『A SLIGHT DISPUTE IN MARKET 人の中の神様』
翌朝、夜露になりきれなかった水分は空気中で他の水分と結びつき、漂い、
霧となってロンドンの街に覆いかぶさる。
その中を、黒い外套を着込んで歩く二つの人影があった。
ティムとゆかりである。
いつもはこんなに朝早くから活動を始める二人ではない。目的がある。
昨日の夕方――随分時間が経ったような気もするが――アルマからブローチを奪って、
一度は追い詰めておきながら、逃げられてしまった引ったくり犯を捕まえようと、
今からコベントガーデンへ向かうところなのだ。
「坊ちゃま、寒くは無いですか?」
ゆかりは隣を行くティムを気遣った。やはり朝はかなり寒く、体が自然と縮まる。
「うん、大丈夫」
ティムは短くそれだけ言うとうつむいて、首だけでもマントにうずめる。
「そうですか」
ゆかりもそうとだけ言って、じぃっと前を見て歩いた。
少し時間が早すぎたかもしれない、あまりに道にひとけが無いのでそう思っていたゆかり達だったが、
コベントガーデンに着くとそこにはもういくらかの馬車、一口に馬車と言ってもいろいろなものがあるが、
この場合は大八車を馬が引くというだけの簡素なもので、その荷台には野菜が満載されている、
そういった馬車が並んでいた。
「わあ……もうこんなに」
ゆかりはいつもの自分は今から何時間後に起きているのか思い出しながら、この時間に
これだけの人数が商売の準備を始めていることに驚いた。
まだ夜もあけきってない朝、いや、人によっては深夜と言うかもしれない時間だ。
それなのにここに集まっている男たちはただ黙々と馬の世話をしたり、馬車の泥を落としたり、
商品である野菜を美しく並べたりしている。
無心に働く人々の姿を眺めていると、急に声をかけられた。
「おう!なんだ!!ユカリちゃんじゃねえか!どうした、こんな早い時間に!」
振り向くとそこにいたのは
「……誰でしたっけ?」
ゆかりには分からなかった。
男は少しがっかりした様子で自分のことを説明した。こういうとき、ちょっとむなしい。
「おぅ……ほら、昨日さ、カブラ買ってくれただろ。うちでよう」
「ああ!八百屋のおじさん!!昨日のかぶら、おいしかったです」
思い出してくれたか、男の顔がぱっと明るくなる。
本人に自覚は無いのだが、ゆかりはこの界隈ではちょっとした有名人であった。
だいたいこんな下町の実用的な青果市場に、可愛らしい東洋人の女の子がいるというのが珍しい。
そしてその子がメイドとして働いているようだというのもまた珍しければ、
極めつけは昨日の、市場を北から南まで股にかけた大捕り物である。
犯人を逃がしてはしまったものの、素早い身のこなしで雑踏をすりぬけ、犯人を後一歩の
ところまで追い詰めたと言う話は、昨日のうちにこの市場に広まっていた。
なんだか面白い娘がいる。
そういった印象で、なんだか多くの人に知られてしまっているのだった。
「で、どうした今日は。午前と午後を間違えたんか?」
八百屋の親父は大して面白くも無い冗談を言うと、がははっと大口を開けて笑った。
体を動かしているものは体温も高い。暖かな息が白くなって、冷たい空に広がる。
「いえ、その、昨日の引ったくり犯のことで、知っていることがあれば教えていただきたいな、と」
「うん?ああ、きのうのあの野郎のことか。まぁったく、このコベントガーデンでよう。
ふてえ野郎だぜ。」
親父は、吐くようにつぶやくと、
「だが、あいつは、昨日初めて見たな。ここらでは見ない顔だったぜ」
とも付け足した。
「ということは、いままではああいったことはなかったんですか?」
「いやまあ、無いっつうこともねえけどよう、あんまり大きな事件も無かったんだよ。
なんだ、昨日怪我をさせられたのはアルマさんだって話じゃねえか。
「お知り合いなんですか?」
「おう、知り合いつうか、な。……あの人は珍しい人だぞ、いつも俺らみたいな者にも
丁寧にお礼を言ってくれるんだ、きれいな英語でさ、『ありがとう、ミスター』なんつってよう。
俺が、『’’ミスター’’なんて悪い冗談はやめてくれ』つうとアルマさんは
『あら、あなたは十分に尊敬に足る――リスペクタビリティを備えた立派な人物だわ。
ほら、自分の手を見てごらんなさい。切り傷がいっぱいで、分厚くて、ごっつくて、
働き者の、立派な手をしているわ。そんな手になるまでどれくらい働いて、その成果、
おいしいお野菜を私たちに届けてくれたんでしょうね。私には、とてもできないわ。
だから私は尊敬するの――いつもありがとう、ミスター』
なんつってくれて……そういわれた時よう、なぜだか涙が出てなぁ。初めて――そう、
初めてかもしれねえな、自分の仕事に、誇りつうもんを感じたのは。それからなぁ、
こう……目の前が、ばぁー……っとひらけてな。それまでは面倒くさい……憂鬱な作業でしか
なかった農作業の一つ一つが、楽しくなってきてなぁ……寒くて、その分きれいな空気の中で、
この荷台に今、収穫した野菜を山積みにしたその姿をみてると……何ともいえない……
こう、喜び、みたいなもんが、体中に漲って来るんだよなあ……。
まあ、つまりアルマさんは俺の人生を全く好転させてくれた、大恩人ってわけだ。
……そのアルマさんを―――――」
八百屋の主人は明らかに顔を紅潮させ、怒髪天といった様相だった。
目は空を睨み、食いしばられたあごは小刻みに震えている。
「さぁ、ユカリちゃん、俺にできることがあったら何でも言ってくれ。
あいつを、捕まえるんだろう?周りの奴らにも できるだけの協力をさせよう。
なに、ここの奴らは多かれ少なかれ、アルマさんには世話になってるんだ。
嫌だなんて、言わせねえよ」
そう言うと、八百屋の主人は市場を見渡した。どの顔も知っている。
みんなこの市場で精一杯商売をしている、仲間なのだ。
「そうですね、あの、昨日は、犯人が人ごみの中に倒れて、しめた、と思ったら
なぜか逃げられてしまっていたので、今度は人ごみにまぎれさせる暇も与えたくありません。
どうにかして、人ごみをなくしたいんですよ」
そういうゆかりに、ティムが横から口をはさんだ。
「とはいってもユカリ、やおやさんたちはともかく、ここに来てるのはだいたい
ふつうにかいものにきてる人たちだから、おじさん達がきょうりょくしてくれたとしても
それをなくすのなんて、むりなんじゃない?」
「そう、なんですよねえ……」
それはゆかりも分かっていたことだった。八百屋の主人が協力してくれると言う申し出は
実にありがたいのだが、問題は人ごみなのだ。
どういった協力が一番効果的か、どう要請するべきか、ゆかりは口に手を当てて考え込んだ。
――人ごみは犯人が逃げるのに有効でこそあれ、こちらの有利にはならないことが分かった。
どうにかして人ごみをなくしたい。犯人を人ごみから隔離した場所なら捕らえられるはず。
しかし人ごみを構成しているのは事情も知らない一般の買い物客だ。
今、商店の主人たちの協力という犯人の知らない新しい武器を手に入れた。
これをフルに使って犯人を追い詰めたい。
しかし商売の邪魔になるような、あまり無茶な要求をするのは避けたい。
ではどうすればいいのか……――
三人が黙ったままで、数分がすぎた。
「!」
ゆかりのまぶたが、ぱっと開いた。
「何か、思いついたのか?」
ゆかりは店主に向かって小さくうなずいた。
「ええ、少し、聞いてもらえますか」
「おうよ。……ふんふん……はぁはぁ……」
八百屋の主人はユカリのアイディアにいちいち相槌を打ちながら話を聞いた。
「ううむ、なるほどなあ……よし、仲間にも頼んでみよう。なに、聞いたところじゃ、
こっちには実は大した負担じゃあない、と思う。みんな、協力してくれるはずだ」
自分の提案が無茶なものではないか少し不安になっていたゆかりは、その言葉に表情を明るくした。
「そうですか!よろしく、お願いします!」
ゆかりが丁寧に頭を下げると
「おうよ!」
そう言って、八百屋の主人はその分厚く汚らしい――誇り高い、握りこぶしで、胸を叩いた。
その後、主人とゆかり達は犯人確保のための協力のお願いと、作戦の説明に回った。
どの商店の主人も、協力に応じてくれてゆかりはほっとした。
ただその中の一つに、
「ほんとうに、これだけでいいのかい?」
と、更なる協力を申し出てくれたところがあったが、
「ええ、あまり皆さんのお仕事の邪魔になってもいけませんから。それに、大事なのは
どれだけいっせいに始められるかなんです。」
と断った。
「そうか……なあに、うちらにだって、あんなあくどい野郎にいられちゃあ迷惑なんだ、
協力はおしまんぜ。それに、この話、うちらにとってもそう悪い話ってわけじゃあない。
……いやあ、なんだか、楽しくなってきたな!」
野菜の端物を積んでいる屋台の店主は、そう言って目を輝かせた。
「そうですか、よろしくお願いします!」
ゆかりは、頭を深く下げて頼んだ。
どうやら協力の約束はうまく取り付けられた。
後はうまいこと犯人が現れるのを待つばかりである。
「ユカリ……」
ティムが隣に座っているゆかりに声をかけた。
二人は安っぽい木のベンチに朝からずっと座って、犯人が現れるのを待っていた。
そろそろ尻も痛くなってきた頃だ。
しかし犯人は一向に現れず、昼間に一度は高く上った太陽も傾き、いつも埃っぽい
コベントガーデンを赤く照らしている。
「はあ」
ゆかりは気の抜けた返事をした。
朝早くからずっと座って通りとにらめっこをしているのだ、さすがに疲れてきた。
「はんにんがまたここにあらわれる、ってほしょうはあるの?」
「…………。」
ティムの質問にも、ゆかりは押し黙ったままだ。
しばらくの沈黙の後、ようやくゆかりは返事を返した。
「いえ、それは……」
「……そうだよねえ」
もちろん犯人が再びここにやってくる保証などあろうはずもない。
しかし他に、方法もないのだ。
仕方ないか、といった風情でティムはベンチから立ち上がり、両腕を空へ掲げ
背伸びをした。
夕暮れ時のコベントガーデンはいつものように賑やかで、人ごみで溢れかえっている。
ロンドン最大の青果市場の人ごみは生半可ではなく、地方出身の者などはこの人ごみを
見てなにかの祭りかと勘違いするほどなのである。
通りの向こう側の屋台で、あまり甘くないオレンジを売っている。
だが日が傾いてきてからは、太陽がオレンジに素晴らしい着色をほどこし、それなりに売れ始めていた。
ティムは両手を後頭部で組み、大きな石の柱に体を預け、ぼんやりと賑やかな通りを眺めている。
人、人、人。まるで人の海である。
不意に、ティムの瞳の端を、夕焼けに溶け込むような赤色の帽子をかぶった男がかすめた。
あの帽子、どこかでみたことがあるような気がする。
「……!」
両手をほどき、意識を帽子の男に集中させる。
男はまわりの人垣をいらいらと見回すと、視線を元に戻し、買い物に夢中になって
通りに背を向けている女性の手提げかばんに素早く右手を伸ばした。
ゆるんでいた意識がビシバシと音を立てて超加速的に覚醒していく。
水をたっぷり含んだ雑巾の両端を持って、思い切りひねりを加えるように、
ティムはあらん限りの力を振り絞って喉を震わせた。
「やめっ……やめろォォォオオオオオオオオっオオオオ!!」
意思を持った叫びは、目の前の屋台を――うず高く詰まれた数々の野菜を――人の海を貫通して、
一直線に男の耳に突き刺さった。
「なっ……、くそっ……!!」
男は体を反転させ、人々を押しのけ一目散に走り出した。
「おじさん!」
ゆかりもその姿を認めると、一瞬で戦闘態勢に入り、はじけるように飛び出していった。
「おうよ!」
今までゆかり達の目の前でいつも通りの商売をしていた八百屋の主人は、ゆかりの言葉に
――ゆかりはもう走り出し、いなくなっていたが――威勢良く返事をして、親指と人差し指で
丸の少し欠けた形、アルファベットのCのような形を作って口に入れると、
空に向かって強く強く吹いた。
ピィッ、ピィィィイイ、イイイイイイイイイイイ―――――
力強い指笛の音が、空高く響いた。
「おっ!合図だ、犯人の野郎が現れやがったのか、ようし……」
指笛の音は市場全体に届いた。
大根の土を洗い流していた店主の親父は腰を上げると、隣の店主と目配せをし、
せぇの、と声を上げた。
作戦開始である。
「さあ!なんとたった十分間だけのタイムサービスだぁ!!お姉さん方よっといで!
驚き桃の木まだ19世紀!びっくりして腰を抜かしちゃいけないよ!!
たった今から十分間だけなんと全店の全部の野菜を半額!全店!全店全品半額だ!!
コベントガーデン史上初の歴史的ターイムサービス!!どうこれお姉さん!!
さああー!これで買ってくれなきゃうそ!早い者勝ちだ!!
近くの野菜をとにかく掴めぇー!!」
そういった声が、道の両端から、買い物客の耳にステレオで入った。
店主たちの叫び声は一斉にひろがっていった。
一店や二店だけではない、コベントガーデンの入り口から出口まで――、
ほぼ全部の店が商品を半額にしはじめたのだ。
コベントガーデン全店全品一斉の半額タイムサービス。それも十分間だけ。
そんな値下げ聞いたこともない。買い物客は信じられないと言った様子であちこちで
それぞれの店主に対して尋ねた。
「ちょ、ちょっと!なに!?本当に全部半額なの!?」
「そうさぁ!ちょっとした事情があってね!!さあー早くしないと時間は勝手に過ぎていくよ!!
なにしろたった十分間限定のお値段だ!あと530秒……520秒……」
「あ、ま、待ちなさいよ!買う買う!!これとこれと……これもいただくわ!!」
「あいよぉ!あぁりがとうござぁいまぁーす!!」
そんな予想だにしない突発的な値下げ――それもなんと、半額!――の声に、
ああ今日の夕飯は何にしようかしらだとか、家にはどんな野菜が残っていたかしらだとか、
犬は大根たべるのかしらだとかぼんやりと考えながら無秩序にぶらぶらとしていた
買い物客の目は獲物を見つけた鷹のように、くわっと見開き、われ先にと間近の店に飛び込んでいった。
何しろたった十分間だけの半額サービスだと言う、何の事情があるかはよく知らないが
そんなことを考えている暇があるならとにかく品物を掴んで手に入れなければならない。
こうして通りに充満していた人の群れは、犯人の男を残して整然と
通りの両側にきれいに並んで、ゆかりと犯人まで一直線に道をあけた。
八百屋の親父がつけた作戦名は
「The Miracle of Moses」――モーゼの奇跡。
親父がつけた名前にしてはなかなかハイブロウだ。
「な、なんだァ!?」
逃げる男は目の前の事態が理解できずに、素っ頓狂な声を上げる。人ごみにまぎれて逃げるはずが、
その人ごみが消失してしまったのだから無理もない。
振り返ると、昨日も追いかけてきた小さなメイド姿の女の子がスカートのすそを
持ち上げて走り追いかけてくる。
やばい、目が怖い。
「う……うわッ!」
男は慌てて走り出した。とにかく逃げねば。
男はおびえたように何度かうしろを振り返る。
信じられないことに振り返るたびに少女との距離は近くなっている。
重たいスカートを持ち上げ、両手を前後に振り勢いをつけることすらままならないはずなのに、
なんだあの速さは――!?
ゆかりは黒いロングスカートをひざの辺りまで持ち上げ、逃げる犯人を懸命に追う。
犯人は不自然な走り方しかできないはずのゆかりがこれほ早く走ることに驚いた様子だったが、
ゆかりはこの西洋人には不自然な、同じ手と足を出して走ることに慣れていた。
それは「なんば」と呼ばれる、日本人特有の歩法で、西洋式の別の手と足を出す歩き方を
仕込まれているゆかりだが、本気で急ぐ時にはどうしてもこの走り方になるのだった。
うしろが気になり振り向くと、やはりさっきより少女は近付いてきている。
ドロワーズからはみ出る細い足首からは考えられないような速さで、その走りはまるで飛ぶようだ。
あの重たげなスカートも、ばたばたと風にはためく白いエプロンも、あの少女にはなんの
障害にもなっていないようだ。
いや、少女が速いと言うより、自分の足が遅いのか――そうだ、考えてみれば随分と長いこと
まともなものは口にしていない――、気のせいか、目も、霞んできた――。
男の足はふらつき、ついにゆかりはその背中に追いついた。
「捕った!」
不意に、全ての動きが遅くなった。
体が思うように動かないわけではない、だが、ゆっくりと動いているように思う。
これは違う、動きが遅くなってるんじゃあない、知覚の速度に動きが追いついていかない、
知覚が早すぎるんだ――。
しばらく前にも感じた、やけに時間がゆっくりと流れる、――夕焼け時のような――
神聖さすら感じるようなこの領域に、またやってきた。
左手で前を行く男の左腕を、右手で上着の襟首を掴む。
この瞬間だけを一見すると、ダンスを踊っているようにも見えるかもしれないが、決定的に
ダンスと違うのは、男がゆかりに背を向けていることだった。
両コブシをしっかりと握り締めると、すかさず男の足元に右足を飛ばす。
いきおい、男は前につんのめり、背伸びをしたようになる。
こうなれば、男は自分の意思では体をコントロールできない。
これを「崩し」と呼ぶ技術であることを、ゆかりは思い出していた。
男はあと、自分のされるがままになるしかない。
崩した体を、ゆかりは、思い切り地面に叩きつける。
――変形の体落としだ。
男は顔面からしたたかに地面に落ち、体中の息を地面に向けて吐いた。
――体「落とし」、「投げ」ではなく。
そう名づけられたこの技は、相手の体を高所――身長分――から、思い切り地面に向かって、
できるだけ垂直に、「落とす」のだ。
その力には重力も加わって――柔道の数ある投げ技の中でも、かなり痛い。
「まだ!」
ゆかりは掴んでいる左腕を首に回し、首と右手で肘を極めると、男の左肩甲骨の辺りに
右ひじを落とし、体を安定させる。
左手で右手の手首を掴み、がっちりとホールドする。これでもう逃げられない。
あとは体重の移動で、男の肩の極め具合を調整することすら可能だ。
「ぐぅっ……!」
しびれに似た鋭い痛みが、男の肩を襲う。
――脇固め。相手の肩関節を極め、身動きがとれなくする技だ。
てこの原理を利用したこの技は、痛みの強さも、自分が相手の背中側に上るという体勢も、
そのまま体重をかけ安定させやすい形からも――小さな者が大きな相手を制するのに
非常に効果的な技であった。
「いやあ、下が石畳じゃなくて良かったですねえ。ちなみに、もう少し体重をかけると、
肩、外れますけど……どうします?」
ゆかりは力を緩めることなく――それどころか徐々に力を込めつつ――組みしかれた男の
後頭部に声をかけた。
「…………」
しかし、男からの返事は無い。
「――じゃあ、遠慮なく」
ゆかりが思い切り体重をかけようかとした瞬間――
「ま、待て!」
後頭部から声が上がった。
「ん?なんですか、この期に及んで。大丈夫ですよ、ちょっと涙が止まらないくらい
痛いだけですから。まあ、外した肩を入れるときに下手をすると、腕が上がんなくなっちゃいますが……
どうせろくなことに使わないんだから、いいでしょう」
ゆかりの目の色がいつもと変わっている――、後から追いついてきたティムは、はあはあと
肩で息をしながらゆかりの様子を眺めていた。
「あっちゃー……ユカリ、スイッチ入っちゃってるよ……」
こりゃ止めようがないね、と両手を上げ肩をすくめた。
しかし男は叫んだ。
「ち、違う!人違いだ!!……俺は……盗人じゃ……ない」
まさか、今日は人ごみにまぎれる隙もなかった。しかし
「ユカリ……その人……あたま……」
ティムの震える声を聞き、ゆかりは目の前の頭を眺めた。
「頭……?」
別に禿げてはいない。
「……!!」
しかしゆかりは気付いた。あるはずの物がない。
なんということだ、赤い帽子をかぶっていない。
投げた時に落としてしまったか、と、辺りを見回すがそんな様子もなさそうだ。
「ユカリ!」
ティムが、通りのはるか前方を指差して叫んだ。
馬鹿な。
間違いなく、あの赤い帽子をかぶった男が悠然と逃げ去ろうとしていた。
まさか。しかし実際に男は逃げている。ではやはりこの男は人違いであったか。
無実の人になんてことを。
いや、それよりも――
「誰か、その人を捕まえて――!!」
ゆかりは大声を上げるが、もうだいぶ走ってきて市場から離れてしまったのだ。
周りに人影はない。
そんな、ここまで追い詰めておいてまた逃げられるのか――無関係の人までぶん投げておいて――
ゆかりは絶望的な気分で
「な、だから俺は犯人じゃあないんだって」
と繰り返す男の声も耳に入らず、ずっと関節を極め続けていた。
「だれかいる」
ティムは小さくそう呟いた。
「え?」
逃げる男はもう豆粒のようで、ゆかりにはよく見えない。
「あれ?あれって、ひょっとして――」
ティムには男のシルエットもよく見えているようだ。
逃げる男に影が立ちふさがった。
「……ゥアァックス・ボンッバァアアッ――――!!」
逃げる男のあごの下、のどもとに太腕が勢いよく命中した。
走っていた勢いもあり、のどにめり込んだ腕を支点に、男の足はほとんど顔の前まで
跳ね上がった。
そしてようやく重力が戻ってきたように、ゆっくりと背中から落ち、完全に沈黙した。
「パパ!」
逃げる男の前に立ちふさがったのは、ジョン・ダーヴァレイその人であった。
ティムは慌てて駆け寄った。
「おう?なんだ、ティムか!どうだ見たか!パパは本当は強いんだ!!」
いつぞや、一発でダウンしたことを気にはしていたらしい。
「――どうしてこんなところに!仕事は!?」
「いやなに、あまりにも仕事が多すぎたのか、従業員が一人ぶっ倒れちまってな、
病院に送っていったところなんだ。そうしていたら、なんと、怪しく逃げる男と
『誰か止めて』ってな女の子の叫び声だ。そうか――じゃあ、あそこで
なんかえげつない関節技をかけているメイドはユカリちゃんか」
ジョンは遠くにユカリの姿をみつけると目を細めた。
「うん、そう、いまスイッチ入ってるから」
「ああ……スイッチ……」
ジョンは納得した顔を見せる。
ロンドン広しとは言え、大人の男に関節を極める少女はうちのメイドぐらいのもんだろう。
「うん……でも――」
「なに、人違い!?……そいつは……」
とにかく事情が良くわからない、ジョンはゆかりにも話を聞こうと
ぐったりした男を持ち上げて歩いていった。
「パパ!そんな、えりのうしろをもち上げたら首がしまっちゃうって!!
ああ……!な、なんか口からあわが……!!」
「おっとっと、間違えた。……しかしなんだこいつ、えらい軽いなあ。殴った時も思ったが」
「あ、兄貴……ああ……」
不意に、ゆかりの下に組み敷かれている男の口から言葉が漏れた。
「あにき!?」
ティムは驚いて両者の顔を見比べた。くぼんだ目、こけた頬、血色の悪い唇。
なるほど確かに良く似ている。
人違いかと内心絶望しながらも、まだどうも納得できずに関節技を解かなかったゆかりは、
何が引っかかっているのか、昨日のことを深く思い出した。
――ええと、昨日は犯人が人ごみの中に倒れたと思ったら、消えていて、誰かが
「赤い帽子の男ならあそこに!」って、それで、見ると今日と同じようにはるか遠くに
赤い帽子の男が――
「…………!」
ゆかりは何かに気付いたようで、目を見開き男に向かって叫んだ。
「――昨日、男の場所を指差したのはあなたでしょう!」
ゆかりの言葉に、男は表情をこわばらせる。
「な、なんだ、話が見えないぞ、ユカリちゃん」
ジョンは当惑した表情だ。しかしゆかりはそんなジョンのことは気にせず
「坊ちゃま、こいつのポケットを、探してもらえますか」
「う、うん」
ティムは遠慮せずに男のポケットに手を突っ込んだ。
ティムが男のポケットから取り出したものは、赤い帽子、ジョンが担いでいる男のものと
全く同じ帽子であった。
「ユカリ、これは――」
ティムはユカリに説明を求めた。
そしてゆかりは、関節を解くことなく、説明を始めた。
「そう、つまり――犯人は二人組だったんです。
あなたがまず品物を奪い、逃げ――人ごみに隠れ、赤い帽子を外す。
そして遠くで待機していたもう一人――旦那様の肩の上の人――が赤い帽子をかぶり、走り出す。
人は、目立つ赤い帽子が一緒なら、それは同一人物だと思い込む――心理トリック、
とでも言うんでしょうか。
そしてその後、あなたは盗んだ品物を持って、悠々と歩いて現場から離れれば良い。
品物を盗んだ犯人は、もう遠くに逃げたのだから、ここにいるはずもないと人々に――
私に、そう思わせる。
つまりは、そういうこと、ですね?」
ゆかりの謎解きは正しかった。
男は言葉なく、がっくりとうなだれた。
そうして、二人組みの盗人たちは、厳重に荒縄で縛られ、土の上に正座させられた。
「さあて……こいつら一体どうしてくれようか……」
この犯人がアルマを襲った犯人だと知ると、例外なくジョンも怒り、指をぽきぽきと鳴らした。
正座させられた二人組の姿を見ると、一人は気絶しっぱなしで口の端には泡が浮いており、
もう一人は体全体を土で汚し、顔も地面に叩きつけられたような跡があるし、しきりに肩を痛がっている。
「こっ……これ以上か!」
八百屋の主人はもうこの二人はジョン達がどうかしてくれた後だと思っていたのだ。
驚くのも無理はない。
犯人の二人は、荒縄で縛られたまま、アルマが横になっているベッドのそばに
正座させられていた。
「警察に突き出す前に、まずはアルマさんに謝ってもらう」
そういってジョンが、両肩に担いでここまで運んできたのだ。
犯人の二人は、顔が良く似ている。
やせている人間に自然と共通する特徴の分を差し引いても、やはりよく似ている。
「あなたたち、兄弟なの?」
アルマがベッドに横たえたままで尋ねた。
今日になって痛みが強くなったらしく、杖をついて立ち上がることもできないと言う。
犯人達はアルマの問いにも無言でただ床の一点を見つめている。
「おら、どうなんだ、おい」
ジョンが犯人たちの背中を軽く蹴った。
体が波打つ。
「やめて。……事情を、聞かせてくれないかしら?」
アルマはゆっくりとした喋り方で、再び犯人たちに話しかけた。
床を見る瞳を、アルマは視線の力で持ち上げてしまった。
犯人の一人、「兄貴」と呼ばれたほう――ジョンにぶん殴られた方――は、ぽつりぽつりと、
すこしずつ話を始めた。
「……俺んちは、昔からの小作農で、麦とか――大豆とか、とうもろこしとか、そういった、
穀物を栽培して、ずっと、ずっとやってきてたんだ。
でも、最近は――アメリカや、カナダなんてえ海の向こうから、もっと安価なものが、
大量に輸入されてきて、国内の穀物農家は、もう、だめなんだよ。
なあ、あんたら知ってたか?アメリカやカナダのものは、俺らが作ったのと同じ量を
半額で売る。こんなもの、勝負になるはずがないんだ。
親父は、なんとか新しい作物をつくろうと必死になってやっていたけど、
うちは代々穀物しか作らない――というより、うちの畑では、それ以外のものは
うまく実が、ならなかったらしい。
そんななのに、親父は無理して――、あっさり、病気にかかって死んじまった。
うちに残ったのは、高い高い小麦しか作れない畑――それも、半分は地主に取られるんだ――
と、体の弱い母親だけさ。俺たちは、無理をするなといっていたのに、母親は――
……親父と一緒の病気にかかって、今、家で寝こんでいるよ。
医者が言うには、滋養を取って休養することだ、だとよ。
――滋養なんか……どこにあるんだよ……畑にすらありゃあしない……」
男はそこでいったん言葉をやめた。
ぐぐっとのどを鳴らすと、今度は隣の弟が喋りだした。
「目の前にあるのは、親父も死んでおふくろも倒れ、新しい作物の栽培を試みて失敗し、
荒れ果てた畑と、俺たち二人だけになっちまった。
この畑をまた、せめて小麦だけでも栽培できるようにするには、俺たち二人だけじゃあ
――……とても、無理だ。
ここにいてももう先がない。ましてやおふくろの病気だって、治るはずもない。
ロンドンに行けば何とかなる――そうとだけ信じて、畑の横を走っていた汽車に
飛び乗った……文字通り、な。
中のガキどもは、猛然と煙を吐いて走る列車に興奮していたが、俺たちはちっとも
いい気分じゃなかった。これの仲間が俺たちの生活を壊しやがったんだ。
俺たちはロンドンについてまず、港を見に行ったよ。
はるか彼方の大陸から、大豆や小麦を満載して入港してくる威風堂々とした蒸気船!
――涙が出て、止まらなくなった。あのでかい船から、どんどん、どんどん、
木箱が吐き出されてきやがる。いつまでも積荷が降ろされるのを見ていたよ。
仕事を探しても、俺らみたいな、紹介状も無い、小汚い田舎者には、どんな仕事もなかった。
仕事が見つかるまでだ――そう思って二、三日は、あの市場で野菜を盗んで食ったり
してたんだが――急に、その、お袋のことが心配になっちまって――」
「アルマさんの、ブローチを盗んだんだな?」
ジョンが犯人たちをにらみつけた。
「ああ――、怪我までさせるつもりはなかった――信じてもらえないかもしれないがな。
そうしてあんたからブローチを盗んだんだ。
人間、切羽詰るといろいろ考えが浮かぶもんだ、そこのお譲ちゃんが言ったとおりに、
ちょっとした細工を考えたんだが――、たった一日で見破られちまった」
「そう……」
アルマは、その後に何も言葉を続けず、ただ二人の顔を見つめるだけだった。
まっすぐに見つめられた犯人は、その瞳を見返すことができずに、目を逸らして言う。
「――あんたには、正直、悪いと思ってる。怪我をさせるつもりはなかったんだ」
「さあ、これで俺たちの話は終わりだ、殴るなり蹴るなり、警察に突き出すなり好きにしてくれ!」
犯人たちはそういって、胸を張った。
ティムはそんな犯人達をただじっと見つめるアルマの表情が何かに似ていると思った。
アルマの若い頃がなぜか容易に想像できる――、その理由が、はたと分かった。
あの石膏像に似ているのだ。小さな赤子を抱いた、神々しく美しいあの――
教会のマリア像――
ステンドグラスを通った鮮やかな光がその白い体に降りかかると、本当にどこかこの世の
ものではないような美しさを持ち、その表情は人の中の神性を十分に表現しいえた――
そのマリア像がそのまま年を重ねたような表情を、アルマは浮かべているのだった。
犯人達の話を聞いているうちに、ティムの胸の中に、何か新しい感情が生まれていた。
怒りのようなとげとげしいものではなく、哀れみのような他人行儀なものではなく、
どことなく悲しみに近い、が、悲しみとも少し違う。
この二人と、自分との境遇の差は何が生んだものだろうか。
そんなことを考えているうちに、なぜか、そういった感情がティムの心を満たしていたのだった。
「生まれ」――もちろん、厳しい階級社会のこのイギリスでは、その一言に尽きるだろうが、
ティムは生まれてまだ十年しか経っていないのだ。
まだ十年分しか、この社会に対して接していない。
ティムの中の、社会に対する確固たる――犯人は悪い意味でこれに囚われている――信頼
は、この部屋の中にいる人間の中で、ティムが一番持っていないのだ。
ティムはこの二人と自分とに、大きな差があるとは思えないのだ。
十年前には、彼は、母の中よりも前、階級差などあろうはずもない、茫洋としたものが
どこまでも続く無意識の世界に、彼はたった十年前までいたのだ。
現在の社会の認識、固定観念、ティムのそれは、たった十年分しかない。
まわりの大人や老人に比べて、かなり柔軟に形を変えられる。
もし明日、父が過労か何かで倒れれば、自分のうちだってどうなるか分からない。
この世はひょっとすると、ぜんぜん決まってなくて、固まってなくて、どうなるか分からないものなんじゃないか。
ティムが生まれて初めて感じたその形容しがたい感情は、東洋的に言えば
――ゆかりならば――「無常観」と言うようなものだったかもしれない。
「無常観」世界が一定でないことに気がついてしまった者が感じる諦念に似たきもち。
自と他の境遇の差は、確固たる断崖ではなくて、非常に有機的な――境目のない――ものだと
気付いた、ティムの感情であった。
ティムの口は自然と開いていた。
「ねえパパ、この人達、うちで雇ってあげられ……ううん、パパの店で、雇ってもらえませんか?」
その言葉はその場にいた全員が――実はティム自身も――驚かせるに十分な言葉だった。
「ど、どういうことだ、ティム」
父ジョンは、息子の真意を図りかねる。ティムは自分でも言いたいことはまとまらないのだが、
とにかくこの気持ちを、なんとか言葉にしようと努めた。
「うん、あの、あのね、最初はもちろん――怒っていたし、許せなかったけど――
この人達の話を聞いたら――」
「かわいそうになった、って言うのか?」
気の変わりやすい子供のいいそうなことだ、ジョンはティムの内心を類推して
言ったが、それは素早くティム自身に否定された。
「ううん!ちがうの。いや、かわいそうはかわいそうなんだけど――なんて言うか――
その、口ではうまく言えないんだけど、この人たちとぼくと、あまりちがいはないような
――なんて言うか、今の世の中はぜったいじゃないような――、たとえばパパ、
パパが明日、かろうか何かでたおれちゃったら、それでお店がまわらなくなって
つぶれちゃったら、ぼくたちだって明日から……おかねが手に入らなくなっちゃうでしょう?」
「パパは倒れたりしないぞ」
「―――……じゃあ、たとえば、どこかの馬車に猛スピードではねられて、きおくそうしつに
なったりしたら」
「ごほんごほんげふん」
ジョンはわざとらしく咳払いをして、ティムの言葉を遮った。
「ただぼくたちは今まで、たまたまそうならなかっただけで、この人たちはたまたま、
考えもしないようなふこうなできごとが起きちゃっただけで――にんげんのなかみは――
ええと――ほんひつてきには――?」
「本質的、じゃ」
マーロットは昨日教えたばかりの言葉の意味を、それこそ本質を理解し、言い表そうとする
けなげな教え子に感動を覚えながら、間違いをそっと正した。
「そう、本質的には、何も、どこも変わらないんじゃないかなあ、って。
ねえ――、やっぱりぼくの言ってること、おかしいかな?」
自らの言葉の途中から、ティムは泣き出してしまっていた。
頬を流れる涙もそのままにほっておいて、思いを言葉の形にして、やっとやっと吐き出した。
ジョンはじっと押し黙ってわが子の喋るのを聞いていた。
子供だから情が移って哀れみをかけた――一度でもそんな風に感じて――それは歴史上の
観点からも親が自分の子供に対してそうするのは仕方なのないことだけれど――
息子をかんたんに侮っていた、そのことを恥じた。
ティムの言葉の途中から、ジョンの目にも涙が溜まり、溢れかえらんとしている。
今喋ったら、涙声になりそうで、それがいやで、黙っていた。
「私も」
ゆかりが、そんなしっとりと湿気を含んだ空気の中に、ふるえる涙声を発した。
「私も、そう、思います」
ティムは視線をゆかりに移し、彼女の涙に濡れた瞳と頬を見つめていた。
すこしあって、アルマが笑顔で言った。
笑ってはいるが、彼女も涙声である。
「そうよ……ティムちゃん。その通りよ。本来この世界に――主が愛する者たちの中に――
人の貴賎なんて、階級、クラスによる人間性の差なんて、あるはずもないわ」
アルマはそう言うと、満足げに頷いた。
マーロットは、教え子の成長に感動し、胸を詰まらせながら、諭すように話した。
「そうじゃ、ティム坊。今の社会が、何で不変なものであろうか。人間と同様に――
不変の存在ではない。そのことによう一人で……。
じゃが、社会を無理に変えようとしてはいかん、ただ、流れを、時代の潮流をよく見て、
勉強して――つまり、自分で考えることじゃ。
それが学問の――本質、じゃよ」
マーロットは白く長い眉の下からティムを見つめた。
その小さく丸い瞳からは、涙が溢れている。
「あんまり……むずかしいこと言われても……わかんないよ」
「大丈夫、お前さんは賢い、今分からなくてもいつか、きっと分かる」
いままで黙ってそのやりとりを聞いていた犯人二人は、同時にわっと声を出して泣き出した。
「あぁ……兄貴ぃ……」
「うん、うん……」
縛られたままで器用に互いの顔を肩に押し付け合い、泣き続けている。
「ああ、俺たちは本当になんと言う境遇だろうか」
「ああ、本当に……」
二人はぎゅっと目をつぶり
「本当にすみませんでした!ブローチはもう現金に換えて、お袋に送っちまいましたが、
なんとか、どうにかして、その分のお金はお返しします。
どう謝って、どう償えばいいのか、わかりませんが、とにかく、二度とこのようなこと
はいたしません」
平身低頭、頭を床に着くくらいのところまで下げ、懺悔の言葉を口にした。
弟の言葉に、兄もうんうんとうなづいて、そのたびにあごから、涙がしずくとなって
ぽつぽつと落ちた。
「ふん、そんなに世の中は甘くないぞ」
そう冷たく言い放ったのは、ジョン・ダーヴァレイであった。
「確かに社会は変わるし、人も変わるさ。しかしそれは、今、現在の話じゃない。
そんなものは、朝が夜に、夜が朝になるように、朝日がじりじりと昇るように、
夕日が黙って沈んでいくように、誰もなんとも思わない程度の速さで変わっていくものだ。
いくら今、お前たちが改心したと言っても、アルマさんを傷つけた罪は消えないんだ」
「パパ」
自分の思いが伝わらなかったかと、ティムは父を呼んだ。
「黙っていろ、ティム」
ジョンはいまだかつてティムに対して発したことのない、冷たく低い声でそれを制した。
その初めて見る父の気迫に気圧され、ティムは驚き、何も言えない。
「もちろん、わかっています。ですからまず、警察に出頭して……」
「いえ、いいのよもう。私はあなた方を許します。そして神も、あなた方の罪を許されるでしょう
神とは、この世の中で最も寛容なもの――それを、その精神を、神というのです」
そのアルマの言葉に、二人は再び涙を溢れさせた。
これが今まで感じることのなかった、神の――人の――愛か。
そう思うと、涙が溢れて止まらないのだ。
「パパ……」
「旦那様……」
ティムとゆかりは、濡れた瞳でジョンを見つめる。
その視線から逃れるように、ジョンは顔をそむけた。
「ええい!ダメだダメだダメだ!!犯人はすっかり改心、被害者のアルマさんは犯人を許す、
犯行にいたった事情もそれなりにある、こんなんじゃあ、警察に突き出しても、
何日か牢屋でゴロゴロして、すぐに出てきちまう!」
ジョンは大きくかぶりを振って嘆き、言葉を続けた。
「そんなんのは罰とは呼べない、仕方ない、こうなったら明日っから、
重たい家具を上げたり下げたり動かしたり持ち上げて運んだりさせてやる!
はっきり言って辛いぞ!!覚悟しとけ!」
ジョンの言い切った声の大きさに、一瞬、場が静かになるが、
「パパ!」
ティムの喜ぶ声が、まず最初に響いた。
ジョンに飛びついて、首からぶら下がる。
「ありがとう!パパ!!」
ジョンはティムの体を下から持ち上げると、
「うん……ティム、お前、いつの間にか、大きくなったなぁ……」
しみじみと呟いた。
「うむ、それでこそじゃよ。……みてみい、おまえがいつまでもぐだぐだ言うから、
茶がぬるくなってしまったではないか、馬鹿者」
「な、先生、私だって意地悪で言ってたんでは……!」
「わかとっるよ、なあ、ユカリちゃん、茶をもう一度淹れてくれ……そう、7人分じゃ」
きょとんとしている犯人二人組に、マーロットは尋ねた。
「おぬしら、熱いアッサムは、好きかな?」
二人は喜びの表情と涙を浮かべ、またひとしきり泣いた。
ティムもゆかりもアルマも、微笑んでいた。
ジョンは明日から増える二人の従業員のことを考えていた。
大団円、であった。
そしてロンドンの街は夕焼けを飲み込み、夜をゆっくりと迎え、ぼんやりと朝になって、
時間は流れている。
人が変われば徐々に社会は変わり、さらにのんびりした速度で、時代も変わり、巡っていく。
だがとりあえず今日のところは、大団円で、夜のロンドンは意外と静かに更けていくのであった。
『A SLIGHT DISPUTE IN MARKET 人の中の神様』
END