アルマを背負って歩くゆかり達がマーロットの家に着いたのは、街を赤く照らしていた
太陽もほとんど隠れ、あたりが薄暗くなった頃だった。
思いがけない客にマーロットは驚いた顔を見せ、アルマが怪我をして歩けないから
背負ってきたのだという事情を聞くと、いつもは厚い眉に隠れて見えない目を大いに
見開いて更に驚きを示した。
アルマはここで降ろしてくれていいと言ったが、ゆかりは寝室まで運びアルマを
質素なベッドの上に寝かせた。
「ああ……ユカリちゃん、ありがとう、ね」
ベッドに寝かされたアルマは、息を吐き出すと何よりまず先にゆかりに礼を言った。
「いえ、お礼なんて。それより腰は大丈夫ですか?ひどく痛みませんか?」
「ええ、すこししりもちをついただけだもの……。大丈夫よ」
「そうですか……」
少ししりもちをついただけだとアルマは言ったが、そんなことはあるまい。
少なくとも立って歩けない程度の痛みがあるからここまで背負われてきたのだ。
「おう……二人とも、悪かったの……どうじゃアルマ、痛むか」
マーロットがポットとカップを持って寝室へ入ってきた。
「あらおじいさん、ええ、大丈夫よ。大したことは、ないもの」
「そうか……大したことはない、か」
マーロットはポットとカップをベッドの横のサイドテーブルに置くと、ベッドの際に腰かけてため息を吐いた。
短く吐かれたため息で口ひげが少し揺れる。
「お前はきまって、ほんとうは大変な時にそう言うんじゃ。」
マーロットはそう言って目を伏せた。あら、そんなことないわよとアルマは言ったが、
「ふん……何年お前とつきあっとると思っとるんじゃ、それくらいわかるわい」
とマーロットが言い返すと、アルマは黙って微笑むだけだった。
「ほれ、二人とも、飲むか。外はもう寒かったろう」
そう言うとマーロットはサイドテーブルのカップをティムとゆかりに手渡した。
「あ、すいません。言ってくだされば私が……」
「なに、今日はユカリちゃんたちが客じゃ。これくらいのお礼はさせい」
「そうですか、では、遠慮なくいただきますね」
先生が紅茶を淹れるなんて珍しい、というか淹れられたんだな。と、普段マーロットに
紅茶を淹れているゆかりは意外に思った。
だが熱い茶を好みにしているマーロットが淹れたにしてはカップもやけに冷たいような、
だとか、ゆかりがいろいろと不審に思っていると
「へえ、先生、自分でもお茶淹れられたんだ?」
ティムも同様に思っていたらしく、そのことについてマーロットに尋ねつつカップに口をつけた。
「うむ?いやそれはお茶じゃあ――」
「んにぃ……にぃっがぁー!!」
マーロットの言葉の途中でティムが叫んだ。
舌を突き出して必死に口の中のものを出そうとしている。
「坊ちゃま!?」
いったい何事かとゆかりも自分のカップに口をつける。
「にがっ……先生、これ……」
眉毛をハの字にしてゆかりがマーロットの方を見るのと、アルマの怒鳴り声が響くのとは
ほとんど同時だった。
「あなた!!」
アルマはかたわらにあるポットを両手でつかむと、鼻をひくひくと、匂いを嗅いだ。
「……やっぱり、ビールじゃないの!!子供になんてものを飲ますのよ馬鹿!」
「だってわし、紅茶なんて淹れられんし……」
「だからってビールなんて出さないでちょうだい!二人ともまだ未成年でしょ!!」
「だって、わしが子供の頃には未成年がビールを飲んじゃいかんなんて法律は……」
「何年前の話をしてるの!」
「う……」
半世紀とちょっとだけ前じゃよ、と言う言葉は口元で留めた。
実際はマーロットの子供の頃は半世紀どころか70年ほど前にさかのぼるのだが。
しずかな部屋にいきなり響いたアルマの怒声と、いつも家でみせる教育者然とした態度とは
かけ離れた様子のマーロットに、ティムとゆかりは目を丸くした。
二人とも頭からつま先までぴんと伸ばした同じ姿勢で固まっている。
「……あらやだ、ごめんなさいね、二人とも。おじいさんはほんとにもう……、
あたしがいないと、なんにもできなくて」
アルマはそう言って謝った。
マーロットは威厳なくうなだれている。
二人は初めて見るマーロットの情けない姿に、すごく愉快なものを感じた。
「いえ、とんでもない。誰にでも得手不得手はありますから……ね、先生?」
「そうだよおばあちゃん、おばあちゃんがあやまることなんて何も……ねぇ、先生?」
二人とも意味ありげな笑みを浮かべながらマーロットを見つめた。
目は口ほどにものを言うというが、二人の表情は言外の言葉を実に雄弁に語っていた。
その二人の表情に、マーロットは顔をしかめて唸るだけだった。
「ユカリちゃん」
ゆかりが新しく茶を淹れ、それも飲み終わり後片付けをしようと台所に立つと
マーロットが声をかけてきた。
「悪いが、今日はうちで夕飯を作っていってくれんかのう?わし一人ならパブでも
どこでも行くんじゃが、ほれ、ばあさんはああじゃし……、それにもう、すっかり暗いしのう。
しかしまったく……ロンドンも物騒になったもんじゃわい」
「ええ……あと少しで、犯人を捕まえられたんですが……すいません」
「だれもそんなこと責めとりゃせんよ、なに、ヤードの連中だって無能ではなかろう」
「……だと、いいんですが」
「なんじゃ、警察を信用しとらんのか」
「いえ……そういうわけではないんですが」
とは言うが、やはり警察には捕まえられないような気がした。
何しろあの素早さはそうあるものではなかった。
「……ふむ、まあええわい。それで、どうじゃ、飯を作っていってはくれんかな?」
「ええ、それはもちろん」
「そうか、助かるよ。ジョンには後でわしからも説明しよう」
二時間ほど前に自分で選んだ人参を見つめながら、なんだか珍しいことになっちゃったなあ、
とゆかりは心の中で呟いた。
「ええと……包丁は……」
慣れない台所は使いづらい。
ゆかりが包丁を探してあちこちを探していると、アルマが杖をついて現われた。
「包丁なら、流しの横にあるわよ」
「奥様!」
大丈夫なんですか、そう聞きたいのを表情で察したアルマが、聞かれる前に答えてしまう。
「大丈夫よ。ほら、杖だってついてるし……おじいさんの、なんだけどね」
そういって右手の杖を見せ、ふふ、と小さく笑った。
「手伝ってはあげられないけど、ベッドで寝ているだけなのもなんだか落ち着かなくてね……
お邪魔かしら?」
「そんな、邪魔だなんて!」
「そう?……それで、なにを作ってくれるのかしら」
「ええ、まあ、予定通り、ポトフでいこうかな、と……そうだ!奥様、よかったらポトフの作り方教えてくれませんか?私、まだお料理があんまり上手じゃなくって。
いま、覚えてるところなんです」
「あら、そうなの。ええ、私のやり方でよければ、いくらでも」
「本当ですか!……嬉しいです」
ゆかりは本当に嬉しそうに笑った。
天真爛漫なその笑顔に、アルマはなんとも言われない気持ちのいい感情を覚えた。
本当に素直に感情を出して表情を変えるゆかりを、好ましく思う。
しばらくして、
「ユカリー…、まだぁー?」
「アルマー…、まだかのう?」
料理ができるのを待ちかねたティムとマーロットが台所をのぞきに来た。
台所の扉から首だけ出してこちらをのぞいている。
「はいはい、今できますよ。座って待っててください」
「……なんですかおじいさんまで!もう少しくらいまってなさい!」
アルマが怒ったので、二人は急いで戻っていった。
「恥ずかしいわ……ほんとにもう」
アルマがゆかりに言った。
こんろの上の鍋からは、野菜や肉やスパイスの混ざったいい香りが白い湯気と一緒に
もわもわと立ち昇っている。
「いえ、仲がよろしくて、羨ましいです」
「ふふ……あの人も私も、出会ってからもう随分経つっていうのにあの人のああいうところは
ちっとも変わらなくて……。困っちゃうわ」
しかしそう言ったアルマの表情はちっとも困ったようではなくて、優しい微笑がうかんでいた。
ゆかりはアルマのそんな様子をじっとを見ていると、アルマもそれに気付いたらしく、
顔を赤くして
「さあ、もうできたわ、早く持って行きましょう」
といってゆかりを急かした。
居間には天井からつるされたランプに火が灯されて、暖かい橙色に部屋を照らしていた。
ティムとマーロットはきちんとテーブルについて待っている。
「はいはい、おまちどうさまでしたー」
ゆかりがテーブルの真ん中に鍋をどんと置いた。
「アルマさん風ポトフですよ。……うまくできたかは、わかりませんが」
ゆかりが自信なさげに言葉を付け足すと、アルマがうしろから声をかけた。
「あら、ユカリちゃん、包丁の使い方もじょうずでしたよ」
「へへ……そうですか?」
この人に褒められるとなぜか、すごく嬉しい。
飾り気のない褒め言葉にゆかりは照れてぽりぽりと後頭部を掻いた。
大きく口を開けた鍋からは白い湯気と最高の香りがどんどん湧き上がってきていた。
その香りに食欲を大いに刺激されながらも
「いがいと、ごうかいだねえ……おばあちゃん風ポトフ……」
目の前に置かれた鍋を見てティムが呟いた。
どうやら食べたい者はここから好きなだけとるというシステムらしい。
「そうかしら?……ティムちゃん、いっぱい食べてね」
「うん、食べるよ」
「ユカリちゃんも、エプロン外しなさいな」
「ええ、ありがとうござます」
ゆかりがエプロンとヘアキャップを外し、ティムの隣に座るとアルマが厳かに祈りを始めた。
「……天にまします我らが神よ……本日も糧を与えたもうたことに感謝します……」
マーロットも口をそろえて呟いている。
いきなりであせったのはティムとユカリである。
普段はこんな長ったらしいお祈りなどはしないのだ。
食べる前には「いただきます」食べ終わったら「ごちそうさま」
実にシンプルな感謝の言葉だけである。
ゆかりは小声でティムに耳打ちした。
「ぼ、坊ちゃま、お祈りですよ!」
「う、うん……そうだね」
「……お祈りの正しい文句、わかります?」
「……パパも、知らないんじゃないかな?」
二人は目を合わせると苦笑いだけで意思を疎通した。
アルマがちらりとこちらを見たので、慌てて手を組みアルマに続く。
正しい文句は分からないがとにかくそれらしいことをアルマの真似してごにょごにょ言った。
「――……アーメン」
三分ほどかかったお祈りの最後だけはティムとユカリもきれいに唱和した。
「ふう……いっただっきまーす!」
と言ってナイフとフォークを持つと、ティムはあっという間に一皿目を平らげた。
「坊ちゃま、早いですね」
「おなか、へってたんだもん」
「おかわり、取りましょうか?」
「うん、おねがい」
ゆかりに皿を手渡し、その間にもパンをちぎって口に放り込む。
小さな口にどんどんパンが吸い込まれていく。
よほど腹が減っていたのだろう。
「ハイ坊ちゃま、どうぞ」
「ありが、と……う……」
おかわりをよそった皿を受け取ろうとゆかりへ伸ばした手は、勢いを失って止まった。
皿には、いろどりきれいに人参が顔を見せていたのだ。
「……どうぞ」
「たべるよ……食べますよぉ…だ」
諦めたようにティムは皿をうけとり覚悟を決めると、鼻をつまんでおそるおそる人参を飲み込む。
ゆかりはその様子見て満足そうに微笑んだ。
どうやら味も好評のようでほっとした。
じっさいに自分で食べてみるとやはりおいしい。
上々の出来に、スプーンを口に入れたままのゆかりの口から自然と満足げな笑いが漏れる。
「むふ、むっふふ、むふふふ……」
「ユカリ、なにそのわらいかた」
「…………ごめんなさい」
さすがに自分でもすこし気持ち悪いと思った。
「ああそうだ。今日は庭の花にまだお水をやっていなかったわ」
アルマが思い出したように言った。
「おいおい、そうはゆうても今日はもう暗いし、お前はそんなじゃから、無理じゃろう。
明日わしがちゃんと二日分やっとくよ」
「ううん……今日やらなかったら明日に二日分やればいいとか、そういうものじゃないのよ。
それにおじいさん、水をやりすぎてすぐ腐らせちゃうじゃない」
「う……古い話をよう覚えとるわい。なに、失敗を経験したわしはあの頃のわしとは違うのじゃ」
「そうかしら……不安だけど、おじいさんにやってもらうしかないものねえ……。
こんなじゃ、きっと水も運べないだろうし……」
「そうじゃ、大体アルマは少し働きすぎなんじゃ、他みたいにうちもメイドを雇えばよかろう。
それくらいの貯金はちゃんとあるんじゃぞ。どうじゃ、この際、いい機会と思って。
それに、ユカリちゃんみたいなメイドならお前も気に入るじゃろ」
「……メイドが嫌いなわけじゃないの。でもね、やっぱり自分でできることは自分でやった方が、
気持ちいいじゃない?私だって、まだまだ元気なのよ」
「でもいまは怪我しとるじゃろうが……」
きっと二人はいままでに何度か同じ問答を繰り返しているのだろう、マーロットは
何度も聞いた同じ答えに諦め顔でそうつぶやくだけだった。
元はシスターだったアルマだ、自分である程度のことはできるし、自分ができるうちは
他人に頼る気もしないのだろう。
世間の風潮に流されない、教義を自分の中に消化して信念としている、立派な人物であった。
「ねえ、ふたりも、自分でできることは自分でやったほうがきもちいいわよねえ?」
アルマはティムとゆかりに話を振った。
「え、ええまあ……」
「うん……まあ、そうだよ、ね……」
ティムとゆかりはそれぞれ自分の生活を振り返った。
……そういえば今日も坊ちゃまに起こされたんだった、あ、あとあのお洋服の直しも
面倒くさいからベルさんにやってもらって……
……ああ、今日もけっきょくまたちゃんとよしゅうしないでごまかしちゃったっけ。
そうだ、もうやってあるって言ったあのしゅくだいもホントはまだやってないし……
「や、やっぱりアルマさんのゆうとおりですよねえ、坊ちゃま?」
「ホントそうだよね、ね、ねえ、ユカリ?」
「ですよねー……あ、あははは」
「だよ、ねー……え、えへへへ」
二人は顔を見合わせずに笑った。
笑い声はどことなく乾いていた。
「ア、アルマさんは昔、シスターさんだったんですよね?」
なんだか話題を変えたくなったので、ゆかりはとにかくアルマに話しかけた。
「ええ、そうよ」
「シスターさんって、結婚しても、いいんですか?」
と聞くと、横からマーロットが口をはさんできた。
「わしが無茶を言った!」
マーロットはなぜか自信満々に胸を張っている。
「ほんとうはずっと教会でお仕えするつもりだったのだけど……」
「先生がむちゃを言ったんだね?」
「うむ、ティム坊、その通りじゃ!」
ティムは皮肉のつもりでそういったのだが、やはりマーロットはなぜか胸を張った。
きっとよほどの無茶をしたのだろう。
「ふふ……あまりにも、熱心に誘ってくるものだから……情にほだされた、っていうのかしら。
すごく純粋な人で、わたしの、あとの人生は、神様じゃなくて、この人と暮らすのも
いいかもしれないって思って、ね。私は神様より、人の持つ神性に惹かれちゃったの。
人の中にも神様はいるってことに、気付かせてくれた、すごく純粋な人にね」
アルマは少し気恥ずかしそうに、昔のことを思い出しながらぽつりぽつりと口に出した。
「そうなんですか……」
ゆかりの感心したようなくちぶりにアルマはハッとして、
「あらやだ、何を言っているのかしら、私ったら!もう随分昔の話よ、忘れて頂戴!!」
アルマはランプの暗い明かりでも分かるほど顔を真っ赤にして両手をぱたぱたと振った。
「ふふふ……奥様ったら、可愛い」
「やだ!ユカリちゃんってば何を言うの!!」
アルマは、からかわないでよ、という風にユカリの肩を叩くまねをした。
見ると、マーロットもしわまみれの顔を赤くしている。
「そ、そうじゃ、おまえ、あの時あげたダイヤのブローチはまだ持っとるのか?」
マーロットはごほんと咳払いをしてからアルマに話しかけた。
聞かれたアルマは口ごもって答えようとしない。
「なんじゃ、あれじゃよ、結婚する時、記念にあげた……」
「おばあちゃん、ひょっとしてあのぬすまれたブローチ!?」
ティムが驚きの声を上げた。若い頃にもらった、とは聞いていたがそんなに大事なもの
だということまでは知らなかったのだ。
ティムの叫びにアルマは困った顔をした。
「なに!あれを盗まれたのか!!」
アルマはマーロットに何を盗まれたかとはまだ伝えていなかったのである。
「なんじゃあ……くだらん賊ふぜいめがッ……!!」
初めて聞く事実にマーロットは驚き、あらためて怒りをあらわにした。
「やめて」
アルマははっきりと短く言い切った。
一度息を吸いなおして、言葉を続ける。
「大丈夫よ。確かに品物は失われてしまったかもしれないけど、思い出も、
あのときの幸せな気持ちも、なにも失われていないわ。それに、きっとあの人にも
何か事情があるのよ……。だって考えてもみて、あんなに安くておいしい食べ物が
いっぱいある市場で、盗みを働かないとそれすら買えずに眺めてるだけなのよ。
いったい、どれほど辛いことでしょう。ね、私たちはこうしてご飯が食べられて
幸せじゃない。せめてもあのブローチが彼の救いになれば幸いよ。
彼が救われますように、祈りましょう?」
そう言ってアルマは本当に祈り始めた。
そんなアルマの様子にマーロットは半分呆れたような表情で
「……ばあさんは人が良すぎるわい……」
と呟いた。
あのブローチは、二人の思い出の品なのだ。そう簡単には諦めきれない。
それに、怪我をしているのは自分じゃないか、なぜそうも盗人の立場になれるのか、
アルマ以外の三人には理解ができなかった。
しかしそれでも、無心に祈りを捧げるアルマの姿には少なからず人の心を打つものがあった。
三人はアルマの祈りが終わるまで、黙って彼女を見ていた。
「今日はありがとうね、二人とも」
玄関の扉を開ければ、外はもうすっかり暗く、ぽつぽつと星がでている。
「ああ、いいですよ見送りなんて、外は寒いですから早く中に入ってください」
「そうだよおばあちゃん、これでかぜでもひいちゃったら、さらに大変だよ」
「そうじゃそうじゃ、二人の言う通りじゃ。はよう中に入ってやすんどれい」
ゆかりとティムとマーロットは立て続けに言った。
アルマは少し不満そうな顔をして、それでもしっかり三人を見送って家の中に入っていった。
「先生もべつによかったのに。こなくても」
「なに、こんな遅くに子供だけでは帰らせられんよ」
マーロットは季節の移り変わりの速さに少し驚いた。
本当にいつの間にか寒くなったものだ、喋ると息が白くなって出ていく。
ティムはそれを楽しむように何度かため息を吐く。
「大丈夫だよ、ユカリがいるし。それに、先生が来たら来たでさ、
帰りはよぼよぼのろうじん一人になっちゃうじゃん」
「ほほ、そうじゃな、ユカリちゃんがおれば……誰がぁヨボヨボじゃ!」
「きづくのがおそいよ……」
マーロットがすかさずティムの頭を小突くと、「いたいなあ」といって小さな両手を
ポケットから出して頭をさすった。
ジョンの家がある通りまでつくと、マーロットは早々に帰っていった。
家でお茶でも、とゆかりは言ったのだが、「ばあさんが心配じゃから」と言って帰ってしまった。
良い夫婦だ、素直にそう思った。
その良い夫婦の奥さんが怪我をさせられた、あんな良い人が傷つけられたのだ。
アルマがいい人であるのは初対面のゆかりも、一日だけで十分にわかっていた。
青く冷たい空気の中を、二人は黙って石畳を蹴り進んだ。
「ユカリ」
少し進んだところで、ティムは耐え切れないと言った様子で歩を止め、呟いた。
「なんですか、坊ちゃま」
「……はんにんを、ゆるせるかい?」
ティムはまっすぐにゆかりを見上げて聞いた。
強い意志を持った目だ。
「当然――許せません」
ゆかりは何か足元から熱気が立ち上るのを感じていた。
しかしそれは錯覚であり、熱気の正体は自らの純然たる怒りであった。
ゆかりはティムの青い瞳に、怒りの炎が燦然と燃えているのを見た。
ティムはユカリの瞳にまた同じものを感じ取っていた。
二人は言葉を交わさずに、互いの瞳を見つめながら頷いた。
晩秋のロンドンの夜はもう十分に寒かったが、二人は全くそれを感じなかった。
明日から盗人狩りだ――。
二人の決意は固く一致していた。