一人家に帰ろうとした俺に、あらぬところから声がかけられた。
「くくく…… なかなか楽しげな時間を過ごしてきたみたいじゃないか、なあ、"カナくん"?」
……そうだ、この女が居たのだった。
茂みを書き分け、スーツ姿の奴が現れる。
「覗き見とはいいご趣味をお持ちのようで。……アリスちゃん。」
……やれやれ、だ。
「名前で呼ぶな。ははは、真にいい女とは何事も控えめなのだよ。出張って物事に介入なぞせん。」
「なるほど、それは確かにそうですね。あなたがまさにそれを証明している。」
「ほう…… 貴様もなかなか分かってき」
「あなたほどの反面教師もなかなか居ませんしね。」
女史こそまさに出歯亀だ。あちこちに木の葉をくっつけている女が何を言うか。
「……夢の島に埋められたいか?」
青筋の浮いた笑顔を浮かべる女史。と、
「……ふん。お前よりかはマシだ。ぺドフィリアに人権などないのだからな。」
この女は……
「誰が何、と?」
まあ、その程度の悪態など大したことはない。十分予想範囲内だ。いきり立つほどでもなし、冷静に返せばそれでいい。
が、女史は挑発するように言う。やれやれ、血の気の多いことだ。
「どの口がそんなことをいえるんだろうかな? 果たして、次に会社に行ったときに北光君の人間としての評価はどうなっているかな……? 無論証拠写真つきだぞ?くくく。」
……スーツの胸ポケットを見れば、デジカメが覗いている。
俺ははあ、とため息を付き、
「ミナトは二十四です。俺より誕生日が早いくらいですが。」
「人間はそんな詳細などどうでもいいのだよ。要は見た目だ、何も考えずに分かる情報の方が衆愚に受ける。
大衆紙を見るがいい、有ること無いことどころか無いこと無いことのほうが売れるのだ。」
「新聞社の人間がそれを言いますか、というより何様のつもりです? 上流階級の御出身とでも?」
「課長様だ、知らんのか? ちなみに出生は秘密だ。女の子に聞くものじゃないぞ?」
駄目だこいつ……。早く何とかしないと。
虎の威を借る様で好きじゃないが、仕方ない。
「まあ、忠告させてもらいますが、ミナトを巻き込むのはよした方がいいですよ。
あなたが考えていることをすれば確実に彼女の名誉毀損です。訴えられても俺は知りませんよ?
彼女の家を敵に回してまでやりたいのなら止めませんが。」
「……ふん。命拾いしたようだな。だが、いずれ第二第三の……」
「安っぽい上に支離滅裂な捨て台詞はどうでもいいです。
……本題に入ったらどうです?」
……この食わせ者がこんな無駄話をするからには何か意味がある。
どうせ何か言いにくい話でもあるんだろう。
……と。
「あー、その、何だ……」
? こんな反応は珍しい。
「もったいぶらずに言ってくれた方が楽なんですが。」
「お前は楽かもしれんが私ゃ困るんだ。…………。」
沈黙。そして漏れた言葉は一つ。
「……逃がすなよ?」
……どういう意味か。額面どおりに取ればミナトの事なんだろうが、しかし……
「……くそ、だからキャラに合わん事は嫌なんだ。あまり深読みするな、文字通りの意味だ。」
見れば、女史はまともにこちらを見ていない。
「……。まあ、何だ? 人生経験豊富な先輩からの激励だ。そういうことにしておけ。」
こちらを横目で見て、くく、と女史は口端を歪める。どことなく哀愁を感じるのは気のせいか。
俺がここに来るときにいった皮肉を引用する。
それがどういう意味かは……俺にも分かる。
と、
「さて、もう夜も遅い。私のようなうら若き乙女はまどろみの中に居るべき時間だ。
今日はここまでだ。帰るぞ、タクシーを用意してある。駅までは送ってやるさ。」
早口でそれらをまとめて言い、女史はこちらを見ずに出口に向かって歩き出す。
「逃がしても手に入れてもいない関係は……辛くなるぞ。」
先を行く女史が、そんなことを言った気がした。女史の表情は当然、見えない。