『二十円の気持ち』
いつもと変わらない学校からの帰り道。違うのは、今日が二月十四日ということだけだ。
そしてそれが、最大の違いでもある。
男たちはこの日一日、悲喜こもごもの様子を見せた。
あるいは本命チョコに喜び、あるいは戸惑い、あるいは……一つも貰えず、それでも往生際の悪い奴もいる。
ここにも、一人。
「玲さー、今日何の日か知ってる?」
「知ってる」
夕暮れの住宅街を、二つの人影が歩いている。
学生服の少年と、ブレザー姿の少女が。
少年は、玲と呼ばれた女の子の周りを、まるで子犬みたいにぐるぐる回っている。
そんなじゃれついた様子にも、彼女は顔色ひとつ変えない。
制服を着崩し、髪を茶色に染めた少年と、まるで制服カタログのモデルのような、一分のすきもない黒髪の少女。
対照的な二人は、それでいてぴったりと馴染んでいた。
「……ほんとに分かってんのか? 今日は二月の十四日なんだぜ」
「うん」
玲の返事は控えめで、しかも単調だった。
「二月十四日ってことは――バレンタインデーだ」
「知ってる」
玲の前後を、少年は行ったり来たり。
でも、玲はまっすぐ前を見つめたまま、足取りを緩めない。
両手でしっかりと握った鞄が、スカートの前で揺れる。
無視しているわけではない。その証拠に、玲の視線はちゃんと相手を追い続けている。
「俺と玲もさー、付き合い長いじゃん?」
こくり。
玲がうなづくと、少年はチャンスとばかりに彼女の顔を覗き込む。
「保育園からだもんなー。ほんと長いよなー」
「十六年」
何の抑揚もなく玲は答えた。だが、少年の方は大仰に振り返る。
「そう十六年も一緒なんだ。十六年! そんな付き合いの奴、男でもいないぜ、俺」
「うん」
感慨深げにうなづいている彼の横で、玲はやはりマイペースに歩いている。
ひとしきり演説を終えたところで、少年はちらりと玲の様子を伺った。
相変わらずの玲に、ちょっと頭を掻く。
昔から、彼女は感情表現に乏しい。
といっても、けっして冷たい人という訳じゃない。
友達に何か嬉しいことがあれば精一杯の笑顔で喜ぶし、話題の恋愛映画でぽろぽろ泣いたりもする。
ただ……それがなかなか表に現れにくいだけ。
古い付き合いだけに、それはそういうものだと諦めている。
「私もいない。トモくんだけ」
不意にそう言われて、トモは驚いた。
だが長い付き合いのこと、何を言っているのかぐらいすぐに分かる。
自分も、それほど長い付き合いの友人はいない、たとえ女の子でも――そう言いたい訳だ。
「じゃーさ、分かってるだろ?」
「? 何が?」
初めて玲が表情を変えた。
にんまりと笑うトモの顔を、上目遣いに覗き込んでいる。
黒い瞳には無数の「?」が浮かんでいた。
「だからさ、俺と玲は長い付き合いで、今日はバレンタインだ。だから――何かあるだろ、ほら。
曲がりなりにも十六年の付き合いがあれば、義理もしがらみも、色々あるわけだし」
「……なに?」
まくし立てるトモの横で、玲は小首を傾げる。
さすがのトモも、ちょっと困った顔をした。
「――昔っから、そうだよな」
はぁ、とため息をついて、トモはすねたように鞄を振り回して見せる。
玲は「はてな?」と首を傾けたまま、そんな様子を見守っていた。
「お前、一度もチョコくれたことないじゃん。小さい頃からずっと」
不服げに言われても、玲の「はてな?」ポーズは変わらない。
「欲しいの?」
真正面からそう切り出され、トモはちょっと戸惑った。
その聞き方はごく自然で、まるで「私の消しゴム、貸して欲しいの?」みたいな雰囲気だ。
「あー……そりゃあ、欲しいかって言われれば、まあ、欲しい、んだけど……」
思わず言葉を濁す。
小学校ぐらいまでは、玲がチョコをくれないことを気にも止めなかった。
何しろ男と女がちょっとでも仲良くすると、徹底的にからかわれるのが小学生の世界だ。
学校ではトモは玲と口も聞かなかったし、一緒に帰ることもめったにしなかった。
ただ家がごく近所だから、自然と一緒になってしまうことはあったけれど……。
それを友達にからかわれるのがいやで、わざと玲に意地悪したりもした。
だから、玲がバレンタインに何の興味も示さないことを、小学生のトモは心の底から感謝したものだ。
でも、やがてトモの考えは変わった。
小さい頃からずっと一緒だった女の子、玲。
彼女のバレンタインへの態度は、小学校のときも、中学校のときも、高校生になった今も、変わらない。
**
「やっぱさ、そのー、義理チョコぐらいくれてもいいだろ? 妹だってブツクサ言いながらくれるぜ?
お袋だって――ま、これはマジで要らないけど」
「そうなの」
トモの家庭の様子を、玲が知らないはずはない。
けれど、玲はいつでもトモの話にちゃんと相槌を打つ。
いつでも、必ず。
しばらく無言で二人は歩いた。
沈黙も、トモと玲にはいつものことだった。いまさら気まずいとも思わなくない。
こつ。こつ。
靴の音が響く。
二人で歩く帰り道は、いつも、ちょっとゆったりとした時間が流れている。
「じゃ、あげる」
不意に玲が言う。
びっくりして振り返るトモに、玲はちいさくうなづいた。
「そこで、待ってて」
そう言うと、玲はトモを置いて、一軒のコンビニへ向かった。
それはときおり、二人が下校時に買い食いするところだった。
一週間ほど前から「バレンタイン・フェア」ののぼりや看板が、賑々しく飾られていた。
玲と一緒にその横を通るたび、トモは彼女の顔をそっと観察していた。
しかしいつも、玲は無関心に通り過ぎて、トモを密かに落胆させた。
しばらくして、玲が出てきた。
あくまで落ち着いた足取りで、ゆっくりとトモのところに戻ってくる。
「おまたせ」
そう言うと、玲はそっと手を差し出した。
「…………チ口ルチョコ?」
玲の手のひらに載っていたのは、四角い小さなチョコレート。
二十円の、赤い包装紙に包まれたチ口ルチョコだった。
トモの言葉にうなづき返し、その手にチョコを乗せる。
呆然とするトモを置いて、玲は再び歩き出そうとした。
その肩をトモは荒っぽく掴む。
「待てよ。怒ってんのか」
「どうして?」
初めてトモは玲の口調に苛立った。
ロボットみたいに正確で、単調で、絶対変わらない、そんな口調に。
「だって、こんなの無しだろ!」
「それ、チョコ」
「そりゃ、そうだけどよ!」
それも立派なチョコである。チョコが欲しいというからあげたのに、何の不満があるのか――
玲の言いたいことが分かるだけに、トモは余計に言葉を荒げた。
トモは自分をロマンチストと思ったことはない。
玲がロマンチストだと思ったこともない。
でも、もう思い出せないくらい小さい頃から一緒だった二人だ。
きっと初めて渡すチョコレートには、何かプラス・アルファがあるはずだ。
そう信じていたのに。
手にころんと転がった二十円のチョコを、思わず地面に叩きつけそうになる。
「……もっと、何かあるだろ!? 義理でもさ、こう、気持ちっていうか、何か……!」
「……よく、わかんない」
玲は困り果てた顔をして、それでもやはり淡々とつぶやく。
「だからよ!」
トモはそう叫びかけて、はっと口を抑えた。
そこで初めて、玲が悲しそうに目を伏せているのに気づいたから。
知らず知らず、玲を問い詰めていたことに気づく。
「十六年の付き合い」を口実にチョコを貰おうってだけでも厚かましいお願いだ。
それは義務で挙げたり貰ったりするものじゃなく、「気持ち」なんだから。
トモは自然に頭を下げる。
「ごめんね」
けれど、先に謝ったのは玲だった。
トモの目を避けるようにうなだれて立っている。
「……ごめん、俺がちょっと興奮しすぎた」
言い訳のように言ってから、トモは玲の頭に手を置く。
いつの頃からだろう。トモの身長が玲のそれを抜いた頃から始まった、仲直りの合図。
「十年以上の付き合いだからさ。分かってるつもりになっちゃうけど……やっぱ、分かんないことってあるよな」
「うん」
うつむいたままの玲の頭を軽く撫でる。
「『これからもよろしくー』とか『今までありがとうね』とか、なんか、そういうの、期待してたんだよ」
「うん」
「でも、そんなの俺が押し付けるもんじゃねえよな。
それにそんな台詞、玲らしくねえし……お前がそんな奴じゃないこと、分かってたつもりなのになァ……
ごめんな。義理チョコなんだから、これで十分だよ。ありがと、玲」
「…………」
トモはそう言うと、包みを破ってチ口ルチョコをぽいっと口に放り込んだ。
甘い。心が温かくなるような甘みだった。
「さ、帰ろうぜ」
日は既に傾いている。二人も、コンビニも、町並みも、オレンジに染まっていく。
トモは玲に笑いかけながら、その腕を取った。
「違う」
玲の言葉に、トモは足を止めた。
鼓動が早くなる。
何しろなまじ付き合いが長いから……トモは玲の言いたいことがすぐ分かる。
今、口に入れたのは義理チョコなんかじゃない――ってこと。
「トモくん。好き」
振り返るトモを、玲は顔を真っ赤にしながら見つめていた。
「…………トモくんは……?」
まだ口に残るチョコレートの欠片を、改めて舌で転がす。
うなづくトモに、玲は初めての――十六年一緒にいて初めて見せる、大輪の笑みを浮かべた。
(終わり)