今夜も絶対に許さないんだから。私は心に誓う。
でも、そもそも何が原因で喧嘩をはじめたんだろう。
脱いだスーツの上着を床にくしゃっと置いたこと?
解いだ靴下をソファの下にそのままにしていたこと?
それとも、うちで食べるといっていたご飯を、外で食べてきたこと?
なんでもいいいや、とにかく絶対に許さない。
私だって仕事で疲れているのに頑張ってご飯の支度をしたり洗濯をしたりしているんだ。
それなのに何その非協力的な態度! 裕介さんが土下座して謝るまで絶対に許さない!
小さなマンションの一室、玄関のドアが開く音に続いて、控え目な声が聞こえる。
「……ただいまー」
時間は深夜。照明はすべて消してある。裕介さんが小さな声で帰宅を告げるのは当然だ。
寒い外から帰ってきたら暖房の効いた室内に気が緩んだのだろう、息を吐くのが聞こえた。
続いて、玄関から1DKのダイニングキッチンへと、忍ばせた足音が進む。
寝室にしている隣の部屋で横になっている私は、その気配に注意を傾けた。
深夜まで仕事をしてきた彼のための食事の用意はしていない。昨夜の喧嘩の名残だ。
裕介さんは、キッチンで冷蔵庫を開けて覗いてみたりはしないで、寝室のドアに手をかけた。
「早紀さん、もう寝てしまった? 起きていたら、シュークリーム食べようよ。
早紀さんの大好きなエン・ユンヌのシュークリーム、お昼休みに買っておいたんだよ」
真っ暗な部屋の中、ベッドの上で布団に潜り込んでいる私を、優しい声で誘う。
「早くおいでね。紅茶を淹れておくからね」
ぱたりとドアが閉まって、寝室は再び暗闇になった。
洋菓子ごときで私の怒りがおさまるとでも思ったのなら、甘い、甘いよ裕介さん。
私はのそりと身を起こし、ベッドから抜け出る。
目を瞑っても歩けるほどに馴れた、裕介さんのマンションの部屋だった。
暗がりの中、パジャマの上にカーディガンを羽織って、手ぐしで髪を整える。
怒りは収まらないけれども、エン・ユンヌのシュークリームは私の大好物だ。
さっくりとしているのに柔らかな皮は、小麦の香ばしさとバターのコクが絶妙に交わって、
カスタードクリームは程良い滑らかさの中にバニラの甘い香りと新鮮な卵の風味がたっぷりで
……ああ、あの味を思い返しただけでも口の中に唾液が溢れ出てきた。
多忙な仕事の合間においしいお菓子を買って来てくれた裕介さん、好きだー。
でも許せないー。
寝室のドアを開けると、ダイニングの明るい照明が眩しくて、私は目を瞬かせた。
「お湯が沸いたよ。あと三分だけ待ってね。今から紅茶を蒸らしすところだから」
猫なで声の裕介さんを一瞥することさえせず、目が馴れた私はテーブルの上に視線を向ける。
二枚の小皿に一つづつ、見るだけでよだれが出そうなシュークリームが載せておいてあった。
「……」
何も言わずにテーブルにつき、紅茶ができあがるのを待つことにする。
砂時計のガラスの中で真っ白な砂が流れ落ちて、山を作っていく。すべて落ち切ったら三分。
うちのティーポットでダージリンを蒸らし、好みの濃さの紅茶を作るには、丁度良い時間だった。
砂の落ちるサラサラという音が聞こえるような、ポットの湯の中で茶葉が開くコポコポいう音が
聞こえてきそうな、そんな静寂の中で、無言のうちに時間が過ぎていく。
私は無言でいるのはちょっと苦手だ。相手に悪いような気がしてしまう。
でも裕介さんは無言で過ごす時間も嫌いではないらしい。
「好きな人といるならそれもまた楽しいよ」って言っていた。
ふと顔を上げて見ると、私を見詰めていた裕介さんと、視線が合った。
遅くまで仕事をして疲れているはずなのに、優しい笑顔を向けてくれる。
「……さあ、紅茶もできたよ」
ポットを取り上げ、ティーカップに熱い紅茶を注ぎ入れると、湯気と香りが立ち昇った。
ソーサーごと胸の高さに持ち上げて、そこからカップを口元まで運び、紅茶をすする。
テーブルに戻したら、次はいよいよシュークリームに取りかかる。
あむっと食べると、端からカスタードクリームがはみ出そうになり、すかさず舌で嘗め取る。
夢中で食べ終えると、裕介さんがお皿ごと、自分の分のシュークリームを勧めてくれた。
遠慮なんてしない、だって喧嘩中だから、黙ってもう一つ食べ終えて、ようやく満足する。
同じように黙っていた裕介さんも、飲み干したのか、カップをテーブルに置いた。
残った紅茶をズズッとすすりながら、私は裕介さんの次の行動を覗う。
彼は空いた小皿を重ね、自分の使ったティーカップと共に流しに運んだ。
――普段は食器を下げるなんてことしないのに、やればできるんだなー。
それだけでは終わらない、なんと洗剤を垂らしたスポンジで食器を洗いはじめた。
――普段は食器洗いなんてやならいのに、やればできるんだなー。
洗い終えた食器をカゴに伏せて、その上に乾いた布巾を掛けて、ひとまず完了。
拭いて食器棚に戻さなかったので満点はあげられないけれども、
埃をかぶらないように、布巾を掛けておく配慮はいい。
――やればできるんだから、普段から実行してくれればいいのになー。
……怒りが、再燃してきた。
食べる物は食べたし、うん、もう寝よう。私は立ち上がった。
広くもないマンションだから、寝室へ続くドアはすぐそこ。
私はドアを細く開けて、暗い寝室に体を滑り込ませる。
その後ろからさらにドアを大きく開いて裕介さんが続いた。
ベッドに歩み寄る私の背後に近付いて、そのまま距離を詰め、寄り添おうとする。
そうはいかないんだから。私は振り向いて、裕介さんに向き合った。
「……っ!」
抗議の声をあげる間もなく、裕介さんが私を強く抱き寄せる。
彼の胸のあたりに顔を押し付けられて、声が出せないだけでなく、息苦しさも感じる。
背中に回された両腕は優しいけれども力強くて、私の力で振り払うことはできない。
しばらくそのままでいると、ワイシャツ越しに、だんだん彼の体温が伝わってくる。
それはこれまで何度も感じてきた温かさで、私はちょっと泣きたいような気分になる。
「……シュークリーム、おいしかった?」
だから、彼の問いに、ちょっとだけ頷くような素振りを見せた。
……男を甘やかしてはいけないね。うん。私はひとつの教訓を得た。
いきなり私は仰向けに押し倒される。
「今度はぼくが味わう番だね」
何そのセリフ! 何その怪しい微笑み!
心の中で絶叫する私にはお構いなしに、裕介さんは私に覆い被さってきた。
マットの上にかけた厚い羽布団の上に押し倒されたから、
体が布団に沈み込んで動きにくく、抵抗できない。
両腕を抑えつけられ、もがく両足の間に裕介さんが入り込んだ。
「早紀さん、シャンプーの香りがする。ぼくもシャワーを浴びてくればよかったね。
でもいいよね、だって早紀さんがあまりにおいしそうで、もう我慢できないからさ」
裕介さんが耳元で囁く。吐く息がかかって、くすぐったい……そうして、つい
「……っん!」
声が漏れる。耳を攻められるのには弱いのだ。呼気がかからない方向に頭を逸らす。
「ねえ、逃げなくていいんだよ。早紀さんに気持ち良くなってもらいたんだから」
また耳元でひそめた声がして、私は逃げきれずに喉を反らして快感を味わった。
裕介さんの手がカーディガンを捲り上げ、パジャマの上から私の胸に触れる。
小さいのがコンプレックスだった。小さくても好きだと言ってくれたのは、この人だった。
「……やぁ……んっ、……私、まだっ」
堅くなった先がパジャマの生地の上からでも分かるのか、裕介さんの指が留まる。
彼の指先一つでこんなにも感じてしまう自分がいて、吐息と共に言葉を吐き出す。
「……怒ってる、のっ!」
「怒っている早紀さんも大好きだよ」
彼の言葉に体が熱くなるのを感じる。
肌の赤味が強まって、それがきっと彼にも分かったのだろう。
笑いを漏らした唇が、そのまま私の首筋を辿った。
生地越しでは物足りなくて、裕介さんが寝巻のボタンを外していくのが、待ち遠しい。
この身をすべて任せたいと思えるほどに大好きな人の手が、やっと私の肌に触れる。
熱いのは、彼なのか、私の肌なのか、そんなことも分からなくなるくらいに。
「……ん……ぁんっ」
揉みしだかれる胸は、彼の指の動きのままに揺れ、
彼の舌が突起を嘗めまわしはじめて、二種類の快楽に我を忘れた。
つつかれたり、ついばまれたり、その度に感じて体を反らしてしまう。
裕介さんが下腹部に腕を伸ばした。
パジャマの下に手を差しいれて、下着の縁をなぞり、さらにその中に指を忍ばせる。
「……もう濡れているね」
うれしそうな響きを隠さずに声にして、そのままパジャマと下着を脱がせようとする。
軽く腰をあげて脱ぐ協力をしてしまう私はどうかしているに違いないよ。
足首に引っ掛かったパジャマと下着をもどかしげに放り出し、
彼は大きく割り広げた太腿の間に上体を屈ませる。
「っ、…………ぁあ、ん!」
軽く息を吹きかけられて声を上げかけたところに、舌で転がされた。
嬌声が高くなる。自分自身のその声が恥ずかしくて、もっと濡れていく。
裕介さんは体を起して、手早く服を脱ぎ捨てると、膝を腿の間に進めた。
ぬかるんだ箇所に、裕介さんの先端が擦りつけられ、強く押しつけられ……
そのままゆっくりと中に埋まって、私がずっと欲しかった刺激を与えてくれる。
与えられるだけではイヤだから、私は腕を伸ばして裕介さんの頭を胸に抱き寄せた。
「これでは動けないよ?」
と裕介さんが笑った。笑ったはずみに体が揺れた。気持ちよくて膣がきゅっと締まる。
「……こんなに締めつけられてはね?」
「や……ぁん、そんなこと、して、な……っ!!」
中を広げるようにゆっくりとかき回されて、言葉が途切れた。
裕介さんは膝立ちになり、私の腰を両腕で支え、ゆるやかな抽送を始める。
ゆっくりと抜き差しする度に内側が擦れて、そこから快感が生まれる。
しがみつくところが欲しくて腕を伸ばし、シーツを握り締めて、快感を逃がそうと思う。
でも、後から後から生まれてくる快感は、どんどん増して大きくなっていくばかりで。
「ゆ――すけぇ……も、ダメ……っ!」
「早紀さん、いって……ぼくも、もう」
奥まで突かれて。何度も奥まで貫かれて。
その瞬間、中でどくっと脈打ったのを感じて。
私も、下肢を小刻みにひくつかせながら、達してしまった。
気持ちは限りなく幸せに満たされて……体がダルイ。
こんなの毎晩なんて到底できない。
とてもじゃないけれど体がもたない。
「ぼくが食器洗ったり洗濯したりするからさ、だから、明日の夜も、いいでしょう?」
「無理ダメできない」
「料理は早紀さんにやってもらいたいなー。早紀さんのつくるご飯、おいしいからー」
「却下不許可棄却」
「いや却下と棄却は違うもののような」
「審理せずに却下して、その後一応審理してみたらやっぱり棄却だったの」
「えー」
「大の男が我侭言うんじゃありません」
「いや男だから。早紀さんのことを大好きな男だから、欲しくなるわけなんだよね」
「毎晩なんて絶対無理」
……これだ、これだったんだ、喧嘩の理由。
おしまい。