『分からない』  
 
1.  
「おー、智巳ぃー。久しぶりだなあ」  
「お早うございます、晃さん」  
トモは玄関を開けてくれた玲の兄、晃に向かって頭を下げた。  
玲がトモの幼馴染みであるように、晃もまた小さいときから一緒に遊んだ仲だった。  
自転車の乗り方や、ザリガニ釣りの仕方を教えてくれたのも、初めてエロ本を見せてくれたのも彼だ。  
「……ちょっと痩せました? やっぱ大学、忙しいんですか?」  
「んー、まあな。工学部だし」  
たわいもない近況報告をしながら、晃はトモを玄関に導きいれる。  
「しかし、智巳も元気そうで何よりだ。俺はな、智巳――」  
そう言いながら、晃はトモの肩を両手で掴んだ。  
そのまま、顔をぐっと近づけてくる。  
「なっ……なんスか、晃さん」  
「あ――――」  
「……あ?」  
肩を握る手に力がこもる。  
「ありがとう、智巳ぃっ!!!」  
がっしと抱きしめられ、智巳は悲鳴をあげる。  
だが、もがいても体格のいい晃から逃れることは出来なかい。  
「お、お、俺は兄として嬉しいっ! よく……よくあの玲をもらってくれる気になったなあああああああっ!」  
そのままトモを抱き上げ、左右にぶんぶんと振り回す。  
振り回されるたび、トモはひゃーひゃーと奇声を発した。  
 
「いやー、何しろあの不感症ぶりだろ? 俺が着替えを覗いたって『キャーお兄ちゃんのエッチー』とも言わねーんだ。  
このままじゃ貰い手がつかないまま行き遅れになっちまうんじゃないかと、俺はもう心配で心配で――」  
ひとしきりトモで遊んだ後、晃は感極まったように目元を押さえた。  
「ああ。だが天は玲を見放さなかったっ! まさかお前がアイツをもらってくれるとはなっ!!   
俺が手塩にかけて育てたかいがあったというものだっ!」  
「あ、あのー……」  
一人で感動している晃に、トモはおずおずと声をかける。  
昔から走り出したら止まらない性格なのだ。  
今も、トモの声など意に介さず、一人で勝手に盛り上がっては納得している。  
「……それにしても、玲が――あの玲がなァ……まさかお前に告白するなんて、なァ」  
トモがすっかり諦めに入ったとき、ふと晃はしんみりとした顔を見せた。  
 
学校からの帰り道にトモが玲から告白されてちょうど一ヶ月。  
二人の関係は変わったようで変わっていないとも、全く違ってしまったとも言えた。  
『……みんなにはないしょ』  
あの日、別れ際に玲がそう言ったのは、たぶん恥ずかしいからなのだろう。  
トモも何となく気恥ずかしさがあって、家族にも友人にも黙っておくことにした。  
もちろん、いつまでも隠しておけるものでもなく、今ではトモの家族も玲の家族もすっかり知ってしまっている。  
でも、まだ学校では二人はただの幼馴染みのままで、時々一緒に下校する以外、特別なことはしていない。  
(なんか、普通って難しいな)  
トモは教室で玲に顔を合わすたびそう思う。  
今までできていたはずの普通の挨拶すら、なんだかぎこちない。宿題を見せてもらうのもためらわれるぐらいだ。  
そんなとまどいは、玲からもひしひしと感じられて、  
(これが付き合うってことなのかなァ)  
と、今まで女の子と付き合った経験など無いトモは漠然と思うようになっていた。  
 
「ところで玲は……」  
「おお、あいつならまだ部屋で着替えてるぞ。もう昨日から大騒ぎでな。  
『明日、トモくんと一緒……』とか呟きながら、山のような服やら靴やら抱えて右往左往してる。  
お袋も『この服はトモくんの趣味だろうか』『この帽子はどうだろうか』『トモくんは』『トモくんは』……  
なーんて、ひっきりなしに聞かれて少々グロッキーだぜ」  
晃はそう言って苦笑する。  
「ホワイトデーのお返しデートだって? 玲のヤツ、熱出しそうな勢いだぞ。まるで幼稚園児だねェ」  
「ははは……」  
トモはそう言って引きつった笑いを見せる。  
昨日は寝られなかったのはトモも同じだった。  
「今日も朝から化粧の練習なんかして。慣れてないもんだから口なんかまるでオカメ……いたたたたたたッ!」  
突然晃が悲鳴を上げる。  
トモが覗くと、膨れっ面をした玲が兄の背中を思い切りつねっていた。  
「怒るよ」  
そう言いながら、晃の背中の肉を捻り上げる。  
「い、い、妹よっ。『怒るよ』と言いつつ既にキミは怒っているのではないかな?   
言葉というものはもう少し正確にぃたたたたたっっ!! 痛い痛いっいたっ、ち、ち、血が出る! 血が出る!」  
「謝って」  
「はいっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいーっ!」  
 
十分に晃に対するおしおきを済ませると、ようやく玲はトモに向き直った。  
そのとたん黙りこんでしまう。  
ちらちらと上目遣いにトモを見る仕草に、トモもまた思わず赤面する。  
「……変?」  
そう呟く玲の姿を改めてトモはじっくりと観察した。  
白を基調にしたワンピースに、薄い紫のカーディガン。手には大きな丸いつばの帽子。  
他の女の子ならば少し古風すぎるが、長い黒髪の玲には逆にぴったりに合っているように思えた。  
化粧は諦めたのか、その顔は薄く日焼け止めを塗っただけ。  
でも、ぽっと頬を染める朱色や、少し噛み締めた唇の薔薇色は、トモにはどんな化粧より輝いて見えた。  
 
黙って首を振ると、玲はやっとほっとしたようにはにかんだ。  
トモもそれにつられて笑う。  
「いくか?」  
「うん」  
玲が靴を履くのを待って、二人は揃って外へ出る。  
「あんまり遅くなるなよ〜」  
晃の声に見送られ、二人は駅を目指した。  
 
 
2.  
今日の目的地は、電車で一駅のところにある「市民動物公園」。玲のたっての希望だった。  
お金のない高校生のこと、トモは大変有り難かったのだが、初デートがそんなのでいいのかという不安もあった。  
――でも。  
 
「トモくん、ラスカル」  
「いや、アライグマだろ」  
玲が指差す先には、アライグマの檻がある。  
トモの訂正も気にせず、玲は檻に走っていく。トモはその後ろをゆっくりと追う。  
そのまま二人は並んで、言葉も交わさずアライグマを見る。  
ちらちらと横目で玲の様子を伺うトモ。  
檻の中を走り回るアライグマたちの様子を、まるで授業でも受けるみたいに真面目に見つめる玲。  
楽しんでいることは、黙っていても伝わってくる。  
(そーいうことは、よく分かるんだけどなー)  
二人の間には指二本分ぐらいのわずかな隙間がある。  
それが、トモには縮められない距離だった。  
駅までの道すがらも、電車の中でも、動物園に着いてからも。そのわずかな距離が立ちはだかっている。  
ましてや手などとてもつなげない。  
(……ほんとに、俺といて楽しいのか?)  
トモのことなどお構いなしの玲を見ていると、もし今日一人で来たとしても、玲は楽しんだのではないかと思う。  
 
トモは、十分楽しい。  
ぽつりぽつりと喋る玲の一言一言が、それが何気ない言葉であっても胸を高鳴らせる。  
でも、その背後にあるものがトモには分からない。  
告白しあうまではあれだけ分かった玲の気持ちが、今は昔ほど読み取れなくない。  
玲の笑顔の向こうにあるのが、本当に恋愛感情なのか、不安になる。  
それを今日朝からずっと考えていた。  
 
檻の前には、二十分近くいただろうか。  
トモは勇気を振り絞って口を開いた。  
「……玲、あのさ、手――」  
「あ……トモくん、はむすた」  
言いかけた言葉を、玲が遮る。その指の先には、「動物ふれあい広場」の看板と、小動物の絵があった。  
「ハムスターな」  
昔から、玲はなぜか長音が苦手だった。「はむすた」だったり「はむすたあ」だったりする。  
差し出しかけた手を引っ込めながら、トモは小さく息を吐く。  
玲はトモにお構いなしに看板の方へ向かった。  
「トモくん。触れるって」  
手を振って自分を招く玲に、小さく手を振り返しながら、もう一度トモはため息をついた。  
 
 
お昼は、玲の母が作った弁当をベンチで食べた。  
玲は料理が上手なのだが、大変時間がかかる。今朝も手間取っていたところを見かねた母親が手伝ったらしい。  
弁当は大きなトモ向けの弁当箱と、小さな玲のための弁当箱に分けられていた。  
だから、トモが期待したような「トモくん、あーん」なんてこともなく、二人は静かに昼食を済ませた。  
今は、デザートのソフトクリームを食べている。  
今日は陽射しがとても強い。いわば「絶好のソフトクリーム日和」だった。  
「うまいか?」  
トモが尋ねると、玲は黙ってうなづく。玲はきな粉ソフト、トモはチョコバニラミックスを食べている。  
溶けたソフトが垂れてこないよう、器用に舐め取る玲の口元に、トモは目が釘付けになる。  
柔らかそうな唇の間から、ぺろりと伸びては乳白色の液を舐め取っていく玲の舌。  
精一杯小さな口を開けてコーンにかぶりつく。  
なぜかトモは目が離せない。  
(……今日、キス出来るかな)  
ふとそんなことを考え、体が火照るのを感じる。  
玲と、キス。  
今まで考えたことも無かったこと。けれど、恋人同士なら当たり前なこと。  
(……まずは、手ぇ繋がないとな……)  
それから腕を組んで、肩を抱けるようになって、それで――  
トモにはまだ難関がたくさん控えていた。  
 
「それ、おいしい?」  
玲に聞かれて、トモは我に帰る。  
彼女の視線は、トモのミックスソフトに注がれていた。  
玲がほとんど食べ終えようとしているのに、トモのそれはまだたっぷりと残っている。  
黙って玲の方にそれを差し出す。  
玲はぱっと顔を輝かせ、口を近づけ、ぺろりとトモのソフトクリームを舐めた。  
「ん」  
玲は残った自分のソフトを差し出す。  
「おう」  
トモは短く答えて、コーンの端を齧る。  
「私はこっち」  
「そうか」  
どうやら玲はミックスソフトはお好みじゃないらしい。そういう内容は、すぐ分かるのに。  
(……間接キス、かなァ。これ)  
トモの胸がまた高鳴る。  
これまで十数年の間、互いの食べ物を味見しあうなんて普通にしてきた。  
今ではその意味は違っている、少なくともトモにとっては。  
玲がどう思っているか、トモは知りたいと思った。  
 
 
3.  
初めてのデートで玲の家族を心配させたくなかったから、トモは早めに動物園を出ることにした。  
帰りの電車も、いつもの二人のように口数は少なかった。  
夕暮れの駅から二人の家へと歩く今も、やはり会話は少ない。  
それはトモと玲には当たり前で――付き合い始めたばかりの恋人としては少々不自然だった。  
今も、手は繋いでいない。  
 
何かのきっかけのたびに、トモは手を繋ごう、と言おうとした。  
けれど、喉のところまで出掛かったところで、いつもその言葉は引っ込んでしまう。  
一方の玲は、いつもどおりの距離を保ったまま、すたすたと歩いている。  
トモもいつものように、玲の周りを行ったり来たりしながら、彼女の顔を覗き込む。  
僅かに玲の目だけが、トモの動きを追っていた。  
見慣れた四辻が近づいてくる。あの角を曲がれば、二人の家のある通りに出る。  
(――あれが最後のチャンス――)  
角にたつ電柱と、自分たちの距離を何度も目で測りながら、トモは歩いた。  
あと十メートル。  
玲は頭上を飛び去るカラスに目を向けていた。  
あと五メートル。  
玲はズボンのポケットに突っ込んでいた手を静かに外に出した。  
あと三メートル。  
玲に気づかれないよう、トモは静かに咳払いをする。準備OK。  
一メートル。  
トモは何度も頭の中で言うべき言葉を繰り返す。  
そして。  
――やはり何も言えないまま、トモと玲は角を曲がった。  
 
「じゃ、ここで」  
玲の家の玄関前で、トモがさっと手を上げた。  
改めてトモの方に向き直り、きちんと手を前で揃えた姿勢で、玲はうなづいた。  
「ありがとう」  
「ああ、俺も」  
「今日」  
「うん。俺も」  
ありがとう、今日は楽しかった。うん、俺も楽しかったよ。  
好きあう二人には短すぎる言葉が、トモと玲の間ではもっと短い。  
トモが笑うと、玲は恥ずかしそうに顔を伏せた。  
「じゃあな、また明日」  
トモは自分の言葉をきっかけに、思い切って振り返った。  
いつまでも玲といたいけれど、玲の体に触れたいけれど、出来ない。  
(あせっちゃ、駄目なんだろうな)  
十六年の付き合いが、これだけ重荷になるとはトモは想像もしていなかった。  
付き合いがあるだけ、今までと違うことなんてなかなか出来るもんじゃない。  
(ま、そういうもんでしょ)  
自分を言い聞かせ、トモは歩き出す。  
そして、門の外に足を踏み出した。  
門柱のところでくるりと体を回転させ、すぐ隣の自分の家へ。  
街灯はまだ灯っていない。暗い道の向こうに、見慣れた我が家が見える。  
思いを振り切るように家に向かって駆け出そうとした、その時。  
 
「……トモくん! 待って!」  
突然の大声に、トモは驚いて立ち止まった。  
振り向くと、門のところに玲がいた。  
普段出しなれていない大声を出したせいか、玲の息は荒い。  
その呼吸に合せて、白い服に包まれた胸が緩やかに上下する。  
「玲?」  
「と、トモくんっ!」  
もう一度叫ぶと、玲はぱっとトモへと駆け寄った。  
まるで飛びつくように、トモへ体を預ける玲。自然と、トモは玲を抱きしめる格好になった。  
玲の両手がすっとトモの首筋に絡まる。  
信じられないぐらい強く、玲にトモは引き寄せられた。  
 
――ちゅっ――  
 
玲はためらうことなくトモの唇を奪っていた。  
目をぎゅっとつぶり、力一杯自分の唇をトモに押し付ける。  
重ねるだけのキス。マシュマロのような柔らかな感触が、トモに伝わる。  
トモの思考はどこかに飛んでいき、ただ分かるのは玲の滑らかな感触だけ。  
目を開けていても玲の姿はどこかに消え去り、彼女の臭いも、触れ合う体のぬくもりも、なかった。  
それぐらい、玲のキスは強烈だった。  
 
何秒か、何十秒かが過ぎ、玲はようやく力を緩める。  
互いに荒い息をしながら、トモは火照った顔で抗議の声を上げる。  
「お、お前突然……んっ! んんんっ!!」  
だが、その言葉は再び玲の唇に塞がれてしまった。  
逃れようと身をよじっても、玲の腕はトモを離さない。  
やがて、トモは全てを玲に委ねることにした。  
玲と溶け合い、一つになるような錯覚。  
さらにそれを強めようと、トモは腕を彼女の腰に回し、ぎゅっと抱きしめた。  
 
「お、お前、いきなりすんなよ……」  
ようやく唇同士は離れたものの、トモと玲は抱きあい、顔と顔を寄せ合っている。  
「だって……」  
どういう顔をしていいのか分からない、といった様子で、玲は視線を彷徨わせる。  
あえて言えばそれは泣き笑いの顔だった。  
「決めてたんだもん……」  
玲の言葉の真意が、ほんの数拍おいてトモに伝わった。  
 
――今日、絶対キスするって決めてたから――  
 
「あっ、バッ、ば、バカ……それ……」  
「……トモくんも?」  
驚いたような顔の玲に、トモは渋々うなづく。  
二人は気まずそうに、それでも嬉しそうに見つめあった。  
「だって……なかなかタイミングが掴めねーんだから、仕方ねえだろ」  
「待ってたのに……」  
「や、そ、それは悪かったけど……って! いやそれ、おかしいし! 手も繋がないでキ、キスなんて、とか思うし!」  
「……いいもん、そんなの」  
玲はそう言ってトモの胸に顔を埋めた。  
お互いの胸の鼓動が痛いほど伝わってくる。  
玲は緊張していた。トモも負けないくらい緊張していた。  
でももう、彼女の気持ちが分からないなんて、これっぽっちも思わなかった。  
「じゃ、じゃあ……」  
「うん……」  
トモの言葉に、玲は顔を上げた。頬には涙の粒が光っている。  
二人は目を閉じる。  
――もう一度、しよう?  
 
(終わり)  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
追記:なお、この様子は玲の兄、晃によって一部始終を観察されており――  
二人は当分の間これをネタにからかわれたのだが、それはまた別の話である。  
 

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