「まあったく……この蝶ネクタイっつうのは、いつもの事ながらうっとしいぜ。」  
 
絨毯じきの廊下を二人の日本人が歩いていた。  
大柄の男と小柄の男、大柄の男が首元に結わえられた蝶ネクタイを  
いかにもうっとうしそうに引っ掻いた。  
「馬鹿者、これからだというのにもう緩めてどうする。もう交渉も大詰めだ。  
 気を引き締めてかかれ」  
小柄の男がそれを嗜める。この男、体格は小さく、となりの男とは三十センチほどの  
身長差があるが、その小さな体から出る気迫は鋭い。青く燃えるアルコールの炎を思わせる気迫である。  
その気迫の源は自らが日本外交の最前線に立っているのだという自負心であった。  
眼光鋭く見据えられた大柄の男は軽く肩をすくめ呟いた。  
「へいへい、分かってるよ。しかしなあ、先進家のお前と違ってどうにも俺はこの  
 首にぴったり来る感じが、慣れねえんだよなあ……。」  
 
 
「慣れると言えば、ゆかりちゃんは元気かい?この頃、顔を見てないけど……。」  
思い出したように、大柄の男は尋ねた。  
娘の事を聞かれ、小柄の男はぴくりと反応した。  
「……ゆかりには、英国人の家庭教師に、ホテルでみっちりやってもらっている。  
 むりやり船に乗せてもらったのだ。この間に多少なりとも成長してもらわんと、  
私の立場がなくなってしまうよ。」  
「へぇえ、名門田村家の息女ともなると大変だな。本当に小さな頃から学問を、それも、  
四書五経より洋学を、ずっと勉強させてきたんだろう?ゆかりちゃんがアレだけ優秀なのも  
頷ける……しかし、勉強ばかりでは息が詰まってしまうだろう。そうだ、後で  
部屋に様子を見に行くよ。……どうした、肩が震えてるぞ。」  
 
ぎくり。  
この男、普段は頑愚で無神経なくせに何故このようなときにだけ細かいことに気付くのか、  
付き合いが長すぎるというのも考え物だ、心の中だけで呟いて、口からは嘘を吐く。  
「……武者震い、だ。なに、ゆかりは元気だ。特に何も必要ない。」  
 
「そうか、なんにせよさっさと話をまとめて、ゆかりちゃんも連れて倫敦観光でも  
行こうぜ。……最近ゆかりちゃん、どんどんカエデさんに似ていくよなあ。  
ありゃあ美人になるぜ。」  
 
 
「……、いやー、そうなんだよ。」  
急に、小柄の男から、体の震えも鋭い気迫も消え失せた。  
眉は下がり、頬は緩み、口元からは白い歯がこぼれている。カミソリの切れ味を思わせた鋭さは消え、  
一瞬にして好々爺然とした和やかな雰囲気をかもし出している。  
その顔の崩れ方は数秒前の様子からは想像もつかない。破顔一笑、といった風情だ。  
男は更に続け、  
「やっぱりお前もそう思うか?ん?ん?やあ、やっぱりそうかあ、お前は女を見る目が  
あるなあ! ホントにもう夜に見るとドキッとするときあるんだよーぉ。  
 前まではかわいくてかわいくて目に入れても本当に痛くない感じだったけど  
 最近はなんて言うかこう、目に入れたら痛いだろうけど、むしろそれが気もち良さそう?  
 みたいな感じの……。」  
 
「わかった、わかったから。……だぁら、ゆかりちゃんがかわいいのは分かったって!  
あんまり大きな声を出すな!廊下に音が響く!!……お前……なんでいつもそう、  
ゆかりちゃんのこととなると人が変わるんだ?……部下が見たら悲しむぞ。」  
 
大柄の男に遮られてやっと喋るのをやめた。  
 
「……すまない、取り乱した。」  
小柄の男は我に帰り、呼吸と態度を整えた。  
「ゆかりと倫敦観光も楽しそうだが、いまは交渉に集中だ。この交渉いかんで、  
日本の命運が変わるんだからな。」  
 
「……わかってるさ。よし、行こうぜ。」  
大男はそう気合を入れて、古く重い扉を開けた。  
小柄の男の目つきが変わり、再びカミソリのような鋭い雰囲気が戻ってきた。  
 
今まさに条約改正の交渉にはいらんとしている小柄の男、この男こそが、田村ゆかりの父、  
田村清五郎であった。  
 
田村清五郎は長机の席に座りながら、とりあえず誤魔化せたか、と胸を撫で下ろした。  
ゆかりは一週間ほど前から行方不明だ。すぐにでも探しに行きたいが、立場上それも  
出来ない。ゆかりは自分のあまり無い権力を十二分に行使して無理矢理つれてきたのだ。  
行方不明ともなれば一気に大問題になってしまう。そしてなにより今自分で言ったとおり、  
この交渉には日本の命運がかかっている。  
ここで自分が抜けてしまってはまとまりつつあるこの改正も、フイになってしまう  
可能性すらある。  
なにしろ相手は世界一の大国、大英帝国だ。どんな気まぐれで条件を変えてくるか  
分からない。その時に自分がいなければ交渉はまとまる方向に行かなくなってしまう  
かもしれない。もちろんこちらにもカードはある。イギリスの競争相手国――帝国主義  
時代の現在、それは仮想敵国と言ってもいい――フランスやロシアに、日本の港や  
商業地を有利な条件で使わせるぞ、という脅しだ。  
しかしそれは出来るだけ使いたくない捨て身の戦法、諸刃のカードである。  
イギリスと手を結ぶためにロシアやフランスに港や商業地を独占されては本末転倒だ。  
イギリス側もその事情はわかっている。分かってはいるが本当にそれをやられては  
たまらない。外交とは自分の事情と相手の事情を天秤にかけた綱引きのゲームなのだ。  
その微妙なちから加減で成り立つゲームも、どうにか出口が見えてきた。  
それも日本にとってそう悪くない条件で、だ。  
 
ゆかりのことをとにかく早く探しに行きたいが、この話をまとまらせるまではそれは  
かなわない。ゆかりに数日間ついてもらっていた家庭教師のキャシアスに一応、市内を  
探させてはいるが、広い倫敦だ、見つかる当ても特に無い。  
今のところ新聞にそれらしい事件や事故の記事も無い。ここは世界一の先進国で、  
国民の社会意識の高さは日本を含むアジアとは比べ物にならない英国だ、  
いま正に外交真っ最中である国と、自国が不利になるような事件はあまり起こすまい。  
と、清五郎はある意味で英国人を信頼していたが、もちろん強く心配しゆかりの  
身を案じていた。  
「ゆかり……」  
清五郎は小さく呟いた。向かい側の扉が開き、英国の交渉団が入って来た。  
さすが体格とスタイルが日本人とは違う。黒いモーニングが立ち姿も美しくきまっている。  
当然だ、洋服とはもともと西洋人のために作られている。今の世界も、先に産業革命を  
経験した順に強く大国であるのが常識だ。しかしその中でやれることをやるしかない。  
清五郎は「負けじ」と念じ目に力を込めた。正念場なのだ。  
そして交渉は再開された。  
 
 
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今日は7時間かけた交渉だったが、結局まとまりはしなかった。着実に進んではいる、  
だがどうも英国側からやる気というか、素早くまとめようという気が見られない。  
政府の交代は知っているが、対日政策に大きな違いは無いはずだ。  
 
「要は、舐められてるんだろうな。」  
ホテルのロビーで、大柄の男、と呼ぶのもいい加減にいいだろう、吉岡大介がそういった。  
 
「いくら日本が明治維新を経て開化の道を歩んでいるからと言って、英国から見れば  
 取るに足らないアジアの小国だ。こちらのカードが諸刃だというのも分かっている。  
 しかし実行不可能ってわけじゃない。その上でまだ自分が多く利益を得られる  
ぎりぎりのラインを探っているんだろうな。なにしろ俺たちにとっては慣れない外国の地だ。  
日にちを延ばせばそれだけ俺たちが疲れて、有利になるとでも思っているん  
だろうよ。」  
 
吉岡の考えを聞いた清五郎は顔を上気させた。  
「なめるな、奴らとは心構え、気構えが天と地ほど違う。こちらは国の命運を背負って  
 きているんだ。一週間や二週間引き伸ばされたからと言って、疲れるようなやわな男は  
 この中にはおらん!」  
 
「まあ…そう鼻息を荒くすんなって。たく……古い家系ってのはこれだから……。」  
「文武両道!田村家の家訓だ!!」  
「へいへい……ゆかりちゃんも苦労するよ、こんな親で……ごほん、いやなに。  
 ま、なんだ、相手ももうここらが閉め時だとは分かってはいるさ。その上でまだ協議を  
 しつこく諦めない……英国が世界一の帝国だってのも、頷けるぜ。」  
「……うむ……そうだな。」  
 
「さあ、明日に備えて早く休むこったぜ。ゆかりちゃんが帰りを待ってんだろ?」  
「……ああ……うん、まあな。」  
清五郎は頼りなげな足取りで部屋へと向かった。  
「なんだあいつ、自分が大丈夫か……?」  
吉岡は清五郎は疲れているのかと思った。清五郎がエレベータに乗るまで後ろ姿を  
見ていたが、どうもドアにはさまれたようだ。いくら奴が先進家で、サンドウイッチを好んで食べると言っても、  
自分がサンドウイッチになる趣味があるとは思えない。  
疲れているに違いない、吉岡はそう確信した。  
 
 
 
がちゃり。  
部屋のドアを開けるが中に人はいない。めまいに似た感覚を覚える。  
「ううう……ゆかりぃ……どこへ行ってしまったんだよぅ……」  
清五郎は口からそう漏らして、ベッドに倒れこんだ。自分のベッドではない。  
ゆかりが使っていたベッドだ。  
鼻を広げ思い切り匂いをかぐが、英国ホテルのベッドメイキングは完璧で、清潔なシーツの香りだけが感じられた。  
 
「ゆかりいぃ……あー心配だ心配だー……生きていてくれ……!!交渉さえ済めば、お前を探しにもいけるのに……!」  
ベッドの上でぐねぐねと身体をくねらし、いまはもう無いベッドに残ったゆかりの余韻をサルベージしていると、  
不意に声をかけられた。  
 
「あの……ミスター・タムラ……」  
いつの間にか部屋に入りドアの前に立っていたのは長身痩躯の青年であった。  
金髪碧眼で、じつに英国人らしい。なかなか整って、頭のよさそうな顔立ちだ。  
清五郎は青年の姿を認めると、静かにベッドから降り、椅子に座り、足を組み、  
身体を向きなおし、蝶タイを締め直し、体勢を整えてから話しかけた。  
「おや、キャシアス君じゃないか。いつからいたのかね。」  
完璧に紳士ぶった話し方だ。  
 
「……いえ、ついさっきから……。」  
「そうか、そうか。ふむ、私に気取られずに背後をとるとは、なかなかやるね君も。  
 どうだ、ひとつ柔道の稽古をつけてやろうか。」  
「バリツですか?……結構です。いえ、本当に。」  
「そうかね……?残念だ。……それで、今日もゆかりは見つからなかったのかね。」  
 
「ええ……ロンドンは狭いと言っても歩き回るとなるとやはり広いです。」  
キャシアスは声のトーンを落とした。今日もゆかりの発見は適わなかったのだ。  
 
「ですが、ひとつ重要かと思われる情報を手に入れました。」  
「なに、どんな情報かね。」  
清五郎の目の色が変わった。  
 
「ええ、異国人のメイドがいる家がある、とか。なんでもそれも黒髪で背は低く……  
 年も、若い少女のようです。ひょっとすると……」  
 
キャシアスが喋るのを食い入るように見つめていた清五郎が口を開いた。  
「ゆかりかも、知れんな。……キャシアス君、確かめては来たのかね?」  
 
清五郎は勤めて冷静な態度をとった。しかし心はゆかりらしき者がいたということに、  
ひどく興奮しているのだ。  
 
「いえ、時間も時間でしたし……それに、僕が見ても正直……本人かどうか見極める自信  
 はありませんし……東洋人の顔は見分けがつかなくて……住所は聞いてきましたから、  
 明日、その住所を尋ねてみますよ。場合によっては、すぐに連れて帰りましょう。」  
 
数日の間だけであるが、キャシアスはゆかりに勉強を教えていた。  
その短い間にキャシアスはゆかりが聡明で明晰な頭脳の持ち主であると気付き、  
行方不明になってからは、父、清五郎同様、その身を案じていたのだ。  
一週間かそこら探し回ってようやく手に入れた情報がメイドの情報である。  
無理矢理働かされているとなれば、多少腕力に物を言わせても連れて帰るつもりだ。  
なに、これでも学生時代はボクシングをやっていたのだ。ちょっとやそっとの相手には  
負ける気がしない。  
 
「いや、待てキャシアス君、君は若いから、腕力に訴えてどうこうしようという気も  
 あるかも知らんが、いま君は『異国人のメイド』と言ったな。メイドと言うからには、  
 何かしらの契約があり働いているのであろう。不当な契約だろうが、それが正式に二人の間で交わされたものだとしたら  
 それは契約として成り立っている。それは、そういうものなのだ。  
 それに、もしそのメイドがゆかりじゃなく、単なる人違いだったらどうする気かね。  
 ……見分けも良くつかんくせに。」  
 
「う」  
キャシアスは痛いところを突かれた。  
 
「ですがミスター……では一体どうしろと……。」  
「うむ……少し考えさせてくれ。」  
清五郎はアゴに手を当てて考え始めた。  
二、三刻して、キャシアスがぼーとし始めた頃、再び清五郎は口を開いた。  
 
「うむ、その家を訪ねるのは午後からにしよう。私も一緒に行く。このタイミングで何か騒動が起きて  
 しまっては、国際問題にもなりかねんからな。」  
「なんですって、しかし、ミスターには仕事があるでしょう。……そうか、今日、無事に  
 締結が済んだんですね。おめでとうございます!」  
「……いや、まだだ。」  
 
はあ?キャシアスは、理解できない、といった表情をみせた。  
「じゃあ、行けないでしょう。何を考えてるんです?」  
「交渉は明日――それも午前中――に終わらせる。」  
「馬鹿な、いままで散々交渉を引き延ばされたてどうのこうのと愚痴っていたのに  
 明日だけで、それも午前中ですべて終わるわけがないじゃないですか!」  
   
かぶりを振ってキャシアスは尋ねた。しかし、しばらく清五郎からの反応はなく、  
部屋を沈黙が包んだ。  
キャシアスは沈黙に耐えられず清五郎の方に目をやった。  
 
ゆらり。  
清五郎の背中から炎があがっているように見えた。  
青白い炎の中で、清五郎の鋭い目だけが光を持っていた。  
 
目の錯覚かとまぶたをこすった。確かに炎は目の錯覚であったが、神経の錯覚ではなかった。  
すごい迫力だ。緊張で無意識に顔が強張る。声を出すことが出来ない。全身の毛穴が  
開くようだ。  
 
「終わらせると言ったら、終わらせるのだ。」  
清五郎は短くゆっくりと、それだけ言った。  
 
「キャシアス君……明日、二時ごろにまたこの部屋に来てくれ。  
そのとき私は、交渉を終えている。」  
清五郎はまるで、それが変わりようのない確かな予定であるかのように言った。  
 
「Yes,sir!」  
自分にとって最大限の敬意を表す方法、短い軍隊生活で身に着けた敬称と敬礼が自然と口をついた。  
キャシアスはカチコチと歩き、音を立てずに退室した。  
 
廊下に出た瞬間、冷たい汗がどっと噴き出た。  
久しぶりのこの感覚、ボクシングの対戦相手が持つ敢闘精神とは明らかに異質のもの。  
どちらかと言えば軍隊生活で味わうことの多かった感覚。殺気。  
それを全身に叩きつけられた。  
あの小さい体のどこから……自分よりもかなり小さい清五郎に畏怖した、そのことを  
屈辱とは思わず、むしろ不思議に思った。  
 
「本当に、午前中だけで済ましてしまうかもしれないな……。」  
 
「しかし、日本人っていうのは……」  
よくわからない、そう呟いてキャシアスは家路に着いた。  
 
 
実質的には合意に達している。しかしイギリス側はまだ締結を拒んでいる。  
いったいこれ以上何を欲するのか、吉岡はいまいち掴みかねていた。  
そもそも自分はこういった相手の要求をちまちまと推理するような仕事は嫌いなのだ  
そういった仕事は相方の清五郎に任せて自分は清五郎の立てたその計画に沿って実行する。  
二人はいつもそのように仕事をしてきていた。  
「あいつはいまいち、押しってもんが足りねえんだよな」  
それも昨日の様子を見ると、長引く交渉の疲れも出てきているようだ。  
今日はあまり清五郎には期待しない方がいいかもしれないな、そんなことを考えながら  
吉岡はラウンジを見渡した。  
深いゆったりとした一人用のソファに、清五郎らしき頭の天辺を発見した。  
清五郎は背が低いので、英国人用に作られたここのソファでは頭だけがはみ出るのだ。  
 
「よう、どうだ、昨日は眠れた……か……」  
清五郎の持つ雰囲気が普通ではない。  
後から声をかけた吉岡は、前面に回りその様子を認めるとぽかんと口を開けたまま固まった。  
「ああ、大介か……。おはよう」  
「お、おう。お前……」  
異常にに殺気立っている、その理由を聞こうとしたが、清五郎本人に遮られた。  
 
「大介」  
「うん?」  
 
「今日で交渉を終わらせる。」  
 
清五郎は吉岡の目を見ずに言いきった。  
静かで力強い言葉だった。  
 
 
 
清五郎は英国側の交渉人がテーブルにつくとすぐに発言した。  
「私が思うに、日本と英国、両者はすでに実質的に合意に至っています。  
 しかしあなた方は、一向にこの交渉を終わらせようとはしない。  
 その理由は一体なんなのですか、はっきりとお答えいただきたい。」  
 
英国の交渉員たちは面食らった。  
これまで折衝を繰り返してきて、相手側の要注意人物、一番のタフ・ネゴシエイターは  
今、始まりしなに発言したセイゴロー・タムラの隣に座っている、ダイスケ・ヨシオカの  
はずだった。東洋人の区別は苦手だとはいえ、英国人のように体が大きく語調も内容も  
強い発言の多いヨシオカと、対照的に非常に体が小さく、強く発言することは  
ほぼなかったといってよいが鋭い質問や要求をしてくるタムラの区別は英国人にも  
分かりやすかった。  
 
面食らったのは英国側だけではない。  
もちろん英国人以上に田村の気性を知っている日本人たちである。確かに普段から  
静かな迫力はその体から発していた。だが今日のような、荒々しく燃えたぎる迫力を  
放つ田村を見たのは初めてのことだった。国際情勢を良く知り、外交の何たるかを  
体得している田村がこのような会議の流れを無視するような、放言ともいえる出端の発言  
をするとは誰も夢にも思ってなかった。  
もちろん、いちばん付き合いの長い吉岡は更に驚いた。  
 
「おい、田村、お前、どういうつもりだ。一体何を焦っている」  
吉岡が右隣の田村に日本語で呟いた。田村は気にせず対面を睨み続けている。  
「焦ってなどはいない。無駄な時間を省きたいだけだ。お前も、互いにこれ以上の譲歩は  
 不可能だと思っているだろう。ここらが落ち着かせどころだ、とな」  
「そりゃあ、そうさ。しかし……何をそこまで焦る必要がある。大詰めになってこそ  
慎重に時間を掛ける。お前が今まで言っていたことじゃないか」  
 
英国側交渉団、中央に座っている太った男が苦々しい表情で発言した。  
「あー……ミスター・タムラ、私たちはこう考えています。交渉と言うものは、  
 えてして終わり際にもめることが多い。つまり交渉が終わりそうになってもそれは  
 終わりそうなだけで、終わりでは無い。話し合いというのは詰めにこそ時間を  
 掛けるべきではありませんかな?」  
 
発言の間も、清五郎は殺気を以って相手を睨みつけることをやめなかった。  
発言後も同様であった。太った男はとても田村の目を見てはいられず、  
左下に目を逸らした。  
「ええ、確かにそのとおりでしょう。しかし今の場合、終わり際になってまだ揉め事を  
 起こそうとしているのは私たちではなくあなた方だということはお分かりでしょう。  
 ……いい加減にはっきりなさい、これ以上、何がしたいというのです」  
 
「おい、田村、言い過ぎだ。落ち着け!」  
吉岡が清五郎を制するが、聞く耳を持たなかった。  
 
英国側は言葉に詰まった。  
何人かが顔を見合わせた後、しばらくして、再び太った男が発言した。  
「いいでしょうミスター・タムラ。私たちはまだ日本側に譲歩が足りないのではないか……、  
 と考えています。  
 具体的に言うと、日本のどこかの島を英軍の基地とするかもしくは――少なくとも、  
 ロシア、フランスには基地を貸し与えないことを約束していただきたい。  
 このうちのどちらかが、もし約束できるというのなら私たちは今すぐにでも  
 この条約を締結してよいと考えています」  
 
その言葉に、吉岡たち日本の交渉団は目を丸くした。もちろん英国に日本のどこかの島を  
与えるなどというのは問題外である。軒先を貸して母屋を取られるということに  
ならないとは言えない。  
しかしロシアやフランスへ日本の港や領土を貸し与えないという条件は、こちらとしても  
そのようなことをする気は全くない、むしろイギリス側が日本はロシアやフランスに港や領土を貸し与えるかもしれない、と考えていることが驚きであった。  
 
結局、舐められているんだろうな――昨日、自らが発した言葉を吉岡は思い出していた。  
舐められていただけではない。  
日本は、だまし討ちのように策謀をめぐらして、英国に不利な行動を起こすかもしれない、と疑われていたのだ。  
吉岡は今更ながら日本の国際的立場、イメージの低さを再認識し、黙り込んだ。  
 
しかし相手側から決定的な言葉を引き出せた。  
イギリスに島を差し出す、という条件はもちろん飲めないが、露仏に港や領土を与えない、  
ということは日本としての元からの立場であった。日本側交渉団は互いに顔を見合わせ  
色めき立った。  
 
今の言葉を引き出せたのは清五郎のスタンド・プレーのおかげだ。  
「清五郎!」  
吉岡は右隣のちいさな男に呼び掛けた。  
暴走には違いないが、このスタンド・プレーは今回一番のファインプレーである。  
 
清五郎は静かに立ち上がるとはっきりとした口調で、英国側の発言に応えた。  
「もし脅迫を以って日本にそういう要求をする国があれば、ロシアでもフランスでも、  
我々は日本全土を焦土となすとも抵抗するでしょう」  
 
そういうと清五郎は、頬を緩めにっこりと笑った。  
気圧されるほどに発せられていた殺気が、穏やかなものになった。  
英国側に掛けられていた異常なまでのプレッシャーは、まるで今までそんなものは  
無かったかのように霧消してしまった。  
また、同時に英国側にはこのような心情も浮かび上がった。  
この男は嘘をつくような人物ではない、極東における英国の国益は、日本と組むことで  
守られるという考えは、けして間違いではない。  
それは何か言葉で説明するべき思考と言うより、感覚における確信であった。  
 
そう思うと、いままで場を支配していた、重く冷たい空気が一変して暖かなものになった。  
結局、今日、交渉の場を支配していたのは清五郎の迫力であった。  
この男の迫力に英国側交渉団は気圧され、日本にとって損でない条件での完結を見た。  
 
清五郎は柔らかな笑顔のまま、対面の太った男に右手を差し出し、握手を求めた。  
太った男もそれに答え、二人はがっしりと握手を交わし、上下に大きく振った。  
清五郎は手を離すと、倒れこむように椅子に座り、まぶたを閉じた。  
 
「おい、やったな清五郎!あったく、あんな調子でやられちゃあ、俺の出番が  
ねえじゃねえか!!……おい、清五郎……?」  
返事が無い。吉岡はがなるように清五郎に話しかけたがそれでも返事はない。  
まさか。  
 
日本を代表して世界一の帝国と渡り合ったのだ。  
まさに今の英国とのやりとりは田村清五郎、一世一代の大舞台であった。  
 
吉岡は口を結び、清五郎の身体に耳を近づけそばだてる。  
「やはり……!清五郎……!!」  
 
たった今の瞬間までの主役が急に黙り込んだことに、日本側も英国側も全員が、  
清五郎の様子がおかしいことに気付いた。部屋に緊張が走る。  
 
耳をそばだてていた吉岡は、すっと身体を離すと、勢いよく清五郎の頭をはたいた。  
「起きろこの大馬鹿野郎!」  
吉岡の耳に聞こえたのは、清五郎の安らかな寝息であった。  
 
「!?」  
身体を跳ねつけて目を覚ました清五郎の様子を見て、部屋は爆笑の渦に包まれた。  
 
「は……!し、失礼しました!!すみません、昨日、寝てなくて……」  
清五郎が英語で弁明すると、英国側の太った男が笑顔で言った。  
「ミスター・タムラ、お疲れならお先にホテルに戻ってはいかがですか?  
 なに、あなたは今日はもう十分に働いた。お仲間も許してくれるでしょう」  
 
「ええ、あなたがたさえ許してくださるならば……。おい清五郎、お前、帰って  
 もう休め。なに、後は細かいことだけだ。心配するな。  
 と、いうより……またそんな中央の席で寝られてはかなわんからな」  
吉岡がわざわざ英語で発言したので、部屋に再び爆笑が起きた。  
清五郎は従者に支えられるようにして退場した。  
今日の主役は、交渉が始まってわずか一時間で去っていったのだった。  
笑顔を残したまま、英国代表は言った。  
「まったく……悪魔のような殺気を我々に叩きつけて発言を求め、自らも大いにりりしく  
 演説をぶったかと思えば、今度はすぐに寝入ってしまうとは……まったく、不思議な  
 魅力のある男ですな」  
 
「は、まったく、お恥ずかしい限りです」  
吉岡は汗を拭きながら言った。  
 
「いやなに、われわれはあの男が日本側の代表にいたことを幸運に思っていますよ。  
 あのような男がいるのなら、日本は約束を破るようなことはしないだろうと確信します。  
 ……では、残りの細かいことについて話し合いましょうか……建設的に」  
「ええ、こちらこそ!」  
吉岡は英国代表の発言に答え、テーブルに身体を大きく乗り出した。  
 
 
ようやく決着がついたか。  
何も考えられないような――それでいてなんでも理解できるような――夢うつつの中に  
清五郎はそれだけを思っていた。  
 
今から思えばこの交渉など長かっただけで何の意味もなかったような気もした。  
問題は行方不明の娘のことである。  
しばらくすればキャシアスがここに来るはずだ。  
仕事は予想以上に早く終わった。まだしばらく時間がある。  
今はただ眠ってしまおう――――  
 
キャシアスが来るまでの三時間、清五郎は泥のように眠った。  
 
 
 
「ミスター・タムラ……起きてください」  
キャシアスはおそるおそる清五郎の身体を揺らした。なにしろ昨日の迫力はすごかった。  
起こしたときもしも機嫌が悪かったとしたら、命が危ない。  
しかし大方の人間は寝ているところを起こされた場合、機嫌が悪くなるものだ。  
大体で言えば、70パーセントくらいだろうか。  
 
「ふふ……生きて帰れる率30パーセントか……母さん…今までありがとう」  
キャシアスが死を覚悟していると、清五郎の体がぴくりと動いた。  
「ん……」  
 
キャシアスはとびのき、心臓が破れそうなくらい鼓動を打つのを感じた。  
オーケー、まだ生きている。  
心臓の動きに生の喜びを感じた。  
「ミ、ミスター……?」  
「ああ…キャシアス君か……、どうしたね、なに、もう時間か……そうか、では、  
行くとしようか…。ふぁ、あああ」  
大きく身体を天に伸ばして、清五郎はあくびをした。  
どうやら機嫌も悪くないし、殺気立ってもいないようだ。  
いままでの清五郎に戻ったらしい。キャシアスは心底ほっとした。  
 
 
「キャシアス君、ここがその、東洋人のメイドがいるという家かね」  
「ええ、そのようですミスター」  
キャシアスは住所を控えたメモを確かめながら返答した。  
二人の前に建っているのは、石造りで、一つの建物に二つの扉がある不思議な家である。  
 
「キャシアス君、どちらが玄関かね」  
「いえミスター、これは建物は一つですが、住んでいる人は違います。こちらの方が  
 建物を二つ建てるより安く済むのです」  
「ふむ、長屋と一緒だな。特別裕福な家、というわけではなさそうだ。  
「ええそうですね。ではまず僕が様子を見に行きます。ミスターは少し陰で隠れて  
 見ていてください。もちろん僕はできるだけ紳士的に話を聞いてみますが、  
 なにしろ相手は人さらいの可能性もあります。なにかあったら、警察に  
 連絡してください。」  
「承知した」  
 
清五郎は言われたとおりに建物の陰に隠れ、顔だけだしてキャシアスの様子を覗いた。  
キャシアスは慎重に扉を叩き、反応を待つ。  
しばらくすると家主らしき男が玄関に現れた。よくは見えないが、筋肉質で随分  
体格のいい大男である。歳は自分よりも下の様に見えるが、生意気にも口ひげを蓄えている。  
 
清五郎がつぶさに相手の様子を観察していると、不意に背後から声をかけられた。  
「あら、だんなさん、うちに何の用?」  
振り返ると、大きな女がいた。簡素な服に白いエプロン。  
くりっとした丸い目でこちらのことを見ている。この家か隣の家の主婦であるようだ。  
働き者であるな、ということが身なりや雰囲気から感じ取れた。  
「あら、あなた――日本人?ひょっとして、ゆかりちゃんの――」  
主婦の女から娘の名前が出た。間違いなくゆかりはこの家にいるようだ。  
「あの――!」  
 
どか。  
清五郎が喜びと驚きをもって話そうとすると、背後から物音が聞こえた。  
 
振り向いた清五郎の目に映ったのは、キャシアスが家の主人を殴り倒している姿であった。  
「きゃっ!ダーヴァレイさん!!」  
主婦の女が叫んだ。苗字で呼んだことから、どうやら隣の家の主婦であるようだ。  
しかしそんなことを考えてる暇はない。  
 
「な、なにやっとるんじゃオノレはーッ!!」  
つい日本語で叫んでしまっていた。背後でおばさんがびっくりしていた。  
 
キャシアスがこちらを振りむいた。やっちまった。表情がそう言っていた。  
「ば、」  
馬鹿者、と叫ぼうかとしたとき、家の奥から女中が、続いて子供が現れた。  
「か、」  
清五郎がその姿を認めると、叫びは途切れて続かなかった。  
 
間違いない。娘のゆかりだ。  
清五郎は女中の制服に身を包んだ娘を見て、体が動かなくなった。  
女中をやらされている、そのことは確かに屈辱的ではある、が、とにかく行方不明だった  
ゆかりが生きてくれていたこと、その喜びが清五郎の身体を包んで麻痺させた。  
 
「あんた、ゆかりちゃんのお父さんかね?  
事情は良くわからないが、出てかないとまずいんじゃないかい?」  
なんだか震えている清五郎におばさんは語りかけた。  
 
はっ、そうだった。  
娘の無事を確認した感動で今の状況をすっかり忘れていた。  
気がつけば、子供の泣き声が大きく響いている。状況は更に悪くなっているようだ。  
 
「ゆかり――!」  
清五郎は娘の名を呼び駆け出した。  
これで無事にゆかりを連れて帰れる。何があったかは知らないが、とにもかくにも  
元気そうで良かった。何よりだ。交渉も無事に終わった。さあ日本に帰ろう。  
そうだ、その前に二人でロンドンの街でも観光に行こう。きっと楽しい。  
 
しかし次に清五郎の目に入ってきたのは、空中で逆立ちをしている家庭教師キャシアスの  
姿だった。  
 
「……は?」  
 
 
 
 

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