ある住宅街の夕暮れ時。その中の一棟で、のそりと一匹の犬が小屋から出た。犬小屋の  
表札らしき物には、「ラッキー」と、ある。  
 
 ―――カツ、カツ。  
 塚原彰人がリビングのソファでテレビを見ていると、庭に続くガラス戸を、なにか硬い  
物で軽く叩く音がした。  
 彰人はソファから体を起こし、視線をガラス戸に移す。  
 ―――なんだ?  
 彰人は視線を移しながら思ったが、本当は大体の見当がついている。そして彰人の予想  
通り、ガラスの向こう側には犬がいた。  
 犬は両手の爪をガラスに当て、バンザイをするような格好でガラス戸にもたれかかって  
いる。ゴールデンレトリバーと犬種は立派だが、歳は十七を過ぎ、既に老境に入っていた。  
瞳の上の毛がふさふさしていて、ひどく愛嬌のある顔になっているが、だらしなく垂れた  
舌はバカ犬そのものだった。  
 ―――仕方ない……。  
 彰人がソファから離れるのを見ると、犬はガラス戸から離れ、犬小屋にあるエサ皿の前  
に座った。どうやらエサが欲しいらしい。  
 
 ―――もう夕食の時間か。  
 彰人がガラス戸に近寄り、空を見る。少し前までは赤かった空が、いつの間にか暗い青  
色に変わっていた。まばらにある雲が、肉眼でもわかるほど早く動いている。風が出てい  
るようだった。  
 彰人がガラス戸に背を向ける。彰人はエサを取りに行こうとしたのだが、バカ犬は何か  
勘違いしたらしい。彰人が背を向けると、犬はガラス戸に寄って来て、バンザイのポーズ  
をまたとった。彰人はそれに介さず、台所に足を向ける。  
 ―――頭の次は目か。  
 背中に、犬がガラス戸を叩く音を聞きながら彰人が思った。エサのドッグフードは台所  
にある食器棚の上にある。犬の位置からでも間違いなく見える場所なのにもかかわらず、  
御主人が何処に行こうとしているのかさえ視えていないようであった。  
 昔はちゃんと待っていたんだがなと、彰人は少しつま先立ちになり、食器棚からドッグ  
フードの箱を降ろしながら思った。片足を棺桶に突っ込んでいるであろう犬に、少なから  
ず哀れみの感情が動くのを彰人は感じた。  
 彰人が箱を持ちながら振り返る。すると、犬はガラスを叩くのを止め、跳ねるようにエ  
サ皿の前に戻って行った。  
 ―――エサは見えるんだな……。  
 彰人は目を細め、左の眉だけを少し上げる。機嫌が悪くなると見せる彰人特有の癖であ  
った。そしてドッグフードを持ったまま、そこで立ち止まった。意地悪い気持ちが、彰人  
の中で首をもたげ始めている。  
 しかし犬も負けてはいない。彰人が動かないのをみると、のっそりと地に伏せ、上目遣  
いで彰人を見上げた。その表情、仕草を見ると、彰人は思わず頬をほころばせた。彰人は  
この手の仕草に弱い。基本的に犬好きの性格なのかもしれない。犬もそれを知ってやって  
いるのだから、どっちがうまく飼われているのか判らないものだった。  
 機嫌を直し、彰人が再び庭へと足を向けようとすると、ガチャっと玄関が開かれる、く  
ぐもった音が耳に入ってきた。彰人はその場でドアに目をむける。トタトタと軽い足音が  
したかと思うと、ドアノブがひねられ、学生服に身を包んだ女の子がリビングに入ってき  
た。  
「ただいまー」  
「おぉ、おかえり」  
 女の子が彰人の声がしたほうに顔を向ける。女の子は彰人の妹の塚原文である。しかし  
妹といっても義理の妹で、彰人たちがまだ幼稚園ぐらいの時に、お互いの両親が再婚した  
のをきっかけに兄妹になった。彰人は母親の連れ子、文は父親の連れ子である。  
 文がしていたマフラーを弛めようと少し首を振る。首を振った拍子に後ろで結ってある  
黒髪が揺れ、よく見ると、色白の肌がほんのりと赤みを帯びている。外はなかなか寒いの  
かもしれないなと彰人は思った。  
「お兄ちゃん、今日お母さんは?」  
「多分帰って来れないってさ」  
彰人は少し考えた後、留守電に入っていたメッセージを思い出し言った。  
 
 彰人たちの両親はあまり家に帰らない。居着か無いと言ったほうがいいかもしれない。  
母の夏美は看護師で帰ってくる時間が不定期だし、父の隆道も建築家で何が忙しいのか会  
社で詰めている。  
 要するに二人とも仕事人間なのだ。そういう家庭環境なので、彰人も文も家事に関して  
は今すぐにでも嫁にいける生活能力が備わっている。  
「そっか……」  
 言いながら、文が彰人から視線を落とす。彰人はそれに、文の肩を軽く叩きながら、明  
日は帰ってくるらしいぞと慰めた。元来家族の好きな子である。それは彰人も同じだが、  
文ほどではない。  
「うん……」  
 彰人の返事に満足したのか、文はこくりと頷くと表情を和らげ、夕食のことを言った。  
「そういえば今日の当番ってどっちだっけ?」  
「俺」  
 彰人が事も無げに言う。文はそれに不満を示し続ける。  
「まだ作ってないの?」  
「見りゃわかるだろう、準備もしてない」  
「してないって……、じゃあいつ作るの」  
「今から」  
 彰人がまた言う。その言葉に文は少し顔をしかめた。というより呆れた。  
「お兄ちゃん……」  
 
「なんだよ、だいたいお前だってどっちが当番だったか覚えてなかったじゃないか」  
「うっ……、それはそうだけど……」  
「はいはいわかったから、文はアレにコレをやってくれ」  
 そう言うと、彰人は文にコレを持たせ、アレを顎で指した。顎の先には既に待ちくたび  
れた老犬がいる。彰人は文の肩を再び叩くと台所に足を向けた。そこに文が一声。  
「お兄ちゃん」  
 ん、なんだと、彰人が振り返る前に首がガシッと掴まれる。それがひどく冷たい。  
「冷たっ!」  
 彰人はビクリとし、首をすぼめながら振り向くと、そこに悪戯顔の文が微笑を浮かべて  
いた。彰人はなにか言おうとしたが、途端に文は踵を返し、あげてくるねと言い残し庭に  
向かった。足取りが妙に弾んでいる。  
 取り残され、彰人は苦い顔をしたが、すぐにまた台所に足を向けた。  
「ラッキー、ご飯だよー」  
 後ろでそんな声が聞こえる。アレはそんな名前だったかと彰人は思ったが、次の瞬間に  
は違うことを考えていた。彰人はまだ夕食の献立を決めていない。  
 
 
 次の日、彰人は携帯のアラームが鳴るより早く起きた。あまり大きくはないが、どうや  
ら一階で物音がしている。  
 ―――母さんかな。  
 そう思いながら彰人は布団を出ると、まだ覚めきっていない思考をそのままに部屋を出  
た。  
 廊下に出ると、部屋ではわからなかった冬の冷たさが肌と寝間着の間に入ってきた。十  
二月である。足下の廊下も冷え切っていて、彰人が一歩歩くたび、足の熱を奪っていった。  
 「さむ……」  
 彰人が思わずこぼす。たった数歩歩いただけにもかかわらず、階段に着く頃には足の裏  
が冷え始めていた。そして少し爪先立ちになり、そろりそろりと階段を下りてゆくと、そ  
こでは人影が動いていた。母の夏美である。  
 「おはよう」  
 「あっ、アキちゃんおはよう」  
 夏美は笑顔を向けながら息子にそう言うと、自室に入って行った。彰人も玄関でスリッ  
パを履くとリビングに足を向ける。既に冷え切った足には、スリッパは暖かいように感じ  
た。  
 リビングに入ると、コーヒーを淹れるために彰人はキッチンに入った。リビングはもう  
電気が点いていて、夏美が置いたのであろう荷物がソファに転がっている。彰人はとりあ  
えず湯を沸かそうと、やかんに水を淹れているとリビングに夏美が入ってきた。  
 「そういやいつ帰ってきたの、夜中?」  
 
 まだ水を淹れながら彰人が言う。  
 「ん〜ん、ついさっき」  
 夏美はソファに転がった荷物に手を伸ばしながらそれに答えた。なにやら自室から持っ  
てきた物を入れているようである。  
 「何か作ろうか?朝はまだなんだろう?」  
 「ん〜、そうしたいのは山々なんだけど、もうそろそろ行かなきゃいけないから」  
 まだ荷物を漁りながら夏美が言った。彰人はてっきり、少し仮眠とってからまた出かけ  
るのだと思ったが違うようである。そう思って夏美を見ると室内なのにマフラーをしてい  
るし、傍らに手袋も置いてある。彰人はやかんを火にかけると、キッチンの椅子に座りな  
がら言った。  
 「コーヒーぐらい飲んできなよ。それくらい、時間はあるんだろ」  
 夏美は荷を整理している手を止めた。少し考えるように視線を泳がせると、彰人に顔を  
向け、うんと口元を綻ばせて頷く。目尻に疲れが視えた。  
 ―――大変なもんだ。  
 そう思いながら彰人は微笑を返すと、椅子に背をもたれ、やかんの火に視線を注いだ。  
早く起きすぎたのか、瞼がまた閉じようとしている。しばらく重い瞼と格闘していたが、  
ついに観念して目を閉じると、静かに湯が沸くのを待った。  
 窓の外は薄暗く、日が差すにはまだ少し早い時間のようである。  
 
 
 夏美を送り、ソファで彰人がニュースを見ていると、ガチャとドアが開き文が起きてき  
た。  
 「おふぁよう……」  
 「おはよっ」  
 彰人が少し弾んだ様子で返すと、文はふらふらと歩み寄ってきて、彰人の横にストンと  
座った。  
 「なんだ、まだ眠いのか」  
 彰人が言いながら横目で見る。文はうとうとと頼りなげな目でぼけーっとしていた。そ  
してそのまま頭を彰人の肩に預けると、コクリと首を傾げた。文が頷いた瞬間、シャンプ  
ーの甘い香りが少ししたが彰人は文のさせたいようにさせた。文が昨日遅くまで起きてい  
たのを彰人は知っている。  
 ―――いつまで起きてたんだか。  
 ニュースに視線を戻しながら思う。  
 日が変わってから数時間経ったぐらいに、彰人はトイレに行くために起きた。行くとき  
には気付かなかったが、トイレから部屋に戻ると、壁越しに声が聞こえていた。どうしよ  
うとか、わかんないなーとか、なにか苦悶のような声を出していたが気にせず寝た。何し  
ていたのか彰人には見当がつかなかったし、考える思考力もそのときにはなかったのだ。  
だいぶ意識がはっきりしてきた今でも何故かは知らないしわかっていない。  
 すると彰人の疑問がわかったのか、はたまた単に寝ぼけているだけか、答えを出すよう  
に文が言った。  
 
 「ちょっとね……、まだ宿題やってなかったから……遅くなっちゃって……」  
 「……宿題?」  
 彰人がつぶやくように言う。ニュース番組から視線をはずすと、探るような目つきで文  
を見た。  
 文と彰人は誕生日こそ違え、同い年の同級生である。しかも運が良いのか悪くないのか  
同じクラスであった。しかし彰人は文の言った宿題という単語に覚えがない。  
 「そんなの……、でてたか……?」  
 「でてたよ」  
 「教科は?」  
 「科学」  
 ―――お、憶えてない。  
 心中で彰人は呻いた。文が言ったことが本当なら、彰人はその宿題をやっていない。や  
っていないどころか出たことさえ忘れてしまっている。思い浮かぶのは担任であり化学教  
師、平岡先生の温厚そうな顔だった。しかしその温厚そうな顔とは裏腹に、なかなか類の  
忘れ物には厳しい。授業点が下がるだけではなく、年間行事や、大掃除などにその生徒を  
借り出してコレでもかという位に扱き使う。  
 既に十二月でめぼしい行事は終わっているものの、まだ中学生の入試準備や卒業式準備  
などのスタッフ仕事が残っている。それだけは何とか避けたいと、彰人を含むクラスの全  
員が思っていた。  
 
 「あのぉ、文さん」  
 媚びるように彰人が言う。  
 「ん〜、なぁに?」  
 文は文で何か感づいたのか、今さっきの眠たげな口調とは違う、幾分かはっきりした調  
子で答えた。よく見ると口元が少し笑っている。悪い予感がしたが、彰人は視線を虚空に  
彷徨わせながら呟く様に言った。  
 「よかったらその宿題」  
 「見せたら何してくれる?」  
 「…………」  
 彰人は黙った。多分こうなるんじゃないかなぁとは思っていたのだ。だが文以外に借り  
ていてはおそらく間に合わない。科学は一限目にある。学校に着いてから写していては間  
に合わないだろう。  
 「……飯当番一週間で、どうだ」  
 「…………」  
 「じゃあ二週間。それでだめなら」  
 「お兄ちゃんが一日私の言う事なんでも聞く」  
 「……は?」  
 彰人が聞き返す。  
 「だからぁ、お兄ちゃんが一日だけ私の言うこと聞くのっ」  
 少し顔を赤くしながら、彰人の方を見ないで文が言う。しかし彰人はその素振りには気  
が付かず、ひたすら絶句していた。  
 
 以前文に、誕生日だからといって同じ事を言われた覚えがある。その時はしょうがない  
なぁと承知したが、後で散々後悔した。一日いろんな所を連れ回されたのはいいまだいい。  
彰人も楽しかったし、そんな事ぐらいで文が喜ぶのだったら安い物だと思った。  
 だが一日終わってみるとそうではない。財布がとんでもないことになっていた。数名の  
諭吉が戦死、さらに今は亡き稲造も一名行方不明になっていた。両親が用意したプレゼン  
トよりも多い出費だった。何が安い物であろう。  
 「ま、マジ……?」  
 「うん」  
 視線そのままに、いくらか上気した顔で文が言う。  
 「やっぱ違うことに」  
 「じゃあ見せてあげないっ」  
 頬をむくれさせ、文がソファを立とうとする。その手を彰人の手が掴んだ。しかし手を  
掴む力は弱々しい。数瞬迷い、意を決したように彰人が言った。  
 「わかった。わかったから……、それでいい……」  
 彰人の表情とは違い、文の表情がパッと明るくなる。じゃあ持って来てあげるねと言う  
と、文は軽い足取りでリビングを出て行った。  
 ―――手伝い生徒のほうが良かったかな……。  
 頭に手を添えながら彰人は思った。無駄な買い物をしてしまったような喪失感が、今心  
を支配している。が、後悔する事も許してもらえないようだった。その元凶が庭で動き出  
している。  
 
 ―――カツ、カツ。  
 首を垂れ、指の間から覗くように音のしたほうを見ると、老いた犬が期待の眼差しで彰  
人を見ていた。その瞳の奥にはエサがあるのだろう。  
 ―――ご主人が窮地に陥ってるのに、呑気なもんだな。  
 彰人眼差しを受け、憎々しく思いながら席を立った。内心ではそう思っていても、ちゃ  
んとエサはあげるらしい。  
 ―――いったい何様のつもりだ。  
 悪態は吐いても世話だけは怠らない。というよりも世話をしなければ落ち着かない、犬  
好きの性分だった。  
 持って来たエサを皿にあけ、犬の頭を撫でると、ノートを持ち喜々とした顔で文がリビ  
ングに戻ってきた。  
 ―――そりゃ嬉しいだろう。  
 一日下僕が出来たんだからな、とまた卑屈になる。目を犬に戻すと、犬が無心にエサを  
食べている最中だった。さっきまで頼ってきたというのに薄情なものだと、彰人は目を細  
めた。しかし、犬に事情を分かれという方がおかしな事である。犬に当ってもしょうがな  
いことは今彰人が一番わかっていた。  
 ―――まぁどうにかなるだろう……。  
 諦めがつき、彰人は腰を上げた。  
 「はい、お兄ちゃん」  
 
 にぱっと笑顔で文がノートを渡す。名ばかりな兄だな、と彰人は受け取りながら思った。  
 「……サンキュ」  
 一応返事をする。すぐに取り掛からないと、登校までに間に合わないかもしれない。ノ  
ートの存在を重く感じながら、少し大股で彰人は自室に向かった。  
 
 
 
 

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