彼女がそれを知らないことくらい、初めからわかっていた。  
 
時々、ふと隣にいる存在を確かめないと怖くなる。  
いつか離れていくという意識が常にまとわりついているからだ。  
彼女は自由を求めないのに自由から好かれる傾向にある。  
それは、腕をすり抜けて、隣を横切って、いつでも追いかけられたい魅力に似ている。  
最近ようやくそれが分かってきた。  
 
例えば結婚という枠に自分たちの関係を当てはめるとしよう。  
あまりに日常すぎておかしくなった。  
 
例えば恋人という枠に自分たちの意識を当てはめるとしよう。  
首をひねりたくなった。  
 
何故関係という関係に名前をつける必要があるのか。  
この世では、「何も悪いことはしていない」、と叫ぶ為には正当な関係が必要だ。  
それ以外では白い目で見られるだけ。  
馬鹿げてくる。  
正当な関係などこの世のどこにあるというのか。  
嘘と建前と金にまみれた神聖な結婚は許されて、自由で愛に溢れた関係は許されない。  
それでは正当を唱える意味とは何か。  
不純異性交遊が大人になった途端生殖活動として認められるのは何か。  
子供と大人の違いはどこに。  
 
まあ、そんなことはどうだっていい。  
楽しければいい。  
愛しければ、それで。  
 
今はまだそんな嘘さえ楽しめる。  
だからこそ続けられる関係だって、ある。  
 
目をつぶる。  
笑顔が浮かぶ。  
これが愛や恋になるなら、今はまだそんなのはいい。  
名前なんか、どうだっていい。  
いずれにしろきっといつか停滞して行き詰まってしまう関係なのだから。  
 
白い背中が、身じろぎする。  
その華奢な体を後ろから抱きしめて、秋良は思った。  
(傷つけたなるぐらいやから、好きだのなんだの、ややこしくなることよう言わん  
でもええねん)  
その方がうまくいくのがきっと自分たちなのだと思った。  
 
「ん…どうしたの、高馬あ?」  
 
甘ったるい女の声が、秋良の淡い思考を吹き飛ばした。  
瞬時に秋良は体を引きはがしていた。  
「なんもない」  
素っ気ない返事をあくびを噛み殺してする。  
隣にいる女はそんな秋良の変化には気づかず、腕を伸ばして首に絡めた。  
「ふふ。あたしたち、体の相性ばっちりじゃん。ね、愛してる」  
秋良は耳を疑った。  
体の相性がいいことと愛してるがどうつながるのか。  
第一こっちは好きだのなんだの言って付き合った覚えはない。  
勘違いをされてはたまったものじゃないと、釘をさすことにした。  
 
「あんなぁ、お前がムリヤリ襲ってくるんが悪いんやぞ?俺に非はないで。無実  
や、まっさらや」  
美人に誘われて断らない男はそうはいないということだ。  
女は眉間に皺を寄せた。  
「なにそれ、意味わかんない。あたしのこと気になってたんでしょ?だからエッ  
チしたんでしょ?ね、付き合おうよ」  
女という生き物はこれだから恐ろしい。  
セックスと恋愛がどこら辺で繋がるのか、秋良にはさっぱり分からない問題だ。  
体は体、心は心と割り切れば、セックスまで行き着く場合はいくらでもある。  
「意味わからんのはこっちや。大体お前付き合ってる男おるやろ」  
「そんなのとっくに別れたもん」  
「はあ?あれだけ好きや好きやて言うとったやんか」  
「だって高馬の方が将来性もあるしスタイルもいいし、何よりかっこいいじゃな  
い?友達に高馬と寝たなんて言ったら絶対羨ましがられるもん」  
わけがわからない。  
秋良はこれ以上この女と話をしていると頭が悪くなると思った。  
おもむろに着替え始める。  
「え?もう帰んの?えー、一泊してってよ」  
「そないなヒマないわ」  
「なんで?だって勉強するわけじゃないんでしょ?」  
「明日朝早いんや。それと俺かてテスト前はノート写すぐらいするし」  
「…………わかった」  
 
女の甘ったるい声が、急にワントーン落ちた。  
空気が固まる。  
 
「違う子のとこ行くんでしょ。幼馴染みの」  
秋良の喉が張り付いた。  
「はあ?…ちゃうて」  
「嘘だ。だってずっと見てたじゃない?あたしが誘った時だってさ。眠たそうな  
目しちゃって。あの子だって見てたわよ、とろんとした……」  
「ちゃう言うてるやろ。黙れや」  
強い口調で秋良は女の言葉を遮る。  
苛ついて、声を出すのも嫌になる。  
女のごちゃごちゃとした生活感のありすぎる部屋が、風景に似合わず静まり返った。  
「何よぉ、ヤリ逃げ!」という声を右から左に聞き流し、秋良は部屋を出た。  
しかし、部屋を出て心に去来したものは、怒りではない。  
漠然とした罪悪感だった。  
 
アパートまでの道のりをとぼとぼと歩いていると、ふと口寂しさに襲われた。  
女のキスのテクニックは相当のものだった。  
あれをもってさらに甘い声で「愛してる」などと囁かれれば、大抵の男はイチコロだ  
ろう。秋良の場合、その大抵の男の数に入らない理由が多少なりあったのだ。  
 
その点で言えば、女の言った「違う子のとこでしょ。幼馴染みの」という言及は図星  
といえば図星だ。  
ただ付き合っている女でも好きな女でもないので、あけすけに言われて頷くことがで  
きなかっただけだ。  
幼馴染み。  
その曖昧な関係をおよそ10年も続けている相手は、名を七倉みどりという。  
彼女とは、秋良が小学校の時にみどりの家の隣に越してきてからの仲で、浅からず深  
からずな、割と淡白な関係だった。ただ秋吉にとって、隣にいて一番心地良い人間は  
みどりに他ならず、恐らく秋良を一番に理解しているのもみどりに違いなかった。  
みどりは、父と母譲りの、クセが無い整った顔立ちをしているので、度々委員会で一  
緒になった男子や、クラスで良く話す男子と噂になったものの、一度として付き合っ  
た経験はない。少なくとも秋良の知る範囲では。  
たまたま話す機会が増えた男子だけでも噂になるぐらいなのだから、秋良とみどりは  
といえば数え切れないほど槍玉に挙げられたことがある。  
 
だが、その度に、本人たちは周りの予想以上に冷めた、あるいは落ち着いた物腰で否  
定していたので、カップルだ熱いだひゅうひゅうだなどという冷やかしの対象から常  
に少しズレていた。  
というのも、本人たちに明確な意識がないのだから当然といえば当然だった。  
みどりとは家族のように親しかったが、だからといってみんなから冷やかされるよう  
な関係ではない。  
恋をはっきりと認識したことなど、互いになかったのだ。  
 
けれど、ここ最近、秋良は以前にも増して、強く思うのだ。  
 
あいつは、俺にとって何や?  
 
幼馴染みだろう、と言われればそれまでだ。  
確かにこれまでの関係はその一言で終始する。  
 
しかし、秋良の感情はそれでは納得できなかった。  
 
果たして、普通、幼馴染みとはここまで仲が良いものなのか?  
とか、  
あんまりにも一緒に居過ぎるだろう。  
とか、  
こんなに相手を気にかけるのはおかしい。  
とか。  
 
夜遅くに部活から帰って、電気がついていれば、「ああ、あいつか」と分かる。親父  
は秋良の帰る時間帯にはいつも家にはいないからだ。  
朝起きて、味噌汁のいい匂いがすると、「今日は作ってくれるんか」とぼやけた脳で  
考える。  
横目に、台所のエプロンをつけた後姿を確認してから、二度寝する。  
 
小さい頃からなんやかやと手伝いに来て、それが中学あたりまではせいぜい母親のつ  
くった煮物を届けに来るとか宿題をみる程度だったのが、高校に上がる頃には普通に  
料理をつくりにきたり、洗濯物にアイロンをかけたり、泊まって行ったことも一度や  
二度ではない。  
 
姉のような、妹のような、…母親のような。  
 
そんなくすぐったい気持ちの伴う存在。  
 
それでいいか、と思う反面、どこかで胸騒ぎを感じてもいた。  
本当に?という問い掛けと共に。  
 
梅雨前の時期は夜が一番心地良いと秋良は思う。  
だるい生温かさも張り詰めた冷たさもない、丁度いい清涼感で溢れている。  
長年の友達の家が経営するコンビニを行き過ぎて二個目の十字路を曲がれば秋良の住  
むアパートは見えてくる。  
果たして、そのアパートの一階の一番奥の窓に、明かりは灯っているのか?  
いや、それはないか。  
 
ふ、と溜め息とも苦笑ともつかぬ息をもらし、秋良は数時間前の出来事を思い出す。  
 
『ね、お願い、秋良。今日だけ付き合ってよ!』  
 
クラスメイトの西田だった。  
 
『……んな、急に言われてもな』  
頼まれた秋良はあからさまにお断りの意思を表情に貼り付ける。  
別に大した用事もなかったのだが、丁度みどりと廊下で鉢合わせして話に興じていた  
ところに、ムリヤリ入り込まれてきて気分が悪かった。  
ふと、隣を向くと、みどりと目があった。  
ピンとくるものがあった。  
『い、行ってあげたらいいじゃない。今日は部活もテスト前で休みだし、どうせろく  
すっぽ勉強なんてしないんでしょ?』  
やや戸惑いつつも、笑顔で勧めるみどりはあくまで親身な態度だ。  
はたから聞けば、とても親切な意見だろう。  
しかし、それとは少し違うことを秋良は知っている。  
いつもは最初から最後まで意見を変えない秋良なのだが、このときは、魔が差した。  
というより試したかった、みどりがどんな顔をするのか。  
 
『…しゃーないな。お前がそこまでいうんなら、顔立てていったるか』  
『マジ、秋良!?』  
西田は大喜びで秋良の腕に抱きつく。  
やめぇ、とその体を振り払いながら、そろりと隣を窺った。  
秋良は少なからず驚いて、目を見張った。  
最近では見る機会のなくなった、泣き出す前の顔と、それは重なった。  
 
しかし、すぐに失せて、普段の人好きのする笑顔に取って代わる。  
『じゃ、ごゆっくりね。私委員会あるから』  
軽く手を振って、こちらに背を向ける。  
父親似の色素の薄い髪が、一度だけ不自然に揺れた。  
 
秋良は、動揺を隠し切れなかった。  
自分が、あんな顔をさせたのだとようやく気づいのは学校から2キロも離れた町を  
歩いていたときだった。  
 
木造のぼろいアパートには、二つ三つ明かりが灯っていた。  
そのうちの一つは、自分の住む部屋からだった。  
時刻はまだ8時半だった。  
秋良思わず足を止めて、すぐに、「ま、それもありか」と思い直し、歩を進めた。  
ドアの前まで来て、ドアノブに手をかけた時、何か不思議な違和感が胸を掠めたが  
気にせずに腕を引き、中に入る。  
 
「おかえり」  
 
いつもと同じ風景が、そこにはあった。  
 
「けっこう早かったじゃない、ちゃんと楽しんできた?」  
 
ご飯の用意された狭い机。台所には制服を着たままのみどり。脇には使い終えたエ  
プロン。  
自分を受け入れて迎える日差しにも似た笑顔。  
 
「なにしてんの、そんなとこ突っ立って。ああ、もしかして今日は来ないと思って  
た?残念でした。今日はおじさんから夕飯のリクエストを」  
 
日常を日常と認識できない違和感。  
どうしてこんなに凶暴な気持ちになるのか、分からなかった。  
目に浮かぶそれと同じ笑顔を、無性に壊したくなった。  
 
「西田と寝たわ」  
 
「もらってたから…」  
日差しが消えた。それと同時に、違和感もなくなっていた。  
秋良は胸がすっとした。  
いつもなら悪態をついて、それを小突いて、という展開が繰り広げられているその  
温かい部屋は、一変して冷たい沈黙で覆われていた。  
 
「……ふ、ふぅん。そっか」  
無表情のみどりが、感情の混ざらない声を発した。  
消えたはずの違和感が、また秋良の体中を駆け抜ける。  
 
それをごまかすように無言で部屋に上がりこんで机の前に腰を下ろした。  
いつもと同じみどりの向かい側の位置だ。  
「そや、俺、物理のノートとってへん。後でみしてや」  
思い出して、至って普通に秋良は言った。  
「…あのね、あんたの場合、物理だけじゃないでしょ?」  
一呼吸の間を置いて、みどりは疲れたように溜め息と声をこぼした。  
「他はもう写してあんねん」  
「ほんと、そういうとこだけ抜け目ないんだから」  
「だけ、は余計や」  
くだらない、けれど愛しい掛け合い。  
目先の亀裂を埋めるように、それは始まった。  
何年も前から続けてきた口げんかのような会話。  
呼吸をするのと同じように、いつでも取り出せるけれどせずにいられない類のもの  
だった。  
 
食べ終えて、みどりが食器を片付け始める。  
先ほどまでの空腹感はみどりの作った薄味の美味しい料理によって満たされていた。  
しかし、秋良は何故か、飢餓感が増していく一方の自分の感情に気づく。  
何が足りないのか、それを知っていても分かりたくはなかった。  
先に振り返ってしまったら、みどりは消えてしまうかもしれない。  
そう考えるとどうしたって代替品で間に合わさなければならなかった。  
気晴らしや、西田のような女や、そういうあとくされのないものが一番丁度いい。  
それによって生じる罪悪感など、みどりを想えば塵にしかならない。  
(関係に名前なんかいらん)  
絶対にそうだとは言い切れないけれど、少なくとも秋良はそうだった。  
(けど、俺らには、……あいつには名前がいるんかもしれん)  
間違っても自分が真っ当だとは言えないからだ。  
 
「秋良」  
秋良がぼっとしているのを見て取って、みどりが声をかける。  
秋良はみどりの方を向かずになんや、と答えた。  
みどりは食器を洗いながら、やはり秋良の方を向かずに言った。  
 
「明日からは、自分でなんとかしてね。いつも、私が手伝いにこれるわけじゃない  
んだから。…彼女でもないのにさ」  
からかいを含んだみどりの声音が、どことなく震えていたと感じたのは気のせいだっ  
たろうか。  
秋良はカチャカチャという食器の鳴る音を呆然として聞いていた。  
だから、一瞬みどりが何を言っているのか分からなかった。  
しかし、じわりと、その言葉が、意味が、脳に染み込んでいく。  
 
曖昧な関係には、いつか終わりが来る。  
なぜならば、明確な輪郭を持った間柄とは違って、それはいつでも何にでも変化できる  
ものだからだ。  
家族にも、恋人にも、姉妹にも変じることができるが、それは逆に、一番大事な存在か  
らも逸脱していると言える。  
そうして、みどりはそうとは知らずにそれを続けてきた。自我の成長過程から、ずっと  
秋良と一緒に。  
秋良の望む名前のない関係は、みどりがそれに従う形でなければ決して成立しないものだ  
った。みどりが一言イヤだといえば、それで終わる。  
その危険性は、秋良自身が一番よく分かっていた。  
分かっていたはずなのに。  
 
「あたしとあんたは幼なじみだし、腐れ縁だけど、さすがに彼女には悪いシチュエーション  
じゃない、これは」  
「……ん」  
 
(関係に、名前なんかいらんのや)  
意地でも言い張りたかった。  
そうして、自分のみどりに対する想いすら曖昧なままにしていたかったのだ。  
みどりが幼なじみ以上に秋良を認識しないという事実に気づかないために。  
けれど本当は、そんなことはもうずっと前から知っていた。  
 
「けど、お前…」  
何か言わなければ、と秋良は焦った。  
一時の感情の昂ぶりで失言した自分を殴りたいと思いながら。  
「ん?」  
みどりの声は、変わらず澄んで、耳に慣れても時折はっとする、あの澄んだ声で。  
かちゃかちゃと、いつもは心地よいはずの食器のぶつかる音が、今は耳障りで仕方なかった。  
「お前、な」  
今の苦しみと、未来の苦しみを比べられる余裕など、秋良にはなかった。  
至福、と、大げさながらも呼べる「今」を置いて、何も大事なものなどありはしないと思った。  
秋良は言った。  
 
「冗談ここまで信じる奴も珍しいわ。本気にしたんか?」  
強張っていなかったろうか。  
不自然な笑みを作ってはいないだろうか。  
取ってつけたように陳腐な言い繕い方だ。  
嫌な汗を手のひらに感じながら、秋良は祈るように、食い入るようにみどりの背中を見た。  
ほどなく彼女は振り向いた。  
 
「…何言ってるのよ!ばかっあほんだらっ。タレ目っ」  
 
―――あ。  
数時間前に廊下で見せた、一瞬の表情がそこにあった。  
秋良のよく知るみどりの顔。  
泣き出す一歩手前の顔。  
垂れ下がった眉、涙できらきらと光る瞳、笑っているようで笑っていない  
口元のゆがみ。  
ただ少し尖った唇だけは記憶と微妙に異なっている。  
 
「なんて顔、…しとんねん」  
さもなんでもないように、秋吉は悪態をつく。  
そうでもしなければ、溢れ出して歯止めがきかなくなりそうだった。  
感情が溢れて。  
(これだから…俺には関係なんてどうでもええ)  
その表情一つで救われている自分は、きっともうみどりに対しての感情の働きがイカレて  
いるにちがいないと、思った。  
恋愛や親愛を超越した何かが生まれるのだ、彼女に対してはいつも。  
覚悟しなければならないのは、相手もそうだとは言い切れないということだ。  
彼女の反応、彼女の言葉に救われている秋良とは違い、みどりは苦しんでいる。  
みどりは恐らく、そうした秋良の一挙一動にこれから先苦しんでいくに違いないのだ。  
そして秋良は、他からどう言われようと、彼女が自分によって苦しんでいることが嫌では  
なかった。  
むしろ嬉しくもあった。  
足りないものを補ったと、錯覚できるほどには。  
 
「そんなことはね、もっと早くに言ってよ!なによ。あたしがいちいちあんたに振り回さ  
れてるのが、そんなにおかしいの?あたしはあんたの母親でも姉妹でも、ましてや恋人  
でもなんでもないのよっ。どうしたいの!?あたし達のことを!」  
きらきらと、みどりの目からは光が漏れていく。  
いつもは白い透明な肌が桃色に染まった頬を、つっと流れて、ぱたっと床に広がった。  
秋良はやはり、それに救われている気がした。  
 
「別に。どうもせん。…どうもせんて」  
「嘘よ、嫌なんでしょ、こういうのが。あたしだって…っ」  
「落ち着けて。嫌やない。何も言うてへんやろ」  
「だって…うっ」  
突然、力が抜けたようにみどりがその場に座り込んだ。  
ジャーという水道の音がその瞬間ようやっと耳に響く。  
彼女は夕日を背にして、黒い背景になったように動かなかった。  
しゃくりあげもしない。  
 
「悪かった。試すようなこと言うて。せやから泣き止んどけ。な」  
秋良が近付いて背中にそっと手を当てた。  
「…なあ、七倉。俺はわずらわしいこと好かんのや。お前も知っとるやろ。彼女とか恋人  
とか、そういう面倒なのは一等ダメや」  
秋良は宥めるように、穏やかな声で告白する。  
「そや言うたかて、お前のこと今までいっぺんでも面倒や言うて投げたことあったか?  
ないやろ。お前は、そういうのんとは違うからや。どうでもええ言うてんのと違うぞ」  
「…何言ってるか分からない」  
みどりがようやくポツリと漏らした言葉は、拗ねた響きを含んでいた。  
秋良は内心で噴き出しながらも、ええから聞き、とみどりの頭を撫でる。  
彼女の、肩口で切り揃えてある色素の薄い髪が、さらっと揺れた。  
「だから。…大事になぁ…。したいて、思てんねん」  
一瞬、時が止まったかのようだった。  
秋良自身、それを口にした自分に驚いていた。  
あほか、何くさいこと語っとるん。  
けれど口の方は意思に反して止まってはくれないようだ。  
 
「家族でも、恋人でも、彼氏でも、きょうだいでも、なんでもええ。名前なんぞ適当に  
後からなんぼでもつけたれ。お前の気済むまで。したら、俺はそれになったるから」  
そこまで言うと、ゆっくりとみどりは顔を上げていく。  
「やから、今はまだ、このままでええやろ?」  
濡れた瞳で秋良を見上げて、何か言いたげに口を少し開くが、声にならないようだった。  
けれど、何秒か経って、口の両端を、やはりゆっくりと持ち上げると。  
彼女は声もなく笑ったようだった。  
「なんでそこでウケんねん」  
呆れ口調で秋良が突っ込むと、  
「ごめん…でも」  
と、それだけ言って、あとは声に出して笑い始めた。  
 
からっとしたみどりの笑い方は、どこか綺麗で、見ていて気持ちの良いものだった。  
秋良はみどりの苦痛に救われはしても、笑顔には代えられないと、その時改めて思い知った。  
例えこの先、どれほど彼女を痛めつけても、手放せはしないのだから、この表情を焼き付けて  
おかなければならない。  
そんな風に思った。  
分かってはいたけれど、みどりはやはり、秋良がどれほど大事に思っているか、知る由も  
ないのだ。  
だから、彼女が望むのなら、秋良は家族でい続けようという気でいた。  
その代わりで彼女を一番に苦しめる権利を唯一自分が有しているのなら、安いものだった。  
 
「分かった。秋良がそこまで言うんなら、このまま大事にされててあげる」  
「へいへい」  
「けど、そのかわり、一つだけ約束して」  
「おお。望むところじゃ」  
「うん。もし、…もし、本当に好きな人が出来たら、そのときはちゃんと言って」  
さきほどまであれほど笑っていたのが嘘のように、今度のそれはこちらまで苦しくなるほどに  
張り詰めたもの  
だった。  
「曖昧に終わらせないで。そしたら私も、きっぱり秋良から卒業出来るから。…ね」  
そんな女はこれから一生現われたりしないだろうと思いつつも、秋良は確かに頷いた。  
満足したみどりは、今さら自分の言ったことに恥ずかしくなったのか、ごまかすようにあはは  
と、子供のように笑った。  
 
絶対に現れない。  
 
みどりの照れ笑いをからかいながら、秋良はそう思い直した  
 

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