『6月のじゃが芋』  
 
 
 
舞台は19世紀ロンドンなのである。  
特に6月の話なのである。  
ロンドンの日は馬鹿みたいに長くなってきているのだった。  
もう午後も7時になろうとしているのに、うすぐもりの空はまだぼんやりと光っており、  
薄ぐらいというか、薄明るいというか、ここのところ朝も昼も夜もこんな調子で、  
空にメリハリというものがない。  
北緯51度30分、北極海に程近いロンドンの街は、夏には白夜を迎えるのだった。  
 
ロンドン道路の名物といえば、道に点々と続くガス灯である。  
しかし夏にはほとんど用を成さなくなる。  
この時期、ロンドンの夜はわずか4、5時間で終わり、  
またうすぼんやりとした朝が来てしまうので、ガス灯の灯をあまり必要としないのだ。  
いまやガス灯に火が灯されるのはカラスが寝るより遅く、  
灯が消されるのはニワトリが鳴くよりも早い。  
 
その全面の曇り空に機関車の煙が上ってそのまま吸い込まれていくのを、  
傍らのメイドは口を開けたままぼんやりと見ていた。  
うすぐもりの夕方のうす明るい中で、目をことさらに薄めて眺めているのだった。  
一体何を考えているのだろう、と、彼女を見上げる少年――ティム・ダーヴァレイは思った。  
金髪碧眼。  
綿のスラックスに清潔感ある真白なシャツという、  
大人のような服装をしているが――19世紀のこの時代、子供服とは「小さい大人の服」だった――  
頬はぷっくりと膨らみ、その上にはガラス玉のような青い瞳がいつもくりくりと動いている。  
子供である。  
ティム少年はわかりやすい。  
典型的なイギリス人、それも生粋のロンドンっ子である。  
ロンドン住人が見る子供の中で、最も自然な、ありふれた少年である。  
多少特筆すべきことがあるとすれば、死んでしまった母親の面影を色濃く残すその面立ちだろうか。  
品良く流れていく眉に優しく下がった目じり、ほんの少しだけ波がかった前髪、  
すっと嫌味なくのびる小さな鼻の下には、少年らしく血色のいい唇が乗っかっている。  
 
最近は少なくなったが、一年ほど前までは女の子と間違えられることがしばしばあった。  
家に配達に来る郵便夫が言うのだ。  
「やぁお嬢ちゃん、パパにお手紙だ」  
特に間違えられやすいのは、朝、寝巻き姿のまま手紙を受け取りに行ってしまったときだ。  
どうもあのスカートのように裾の長い円錐形の寝巻きと、  
童話のグレーテルがかぶるような、先っぽに玉のついた後ろに垂れ下がる帽子が、  
女の子のようでよろしくないらしい。  
一度、「ヒュウ」と口笛を吹かれた上に、  
「なんて可愛らしいお留守番さんだ、それともきみはフェアリーか何かかい」  
とまわりくどい詩的な表現を使われてまで、嬉しくもなんとも無い賛辞を受けたのだった。  
そんな時彼は  
「ぼ、オ、俺は男だぞ、この……イ、イ――野郎ッ!」  
と彼なりに精一杯の野卑な言葉を並べ立てて、失礼な郵便夫を追い返すのだった。  
そうして妖精に下品なスラングで追い払われた郵便夫は、  
しかめっ面をするより心底驚いた顔で玄関の扉を閉めるしかない。  
 
今では家にメイドもいるから、彼が郵便夫の対応をすることも無い。  
やたらに不愉快な思いをすることも、させることもなくなったわけだ。  
彼の家に住むのは、彼と、家具商を営む彼の父、  
そして今、彼のとなりで空を見上げて口を開けている女使用人――女中――家政婦――  
日本語では数種類の呼び方があるが、要はメイド、英語で言うところのmaid servantである。  
 
彼の隣を歩くそのメイドは、  
裾がくるぶしまである黒のワンピースドレスに質素なフェルトの帽子をかぶって、  
腕にはこれから夕食になるジャガイモがぎゅうぎゅうつまっている買い物カゴをぶら下げている。  
いかにも「買い物がえりのメイド」という格好である。  
いかにも「買い物がえりのメイド」がいかにも「雇い主の子供」を連れて歩いているのだった。  
つまり彼ら二人は、一見して「メイドと雇い主の子供」とわかるような二人組なのだった。  
 
しかし、である。  
ティム少年はともかく、そのメイドは特殊である。  
 
まずもってイギリス人ではない。  
そのこと自体はあまり珍しいことでもない。  
世界一の大英帝国の大首都大倫敦には、フランスやドイツからもメイドとして「出稼ぎ」に来る女性は少なくない。  
しかしそれを鑑みても彼女は特殊である。  
 
彼女には特色がある、と書くと面白い言い方かもしれない。  
ヨーロッパの人間ではない。  
黄色がかった、磁器のようになめらかな肌に、黒くまっすぐなでしなやかな髪、  
髪よりも黒く、濡れた黒真珠のようにつやのある瞳。  
彼女は東洋人である。  
それも伸張著しい新興国、Far East――この国から見て極東にある、地図の一番右端に、  
あの中華帝国よりも更に東に――パラパラと消極的に浮かんでいる島の国、  
日本からやってきた。  
日本人である。  
名を田村ゆかりという。  
何故日本人がこの倫敦でメイドをしているのか、そこにはちょっとした事情がある。  
 
外交官の父に連れられてイギリスまでやってきた彼女は、父が不在の隙に外出し、  
往来を渡ろうとしたところに、折り悪く走りこんできた馬車に跳ねられてしまったのだった。  
そのとき猛然と彼女を跳ね飛ばした馬車に乗っていたのがティムの父・ジョンであり、  
事故の責任は彼が業者を無理に急がせたことにあるのだった。  
おまけに跳ねられた娘は事故の衝撃か、何も喋れなくなっている様子だった。  
彼の脳裏を新聞の見出しがよぎった。  
 
『家具商店主、馬車で外交官の娘を跳ねる』  
『交渉打ち切り、日本交渉団帰国へ』  
『女王陛下、遺憾の意を表明』  
『ダーヴァレイ家具店に市民から抗議の投石』  
『家具店倒産、一家心中』――などなど。  
 
彼は一計を案じ、【何者かに跳ねられ記憶と言葉を失った彼女】を【救出】、  
自分の家で【保護】したということにし、自分の罪を覆い隠してしまおうと考えたのだった。  
彼女は記憶を失っただけでどうやら五体満足で健康のようだったので、  
ついでにメイドとして働いてもらうことにもした。  
外交官であるゆかりの父は彼女の記憶が失われたこと嘆いたが、  
外交官らしく冷静で計算高く、  
日本に連れて帰るよりもこの家で養生と教育を受けたほうがよろしかろうと判断し、  
娘をひとり残して、泣く泣く(これは比喩でなく)帰国の途に着いたのだった。  
 
そうした理由で、日本人の少女田村ゆかりは、ダーヴァレイ家のメイドとして、  
記憶を取り戻すリハビリをしながら、働いているのだった。  
 
普通の少年・ティムは彼女を見上げている。  
記憶喪失の日本人メイド・ゆかりは空を見上げている。  
天下の往来をとぼとぼと歩いている二人は、なぜかどちらも前を向いていない。  
天気がぼんやりすると人間までぼんやりするものらしい。  
なんとなくまぬけな気分になってきて、ティムは彼女の買い物籠からジャガイモを二つ取り出した。  
ひょいひょいっとそれを放り投げ、器用にお手玉を始める。  
左手で放り投げ、右手から空いた左手にジャガイモを受け渡す。  
二個のジャガイモを持っているけれど、手にあるのは常に一つだ。  
「器用ですね、坊ちゃま」  
ゆかりが声をかけてきた。  
「でも歩きながらそんなことしてると、転びますよ?」  
「ころばないよ」  
「マンホールの穴に落ちますよ」  
「おちないよ」  
「落ちたら、地球の裏側まで一直線ですよ。日本についたら私の父によろしく言っておいてください」  
「……そんなわかりやすいウソ――」  
つかないでよ、と言おうとしたら、ゆかりの軽口を信じたわけではないのだけれど、手元が狂った。  
でこぼことしたジャガイモをつかみ損なって、あらぬ方向に放り投げてしまった。  
それを落とさずに受け取ろうと、あわてて右手を伸ばしたら――  
「坊ちゃま!」  
ゆかりの叫び声がして、体全体がかゆくなるような感覚。  
落下している。  
わかったときには目の前が真っ暗になっていた。  
 
なにごとだ。からだが何かに支えられているようだ。  
浮いているような落ち着かない感覚で、ティムはうす明るい空を見ている。  
未だに自分の身に何が起きたか把握できていない。  
穴に落ちた。  
というのは何となくわかった。  
しまった、と思って目をつむったら――なぜか痛みも衝撃もなく、うす明るい空を見ている。  
まさか地球の裏側まで来てしまったのだろうか。  
 
おそるおそる首を回し、あたりを見てみた。  
「なんだ、おい、ボウズ、平気かぁ?」  
野太い男の声がして、視界に男の顔が「ぬっ」という感じで現れた。  
ヘルメットをかぶっている。  
格好からして、どうやら工事現場の作業員のようだ。  
工事の穴に落ちてしまったらしい。  
「坊ちゃま!!」  
ゆかりが穴の上から覗きこんだ。  
眉をハの字に寄せて、今にも泣き出しそうな表情をしている。  
どうやら心底心配している様子である。  
「よっこいせっ……と」  
男はティムを片手だけで支え、軽々と穴の上に戻した。  
 
「ああ! 怪我はないですか坊ちゃま、どこも擦りむいてませんか、記憶は失ってないですか」  
ゆかりは地面に膝をつき、ほとんど抱きしめるようにしてティムの肩や腕をはたき、握り、  
怪我がなさそうだとわかると、最後にはとうとう本当に抱きしめてしまった。  
「――よかった!」  
肩に、ほぉっと熱いため息が吐かれるのがシャツ越しにわかった。  
「だ、大丈夫だよ。きおくなんて、そうそうなくさないよ、ユカリじゃあるまいし」  
 
最後のひと言が気に触ったのか、ゆかりは少しむっとして  
「じゃあ坊ちゃま、これ何本ですか」  
右手をVサインにして目の前に差し出した。  
「2本じゃない」  
ティムがつまらなそうに答えると、  
「ざーんねん、3本でしたー」  
そう言って意地の悪い笑顔を浮かべ、『左手』を差し出すのだった。  
 
「ボーズ、気をつけて歩かないと、地球の裏側まで落っこちるぞぅ?」  
ぬっ、と土に汚れた男の顔が地面から現れた。正確には、ティムの落ちた穴から。  
そうして男は快活に笑っていた。  
「あと、忘れ物だ。これ」  
その手には二つのジャガイモが握られている。  
 
「よく育ったいい芋だ、今年は豊作みてぇだな。ホイ、お穣ちゃん」  
男はひょいひょいっとゆかりにそのジャガイモを放り投げた。  
「ありがとうございます!あの、なんてお礼を言ったらいいか……」  
「ん、芋か?」  
「……いえその、坊ちゃまを助けていただいて」  
「ん、なに、ちょっとさぼって空を見てたら、ちょうどそのボウズが降ってきたんだ。  
 ハハハ、俺がいたからいいものの、もしそこにツルハシでも置いてあったら、  
 大騒動だぞ。タイミングよかったなぁ、ボウズ」  
「ありがとうございました、本当に。今日の夕ごはんまで助けてもらって」  
 
ゆかりはジャガイモを二つ、ちょっと持ち上げて微笑んだ。  
「そいつ、どうすんの?」  
「へ?こ、これですか?えっと、このままオーブンで丸焼き……ベイクドしようかと」  
「ふーん、なら今度からは違うジャガイモ、買ったほうがいいぜ」  
「え?」  
「そいつは『シャーロット』って言ってな、ハハ、なかなか素敵な名前だろ?  
 そいつは焼くよりも、茹でてサラダにするほうがうまいんだ。  
 オーヴンでこんがり焼くなら、もっと大きな、夏みかんみたいなヤツを買ったほうがいい。  
 ただそれだと、大きい分だけ火の通りが悪くなるから、こう、フォークで穴を開けてな」  
 
「へぇ、そうなんですか。種類なんてそんなに気にしたことなかったんですけど……  
 随分、お詳しいですね?」  
「ん、なんだか近くにイモにうるさいのがいてなぁ。俺も門前の小僧、ってわけだ」  
 男が更に何かを続けようとしたとき――  
 
「おい、いつまでサボっとるんだ!」  
大砲のような怒号が、三人の全身を振るわせた。  
工事の穴の中、すこし離れたところで、セイウチのようなひげを生やした大男が、  
こちらを向いて叫んでいる。  
その恰幅のよさや雰囲気は、彼が工事の責任者、監督者のようであると語っている。  
ティムを助けた男はやれやれと言った様子で振り返り  
「はいはい、そんな大きな声出さなくてもきこえてますって。今戻りますよ。  
 ……ったく、親方ったら、いつまでもあんな大声で人を呼ぶんだから」  
 
男はぼやきながら、呼ばれたほうへ背を向けた。  
「あの!ありがとうございました!本当に!!…ほら、坊ちゃまも!」  
「お兄さん、ありがとー!!」  
男は片手をあげただけで、そのまま戻っていってしまった。  
 
 
ということがあった、次の日。  
またも時刻は夕刻である。  
 
ロンドン最大の青果市場であるコヴェントガーデンは今日もむっとするような人いきれで、  
大八車のような馬車に、野菜を満載している樽を載せている八百屋や、  
首から木箱をぶら下げて、そこに果物を乗せて売っているおばさんや、  
怪しげな「触らないでも動く人形」を売りつけようとしている行商の人間や、  
それぞれがそれぞれに呼び込みの掛け声や値切りの怒号を出したりしているので、  
非常に活気ある喧騒に包まれている。  
 
「ユカリ、今日の夕ごはんは何にする気?」  
「ええっと……実はまだ何も考えてません」  
「おイモにしようよ!」  
「昨日もじゃがいもでしたけど」  
「うん、でもホラ、昨日の人に教えてもらったみたいに、大きなおイモでためしてみたいじゃない。  
 昨日の味をおぼえてるうちじゃないと比べられないでしょ?」  
「なるほど。まぁ簡単ですから私はいいですけど……坊ちゃま好きですねぇ。おイモ」  
「うん、好き」  
「あ、ひょっとして、大きなお芋が食べたいだけでしょう」  
「……それも、ちょっとある」  
 
それぞれの目的を持った買い物客がそれぞれにうごめいて、  
目的の店に行くにもひと苦労である。  
二人が人の波に揉まれて辿りついた八百屋は、ひときわ大きく店を広げている。  
樽やら木箱やらに、  
今にも崩れ落ちそうなほど種々の野菜を山盛りにしていて実に景気がいい。  
「おじさん!こんにちは」  
 
空き箱を片付けていた八百屋の主人は、わざわざ箱を下ろして振り向いた。  
「おう、ユカリちゃん!ティム坊もいるのか!いらっしゃい!今日は何!?」  
店主は元気のいい声を出し、両手をぽんと合わせた。  
いつも笑顔で気持ちのいい人だなと思う。  
黒い前掛けに、白っぽい泥がついている。  
泥というものは、黒いふくにつくと白く見えるのに、  
白いふくにつくと黒く見えるのは何故だろう。  
ティムはそんなことを考えている。  
 
「ええと、じゃがいもください」  
「アイヨ!今年はじゃがいもが豊作でねぇ!うちのイモ畑はそんなに大きくないからいいけど、たくさん作ってる農家のほうは、人手がなくて嬉しい悲鳴みたいだよ!」  
「そうなんですか。あの、今日はとくべつ大きなじゃがいも、ください。そっちの方が、焼くには美味しいって聞いたので」  
「アイヨ!そうだね。茹でてサラダにしたりするのはちょっとアレだけど、焼くならこれくらいの大きなジャガイモのほうが美味しいよね!」  
 
そういって元気のいい店主が持ってきたじゃがいもはちょっとした子供の頭ぐらいの大きさがある、巨大なものだった。  
「ハイ、ユカリちゃん!」  
受け取ると、体勢を崩してしまうぐらい中身もつまっている。  
両手で掴んだら、指先が届かない。  
「あ、あの、こんなにおおきなモノじゃなくても……」  
「運がいいねゆかりちゃん!そんな大きなじゃがいも、なかなか無いよ!ティム坊、これぐらい食べられるよな!?」  
「うん!」  
 
ティムはすでに目をキラキラ輝かせて、ゆかりの両手におさまりきらない、  
自分の頭ほどもある大きさのオバケ芋を見つめている。  
「坊ちゃま、こんなの食べられますか?」  
「うん!」  
「本当ですか?こんなに大きくて、こんなに重いんですよ」  
「うん!」  
「いくらお好きだとは言え……」  
「うん!」  
「……、昨日の明日は今日ですね?」  
「うん!」  
ゆかりはその芋を、ティムの頭頂部に落とすようにして小突いた。  
「う」  
「人の話聞いてなかったでしょう」  
ティムは憮然とした表情で頭の天辺を小さな両手で撫でている。  
 
「……ユカリちゃん」  
呼んだのは八百屋の主人である。  
「はい?」  
「そのー、突然、雲を掴むような話で申し訳ないんだがな、人探しを頼まれちゃくれんかな」  
「人探し……ですか?」  
 
「ああ、農家の息子なんだが、仕事がいやでロンドンに逃げてきたらしい。  
 そこんちの親父が――もうだいぶん、老人なんだが――、ここのところの豊作で、  
 張り切りすぎたのか、体を壊しちまってな。  
 せっかく土の中でどんどんいい芋が実っているのに、  
 他にはばあさん一人だから収穫もままなら無い。見ていると不憫でなぁ。  
 ほら、俺たちは朝の早くから市場に出てくるだろう、なのにそれよりも早く起きて、  
 ばあさんが一人で芋を掘り起こしているんだ。…だからなんていうか、  
 何とかしてやりたくなってな」  
 
「……なるほど」  
「その芋を作ってる家の息子だよ。探してほしいのは」  
「こ、この芋ですか!」  
ゆかりは自分の両手に余る巨大なじゃがいもを再び見た。  
自分の手にも余ってずっしりと重いそのじゃがいもを土の中から掘り起こすのは、老人にとってはほとんど岩を掘り返すのと変わらないほどの重労働だろう。  
「神さんもどういうつもりかしらねえが、なんであのうちの畑にこんなに大きな芋を成らせるのか……。  
 大きい分だけいい値もつくから、幸せッちゃ幸せなんだが、その分作業がつらくなるし、  
 腰のひん曲がったばあさんが、明るいとはいえ朝の4時ごろからその大きなイモをえっちらおっちら掘り起こしているのを見ると、  
 泣きたくなるぜ」  
 
「いい値がつくって、ちなみにおいくら……?」  
「こいだけ」  
店主は右手を広げてゆかりに見せた。  
「高ぁい!普通のお芋の3倍はするじゃないですか!」  
「重さは5倍ぐらいあるからむしろ得だろう。味も悪くないぞ」  
主人は自信を持って言っているようだった。このオバケ芋は、高級品というわけだ。  
「俺は日中、店を離れるわけにはいかないし。頼まれてくれたら、その芋はサービスにしとくから」  
引き受けたい気持ちは山々である。  
 
しかし、この大首都大ロンドンでひとりの人間を見つけ出すということは、  
ほとんど不可能なことに思える。  
それこそ、この市場全部にあるじゃがいもの中から、  
ひとつだけ特別なじゃがいもを見つけ出すようなものだ。  
 
「うーん、そりゃあ、おじさんよりは街中を歩くことは多いでしょうけど、  
 とは言えそんなにロンドン中を走り回ってるわけじゃないですよ」  
「うーん、ユカリちゃんならなんだか顔が広そうだから、ひょっとしたら、  
と思ったんだけど」  
「うーん、そんな事いわれても……ええと、一応、その人の年齢とか、  
人となりとか、わかります?」  
 
二人してとにかくうーんうーんと唸ってみても、問題の困難さは変わらないのだ。  
だけれどもとりあえず二人はうーんうーんとうなっているのだった。  
 
「うーん、俺も直接知ってるわけじゃないからなぁ。年はたぶん20代後半、  
 衣服にあまり頓着しない、筋骨隆々のたくましい男……  
 要はいかにも農家の息子という感じなんだな。だから、ロンドンでも肉体労働の仕事に  
 ついているんじゃないかな。推測だけれど。決め手になるのはそうだなぁ……やっぱり、  
 ジャガイモについては詳しいはずだぜ。ジャガイモ農家の息子ならな」  
「……ユカリ」  
ティムがゆかりを見上げている。  
思いついたことがあった。  
 
そしてそれはユカリも同様のようであった。  
丸い瞳を猫のように開いて、小声でこっそりと言った。  
「ええ坊ちゃま、わかってます」  
「なんだいユカリちゃん!ひょっとして心当たりがあるのかい!?」  
主人は驚いた様子でゆかりを見た。  
「いいえ。ちっとも」  
「そうか……」  
主人はあからさまに肩を落とした。  
 
ティムはゆかりを見上げてなにやら言いたそうにしている。  
「ユカリちゃんでもわからないか……やはりヤードに頼るしかないかなぁ」  
「ところで御主人、ものは相談ですがね」  
見上げられたゆかりは、なんだかいい笑顔を浮かべている。  
「なんだい」  
「もしもですけど、もしもその男の人を見つけられたら……」  
おずおず、といった感じでゆかりは主人に尋ねた。  
主人は少し考え込んでから、決心したように言った。  
 
「そうだな、そのときは俺が特別にお礼をする。商品の中から何でも好きなのを持っていったらいい」  
「本当ですか!?」  
ゆかりの顔がぱっと明るくなる。  
 
なんという現金な、とティムは思う。  
「ああ本当だとも。八百屋に二言はない、って言うだろう」  
「そんなの初めて聞きました!けどわかりました!引き受けましょう!」  
「おお、引き受けてくれるか!ありがとう!」  
「いえいえ何をおっしゃいますやら。私と御主人の仲じゃないですか」  
 
そう言ってゆかりは白い歯を見せた。小さな唇からエナメル質の輝きが覗いている。  
ティムも笑おうとしたが、少し引きつってしまった。  
「そうだ、名前――、名前はなんていうんです、あの人。あ、いや、その人は」  
「トマス。T-H-O-M-A-T-Hで、トマス、だ」  
「ふーん、下から読んだらハタモスですね」  
八百屋は怪訝な顔をした。  
「いや、だからどうしたってわけじゃないんですけど」  
「ユカリ、キミのその、思いついたことは何でも口に出しちゃうくせ、  
 やめた方がいいとぼくは思うんだ」  
「……そうですね」  
 
「じゃあ頼むよ、もし見つかったら、帰って農業を手伝うように言ってやってくれ」  
八百屋は最後にそう言い、手付金だということでおばけ芋の料金を受け取らずにゆかり達を帰した。  
情に厚い男である。  
しかしもちろん、この大都市の中から、見た事も会った事も無い一人の人間を見つけ出すということは至難の業である。  
何しろ市場の中だけでもちょっと見渡しただけで数千人はくだらない数の人間がいるのだ。  
その仕事はとんでもなく広い畑から一つだけ埋まっている芋を掘り起こすようなもので、  
 
しかもヒントは  
「20代後半男性、肉体労働に従事している(?)、芋について詳しいはず。名前はトマス」  
というなんとも不安なものしかない。  
 
普通なら「不可能」といってもいいだろう。  
普通ならば。  
「ユカリ、その人ってひょっとしてさ……」  
ティムが口を開いた。  
その口を、ゆかりは素早くふさいだ。  
「シッ、もう少しあの八百屋から離れてからにしてください」  
 
「……むぐぐ」  
しばらく二人はその体勢のまま歩いた。  
「ゴホ、ゴホっ、く、くるしいよ、ユカリ」  
「すいません坊ちゃま、つい」  
「なにがついだよ、力いれすぎだよ、かげんしてよ」  
「すいません坊ちゃま……つい」  
どうやらこのメイドは反省していないらしい。  
 
ティムは彼女を叱責することは諦めて、自分の考えを述べた。  
「あのさぁユカリ、その人ってひょっとして昨日の……」  
「ええ、昨日の人でしょうね、きっと。  
 工事の人にしてはやけに芋に詳しいなと思ったんですよ。農家の息子だったんですね。  
 道理で……」  
 
「え、わかってたの。じゃあなんで八百屋のおじさんに言ってあげないのさ」  
「これでまた今度も、野菜、タダでもらえますね」  
そう言ってゆかりはにっこりと微笑んだ。  
「あ、あ、まさかそれが目当てで――」  
「交渉とはこのようにするものですよ、坊ちゃま」  
 
そういえば彼女の父親は外交官であった。  
記憶はなくとも、その素質はしっかりと受け継がれているようだった。  
「……ずるいんだ」  
「賢い、といってください」  
「……わかってて言わないなんて」  
「でもそのおかげで、坊ちゃまの好きなお芋、好きなだけ食べられますよ」  
「……なるほど」  
 
納得してしまった。  
自分でも、あまりにも簡単に丸め込まれてしまったなぁと思う。  
「交渉とは、このようにするものですよ。坊ちゃま」  
ゆかりはもう一度そう言って、静かに唇の端を上げるのだった。  
 
しかしこの後、彼女のもくろみは見事に外れることとなる。  
 
 
「違うよ、全然違うよ」  
工事の男はそう言ってかぶりを振った。  
市場から帰ったその足で、二人は昨日の工事現場に来ているのだった。  
「俺はロンドンの生まれだし、父親はとっくに死んじまってるし、兄弟は俺のほかに4人いる。  
そりゃあ芋には詳しいけど、それとこれとは関係ない。大体俺の名は、トマスじゃない」  
 
呆然である。  
間違いない、なんという楽な仕事だろうと喜び勇んで先日の工事現場まで来た二人だったが、  
その目論見はあまりにも簡単に破られてしまった。  
男は二人の質問を軽々と否定し、逆に二人に怪訝な表情を見せている。  
「だ、だって昨日、あんなにお芋に詳しかったじゃないですか」  
 
ゆかりは納得の行かない表情で、男に食って掛かる。  
「あ、さては何か隠してますね?」  
ゆかりは体をぐいと前に出し、男に詰め寄るようにして聞いた。  
「何を隠すって言うんだよ、俺は何も怪しいことはしてない……ぞ」  
「本当ですかぁ〜?私の目を見て言ってください」  
ゆかりはさらに身を乗り出し、男に顔を近づけて聞いた。  
ゆかりの丸く黒目がちの瞳が大きく見開かれて男の顔を見つめている。  
あの潤った黒真珠のような目が、男を捕らえてはなさない。  
瞳は黒いほどに相手を映す。  
彼の目には、ゆかりの瞳に映った彼自身の顔が――若干怯えた顔が――映っているだろう。  
「な、なんだよ」  
 
男は怯み、ふいと顔をそむけた。  
「教えてください。何を知っているのか」  
「さ、さぁ、何のことだかよくわからないな」  
ティムから見てもわかるほどに男の目が泳いでいる。  
「さて、そろそろ仕事も終わりの時間だ」  
男はゆかり達から後ずさるようにしてじりじりと離れていったかと思うと、  
急に身を翻し、ティムたちに背中を見せ一目散に走り去っていく。  
持っていたスコップを投げ置き、かぶっていたヘルメットを後ろに落としながら両手を  
前後に大きく振り、地面を蹴る足が土ぼこりを巻き上げてゆく。  
「おのれっ!やはり何か隠しているなっ、待てッ!!」  
ゆかりも大きく吼えてその背中を追っていった。  
 
「ちょ―――」  
ちょっと待ってよ、ユカリ。  
と言おうとしたがもうそこにゆかりはおらず、ひゅぅ、と風が鼻先を掠めた。  
「あー……」  
二人とも、もう豆粒のような小さな背中しか見えない。  
 
ほんとうにあの男の人は件のイモ農家の長男ではないのだろうか。  
最初の男の態度は確かに、嘘をついているようにも、隠し事をしているようにも見えなかった。  
しかしユカリに問い詰められたときには――  
「ううん、あやしいっちゃ、あやしいんだけど……」  
 
いかにも挙動不審で、あからさまに何かを隠しているという様子だった。  
「まぁ、ユカリもなかなか珍しいひとだから、そんなのに見つめられたらあせるのもわかるんだけど……」  
フム、とティムは小さなため息をついた。  
英語で書けばhummmm.である。  
だからどうしたというわけではないが、その小さなため息が昇っていった空はやはりまだまだ明るく、  
はたしていまは何時だろう、とティムは思った。  
あごを上げて空に向けた鼻先に、不意にいい香りが漂ってきた。  
「おや、おまえさんは……」  
 
振り返ると、先日穴に落ちたときに大声を張り上げたからだの大きい、海獣のようにひげを生やした現場監督がいた。  
「あ、セイウチさん」  
「は?」  
「あ、いや、その、こ、コンニチワ」  
いい香りはどうやら現場監督から漂っているようだった。  
「ボウヤ、ちょっと食うか?」  
監督は持っていた新聞の包みをティムの方に押し出した。  
中にはこんがり狐色に揚がったフライと、サク切りにされて揚げられた大量のイモが包まれている。  
フィッシュ&チップスと呼ばれるこの食べ物は、汽船の発達によって北極海あたりから  
新鮮な魚介の輸送が可能になって発明された食べ物であるということらしい。  
フライにたっぷりとかけられたモルトビネガーの香りがティムの鼻腔をつついた。  
「ありがとうおじさん!」  
 
ティムが遠慮なく手を伸ばすと、現場監督はやはりセイウチかアシカのように目を細めて、  
人のいい笑顔を浮かべた。  
ティムはいいぐあいにビネガーのかかっているのを選びながら、  
フライドポテトを2、3個つまんだ。  
「なんだ、イモでいいのか?魚もとっていいんだぞ」  
「ううん、いいの。僕、おイモがすきなんだ」  
 
イモをひとつ口の中に放り込む。  
ビネガーの酸味に口中からつばが出る。  
その舌でイモを押しつぶすと、ほろほろと熱い中身がこぼれだしてくる。  
 
「あち、あち」と言いながら口内に空気を送り込むと、イモの風味と酢の香りと、  
唾液によってでんぷんが糖化してゆく素朴な甘みが三位一体となって  
「ホッ、ホッ、ホ……ううん、おいしいなぁ」  
 
自然と笑みがこぼれてしまう。  
英語で「熱い」というのは「HOT」というけれども、  
あれは熱いものを口の中に入れたときに空気を入れたり出したりするときの音から来ている。  
(と聞いたことがあるけれど真偽の程はわからない)  
 
「ハッハ、ボウヤはそんなにイモ好きなのか!」  
セイウチおじさんが、ひれのように大きな手のひらでティムの背中をたたいた。  
ティムは少し咳き込んで、慌てて口の中のものを飲み込んだ。  
「わ、きゅ、急にたたかないでよ」  
「ハッハ、すまん、すまん」  
セイウチおじさんはなんだか幸せそうに微笑んで、魚のフライをかじっている。  
「?」  
「そういえば、今日はまたどうしてこんなところにやってきたんだ?ボウズ一人か?」  
「あ、いやその、ちょっとようじがあって、  
 さっきまではユカリ――うちのメイドも一緒にきてたんだけど――」  
「あ、そういやハリーのやつもいねえな。あの野郎、道具をこんなに散らかしていきやがって。  
まるで何者かに追いかけられたみたいじゃねえか」  
 
なかなかするどい読みをしている。  
大きな口にフライドポテトをひとつ投げて、あご全体を動かして食べる。  
「ふむ、こりゃフランスの芋だな」  
「そんなのわかるの!?」  
「まぁな。大陸のはイギリスのとは違って、なんていうかこう、大味というか、  
 雑な感じがするな。やっぱり芋は国産のに限る」  
「おじさん、すごぉい!」  
「バッハッハ、こんなの、何の役にも立たないけどな!!」  
 
はた、と気づいた。  
ユカリに追いかけられていった青年は「周りにやけにうるさいのがいる、だから俺も芋について詳しくなってしまった」と言っていたのだった。  
「おじさんさぁ、ロンドン生まれ?」  
 
「ん?いや、ちがう。もっとずーっと、ずーっと田舎の方だ」  
「どんなところ?」  
「何にもないんだ。どこまでも、ずーっとずーっと緑色の平たいところが続いていってな、  
 たまに、空を映す湖とか、こんもりした森とかがあって…雲がぽっかり浮かんでいるような……」  
 
故郷を思い出しているのだろうか、目を細めて遠くを見るようにして喋っている。  
「道は細くて、グネグネ曲がっててなぁ……風も強くて、馬車があおられると馬が怯えるから、  
 うまくなだめてやって……ガタゴト、ガタゴトって、車輪が鳴ってな。  
 ここみたいに、きれいに舗装なんてされちゃあいないから」  
「おうち……なにやってたの?」  
「……どこにでもいるような、つまらない農家さ。もう10年以上帰っていないが、  
 両親が死んだって話も聞かないから、まぁ元気なんだろうな。  
 ハハ、毎日毎日同じことやってると、年取るのも忘れちまうのさ」  
「おイモ、作ってた?」  
「ああそうさ。だからこんなに詳しくなっちまったんだろうな。  
 もう畑なんて随分掘ってないけど、その分、道路を掘ってるしな……いつの間にか」  
 
まちがいない、このひとが――  
「おじさん、ちょっとお話があります」  
ティムは男の眼を見据えて言った。  
さっと雰囲気が変わって、思いのほかまじめな、よく通る声が出た。  
男は少し驚いたように笑いを止め、ティムを見返した。  
 
 
「――――と、いうわけなんです」  
ティムは話した。  
穴に落ちて助けられたこと、その人がイモに詳しかったこと、八百屋に人探しを頼まれたこと、  
きっと前のあの人のことだろうと思ってここに来てみたけど、その人は人違いだったこと。  
そして、おじさんに会っていること。  
「おじさん、おじさんの名前って――」  
二人は工事現場の、穴の淵に並んで座っている。  
ティムは膝の上にこぶしを丸めて、できるだけわかりやすいように、丁寧に、  
やや緊張しながら事の顛末を喋った。  
 
セイウチおじさんは座ると背中が丸くなって、  
ほんとうにセイウチが岩場に腰かけて居るようなシルエットになった。  
「…………。」  
セイウチおじさんは穴を見つめて何も言わなくなった。  
自分で掘った穴を、黙ってじっと見ている。  
 
横顔を覗き込むと、何かを考えているような表情をしているのが白夜の明るさのおかげでよく見えた。  
「ハタモス」  
「え?」  
「なんて、名乗ったりもしてるんだが――。ま、今更名乗る名前でもないか。  
 そうだよボウヤ、俺がその芋農家の長男、トマスだ」  
 
トマスはあまり口を動かさず、ぼそぼそとヒゲだけを動かして言った。  
何かを考えている様子だが、何を考えているのか、ティムには想像もつかない。  
「あの、お父さんとお母さんのところに帰ったら――」  
「帰れんよ」  
 
こんどは少し口の中が見えるくらいにヒゲを動かして、トマスはうめくように言った。  
「家を捨てるようにロンドンに出てきて10年以上たつ。  
 出てきた頃は夢も希望も持ってはいたが――、ボウヤに話しても、仕方ねえか。  
 ボウヤ、いま何歳だ?」   
「……10才」  
「そうか、てことはちょうど俺がこっちに出てきたころに生まれたんだな。……そうか、  
 あの頃生まれた子がもうこんなに大きくなってるのか」  
そうか……、と呟いてトマスは再び黙ってしまった。  
 
ティムはどうにかトマスと話をしたい。  
しかし、自分が生まれた頃にトマスはロンドンにやってきていて、  
その頃からトマスはこのロンドンで生きているのだ。  
なんだか何も言えないような気がする。  
この人に何かを言うには、自分はあまりにも小さすぎるような気がする。  
 
しかし、聞かなければならない気もするのだ。  
この人の父や母の代わりに、どこまでも緑が続く場所で、Lの字みたいに腰を曲げて、  
杖の代わりにくわをついているようなこの人の父と母はこの人に直接聞けはしないんだから、  
いま自分が聞かなければならないのだ。  
ティムは少し、勇気を出して聞いた。  
 
「どうして帰れないの?」  
「どうして、か。うん、そうだなぁ……」  
トマスは顔を上げて、いつまでも白々しく光る空を見上げた。  
何かを思い出しているのか、何を考えているのか、その表情からはわからない。  
「ぼくはね、」  
ティムは足をぶらつかせながら言った  
「ぼくのパパは、いつもお仕事でいそがしくて、おうちにいないんだ。  
 ママはぼくを生んですぐに死んじゃった。だからぼくはいつもひとりで――できるなら  
 パパの仕事を手伝いたいけど――ぼくはまだ子供だから――そんなことはできないし――」  
 
 ええと、だから、と、少し間をおいて、考えをまとめてからきちんと聞きなおす。  
「ぼくはトマスの人生とか、考えとか、信念があるのかもわからないし、  
 それがどんなものかもわからないし、なにも言えないとはわかるんだけど」  
 トマスの方を向く。トマスのからだは大きく、見上げるようになった。  
 
「ぼくにとっては、すごくうらやましいんだ。お父さんもお母さんもいて、  
トマスが帰れば、二人ともすごく喜ぶと思うんだ。それが、ぼくにはできないから。  
お父さんとお母さんを喜ばすことのできるトマスが、ぼくはすごくうらやましいんだよ」  
空が少しだけまぶしくて眉をよせる。  
トマスはこっちを見て、同じように眉をよせていた。  
「そうか、ボウズは……偉いんだな」  
えらくなんかない、と思う。自分は何もできてやしないんだから。  
「でもなぁ……」  
とトマスはぼんやり言った。  
しばらくそのまま二人は工事現場の穴を眺めていた。  
 
横に長く掘られた穴は、穴と言うより大きな溝で、  
その壁はずっと黄色と茶色の中間みたいな色をした土がむき出しになっている。  
周りには通行人が落ちないように針金で編まれた金網のフェンスが張られている。  
つるはしやら、スコップやら、ヘルメットやらが、  
一見雑なようでその実ていねいにまとめられている。  
 
ぽつんぽつんと落ちているのは、  
さっきゆかりに追いかけられていったかわいそうなハリーのものだろう。  
「でもなぁ……」  
とトマスはもう一度言った。  
「まだ、帰れないよなぁ……」  
 
「だから、どうしてさ」  
「……俺はまだ、ロンドンで何もしてないからよぉ。イモを掘り続けるのがイヤでこっち  
 に出てきて、そのあと10年間何をしたかって言ったら、道路を掘り続けてただけだもん  
 なぁ。穴を掘るだけで、結局何もしてやいないんだ。俺は」  
 トマスは新聞の包みから最後のフライドポテトをつまみ上げ、ボソボソと口に入れた。  
「結局、こっちに出てきてもあのまま向こうにいても、何も変わらなかったような――」  
 
トマスは空を見ているのか、地面を見ているのか、どこを見ているのかわからない。  
きっとどこを見ていても何も映っていないんだろうと思った。  
今見ているのは10年前の自分、捨ててきた故郷、家、父親と母親を見ているんだろうと、  
ティムは何となく思った。  
 
「俺ぁ馬鹿だから――自分の道がこの先どうなっているかなんてわからなかった。   
 だけど選択肢が目の前に現れたものだから、つい、今までと同じじゃない方を選んじま  
 ったんだな。なぁボウズ、そこに金網が見えるだろう」  
工事の溝の周りには、転落防止のため金網のフェンスが立っている。  
「そこをな、たまーに蟻んこが歩いているんだ。細い針金の上を、落っこちないように  
 一生懸命に、歩いているんだ。見てると、そいつは金網の交差するところで一旦  
 立ち止まってかんがえるんだな。自分は右へ行こうか左へ行こうか、このまままっすぐ  
 歩いていこうか考えるんだ。そうして選んで歩いていくと、その先に何が待っていると思う?」  
 
トマスはふん、と鼻でちょっと笑った。  
笑ったのか、ただ鼻で息をしたのかよくわからなかったが、やはり笑ったのだとティムは思う。  
 
「その先にあるのは、やっぱり同じような金網の交差点なんだな。あの蟻んこはそこでも  
 また同じように立ち止まって、悩んで、ジグザグに歩いていくんだ。それを見た時俺は、  
 ああ、俺の人生と同じだな、とわかっちまったんだよ。迷路みたいに複雑なくせして、  
 どの道を選んでもその先に大差はなくて、真剣に悩んでいるのは、選択肢の前に立たさ  
 れている1人だけ……てな」  
 
トマスの視線はやはりどこを向いているのかわからない。  
「俺の人生は全くあの金網を歩く蟻んこみたいなもんで、まるで迷路の中を歩いているよ  
 うなものだったよ。家を捨てるようにロンドンへ来ても、何をやったかといえば芋掘り  
 ならぬ穴掘りだ。俺の人生、まるで迷路を歩いているようなもんだったよ」  
トマスは同じことを二回繰り返して言った。  
 
無表情にロンドンの街を眺めるその顔からは、彼が悲しいのか、後悔しているのか、  
なにを考えているのかよくわからない。  
ただこれはなんとなくわかる、いまトマスは自分の歩いてきた道を見ているのだ。  
自分の歩いてきた人生を――迷路みたいにジグザグに歩いてきた自分を――振り返っているんだろう、  
と強くわかった。  
 
「だからよ、今はまだ帰れんのよ。ここでまた迷路を左に曲がっちまったら、同じところを堂々巡りだ。  
 先がよく見えなくても――ずっと同じ方を選んでいれば、どこかちゃんとした所に着くはずなんだ。  
 今帰っちまったら――また俺は迷路の中で、行く先を見失っちまう」  
「めいろ、なの?」  
 
「ん、ああ。ものの例えだがね。俺の人生もこれでなかなか複雑でな」  
「そっか……でも、」  
「うん?」  
「たいしたことないと思う」  
 
この言葉にトマスは少なからず驚いたようだった。  
重そうな眉を持ち上げ、目を丸くした。  
「そりゃどういうことだ、ボウズ」  
「ぼくが知ってるので、もっとふくざつな人生を送ってる人がいるから」  
「へぇ、どんなヤツだいそりゃ。とっしょりのジーサマか?」  
「ううん、女の子。14才の」  
トマスはふたたび目を丸くした。  
そして「ふがん」と鼻息を吹いた。  
やはり子供だ、俺の言いたいことをわかってはいないのだ――という様子で、トマスは大仰に天を仰いだ。  
「バカ言っちゃいけない。まだ成人もしてない女の子がどうして――」  
「日本って国で生まれて、イギリスにやってきて、きおくを失って、メイドをしてるんだ」  
 
「……ん?なんだって?」  
「がいこうかんのお父さんに連れられてイギリスにやってきて、馬車にはねられて、  
頭を打ったらしいんだ。そしたら、今までのこと全部忘れて、なくなっちゃったんだ」  
「……それは、また」  
「なのに、なんだかジウドウとかいうふしぎな技のことは覚えてたり、  
不意にいろんなことを思い出したり、外から見ててもわかるんだ。かのじょの頭の中は  
きっとすごくごちゃごちゃになってる、って」  
「数奇な運命、とでも言うのかな、その子の人生もそりゃあ、迷路だなぁ」  
「そうなんだ、すごく、ぼくが言うのもなんだけれど、すごく混乱した人生を送っているんだ。なのに、なのにね――」  
 
トマスのほうを見て、言った。  
「すごく楽しそうにしてるんだ。いつも笑って――、分からないことだらけなのに、  
 にこにこ、ニコニコして、りょうりでもなんでも、そうじも、楽しそうに――」  
 
ティムはゆかりのことを思い出している。  
遠くはなれた、地図の端っこの島国から、地図の真ん中の国の真ん中の町へやってきて、  
恐れもせず、惑いもせず、毎日を楽しそうに生きている自分の家のメイドのことを。  
「だからさぁ、トマスも――」  
ティムはトマスを見上げた。  
「めいろの中を、笑って歩いていくこと、できないかな?」  
 
ティムは困ったような顔でトマスを見ている。  
トマスは驚いたように喉を詰まらせ、鼻を小さく鳴らした。  
「ボウズ――」  
トマスが何か言いかけたところに、ゆかりの声が元気よく響いた。  
 
「やぁ坊ちゃまお待たせしました! この悪党、なかなか本当のことを吐かないものですから  
 思ったより時間がかかってしまいましたよ!」  
「ハ、ハリー! どうしたんだそのなりは!」  
 
うしろには、自分よりずっと小さなゆかりに胸倉を掴まれて、ハリーと呼ばれた青年が引っ張られている。  
シャツの肩口は破け、ボタンは外れ、全身が土まみれで、髪の毛もボロボロになっている。  
「お、親方ぁ……俺ぁ、何も悪いことは……」  
「黙れ悪党、怪しいことが何もない者がどうして逃げるのだ」  
ゆかりはぐいとハリーの胸を引っ張った。  
(だんだんむちゃくちゃになっていくなぁこの人……)  
 
ティムは苦笑いしながら立ち上がり、ズボンの土を払い落とした。  
「ユカリ、ひとちがいだって。その人はトマスさんじゃなくて、  
 こっちのセイウ……おじさんが、トマスさんなんだ」  
「……え?」  
「だ、だから言ってるだろう! 俺はそんな芋農家の長男なんかじゃないって!   
 なのに……何回言っても何回言っても……う、うう……」  
「あ、あの……その、ご、ごめんなさい?」  
 
ゆかりは巻き込むようにして掴んでいた男のエリを放した。  
白いシャツにしわがくっきりと何本も走っている。  
「あら、ボタンが外れちゃって……ホホ」  
「ホホ、じゃないよ。ユカリ、ちゃんとハリーさんにあやまって。  
 どうせひどいことしたんでしょう」  
「どうせってなんですか、どうせって」  
「してないの?」  
「……しましたけど」  
「したんじゃない」  
「だってあの人、逃げるんですもん!」  
「ユカリが追いかけるからでしょー!」  
「違います! 心にやましいところがあるから逃げるんです、きっとそうです!」  
「違うって……人違いだって何度も言ってるのに……う、ううう……」  
 
ハリーはかわいそうに、泥だらけの顔でほとんど泣きそうになっている。  
「だ、だって路地に追い詰めたら、急に掴みかかってくるんですよあの人! 信じられませんよ!   
 普通の女の子なら悲鳴を上げるようなところですよ」  
「あげたの?悲鳴」  
「……あげませんでしたけど」  
どうやら普通の女の子ではないという自覚はあったようだ。  
「それで、なにしたのさ」  
「つい反射的に、足払いを……」  
ああ、とティムは空に嘆いた。  
情景が目に浮かぶようだ。  
 
袋小路から逃げだそうとユカリに掴みかかるハリーさん、  
悲鳴を上げるでもなく冷静な表情のユカリ、いや、笑みすら浮かべて――。  
どお、とハリーさんの体が崩れ落ちる。  
見上げているのはユカリの顔と白夜の白い空。  
わけのわからない表情で立ち上がり、再び転ばされ、立ち上がり、転ばされる。  
右足を出せば右足が、左足を出せば左足が払われ、駆られ、倒される。  
逃げようと掴んだはずが、いつの間にか逆に胸倉をつかまれ、逃げられない。  
「た、助けてくれ」  
恥もプライドもかなぐり捨てて、年下の女の子に懇願するハリーさん。  
「あなたが本当のことを喋るまで、私は、投げるのを、やめないっ!!」  
鬼のような形相でハリーさんを投げ続けるユカリ。  
 
「――じょうけいが目にうかぶようだよ、ユカリ」  
「……坊ちゃまって私のこと、なんだと思ってます?」  
「大体あってるよ……ボウズ……」  
「あっ、ちょっ、ハリーさん、違いますって! あれはただ不幸な誤解からうまれた不可抗力の事故で……!」  
「ユカリ、ちゃんとあやまって」  
 
ティムは厳しい口調でゆかりに言った。  
「だってあの人が逃げるから……」  
「ユカリ」  
「う」  
ゆかりは口ごもったが、それでも自分のしたことの過ちを認めたのか、最後にはきちんと  
「申し訳ありませんでした。この御無礼、なにとぞお許しください」  
と、手のひらを膝に当てしっかりとハリーに日本風のお辞儀をして謝罪した。  
目の前でぺこりと頭を下げられたハリーは逆に面食らっている様子で、  
目をぱちくりとして何回かまばたきをした。  
 
ゆかりは急に頭を上げ、ハリーの右手を掴んだ。  
ハリーは急に右手をつかまれ、腰を引き身構えた。  
まだ若干、怯えている様子である。  
「申し訳ありませんでした。お許し、ください」  
 
ゆかりはハリーの目をじっと見つめてそう言うのだった。  
「あ、ああ……」  
「お許し、くださいますね?」  
ゆかりは手と目に力を入れてハリーを見上げている。  
「あ、ああ、ゆ、許す、許すよ」  
それがハリーの本心かどうかはわからないが、彼はとにかくその謝罪を受け入れた。  
ゆかりは表情をぱっと明るくし  
「坊ちゃまー!ハリーさん、許してくれますって!」  
満面の笑みでティムに言うのだった。  
「……いいのかなぁ」  
 
「ボウズ、この子がお前さんの言ってた――」  
トマスはさっきからずっと目を丸くしている。  
重たげなまぶたが持ち上がり、ことさらに目が丸くなっているのは、よほど驚いているということだろう。  
「うんそう、日本人の、めいろの子」  
「しんじられんな――あ、いや、色んなことが」  
「でも、じじつなんだ」  
「そうか……なぁ、お嬢ちゃん、アンタ、日本人だってほんとうかい?」  
「ええ、そうなんです。記憶はあんまり無いんですけどね」  
「英語も上手じゃないか、俺よりウマイくらいだ」  
「ありがとうございます。その分――かどうかはわかりませんが――日本語はろくに思い出せないんですけどね」  
 
ゆかりはちょっと微笑んだ。  
その言い方がとても自然で、困っている風には見えなかったから、  
トマスはまたも少なからず驚いたようだった。  
 
「そうか――、いや、たしかに数奇な人生だな」  
「そういう星の下に生まれてきたんでしょう、きっと」  
 
ゆかりはこともなげに言う。  
この人はどうしてこうも、自分の人生をさも重大なことでもないように語れるのだろう。  
ティムは一緒に暮らしていながら、そのあたりについてよくわからない。  
「なぁ、聞かせてくれ。どうして嬢ちゃんはそう、平然としていられるんだ?  
 だってあまりにも――複雑というか、ややこしい人生じゃないか」  
 
 ティムが思っていたことをトマスが訊いた。  
 その表情は真剣であり、この少女に少なくとも何か特別なものを感じているようだった。  
「そうですね――」  
 
とゆかりは少し考える表情を見せて、すぐに答えた。  
トマスはゆかりの言葉の続きを、食い入るようにして待っている。  
「例えば私の人生が迷路のようなものだとして、そこを歩く時に――  
――楽しまなきゃ、もったいないじゃないですか」  
ゆかりはそう言って白い歯を見せ、太陽のように快活な笑顔を見せるのだった。  
 
「…………。」  
トマスは目を丸くして、この少女のことを見つめていた。  
「ぶ」  
というトロンボーンのような音がしたかと思うと、  
「ぶわっはっはっはっは、そうか!もったいないか!」  
大きなおなかをたたきながら、コントラバスのような大声を出して笑い出した。  
「せっかくの、自分だけの迷路ですもん」  
「ぶおはは、そうだな、せっかくだもんな、ぶはは」  
トマスはしばらくのあいだそうやって笑い続けた。  
 
まるでほんとうにセイウチが喜んでいるような様子だった。  
しかしティムは見たのだった。  
トマスは笑いながら、たしかに涙をこぼしていた。  
 
 
 
  *後日*  
 
「結局あの後どうしたんですかね、セイウチさん」  
「トマスさんでしょ。…でも、本当にどうしただろうねぇ」  
 
今日も買い物中の二人である。  
フェルトの帽子をかぶったゆかりと、ストローハットをかぶったティムの頭が、  
うずたかく積まれた野菜たちの山から見え隠れしている。  
「ようっ!ユカリちゃん!元気かいっ!」  
「あ、おじさん。こんにちはー」  
いつもにも増して野菜の量が多い。  
ジャガイモの入った木箱が地面からつまれて、巨大なピラミッドをなしている。  
「こないだはありがとうね!」  
「え?」  
「人探しさ! まさか本当に見つけてくれるとは思ってなかったけど、  
トマスさんが帰ったおかげであの家、大助かりらしいよ!」  
「!」  
ティムとゆかりはお互いを見合い、笑いあった。  
「ほんとうに帰ってくれたんだ!」  
 
「これも私のおかげですね!」  
「え?キミ、ただ人を投げまくっただけじゃん」  
「う」  
「それも人ちがいで」  
「う」  
「だのに『私のおかげ』って……」  
「うう」  
「ま、まぁ誰のおかげでも、奴さんが見つかって、家に帰ったのはほんとうだ!  
 見ろよこのイモの山! 今まで取りそびれてたぶんも掘り返して、この量さ!」  
 
たしかに、このイモはちょっとした量である。  
ほとんど山をなしている。  
ロンドン動物園の象も一日では食べきれまい、というぐらいの量がつまれている。  
「約束どおり、どれでも好きな野菜もって行きな!」  
「じゃあ……おイモ、ですね?」  
 
ゆかりがティムにたずねると、ティムは元気よくうなずいた。  
 
「何個食べます?この際だから、5、6個もらって行っちゃいましょうか」  
「ひとはこ!」  
「……。」  
「……。」  
 
無邪気なティムの言葉に絶句したのはゆかりと八百屋の主人である。  
「ぼ、坊ちゃま。誰がそれを家まで持っていくんですか?」  
「て、ティム坊。世の中には『遠慮』という言葉があってだな……」  
「なにさ、これだけあるんだからひとはこぐらいいいじゃない。このケチンボ!守銭奴!  
 ぷろてすたんてぃずむの悪権現!」  
「ぼ、坊ちゃま、それくらいにしておいた方が……!」  
 
ティムの目の色が変わっている。  
今のティムは大量のマタタビを目の前にした猫とさほど変わらないのだった。  
「ほほーう、言うじゃないかティム坊……」  
八百屋の主人は唇の端を吊り上げて頬をピクピクさせている。  
「言ったらなんだっていうのさ、このすっとこどっこいのこんこんちき!」  
「ぼ、坊ちゃま……!?」  
「おーうよく言ったティム坊!そうなりゃ俺もこのコヴェントガーデンで20年八百屋を張ってる男!  
 ケチなこたぁいわねぇ!2箱でも3箱でも、好きなだけもって行きゃがれいっ!」  
「やったぁ、そうこなくっちゃ!」  
 
ティムは喜んで、本当に飛び上がった。  
そうして、店主に向かって苦笑いをしているゆかりに  
「こうしょうってのは、こうしてやるんだよ」  
と生意気な声で耳打ちした。  
 
 
台所である。  
時間は午後の7時を回っても、まだまだ明るい。  
「さて、この大量のジャガイモ、どうしましょうかねぇ」  
「じゃがいもまつりだー」  
「そうですねぇ……」  
 
二人の目の前には木箱が4つ、正方形に詰まれている。  
この木箱の中にはみっちりとジャガイモが詰め込まれているのである。  
普通どおりに消費したとしても、2〜3ヶ月は新しいジャガイモを買わないですむだろう。  
まぁ、消費しきるまでにイモから芽が出てしまうことは明白だが。  
「先生の家にでもおすそわけしましょうか……」  
「ええー」  
「食べきれないでしょうよ、こんなに」  
「食べるもん!」  
 
ゆかりがため息をついたとき、玄関でノックの音がした。  
「ハーイ」  
 
扉を開けると、そこは雪国……ではなかったけれども、ちょっとした異観が広がっていた。  
「な、なんですかこれは…」  
「こちら、ティム・ダーヴァレイ様の御宅で間違いないですよね?」  
 
荷馬車を操る若い御者は、メモを手にしながらゆかりに尋ねた。  
「ええ、そうですが……。な、なんですかこの、大荷物は」  
「お手紙も預かっております。ハイこちら」  
御者は一通の手紙をゆかりに渡した。  
裏面を見る。  
そこには不慣れな文字で「トーマス」と書かれていた。  
「ユカリ、なに書いてあるの?よんでよんで」  
「……なんだかいやな予感がしますが……コホン。  
 拝啓ティム&ユカリ殿、このたびはなんだかえらいお世話になってしまってありがとう存ずる。  
 私は実家に帰って農家を継ぐことに決めまして候……なんだかむちゃくちゃ文章ですね……  
 工事の方はハリーのヤツに監督をまかせ……まぁ心配ないだろうとは思いますに御座候……  
 つきましては、お礼といっちゃあなんですが、うちの畑で取れたジャガイモを一杯、お送りします……!?」  
「わぁ!またおイモだ!」  
「そうですよ!さっき4箱ももらってきたばっかですよ!もういらないですよ!  
一杯って、こんなにたくさん、一体どうやって食べろって――」  
 
馬車からは次々と木箱や麻袋が下ろされて、家の前に積み上げられている。  
「それにしても、おおいねぇ」  
ティムがほくほくした笑顔で言った。  
ゆかりは御者に尋ねる。  
「あ、あの……『一杯』って、その量は、具体的にはどれくらい……?」  
 
御者は一瞬怪訝そうな表情を見せ、「失礼」と言ってゆかりの手から手紙を取り、読んだ。  
「ああ、この『一杯』っていうのは『たくさん』ってことじゃなくて、  
 この『馬車一杯分』っていうことですよ! なんだか取れて取れて、大変みたいですよ」  
「ば、『馬車一杯分』!!」  
 
ゆかりは素っ頓狂な声を上げた。  
そんなバカな。いくらお礼とはいえ、正直に言ってしまえば、このお礼はそんなにありがたくない。  
なんて思っているうちにも、荷物はどんどんと馬車から降ろされ、家の前に積みあがっていく。  
こころなしか馬も荷物が下りてほっとしているようだ。  
まさに「肩の荷が下りる」というやつだ――なんて考えている場合ではない。  
「ちょ、ちょっと待ってください!こんなに降ろされても、ウチではどうしようもありませんよ!  
もう一回積んで、持ち帰ってください!」  
 
ティムと御者と馬が「ええー」という不平顔をした。  
いや、馬はウマヅラのままであったかもしれないが、とにかくそう見えた。  
「いや、そう言われましても、私どももこれが仕事で御座いますから、一旦全てダーヴァレイ家に届けた、  
 という形になりますので、これからとなるとまた料金のほうが発生してしまいますが……」  
「う」  
「いいじゃんいいじゃん、おとなりさんとかに配ってさ、パパのおべんとにしてさ、煮てさ、焼いてさ、食べ切れなかったら、お庭にうめればいいじゃないのさー」  
「いや坊ちゃま、いいじゃないのさーと言われましても……」  
 
と言ってる間に、玄関はほとんど芋の木箱と麻袋で埋め尽くされてしまった。  
「ああ……イモの壁が……」  
「なんてごうせいなんだろう! これ全部がおイモだなんて!」  
これからいかにしてこのイモの砦を崩して行ったらいいのか、と頭を抱えて嘆くゆかりの隣で、  
ティムは無邪気に目を輝かせて喜んでいるのだった。  
 
嘆いていたゆかりもそのうちに覚悟を決めて、芋を階下の台所まで運び始めた。  
ティムも非力ながら嬉しそうに手伝っていた。  
御者たちもなんだかいたたまれなくなって、ゆかりを手伝ったのだった。  
 
ロンドンの空はいつまでも明るく彼女らを照らし、  
実家に帰ったトマスは汗を芋畑に滴らせ、  
ハリーはボロボロのシャツのままで現場監督に昇進し、  
その他諸々の人々もそれぞれの人生を歩んでいるのだった。  
あるいは楽しそうに、あるいは悩みながら。  
人にはそれぞれの迷路があって、  
それぞれの判断基準で進む道を決めたり決められたり翻弄されたりしながら、  
それでも大方はしっかりと自分の迷路を歩んでいるのだった。  
そして太陽はいつまでもその人らを照らしている。  
 
ゆかりは両手で芋の木箱をつかみ持ち上げると、  
「うっ、重い……ええい、いいでしょう!受けてたちますよ!一ヶ月耐久お芋レシピ研究だ今月は!」  
快活な笑顔で、いつまでも沈まない太陽を見上げ叫ぶのだった。  
 
 
 
 
 
  *『6月のじゃが芋』 終わり*  
 
 
 
 
  *epilogue*  
 
それからしばらくの間、ティムの父・ジョンが「イモに追いかけられる夢を見た」とか、  
ティムの家庭教師・マーロットが「ばあさんの顔がイモに見えた」と言って  
しこたま怒られたりだとかするのだけれど、  
やはり台所全てを埋め尽くすような量のイモは消費し切れなかった。  
 
さて、やはり食べ切れなかった芋であるが、ティムの主張どおりそれは裏庭の小さな畑に埋められた。  
その種芋が来年の夏、どれだけ大量の新ジャガを生み出すかこのときの二人は想像もしなかった。  
来年の夏には、なぜロンドンの街中でこれほど、というぐらいの巨大なイモが大量に取れてしまい、  
一応の責任としてティムとゆかりはイモの行商人のような真似をしなければならなくなるのだけれど、  
それはまぁ、とりあえず未来の話だ。  
 
 
 

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