5、ファースト・コンタクト  
雨の別れから、二人の仲が良くなるようなことはなかった。  
しかし、何がしかの接点のようなものは、以前より多くなったかもしれない。  
少なくとも、秋良はそんな気がしていた。  
例えば秋良家の食生活を心配したみどりの母が、みどりに料理を届けさせたりだとか、  
回覧板をみどりが届けに来るようになったりだとか。  
その事実があるだけで、そこから何かが芽生えるわけではない。  
けれど、そんなことが続くと、秋良はいつしか嫌悪感なくみどりの来訪を受け入れる  
ようになっていた。  
その頃から、みどりは秋良を「秋良」と呼ぶようになった。  
くん付けされるのが気持ち悪いと言ったら、遠慮なしに呼び捨てにしてきたのだ。  
二人が顔を合わせると大半がケンカ別れで終わったが、その交流の中でも、  
二人が得るものは多少なりあった。  
互いのやり方を否定しながらも、それを徐々にではあるが受け入れられるようになっていった。  
それが、多分最初の一歩だった。  
「…おい。それどないした」  
聞くまい聞くまい、と思っていた秋良だったが、ついに好奇心が理性を上回った。  
いつものように回覧板を届けに来たみどりが、玄関先で目を丸くしたのが分かった。  
「なにが?」  
みどりは、心底不思議だとでも言うようにまじまじと秋良を見た。  
恐らく、普段意図して話しかけないようにしている秋良が、みどりの様子を聞いてきたのが  
よっぽど予想外のことだったのだろう。  
秋良は自分が一瞬で珍獣にでもなったかのような気分になり、撫然として回覧板を受け取った。  
だが、目をまん丸にしているみどりの口元を再度見ると、やはり言わずにいられなかった。  
「口の端んとこ。切れて血出てんで」  
そっぽを向いて言うと、みどりははっとなってぐいっと唇を拭った。  
強い調子だったので傷に障ったのか、「イタっ」と言ってみどりは口元を抑えた。  
「アホ。そないにぐいぐい押し付けたら痛むの当たり前やろが」  
秋良の呆れた口調にむっとしたようだが、みどりは反論してこなかった。  
見かねた秋良は「ちっと来ぃ」と言って強引にみどりの腕を掴んで部屋の中に引き入れた。  
「え?ち、ちょっと?」  
戸惑った様子のみどりに構わずに、秋良は部屋に唯一生活感を与えている戸棚の  
中段をごそごそと探り出した。  
 
秋良が目的のものを見つけて振り返ると、みどりは手持ち無沙汰にサッカーボールを  
転がして遊んでいた。  
秋良は近づいてさりげなくボールを取り上げ、みどりの前にどん、と木箱を置いた。  
緑の十字マークが描かれたそれは、どう見ても救急箱のようだった。  
「秋良?」  
みどりは、救急箱とみどりの顔を交互に見て、それから首を傾げた。  
救急箱が出てきたとなると、それが何を意味するのか流れからいってみどりに分からない  
わけがなかった。ただ、あの秋良がまさかという思いが邪魔をして事の成り行きに  
思考が追いつかないよいだった。  
秋良は無言で救急箱を開けて丸い缶の塗り薬を取り出すと、蓋を開けて指で掬い取り、  
それをみどりの口端におもむろに塗ろうとした。  
みどりはとっさに避けた。  
自然、秋良の指は宙を掻く。  
あ、と声をあげたみどりは、どうやら自分の行動に自分で驚いているようだった。  
そんなみどりを呆れたように見て、秋良は僅かに眉根を寄せた。  
「なんぼなんでも、この状況でカラシ塗りたくるような真似はせんて。  
安心して大人しゅう座っとれ」  
そして、みどりが体を反らした方へ手を伸ばす。  
今度こそ半透明の薬は傷口に塗られた。  
秋良は、慎重に、なるべく傷に触れないように、ゆっくりと指を動かしていく。  
塗り終わると、身じろぎしたみどりを制して絆創膏を取り出した。  
包装紙を剥がして再度口元へ手を伸ばし、両手でそっと貼る。  
作業が終わると、どちらのものと知れない息が漏れ、空気が緩んだ。  
すると、示し合わせたように二人の視線が互いを捕えた。  
その時初めて、秋良はみどりの顔をじっくりと見た。  
色白の肌と形の良い目鼻立ちの持ち主である少女は、こうして見れば整った顔に見えなくもない。  
それだけに、口元の絆創膏というやんちゃなアイテムにはかなり違和感があった。  
 
そんな風に思いながら見ていたら、ふとみどりがなんともいえない表情をしているのに気付く。  
秋良が治療を施している間、まるで置物のように瞬き一つせず座っていたみどりは、  
治療を終えたにも関わらず未だに体を硬くさせていた。  
秋良はそんなみどりの様子がどことなく可笑しくて、ふっと笑みを漏らした。  
すると、みどりの顔はたちまち真っ赤になった。  
どうしたことかと秋良が目を見張ると、みどりは慌ただしく立ち上がって玄関へと向かう。  
心なしか逃げ出すような行動に見受けられた。  
「別に、こんなのほっとけば治るよ」  
靴を履きながらそう言ったみどりの言葉は、秋良にはあんた一体どうしたの  
と言っているかのように聞こえてきた。  
「ま、いつも食いモン貰っとるしな。お前の母ちゃんの手間はぶいたっただけや」  
「これぐらいは自分で出来るわよ」  
怒ったような声で顔を向けず言い放つみどりを、秋良は戸惑いながら見やった。  
何故そんなにむきになるのかさっぱり分からない。  
感謝されこそすれ、怒られるようなことをした覚えは全くないのだ。  
「なに怒ってんねん。相変わらず可愛くないやっちゃな」  
「怒ってない!」  
そう叫んで、みどりはドアを力任せに開けると振り返ず帰っていった。  
開けっぱなしのドアを渋々閉めながら、秋良は行ってしまったみどりの態度に首を傾げる。  
「思っきし怒っとるやんけ…」  
 
遣る瀬ない怒りを抱いた秋良だったが、すぐに同時に湧いた疑問の方へ興味が移った。  
治療を施す事の、一体何がそれほど癪に障ったのだろうと。  
それに、聞きたかった傷の理由もそういえば分からず終いのままだ。もしかして誤魔化された?  
腑に落ちない点がいくつも浮かんでくると、秋良は段々と考えるのが面倒になってきた。  
そもそもみどりの事情など秋良には関係のないことであり、どうでもいい事のはずだ。  
あの様子だと、食い下がったところで教えて貰えそうもないみたいだし。  
確かにみどりの言った通り、放っておいても構わないような傷だったのだ。  
理由もどうせ些細なことに違いない。  
そう判断すると秋良はもう気にしないことに決めた。  
余計なことをしたと後悔したが、終わってしまったことなのでこれもまた気にしない様にする。  
救急箱を片付けて部屋を見渡せば、殺風景な中に白黒のボールがぽつねんと寂しそうに  
転がっているのを見つけた。  
気を紛らわせるため、ボールの相手をしてやることにした。  
外へ出た秋良はすぐさまボールの相手に夢中になった。  
だから、みどりとの些細なやりとりなど、10分後には綺麗さっぱり忘れられたのだった。  
 
 
6、トラスト  
その傷を嫌でも気にするはめになったのは、それから三日後のことだった。  
パンをかじりつつ家を出た秋良は、アパートの前を丁度みどりが差し掛かるのを見かけた。  
秋良はなんとなしに「おはようさん」と声をかけたが、みどりは振り向きもせずに通り過ぎていく。  
それは無視されたというよりも、気付かれなかったという感じだった。  
だが、5mと離れていない距離で声が届かないはずはない。  
不思議に思って、秋良はみどりを追い越してその進路に立ち塞がった。  
「寝ながら歩いとるんか」  
さすがに至近距離では耳に入らざるを得なかったのか、みどりはびくっとして秋良を見た。  
「あれっ、秋良?おはよう。いつからいたの?」  
「お前が俺んちの前通り過ぎたあたりから」  
「そうだっけ?」  
まったく気付いていなかったらしいみどりは、きょとんとした顔で秋良を見た。  
「アカン、完全に寝ぼけと…」  
るわ、を口にする前に秋良は見つけてしまった。  
少女のとぼけた顔にある、異質なものを。  
「お前、それ…」  
みどりは、秋良の視線の先を知ってはっとなった。  
そして唇を噛んで素早く顔を反らしたのだった。  
みどりの一方の口の端には、三日前に秋良が施した治療のあとがあって、  
すでに完治しかけていた。だが秋良が目を見張ったのは、そのもう一方の口端だ。  
また新たな傷が増えていた。  
それも、青痣の浮かんだ、以前より醜い傷が。  
「な、何でもないって。夜中にトイレに起きたらさ、寝ぼけて柱にぶつけちゃったの、はは」  
傷を見せまいと顔を反らしてそう言ったみどりは、不自然に笑い飛ばした。  
みどりなら有り得ると思いはしたが、秋良もさすがにそれを信じるほど愚かではない。  
何より、気まずげな表情が嘘だと告げている。  
「それ言い訳にすんのは苦しいやろ。なんや、父ちゃんにでも殴られたか」  
まさかみどりの父が秋良の父のように酒乱だとは思えなかったが、  
差し当たって他に思いつくような原因も浮かんでこなかった。  
みどりは曖昧な笑みを浮かべて「うん」とか「まあ」とか、もごもごと答えた。  
そして、これ以上は聞くなとばかりに、早足で秋良を追い越して行ってしまったのだった。  
秋良は、納得のいかない気持ちで赤いランドセルを見送った。  
けれども、みどりと仲のいい友達はたくさんいるので、  
そいつらが聞き出すやろ、と一瞬後には思い直す。  
そして、自分も行ってしまった少女の後に続いたのだった。  
 
冬休みの近づく学校は全体的に浮ついている。  
話題といえばもっぱら冬休みの予定や家族旅行の行き先、そしてクリスマスプレゼントだ。  
もちろん秋良はそんな輪の中に加わることなく適当に相槌打っていたが、  
意識は常にみどりの方へ向けていた。  
だが結局最後の授業が終っても、まだみどりの傷の原因は謎のままだった。  
みどりは笑いながら仲の良い友達と話していたが、  
話題が傷の事になるとはぐらかすので誰も深く追求出来ないらしかった。  
秋良は、そんなお手軽な扱いを受けているクラスメイトたちに、  
なんとなく苛立ちを覚えていた。  
帰りの会の終了直後に、担任の先生がみどりに何事か尋ねていた。  
秋良は今度こそビンゴだとアタリをつけたが、そばだてた耳に聞こえてきたのは、  
今朝とまったく一緒の下手くそな作り話だった。  
こうなったら最後の手段しかないか。  
秋良は仕方なしに、自分から理由を聞くために、校門でみどりを待つことにした。 待っている間、なんで自分がこんなことしなければならないのかと  
馬鹿馬鹿しくなったりもしたが、気になるものは気になると観念して待ち続けた。  
しかし、待てど暮らせどみどりは校門に現れない。  
とうとう、校門には誰も通りかからなくなってしまった。  
もしかして。  
秋良は不安になって昇降口まで戻った。  
自分のクラスの下駄箱で七倉みどりの名前を探した。  
「なにしてんねん、アイツ…」  
みどりの靴入れは見つかった。しかし、外履きの靴入れは空っぽになっていた。  
秋良の読み通りだとすると、みどりは、秋良のいた正門ではなく、裏門から帰ったのだ。  
秋良は舌打ちして、すぐさま裏門の方へ駆け出した。  
裏門は、そちらの方が近道になる少数の生徒しか足を向けない。  
だがみどりは、秋良と同じ方向なのだから裏門には用がないはずだった。  
まさか自分を校門に見つけて避けて通ったのではとも秋良は考えた。  
だがすぐにそれはないかと思い直すことになる。  
みどりが秋良を避けて逃げる姿を、あまり想像できなかったのだ。  
いつも以上に人気のない、というより無人の侘しい裏門が見えてくると、  
秋良はいったん足を止めて呼吸を整えた。  
大きく深呼吸して再び腹に力を込めようとしたとき、  
どこからか男子のものと思われる低い唸り声が聞こえてきた。  
 
知らずそちらの方へ足を向けた秋良は、段々と近づくにつれ、  
それが聞き覚えのある人物の声だということに気づき驚く。  
それは出来ることなら思いだしたくない、一生聞かなくてもいい声だった。  
「いい加減にしろだぁ?お前、誰に向かって口きいてんだよ」  
「いくら女子でも、俺たちが手加減すると思ったら大間違いだぞ!」  
「分かったらさっさと金よこせよ」  
その子供らしからぬ潰れた低音は、裏門の壁の裏から聞こえてきた。  
間違いない。  
それはあの問題児三人組の声だった。  
秋良はなるべく音をたてないように、息を殺して静かに近寄っていった。  
ようやく壁一枚を挟んだ距離まで近付いた時だった。  
突然、到底信じられない人物の声が響いてきた。  
「あんたたちみたいな最低な奴らにこれ以上出せるお金なんてありません」  
凛として、辺りを涼やかにするような澄んだ声。  
それは紛れもなく、隣家の住人であり探していた少女、七倉みどりのものだった。  
(どういうこっちゃ!?)  
どうもこうも、みどりが絡まれているのだということは明白だ。  
しかし、この問題児らがよもや女にまで手を出そうとは考えもしなかった秋良だった。  
現に今まで、犠牲者となってきたのは男子だけだ。  
記念すべき女子第1号がよりによってみどりだなどと、一体だれが予想出来ただろう。  
加えてみどりは、奴らの標的からもっとも程遠い存在のはずである。  
それが、どうして。  
金の有る無しでそれに納得しろというなら、みどりより適当な女子は他にいくらでもいる。  
越してきて間もない秋良ですら分かるほど。  
「おい、約束が違うんじゃねえか?」  
そんな秋良の疑問は、唐突に、それも予想外のカタチで解かれることになった。  
「お前があの生意気なヤクザ野郎の変わりに金払うっつーから、  
俺らはマフラー返してやったんだぜ?」  
(は?)  
秋良は一瞬、何を聞いたのかわからなくなった。  
「せっかくズタズタに切り刻むとこだったのによ。お前が邪魔してくれたんだよなー?」  
「がっかりだったよな。それをたったの10万で許してやるっつてんのに」  
「高岡にチクろうとか考えてんじゃねえだろうな?無駄だぜ。  
俺のダチらがちゃんと見張ってくれてんだから」  
「……」  
「なんだよ、その目」パァンッ。  
「うっ」  
したたかに殴られたような音と、みどりの食いしばったようなうめき声が耳に響いた。  
まるで自分が殴られたかのようながんがんと頭の揺れている感覚に、秋良は陥った。  
 
まさか。  
「なあ、七倉サン。どんな内容だって約束は約束。破ったらどうなるか分かるよな?」  
秋良は無意識に首に巻いたマフラーをほどいて、ジャンパーのポケットに詰め込んだ。  
まさか。  
まさか。  
まさか。  
「あのヤクザ野郎にも責任とってもらわねーと…」  
「待って!分かったわ、あげる、あげるからアイツは見逃してやって!」  
せっぱつまったようなこの声は、まさか。  
(俺の…ため)  
そんなわけがない、と何処かから声がした。自分のようなやつに、なんの見返りもなく身を犠牲にするような者が、いるわけがない。  
そんな特殊な人間、今まで会ったことも見たこともなかった。  
秋良は必死に冷静になろうとした。  
冷静になろうとして、いつの間にかポケットに入れたマフラーを力の限り握り締めていた。  
「なら早く出せよ、ほらぁ!」  
ドッ!  
「うぁ!」  
ドサッ。  
みどりがボコボコにされてしまう。  
状況がよく分からないぶん、秋良の頭には思いつく限りの最悪なイメージが浮かんでいた。  
早く助けないと。  
だが、それでも秋良の中にはまだ諦めの悪い葛藤があった。  
なんで他人の為にここまで。  
しかも友達でも仲が良いわけでもない奴の為に。  
自分にはなんの得にもならんのぜ。  
ただのお節介で終わってまうかもしれんのやぜ。  
まさかこんなボロいマフラー欲しいんか。  
違うやろ。  
お前が必死になる理由、いっこもないやろが。  
みどりの行為は、秋良にとって信じられないほど重く、ありがた迷惑極まりなかった。  
ここまでされると、かえって決まりが悪かった。  
今の状況はいくら秋良の為とはいえみどりが招いたことで、  
秋良が気に病むことでも助けてやることでもないのだ。  
(そんでもな…)  
……けれど。  
秋良は、ぎり、と握り締めていたマフラーから手を離した。  
『大切にしたいものがあるならもう少しうまくした方がいいよ』  
いつかの少女の言葉が、胸に広がった。  
腑に落ちなかったマフラーの出所。  
治療した秋良に怒った理由。  
曖昧な笑みで隠した傷の事情。  
その全ての答えが繋がった今、秋良のとるべき選択肢は一つしかなかった。  
…いや、もしかしたらとっくの昔に決まっていたのかもしれない。  
(お前の『うまい方法』なんぞ、さっぱりアテにならんわ)  
秋良は、一つ息を吸い込むと、勢いよく駆け出した。  
「みどり!」  
腹の底から声を出し、名前を呼ぶ。  
始めて呼んだその名前を、しっかりと力強く。  
 
「秋良…?」  
門を通って壁の向こう側に躍り出た秋良に、その場にいた一同が振り返る。  
秋良はその中に、三人の大きな体の隙間から除いている黒目がちな目を見つけた。  
その次の瞬間、秋良は問題児たちに目もくれずみどりの腕を掴んでいた。  
そして間を置かずに走り出す。  
呆気に取られていた三人組はそこでようやく我に返った。  
「こらぁ、待てお前ら!」  
そう言われて待つ馬鹿がどこにおんねん、と後ろに向かって叫んだ秋良は、  
すぐ後ろの泣きそうに潤んでいる瞳と目が合った。  
秋良は、コクリと力強く頷いた。  
すると、みどりはさらに泣きそうになり、顔をくしゃりと歪ませた。  
なんだか猿みたいだと思って前を向いた秋良であったが、  
それでも決してみどりの手を離すことはせずに、強く握り直したのだった。  
 
 
7、ラストインプレッション  
あてもなくやみくもに走り回った二人は、問題児達の声が消えても走り続けた。  
息が限界まで苦しくなっても、秋良は足を止めなかった。  
とにかく走りまくって、見知らぬ風景に気付き始めた頃ようやく足を緩めた。  
気付けば、後ろから激しい息遣いが聞こえていた。  
頭だけを後ろにやると、みどりはもう1mだって走れなさそうだった。  
立っているのも辛いといった様子だ。  
それでもみどりから文句のような声は聞こえてこなかったように思う。  
秋良はみどりの脚力を考えなかったことを少しだけ悔やんだ。  
スーパーの駐車場を見つけた秋良は、そこから倉庫の裏へ入っていった。  
そして、スーパーと倉庫の隙間の路地に入ったところで、ようやっと足を休めた。  
がっくりと崩れ落ちたみどりを残して、秋良は壁の影から油断なく周りを見渡した。  
がらんとした駐車場に三人の姿はない。  
どころか、人の影すらなかった。夕飯どきだというのに、余り流行ってないスーパーなのだろうか。  
なんにしろ好都合だと秋良はほっと息をついた。  
「にしても、どこやここ」  
聞いてはみたが、声をかけた相手はまだ息を荒げさせていた。  
相当きつかったようだ。  
秋良は持久力に自信があるが、みどりはそうじゃなかったらしい。  
とはいえ、秋良ほど持久力のある者もそうはいないので、  
みどりの今の状態は当然の結果といえた。  
「…お前あんとき、見つけてきたんやのうて、あいつらから取り返してきたんか?」  
みどりの息が落ち着くのを見計らって、秋良が唐突に聞いた。  
みどりからの答えはなかった。  
「なんでそこまですんねん。お前も前に言うてたけど、  
あんなボロっちぃマフラーなんぞで傷もろてたらただのアホやろが」  
「だって、大事なんでしょう!  
…よく分からないけど、秋良が大切にしたいものなんでしょう」  
突然顔を上げ、食ってかかってきたみどりに、秋良は圧倒された。  
その強い視線を、今はもう無視することができなかった。  
はぐらかすことも出来なくて、秋良はとうとう観念して素直に言葉を紡いだ。  
「…せや。大切や。ボロでダサい安物やが、母ちゃんが買うてくれたもんや思うと、  
なんや手放せんでな」  
ジャンパーのポケットからずぼっと取り出したそれを、秋良はみどりの眼前にかざした。  
みどりは、秋良の告げた驚きのエピソードに、丸くなった目を向ける。  
「けど、お前に借り作るぐらいなら、もうエエわ。やる」  
 
「はぁ?」  
「明日、これ持って奴らんとこ行き。こんなモンに10万の価値あるんやったら儲けもんやろ」  
おもむろに突き出された拳から、マフラーがふわっと落ちた。  
反射的に、みどりは慌ててそれを受け取ってしまう。  
「で、でも、大切だって言ったそばから、こんなの受けとれな…」  
「ちょお待ち。そん代わり、頼み聞いてもらう」  
「え?」  
まあ聞けや、と秋良はみどりの赤くなっている耳に唇を寄せた。  
秋良の提案と魂胆を知ったみどりは、口元を段々と笑みの形に作っていった。  
「…と、いうワケや」  
にんまりと笑って「そういう事なら貰っとく」と言ったみどりを、  
秋良は、案外根性据わっとんな、と感心して眺めた。  
そして、ゆっくりと、手を差し出した。  
「…なに?」  
また走るのかと勘違いしたみどりはその手を恐々と見つめた。  
しかし、頬を少し赤く染めた秋良を見て、表情を改めさせた。  
「その…これから、やな。もしあいつらがまた絡んで来るようやったら、  
言ってこい、っちゅうか…」  
物凄く恥ずかしい台詞だったので、いつものようには舌がうまく回ってくれない。  
そんな自分に舌打ちしながらも、秋良は差し出した手をそのままに、みどりを見つめた。  
みどりはポカンと口を開けて見つめ返したが、秋良が冗談を言っているのではないと分かると。  
「うん。じゃあこれからは本当のよろしくね」  
そう言って、秋良の手をぎゅっと握った。  
「は?なんやそれ」  
言葉の意味が分かっていない秋良にみどりは挑戦的な瞳をよこした。  
「だって今までは、テキトーなよろしくだったんでしょ?」  
「あ…」 思い出した。  
『それほど仲良くする気もないけど、お隣さんやったらしゃーないし、  
ま、テキトーによろしゅうしたってや』 お互いに好印象とはいえなかった、あの出会い。  
しかし今、意外と根性が据わっていて意外と執念深いタチの少女を前に、  
秋良は確かな絆が生まれるような予感がしていた。  
クス、と笑って、けれど次の瞬間には睨みを効かせた秋良は、  
みどりの挑発を受け取ってしっかりと手を握り返した。  
「あほ、お前のどこがテキトーなよろしくやっちゅうねん。お人好しがよく言うわ」  
もちろん憎まれ口を叩くのも忘れない。  
「うるさいわね!素直にありがとうって言えないの?」  
みどりも負けじと睨み返した。  
 
その展開はいつものケンカの始まりと同じだった。  
ただ一つ違ったのは、二人して同じタイミングで吹き出して笑い始めたこと。  
「…ぷっ。あははは」「…くっ。ははっ」  
それだけが常と違い、それこそがそれまでのぎこちない二人を卒業する証となったのだった。  
恐らく初めて互いが互いに向けた笑み。  
いっそ怖いくらい、なんの混じり気もない歓喜が二人の内を満たしていた。  
涙すら浮かべて笑い合う二人は、けれどすぐに収めざるを得なくなった。  
「あ、まずい…」  
最初に気付いたのはみどり。  
どないした、と聞こうとした秋良も、ふっと香ってきた匂いに気付いてあっと声を出す。  
「雨…」  
建物の隙間から除く狭い空を仰ぐと、今にも泣き出しそうな暗雲で塞がれていた。  
「早く帰らないと一雨くるよ」  
「言うても、ここどこや?お前帰り道分かんのか?」  
「まあ、大体は。でもかなりかかるし、着く頃にはたぶんすぶ濡れになっちゃうよ」  
「ほな、雨宿りでもするか」  
この季節にずぶ濡れで帰ったら、いくら丈夫な二人でも風邪を引くのは道理だ。  
だがみどりは、  
「うーん…。いっか、帰ろうよ」  
と事もなげに言った。  
秋良はびっくりとした。  
みどりの発言にではない。そう言われて反発心を抱かなかった自分自身にだ。  
「帰ろう、一緒に。秋良」  
そう言われて、すぶ濡れになる事を覚悟するなんて、今までなら決してあり得なかった。  
だが今、次第に濃厚になる雨の香りをかいで感じるのは、不思議な高揚である。  
まさに青天の霹靂だった。  
雨は、大嫌いだ。  
それなのに今、秋良は、ずぶ濡れで帰るのもいいかと、確かにそう思っていた。  
「せやな。…帰ろか」  
そう言って見つめた先の、あまりにも印象的な笑顔は、さらなる奇跡を秋良に起こした。  
一生に一度しか思わないであろう、嘘みたいに暖かな思いを芽生えさせたから。  
 
明くる日、例の問題児三人組が下級生のマフラーをズタズタに引き裂くという事件が  
生徒指導の高岡教諭の耳に入り、彼らはとうとうお縄を頂戴する。  
その際、都合良く芋づる式に彼らの非行の証拠が出てきた理由は、  
神のみぞ、いや、とある二人と神のみぞ知ることだろう。  
生徒たちの間では、あずき色のマフラーを巻いた二人が騙したんだ、  
とわめいて三人が停学になったという噂で持ちきりになったが、それはまた別の話だ。  
 
 
エピローグ  
 
サー、という耳に優しい雨音で、秋良は目覚めた。  
懐かしい夢の余韻は、なんだか無性に照れ臭くなるものだった。  
何年も前の、かびて苔むした記憶を掘り起こしたら、夢にまで見てしまった。  
照れを隠すように頭を掻いて寝返ると、幼馴染み兼恋人の女が、  
妖艶さの欠けらもない寝顔をさらしている。  
先ほどまで秋良の下で鳴いていた女と同一人物とは思えない幼顔だ。  
秋良は、とても穏やかな気持ちになってその顔を眺めた。  
体を重ねている時とはまた違った愛しさが胸を満たしてゆく。  
それは、共有者へ寄せる畏敬の念、あるいは甘えにも似ていた。 そう、ちょうどさっきまで夢に見ていた幼い頃の、あの時の気持ちのような。  
「う…ん」  
みどりの形の良い口から声が漏れた。  
すると、目を細く開いて顔をしかめさせる。  
眠りの淵から覚醒したらしい。  
何を言うのかと期待しとその様子を見守っていると、  
みどりは秋良の顔を見るなりかっと目を見開き、かばっと勢いよく起き上がった。  
途端、みどりの柔そうな白い肢体が、惜しげなくさらされる。  
「私、どのくらい寝てた…?」  
恐る恐る、秋良の方を見下ろしてそう聞いたみどりの額には冷や汗が浮かんでいた。  
「どのくらい、て、俺も寝とったしなぁ。大体…30分くらいやないか?」  
秋良は期待はずれな色気のない第一声に憮然となりつつ、  
はっきりしない記憶をたぐり寄せた。  
「さ、さんじゅっぷん!?」  
叫んで、みどりは慌てて下着をつけ始める。  
情事後の色気など微塵も感じさせないその様子に、秋良は唖然となって見守るしかなかった。  
「なんや急に。別に仕事でもなし、ゆっくりしとけばええやんか」  
二人の休日が合うのは稀なことだった。  
秋良としてはなるべく二人で過ごしたいという殊勝な心がけでもってみどりを襲ったのに、  
これでは本末転倒もいいところだ。  
だがみどりは、とんでもない、という風に顔をしかめさせた。  
「私だってそのつもりだったけど、秋良のせいじゃない」  
「はぁ?何がや」  
「雨。降ってきたって言ったでしょ」  
せっかく溜ってた洗濯物一気に片付けられると思ったのに、  
と不満げに息まいて、着替えを終えたみどりはベランダの方へ駆けていった。  
バタバタ、という恋人の忙しない足音を耳にしながら、秋良ははーっと溜め息をついた。  
みどりが所帯くさいのは今に始まったことじゃない。  
だから長年側で彼女を見てきた秋良には慣れたことのはずだった。  
 
だが今日という日だけは、古い記憶の河岸に心地よくたゆっていた今だけは、  
少しでもそれなりのムードを楽しんでみたかったのだ。  
望み薄な願望だと分かりきっているので、訴えるような真似まではしないけれど。  
それに、柄じゃないと自分でも否定したいほど恥ずかしいのだ。口にするなどあり得ない。  
冷房の効いてない閉めきった部屋は、もやもやと不快な空気が充満して、  
秋良の不満をさらに増幅させた。  
仕方なしに、秋良は布団から起き上がってジーンズと黒いTシャツを身につけ、窓辺に立った。  
鍵を外し、少しだけ窓を開けてみる。  
しとしとと、そんなに強くもない雨脚の霞がかった情景が目に入ってきた。  
秋良は、大丈夫そうやな、と判断して、窓を半分まで開け放った。  
すると、微風と共に、懐かしい、気恥ずかしい思い出を伴う、あの香りが運ばれてきた。  
ツン、と鼻をつく、雨の香りだ。  
それが揺さぶり起こすのは、今まで決して色褪せることのなかった、淡い想いだった。  
「きゃー」  
その淡い想いをかき消したのは、耳をつんざくような高い悲鳴である。  
「やかましい!」  
思わず叫び返した秋良の怒声は、悲鳴の主まで幸か不幸か届いたらしく、  
なんですって、とか言いながらドスドスと音を鳴らして戻ってくるのが分かった。  
秋良は、せっかくの休日が甘いムードどころか喧嘩一色で塗り潰されるような予感がした。  
うんざりとする反面、けどそれが自分達かと、どこかで諦めてもいる。  
そんな自分もみどりも悪くないと思えるようになったのは、  
やはりあの日からの想い故だ。  
 
早速「どうすんのよ、こんなに濡れちゃってるじゃない!」と怒鳴ってきたみどりに  
買い言葉を投げ始めた秋良は、それでも消えないだろう想いを噛み締めた。  
誰かを信じられた事実は、幼い秋良にとって何よりも驚くべき奇跡だった。  
人を愛してみようかなんて、そんな風に他人を受け入れようと思ったのは、あれが初めてだったのだ。  
だからきっと、忘れてしまうことはあっても、あの日の雨の香りも彼女の温かい笑顔も、  
一生、消えない。  
「大体、休みの日までんなしち面倒くさいことせんでもええやろ」  
「休みの日だからこそでしょ!?そんなこと言うなら秋良が毎日洗濯してよ。  
どうせ三日もしないでやんなくなるでしょうけど」  
「なんやと!」  
淡い想いなど億尾にも出さず、秋良は今日もくだらない喧嘩を彼女と楽しむ。  
激しくも弱くもない長雨の音が二人の騒音を包むと、雨の香はいや増していった。  
 
 
 
 
 
終わり  
 

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル