内乱による民意の乱れは容易く国の寿命を短くする。  
 皇后はその民の不安を最も恐れ、賊軍と官軍との衝突を長期化させることで、  
 内乱自体を日常に組み込みたかった。  
 ──民にいつか「いっつも南の方でなんかやっとるがぁ、わしらには関係ねぇことだぁ」  
 と思わせることが最大の懸念であり、賊よりも遥かに強敵だった。  
 
 
 
 以上のような経緯により、官軍の増員は見送られた。  
 その後両軍は幾度と無く激突を繰り返し、防砦の攻防に明け暮れた。  
 戦端が開かれた当初は、なかなか決着のつけられない官軍へ非難が集中したが、  
 そのたびに皇后は四代前からの遺産を次々と繰り出していく。  
 才媛五人分の頭脳が代を超えて政策を掲げ、民の生活を徐々に向上させることで不満を慰めた。  
 
 …そしておよそ150年後の現在。  
 皇后は数度代を重ね、民も世代を同様に重ねた。  
 この反乱を勃発当時から知る者は既に老い、  
 今や、国土南部に賊軍がいることは不思議な事でも──恐ろしい事でもなかった。  
 賊軍は官軍が「受け止めて」くれるおかげで、民は平和に暮らせることに満足している。  
 皇后陛下に仇なす敵を「攻めきれない」と不満をあげていた150年前と比較すると、  
 民は政治の導くままに懐柔されたと言えるだろう。  
 
 
 
 ここで、もう少し密度のある戦況の説明へと移ろう。  
 
 官軍総数六万五千余。国力の増加に比例して僅かに兵数は増えている。  
 占有している防砦は賊軍から奪取した二つを加えた、十一防砦、三神殿。  
 
 一方の『草刈衆』三万余。  
 最近ではさらに、賊軍の後方で何者かがいる可能性が高まっているため、正確な兵数ではないと思われる。  
 事実としてありえないはずの増援が認められたからだ。  
 さらに占有砦は六砦、一大砦しかなく、両軍を比較すれば官軍の優勢と答える人間が多いだろう。  
 
 しかし、ここ五年ばかり賊軍も別の力をつけてきた。  
 砦に加えて十五の陣営を設置し始めたことだ。  
 三万余を十隊に分け、合流・分隊を織り交ぜる。  
 そして各陣を高速且つ確率論的に移動することによって官軍へ的を絞らせない作戦に出てきた。  
 陣を攻めても無人である事が多い。  
 そこには占有価値の無いただの柵で囲われた平地があるのみ。  
 さらには手薄になった防砦を急襲され、甚大な被害を受けたことも少なくない。  
 政治の思惑はともかく攻めるに攻めきれず、膠着状態に近かった。  
 
 当然軍務省は表立っては官軍の増員を叫び続けている。  
 しかし、現皇后である十代目皇后はにべもない。  
「現状の保持を最優先せよ」  
 不作ではないが平均をやや下回る近年の生産業は国庫を余分に潤すほどではない。  
 公開された残高と予算を突きつけられれば、軍関係者は黙るしかない。  
 そして頼りの民は「ありがたや」と平和を守る官軍に頭を下げるのだ。  
 民意即ち国の意志──政治に飼い慣らされた民を焚きつけるには、蛮勇も詭術も持てなかった。  
 
 
 
 さらに最近の戦況を詳細に見る。  
 ユリィニシヤ暦501年チュの月2日、東端に連なるヨリコテ砦に賊軍一万が寄せてきた。  
 その日ヨリコテ砦は人員入れ替えの途中で、ワキパル将軍以下たった二千の守兵がこもるのみ。  
 官軍の事情を知り尽くしたような動きは司令部を震撼させた。  
 この時ようやく間諜の存在を疑い始めたのだが、ここでは伏せておく。  
 
 即座に飛脚【チャスキ】が疾走し、近隣の防砦に救援要請が発せられた。  
 しかし、賊は周到だった。  
 オセロット族の隠密兵を伏せ、チャスキを道中で謀殺──  
 さらに間の悪いことに、なんとキンサンティンスーユ全域に雨季が到来したのだ。  
 連日の豪雨に河川が相次いで氾濫。  
 ヨリコテ砦へと繋がる橋脚はすべて濁流に押し流され、絶望的な陸の孤島と化した。  
 
 苦肉の策として、主力を一度賊軍の縄張りへ進め大きく迂回する作戦がとられたが、  
 ……同じくこれも『草刈衆』の手の内に過ぎなかった。  
 雨の中の強行軍は官軍兵たちの体力を奪い、待ち伏せた賊の奇襲に呆気なく倒れる。  
 やがて後方の砦に敵兵の目撃情報が入ると精強な官軍もすごすごと後退するしかなかった。  
 
 まさにヨリコテ砦守兵二千の命は風前の灯であると、誰の目にも明らかなように思えた。  
 
 しかし、ここで事態は僅かに好転の兆しを見た。  
 全て討たれたと思われていたチャスキが一名、命を賭してピコン砦へ辿り着いていたのだ。  
 ヨリコテ砦と連絡がつかないことを怪しんでいたピコン守備団は、目の前で事切れた使者の亡骸に燃え上がる。  
 傷病者を含む守兵千のみを残した六千名をヨリコテ砦岸へ進めた。  
 溢れ返る河水という危険を顧みないその無謀ぶりは厳格な官軍の好むものではなかったが、  
 彼らの心意気に官軍本隊は沸き返った。  
 
 そしてヨリコテ砦が賊の襲来を受けてから四日後。  
 飽きることなく振り続ける大粒の雨の中、ウナワルタ将軍以下ピコン守備団はついに、  
 オグマ千人隊長以下『草刈衆』二五七連隊へと肉薄した。  
 賊軍と遭遇せり、の報を受けた官軍司令部は再度作戦を立案する。  
 各砦へ守兵を多く割り振ったその作戦は、主力をさらに絞った二万をして賊領へ押しやった。  
 これは賊への牽制を主務とし、ピコン守備団が敵残存部隊に挟撃されないようにするためだ。  
 
 
 
 そして邪魔者は止みもしない雨粒のみ、という東端砦の攻防戦は──  
 
 彼らの足元の泥濘のように形勢は二転三転とした。  
 開戦から二日後、ピコン守備団長ウナワルタ将軍が雨水に足を滑らせ転倒――  
 頭を強く打って意識不明の重体となる大事件があったかと思えば、  
 指揮権を受け継いだ『舞姫』のあだ名を持つパシャ斬込大隊長が目覚しい活躍を見せた。  
 隊を指揮すれば、大掛かりな賊方の攻城兵器を壁にして数の劣勢を物ともしない。  
 しかも本人が陣頭に立って賊兵を突き伏せる一方で、  
 苦心して編成した八百名をクク・ロカ侍女に任せ、不安定な泥濘の中で穴を掘らせた。  
 そしてヨリコテ砦へ一隊と補給物資を運び込ませたりと、芸は細やかにして大胆だった。  
 
 一方の賊は設置型の攻城兵器を多数破壊されたことで一旦後退する。  
 
 夜明け直後、手持ちの武器で当初の砦攻めを敢行し始めた。  
 荒天から降り注ぐ大粒の雨の中に、  
 巨大投石紐【ヤトゥン・オンダ】から撃ちだされた大人の頭ほどの岩塊が混じった。  
 
 ヤトゥン・オンダとは、個人で扱える投射武器の一つである。  
 5チルケほどの丈夫な紐の先に岩塊を結びつけ、反対側の端を両手で持って振り回し、投じる。  
 ちょうど『あちら』の世界で言うところの「ハンマー投げ」という陸上競技に近い。  
 ジャガー族の巨躯によって遠心力を加えられた物体は恐ろしい破壊力を生む。  
 
 破城槌や破城斧で弱っていたヨリコテ砦の防壁は、次々とめりこむ岩弾を止められるはずもない。  
 合流を果たした官軍だったが、焦ったピコン・ヨリコテ合同守備団はそれを阻止すべく行動を開始した。  
 しかし善戦していたパシャ斬込大隊長から、  
 長期間防御に疲れきったヨリコテ砦の長ワキパルへ指揮権が移ったのが災いしてしまう。  
 部隊を二手に分け左右同時挟撃を仕掛けたが──これは賊にも予想しえた作戦だった。  
 
 賊は二五七連隊を第二戦隊、第五戦隊、第七戦隊へ分隊して布陣していたのだ。  
 そのため左右から進撃してくる官軍の様子は戦力を半減させた棒攻めにしか見えない。  
 凄惨すぎる各個撃破のいい的だった。  
 投石手の一斉水平投射が無力な官軍の側面を次々に粉砕する。  
 風下に立つしかなかった合同守備団の不運であったとも言えるだろう。  
 水溜りに新鮮な血液をあらたに加えながら、三百余の死体と多数の血塗れた岩弾を残して後退した。  
 
 この時点での両軍の戦力は官軍七千、賊軍九千余。  
 まだ兵数に余力のある『草刈衆』は即座に勢いにのった。  
 加えて、物資が尽きかけていたため決戦を急ぎたかったという理由もある。  
 元々ヨリコテ砦の攻略が二五七連隊の主務で、攻城兵器は豊富であったが武具の備えは少ない。  
 いくら屈強の戦士たちを言えども素手では戦えないということだ。  
 
 各戦隊は合流して、頭から順に二、五、七戦隊が縦隊となって進軍する。  
 砦の西側にどうにか集結した様子の官軍は盾を構えながらも落ち着きが無い。  
 賊軍はそれ幸いと車懸の陣形で突っ込んだ。  
 車懸とは──当時ピューマ国王だったサヤ・クサが野戦で取った陣形の一つ。  
 由来は知られていないが、いくつかの小隊に分けた部隊を次々と相手前衛にぶつける戦法だ。  
 つまり最初に敵に当たった小隊が一旦退くと、すぐ次に新手の小隊が攻撃する。  
 これを繰り返すことによって敵は常に応戦しないといけないが、自軍は休憩を挟む部隊が出来る分有利になる。  
 
 しかし、車懸が二周して官軍の盾をこれでもかと削っていたその時だ。  
 突如砦の防扉が開き、官軍の二部隊が突撃してきた。  
 官軍は投岩からの突撃に恐れて一つにまとまった風に見せかけ、  
 主力精鋭を砦内に潜ませて体力を回復させていた。  
 後退の最中、ワキパル将軍はパシャ斬込大隊長とクク・ロカ侍女が率いる直属部隊に命じたのだった。  
 パシャ隊とクク・ロカ隊はしゃにむに突っ込む。  
 ちょうど『草刈衆』第二戦隊が後退する隙間を狙ったその突撃は、  
 疲労したその隊を後列から文字通り蹴散らした。  
 実はこの時、クク・ロカの放った奇跡が第二の戦隊長に致命傷を与えていたという。  
 
 先頭を賊戦隊が走り、その次を官軍の二隊が追う。  
 車懸の順序から言えば第五戦隊がその後に続き、小生意気な部隊を追い討つのだが、  
 囮を引き受けたワキパル将軍以下は雪辱に燃えていた。  
 ヨリコテ守備団は、物資を運んでくれたクク・ロカ侍女の女神もかくやという激励を思い出し──  
 
 ピコン守備団も自分たちの誇る『舞姫』が、  
 『ハチドリ【クェンチィ】』の如く舞い、冷静に細突剣を振るう姿を思い返し──  
 
 古来より、女性の戦う姿というものは戦意を高揚させるものだ。  
 
 『草刈衆』連隊長としての指揮も出すべき第五戦隊長オグマだったが、  
 突出した二部隊を全力で援護する形になった官軍の猛反撃を受けて、それどころではなかった。  
 自分の戦隊を維持するだけで手一杯だった。  
 ここに車懸の陣形の弱点がある。  
 車懸を用いられる軍隊には二つ条件がある。  
 ……軍全体の指揮に乱れなく統率が取れていること。  
 ……軍全体の力量がはるかに相手軍を凌駕していること。  
 よって、第五戦隊長と『草刈衆』連隊長を兼ねているオグマが全体の指揮を取れなくなり、  
 防戦一方だった官軍が一斉に奮起して戦力を一時的に増した現在――  
 攻撃一辺倒の陣形が役に立たなくなっていた。  
 
 加えて、第七戦隊長はいささか混戦向きの人物でなかった。  
 攻城戦を得意としていたが、それ以外は並以下。  
 あろうことか、第七戦隊を二手に分け第二と第五の戦隊に振り分けたのだ。  
 オグマ連隊長はいらいらと各方面からの使者の応対に追われていたが、  
 そこに第七から派遣されてきた臨時部隊長の顔を見た時、彼に殺意が沸いた。  
 「貴様今から第七に戻ってヤツの首を刎ねろっ!  
  第七総がかりで官軍の背面を突くぐらいやってみせろっ!」  
 戦線維持に追われ、指示を出し切れなかったことを物語っていよう。  
 
 
 
 そしてヨリコテ砦攻防戦は最終局面を迎えようとしていた。  
 増援がないだけに勝負はつきにくく、両軍は指揮系統が残っているのが不思議なくらい著しく損耗している。  
 
 賊軍は……その数八千五百。通じて、約二千が無力化。  
 隊長の不在のままずるずると敗走を続けていた第二戦隊が、第七戦隊の半分と指揮権を得てどうにか復活する。  
 官軍の攻勢をひたすらに耐えた第五戦隊が、ようやく復帰した全兵力で敵を振り切って後退する。  
 さらに、損傷が激しい兵士たちの装備はさらなる戦いには耐えられそうもない。  
 
 官軍は……その数六千七百。通じて、約千三百が無力化。  
 ワキパル将軍は見事汚名を雪ぎ、昏倒していたウナワルタ将軍も意識を取り戻す。  
 また攻防戦全般にわたって活躍を続けた二人の女性の存在が、いやが上にも戦意を鼓舞する。  
 ただ、強行軍からの連戦はかなりの体力を必要として、幾ばくかの休息が必要でもあった。  
 さらにピコン砦から持ち出してきた糧食が乱戦の最中水に浸かってしまい、  
 体力の回復にも時間がかかりそうだ。  
 
 総合して両軍は理由を違えながらも動くに動けなく、援軍も望めない。  
 ここにきて、千日手の状態を呈してきた──  
 
 
 
 ──さてここで、非常に興味深いキンサンティンスーユ地方の風習がある。  
 "決闘【プカラウクァ】"と呼ばれる勝敗決定法だ。  
 
 
 キンサンティンスーユ建国以前三種族は各スーユで王国を築き、  
 国境付近では集落に毛が生えた程度ではあったが、防砦の奪い合いを続けていた。  
 そして時には局地的な長期「睨み合い」が発生することも珍しくなかった。  
 ほとんどの件においてどちらかの援軍によって勝敗は決するが、  
 極めて低確率で単なる消耗戦になることがあった。  
 ……それはどのスーユにとっても好ましくない状況。  
 表立って公開されることはなかったが、豊かではなかった各スーユは徒に物資を消費することを嫌い、  
 画期的な勝敗決定法"決闘"を馴れ合いの如く考え出した。  
 
 攻撃側、防衛側ともに代表戦士一名を選び、両軍の見守る中別の砦にて代表同士を戦わせる。  
 そして勝利した戦士側の軍がその砦の所有権を獲得するのだ。  
 選出された戦士の責任は重大だが、敗れた場合は己の命をもって償われる。  
 一方の勝利者は名誉という確かな褒賞を受け取り、上級将校へ抜擢される場合もあった。  
 "決闘"制度は全兵士にとって一気に躍進する数少ない機会であり、  
 兵役につく者なら決闘によって勝利を収め、出世する夢を一度は見るだろう。  
 
 現在では三つのスーユが統合し、国力も増強…長期戦は可能になったが、  
 何分風習という力は潜在的に意識化に埋め込まれているものだ。  
 男性の英雄願望とも相まって未だに決闘制度は形を残している。  
 
 ──そう、ユリィニシヤ暦501年チュの月15日、雨天の隙間のその日。  
    最も近場のピコン砦において、官軍・賊軍の同意をもち、"決闘"へと状態を移行させた。  
 
 
  §  §  §  
 
 
 ── ボ、オオ、ォ、オオォオォォォ ──  
 
 猛々しい貝笛の音が切れ、再び騒ぎ出した声援──  
「貴様が出てくるとはな」  
 8チルケほどの、二足の獣型をした偉丈夫が吼えた。  
 その高身長と玉蜀黍色の体毛を彩る美しい黒模様から、彼がジャガー族であることが分かる。  
「私が隊の中で一番強い」  
 ちら、と今にも泣き出しそうな曇天を見上げながら、獣の耳と尾を持つ大柄な女性が無愛想に応えた。  
 山吹色をした髪は肩のあたりで外側に巻き、その毛髪は所々で薄く煤けた炭の色をしていた。  
 遠くから見れば黄色と黒色の二色が交互に混じったように見えるだろう。  
 彼女もまた、対戦相手と同じくジャガー族だった。  
 
 男は面白くなさそうに鼻を鳴らし、  
「女ごときに……だらしない」  
 その鋭い眼光は彼女の後方で、得物を打ち鳴らす紫備えの官軍へと向けられていた。  
「だが、ハチドリ【クェンチィ】は三刀流ではなかったか」  
 再度目の前の女性へ視線を戻す。  
 そして、ぎゅ、と黒色の皮鎧が擦れ、  
「ジャガー族が伝統…戦爪は左右二つのみ。貴様が使いこなせるか」  
 右の手首から、手甲と一体になった黒光る三本の爪が決闘相手へと向けられた。  
 
 戦爪【フィニャシッル】──ジャガー族が太陽神ウィラコチャから授けられたと言われる神聖武器。  
 肘から手首までの手甲と一体になっていることが多く、  
 
 手首から先に二本から五本の刃が、刃渡り〜1チルケ半で生えている。(1チルケは手首から肘までの長さ)  
 この得物を両手に戦うことはジャガー族にとっては神聖な戦いであることを表す。  
 余談だがピューマ族は【フィニャチュナム】特殊な形の穂先を持つ短槍、  
 オセロット族は【フィニャフュル】扇のような展開式の短刀が種族別神聖武器として知られる。  
 
 
 
「侮らないで」  
 一方の女性兵士は言葉短く吐き捨てた。  
「クェンチィは翼と嘴だけではない」  
 相手と同じように、右手の銀色をした刀身を持つ戦爪をゆっくりと持ち上げる。  
 その表情には…何も無い。  
 冷酷とも冷血とも見る者もいるだろう。  
 もっとも、自分の命を絶つかもしれない相手に慈しむような顔をされても困るが。  
「時にはその鋭い爪で捕まえる」  
 彼女の戦爪は男の黒光りするそれとは違う。  
 言うならば速さを活かした連撃を考慮に入れた造りだ。  
 長さは足りない射程を補うべく1チルケ半限界、刃は刀身を支える根元を除いて薄い。  
 その代わり爪身は五本が連なり、欠けてしまっても補えるようにしてある。  
 
 黒色の鎧を着込んだ『草刈衆』代表が、じりじりと黒爪を近づける。  
「降るなら今のうちだ、パシャ」  
 ぐわ、と黄色い牙を剥き出し、全身の筋肉が急激に盛り上がった。  
「命だけは助けてやる……ひび割れた肉の器としてだがな」  
 今にも弾けそうな気負いが体毛を逆立て、周囲を圧倒する。  
 
 パシャと呼ばれた官軍代表も銀爪を伸ばす。  
「冗談。それも面白くない」  
 戦爪を装備する腕は細く、紫色の皮鎧をまとう身体もどちらかといえば華奢に見える。  
 しかし見劣りする容姿ながら、彼の闘志を見事に受け止め──いや、無関心に跳ね除けている。  
「私の裸を前にして勃たなかったのを忘れた? オグマ」  
 パシャは挑発するように、指をくいくいと曲げた。  
「うぬ!」  
 さあ、とオグマと呼ばれた賊の顔色が変わる。  
「言い返せないのが、あなたの限界。そして──」  
 
    "  ギャリ、リンッ  "  
 
 甲高く耳障りな、金属が重なる音──  
「この醜女がぁっ!」  
 オグマはパシャの戦爪を跳ね上げ、後方に跳んだ。  
「……」  
 同様に彼女も退がり、無言で武器を構える。  
 
 
 
   『決闘開始ぃッ【ウィプハル・オクハル】!』  
 
 
 
 互いが得物を触れ合わせるのが決闘開始の合図らしかった。  
 ピコン砦の防壁上で二色に分かれた官軍・賊軍ともに、より大きく騒ぎ出す。  
「太陽神ウィラコチャよ…」  
「おお、我らが主神。この猛きジャガーを…」  
 ジャガー族の男女が…彼と彼女が唱える神の御名は同一だ。  
 同じ神を信じながら互いに命を削るそれは、ある種の滑稽じみた趣きがある。  
 
 パシャは真っ直ぐに前を見つめ、両手に備えた銀爪を顔の高さまで持ち上げる。  
「照覧あれ……」  
 五本の刃のうち三本ずつを使い、褐色の頬に三本の赤い血線…左右合わせて六本の線を引いた。  
 弾かれて飛び散った血液は後方に、山吹色をした肩までの髪に赤色を加える。  
 この儀式めいた行動に名は無い。  
 しかし女性兵士にとっては重要な儀式と言える。  
 初めて女性が戦場に出たとき、その頬に雄々しく伸びる髭が無いことを男が散々にからかった。  
 するとその女兵士は手にした短刀をざくりと頬へ突き刺し、自らの血で髭を赤く描いたのだ。  
 その剛毅な女性の名も種族も知られていないが、  
 それ以来、戦う覚悟を示すために女性は頬を傷付けるようになった。  
 
 傷口から流れ落ちるそれに構う素振りすら見せず、パシャは背を丸める。  
 その様は獲物に飛び掛らんとする、肉食獣を彷彿とさせる。  
 冷静そのものの彼女とは対照的にオグマは見事は逆上していた。  
 小さめの目はいっぱいに広がり、ぎりぎりと血走っている。  
 ただ、代表に選ばれる程の戦士だ。  
 その構えに隙はなく、中段に揺れる黒爪は狙いをすましつつその狙いを悟らせない。  
(…それなら)  
 ふわ、とパシャの踵がほんの僅かだけ浮き上がる。  
 彼女の変化を見抜けた者は非常に少なかった。  
 両軍の手錬れた戦士だけが、パシャが先に仕掛けることに気付いただろう。  
 その手練れの中にオグマも含まれていた。  
(なめ──)  
 極限まで頭を低くして突進する紫色の弾丸から、銀光がするすると伸びるのを見て取る。  
「──るなっ!」  
 腰だめた黒爪をその銀の軌跡へ薙ぎ払った。  
 
 彼としてはその薄い刃を半分ほどは折りたかったのだろうが、  
 パシャとしてもむざむざ折らせるつもりはなかった。  
 巧みに腕の力を抜くと黒爪の剛力を受け流し、銀爪を守る。  
(……さすがは)  
 びぃん、と鳴り痺れる左の戦爪を感じながら、右の五連爪も突き出す。  
 その狙いは──神聖武器を薙いだばかりの手首。  
 
(ちょろちょろ、とっ!)  
 オグマは手首を返し、爪身同士を絡み合わせた。  
 彼の装備した戦爪は猪口才な小娘のそれほど脆くはない。  
 鍛えに鍛えぬいた三本の鋼は、ジャガー族男性の腕力に充分耐えうるものだ。  
 即座に肘をねじってか細い武器ごとパシャを引き寄せる。  
 
 ──しかし、それすら彼女は利用する。  
 地面を蹴りつけ意表を突く。自由な左爪でオグマの喉元を薙いだ。  
「うぅお…おっ!」  
 
 オグマは限界まで上体をそらして避けようとするが、完全にはかわせない。  
 目の前を一陣の突風が通過した後には、ちり、とした熱が喉を走った。  
「女ごときの切れ味」  
 戦場にある時は、曲刀を装着していた山吹色の尾を一振りし、  
「なめないで」  
 パシャもいくらか猛っているのかもしれなかった。  
 言葉数の少ない彼女にしては珍しい。  
 そして相手に左肩を見せる半身をとった。  
 
 パシャの得意とする構え。  
 先日のヨリコテ砦攻防戦では賊軍を次々と突き、魂を地下世界へと誘った。  
 両手に装備した細突剣を鮮やかに繰り出しながらも、  
 尾に縛りつけた鉤針のような形の曲刀でやや防御の薄い背中側を守る。  
 「ハチドリ」「三刀流」と呼ばれる所以だ。  
 しかし……今日の得物は両手の戦爪であったはずだ。  
 背中側に回り続けられれば、不利になるのは明らかだろう。  
(甘いな、小娘)  
 戦士の直感もそれを感じ取る。  
 決闘に緊張し平常心を失ったのだろう、と。  
 無口だった過去の女を思い出し、自分を煽るような発言をしたのも頷けた。  
 黒爪を中段に戻し、  
(勝てる……!)  
 オグマは勝利の血酒を飲み干すための第一歩を踏み出した。  
 
 
    " シャッ──ギィンッ "  
 
 
 素早い何かが空気を裂き、金属が悲鳴をあげる。  
「……くっ!」  
 自信を漲らせていたはずのオグマは、目をむきながら武器を交差させて防御をとる。  
 …と、そこに再び危険な風が襲い掛かる。  
「っ! 何だ、それはぁっ!」  
 一撃目とは向きも角度も異なる爪撃に、屈強なはずのジャガー戦士は元の位置に戻らされた。  
 『草刈衆』の部隊を預かり、これまで何人もの官軍兵の鼻先を蹴飛ばしてきた。  
 そのような歴戦の彼が見たことのない戦爪の扱い方を…よりによって女が考え出すとは信じられなかった。  
 加えてどうやらその爪捌きが強いらしいと直感してしまうのが腹立たしい。  
 
「これ? キオに教えてもらった」  
 パシャの構えは先程とそう変わらない。  
 しかしその左腕の動きが奇妙だった。  
 半身のせいで一番前に出ている左腕がだらりと下がり、ゆらゆらと左右に揺れている。  
 そして肘は直角気味に曲げられ、銀爪はというと相手の方を向くべき切っ先が何故か横を向いている。  
 
 ──のだが。  
 
「ぁ、あっ!」  
 オグマはその爪の閃きを捌ききれずに、手甲で受けるしかなかった。  
 このままではいつかこの硬化皮革の手甲もぼろぼろになり、血が噴出すだろう。  
 続々と流星が大気を銀色に描いて飛び掛り、受身では不利と見たオグマは前に出る。  
 
 (…軌道が…)  
 彼はひとまず、一度仕掛けたかった。  
 その頼りない銀爪をへし折ってやればいつでも逆転できるはずだった。  
 確実にこの爪を血の管に差し込み、息の根を止められる。  
 しかし、  
 (…軌道が、読めんっ!…)  
 すでに六度、パシャの奇妙な左手だけの爪運びを受けているにも関わらず、  
 全ての軌道がムチのようにしなり、不規則で視覚しきれない。  
 七度目の銀光が輝き、オグマはたまらず後退した。  
 
 
 
    ──「それはフリッカースタイルっていうんだぜ」  
       「あちらの言葉を話さないで。分からない」  
       「難しくねーって。拳を点滅させるような戦法ってことだ」  
       「まあ、いい」  
       「教えてやったのに、まあいい、はねーだろー!」  
 
 (キオ……)  
 つい三年ほど前に『落ちて』きた雄のヒトのことを、パシャは思う。  
 「ツキオミ。キオって呼んでくれていーぜ」  
 命の恩人の元へ、体調が回復したという彼の元へ見舞ったとき、そう自己紹介をしてくれたものだ。  
「はっ!」  
 気合とともに爪身を飛ばす。  
 まだオグマは防戦のままに対抗手段を出せないでいる。  
 うまく防いではいるが、手甲がその用をなさなくなった時が勝負だ。  
 それまで左の銀爪が保ってくれればそれでいい。  
 パシャは右を温存し、勝利のための切り札とするつもりだった。  
 
    ──「足も使うんだよ、ご主人サマ」  
       「足?」  
       「こーやって…足踏みしながら、距離を保つ」  
 
 (よし…やってみる、キオ…)  
 頭の中でムチを振るうときの感触をなぞり、左腕そのもので体重をのせた一撃を突き出す。  
 
 
 
「…はぁ……はぁっ!」  
 オグマは牙を噛んで耐える。  
 散発的に打ち払う己の黒爪はパシャの体をとらえることはない。  
「この、俺様がっ」  
 吠えるだけでは勝てなどしない。  
 それは彼にもわかっている。  
 しかし、十度目を超えた爪撃のあたりからパシャは軽快に周囲を動き回る。  
 さらに捉えにくい。  
 軌跡すら体系化できないのに、攻めの起点すら危うくなっては側面をとられるのも時間の問題だ。  
 またも封じ込めるかのような銀閃が絡みつき、  
「おおおっ」  
 オグマは出鱈目に迎撃する。  
 
 
 がぎっ、と黒爪が幸運にも払いのけた。  
 オグマはほっと安堵し――  
「──っ!」  
 (退けて…守れたことが誇れるものか!)  
 思わず安心してしまった自分への怒りを、そのまま攻撃に転嫁する。  
 オグマは右爪ですくい上げるように斬りつけた。  
 その一撃はパシャの見積もりよりも踏み込んだものだった。  
 余力を残した跳躍で大げさなほど飛び退り、距離を開けようとする。  
(させんっ!)  
 オグマは、今までのように舞われても今度こそ手甲が用無しにならないという楽観をする気にはなれなかった。  
 湿って固まった地面を足先で噛み、息を吸い込んで突進する。  
 
 オグマの視野には急速に大きくなるパシャの姿──  
 …と、その身体がぐらりと揺れた。  
 初めて見せた対戦相手の隙にさらに加速をすすめる。  
 このまま均衡を崩したパシャにぶちかまし、組み伏せてしまえばいい、と。  
 オグマは首をすくめ、右肩を怒らせて走りこんだ。  
 
 彼女も一級の戦士──山吹色の尾で器用に反動をつけて身体を思い切り右側へと放り出す。  
「あぁっ、ぐぅ!」  
 それでも男性ジャガーの巨体は女性の華奢な身体を捕捉するに充分だった。  
 重い衝撃を受け、パシャは回転するように弾かれてしまった。  
 オグマは獣のように四つ足になり、速度を殺す。  
「っしゃあっ!」  
 小石が巻き上げられて気味の悪い音をたてる。  
 それは、ごつい武器爪と相まって先祖返ったジャガーのようだった。  
 
 
 
「オ、グマっ……なにを…し、たっ……」  
 名を呼ばれた彼は背後に弱々しく霞むパシャの声に、余裕を持って立ち上がる。  
「貴様の鍛えが足りぬということだろう」  
 そして振り返ったジャガーの顔は残忍そうな色をはっきりと、含んでいた。  
 パシャはうつ伏せに倒れこんだまま起き上がることができない。  
(身体が……くぅぅ…)  
 あの程度の体当たりなら、二十三の少女の時から戦場に慣れ親しんだこの傷だらけの身体は何度も受けたはず。  
 そのはずだった。  
 しかし、従順に縦横無尽に戦爪を振り抜いていた腕はひくひくと痙攣するのみ。  
 さらに左腕だけではない。  
 右手も両足も、尾も、舌でさえうまく動いてくれない。  
 
「あ…ぁ……あ、うっ!」  
 悠然と接近したオグマの足音が止まった後、パシャは首の根をぐいとつかまれた。  
 そのまま幼子のように軽々と持ち上げられる。  
「…おぐま…ま、さかっ…」  
 パシャの目には味方…紫色の官軍が写った。  
 そして彼女は気づいてしまった。  
 背後の賊軍からは勝利を確信する喚声が、視界内の官軍からはどうしようもない絶望が鳴り響いていることを。  
 
 
 オグマは内々からこみ上げる歓喜を抑えきれない。  
「もともと、つまらぬ保険のつもりだった」  
 大衆が見守るこの栄光の場で、全ての者が勇者である自分を誉め、讃えている。  
「このような奥の手を使わせたこと、ほめてやる」  
 そして装備した神聖武器を巡らせて、敗者となった生意気な女兵士のそれへ絡ませる。  
 随分と予定は狂ったが、当初の予定通り──薄い刃をひねり折った。  
 無力化した雌の銀爪を一本一本断ってやるごとに腰の奥が打ち震え、  
 射精しそうなほどの快感が彼の全身を駆け回る。  
「あの、とき……ど、く…」  
「ほう」  
 身体全体が痺れていようとも思考までもとはいかない。  
 そこまで強力なものは不自然すぎる症状を現してしまうからだ。  
「いかにも。爪合わせの時に仕込ませてもらった」  
 遅すぎる後悔をしているであろう女に、オグマはせせら笑う。  
 地下世界への土産とばかりに種を明かした。  
「痺れ毒を、な」  
 
 彼は卑劣にもパシャの右爪へ毒を付着させていたのだった。  
 決闘開始の合図時──  
 離れる間際に投じた粘着性の、指爪ほどの大きさの胞子袋はパシャの銀爪に触れて拡散する。  
 銀刃に塗布されたそれはまず……対戦相手のオグマではなく、パシャの両頬の血線へと潜り込んだのだ。  
 少量であったため即効ではなく、そして遠目にはやがて彼女が自然に足を滑らせたように見えるはずだった。  
 さらに、パシャによって万が一傷つけられることがあっても、  
 量の減じた痺れ毒はオグマの巨躯を侵すほどの強さをもたない。  
 
「痴れ、も…の…はじを…し、れ」  
「知らんな」  
 コカの亜種の粉末によって身体の自由を奪われた女は、それでも必死にもがく。  
 それを見たオグマは本拠地の砦で盛大に行われた「祭祀」を思い出した。  
 あの女性たちは今のパシャよりも遥かに強力なコカで泥酔させられていたが、  
 贄の縄を打たれ、犯されつくしていた。  
「貴様が早々に負けていればこうもならなかっただろうよ」  
 女性を虐げることに快感を覚えるような環境に親しんだオグマは平然とうそぶく。  
 一時は官軍に身を置いていたことが、ひどく損をしていた気分にさせてくれる。  
 『草刈衆』こそ我が故郷──オグマはもう、キンサンティンスーユに愛想を尽かしていた。  
 
「悔しかろう? 本陣に持ち帰り、兵たちの慰み者にするところだが……」  
 オグマは今までに幾人かの女性捕虜を得たことがある。  
 そういったとき『草刈衆』では、  
 虜囚とした隊の人間がその女性を殺さない程度に好きにできる権利が認められていた。  
 逆に犯し殺した場合には、本人の頭部へ五十発の棍棒打ちの罰が与えられる。  
 当然のようにそれに耐えられる者などおらず、そうした死体は局部を切り取られて打ち捨てられる。  
 死して尚、男性としての尊厳を奪われる程に女性の価値は高い。  
 というのも──  
 彼女には本拠地において、延々と兵士と交わることを、新たな兵士を産むことを望まれているためだ。  
 『草刈衆』内で女性は男性の性欲処理道具であり、休みなく子を産むための道具にしか過ぎない。  
 子を多数産み続けた女性が早く逝くことになったとしてもそれを上回る供給があれば済むこと。  
 
 華奢な身体を持ち上げていない方の黒爪を天高く突き上げると、オグマ子飼いの部下たちはさらに汚く罵った。  
「孕めん石女に用はない」  
 
 そして凶刃をパシャの皮鎧…胸元へと伸ばす。  
 切っ先が蠢き、軍衣を裂いて潜り込む。  
「や……やめろ、やめ…」  
 呂律の怪しいながら、なすがままの彼女の声にかすかな狼狽が混じった。  
「その汚い傷を晒してから死ね、醜女」  
 バリッという嫌な音をさせて、硬化皮革が接着剤や止め具とともに無理やり引き剥がされた。  
 痺れたままの身体にそれを止める手立てがあるはずもなく、無残に彼女の上半身が露になった。  
「ぁ…ぁ」  
 首の根元を固定されているのでパシャは嫌でも見てしまった。  
 自らの裸身に走るそれを見た味方が眉をしかめ、目を逸らす。  
 絶望と憐憫と嫌悪の表情に、ぐるぐると混じりながら染まっていくのを見てしまった。  
 
 パシャの裸身は褐色の肌にほどよく筋肉という張りを備え、  
 鎧に蒸れて汗ばんだせいでかえって滑らかさを際立たせている。  
 そして女性だけの双丘は豊かに実り、押さえつけていた胸当てを外されて恥ずかしげにふるふると息づく。  
 ──しかし、美しく肉感的な女性らしさよりも何より、  
 左の乳房から右の腰骨にまで太く引かれた火傷と思われる引き攣れた傷痕がすべてを圧倒していた。  
「はーっ、はっはっ!」  
 オグマの得意げな嘲笑にパシャは可能な限り顔を背けた。  
 どこを向いても彼女を暗鬱にさせる風景しかなかったが。  
「貴様らが愚かにも憧れた舞姫は、このような醜い女ぞっ!」  
 濡れた雑巾を叩きつけたような音をさせて、まとわりついたままの革片と軍衣を振り払ったようだった。  
 その躊躇いのない刃は易々と皮膚を裂き、脂肪を貫き、心の臓へと突き立てられるだろう。  
 
 ただ──  
 
 (キオ…)  
 彼女は視線を人垣に走らせる。  
 二度目の死期から救い出してくれた、従者として尽くしてくれた、この醜い傷痕を優しく愛撫してくれた──  
 (キオ…キオ…)  
 大切なヒトの姿を一目見てから、瞳の奥に焼き付けてから逝きたい──  
 
 
 
  「待てよ、おっさん」  
 
 
 
 その声は彼女にとって聞き慣れた響き。  
 しかしこの場にあるはずのない幻聴、なはずだった。  
「キ、オ」  
 そう思いつつも眼球を限界まで声のした方向へ向ける。  
 そこには彼女の、頼れる従者の姿があった。  
 官軍兵に支給される紫色の皮鎧を身につけ、無造作に広場を歩いて来る。  
「きた、ら、いけない……!」  
 パシャは肺の中身を絞れるだけ絞って大声を出そうとするが…当然のように叶わない。  
 
 彼の身長は6チルケ半に及ばないほどだが、  
 薬草で金色に染めた頭髪はちりちりと焦げたように捻れ、ヒトの足りない身長を補うように方々へ伸びていた。  
 観衆のうち幾人かは彼の頭を奇妙な海栗か、珍妙な枯れ草溜りと思うだろう。  
 
 獅子の鬣と呼ぶには、ヒトである彼には不似合いだ。  
 肌はオセロット族の女性と見間違えるほどの白さ。  
 ただ、今や頬に血を昇らせ、化粧を施したようだ。  
「神聖な決闘場へ踏み込むな、下郎!」  
 パシャの耳元でオグマが怒鳴りたて、つられて賊軍も怒号を次々に上げる。  
「退がれ!」  
「ヒトごときが…主人は誰だ!」  
「オグマ様、そいつも血祭りに!」  
 防壁を乗り越えようとする者もちらほらと見える。  
 
 その自分と同じくらいの体躯にどれ程の勇気が詰まっているのか、パシャは痛々しいほどに……哀しい。  
「く、る、な…キオ…」  
 卑劣な手段を使われはしたが、決闘に負けた主人に従者の彼を巻き込みたくはない。  
 殺されるのは自分一人でいいはず──  
 (──なのに、なのに)  
「くるなぁ…」  
 頼れる存在をついに見つけてしまったパシャの心は、どうしようもなく彼が来てくれたことを喜んでいる。  
 
 
 
「毒使うような下郎に言われたくねーなっ! あぁ!?」  
 
 ヒトとしてはどうだか分からないが、  
 オグマと比較すればひ弱なほど細い身体全体で張り上げた叫びは、喧騒を一瞬で吹き飛ばした。  
「……な、何っ!」  
 ざわざわと敵味方問わず、防壁に小波がたち始める。  
 身を乗り出していた賊軍もその動きをぴたりと止めてしまった。  
 金髪のヒトも、パシャをぶら下げるオグマまで二十チルケほどの距離で立ち止まった。  
 
 それほどまでに毒物を使うことは決闘において禁忌だ。  
 階級を剥奪されるだけでなく軍という集団から永久追放されてもおかしくはない。  
「言いがかりはやめろっ!」  
 オグマという人物を一部なりとも知るパシャには、彼が動揺しているのが分かる。  
 強いのはその武芸だけで、根拠なく肥大させた自尊心の他は子供並みだ。  
 …ただ、その過信は昔のパシャも含めて考えの足りない者には頼もしく見えるものらしい。  
「そうだっ! 隊長を侮辱するな!」  
「殺せぇっ」  
 現に賊兵たちは盛んにオグマを援護している。  
 
「っるせえ!」  
 またもや狂騒はヒトの一声で頭を打たれた。  
 彼は堂々と衆目にその身体をさらしている。  
 声量ではなく声質、音波のもつ迫力だ。  
「俺は一つ特技がある」  
 まるで、ヒトの身分でキンサンティンスーユの兵に立ち向かうという彼の本質そのものだ。  
「遠くにいてもそいつが何を言ってるか分かっちまう」  
 大げさに体を動かし、敵味方区別なく惹きつけ──  
「その口の動きでな」  
 
「嘘じゃねーよ!」  
 彼は周囲をぐるりと見回しながら、ざわつく観衆を丸め込むように続ける。  
「俺はこいつら二人の会話全部分かったぜ。例えば……そうだなー」  
 一拍開けてからほくそ笑み、口の端を吊り上げた。  
「おっさんが昔パシャを抱けずに、肉棒おっ勃たたずにひいひい逃げ帰ったこととかなっ!?」  
 二つの陣営の所々から、誰かがたまらずに吹き出した笑いが聞こえた。  
 敵方である『草刈衆』を含めて、金髪の捻れた針頭を止めようとは思わなくなっていた。  
 決闘に乱入してきたのがキンサンティンスーユを支える三種族のいずれかであるならともかく、  
 力の弱いヒトであることが、彼にどこか道化じみた面白さを付与していたからだ。  
 劣るヒトが何するものぞ、と。  
 彼を知らぬ者は皆……決闘を見守る観衆は、自然と一つの道化劇を観る観客となっていた。  
 
 ふと見ると彼は大仰に肩を竦めて、  
「意気地ねーなぁ、おっさん。こんないい女放って……賊に寝返ったなんざ」  
 やれやれ、と言うように首を振っていた。  
 その仕草がいちいち絵になる男だ……道化【カニチュ】としてだが。  
「なっさけねー男だ」  
 そう言い終ると、金髪のヒトはその瞳に精一杯の凄みを利かせてきた。  
   
 何枚の舌が生えているのかと思うほど、口が止まらない。  
「そいつを、放せよ……俺のご主人サマをよ」  
 戸惑いかけていたオグマがその言葉に復活する。  
「は…ははっ! これはいい!」  
 始めは乾いた笑いだったが、次第に勢いがついてくる。  
「種無しと石女とは、似合いすぎるぞっ!」  
 ヒトはキンサンティンスーユの民と交わっても、子をなすことがない。  
 よって雄のヒトをさらに卑下する意味で「種無し」と呼ぶことがある。  
「主人も愚かなら、奴隷も愚か。負けたからと言って、毒を使ったなど難癖をつけおって……」  
 そしてオグマは黒爪を天に突き上げ、それからゆっくりとパシャを主人と呼ぶヒトへ突きつけた。  
「この戦爪に一欠けらたりとも毒などないっ。太陽神ウィラコチャの御名において誓う!」  
「ああ、そーだろーな」  
 言い出した本人なはずの彼の口からあっさりと認める発言が飛び出した。  
 それに周囲が気付くと同時に、彼は言葉を自分で継いだ。  
 
「お互いの戦爪に細工がねーか確認したはず、もちろん所持品もな」  
「それならっ──」  
「──けどよ! おっさんがその足の裏に隠してる、パシャの戦爪はどーよ」  
「…それが、どうしたっ!」  
 目ざとい者は戦で鍛えられた動体視力でとらえたことだろう。  
 オグマは重心をわずかに移動させたように見せながら、小さい目を動かして足元を探っていた、と。  
「そこから毒が出たら……」  
 遠目からも聴衆の幾人かが気付いたくらいだ。  
 それほど距離の開けていないヒトの彼も、どこか満足そうに首を縦に振った。  
「……おそらくかなりの少量だろーが、薬師の手にかかれば明らかだろーよ」  
 さらに彼は続け、息を切らすことなく毅然とした調子を崩さない。  
「おっかしーだろ。検査したのに出ねーはずの毒物が出る……おっさんがパシャの爪に仕込んだんだ」  
「それは貴様らも同様だ! 俺様を検査したのは貴様らの身内であろう!」  
 そこで金髪の彼は視線を横に向け、上を仰いだ。  
「言ったろ? 俺は口の動きが読める。パシャの口から「どく」って出たときピンときた」  
 
「──おい、チタラ!」  
 すると計ったように、防壁の手すりへ一人のジャガー戦士が連行されてきた。  
 その彼は項垂れ、後ろ手に縛されている。  
 そして縛縄の端を握る官軍兵士たちのうちの一人がチタラと言うのだろう。  
 舞台のヒトに向けて拳を突き上げ、彼も同様にそれに応える。  
「ぜーんぶ吐いてくれたぜ、証拠ありだ。おっさんが趣味悪くパシャをひんむいてる間に、な。  
 おっさんの検査役は間諜……裏切り者だ」  
 
「おっさんが毒持ってるの、見逃してたんだよなぁっ!」  
 滝が落ちるようにとはこのような事例を言うのだろうか。  
 キンサンティンスーユ国土を三つに分断するアマル・マョ川の遥か上流に位置するそれのように、  
 彼は急転直下の勢いで話の筋を組み立て、そう断定した。  
 一瞬しん、と静まり返ったのも束の間……どこから始まったのかざわめきは広がりつつある。  
「種明かしはそれだけじゃねー!」  
 しかし、壇上──実際は防壁上から見ると下方だが──のヒトが腕を一振りして叫ぶと、  
 全員がその奇妙な金髪に目を移し、展開を待ち受ける。  
 
「ついでに俺は見た。俺はおっさんが……その黒光りする武器を布で拭ったのをな。  
 どうして一度もパシャを傷付けられなかった刀身を、拭き取る必要があるっ! 血なんか付いてねーのにっ!  
 ……じゃ、それはどーしてか。  
 賢いヤツならもー分かるよな。  
 パシャの爪に毒を塗ったなら、あれだけ何度も打ち合ったんだ…おっさんの爪にも毒が付着していたはずだ。  
 だから──  
 
  『自分の武器に少しでも毒が付いてるのが我慢ならなかったから、つい拭ってしまった』んだ。  
 
 黙ってれば分からねーものの……迂闊な発言と行動で台無しだ」  
 
 そして彼は一つ、深呼吸をした。  
 まるで理解しきれていない観客の呼吸に合わせるかのように。  
 
「ははっ、ご丁寧に太陽神に誓っちまったんだから言い逃れすんなよ?  
 まー今更だがこっちには証人がいるから、パシャに毒物反応が無いってことはまずねーはずだがな!」  
 
「分かるやつだけ応えてくれればいーぜ!  
 色々と、仮定潰しの話はすっ飛ばしてるからな――」  
 
  ── そら、おっさんの負け、だよなぁっ !? ──  
 
 確かなどよめきは爆発的に連鎖反応を生じた。  
 火付け役がいるのかもしれなかったが、  
 紫色のケモノたちは怒りの鏝を押し当てられて狂ったように雄叫びをあげていた。  
 一方の黒色の賊軍は今や主役の一人となってしまったヒトの発言の意味を理解できるだけに、  
 当惑の面持ちで見詰め合う。  
 
「ほら…おっさんはさっさとパシャを放せ」  
 道化から役者へと羽化を果たした彼が、ゆっくりと近付く。  
「うる、うるさいっ! 寄るなっ!」  
「……ホント、なっさけねー男だ……」  
 乱入した人物のせいで大いに格を落としたオグマは勢いに押されて後ずさる。  
 
 さらにぶら下げたパシャの首下に黒爪を押し付けて脅しをかける。  
「勝者は俺様だ、砦は…草刈の同胞のものだ…」  
 血走った小さな目は瞬きすらせず、黄色い牙の隙間には唾液の泡が絶えない。  
「いーぜ。くれてやるよ、あんなボロ砦」  
「……は?」  
 一兵士に過ぎない彼の言葉は、越権行為という意味そのままだ。  
 しかし、紫色の聴衆は己の身に湧き上がる血肉の衝動を抑えきれない。  
「決闘の勝ちはくれてやるって言ってんだよ、おっさん。  
 毒物仕込むような卑怯な賊なんざ、追い立てる価値すらねー!  
 さっさと尻尾丸めて、自分たちで壊した砦に帰れ!」  
 厳格な規律で縛られてはいるが、ピューマ族もジャガー族も、オセロット族も、元を糺せば獰猛な狩猟民族だ。  
 その気質は気高く、確実な強者としての裏打ちをされた誇り高き魂【ノホティペ】は赤々と心に実っている。  
 弱者に過ぎないヒトの彼に、こうも清廉な誇りを見せ付けられては──  
 
「──てめーらも、そー思うだろぉ!?」  
 
 奮い立たぬ者など、この舞台には皆無──  
 
「でもよ、そいつ殺したらどーなるか分かってんだろーな。  
 てめーらはともかくキンサンティンスーユでは女は宝だ……例え、子が産めなくてもな。  
 ……ピコン砦の女神が一柱、舞姫パシャを殺したら寛容な俺らも黙ってられねーよ!」  
 
 観客全てが身を乗り出し、空想の舞台に上がり、彼ら一人一人が役者と化していた──  
 
「──だよなっ!?」  
 
 
 
 興奮と狂熱の坩堝の中心で、  
「もう一度言うぞ、おっさん。ご主人サマを放せ」  
 針頭を風に靡かせた彼が幾分穏やかな声で諭すように促した。  
 やがて…観念したのかオグマは手をゆっくりと戻し、磔られていたパシャも崩折れた。  
「いい判断だ、オグマ連隊長さんよ」  
 ジャガー戦士は立ち尽くす。  
 彼の名を初めて呼んだヒトの声音には、かすかに侮蔑の色が含まれていただろうか。  
 しかしその顔にははっきりとわかるほどの安堵が現れていた。  
 今までずっとオグマを睨みつけていた視線は、ようやくにして己の主人を捉えらている。  
「そうだな。その石女に、我らは価値を与えない……」  
 オグマが低く呟き──黒色の巨躯はうずくまるように頭を屈めた。  
 
   " バ、シュゥッ "  
 
「──ちぃっ!」  
 無造作に近付きかけていたヒトは、その黒い風圧に飛ばされたように地面へ転がり、オグマの黒爪を避けた。  
「……しかし、俺様を侮辱した。貴様は……許さん」  
 払い終わった刃は既に元の位置に戻って揺れている。  
 オグマの血走っていた小さな目はさらに血流を増し、紅そのものの瞳と化していた。  
 両手の戦爪を構え、筋肉を隆々と盛り上げる。  
「……ヒトごときに大人げねーとか思わん?」  
 彼も一挙動で俊敏に起き上がった。  
 
 自らの主人と同じように左肩を前にした半身に構える。  
 両の拳は軽く握られ、得物らしい物は何も持っていない。  
 さらに両手は顎を守るように引き上げられた。  
「なっさけねー……」  
 そして、トトン、と足を踏む。  
 機敏に前後左右へ飛び跳ね始めた。  
 こちらはパシャよりも調子が速い。  
「ま、いーや。喧嘩売られたら買うしか、ってな!」  
 そうして彼は口中に指を入れると、かちりと歯を鳴らした後すぐに引き抜いた。  
 指先には赤い血が押し出され、女性兵士と同じように両の頬に赤い線を描いた。  
 
 歴史上初となる"決闘二回戦"が始まろうとしていた。  
『決闘だぁッ【ウィプハル・オクハル】!』  
 紫色の官軍が熱狂的に叫び始める。  
 賊軍は戸惑いも甚だしかったが次第に釣られるように、声量を増して連隊長を応援しようと続く。  
「ウオオオオッ!」  
 ケモノの咆哮を上げてオグマが肉迫する。  
「…っ!……!」  
 しかし、有能な戦士としての爪捌きは一向に当たる気配がない。  
 逆にヒトは着実に危険な刃をかわす。  
 ぐるぐると跳ね回りながら、時には上体を細かく逸らせて爪閃を見切る。  
 そればかりか、気迫の篭められた連撃の合間を縫うように左拳を上に突き出し、ジャガーの鼻先を叩く。  
「…効かんゾっ!」  
「鼻水出しながらっ……吠えんなっ」  
 しかし有効打とはお世辞にも言えない。  
「オォ!」  
 オグマは左の黒刃を真っ直ぐに最小距離で突き込む。  
 それでさえ簡単に避けられ、筋肉など無い様なヒトの腕は瞬時に隙間へと割って入る。  
 (……バカめ)  
 オグマは内心でほくそ笑む。  
 拳が当たった瞬間に顔を逸らす。  
 威力の無い攻撃を深く突き入らせると、それが戻る機を見てありったけの力を篭めた右爪で斬りつけた。  
 
 しかし──  
 それはヒトの背後の大気を思い切り掻き回しただけ。  
 金髪のヒトはそこからさらに一歩踏み込むことで致命打をかわしていた。  
「……らぁ!」  
 密着した姿勢から、ヒトが吼える。  
 いつの間にか腰だめていた拳をオグマの脾腹付近に二連打――いや、肝臓付近にも一つ。  
「ぐ、ふっ!」  
 そして巧みに右腕を折り畳む。  
 潜り込んだ懐から、固めた拳で顎を跳ね上げる。  
「…ウォ……ぉ…?」  
 視界どころか瞼の裏にまで火花をバチバチと飛ばしたオグマは後退する。  
 ――が、その強靭なはずの足がふらつく。内臓が軋む。  
「脳ミソ揺さぶられる感覚はどーよ?」  
 ぼそぼそとこもったような声は余裕すら感じさせる。  
 引き上げられた拳の裏で、彼はじっとオグマを見据える。  
 細かく見て取れば、瞳はくるくると動き回り相手の状況を探っている。  
 その様はまるで、水中に泳ぎまわる魚を断崖上から鋭く狙う──一羽のクルイドリ【ピクェロ】。  
 
 官軍の一団はまた別の騒ぎ方で軍靴を踏み鳴らす。  
 「ピクェロ」という彼のあだ名と「キオ」という彼の名を連呼する。  
 ピコン砦には二羽の鳥がいる──賊軍には一羽しか知られていなかったが、官軍ではかなりの噂となっていた。  
 【クェンチィ】パシャは【ピクェロ】キオを従える、と。  
 その二羽は種族すら異なるが、雌のハチドリが雄のクルイドリを庇い、その逆も然り。  
 二羽の鳥が翼を広げて飛び回れば倒れ伏す二種類の賊が生み出された。  
 一つは小さく深い穴を穿たれた身体、もう一つは昏倒して意識を失っている身体。  
 今……賊軍『草刈衆』は戦場ではなく、防壁上という最高の観客席でキオの妙技を見せ付けられていた。  
 
「まだ、やるか、おっさん」  
 音節ごとに区切り、小刻みに足を飛ばすキオ。  
「……効かん!」  
 頭を二度だけ打ち振ってオグマも応える。  
 しかしその声は猛々しさとはほど遠かった。  
 戦意はどうあれ、躯が訴える悲鳴を無視することができないでいるようだった。  
「じゃ、次、効くヤツ、な」  
「……!」  
 キオは平然と奥の手をほのめかし、オグマもヒトを侮るのを止めた。  
 無言で姿勢を低くし、左爪を前に、右爪を腰だめに構える。  
 牽制気味の左を囮として右爪を全力で突き抜く、オグマ必殺の構えだ。  
「……。………」  
 金髪の針頭は依然、細かく跳ねながら──ぶつぶつと呟いている。  
 このヒトは何をするつもりか、とオグマは眉を寄せて不審がった。  
「…雨降神ショロトルよ……」  
 (…しまったっ!)  
 音声を意味持つ言葉として認識した瞬間、彼は自らの愚かさを悟った。  
 奥の手の存在を洩らしたヒト奴隷は自分に警戒させ、その稼いだ時間で奇跡を願っていたのだった。  
「ああああっ!」  
 (──間に合えぇっ!)  
 オグマはその場に小石を巻き上げ、全速力で小癪なヒトへとぶちかます。  
 その勢いは先程パシャへ仕掛けたときよりも抜群に速い。  
「シャアアアアッ!」  
 もはや悠長に牽制などしている時間はない。  
 左爪を引き絞り、反動・捻転を加えて右の黒爪を撃ち抜く──その脆弱な身体を粉砕せん、と。  
 すると驚いたことにキオは半身だった身体を開いた。  
 オグマの致命打を正面から受けるようにしか見えない。  
「死、ネエェェッ」  
 両者の勢いの差に、ジャガーの強爪がヒトを貫き通すと、一瞬誰もがそう思った。  
 
 だが次の瞬間、大勢がはっと息を飲む。  
 キオの手に短刀が握られているのに気が付いた。  
 彼が決闘開始から常に、己の拳のみで戦っていたものだから、得物一つ持っていないと皆が勘違いしていた。  
 そして、黒く唸る刃と短い刀身が衝突したと見た刹那。  
 信じられない光景がそこにあった。  
 真っ直ぐに突き出されたはずのオグマの戦爪が、横を向いてキオの前面を素通りしていた。  
 何が起こったのか分からないといった表情のオグマの顔面を、ヒトの彼が鷲掴みにする。  
 鍛えこまれた戦士の反射はオグマの黒爪をしてキオの腕に食い込ませるが、  
 刺された本人は目を閉じたまま精神を集中させる。  
「終わりだ……《脱水》【ユゥリ・マン・ウゥマ】」  
 キオが行使しうる奇跡で最強のそれが、オグマの巨体に宿る水分を根こそぎ蒸発させた。  
 
 
   §   §   §  
 
 
  ──一面の火の海、炎の大波。  
                ──もうもうと立ち込める白煙と黒煙。  
      ──出口一つ無い、狭苦しい室内。  
                     ──そしてそこに蹲る、幼い少女。  
 
 色彩だけは鮮やかなのに、火が爆ぜる音も焦げ臭さも感じない。  
 そして火炎から放射される熱量もまた、無い。  
 それも当然……ここは眠りについているパシャ自身が見る、夢の中の風景なのだから。  
 
 
 
 パシャは幼い頃、集落一つを完全に燃やし尽くす大火を体験した。  
 そこで極めて原初的で、かつ純粋なまでの恐怖というものを感じて以来、  
 炎に周りを囲まれている少女の夢を見るようになった。  
 夢の始まりはその風景を遥か上方から眺めている。  
 五つの感覚は一つを残して閉鎖され、視覚のみで炎と煙と少女を目に収める。  
 しかし時が経つにつれて俯瞰風景は拡大を続ける。  
 それぞれの輪郭がはっきりとしてくると、幼い少女はパシャ自身の幼い頃だと悟るのだ。  
 
 背を丸めてうずくまり、尻尾の先をがじがじと無心に齧る姿。  
 表情は無いに等しいが、その瞳だけはらんらんと不気味に輝いている。  
 それを見て取った刹那。パシャは気付く。  
 ──近寄りすぎた。  
 ──逃げなくてはいけない。  
 ──また、「あれ」を味わうのか。  
 しかしそれは叶わない。  
 ずるずると引き寄せられた意識はついに幼い頃のパシャへぴったりと重なる。  
 閉じられていた残りの五感を一気に解放されてしまう。  
 
 感覚によって提起される負の感情は特別言わなくても分かるだろう。  
 火炎と燻煙の宴を生々しく知覚し、誰へとも知れない嘆願を繰り返す。  
 助けて、やめて、と。  
 少女からの絶望の呻きは、  
 自分自身でさえ忘れていたような──身体の防御機能が封じていたはずの奥底へも容易く侵入する。  
 そうして出来た経路からは続々と「恐怖」が流れ込む。  
 純度の高いそれは瞬時に心を膨れ上がらせると、呆気なく破裂した。  
 
 破裂したときが、目覚めのとき。  
 そして彼女は寝汗で冷え切った身体を独りで抱きしめ、毛布を頭から被らない時はなかった。  
 ただひたすらに怖かった。  
 今日はまだ良かった、けれども。  
 いつか知れない日……「恐怖」が破裂しないまま際限なく自分を追い詰める日が来るのではないか、と。  
 目覚めることが無くなるのではないか、と。  
 
 しかも悪夢は気紛れなこと限りなかった。  
 
 一週間以上見なかったと思えば、三日連続で苛まれることもある。  
 パシャにとって眠りにつくことは好ましいことでも安らげることでもない。  
 なぜ人間は睡眠をとらなければならないのだと、益体もないことを思いもした。  
 
 
 
 けれども──炎夢はある日を境に様子を違えるようになった。  
 
 ふわふわと思考している間に夢は進行していた。  
 かなり景色がくっきりとしてきている。  
(あ……私…)  
 何度も夢見ているはずなのに、この瞬間になるまでこの少女が自分自身であるとは分からない。  
(…早く…)  
 在りし日の流れならば、待ち望むことなど何一つ無かった。  
 恐怖しか「そこ」には無かったのだから。  
(…早く…早く…)  
 しかし今はもう違うのだ。  
 少女はもう怯えなくていい。  
 もう結末を知っているからこそ、欲する。  
 しゃがみこむ少女を救う、その銀色の戦士を。  
 
『パシャ』  
 
 夢見る本人のものではない誰かの声が聞こえてくるが、少女は顔を伏せたままだ。  
 パシャは自ら身体を乗り出し、少女の前にふわりと浮かぶ。  
(ほら、顔を上げて…)  
 怖がらせないように両手をそっと伸ばし、小さな頭を正面に向ける。  
『パシャ』  
 一度目よりはっきりとした声に彼が近寄ったことを感じた。  
 彼女の意識体は浮遊したまま少女の背後へと回ると、少女の視界に彼を捉えさせた。  
 同時に、パシャも彼を仰ぎ見る。  
 
 ──非常に奇妙な服を着た男だった。  
 全身をすっぽりと覆う銀色に輝く鎧のせいで顔の細部まではうかがい知れない。  
 だが、そこに安堵を覚えるのはパシャの欲目だからだろうか。  
 彼は灼熱の炎に燃え上がることもなく、炎も煙も弾き返してどっしりと構えていた。  
 
『もう、大丈夫だ』  
 三度目に発した言葉とともに、彼は片膝をついた。  
 少女はその銀色の威容を恐れたのか、しゃがんだ姿勢のまま後ずさろうとするが、  
(……怖くないから)  
 パシャは後ろから抱きついて少女を押し留める。  
 そして優しく彼女の頭をあやしながら抱き上げた。  
(キオは…優しい、ぞ?)  
 銀色の戦士も同じく立ち上がり、パシャに向けて両手を広げた。  
(いっしょに…行こう?)  
 そして浮いていた身体を地に降ろし、少女を胸に抱いたまま彼に自身を預けた。  
 彼も戸惑うことなく二人を抱き上げる。  
 その動作は荒っぽさを感じさせながらも、がっしりと支える腕の力は強く、胸の中に抱き込まれてしまう。  
 
 連鎖して人を抱えるような三人の姿は、多少奇妙な光景かもしれない。  
 しかしここはパシャの夢世界……観察者は彼女しかいないのだから誰に憚ることもないだろう。  
 やがて一体となった三人は歩き出す。  
 炎も煙も彼女らを避けるように道を開け、彼の歩む度の揺れに心地よさを覚える。  
 そしてそれは次第に穏やかな安らぎへと輪郭をぼやけさせ、彼女の炎夢はゆっくりと終わりを告げるのだった。  
 
 
   §   §   §  
 
 

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