残酷な無意識。  
いとおしい共有。  
虚しい言葉。  
 
どれもなくてはならない、欠けてはいけない、彼らの本質だ。  
無意識が言葉を虚しくさせる。  
言葉が共有を残酷にする。  
共有が無意識をいとおしむ。  
 
 
 
―――ほんの、一瞬。  
 
彼は時々、彼女にそれを感じていた。  
いけないと思うほど、それは強く渦巻いていく。  
体は正直に反応して、彼はその対応に心臓を止まらせることもしばしばだった。  
不幸なのが、彼女の方はまったく、おくびにも彼を意識してはいないということだ。  
 
彼と彼女は幼なじみで、曖昧な関係をおよそ10年以上も続けていた朴念仁同士だったので、  
そのような意識など持てるときがなかったらしい。  
しかし、彼の方が、先に振り返っていた。  
そして彼女を強く強く大事だと、その時点ではもうわかり過ぎるほどわかっていた。  
大事だからこそ、自分だけが壊しても良いのだ、というひどく身勝手な独占欲も生じていた。  
示し合わせたように、彼女の方も彼ほどに親しい男などいたことがなかったので、  
彼と彼女の関係は、ある種特殊な雰囲気を生み出していった。  
 
危ういものだった。  
暑さで解けてしまえる程度の、常に危うい空気が、二人の間で揺らいでいた。  
お互いがただ無意識という脆い縄で縛っていた為だった。  
 
 
 
「それはどうしたの」  
私は言った。  
開口一番に言ってやった。  
やつの頬に妙な赤い痕がぽっかり浮かんでいたから。  
そしてそれがなんなのか、私にはもう察しがついていたのだ。  
「何がや」  
答えをはぐらかしたのが答えだと言えた。  
「とぼけても意味ないでしょうに、そんなに鮮やかな手形。また女の子泣かしたんでしょ」  
嘆息しながら遠慮なくずばずばと言ってやれば、私の小憎らしい腐れ縁の君、秋良高馬は、  
ちらと一瞥をくれただけでさっさと通り過ぎていった。  
けれどその一瞬で私が見てしまったその表情は、怒っているかのような態度とは明らかに  
意を異にしていた。  
いたずらが見つかってどう言い訳をするか考えているような、そんな幼さすらある顔。  
やつの背中がドアの向こう側に消えてしまう前になにか言ってやろうと口を開いたのに、  
そこから出てきたのは短い溜め息だけだった。  
いい加減からかう言葉も尽きてきて、罵りや説教すら思い浮かばないありさま。  
それほど、秋良の女癖はひどい。  
しかも本人、自覚ないから、さらにひどい。  
「いつか刺されるんだから」  
悔し紛れに口にしたのに、思いの外寂しげな響きを伴って、余計悔しくなるばかりだった。  
通り過ぎた逞しい背中はもう視界にはない。  
待ち人の去った場所から、私は、足取りも重く、ゆっくりと歩き出した。  
 
少しガラの悪い目つきと、歯に衣着せぬ言葉と、裏腹の態度と。  
それが私の知っている秋良。  
17年間生きてきてそれが覆されることはなかった。  
けれど、私の知っている秋良のほかにも、秋良はたくさん居る。  
想像できない秋良が、私には決して見せてくれない秋良が。  
それを思うと、胸が少し、重苦しくなる。  
けれど私だって、秋良に見せていない私がまだまだいるのだ。  
何も不思議なことじゃないし、決して悪いことじゃない。  
例え恋人でも親子でも夫婦でも、明かせないことの一つや二つあって当然だ。  
それは分かっている。  
それでも、私の胸は、体は、誰かの傍にいる知らない秋良を思うと暗く深いところに落ちていくように  
重くなる。  
それを見ていいのは私だけだ、と。  
それを知るのは唯一私だけだ、と。  
笑いたくなるほどに馬鹿げた欲望が頭の中を埋め尽くしていく。  
ああ、どうして。  
きょうだいの様に、家族のように、親友のように、恋人のように、育ってきてしまったんだろう。  
もし今この瞬間だけでも秋良の心を独占できるというなら、今までの思い出を捨ててしまっても  
構わないだろう。  
苦しい。  
一人で居ると、悪い方へ考えが及んでいけない。  
でも、一眠りすればまた普段どおりの私に戻っているだろうから、今はとことん落ち込んでおこう。  
…秋良は今ごろ誰といるんだろう。  
苦しい。  
秋良の顔なんてもうみたくない。  
それでも会ってしまえば心が躍るのだから。  
 
 
 
なんやねん、あの女は。  
まさかみどりに見つかるとは思っても居ない秋良だった。  
不意打ちで、どう繕おうともボロが出てしまうことは分かりきっていた。  
だからいっそのこと居直った。  
正直、怒鳴られるのを覚悟して、みどりの居る場所に着くまでの間、どう弁明しようかと考えあぐ  
ねていたぐらいだ。  
けれど、みどりの反応も言葉も、秋良の予想からは大幅にはずれたものだった。  
「それはどうしたの」  
まるで、悪いことをした子供がごまかそうとしているのを叱る母親のような。  
どこか呆れた風な口調。  
それは、しかし、どこかで秋良も予想していた答えだったかもしれない。  
自分たちの関係を繋ぐ、穏やかなようで不安定な空気。  
あるいは呼吸。  
互いを理解しすぎていて、乗り越えられない壁のようなそれ。  
秋良自身、その見えない壁を打ち破れないでいるから、みどりを一方的に責めることはもちろん  
できなかった。  
けれど感情はそれほど素直に納得できるはずも無く、埋み火のような怒りが胸の奥でくすぶっていた。  
「いっそ、ヤってまえばええんか?」  
腹立ち紛れに口にしたが、それは現状の自分では到底無理なことだった。  
滅茶苦茶にしたいのと同じくらい、秋良はみどりを大事にしたかった。  
一時の感情に捕らわれてみどりを泣かせてしまうことを、なるべくなら避けたいのだ。  
にっちもさっちも行かない状況と、感情。  
そんなものに振り回されるのは、ごめんだと思っている。  
しかし、みどりに関して、秋良が冷静でいることは近頃難題になってきていた。  
行き詰まっていた。  
幼馴染みという関係も、秋良の感情も。  
 
 
 
こんな風にして彼と彼女は互いを縛りあい、けれどそれには気づかずにいた。  
臆病だし、保守的だった。  
若い二人は、軽い気持ちで自分の思い描く関係に至ることを、これは周りがどう言おうとも  
完全に拒否した。  
臆病以前に二人は幼かった。  
しかし体は、遠慮なしに二人の精神を置き去りにして成長し続けていた。  
無意識でいるには不自然な所まで来ていた。  
 
 
「秋良、いるー?」  
それから数日して、みどりは秋良の部屋を訪れた。  
その日は最高気温32度を記録する真夏日だったので、みどりは出来ることなら家から出たくは  
なかったし、ましてやその行き先が、最近微妙に顔を合わせづらくなってきている相手の所だ  
ったものだから、なおさら動きたくなかった。  
けれど、用事が割りと急を要することだったので、行かないわけにもいかなかった。  
というわけで、歩いて一分もしない隣のアパートの、「秋良」と書きなぐってある表札の扉の  
前に来たのだが。  
「秋良?」  
返事が無い。  
みどりは、ほっとした反面、どこか落胆している矛盾した気持ちに気付く。  
ふっと息を漏らして扉から離れようとしたとき、扉の向こう側から「ゴッ」という鈍い音が聞  
こえた。  
泣き止まぬ蝉の声でもなければ近くの道路工事の騒音でもないそれは、明らかに部屋の中に人  
がいるという証拠を示す音だった。  
「…あら〜泥棒でもいるのかな。物騒だわ〜。警察に電話したほうがいいよね〜」  
我ながら中々の演技ではないかと思いながらポケットに押し込んでいた折り畳み式の携帯電話  
を取り出す。  
ぴぴぴ、と適当に番号を押していると、バタン、と何の前触れもなく所々錆びた青い扉が開い  
た。  
 
「わーった。わーったからその下手くそな一人芝居やめぇ。突っ込むタイミングも計れん」  
襟ぐりにボタンのついた白いシャツに洗いざらしのGパンという、非常にラフな格好の、不機嫌  
な顔をした秋良が応対した。  
みどりは少々むっとした。  
下手くそとはなによ。  
結構自信があったつもりだった。  
「寝ぐせついてますけど、泥棒さん」  
悔しかったので言い負かそうとした。本当は寝ぐせなどついていないのだ。  
「白い服に麺つゆ垂らしとる女に言われたないわ」  
「え!?うそっ」  
急いで秋良の視線の先を追って、自分の服を見下ろした。  
けれども、ワンポイントの入った真白なシャツには、茶色い染みなど見当たらない。  
「うそや。アホ」  
してやったり、とばかりに、秋良は口の端を上げて意地の悪い笑みを浮かべた。  
「なっ…」  
やられた。  
みどりは、ものの見事にしっぺ返しを食らった自分が情けなくて仕方なかった。  
秋良をやりこめることなど、誰であっても無理なのだろうか。  
それにしても何故、今日の昼食がそうめんだと分かったのだろうか。  
疑問に思いはしたが、秋良が扉を開けたまま中に入っていったので、みどりは慌てて止めなけ  
ればならなかった。  
「あっ、秋良」  
気付いた秋良は顔だけはこちらに向けて冷蔵庫から麦茶を取り出している。  
「あのさ、今日はちょっと連絡伝えにきただけだから、すぐ帰るから…」  
 
すると、一瞬。  
何か妙な空気が二人の間に流れた。  
先ほどのくだらないやり取りが贋物のように思えてしまう張り詰めたものだった。  
だがそれは本当にほんの一瞬のことで、秋良は麦茶を冷蔵庫に戻すと、気だるげな足取りで玄  
関に戻ってきた。  
「そうけ。で、なんやねん」  
あまりにも普段どおりすぎる秋良は、不自然過ぎるほど無表情だ。  
雰囲気が硬くなったような気がして、みどりは、怒っているのだろうかと、少しだけ肩を縮めた。  
「うん。物理の仁科先生が、いい加減補習受けに来いって。…あんた何日さぼったの?」  
なるべく感情の混ざらないような言い方にして伝えると、秋良はげんなりとした表情で扉の枠に  
寄りかかった。  
「あ〜そういや、なんや仁科のオッサン真っ赤な顔で追ってくるもんやから逃げまわっとったら  
そういうことけ。すっかり忘れとったわ」  
「仁科のオッサンって…。なんで物理だけなのかしらね、秋良は。数学と似たよーな分野なのに  
同じように要領よく勉強出来ないって、そこがわかんないわ、私からしたら」  
「しゃーないやろ。頭の作りがそないなっとんねん」  
「まあ、サッカーしか詰まってないよりかマシか」  
「翔のアホのこと言うてんのやったらお前もよう言うようになったわ」  
「違うわよ!九山くんはあれでいいの、あれが九山くんのいい所なんだから」  
「なんでじゃ」  
ちなみに、九山翔とは秋良とみどりの幼馴染みであり、秋良のライバル兼親友(本人は認めていない)  
だ。更に、今では久山の恋人である霧島優とも幼馴染みといえばそれにあたる関係である。この  
仲良し四人組(?)はまったくの偶然で小中高と一緒の学校になった。  
 
九山翔は、秋良を陰としたら陽となる存在で、性格はまったくの正反対と言って良いほどだ。  
唯一似た所があるとすると、サッカー馬鹿で自分勝手で周りを気にしないという所ぐらいだろうか。  
なんにしろ、九山は、秋良とはまた違った意味で独特の雰囲気を持っている人物だった。  
そして秋良の言い指したとおり、成績はよろしくない。  
「そういえば、今日は部活休み?」  
なんとなく途絶えた会話を、無理矢理に繋ぎとめようとして、みどりはどうでもいい話題を提供  
した。  
またしても矛盾した気持ちになった。  
さっさと帰ってしまった方が気が楽なのに、熱さを我慢してまでこの場に取りすがっている自分  
はなんなのだろう。  
今さらではあるが、みどりはそうした自分の行動が秋良によって狂わされることを苦く思う。  
大人を前にした幼子のようになってしまうのがわずらわしいのだ。  
「おぉ。監督が居れへんでな。なんやクールダウンも必要やて騒ぎ出して、巻き添えくった。  
コーチもどこぞに家族旅行らしいしな」  
盆も近いししゃーないやろ、と付け加える秋良の表情は、どこか不貞腐れている。  
当然といえば当然だ。  
秋良はサッカーが趣味と言っていいくらいのサッカージャンキーだ。  
練習を苦にも思わない愛好者が、大人の事情で中止されたのでは納得がいかないだろう。  
近頃は後輩たちに教えるのも楽しいと思い始めたらしいので、高校最後の夏を迎えた秋良が  
時間を惜しむのも頷ける話だ。  
「そっか。そうね…」  
誰にともなく呟いたみどりは、それにしても、と過去を振り返る。  
 
出合った頃の秋良からすると、やはり昔とは違うのだと思わざるを得ない。  
幼いことを抜きにしても、あの頃の秋良は周りを信用せず、自分の力だけを頼みにしていた。  
周りと馴れ合うことなど考えもしない正に一匹狼だったのが、今ではチームでの自分の位置を  
ちゃんと把握していて、しかも後輩の面倒までみるようになった。  
昔から秋良は器用で、なんにしろソツなくこなせる人間だったが、この頃はとみにそう思う。  
そしてそれを思うたび、秋良がみどりから離れていってしまうような気がして、気分が重く  
なってしまうのだった。  
「で、お前は」  
唐突に秋良が話を振ったので、自分の思考に耽っていたみどりはすぐには反応できなかった。  
「え?」  
「なんかあるんか。他に」  
「あ…」  
何気なく聞いた秋良の言葉に、みどりは少しだけ胸が痛んだ。  
自分で長く居られないと告げたくせに、いざ用がないなら行けと言われると、急に迷子になっ  
た様に途方に暮れた。  
今みどりの頭を占拠している感情は失望だった。  
そう気付いたとき、みどりは、秋良が自分を引きとめてくれるのではないかという淡い期待を  
抱いていたことを思い知った。  
胸が、痛む。  
「ううん、それだけ。じゃ、あんまり冷たいものばっか飲まない…」  
ようにして、というみどりの言葉は続かなかった。  
突然の介入者が現れた為だ。  
 
「高馬」  
少しキーの高い、可愛らしい声。  
それが、彼女の出来うる限りの低い発声のせいで押しつぶされて響いた。  
ともすれば蝉の声に掻き消されそうになるほど、抑えた声だった。  
「市川…」  
呟いた秋良の声もまた、低音で細い声だった。  
しかし、言葉の形が見えるとしたら、どこもかしこも棘が生えているような介入者の声とは  
違って、秋良はどこまでも平坦な抑揚のない声だ。  
「どーいうことよ、いきなり別れるって。納得してないのに帰って。あたしがどんな思いで  
ここまで来たか分かる?」  
市川という苗字らしい彼女は、見事に波打つ長髪を手で払って、きっ、と秋良を睨んだ。  
みどりから3m離れた所に立っている市川は、違う学校の制服を着ていた。  
白く細い脚が、紺と緑のチェックのスカートからすらっと伸びていて、眩しい。  
みどりは、早く立ち去りたかった。  
けれど足がすくんで、まったく言うことをきかない。  
下唇を軽く噛んで、呆然と市川を見る。  
すると、今まで秋良の方に合っていた焦点が、素早くみどりの方へ移った。  
「何よ、あたしから解放されたら、すぐ次の女?相変わらず早業ね」  
言葉は秋良に向けられているのに、恨みの込められた眼差しは明らかにみどりを刺している。  
二つの双眸が浮かべる色は、嫉妬の他に見受けられなかった。  
みどりは思わず瞳を逸らした。すると、自然とその瞳が秋良と合う。  
その瞬間、秋良が、意味ありげな笑みを口元に浮かべた。  
 
みどりは内心で「うっ」とうめいた。  
長年一緒に居た勘で、その笑みが良からぬ事を企んだ時のものだということが分かったからだ。  
「せや。もう他の女で間に合うとる。ちゅーわけやから帰ってんか」  
どうやら、市川の勘違いを逆手に取るつもりらしい。  
都合よくその場にいたみどりを利用して、なんとか帰す作戦を思いついたようだ。  
この作戦は、みどりと秋良の関係を知っている同校の者には通用しないが、秋良の事情を良く  
知らない他校生相手には有効だ。  
だが、みどりは冗談じゃないという不満でいっぱいだった。  
なんで私が秋良の女性関係の尻拭いに駆り出されなくちゃなんないのよっ。  
反論しようと体の向きを変えて秋良の方に一歩踏み出した。  
が。  
「俺から話すことなんもないし、今ええとこやから」  
と言うと、秋良はみどりの体を片腕で抱き寄せて、部屋の中に引っ張り込んだ。  
そして自分もすっと屋内に体を入れて素早く扉を閉め、鍵をかけた。  
瞬く間の出来事だった。  
「ちょっと、待ちなさいよ、詐欺師!色魔!」  
扉の向こうから、甲高い叫び罵声が聞こえてくる。  
 
秋良はついでに窓も閉めきって、部屋を完全に密閉させた。  
「ちょっと秋良っ…」  
これには流石にみどりも頭にきて、帰らせてもらおうと抗議の声を上げたが、それは叶わぬ  
抗議となる。  
思いの外近くにいた秋良が、みどりの口を手で塞いだためだ。  
秋良は、ついでに、顔を鼻先三寸の位置まで近づけて、音にならない微かな声で言った。  
「ええから、少し大人しくしとってくれ。借りは返すよって」  
そんな言葉で納得できるはずもないみどりであったが、秋良の顔が近すぎて、掠れたハスキー  
な声が脳に直接響いてきて、まるで麻酔でもかがされたように頭がぼうっとしていた。  
体が硬く強張り、腰を軽く抱いている腕が、口元を覆う武骨な手が、焼けるように熱く感じ  
られる。  
秋良に文句の一つでも(大声で)言ってやりたいところだったが、自分の体の異常と、女の凄  
まじいヒステリーな声に、みどりは降参するしかないと思った。  
何気なく見回した部屋は、殺風景ないつもの古びた一室なのに、何故か初めて目にしたよう  
な感覚に陥った。  
こめかみから頬にかけて、汗がつっと伝う。  
それが熱さからくるものか動揺からくるものかは、みどりにはわからなかった。  
 
 
市川が秋良の部屋の前から立ち去ったのは、それから十分ほど経った頃だった。  
それまで、秋良とみどりは、何故かずっと同じ態勢を保っていた。  
別に動いていてもなんら支障はないし、密室の部屋の様子を外から眺められるはずもないの  
で市川を気にする必要もない。  
にも関わらず、二人とも玄関付近で立ったまま動けずにいたのだった。  
部屋も、部屋の外も、もう蝉の声と道路工事の騒音以外は何も聞こえない。  
秋良は、まずったな、と浅慮な自分の判断を呪った。  
無防備なみどりを抱き寄せた結果、離れるに離れられない状況をつくってしまった。  
第一に、だ。  
この腰の細さをどーにかせえっ。  
ものすごく抱き心地がいい。  
いや、良すぎる。  
そして、久しぶりに至近距離で感じるみどりの体や、匂いは、秋良の若い体には毒だった。  
(落ち着けて…)  
みどりに、女、としての認識を改めたのはごく最近のことだった。  
もちろん、それまでも秋良はみどりを女だと認識していた。  
しかし、この年になって、色んな知識を身に付けると、みどりをただの女だと片付けること  
が出来なくなっていた。  
幼馴染みで、きょうだいのように、親友のように、夫婦のように過ごしてきた、ただ一人の  
女だ。  
そんな女に対して、欲望を押し付けることなど、秋良には到底できなかった。  
 
しかし、みどりは腹が立つほどいい女だ。  
男として、この状況を利用したいという欲求は簡単にはねつけることができない。  
悶々としていると、みどりが僅かに身じろぎした。  
「あ、秋良…」  
おずおずとしたか細い声が、やや下の方から聞こえてくる。  
みどりは俯いていて、白いうなじや耳が赤く染まっている。  
「ん、悪い」  
条件反射でそう答えたものの、秋良は離れることをしなかった。  
こんな機会は、もう二度とないかもしれない。  
そう思った。  
何故なら、二人が離れる時期がもうすぐそこまで来ていることを、秋良は悟っていたからだ。  
これまでの女性経験から見ても、みどりが自分に対して恋愛感情を抱いているという結論は  
見出せなかった。  
もしかしたら、女の部分を抜きにした、人間としての本能的な独占欲なら、わずかに生じて  
いるかもしれない。安堵感や絶対的な信頼を寄せてくれているみどりだから、もし秋良から  
具体的な別れ話(恋人でもないが)を持ちかけたら、当然傷つくだろうし、あるいは拒絶する  
かもしれないことは予想がつく。  
前に秋良が他の女と関係を持ったことを打ち明けたとき、みどりは少なからずショックを受  
けた。その反応を見て、秋良の欲望は一時的に満たされはしたが、やはり関係を壊すことは  
出来ず、なんとかその場を取り繕って修復させた。  
その時みどりは言った。  
 
『曖昧に終わらせないで。そしたら私も、きっぱり秋良から卒業出来るから。…ね』  
その言葉からも分かるとおり、彼女が秋良との間に望んでいるのは、情熱的な一時の愛では  
なく、長く永続的に繋がっていられる親愛なのだ。  
それは、もしかしたら恋愛の情とも言えるかもしれない。  
そうした思いも一つの愛の形なのかもしれない。  
けれど、秋良には自信がなかった。  
みどりに対して、彼女の信頼を裏切らない程度の愛を与えてやれるかが、不安だった。  
秋良がみどりに求めている、母親や家族への憧憬や、安らぎ、無償の愛。  
それはもちろん真実だ。  
だからこそ年頃になっても暖かな春の空気に似た繋がりを保つことが出来たのだ。  
けれど秋良は、みどりよりも先に振り返ってしまった。  
自分の足元から伸びた影が、どこに続いているのかを知ってしまったのだ。  
丁度今から二ヶ月前ほど。  
あの、やけに暑苦しかった、緑萌える初夏の頃に。  
 
常ではあるが、秋良の親父が仕事でいない夜は、夕飯をつくらないことが多い。  
秋良は家庭の事情から家事全般は大抵こなせるが、好き好んで自発的に行っているわけでも  
ない。必要に迫られて身に付けたスキルを、必要に迫られていない状況で発揮するのは、  
ただの労力の無駄だと考えていた。  
自然と、一人で夕飯をとるときはインスタント食品に頼りがちになる。  
それを見かねたみどりが、たまに料理を作りに来るようになったのはいつからだっただろう  
か。最初の頃は秋良が始終傍についていないと危険なほどの腕前だったが、元々才能があっ  
たのか特訓の成果か、スポンジが水を吸収するようにみどりはどんどん上達していった。  
「秋良、どしたの、ぼーっとして。食べないの?」  
高校三年の夏になっても未だ続いているまるで夫婦のような食卓の図は、年頃の男女が醸し  
出しているとは思えないほど和やかな雰囲気だった。  
その和やかさにいささか浸っていると、みどりが不思議がったように聞いてきた。  
用意されている食事に手もつけずに考え事をしていたのだから当然のことだろう。  
「食う。けど、お前、なんや最近肉に凝ってへんか。太るで」  
条件反射のように憎まれ口を叩くと、みどりがむっとして箸を止めた。  
「文句あるんなら食べないでいいけど。せっかくスタミナつくようなメニューにしてあげて  
るのに」  
「スタミナて…。なんぼなんでも二日連続で肉はないやろ。残りモン片付けるんもこっちや  
ぞ」  
「でもおじさんは喜んでくれてたじゃない」  
「親父の胃が馬鹿になっとるだけや」  
 
本当はみどりの料理にそんなに不満があるわけではない。  
ちなみに昨日の献立は豚の生姜焼きで、今夜は鳥の唐揚げの梅紫蘇巻きな訳だが、秋良家の  
口に合うようにちゃんと薄味に味付けされてある。  
それを分かっている上で文句が出てくるのは、秋良にはどうしようもないことだった。  
会話が途絶えると、みどりは再度食事に集中し始めた。  
ぱくぱくと臆面もなく料理を口に運ぶみどりを見ていると、ふと今日の放課後に偶然耳にし  
た会話を思い出した。  
部活帰りに教室に行こうとしたとき、通りかかった隣の教室で、何やら男子数人が集まって  
猥談に興じていた。普段の秋良なら気にするはずも無いのだが、丁度みどりの話になってい  
た時だったらしく、不覚にも耳を傾けてしまったのだ。  
「七倉は絶対処女だよな」  
「あー、七倉ね。うん、俺もそう思う。つーか七倉が処女じゃなかったら1組の女子全員ヤ  
リマンだろ」  
ちなみにみどりの居るクラスは1組だ。  
「あの秋良の幼馴染みなのに、食われてねーの奇跡じゃね?」  
「なー。なんでかわかんないけど、秋良と噂んなる女子って七倉と正反対のタイプだしな。  
正直、秋良の目疑うわ」  
「あの二人って付き合ってねーの?」  
「付き合ってたら秋良が女とっかえひっかえできるわけねーじゃん。あいつこの前北校の女  
と噂になってたし」  
「あれ、5組の西田とも付き合ってなかったっけ?」  
「あれは西田が勝手に言ってただけだろ」  
 
「つーかさー、俺だったら即やっちゃうけど」  
「俺も秋良の立場だったらすぐ付き合うわ。ぶっちゃけ、浮気とかして七倉泣かせてみたく  
ね?」  
「えー、俺だったら一筋だな。七倉みたいなタイプってそうはいねーし。マジ理想だよな」  
「理想だな。でも泣かせたい、ってのは賛成」  
「お前の場合イかせたい、だろ?」  
「言えてる」  
ぎゃはははは、という馬鹿笑いが始まった所で秋良は立ち去った。  
なんのことはない、ただの噂話だった。  
この件に関しては中学あたりから尽きることなく的にされていたし、秋良もみどりも、互い  
に諦めに近い感じでされるがままになっていた。  
まともに相手をして馬鹿を見るのはこっちの方だ、と分かっていた。  
しかし、何故か今日に限って、男子たちの話が引っかかったのは確かだった。  
―――つーかさー、俺だったら即やっちゃうけど。  
―――俺も秋良の立場だったらすぐ付き合うわ。  
もし。  
もしも、みどりが他の男と付き合うことになったら。  
目の前で夕飯にありつくみどりを見ながら、そんな取りとめも無い考えがぽんと頭に浮かん  
だ。  
 
自分はどうするのだろうか。  
これまでもそのことについては考えたことがあった。  
けど、いつも行き着く答えは同じだ。  
もちろん、祝福とまではいかないが、咎めはしないだろう、と。  
みどりにしたって、秋良が他の女と噂になろうが、実際その現場を取り押さえようが、少し  
注意するだけで特に何も言ってこない。  
夕飯を作りに来るのをやめることもなかったし、二人の関係が大幅に変化することもなかっ  
た。  
しかし、自分のことは棚に上げて、秋良は、もしみどりが他の男と付き合ったら、その時点  
で自分たちの関係は途絶えるだろうと思った。  
みどりは、秋良のように、他人に対して一線を引かない。  
特に親友には自分のことのように心配したり、要らぬほどお節介になったり、情に厚過ぎる  
ところがある。そんな人間が、秋良のような存在を傍に置きながら、他の男と付き合うよう  
な真似は絶対にしないだろう。  
そうなると、必然的に二人の曖昧な関係は壊れる。  
よく分からない感情が胸を突き上げてきて、秋良はその考えを否定した。  
(なんで他の男の為に俺が離れなあかんのや)  
それでみどりを手放すぐらいなら、いっそのこと自分のモノにしてやる。  
そう思い至ったとき。  
秋良ははっとした。  
 
欲望が、一瞬で沸騰するのを感じた。  
その時、計ったようにみどりがこちらに視線を向けた。  
「秋良?」  
辺りを涼やかに癒すような、凛として透き通った声。  
こちらを不思議そうに見つめる瞳は、室内の侘しい灯りを映して輝いて見えた。  
その、黒い大きな瞳に、秋良は自分を見つけた。  
どくん、と心臓が跳ねた。  
自分でもよく分からない、強い衝動が体中を駆け抜ける。  
何故、みどりがこれほどに無防備でいられたのか、分からなかった。  
秋良の中には、常に、こんなにも貪欲で手のつけられない本性があったのに。  
それを、無意識では秋良も認識しつつ、まさかみどりにそれを晒すことは無いだろうとい  
う強い自制によって今まで気付けなかっただけなのだ。  
そして、気付いてしまったらもう元には戻れなかった。  
秋良はみどりに欲情していた。  
それも、たった一度のささいなきっかけによって。  
それを確信したとき、秋良は少なからず失望した。  
みどりを思って胸を満たすときの、まるで自分には似つかわしくない、あの純粋で無垢な  
喜びはもう味わえないのだ。どろどろとした溶岩のような澱のような、そんな気持ちが付  
きまとって全てを滅茶苦茶にしてしまうに違いなかった。  
秋良はこめかみを伝う汗をゆっくりと手の甲で拭うと、食事に集中するふりをした。ちら  
っとみどりに視線を向けると、彼女はいぶかしんで秋良を見ている。  
露骨に目を逸らしたので、秋良はみどりの不興を買ったが、秋良は、自分の理性をかき集  
めるのに必死で、気にしてはいられなかった。  
 
鮮烈な印象を目に焼きつかせて、秋良はその日からみどりとなるべく接しないようにした。  
部活のない空いた日はどうでもいい女と時間を潰すことが多くなり、自然とみどりの足も  
秋良の家に向かなくなった。  
けれど、それは逆効果で、結果としてみどりへの思いを深めるハメになった。  
こうして久しぶりに会って抑制が効かなくなっているのが、その証拠だ。  
「秋吉?…どうしたの?」  
いい加減この幼馴染みは自分が女だということを自覚したらどうか。  
そんな風にも思うが、この状況を少しでも長く続けさせたい秋良にとってはある意味で好  
都合だった。  
 
「なんもせんけど。お前、好きな男おるか?」  
「は!?…い、いないけど」  
「なら、ちっと黙っとけ」  
「なっ」  
 
どこかから、蝉の鳴く音と道路工事の騒音が響いてくる。  
二人の他に誰もいないその部屋には、過ぎるほど五月蝿い。  
だが、互いに自分の気持ちを抑制するので必死な二人には、何の音も聞こえていなかった。  
 
二人とも、落ち着いて考えればすぐに分かるはずだった。  
誰もいない部屋で、暑い中、男は軽く女の腰を抱き、女は抵抗もせずにじっとしている。  
それが、どういう関係の成せる状況か。  
しかし、哀しいかな、二人は恋がどういう感情か知らなかった。  
長く家族に似た関係を続けていた二人は、肉体と精神が繋がっていることに気付いていな  
かったのだ。  
 
その日、熱さに任せて、二人を繋いでいた脆い縄は、ゆっくりと解け始めた。  
しかし誰も知る由は無い。  
本人たちですら、その変化を知ることは無かった。  
 
 

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