うちのメイドは14才「女中少女倫敦危機一髪」
人気輸入家具店を営むジョン・ダーヴァレイは新聞――今来たばかりの朝刊――の
三面をめくり呟いた。
「日本人の尋ね人は……無しか。」
ふう、とため息をついて紅色の茶が入ったティーカップに手を伸ばす。
近頃は一面よりも先に尋ね人の欄を先に読むのがすっかり習慣になってしまった。
丸パンとぐじゃぐじゃに焼いたスクランブルエッグ――毎朝変わらない朝食――
を一口ずつかじって自分にとってのニュース価値は三面の尋ね人欄より小さい一面に
目をやる。やはり特にどうと言うニュースもない。
「さぁっ……と、そろそろ仕事に行くかぁ。」
空になった皿とティーカップを前に、大きく伸びをして立ち上がり慣れた手つきで
食事の後片付けをする。
住み込みのメイドを雇っているとは言え、今の時間から働かせるには少々気の毒である。
それにそのメイドは本当のメイドとは――下層階級かどうかという意味でも――
少し違う可能性がある。
「すぐに何か情報が出ると思ったんだがなあ……。どういうことだろう。」
若さの割には量の多い自慢の口ひげに手をやりつつ首をかしげる。
数秒考えこむが何の情報もない以上、確たる答えは出ない。
「まあ……なるようになるかぁ。」
楽天家の結論はいつもこうだ。
「行ってきます、ティム。」
すやすやと寝息を立てている息子のティムの頬に軽くキスをして、音のしないように
気をつけて扉を閉める。クローゼット兼使用人部屋の扉を横目に一階に降り玄関を出ると、
朝のロンドンは白いもやに包まれ、眼前は真っ白で通りの向かい側の家も見えない。
「24時間働けますか、と」
ジョンはぽつりと気合を入れて、今日も仕事に出かけていった。
時間が経ち朝の光が強くなると太陽は朝もやをかき消し、日光はすべての家屋へと
降り注がれていく。他のすべての家屋同様、日光は窓からこのティム・
ダーヴァレイの寝室へも差し込んできた。
光が古オークの床を侵食し、じわじわその範囲を広げベッドに到達し、
徐々にシーツを白く煌かせた。
一定のペースで朝の進攻は続き、その日光が自分の目に入るか入らないかのところで、
小さな身体を一度ぴくりと動かし、ティムは目を覚ました。
「ああっ……ふぁ……あああっ……と。」
子供は反応が早い。一度あくびをするともう身体は臨戦態勢で、がばっと起き上がり
シーツをずばっと跳ね除け、だだだっと階下へ降りていった。
一階にはいつも通り机の上に父親が用意した朝食――いつも通りにパンと
スクランブルエッグだろう――が置いてあった。
そしてこれもいつも通り、父の姿はもうなかった。
「また、見送りできなかったな……。」
ティムは肩を落とし、自らの安眠を悔いる。今日こそ父と共に朝食を取り、
朝早く仕事へ出かけていく父の見送りをしようと思っていたのだが。
「ふぅ……明日は、今日よりはやく起きよう。」
朝食の皿の上に掛けておいてある新聞紙を手に取り、広げる。
ばさばさとめくり尋ね人欄を探す。ティムも父と同様、尋ね人欄には気を配っていた。
他の記事はまだよくわからないのだが。
「今日も何もない……ね。」
それだけわかると、ばさりと椅子の上に投げ置いた。
やはり朝食はいつもと同じものであった。味気ないパンと塩味だけのスクランブル・
エッグ。せめてここにもう一品、簡単なスープでもあればもう少しこの食卓も華やぐ
だろうに。とは言えもちろん自分では作れない。腕のいいコックがいたならば簡単な
スープぐらい簡単に――正に朝飯前だと言わんばかりに――作ってしまうだろうが
ここにはそんなしゃらくさいコックはいないのでどうしようもない。
「でもメイドはいるんだけどなぁ……。」
と呟いて天井を見上げる。薄いシミがひとつふたつみっつ。特に何の物音もしない。
「ふつうメイドっていちばんはやく起きるものだよねえ……。」
今日も彼女を起こすのは自分の役目になりそうだ。と思いティムは、ふぅ、と
小さな息を吐き出した。
(押し入れ兼使用人部屋)
という父親お手製のプレートがぶらさがった扉の前でティムは立ち止まり、
こんこん、と小さく2回ノックをした。
「ユカリー、朝だよー。」
が、予想通り返事はない。
どんどん、と大きくノックしてもやはり返事はない。
どがんどがん、小さなこぶしを力の限り扉にぶつける。
かたかたとプレートが揺れるだけで部屋からは何の反応もない。
「ユカリ!入るよ!」
がちゃり、ノブを回し中に入る。押し入れも兼ねているだけあって、
部屋の窓は小さく、部屋全体が暗くほこりっぽい。小さな窓から入ってくる太陽光線に
空気中の埃が反射して空間上に道を作っていた。
掃除用具や大小とりそろえた木箱を壁に押し付け、部屋の真ん中にあるベッド
――同じ大きさの木箱を並べた上に布団を敷いたもの――の上で、ユカリは幸せそうに
寝息をたてていた。
なぜか足音で起こしてしまうのはかわいそうな気がして、そろそろと床を鳴らさないよう
に気をつけてユカリの寝ているベッドまで近付く。
「ユカリ、朝だよ。」
ティムは枕元で囁くが、何の反応も見せない。
「ユカリ、起きてよ、朝だってば。」
語調を強くするがユカリの黒い睫毛は上下重なったままである。
「ユゥカリィ!朝だぞー!」
力いっぱい叫んでもその小さな鼻の鳴らす寝息は一定であった。
「ああもう……ユカリってばー」
身体を揺らし名前を呼ぶが起きない。まったくこの娘のどこにそんな図太さがあるの
であろうか、何をしようとまったく動じない。
「ええいっ……」
ティムは一気にユカリの身体をまたぎ馬乗りになり、
「ユカリ、そろそろ起きなよ!ユカリったら!」
ゆかりの両肩を揺らす。木箱がきしきし言った。
「……ん……んん……」
ゆかりがティムの体の下で寝返りを打つ。ゆかりの体がちょうど正面を向いたとき
まぶたがぴくぴくっと動いた。
「ユカリ!おはよう!」
「ん……タロウ……?」
「だれだよタロウって……僕だよ、ティムだよ。」
「……あぁ……ぼっちゃま……」
何とかまぶたを持ち上げ、のしかかっているものを認識する。が、
「……おはよう……ございま」
すぅ、と寝息を立て、再び眠りの世界へと帰っていってしまった。
二人の会話は実際には英語なので、
「……グッ……モーニン」
ぐぅ、と寝息を立てたのかもしらないがまあそれはどうでもいい。
「ユカリ!起きようよ!朝だってば!」
ティムは挫けずにゆかりを起こそうとするが、ゆかりのまぶたは頑なに閉じられている。
「……はあ、もう、ここまでしてるのになんで起きないんだよ……」
ティムは肩を落とし、ゆかりの寝顔に視線を向ける。
安らかな寝顔、この形容が実にしっくりくるのは、こころなしか微笑んでいるように
見える口元のせいかもしれない。
自分が黙ると、すぅ、すぅ、という小さな寝息が確かに聞こえる。
「……まったく、幸せそうな顔しちゃってさ。世のメイドが見たら叱り付けられる……
よ……ふぁ、ああ、ああ……ああ、なんか眠いのが……うつってきちゃった。」
時間が経つにつれ気温は緩み、ここちよい具合になってきていた。
程よい気温、薄暗い部屋、柔らかな布団、幸せそうな寝顔、これらのさまざまな環境が
ティムの小さい脳を睡眠モードに移行させた。
「ちょっと……おじゃま……するよ……」
ティムは足をどかし、もぞもぞとゆかりの隣にもぐりこんだ。
「…ん……」
ゆかりは無意識のうちに応え、ティムのためにスペースを作る。
ティムはゆかりと向かい合わせになり、背を丸める。
触れていないのに体温が伝わってくる。さっきは微かだったゆかりの寝息が
はっきりと聞こえる。薄目を開けると間近にゆかりの寝顔がある。
すう、すう、という寝息で、ぱら、と前髪が少し垂れた。
「…ユカリは……ほんとに……幸せそうに……寝る、ね……ぁ、ふぁああ、あ……」
ティムは小さな口で大きく欠伸をして、口とまぶたはほとんど同時に閉じられた。
どちらがどちらの手を握ったのかはわからないが――あるいは互いの無意識によって――
二人の手は握り合わされ、互いに伝わるあたたかな体温と安心感は、二人の安眠に
一役も二役も買った。
おかげで少し寝すぎてしまったようだ。
「あらあらあら、まあまあまあ!下に誰もいないと思ったら随分と仲のいいこと!
まるで子猫の姉弟ね!」
日も高く上り明るくなってきた頃、部屋に甲高い声が響いた。
「はいはいはい、起きる起きる!」
恰幅のいいおばさんは二人の寝るベッドから掛け布団を勢いよく剥ぎ取ってしまう。
急に外気に触れた二人は揃ってぶるるっと震えた。
「ふぁ、ああ……やぁベルおばさん……おはよう。」
先に来訪者に気付いたのはティムだった。ベッドの上で身体を起こし伸びをする。
「おはようじゃないわよティムちゃん。何でまたこんなところで寝てるの。」
腰に手を当て半ば呆れ気味にたしなめる。
ベルはダーヴァレイ家のお隣さんで、これまで細々した家事やティムの面倒を
見てくれていた。ジョンとは長い付き合いで、ティムが生まれて母親が
すぐ死んでしまった後などは、ベルに母乳を分けてもらったのだった。
「ああ……たしかユカリを起こそうとして……わっ、おばさん!いま何時!」
「もう十時を回ってますよ。早くしないと家庭教師の先生がいらっしゃるわよ。」
「十時……げっ、ラテン語の宿題やってないよ!うわぁ、朝やろうと思ってたのに!」
「その考えが大体の間違いの元ですよ。ほら、早く顔を洗ってらっしゃい!」
と言った頃にはティムはもう階段を駆け下りていっていた。
一方ユカリは布団を剥ぎ取られながらもまだ眠り続けていた。
「まったく……この娘はほんとに……」
いまだ覚醒を拒むゆかりを起こそうとベルはゆかりの顔に手を伸ばした。が、
「涙……」
ゆかりの頬に一筋の涙が流れ、触れるのが一瞬躊躇された。
悲しい夢でも見ているのだろうか、涙は次々と溢れ、止まらない。
「ユカリちゃん……ユカリちゃん……?」
心配になり、ユカリのなで肩を軽く揺らす。三度目の呼びかけでユカリの目が覚めた。
「……あ、ベルおばさん……おはようございます……。」
丸く黒い瞳に涙がなみなみと溜まっていて、今にも零れ落ちそうだ。
「ユカリちゃん、怖い夢でも見てたの?泣いていたわよ。」
「いえ、違うんです。今、みんなが……」
「皆が?」
「…………。」
「ユカリちゃん?」
「…………ぐぅ……」
「……早く顔を洗ってらっしゃいっ!」
ベルの怒号がびりびりと部屋中に響き、ようやくゆかりの頭脳も起きることが出来た。
一階では、パンと卵を詰め込みながらなにやら必死でノートに書き連ねている
ティムの姿が目に入った。
顔を洗い、洗面器に水を汲んで2階へ運び、ベルに急かされながら体の清拭をする。
清拭がすむと新しい下着をつけ、黒一色のドレスを着る。そして襟カラーをつけ、
エプロンに袖を通し、メイドキャップをつける。
仕上げにリボンを結べば立派なメイド一人前の完成だ。
「着替えたらおいでよー。」
部屋の外からベルが呼ぶと、すぐに中からゆかりが現れた。ベルはじろっと
ゆかりを眺め、写真家や画家がやるように指で枠をつくりその中にゆかりの姿を入れ、
「うん、かわいいかわいい。袖の長さもぴったりだし」
と最後に自分の詰めた袖のことも忘れずに、ゆかりのメイド服姿を褒めるのが日課に
なっていた。
「じゃあもう時間がないから、早く洗濯しちゃおう。洗濯物、持ってきて。」
ベルはゆかりの指導者でもあった。ゆかりにメイドの仕事――家事一般とも言えるかもしれない――
を教えているのだった。
「今日のはこれだけ?」
「はい、ベルさんのところは?」
「うちのもそんなに多くないから、一緒にやっちゃおう!」
「はい!」
大きなブリキのたらいに水を張り、石鹸を少々いれる。そこに洗濯物をぶっこみ
ぎゅうぎゅう押し付けたりごしごしこすったりざぶざぶ流したりしてきれいになったらば
力の限り絞り上げ、しわを伸ばして干しておく。あとはお日様の仕事である。
書いてしまえばわずか三行の仕事であるが、これがなかなかに重労働で、
終わると肩に三キロぐらいのしかかっているように感じる。
三キロの重みに何十年も耐えてきたベルは何十年もそうしてきたように、
ひと仕事終わった快感を深く味わうよう深呼吸した。埃っぽいロンドンの空気で
あっても、このときばかりは最高の味である。
三キロの重みにはまだあまり慣れてないゆかりだったが、その分新鮮な快感を
その胸に吸いこんで、大きく吐いた。
「さあ、ここはこれでもういいから、先生に出すお茶の準備でもしておくれ。」
「はいっ」
めくり上げていた袖を下ろし、いそいそと階下へ降りていく。ゆかりの足が階段を
踏むのにあわせて黒く重いスカートのすそがひらひらふわふわ小さく泳いだ。
階段を下りるとティムはまだ一心にノートに向かっていた。
「ぼっちゃま……まだ宿題を終わらせてないのですか。すぐに先生がおいでに
なりますよ。」
「あああ静かにしてよもうすぐで終わるんだ!あと、あと少しで!」
ごんごん。
「…………、坊ちゃま。」
「…………。」
ごんごん。
「坊ちゃま。」
「…………。」
ごんごんごん。
「先生がおいでになったようですが。」
「…………うん。」
「いかがいたしましょう。」
「……世間話でもしてて……できるだけゆっくり……。」
「了解」
ごんごんごん。これはノックの音である。
「はーい只今」
扉を開けるとそこに立っていたのは豊かな白髭を蓄えた老紳士であった。
「すいません先生、洗い場にいたものですから。」
ゆかりは手を前で組み、軽く会釈をする。
「おお、おお、ユカリちゃん。おはよう。」
老紳士は出迎えが遅れたことは意に介してない様子で長い眉毛の下からゆかりを見つめる。
「うん……よく、働いているようだね。いいことだ……。人は、よく働き、
よく学ばなければならん。それは人に課せられた義務であるし、本来義務を
果たすことは快感を伴うものなのじゃ。主はこう仰っている『神聖なものを
犬に与えてはならず、また、真珠を豚になげてはならない』つまり……」
「ええ、ええ。よくわかります。猫に小判、豚に真珠、糠に釘、
馬耳東風、馬鈴薯麺、多くの格言があります。」
これは思わずとも作戦通りだわ、と内心思っていることはおくびにも出さず
ゆかりは適当に話をあわせた。
「おお、さすがユカリちゃん、出来の悪い小僧とは一味違うわい。」
ふぉふぉふぉ、と白ひげの奥から笑い声が漏れた。
「だーれが出来の悪い小僧ですか。」
「坊ちゃま!」
宿題はもう終わったのですか、と目でたずねるとティムは小さく頷いた。
「なんじゃティム坊、おったのか。」
「そりゃいるさ、ここはボクのうちだからね」
マーロットは髭をひとさすりしてから
「ふむ、その論理は矛盾があるな。所有者の家には必ず所有者がいると仮定すると、
家を留守にしてきておる儂自身が仮定から外れる反例である。よってその論理は成り立たない。証明終了じゃ。」
と言って、かかか、と高笑いを見せた。
「はいはい、わかったから早くはいってよ。ユカリ、お茶お願いね」
「かしこまりました。」
「アッサムのあっついのをな」
横から口をはさむマーロットに
「ええ、承知しております」
ゆかりは慇懃に対応した。
「ひとんちのメイドに自分の好みを仕込まないでよ」
「ふむ、まぁよいではないか。妻にも先立たれた老い先短い老人には、若い子が入れてくれる紅茶が
何よりの楽しみなんじゃよ。」
「いや、婆ちゃん生きてるじゃん。」
「……」
「こないだ先生の忘れた教科書を持ってきてくれたじゃん」
「……年をとると物忘れが激しくなってのぅ…」
「自分の奥さんが生きてることぐらいおぼえときなよ老害。」
「……それが教師に対する言葉かね生徒よ。」
「は、何がですか?幻聴ですよ、幻聴。痴呆性の幻聴。」
ティムはニヤニヤと笑みを浮かべる。
「……おりゃ」
マーロットは持っていたステッキで廊下の先を行く失礼な生徒を殴った。
ごつん、といい音がしてティムは前につんのめって振り返った。
「っ!……いてぇっ……くそっ……このっ…」
ゆかりは口元の緩みに気付かれぬよう、静かに玄関の扉を閉めた。
ずっ。
注文どおりアッサムの熱いのをすすりながら、マーロットはティムのノートをめくり目を通した。
前回言い渡したラテン語書き取り百種百回はとりあえずきちんとやってあるようだ。
「ふむ、一応ちゃんと宿題はやってあるようじゃの。感心感心。」
「ははは……まあね」
余裕、とでも言うような態度でいるティムだが、ついさっきまで酷使していた右手は未だ少し震えているのだった。
小さな胸に少しだけ良心の呵責を感じながらティムはミルクティーに口をつけてすすった。
牛乳を紅茶の後から入れるやり方で淹れたミルクティーは葉の香りが死なずに残って、
口内で牛乳のまろやかさを楽しむほどに紅茶の香りも鼻から抜けていく。
ティムはこうして淹れたミルクティーが好きだった。
こんなに和やかに茶など飲んでいられるのも無事に宿題を終えることができたおかげである。
では無事に宿題を終えることができたのは誰のおかげかと言うとそれはやはり自分以外のほかにおらず
これはもう自分で自分をほめてあげていいんじゃないかなあとティムが内心で自らのがんばりを
自賛しているとマーロットが口を開いた。
「ふむ…では始めようか、ティム坊、この、ここのページを読んでごらん」
ティムは差し出された本を受け取り朗々と読み始めた
「『群衆の中から私をよぶのはだれだね……、聞いてやるから返事をしなさい。』
『……三月の十五日には重々御用心なさい』
『あれはなんだ、ブルータス』
『預言者らしきものが、三月の十五日を用心しろと言うのです……』」
ティムはちらりと上目で見ると、マーロットは「続けなさい」と促した。
「『……つれてまいれ、そいつの顔を見てやろう……』
『こら、預言者よ、王の前に出て参れ』
『預言者よ、ほら、わしの前に出てきて見なさい』
『王よ、三月の十五日に気をつけることです……』」
「沙翁物語!」
ゆかりが不意に立ち上がり叫んだ。マーロットは重い眉を吊り上げ、若い頃には好奇心に
何度も丸くした瞳――今は楕円にしかならない――をゆかりに向けた。
ティムは口を半分開けたままで固まってしまった。
「あ……いえ、その本、『沙翁物語』の確か……『ジュリアス・シーザー』というのでは?」
「!」
二人は驚き向き合い、視線でこれは十分に驚くに足るべきことだと確認しあってから
同時にゆかりの方に振り向いた。
「ユカリ!それ……」
ティムは慌てて表紙を確かめる。『シーザー王』赤の地に金の字で確かに刻印されていた。
「ユカリちゃん、それを、どこで……」
マーロットも、ゆかりの事情はジョンから聞かされていた。そしてジョンに、ゆかりにも
ティムと同じに教えることを頼まれていたのだ。
「どこで……ええと……せんせいに……それで、ならって……」
「ふむ、ユカリちゃんは、先生にそれを習った。それから?」
「弟たちに……聞かせたり……」
「すこし、聞かせてくれんかな?」
「ええ……『三月の十五日は來たぞ』
『さやう。併(しか)しまだ過去りはしませんぞ。』
『シーザー、ご機嫌よろしう……此書面をお讀み下さい。』
『ツレボニヤスが願ひをります、御閑に……御閑に……』
……だめです。もう、思い出せません。」
驚いたことにゆかりは、少しの小節ではあるが確かに暗誦したのだった。
マーロットはゆっくりと嘆息して言った
「ふうむ……シェイクスピアの作品が遠く極東の島国にまで知れ渡っていることも驚きじゃが……
ユカリちゃん、今、他に何か思い出したことは無いかね?……そうか……いや、なに、
それだけでも十分じゃ。女子にもこのような教育を受けさせていると言うのか……やっと封建制を
抜け出したような後進国で……まったく、世界は広いわい。しかし、どうやらこれでユカリちゃんの
身元は判明したようじゃな」
「えっ!?」
身元が判明した、その言葉にティムは大きく身を乗り出した。
「恐らく、条約改正交渉団の中に親か血縁者か……何しろ関わりのあるものがおるじゃろう。
進んだヨーロッパ文化を見ることがどれほど現在の日本に役立つか、日本人たちは
良くわかっておるようじゃ。出来る限りの人材に世界を見せておきたいのじゃろうよ。
ユカリちゃんはひょっとしたら日本でとんでもない逸材だったのかも知れんぞ。
記憶を取り戻せないにしても、最初から英語を使っていたんじゃろう?その一事でも……
まったく……地球の裏側にありながらよくぞこのような……。」
まったく感心した、そんな様子でマーロットは大きく息を吐きだし、驚きで持ち上がりっぱなしだった
上まぶたをようやくおろした。
なるほど言われてみればそうかもしれない。たしかにユカリは――かなりつたないながらも――
最初から英語で自分たちと会話をしていた。それが清国の貿易船員の娘であるなどとは
考えづらい。身元がわかった、ではこれからしかるべき対応はどのようであるか。とりあえず
その交渉団に連絡を取ってみる、連絡がついたなら関係者を探し事情を説明し、
引き取ってもらう。
引き取ってもらう、考えがそれにたどり着くと、ティムは自分の喉がきゅうっと締まり
痛くなるのを感じた。いやだ。なにかこの結論に抗う事由は無いだろうか、無意識のような
速さでティムは考えをめぐらせ、思い当たる。
「……って言ってもさあ、ユカリ、記憶喪失になっちゃったじゃん。日本のイツザイだったかも
しんないのをこんなのにしちゃって、はい返します、じゃまずいんじゃないの?」
「坊ちゃま、『こんなの』とはなんですか、『こんなの』とは。」
『こんなの』扱いされた少女は、口を尖らせて問いただす。
「例えば、主人よりその息子よりゆうっくり寝てる、ねぼすけメイドってこと。」
「う。」
『こんなの』扱いされるに足る理由が無いでもなかった、と思い出し言葉に詰まる。
「ふむ、まあ……そうなんじゃが、今のままでは誘拐した、とも思われんだろう、向こうからすれば。」
「でもさあ、新聞の尋ね人欄にも広告出さないんだよ?毎日チェックしてるのに。」
「ふうむ……どういうことじゃろうな。新聞を使うことを思いつかんのか……?または……」
「または?」
「なにか、事情があるのかもしれん。」
「じじょうって?」
「事情は……ほら、その、なんじゃ、いわゆる、ひとつの……事情は事情じゃよ!」
マーロットは一人で指をひらひらさせた後、考えに詰まると大声でごまかした。
じとっ。
じとじとっ。
「うっ……なんじゃ、ふたりとも、そんな目で見るのはやめい。」
ティムとゆかりは互いに顔を近付け囁きあった。
(自分で言っといて逆ギレ……坊ちゃん、どう思います?)
(ほんとうやっかいなじいさんだよね……まったく、まいるよ)
(ちょっと旦那様に言って家庭教師の先生をかえてもらいましょうか)
(うん、それがいちばんいいかもね……)
「……おぬしら、それ聞こえるようにゆっとるじゃろ……」
マーロットはひたいに浮き出た血管をぴくぴくさせながら、肩をわなわな震わした。
(あらやだ坊ちゃま、悪口はしっかり聞こえるみたいですよ)
(ふふ、ほんとだね、悪口だけはよくきこえるなんて、不幸な耳をもったものだね)
にやにやと意地の悪い笑い――しかしひどく楽しそうな笑顔――を浮かべながら耳打ちしあう二人は
もちろん腹立たしいのだが、その様子はあくまで微笑ましく――子供の笑顔というのは得てして
人の怒気をおさめてしまう――マーロットも本気で怒る気にはなれないのだった。
「まったく……老人にはもっと敬意を払わんかい。気まぐれにすねて老衰で死ぬぞ。」
「あらやだ、先生ったら冗談を本気にしちゃって。」
「あははは、せんせい、ジョークジョーク。」
ティムは面白くて仕方が無い、と言うような笑顔を浮かべマーロットをなだめる。
(ふん……ティム坊め、ユカリちゃんが来てからと言うもの、よく笑うようになったわい。
初めておうた時は「寂しくて仕方が無い」みたいな表情をしとったくせに……。
ま、これが本当のティム坊なのかも知れんな……。なにしろ、よかったわい。)
マーロットが無言で考えていると
「なに、せんせい、ホントにすねちゃったの?」
ティムが眉毛の奥の瞳を覗き込む。やはり反応は気にするのだ。
「ティム坊、自分のやった小さなからかいが必要以上に他人を傷つけたかもしれないと
気をつけ、反省するのはとてもよいことじゃ……が、わしのアゴヒゲを引っ張るなといつも言うて
おろうがっ!!!」
「きゃははははははっ!」
瞳を覗き込むと同時に掴んでいたヒゲをぱっ、と離して、ティムはマーロットから飛び退いた。
ゆかりもおなかを抱えて笑っている。まったく、記憶喪失の割には明るい少女だ。
「ふんとにもう……この二人は……」
あきれ声をだしながら、鷲づかみにされたヒゲを直す。
二階ではベルおばさんがいつものように仕事をし、マーロットはいつものようにティムと
ゆかりに勉強を教え、ティムとゆかりはいつものように勉強して、たまにマーロットをからかう。
これがダーヴァレイ家のいつもの風景なのだった。