「おはようございます。」
まだ布団の中にいる僕を、妻のさちが起こしに来た。
いつものように笑みを浮かべている割烹着姿のさち。しかし、なぜか今日はその笑顔が怖い。
ああ、そうか。目が笑ってないんだ。目が。
自然と、布団から起き上がり正座する。怖いよう。
「恭一郎さん、何か言うことがありませんか?」
むぅ怒ってる。これでもかってくらい怒ってる。
しかし何か言うことなどあったか?まさか朝の挨拶というわけではあるまい。何か怒られる様な事をした記憶も………
僕が答えに困っているとさちは呆れたようにヒントをくれた。
「昨日の夜、なにをしたのか覚えてませんか?」
言われて昨日の夜を思い返す。
確か昨日は飲み会で遅くなってしまったはずだ。帰ったのは日付が変わる頃だった。それでもさちは寝ずに待っててくれた。そうかこれだ。これは怒るのも無理は無い。謝っておかないと……
我ながら素晴らしい推理力。僕は探偵になるべきだったのかもしれないなどと心の中で拳を握り締める。並の男ならこの結論にたどり着けたかどうか………
「昨日は……その遅くなってごめん……今度からはもっと早く帰るから……」
「そんなことは別にいいんです。いつまででも待ちますよ。恭一郎さんが帰ってくるのなら………」
レレレ?どうやら違う理由で怒ってるみたいだ。しかし別にいいだなんて我ながらいい嫁さんもらったもんだ。
しかしだったらなんで怒ってるんだろうか?
「さっき冷蔵庫の中を見たら、プリンがなくなってたんですよ。知りませんか?」
「あぁ、あれ?おいしかっ……ぐぇっ」
突然胸倉を掴まれて立たされた。く、苦しい。こ、これだったか!
さちは左手しか使っていないのに、僕の身体は少し浮いている。足が着いてない。
そういえばあのプリンは絶対に食べちゃ駄目だって言われた気がする。酔っ払って忘れてた。
「おいしかったんですか?」
おいしかったって言ったら殺される気がする。けど嘘ついてもどうしようもないから素直にうなずいておく。笑顔を崩さないさちが怖い。
「ふーん………そうなんですか………」
というかですね、さちさん。うん。片手で僕の身体が浮くのはまぁいいとしましょう。君が力持ちなのはよく知ってます。うん。左手に関しては別にいいんだ。苦しいけど。問題は右手なんだ………
「その、でっかい金属製の棒はなんですか?」
「金棒ですよ。」
ついつい声にでた疑問にさちはすぐに答えてくれた。ウン予想通りだ。しかしね、妻よ。君はそんなアフリカゾウでも一撃で殺せそうなものでなにをするつもりなんだい?
「そうですね………ウフフ………これで叩いたら恭一郎さん………ウフフ………」
なんで楽しそうなのか知らんけどこんなときまでニコニコしているのは勘弁して欲しい。余計怖い。まさかプリン一個で命の危機を迎えるとは思わなかった。いつもは優しいのに………
やっぱりさちは怒らせたらいけない。
彼女は鬼だ。比喩でもなんでもなくそのままストレートに迷うことなく鬼だ。角とか生えてるし、歯も鋭い。なんでも出身は鬼が島らしい。
「なにボーッとしてるんですか?」
ぐぐいっと首が締め付けられる。なんとかしないとホンキで死ぬ気がしてきた。
「し……詩織は……?」
とっさに娘の名前を出す。いくらなんでも娘の前でこんなバイオレンスなマネは出来ないだろう。
「詩織ならお友達のお家に遊びに行きましたよ、とっくに」
時計を見ると十一時を過ぎたころだった。日曜でよかった………いや、よくはない。会社にも逃げられないということだ。
「まさか娘をだしにして逃げようとするとは思いませんでしたよ」
ああ、なんか彼女の背中に鬼が見える。まぁさち自身が鬼だが………そろそろなに考えてんのかわかんなくなってきた。
こうなったら最後の手段だ。もう手が尽きたというのも情けないが仕方ない。これで失敗したらもうこの命ないものと思おう。それもまた人生。
覚悟完了するとキッとさちの眼を見つめる。
「さち………」
「な、なんですか………」
僕のただならぬ雰囲気に彼女も気おされたらしい。僕を掴む手が少し揺るんだ。今がチャンスだ!この一撃にかける!
「だーーいすきだーーーーっ!!」
僕は全身の力を振り絞り、さちに抱きついてキスした。後はこのまま押し倒してオトナの時間の始まりだ。
まさかお釈迦様でもいきなりこんな手に出るとは思うまい。これが最後の手段っていう僕の頭はなかなかにくs──────ドンッ!!
その瞬間、僕は仰向けに倒れていた。しかも身動きが取れない。まさか鬼の超能力か!?とも思ったが違った。
何のことは無い。僕はさちに投げられ、畳にめり込んでいた。さちの力なら床をぶち抜くこともできるだろうから、もしかしたら手加減してくれたのかもしれない。ひょっとしてもう許してくれたかな?
「恭一郎さん。こんな明るいうちから一体なにを考えてるんですか?」
笑顔を絶やさぬさちが僕を見下ろす。やっぱりまだ怒ってる怖いよう。泣きたくなってきた。当たり前だよな。あんなんで許してくれる奴がいるわけないし………
「このまま踏み潰しちゃいましょうか………」
さらりと怖いことを言いながら、さちは足で僕のパジャマをめくり、へその辺りに這わせ、腹全体を軽くくすぐるように撫で回す。
「さちっ、やめ……ちょっ、くすぐったい…」
身体をよじって逃げようとするも、畳にズッポリとはまっていてまともに動くことが出来ない。
「あら、どうしたんですか?恭一郎さん………大きくなってきてますよ……」
足でくすぐられただけなのに硬くなってきた僕のものをぐりぐりと足で押さえつけてくる。
これはなんだかんだで作戦通りになってる?
「う、うぁ……さ、さちぃ…」
「どうしたんですか?情けない声を出して……足でされるの好きなんですね。」
「ち、ちが………」
「違いませんよ。」
さちの手が触れたと思った瞬間、一瞬で僕の身につけていたもの全てが破り捨てられた。
「先っぽだってぬるぬるしてますよ?」
足袋の上から器用につま先でカリを挟み、優しく上下に動かす。その嬲るようなもどかしい刺激に、頭が働かなくなっていく。
「さ、さち……もう…」
「どうしたんですか?精子出したいんですか?」
返事の変わりに首が外れそうなほどうなずく。
「駄目です。」
これまで見たことのないようなサディスティックな笑みで答え、さちは足を離した。
「な、なんで……」
「忘れたんですか?わたし怒ってるんですよ」
忘れるところだった。殺されかけてたというのに我ながら出来の悪い脳みそだ。
「ご……ごめん…」
「許すと思ってるんですか?」
嫁からの死刑宣告。プリンの恨みは恐ろしい。ハムスターのようにガタガタ震えてる僕。さらばわが人生。
しかし覚悟を決めたのはいいが、一向にさちが殺しに来る気配が無い。
少しして、さちはおずおずと切り出した。
「………さっきの、本当ですか?」
「さ、さっきのって………」
「あの、だいすきだーっていうの………本当ですか?」
「本当だよ」
それは嘘じゃない。というか嫌いだったらとっくに逃げてる。
僕の返事を聞いて、さちは嬉しそうに笑った。いつもの、優しいさちの笑顔だった。
「じゃあ許します。」
「へ?い、いいの?」
「当然ですよ。わたしがそんなことで本気で怒ると思ったんですか?」
いやいやいやなにを言ってますか?どう見てもあの目は本気だった。まぁそんなことは言わないけど。
しかしさちの機嫌も直ったみたいだし良かった良かった。まさかホントにあれで許してくれるとは思わなかったけど。鬼の考えることはよく分からん。
「プリン、後で、一緒に買いに言ってくれますか?」
「うん。もちろん」
畳から抜いてもらいながら、そんな会話を交わす。
「それじゃあ、ご飯にしますから服着てくださいね」
とてとてと台所へ消えるさちを見送り、ほっとため息をつく。とりあえず助かった。
助かったが、しかし、頭が冷静になったところで思う。もう危険が去ったと思うと、またよからぬコトを考えてしまうのが僕の悪いところかもしれない。
ただ、どうしても考えてしまう。
さっきの続きもしたいし、それにそもそもプリン一個で命の心配をしてしまうほど怖い思いをしたんだ。
いや別にそのことに怒っているわけじゃないけど、でも、なにか仕返して困らせてみたい、と。