ホームルームが終わり、彰人は脱力した体を椅子にもたれさせている。宿題が思ったよ
り多かったのもあるが、それ以上に心のほうが疲れていた。
「聞かなきゃ良かった……」
そうすりゃ意味なく必死こかずに済んだ、と酷使して吊りそうな手を揉みながら思う。
彰人は文にノートを借り、遅刻するかしないかの時間まで必死に宿題を写した。写すだ
けだからそんなに時間はかからんだろう、と高をくくっていたが、ノート三ページ分びっ
しりと書いてある元素記号や化学式を目の前に、その浅はかな考えは打ち砕かれた。
それから一時間。目を血走らせ、手の平をひくひくさせながらも何とかその苦行を終え、
彰人は急いで身支度を整えた。ずっと待っていた文に悪態を吐かれた気がしたが、文の手
をとると一目散に家を出た。電車通学や交通機関を使った登校方法なら間に合わなかった
だろうが、彰人と文が通う私立千草高校は自宅から驚くほど近い。徒歩十分もかからない
所にあった。
それでも教室に着く頃には息が切れ、薄っすらと汗を滲ませていたが、彰人はさほど疲
れてはいなかった。肉体的な疲れよりも、やりきったという満足感と安堵の気持ちが疲れ
を忘れさせている。
何の憂いもなくなり、机に顔を伏せながら休んでいると程なくしてチャイムが鳴った。
教師が入ってくる。が、入ってきたのは担任の平岡先生ではなく副担の水原先生であった。
水原は酔っているような赤ら顔に、ヒトラーのような口髭を生やした中年男である。数学
を教えていた。
「せんせぇー。平岡先生は?」
少しざわめいた教室で誰かが言う。口髭が答えた。
「えー、平岡先生は風邪でお休みです。だから代わりに、おいそこっ。静かにしろ」
さらに口髭が言う。
「だから代わりに、先生が化学もらって数学になりました」
えぇぇー、とまた教室がざわめく。数学でも化学でも彰人にはどっちもどっちな気がし
たが、クラスの総意は違うようである。水原はその悲鳴を無視して出席を採っていった。
―――……ん?
じゃあ化学の宿題はどうなる、と彰人はまだ落ち着かない教室で思った。文もそう思っ
たのか、彰人が目を向けると見合わせる形になった。彰人は一番後ろの窓際の席で、文は
一つ席をまたいだ横の席に位置している。
「せんせー!」
彰人は声を上げた。
「なんだ塚原」
「化学の宿題って集めないんですか。一応今日らしかったんですけど」
彰人が思い切って言う。それに合わせ、いらんこと言いやがって、マジ彰人空気読めて
ねー、と宿題忘れらしい生徒から野次が飛んだ。だが今の彰人は強気である
―――そんなもん忘れる方がわりぃ。
などと朝の自分を棚に上げて思った。心なしか態度がでかい。
「で、どうなんですか?」
彰人がまた言う。その声を聞くと、あまり興味なさそうに水原が出席簿から顔を上げた。
「別にそんなもん集めんぞ、電話じゃあ平岡先生は何も言ってなかったし、数学教師だ
し」
宿題忘れた奴良かったな〜、と水原が言ったが、後半部分は彰人には聞こえていなかっ
た。
―――はっ、ははっ……。
そんなもんか、俺の努力なんてそんなもんか、とどっと押し寄せてきた疲れの中思って
いた。そして椅子に背を預けるようにすると、彰人は文のほうを見た。文は手をだらけさ
せ、眠そうな目を瞬かせながら机に臥せっていた。顔をむくれさせながら。
「じゃ、今日一日もがんばれよー」
出席を採り終わったのか、水原が教室を出て行く。
―――無理な話だ。
そう思いながら、彰人は一限目までの僅かな時間、手を揉みながら落ち込むのであった。
「あっ、お兄ちゃん。お帰り〜」
「はいはいただいま」
両手に乗っかっているトレイをテーブルに置くと、彰人は文の横に腰掛けた。
「案外人多いのな、学食って」
片方のトレイを文の方に流しながら彰人が言う。まだ昼放課になったばかりで、席を何
処にしようかと大勢の生徒が立ち歩いている。
「こんなもんなんじゃないの?食べるならおいしい方がいいし」
「ちゃんと暖かいもの食えるしな」
トントン、と彰人が箸の先を揃えながら答えた。
二人の通う千草高校には広い学食がある。この学校の売りといっていい。元々、新校舎
を改装したばかりで外観、内装が綺麗になったのだが、それに加えて学食を新たに設けた。
それが今二人がいる学食である。昨年までは購買しかなかったが、生徒からの要望が多く、
尚且つ学校側の懐も暖かかったために増設された。メニューの数も多く、値段もあまり張
らない為に多くの生徒が此処を活用している。
「結構うまいな」
買って来た天丼に手を付けながら彰人が言う。
「そだね、今度から此処で食べても良いかも」
文は文できつねうどんを頬張りながら言った。
二人とも普段は弁当を持ってきている。しかし朝の事があったので、当番だった彰人は
作れるはずもない。
「ふぁ……」
欠伸を噛み殺すように、文が口元に手を当てて、目元に涙を浮かべる。
「まだ眠いか」
「うん……、結局三時くらいまで起きてたし……、なんか疲れちゃった」
「宿題も集めんかったしなぁ、やった俺らがバカみたいだ」
彰人がそう言うと、文はむくれ面になりながら反論した。
「お兄ちゃんはまだいいよ、私がやったの写しただけだし」
「だから文の言うこと了承したろうが……」
思い出したくないことを思い出し、彰人は箸を置いた。
「今月は金もうないぞ、だいぶ使った」
「別にお金とか、そんなつもりで言ったんじゃないもん……」
文が彰人から顔を背けるように言う。
「じゃあ何……」
「一緒にいたいだけだもん……」
とは言わず、文は恥ずかしそうに顔を赤らめながら、下を向くだけだった。
「聞いてるか?」
―――お兄ちゃんの、鈍感……。
心の中でそう思うだけに留める。彰人も文が何も言わないのを感じ取ると食事に戻った。
「兄妹揃ってお疲れか」
妙に甲高い声が兄妹の沈黙を破る。そして彰人の前の席に陣取ると、少し大柄な体を椅
子にどかりと預けた。横にもう一人、痩せ型の男もいる。
「あれだろ、必死に宿題やってきたけど集められなかったからだろ。違う?」
痩せ型が言った。
「敦也、お前聞いてただろ」
「まぁね」
言い終わると、敦也と呼ばれた痩せ型の男は彰人と同じ天丼に箸を勧めた。鈴木敦也と
いう。剣道部の部長で、少し痩せてはいるが均整のとれた体つきをしている。
「しかし、ホームルームで宿題の話をされた時はビビったな」
大柄の方が言う。
「そんなもん、やってないほうが悪い」
今度は声を出して彰人が言った。
「でかい事を言うな。どうせお前だって妹の写しただけなんだろう?」
口の端を曲げ、大柄が言い返した。こっちのは吉川博巳という。この男も剣道部で、大
柄な体格をしているが声が妙に高い。竹刀を打ち込む時の声がよく道場に響いた。
「てかお前らって学食派だったか?いままで見たことなかったんだが」
箸を彰人の方に指しながら敦也が聞く。
「そりゃそうだろ、来たのは今日が初めてだ」
「いつも愛妻弁当だものな、妹の」
「ひろみちゃん!!」
いままで黙っていた文が叫んだ。文は博巳のことをちゃん付けで呼ぶ。
「あのな、俺が作ってるときもあるんだぞ」
「お前料理するのか」
「俺を何だと思ってるんだ……」
「彰人のエプロン姿か、なかなか気持ち悪いな」
文の抗議の声を無視して博巳が言った。すると食事に専念していた敦也が
「料理に専念するくらいなら部活来いよ、幽霊。文ちゃんはちゃんと来てるぞ」
と、口を挟んできた。実は彰人も文も剣道部だったりする。
「別にいいだろ、行ったって行かなくたって」
「彰人がいないと俺がつまらんのだよ」
「博巳がいるだろ」
「博巳じゃ俺の相手は務まらんからな」
敦也がにやけながら博巳を見た。
―――まぁ、そうだろうな。
博巳では無理だろ、と彰人も思った。確かに言うだけあって敦也は強かった。彰人も中
学からの付き合いで、その強さは身に染みて知っている。
―――それでも。
中学の頃はまだ互角だった、と彰人は思う。敦也が格段に強くなったのは高校に入って
からである。その強さは彼の遣う特殊な構えから来ていた。
敦也は垂直に、天を突き立てるような上段に竹刀を構える。そして踏み込むのだが、竹
刀を下ろすタイミングが遅く、打ち込むときは神速を以って竹刀が落ちてくるので、誰も
それに対応することが出来ない。おそらく県内に敵はいないだろう。十一月にあった大会
では団体、個人共にこの学校が優勝を勝ち取っている。個人はもちろん敦也だった、と彰
人は記憶していた。
―――しかし。
あの構えにも隙はある、と彰人はわかっている。要は見破ってしまえばいいのだ、そう
すればあの構えは逆に敦也が打ち込む場所を教えてくれる。そう思っていた。事実、剣道
から足が遠のく前に彰人はそれを見破り、一度だけではあるが、打ち返したことがあった。
―――足運びだ。
それだけが打ち込む場所によって唯一違った。しかし、それは打たれる寸前、閃くよう
に気付いただけで、その時に防いで打ち返せたのは偶然と言っていい。
「彰人だってお前にゃ勝てんだろうが」
「いや、そうでもないぞ」
敦也が顔を綻ばせる。ぎらぎらと光る目が彰人を捉えていた。それに合わせ彰人が視線
を敦也から外す。心なしか寒気がしている。
「そ、そういえば敦也くん、平岡先生お休みだけど、今日は部活あるの?」
助け舟を出すように文が聞く。彰人たちの担任は剣道部顧問でもあった。
「まぁ休みだな。自主練は自由だが」
「幽霊に言ったところで仕方のないことだな」
博巳が言う。しかし直ぐにまともな表情に戻ると、でもなんで行かない、と彰人に聞い
てきた。
「さぁ?よくわからん」
「辞めんのか?」
「そこまでは思わないからなぁ」
彰人自身も、何故行かなくなったのか正直なところはっきりしない。嫌いになった訳で
はないが、ただやる気が失せてしまったとしか言いようがなかった。
「じゃあもう行かない訳じゃないの?」
続けざまに文が聞く。
「行かないと決めてるなら辞めてるよ」
「ほんと?」
「疑り深いな」
彰人は苦笑した。文にしては妙にこだわるな、と思ったのである。
「でも来るなら早く来い、他の部員にも示しがつかんからな」
「別に誰も気にはしないだろ、半年も行ってない幽霊部員だし」
「何を言ってる、お前副部長だろ」
「はっ?」
敦也の言うことに、彰人は首をかしげた。
「俺がか」
「あぁ」
文ちゃんから聞いてないのか、と敦也が言った。彰人の記憶が正しければ、そんなこと
は微塵も聞いた覚えがない。
「敦也くんかひろみちゃんが言ったんじゃなかったの」
「知ってるもんだと思ってたからな。そうか、知らんかったのか」
彰人だけ蚊帳の外にいる。
「ていうか他にやる奴はいなかったのか、一年とか」
「あぁ、だから俺がお前を推しといた」
―――幽霊部員を推すなよ……。
彰人はそう思ったが、口には出さなかった。サボっている手前もあって、あまり強いこ
とも言えない。
「まっ、そういうことだからさっさと来い、俺ばっかり敦也の餌食になるのは気に食わ
んしな」
博巳が卑屈そうが言う。
「あ〜、うん、やる気が起きたらな」
やる気なさげに彰人が答えた。
―――今年中に一回ぐらいは行くか。
趣味程度に考えていたが、どうやらそうは行かないようである。副部長、その響きだけ
で何やら重い。
「お兄ちゃん」
「ん?」
考え事を打ち切ると、彰人は文の方を見た。文は落ち着きなく視線を彷徨わせている。
「今日部活お休みだからさ……、お夕飯の買出し一緒に行ってもいい?」
「あぁ、じゃあ一緒に行くか」
彰人がそう言うと、文は嬉しそうに表情を和らげ、うん、と弾んだ口調で言った。
「あ、でも一度家に帰るぞ」
思い出したように彰人が言った。
「どうして?」
「もう一人いるだろ?」
文は言われ、少しの間キョトンとしていたが、納得すると、
「あっ、そっか」
と言った。だが目の前で聞いている二人の男には、何のことだか分からない。
「彰人お前……、彼女とでも同居してるのか」
妹と彼女、贅沢してんなー、などと博巳が言った。
「ひろみちゃん!!」
透かさず文が博巳に怒鳴った。その横で、敦也は呑気に天丼を食べている。
―――そんな浮いた話があればねぇ。
頭の中で浮かべてみる。しかしどれだけ考えても彼女などは家に居らず、いるのは一人、
一匹の犬だけであった。