美紅が風邪をひくのは、そう珍しい事でもない。
性格と違って体は神経質に出来ているのか、季節の代わり目には、決まってゴホゴホと咳き込んでいる。
夏も盛りだと言うのに、ベッドに伏せっている美紅を見下ろし、信也は小さな溜め息を吐いた。
高校受験の時には良く訪れた美紅の部屋。
しかし、受験勉強が終わってからは、入る理由もなく、約三年ぶりになるだろうか。
シンプルな白と木目調の家具で統一された部屋は、片付けが行き届いている。
「ごめんねー、いきなり」
いつもよりも、幾分顔色の悪い美紅は、額に貼った熱冷まし用のシートを剥がしながら、へにゃりと力のない笑みを浮かべた。
信也は肩を竦めただけで、何も言わずに新しいシートを用意した。
信也の家も美紅の家も、揃って共働き。
普段ならば、わざわざ看病に行く事もなかったのだが、信也の母親は自分の入院の一件以来、梶谷家に恩返しをする機会を狙っていたらしい。
美紅が病気と知るや否や、受験生である信也の事情も素知らぬ振りで「夏休みなんだから」と、半ば無理矢理、信也を梶谷家に差し出したのだ。
信也としても、心配をしていなかったと言えば嘘になる。見舞いがてら、一日ぐらいは美紅の様子を見に行こうとは思っていたので、拒む理由もない。
美紅も信也の成績は承知していたので、都築家母親の申し出を有り難く拝了する事にした。
とは言っても、家事が一切駄目な信也に出来る事と言えば、こうして身の回りの小さな事をするぐらい。
それでも美紅にしてみれば、病気故の心細さからか、信也が居るだけで始終笑みを浮かべていた。
フィルムを剥がしたシートを手に、額に掛る前髪を退ける。
暖かさよりも熱さを感じる手はそのままに、シートを額に貼り直してやると、美紅は瞼を閉じて吐息を漏らした。
「熱いー」
「当たり前。黙って寝てろよ」
子どものように口を尖らせる美紅から、無用になったシートを受け取った信也は、苦笑を浮かべながらシートを丸めてゴミ箱に放り投げた。
顎のすぐ下まで布団を引き上げてはいる物の、発する熱もあってか、美紅は居心地が悪そうに、モゾモゾと寝返りを打つ。
そんな美紅を横目で見ながら、信也は少し離れた化粧台の椅子に腰を下ろした。
外からは、蝉の鳴き声がうるさいほどに聞こえる。時折、はしゃいだような子どもの声が響き、それもまたすぐに消える。
特に見るような物もなく、何とはなしに本棚に視線を向けると、学校の教材やら書店で購入した料理の本やらが、サイズ別にきちんと並べられていた。
小さな木製のテーブルにはノートパソコン。仕事以外では使う事もないらしく、コンセントは丸めて床に投げ出されていた。
「信ちゃぁん」
呟くような力の無い声。
ふとベッドへと視線を移すと、布団の端から美紅の左手が揺れている。その薬指には、銀色の輝きがちらちらと見えた。
「何?」
「あーつーいー」
「……当たり前だって」
いまだゆらゆらと揺らす手は、手招きのつもりだろうか。
子ども染みた所作に思わず笑いながら、信也は再度美紅に近付いた。
傍らに腰を下ろし、揺れる手を取る。
それまで目を閉じていた美紅は、信也の手の感触に薄く瞼を押し上げると、嬉しそうに微笑んだ。
「優しいね」
「……普通」
病人と酔っぱらいの言葉は、聞き流す方が良い。
そう言ったのは信也の兄だっただろうか。
不意を突かれた信也は、態とぶっきらぼうに返事を返すと、美紅の視線を避けるようにしてそっぽを向いた。
美紅は指を絡めるように、信也の手を握り返す。
「照れてる?」
「照れてない」
「ホント?」
「………しつこい。病人は寝てろ」
ぎゅっと力を込めて手を握ると、美紅はクスクスと笑いながら、再び目を閉じた。
外の喧騒を聞きながら、信也は美紅が眠りに落ちるのを待つ。
やがて、握る手からふっと力が抜けると、信也は美紅の手を握ったまま美紅を見た。
間近で寝顔を見るのなんて、部屋に入る以上に久しぶりだ。
昔は夏休みの度に、美紅と兄と三人で遊んでいたし、疲れたら揃って昼寝もしていた。しかしそれも、十年近く昔の話。
「……ホント…変わったなぁ…」
幼さの残る寝顔を眺めながら、信也はぽつりと呟く。
それなりに年を取り、互いに対する気持ちも変化している。変わらないのは年の差と、美紅の自由奔放さぐらいじゃないだろうか。
「いつになったら、勝てるんだろうな」
思わず深い溜め息を零しながら、信也は握り締めた手を持ち上げると、指輪の填った薬指に触れるだけの口付けを落とした。