土曜日の朝、台所に下りたら、もうとっくに家族の朝食は済んでいて、洗い物してる母に、  
「いつまで寝てんのよ」  
と叱られた。  
「ハルノちゃん来てるのよ」  
それで気がついた。母が洗った皿を拭いて食器棚にしまってる夏服エプロンの女の子。  
(;´д`)!  
「お、おはようございます‥‥」  
半年ぶりに会った従姉妹は、髪が伸びて、急に大人っぽくなった印象で、以前は見せなか  
った恥じらいが、何だかまぶしくて目がくらんだ。  
「早く顔洗って着替えて食べちゃいなさいっ」  
母の声で急に現実に戻った。  
 
ハルノとはちょっといきさつがあって、  
罪悪感を抱いている。故意ではないとはいえ、まだ幼い従姉妹と、楽しんじゃったわけだ  
から。あの時のことは、ぼくは誰にも言わなかったし、たぶんハルノもそうだと思う。  
でもあれ以来、月に一度は遊びに来てたハルノがぱったり来なくなって、電話で話す機会  
もないし(ハルノは携帯もってない)、ぼくはずっと執行猶予というか、不安な状態に置  
かれていた。  
最後に別れたときは平気な顔してたのに。傷つけてしまったんだろうか、と後で心配にな  
った。  
次に会ったら何を話そう、といろいろシミュレーションしたのに、今この時、どうしたら  
いいのか分からない。  
ハルノが変わっていたから。可愛すぎる。  
片付けないで残してあった、冷めたトーストをかじりながら考えたが、味なんて全然わか  
らないよ。  
何か思いつくまで時間を稼がなくては。  
「そうだ! うちのバカ息子免許とったのよ。ハルノちゃんドライブ連れてってもらいな」  
「え‥‥」  
「ぶほっ」  
「わっ汚い! 何やってんのバカ!」  
 
(落ち着け)  
ぼくは自分に言い聞かせた。  
(チャンスかもしれないぞ。少なくとも二人だけで話ができる)  
ハルノが後席にやけに大きな荷物を入れて、隣に座ると、微かに甘酸っぱい少女の香りが  
して、湯に混じった触手の束に翻弄されるハルノの幻影が脳裏に鮮やかに蘇った。  
ぼくは頭をブンブン振った。平常心だ。生命に関わる。  
「どっか行きたいとこある?」  
「温泉‥‥」  
エンストした。  
 
カーナビで、車で行ける温泉を探してみると、直行で一時間くらいのところに蛙温泉ての  
がある。変な名前だけど、ハルノが良いと言うので、そこにした。  
流行ってる映画や音楽の話をしたり、道の駅で一緒にご飯を食べたりしてるうちに、だん  
だんハルノもぼくも肩の力が抜けてきて、ひと安心、と思ったのだが‥‥  
 
温泉に一軒しかない旅館に車を入れたとたん、本降りになった。標高が高いせいか、まだ  
四時だというのに、気温が急激に落ちていった。  
「‥‥峠道が靄ってたら危ないから。今日はここで泊まるよ。金? あるよ。今代わる。  
ハルノ、母さんが代わってって」  
「はいハルノです」  
ハルノに携帯を渡したら、仲居さんが寄ってきた。  
「晩御飯は六時から八時の間にお願いしますワ」  
「あ、じゃあ七時に」  
「お荷物は弥生の間にお運びしましたデナ。大浴場は二十四時間ご自由にどうぞ。今日は  
予約も無いし、この天気じゃ客も無かろうデ、ゆっくり浸かってってくだされヤ」  
「お兄ちゃん」  
「あ、終わった?」  
「お兄ちゃんを頼むって」  
なんでぼくが。  
「ではお部屋にご案内いたしますデ」  
 
雨の中を、除湿をかけながらゆっくり走ってたから、二人とも体が冷えきっていた。さっ  
そく浴衣を片手に大浴場に行ったら、男湯と女湯の入り口の仕切りのところに、蛙の形の  
自然石が、ガラスケースに入って飾られていた。蛙温泉由来の石、とか書いてある。  
それで変な名前なのか。  
「げる温泉ですダヨ」  
さっきの仲居さんが重ねたお膳を抱えて通りかかった。  
「カエルじゃなくて?」  
「東京弁は訛っておりますデナ。じゃごゆっくり」  
ゲル温泉。ゲルの湯。よりにもよって。まずいじゃないか。  
「ハルノ、」  
出よう、と言おうとしたら、ハルノはぼくの袖をぎゅっと握り締めて、うつむいている。  
顔が赤い。  
心臓がドキドキしてきた。  
さっき、今日は貸切状態だとか言ってなかったか?  
ぼくは周りを見回して、誰もいないか確かめた。  
「い、い、一緒に入ろうか?」  
ささやくと、ハルノが小さく頷いた。  
 
大浴場は、山の中腹の斜面に開けた露天風呂だった。ただごとじゃない厚い雲で空は真っ  
暗。夜間用の水銀灯がもうついている。  
普通のお湯だった。前にゲルの湯の入浴剤を入れたときのような、どろっとした感じは無  
い。手を繋いだまま湯船に浸かってしばらく待ったけど、何も起きなかった。  
けれど‥‥  
背後の山から、満開の桜を雪のように散らせながら吹き降ろす風と、眼下から立ち上る、  
群れなす大蛇のような霧がぶつかって、ぼくたちの頭上で渦を巻いていた。花びらと霧雨  
が、水銀灯の光で、青白くきらめく星になった。  
霧のとばりの外は暗黒。  
ぼくたちは裸で、言葉も無く、二人きりで漂流しているのだった。  
 
電気を消して、布団の中で、ぼんやり光る蛍光灯の輪っかを見上げていたら、隣の布団か  
らハルノが話しかけてきた。  
「ごめんね」  
「どうしたの」  
「前にお風呂で‥‥あんなことになっちゃって、お兄ちゃん、真面目で、エッチなの嫌い  
だから‥‥次に会ったとき、どうしようと思って‥‥怖くて‥‥」  
真面目? エッチが嫌い?  
「そりゃあ一体誰のことだっ」  
ぼくは跳ね起き、闇の中、手探りで、ハルノの敷布団の端をひっつかみ、力を込めて引き  
寄せた。  
「わ!」  
布団の中でハルノが転がった。  
ぼくはハルノに背中から抱きついて、耳元でささやいた。  
「会いたかったよ」  
浴衣の長所の一つは脱がせ易いということで、ぼくはゆで卵の殻を剥くみたいに、つるり  
とハルノをひんむいた。  
融けあって一つになりたい。腋の下から手を入れて、すべすべの肌を夢中でまさぐった。  
告白する。  
会ったときに何を話すかなんてことより、ぼくはハルノをこんな風に犯すことばっかり考  
えていた。忌まわしい怪物、と自分を罵りながら。  
ぼくん家の風呂の中でハルノを犯したのは触手だったのか? ぼくだったのか?  
同じだよ。同じことなんだ。かわいそうなハルノ。ぼくみたいな獣の餌食になるなんて。  
でも、もし、万が一、本当に、ハルノがぼくを求めてくれているのなら‥‥  
野獣の正体は、やっぱり王子なのかもしれない。  
 
ぼくたち二人ともの魂の奥底に憑りついた、触手の怪物が解き放たれる。互いを求めて絡  
みあいながら、天国のような地獄に落ちてゆく。  
 
ぼくの手に、ハルノの手が重ねられているのに、ふっと気づいた。ハルノの細い体の芯に  
隠された神秘の泉を、ぼくたちは一緒に探しているのだった。  
秘密の鍵を、知っている‥‥  
項の生え際にキスしながら、「愛してる」とささやいた。  
ハルノはびくっと体を震わせ、ぼくの腕の中で、猫が背伸びするみたいに、痙攣しながら  
仰け反った。  
 
 
翌朝、宿を出るときには、昨日の禍々しい空が嘘みたいに晴れていた。  
ハルノの大荷物の正体はお着替えだった。真っ白なサマードレスと麦藁帽子。  
透き通るような春の日差し。  
「は、反則だっ」  
「何が」  
「いや何でもない」  
車の中で、ためらいがちに切り出された。  
「お兄ちゃん、もう二、三日泊めてもらえない? その‥‥あちこち‥‥キスマークが消  
えないと‥‥」  
また心臓が!  
「それとも、このまま二人で」  
どこかへ行ってしまおうか。  
 
 

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