曇りがちなロンドンにしては珍しく、今日は目の覚めるような快晴であった。
青い空はロンドン市民の頭上に広がり、二つ残った白い雲が控えめに浮かんでいる。
そのロンドンの空の下、ダーヴァレイ家は今日もいつも通りだ。
ゆかりは白磁のティーカップに熱い茶を注いだ。白いカップに紅茶の赤色が美しい。
ベルおばさん特製のスコーンを添えてテーブルの上に静かに置く。
「先生、お茶が入りました。どうぞ」
先刻から紅茶の香りに気がついていたマーロットは、その言葉を待ちわびていたかのように
笑顔を見せ、縦横にしわの刻み込まれた手をティーカップに伸ばした。
「おお、ありがとう……うん、実にうまい。五臓六腑に染み渡るわい」
そう言ってマーロットは、ひげの間から熱気のこもったため息を吐いた。
「そんな大げさな……ユカリ、ぼくにもちょうだい」
ノートに向かっていたティムもその手を止め、紅茶を受け取った。
マーロットの紅茶と違い、ティムのものには牛乳が入れてあり、その色は優しい駱駝色である。
舌ざわりはあくまでもまろやか。しかし丁寧に煎れられた紅茶は優雅な香りを損なわない。
「うぅん……ユカリはお茶を煎れるごとに煎れるのが上手になってゆくね」
ティムは目を細めてゆっくりと一口目を味うと、一度カップをソーサー上に置き、
ゆかりの技術の向上を褒めた。
「ありがとうございます」
振り向くと、ゆかりは満面の笑みを見せた。
褒められた事が素直に嬉しいのだ。
「さいしょのはひどかったもんねえ……はっぱがカップの中をおよいでたんだもん」
「坊ちゃま……あれはもう忘れてください。今はもう茶こしの使い方も覚えました」
ユカリがばつ悪そうに答えると、ジョンのやかましい笑い声が響いた。
「だっはっは、なんだ、そんなことがあったのか。それはぜひ飲んでみたかったな!」
「旦那様…ご冗談はよしてください」
困った顔を浮かべながらユカリはジョンに紅茶を手渡す。いつもはジョンがこの時間に
家にいることなど考えられないことなのだが、「きょうはあと書類仕事だけだから」
ということで、家で仕事をしているのだ。
仕事机などこの家にはないので、ジョンはティムが勉強するのと同じ机で仕事をしていた。
ティムの側に比べて、ジョンの側にはさまざまな書類や資料が散乱しており、
マーロットはその様子を見て嘆息した。
「ダーヴァレイ君……仕事の方は、忙しそうじゃな」
「ええまあ、おかげ様で」
「ふむ、仕事も良いが、たまには今日のようにティム坊と一緒にいる時間も作って
やりなさい……子供はなにより、親と一緒にいる時間が好きなんじゃから」
「はあ、ごもっともです」
「坊ちゃま」
ユカリがティムの耳元で囁く。
「なんだいユカリ」
「あの二人って、どういった関係なんですか?」
「……ぼくにもよくわからないんだけど、なんでもパブでしりあったらしいんだ。
『なんだか意気投合した爺さんの話をよく聞いてみたら、偉い先生だったからお前の
家庭教師、頼んどいたぞー!』ってことだけ……」
「またそんないい加減な……」
「パパらしい、でしょう」
ユカリは声を出さずに苦笑した。
「それにキミ、一度言おうとおもっとったのじゃが、ユカリちゃんのことは一体どうする
つもりなんじゃね」
マーロットの口から自分の話が出てきたので、ゆかりは二人の会話に加わった。
口をはさむことはしないが、身体を二人の方に向け、じっと話を聞いている。
「ええ……ですが身元が分からないことにはなんとも……」
「ふむ、それなんじゃが、どうやらお前さんの予測どおり日本の条約改正交渉団の
どなたかの関係者である可能性が高いと思うぞ」
「え、先生、それはどうゆう……」
マーロットはシェイクスピアの一件をジョンに説明した。
ジョンは信じられないと言うような目でゆかりをすこし見つめると、またマーロットに
視線を戻した。
「そうですか……なるほど、ですが、なぜ何もニュースにならないのでしょう?
正式な外交使節の関係者が姿を消したとなれば、ニュースになってしかるべきでしょう」
「うむ……そこなんじゃが……」
「それに、ユカリちゃんが記憶喪失になってしまっているとその日本人たちに知れたら……」
「ううむ、まずいことになるかもしれんのう……交渉がわが国に不利になるような……」
ジョンはもしそうなったときの状況を予想して恐しくなった。
頭の中に新聞の一面トップが想像された。
【『ダーヴァレイ家具店』店主逮捕!日本使節の娘を記憶喪失にして誘拐!!】
【日本使節団激怒「このような犯罪国家に対応するためには、露西亜、仏蘭西などとの
二国間交渉も考える」】
【ダーヴァレイ家具店倒産!元店主、一家心中を図る】
間違いなく、うちは非難の矢面に立ち、店は潰れてしまうだろう。
「こ、こりゃやばい」
ジョンは顔を青くした。
「先生、ど、どうしましょう……」
「うむ、それなんじゃが、こんどわしの方から……」
不意に扉を叩く音が響いた。
ジョンは驚いて跳びあがった。
「まさか……」
嫌な予感がした。
「はーい」
ゆかりが返事をし、玄関に出迎えに行こうとしたが、ジョンがそれを遮った。
「ああ、いい、いい、ユカリちゃん、おれが出る」
「え、しかし……」
「いいんだ、君は少し、部屋の奥にいてくれ」
ジョンはこわばった顔でそう言った。ゆかりはそれに従うことにした。
ジョンは恐る恐る扉を開けた。立っているのは痩せ型でひょろ長い印象の青年であった。
「……どちら様で?」
ジョンは思い切り凄んでそういったが、青年は唇を吊り上げて笑うだけだった。
嫌らしい笑みだ。ジョンはそう感じて、冷や汗を流した。
ジョンの持つ野性の勘が、こいつは敵だとそう言っていた。
痩せ型の青年は、家主の発する凄みを気にすることなく、ゆっくりと言った。
「……お宅で、日本人のメイドを雇っているでしょう。ユカリ・タムラという名前の。
その事について、少しお話があります」
そう言って、自分を紳士に見せたいためか、青年は何とか笑みを浮かべようとしている
ようだった。
しかしそんな笑い方をする奴はろくなことを考えてないんだ、ジョンはそう思った。
脅迫、されているのかもしれない。どこからかユカリちゃんの情報をつかんで、
いま、事業が上り調子のうちから金を巻き上げようと――。
警察に言うわけにもいかない。ジョンは最善策を探し、思考を脳内に駆け巡らせた。
「……てめえ、俺を脅迫する気か」
「え、いやそういうことでは――」
青年が弁明しようと口を開いた瞬間、青年の顔にジョンの大きな握りこぶしがすっとんでいった。
ジョンの思考が出した一番の解決策は「こいつをぶん殴ってなかったことにする」だった。
こぶしが背中に隠れるほど振りかぶり、腰の力を十二分に乗せて、大きく円を描くように
青年の顔にこぶしを放った。重い家具を毎日運んでいるのだ、
握力と背筋力には少なくない自信がある。
自慢じゃないがこれを食らって立ち上がった奴は今のところいない。
青年が答えようとする隙をついてぶん殴った。
青年は必ず白目をむいてひっくり返るだろう。
そうすればもう二度と、ウチを脅迫しようなどという気は起こらないはずだ。
「!?」
しかしジョンの分厚いこぶしに手ごたえは無かった。目に映ったのは石畳の風景である。
「…っぶないなー、もう」
自分の体の間近、ふところから声がした。
避けられた。ジョンがそれに気付き視線を下に移そうとしたとき、あごに何かが当たった。
なんだ、何が当たったんだ。それを判断する前に、なぜか青年の背が伸びた。
確かに痩せ型で背は高かったが、こんなにも見上げていいはずが無い。
これでは青年の身長は軽く2メートル半はある。
ジョンはそうして初めて自分が地面に膝をついていることを悟った。
「ばかな――」
立ち上がろうとしたが、膝が笑って言うことを聞かない。
ジョンはそのまま仰向けに倒れてしまった。意識が無いわけではない。
青い空がよく見える。しかし立ち上がれない。空がぐるぐると回った。
「きゃっ、ダーヴァレイさん!」
青年――キャシアスは、背後から割と年のいった感じの女の声を聞いた。
振り向くと、清五郎とどこかの主婦が目を丸くしていた。
しまった、やっちまった。
目で清五郎にそう訴える。
「――――!」
清五郎が何事か言おうとしたとき、玄関の奥から物音が聞こえた。
「旦那様?」
若い女の声だ。
姿を現した少女は、黒髪で利発そうな顔立ちの、東洋人。
間違いなくユカリであった。
「ミス・ユカリ!」
キャシアスは元教え子の少女に声を掛けた。
しかしゆかりはキャシアスに怪訝な表情を見せ、そして地面に横たわるダーヴァレイの姿を
認めると、黒い瞳を大きく見開いた。
「ユカリ……どうしたの?」
いたたまれなくなったティムも様子を見に玄関に現れた。
心配そうにゆかりを見つめている。
「わっ!」
玄関先に大きな人影が倒れているのにまず驚き、声を上げた。
その正体が自分の父親であると理解すると、ティムは駆け寄り体を揺すった。
「パパ、パパ!どうしたの!!大丈夫!?」
「う……ティムか……」
ダーヴァレイはどうにか首を回して、ティムの姿を視野に入れる。
「なに……大丈夫だ」
ティムは、きっ、とキャシアスを見上げ、睨みつけた。
しかしキャシアスには、小さすぎて視界に入らないのか、ティムを完全に無視し、
ユカリの方に話しかけた。
「さあ、ミス・ユカリ、もうこの家にいる必要はないんです。お父さんも待っています、帰りましょう」
キャシアスは精一杯冷静を装い、ゆかりに話しかける。
しかしゆかりはそれに応えず、ただ口に手を当てて青ざめた顔をしていた。
「ミス・ユカリ……?私です、家庭教師としてあなたのお父さんに雇われた――」
ゆかりは全くキャシアスの言葉に反応しようとはしない。
「ミス・ユカリ――?」
キャシアスはゆかりに手を伸ばした。
しかしその手は、小さな手によって払われた。
「やめろ!――なんだよお前……!パパにこんなひどいことして……!!
それで、ユカリをどこかにつれていこうっていうのか!!
ぜったいに、そんなこと、させるもんか……!!この……ひとでなし……!」
ティムは立ち上がって両手を目いっぱい広げ、ゆかりとキャシアスの間に仁王立ちになった。
両目には涙が今にも溢れんばかりにたまり、下睫毛がなんとか決壊を防いでいた。
足は振るえ、まともに立っていられる気がしない。しかし今、無理してでも立っていなければ、
ゆかりは連れ去られてしまうだろう。状況が良く飲み込めないティムにも、それだけはわかった。
父は足元で寝転がっている。
今ゆかりを守れるのは自分しかいないんだ。
その思いだけがティム・ダーヴァレイの小さな体を支えていた。
おもしろくない。
そう思ったのは人でなし呼ばわりされたキャシアスである。
元はと言えばそっちが先に手を出してきたのだ。こっちは仕方なく応戦した。
そうだ、これは正当防衛じゃないか。素人に手を出してしまった罪悪感で気付かなかったが、
そうだった、あの状況なら正当防衛といえるじゃないか。
何故ここまで悪し様に罵られなければならないんだ。
そう考えると、なんだか腹が立ってきた。
「あのなあ坊主、そういうことはもっと度胸がついてからやるんだな。
どうだ、膝がガクガクと震えているじゃないか」
キャシアスはティムに目線をあわせ、こぶしを握ると、ティムのひたいを小さくこづいた。
ティムはあっけなくうしろに倒れ、しりもちをついてしまう。
簡単に倒された悔しさと恥ずかしさからか、数秒後、ティムは堰を切ったように泣き出した。
両目から涙が溢れ、口からは感情の奔流が、泣き声となって吐き出された。
ティムは自分が泣き出してしまったことに気付いた。
それも無様にしりもちをついて。
自分がユカリを守らなければならないのに。
かっこわるい。
泣きやめない。
何とかして泣き止んで、再び立ち上がりたいのに。
大きい痛みを与えられたわけじゃない。
しかし立ち上がれない。足も手も言うことを聞かない。
この腰を、冷たい地面から離すことができない。
それが悲しくて悔しいから、泣くことがやめられない。
「……じゃあ、ミス・ユカリ……」
キャシアスはきまり悪そうに後頭部を掻きながら、ゆかりに話しかけた。
子供をこんなに泣かせるのは、自分がやったこととは言え、あまり好きではない。
「……をする……」
「え」
キャシアスは初めて喋ったユカリの言葉を聞き逃した。
「……何を、する……」
しかしゆかりはぼそぼそと小さく喋って要領を得ない。
こんなに大声で泣かれてしまってはじきに人も集まってくるだろう。
キャシアスは真正面から、ゆかりの肩に手をかけた。
ぶわ。
キャシアスは不意に全身が総毛立つような感覚に襲われた。
筋肉がこわばる、神経が尖る、すべての感覚器官が総動員される。
高い崖から滑り落ちるような、恐ろしくも気持ちいいような感覚。
この感覚はつい最近――昨日、味わった感覚だ。
清五郎が放った、圧倒的質量の殺気。
それを目の前の少女が発している。
そうだ、この娘はあの清五郎の娘なのだ、それをキャシアスは思い出した。
「ミス・ユカリ、とりあえずここを離れよ」
「う」
言葉の途中で、ユカリの姿が掻き消えた。
ゆかりの肩に伸ばしていた腕が前に引っ張られ、体が宙に浮かぶ。
次にキャシアスが目にしたのは、逆さになった世界の中でこちらに向かって走ってくる
清五郎の姿であった。
瞬間、キャシアスの肺からすべての空気が吐き出された。
少し遅れて全身に激痛が走った。
何とか目を開けると、目に映ったものは、逆光の中のユカリの顔であった。
背中に当たっている硬いものは、恐らくは地面であろう。
しかしなぜ地面がこんなところに――
キャシアスは再び思い出した。この娘があの清五郎の実娘であること。
そして田村家の家訓に「文武両道」というのがある、と清五郎が言っていたこと。
そしてユカリは、「文」については素晴らしい才能を持っていたこと。
では「武」については――?ゆかりが失踪する前にそう聞いてみればよかったと、
キャシアスは後悔した。いまだ、自身が何をされたか理解していなかったのだ。
投げられた。
そう理解できる前に、キャシアスの意識は失われた。
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一体どういうことなのか、旦那様は目の前の青年に殴り倒されたようだ。
それも青年はなにか自分のことを知っているふうだ。
しかし全く事情が分からない。
「お父様のところに帰ろう」と、この人は言った。
この人は自分の父のことを知っているのだろうか。
しかし一体何故に旦那様はこの人に殴り倒されなければならなくなったのか。
わからない。
「やめろ!――なんだよお前……!パパにこんなひどいことして……!!
それで、ユカリをどこかにつれていこうっていうのか!!
ぜったいに、そんなこと、させるもんか……!!この……ひとでなし……!」
坊ちゃまが私の前に立って言った。
でも、すぐに倒されて、泣き出してしまった。
なにかが、はじけたようなきがした。
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「何をする」
自分でははっきりとそう言ったつもりだったが、この男には聞こえていないようだ。
「坊ちゃまと旦那様に、何をする、と言っているのだ」
いまだ聞き取れない様子だ。
なんという愚鈍な男だろうか、実にもどかしい。
体を熱い何かが暴れまわっている。
だめだ、坊ちゃまを泣かせたこの男を、許せる気がしない。
熱い何かはスピードを増し、体が破裂しそうにになる。
男は無遠慮に肩に手をかけてきた。
触れるな。
体の中を暴れていた何かが、急に喋りだした。
「その手を左手でつかんで」
言われるがままに体が動く。
「そうしたら右手は襟をつかんで、肘を相手の脇にさしこむの。同時に膝を沈めて」
大丈夫、ここまでやったら体が思い出した。
後は相手の体を前に引き出して、膝のばねを使って――――
「一気に、跳ね上げる!」
体の動きと声がシンクロした。
男はきれいに浮き上がり、目を白黒させている。
そのまま、背中から石畳に叩きつける。
「ふふ……なんだ、覚えてるじゃない。ちゃんと」
声はそれきり消えてしまった。
男がユカリに手をかけたと思った次の瞬間、男の体がふわりと浮き上がった。
なんだ、そう思っていると、次第にそのまま前方向に飛んでいく。
体の後から現れたのは、広がったスカート、そしてその中身だった。
ユカリの足と、そのまま上になだらかに丸みを帯びて行き、おしりのあたりまで丸見えの
白いドロワーズに、シュミーズのすそまで少し見えている。
ユカリ、はしたないよ。
なんだかのんきにそんなことを思った。
ずどん。すごい音がして、段々と時間の流れが元に戻っていった。
ティムは我が目を疑った。
あの小さなユカリが、いくら痩せているとは言え自分より40センチは大きいだろうと
いう大のおとなを、かついで、ぶん投げてしまったのだ。
男はきれいに一回転して、地面に叩きつけられた。
なにしろ涙で風景がにじんでいるのだ。見間違いかもしれない。
そう思って、瞳を両手でごしごしとこすった。
しかし視界が晴れても、目に映った風景は一緒だった。
父親を倒した男が、地面に寝転んで、気を失っている。
「ユカリ……?」
ふわり、とスカートのすそが戻った。
ゆかりは振り向くと、ティムのそばに駆け寄り尋ねた。
「坊ちゃま、大丈夫ですか!?……ああ、額が赤くなって……」
こづかれた額の真ん中辺りに手を当てる。
やはりあんな大男を投げ飛ばせるとは思えない小さな手だ。
「だ、だいじょうぶだよ……それより、ユカリ、今のは!?」
先ほどまで大量に流れていた涙は驚きでどこかへ行ってしまった。
ゆかりは、すぅ、と息を吸ってから答えた。
「今のは講道館柔道、相手の懐に飛び込んで背負って投げる、
基本にして最大の技、背負い投げです。素早く懐に飛び込めば、
相手には消えたようにも見えます。そして相手の体を崩せば、
ばねのちからだけでも、女の力でも、大の男を投げられるのです。」
「コードーカン……セヲイナゲ……、ユカリ?それって!」
ティムはゆかりの口から聞き慣れない言葉を聞いた。
それはゆかりの以前の記憶のうちにある単語に違いなかった。
「ええ……こう、急に、思い出したみたいです」
「ユカリ……」
ティムが呟くように名前を呼ぶと、男が駆け寄ってきて、ゆかりに抱きついた。
「ゆーーーーーーーーかーーーーーーーーーーりーーーーーーーーーーー」
抱きついた男は、そのままゆかりに頬摺りする。
「…………!!」
いきなり抱きつかれたゆかりは、一体何がなんだか分からない。
顔を紅潮させ、息を短く吐いたかと思うと
「えいっ」
男の体が宙に舞っていた。
男は地面に投げつけられる刹那、ぱん、と地面を叩き、起き上がる。
見事な前周り受身である。
「ふ、キレがいまいちだ。鍛錬を怠っていたな、ゆかり」
男は佇まいを直しながら、ゆかりに向け笑顔を見せた。
当のゆかりは一体何のことかわからないといった様子で立ち尽くしている。
「どうした、まさか父の顔を忘れたわけではあるまい」
清五郎はダーヴァレイの体を起こし介抱すると、キャシアスの背中に回り気合を入れる。
「ふん!」
「…う……」
気付けなどお手の物と言わんばかりの、随分慣れた様子でキャシアスの意識を回復させる。
「……あの、そのことについてお話したいことがあるんですが……」
ジョンがよろよろと清五郎に近付いて話しかけた。
「話?……一体、どういうことです?」
清五郎は片眉だけを上げ、聞き返した。
「おうい、いつまで外におるんじゃ、はよう戻ってこんかい」
中からマーロットが紅茶を片手に現れた。
今までの騒動などまったく意に介してない様子である。
「先生……ずっと家の中にいたんですか」
ジョンが呆れたような声を出す。
「だってわしそういう荒事は苦手じゃもの」
マーロットはそう言うと、音を立てて紅茶をすすった。
「……なるほど、そういう理由で、あなた方がゆかりを保護してくれていた、と」
清五郎は紅茶に手をつけず、ダーヴァレイの話に聞き入っていた。
清五郎はちらりとゆかりを見た。
「……ゆかり」
「……はい」
「ほんとうに、父がわからないのか……?」
「……すみません」
「あやまら、ないでくれ……」
清五郎はいきなり机に突っ伏して、動かなくなってしまった。
いきなりの行動に一同は驚いてしまう。
よく様子を窺うと、時折、袖の隙間から嗚咽が聞こえてくる。
「セイゴローさん、なんと言っていいか……」
ジョンが清五郎を慰めようと、声をかけた。
すると清五郎は、ばっ、と顔を上げ、
「ミスター・ジョン・ダーヴァレイ」
ジョンの名を呼んだ。
「不躾な願いではありますが、しばらくこのまま娘をこの家に置いてやってはくれませんか」
涙の跡も隠さずにそう言った。
「娘は、親の私が言うのもなんですが、女だてらに日本をしょって立てる人物でありました」
しかし、と清五郎続けて
「しかし、日本語も満足に思い出せない今の様子では、今日本に帰っても仕方ありますまい。
それになぜか、そちらの坊ちゃんと一緒にいるときに、記憶は蘇りやすいようだ。
坊ちゃん、あなたがキャシアスに立ち向かったときの表情、忘れますまい」
清五郎はじっとティムの瞳を見つめた。
深い青の瞳に吸い込まれそうになる。
しばらく話をした後に、
「……では、私はこれで。まだ仕事もありますので」
清五郎はおもむろに立ち上がり、家を後にしようとする。
「ゆかり」
玄関で娘の名を呼び、再び抱きしめる。
今度はゆかりも投げ飛ばしはしない。
「ゆかり」
「はい」
「いいか、この世界一の帝国の文物を深く学び、よく習え。
そしていつの秘か記憶がすべて戻ったら、日本に帰ってきてくれ。
どうか、帰ってきてくれ。……頼む」
ゆかりは、きっとそうします、と答えて、自分の記憶にはない父を見送った。
夕暮れに染まるロンドンの街は、怖いくらいに美しかった。
「ユカリ……本当によかったの?」
すっかり陽も落ち、暗くなった室内のランプに火を灯しているゆかりに、ティムがそう尋ねた。
「ええ……確かに、あの方がお父さんというのは、何となくなんですが、分かる気がします。
きっとあの方の言ったことはすべて本当なのでしょう。ですが……」
「ですが?」
「…………」
「?」
「いえ、なんでも、ありません」
ゆかりは結局答えをはぐらかすと、はにかんだような笑みを見せた。
ランプの明かりに照らされたその笑顔は、不思議なまでに美しかった。
ティムはとりあえずユカリが連れて帰られなくてほっとしていた。
ジョンはとりあえず嘘がばれなくてほっとしていた。
ゆかりは次の日からもいつもと変わらない様子で働いている。
ユカリと居ると、退屈だけはしなさそうだ。ティムはそう思って、一人静かに笑った。