A SLIGHT DISPUTE IN MARKET  
            ――市場でのちょっとした騒動――  
 
霧の街ロンドン。  
ガス灯のほんのりとした明かりが朝もやをぼんやりと照らす中を、痩せた馬の引く荷馬車が  
のっそりと進んでいった。  
「おお寒い……。あったく、いつの間にか随分と冬が近付いてやがる…ついこの間まで  
 暑い暑いとわめいていたってえのに……」  
野菜がぎっしりと詰め込まれた荷馬車に乗った男は、誰に言うわけでもなくぼやいた。  
やはりいつの時代も、季節の移り変わりに一番敏感なのはそれに左右される農家なのだ。  
男は郊外から野菜を売りに来ている農家兼八百屋の一人で、向かう先はロンドン最大の  
青果市場である、コベントガーデンであった。  
そこで荷馬車をそのまま屋台として、自分の畑の野菜を売って生活しているのだった。  
「寒いが、今の時期にがんばらにゃ、年が越せねえものなあ」  
少しの間、両手を握り締め暖めると、手綱を上下に躍らせて、仕事場へと急いだ。  
 
 
 
日が昇れば気温もゆるむ。  
気温が緩めば眠くもなる。  
眠くなれば抵抗も出来ずに寝てしまうことだって十分ありうる。  
「……二人とも」  
 
豊かなひげをたくわえた老人が、左手に本を持ったままで咳払いをした。  
半ば呆れたような、半ば感心しているような目で教え子二人の姿を見つめるのは、  
ダーヴァレイ家の家庭教師、マーロットであった。  
本に目を落としていた少しの隙に、教え子二人の意識がなくなってしまっていたのだ。  
 
雇い主の息子であり、もともとの教え子であるティム・ダーヴァレイは完全に  
天井を見つめ――見つめているがまぶたは開いてない――小さな手だけが自動でペンを動かしている。  
案の定、手元の紙にはミミズののたうち回った跡だけが見事に描かれていた。  
どこかの美術館で、ミミズののたうち回った跡の絵コンクールでもあれば結構いい線  
いくかもしれない。  
もちろんそんなものはあろうはずもないが。  
 
もう一人の教え子である日本人の女の子は、仕事着である黒いワンピースと白のエプロン姿の  
ままで机に突っ伏していた。  
低い鼻から安らかな寝息が漏れているのが聞こえる。  
そのたびに短い前髪が少し揺れるのが愛らしい。  
完全に寝入っている。  
ほんの2,3分でここまで熟睡できるというのは、実はなかなかに才能が必要かもしれない。  
目を離す前には右手にしっかりと握られていたペンも、机の端にまっすぐに置かれている。  
まるで自主的に寝入ったかのようにも見える、が、この娘はメイドの仕事もやりながら  
勉強をしているのだ、まあ仕方がないといえば仕方がない。  
 
しかし、この日本人の娘が自国に帰らずに英国に残っている事情を知っている身としては  
ここで彼女を甘やかすことは彼女のために何もならないとわかる。  
ここは心を鬼にして、と決意を固め、更に大きくもう一度、咳払いをする。  
 
不意の大きな音にびくっと体を震わせて、ティムは目を覚ました。  
「んん……はっ」  
「おはよう」  
マーロットは十分に怒気をこめた声で、紳士的に挨拶の言葉をいった。  
「……ごめんなさい、先生。……わっ、なにこれ」  
ティムは手元の惨状に驚いた。  
自分は真面目にペンを走らせていたはずであったが、なぜか紙にはミミズしか  
描かれていない。  
「……あちゃあ」  
「あちゃあ、ではないわい……ユカリちゃん、おおい、起きんか」  
マーロットは依然目を覚まさないメイドの少女に声をかけた。  
かなり大きな音で咳払いをしたし、事実ティムは目を覚ましたのだが、  
ゆかりは先ほどから体勢すら変わっていない。  
安眠を頑なに貫いている。  
マーロットが声をかけようが、ティムが体を揺らそうが一向に目を覚ます気配すらない。  
 
「……先生、こうなるとユカリ、なかなかおきないですよ」  
「ううむ、何と言うか、逆に大したものじゃのう」  
マーロットが困ったようにため息を吐きそのあごひげを揺らすと、ティムはおもむろに  
椅子から降りて台所へ向かっていった。  
「おい、ティム坊」  
「ちょっとまっててぇ」  
 
ティムが台所から戻ってくると、その手にはグラスが握られていた。  
底の方に少しだけ、スプーン一杯分くらいの水が汲まれている。  
「なんじゃ、ティム坊、それをどうする気じゃ」  
「まあみててよ、おもしろいから」  
そう言って笑うと、静かにその水をゆかりのうなじ、えりと首筋の間にたらした。  
 
「!!」  
秋が深まり気温が下がれば水道の水だって冷たくなる。  
冷たい。  
ゆかりはなんのことやら分からない冷たさに驚いて目を覚まし、背筋を伸ばした。  
いや、伸ばしたというよりも驚きで、勝手に伸びたと言うほうが正しいのだが、  
どちらにせよ、背筋を伸ばしたことで、水が首筋から一気に背中を垂れていった。  
「ひゃ、ひゃああああああああぁ、冷たい……!」  
 
眠気が一気にすっ飛んでいく。  
背中をもぞもぞと抑えるゆかりの様子を見て、ティムはげらげらと大笑いをしていた。  
「ぼ、坊ちゃま!何するんですか!」  
まだ背中をまさぐりながら、ゆかりはティムに叫んだ。  
「だって、ユカリがおきないんだもん」  
「そ、それにしたってもう少し、やり方というものが……!」  
ティムは慌てるゆかりの様子を嬉しそうに見ながら、こう言った。  
「でも、これだとすごく目がさめるでしょ?」  
「確かに、そう、ですけど……」  
背中を撫ぜながら、ユカリは口を尖らせる。  
たしかに寝ていたのは自分だし――ゆかりはティムも寝ていたことを知らない――  
実際に眠気は全くなくなってしまった。納得するしかないのかもしれない。  
そう思うと続く言葉は出なかった。  
 
二人の様子をマーロットはただ優しい目で見つめていた。  
まるでそれは、孫を見る祖父の目であった。  
「ユカリちゃん、一体なんでそんなに眠くなるんじゃ?寝てないわけではなかろうに」  
ここのメイドは特例である。主人より先に寝ることが許されている――というか、  
主人の帰りが遅すぎるので、主人が帰る前には寝ているのだが。  
 
「それが、私にもよくわからなかったんですけど、最近ひょっとしたら原因がわかって」  
「ほう、一体、どんな理由じゃ」  
「ええ、……あの、」  
ゆかりはいったん声を切った。  
その様子にティムはのどを鳴らした。  
ひょっとしたらなにか重大な病気かもしれない、不意にそんな不吉な考えが浮かんだのだ。  
ゆかりの続ける言葉に集中する。  
 
「時差ぼけ、じゃないかな、って……」  
 
三秒くらいの間があった。ゆかりがこちらへ来てもう一ヶ月かそれ以上は経つのだ。  
そんなわけないだろう、ティムとマーロットが同時にそう叫んだ。  
 
※  
 
「さて二人とも、少し難しい話をしようか」  
マーロットは突然思い立ったようにそんなことを言い始めた。  
「ええ、いや、いいですよ別に」  
「そうだよ、今やってるのでせいいっぱいだって」  
もちろん二人は不平を言うが、聞き入れられなかった。  
「いや、なに、実際は簡単な話じゃよ。そして――大事な、話じゃ」  
マーロットがなにやらいつもと違う様子になったので、二人も真剣にマーロットの話に耳を  
傾け始めた。  
「うむ、話というのは勉強というものの……本質についてじゃ」  
「ほんひつ?」  
「本質、じゃ」  
「ほんしつ」  
「うむ、そうじゃ。」  
 
マーロットは小さく、咳払いを一つした。  
「二人は、勉強とは、なんだと思う?――ティム坊」  
「えっ……そうだなあ……いろんなことをおぼえること、かなあ」  
「うむ、それももちろんそうじゃ。まずは知識を増やさないことには話にならん。  
しかし、勉強にはそれよりも大事なことがある――なんじゃ、ゆかりちゃん」  
「ええっ……あの、そうですね……考えること、でしょうか」  
マーロットは大きく頷き、嬉しそうに言った。  
「うむ、そのとおりじゃ。ここは何故こうなるのか、これがこうなればどうなるのか、  
本当にそれが真実なのか――考えることじゃ。勉強とは、知識を増やすのと、  
考える力を身につけること、それが勉強の本質なのじゃ」  
 
マーロットの言葉にも、二人はどこか釈然としない、分かったような分からないような  
顔をしている。  
「ふふ……それでよい。わからん時は、よく、考えることじゃ」  
マーロットは目を細め、満足そうに微笑んだ。  
 
 
そんな話で、今日の授業は終了した。  
「どうもありがとうございました、先生」  
ゆかりはマーロットに帽子を渡した。玄関の外は夕焼けが街を赤く染め始めている。  
「うむ、ありがとう……おお、今日は見事な夕焼けじゃのう。季節はすっかり秋、か」  
「ええ、いつの間にか。朝晩は随分冷え込みますね……では、お気をつけて」  
「うむ、また明日、の」  
「ええ」  
 
ユカリはゆっくりと扉を閉め、リビングに戻った。  
「坊ちゃま……なんですかその格好は」  
「……だって、つかれてんだもん」  
ティムが椅子を二つ並べて、その上に両手をだらしなくのばして寝転がっていた。  
「だからと言って、そんなところで寝るものではありませんよ」  
「ああもう、うるさいなあ。ぼくはつかれてんの。もっときょういくにゆとりが  
ほしいの!」  
「また、どこかで聞きかじったようなことを……」  
 
ゆかりはそう言うと、黙って2階へ上がり、スケッチブックをもって降りてきた。  
「……ユカリ、なにするの?」  
「あら、坊ちゃまはお疲れみたいですから、どうぞお気になさらないでください」  
そう言って、机にスケッチブックを広げ、クレヨンを取り出した。  
それを見てティムは、がばっと起き上がりゆかりに話しかけた。  
「お絵描きするの?」  
「んー……そうですけど、お疲れでしょう。どうぞお休みになっていてくださいな」  
「……もう、つかれてないよ。だからクレヨンかして」  
と言って右手を差し出すが、ゆかりは相手にせずに一人でなにやら描こうとしている。  
「ええー、そうですか。疲れてるように見えますよー?」  
「つかれてないよ、だから早く……ねえ、かしてよ」  
「あらー、そんな、無理して私に付き合ってくださらなくてもよろしいんですよー」  
ティムは右手を動かして催促したが、ゆかりはなかなかクレヨンを渡そうとしない。  
「……ねえ、ぼくも描きたいの!だから、かして!」  
ティムが我慢しきれないと言うように右手をばたつかせると、ゆかりは笑って  
クレヨンを差し出した。  
 
ようやくクレヨンを受け取ったティムは、嬉々としてスケッチブックに絵を描き始めた。  
ゆかりはその様子をにこにこと見ていた。  
「……ねえ坊ちゃま、それは何を書いているんです?」  
「ん、うんとねえ、ねこ!さいきん、よく見るんだ」  
しかしスケッチブックに描かれたそれは、確かに足が四本と尻尾が一本あるというのはわかるが、  
全体的には猫かイグアナか判断しかねる絵だった。  
しょせん十歳児の画力である。  
 
「……ねこ、ですか?それが?私はまたてっきりイグアナかなにかかと……」  
ゆかりはどうも歯に絹を着せるということをよく知らないようだ。  
ティムはあからさまにムッとして  
「じゃあユカリ、描いてみなよ、猫」  
ゆかりにスケッチブックを突き出した。  
「ええ、いいですとも」  
またゆかりも、自信満々にスケッチブックを受け取った。  
しかししばらくして、ゆかりの口からとんでもない言葉が漏れた。  
 
「……ええと、猫って、どんなのでしたっけ」  
「おい」  
思わずティムは立てていた肘を滑らした。あやうくあごを机にぶつけそうになる。  
「いやあの、ぼんやりとは分かる気がしなくもないんですが……あの、ヒントを…」  
「ヒ、ヒント?えー……ねこのヒントか……ううん、ユカリ、ヒントのあげようがないよ」  
「そんなあ」  
「そんなあ、じゃないよ。人の描いたねこをばかにしておいて、そりゃないんじゃない?」  
「あ、でも待って下さい、なんだかだんだん思い出してきましたよ」  
「そうかい?……ていうか、それくらいすぐに思い出してよ」  
ティムは困ったように笑った。  
 
「よし、できました!」  
その言葉にティムは首を伸ばし、スケッチブックを覗き込む。  
「どれどれ……」  
ティムはその絵を見て眉を寄せた。  
確かに線もはっきりしていて思ったほど下手ではない。が、いくつか腑に落ちないところがある。  
 
「ユカリ」  
「はい?」  
「何でこのねこ、右手を上げてるの?」  
「……なんででしょうねえ」  
「左手にもってるこの、きいろいのはなに?」  
「ええとそれは……小判ですね。金貨です」  
「なんでねこが金貨なんてもってるの?」  
「……それは、その猫が招き猫だからですよ」  
「……マネキネコってなに?」  
「……さあ?」  
「さあ?って。ユカリ、これ、日本の物のなにかなの?」  
「……さあ?」  
「さあ?って」  
ゆかりは何かを思い出したらしいが、それがなんなのかは分からないらしい。  
 
「ふう……きみって、つくづく、なんぎな頭してるね」  
「私も、そう思います」  
「あ、やっぱり?」  
二人は目を見合わせて、笑い声を上げた。  
夕日が差し込む室内に、幸せな音が満ちていた。  
 
「あ、そうだ!そろそろお買い物に行かなきゃいけないんでした!」  
ゆかりが思い出したように立ち上がり、机に手をついた。  
「……坊ちゃまも、行きます?」  
椅子に座ってゆかりを見つめる小さな瞳の持ち主に、ゆかりは尋ねた。  
「うん、いくいく!」  
ティムは嬉しそうに椅子から飛び降り、ゆかりについて行った。  
玄関の扉を開けると、真っ赤な海に飛び込んだように感じる夕焼けの綺麗な日だった。  
 
 
 
ロンドン最大の青果市場であるコベント・ガーデンには、小さな屋台の八百屋や果物屋が  
所狭しと通りの両端を埋め尽くしていた。  
いつも賑やかなこの市場だが、特に夕暮れのこの時間は、今が正に食べどきの――腐りかけて  
いるとも言える――野菜を早く売り切ってしまいたい八百屋たちの怒声に似たような  
値引きのアナウンスが飛び交って、喧騒に輪をかけている。  
その言葉を待ってましたとばかりに買い物客はどっとその店に押し寄せ先を争い手を伸ばす。  
手ばかりが多くてどれが誰の手か見分けがつかない。  
生活力のにじみ出ている多数の手の中にまぎれて一本、明らかに小さな手が混ざっていた。  
「っ……くっ……も、もう少し……」  
手は見えない品物を触感でまさぐり、その中の一つを力いっぱい握り締め、思い切り引き抜いた。  
目の前を塞ぐ買い物客の壁の間からすり抜けて出てきたのは、まるまるとしたカブであった。  
ティムは引き抜いたかぶらを目の高さに上げまじまじと眺めた。  
「なんだ……なにかと思ったらただのカブかぁ……」  
少しがっかりしたような表情を見せるティムとは対照的に、ゆかりは目を輝かせた。  
「おじさん!本当にこれ一個1ペニーでいいの!?」  
売っているのが何かは分からなかったが、とりあえず安そうだったので一緒にきている  
ティムに手を突っ込ませていたのだった。  
「おう!男に二言はねえ!!ただしそいつは今日中にくわねえと味が落ちるから、  
 気をつけてくれよぅ!」  
ゆかりは大きくうなずいて、財布から1ペニー銅貨を取り出した。  
「おじさん、ありがとう!」  
「あいよー、またよろしくな!」  
 
ゆかりはすっかり笑顔になって、ティムから受け取ったかぶらを買い物かごに入れる。  
ティムはいまいち嬉しくもなさそうである。下唇を突き出して黙っている。  
「どうしたんです、坊ちゃま?」  
「……かぶ……あんまり好きじゃないし……」  
「あら、そうでしたっけ?」  
「うん……」  
自分があれだけ一生懸命頑張って手に入れたものがあまり好きでないカブだったとは。  
ティムは少し落胆した。  
「だってカブってさあ、なんかスジがあったりして食べにくいくせに味うすいしさぁ……」  
 
口から出る言葉はどんどん小さくなる。  
「あ、でも!」  
ティムは思い出したように手を叩いた。  
「ポトフに入ってるのは好き!しっかりスープをすいこんでるやつ!あれなら、  
 スジもやわらかくなってるし、かめばかむほどじゅわっとスープがしみだして……ああ」  
ティムは味を思い出して、恍惚とした表情を浮かべている。  
たしかに、ポトフのスープをよく吸い込んだかぶらは極上の味だ。ティムが唇の端から  
よだれを垂らすのもうなずける。  
 
その様子を見ていたゆかりは、ティムがあまりにもおいしそうに言うので、  
自分もポトフが食べたくなってしまった。  
「そうですね……たしかベーコンとジャガイモはまだありましたし……  
 うん、今日はポトフにしましょうか!」  
「やったあ!」  
ティムは目と口を大きく開いて喜んだ。  
ゆかりもにっこりと微笑んで、足りない材料を買わないと、と言った。  
 
「……ゆかり、あとなにをかうの?」  
「そうですね……たまねぎとキャベツも買いましたし……あとは、ニンジンですね」  
「え」  
ティムは口を半開きにしてそのまま固まってしまった。  
「……坊ちゃま、ニンジン嫌いですもんね」  
「まあ、ね……」  
 
ティムは視線をそらし、どこを見ればいいのか困った様子できょろきょろと動かして  
結局、視線は宙に浮かべたままにした。  
「できることなら……いれてほしくないんだけど……な」  
「だめですよそんなの!やっぱりポトフには人参がなくちゃ。それに、人参の  
 赤色があるとないとじゃ見た目の華やかさが大違いなんですから」  
「べつにいいよ、はなやかさなんて。赤がほしけりゃ赤チンでも入れときゃいいじゃん」  
「なかなか無茶言いますね坊ちゃま」  
「見た目なんてわるくてもあじはかわんないよ!」  
「変わりますよお!赤色があるとおいしそうに見えるんですから!見た目のためだけにでも  
人参は入れる必要があるんです」  
じゃあみるだけでたべなくてもいいよね、と思ったが口には出さなかった。  
きっと否定されるだろう言い訳は夕飯の時にとっておくことにしたのだ。  
 
ゆかりは屋台に雑然と並べられたひげの長い人参に次々と手を伸ばし、じろじろ睨んで  
ひとつひとつ品定めをしている。こういった場所で野菜を買うには注意が必要で、  
傷やいたみがあるものは除外するし、形や色、それに手触りがいいものは味だっていいのだ。  
ティムはじっくりと品定めをしているゆかりのうしろでかばんを持ち、何を見るとなく  
ぼーっと人の流れを見ていた。  
すると、人ごみを掻き分けるように勢いよく走る男が目に入った。  
真っ赤な帽子が騒々しくほこりっぽい市場ではかなり目立つ。  
なんだこんなところでそんなに走るなんて、そう思って無意識にその男に集中していたところに  
女の叫び声が耳に入ってきた。一度目はよく聞こえなかったが、二度目ではっきりと聞き取れた。  
その声の意味するところはティムの頭を一度に覚醒させた。  
「どぉ、どろぼおー!!」  
泥棒である。引ったくりである。事件である。  
 
目の前を走っていった男、あれがその泥棒に違いない。  
そう確信したティムは、ばっと振り向いてゆかりに声をかける。  
「ユカリ!」  
 
ユカリにも叫び声は届いていたらしくティムの目だけを見るとうなずいて、  
はじけたように走り出した。  
「わっ……ユカリ、あの赤いぼうしの男……だよ!!」  
ティムもあわてて追いかけるが、なにしろゆかりは人と人との間を実に巧みにすり抜けていく。  
 
風にスカートの裾をひらひらとはためかせながら走るゆかりはまるで岩と岩との間を  
泳ぐ魚のように素早く、うまく人ごみを抜けられないティムは引き離されてしまった。  
犯人は赤い帽子の男だ、それだけ伝えるとティムはゆかりに任せて、追うのを諦めた。  
 
赤い帽子の男――その特徴を持つ男をゆかりは必死で探した。少し離れて俯瞰してみれば  
すぐに発見できるのかもしれないが、しかしこの国の人間は男も女もみな背が高く体格がいい。  
背の低いゆかりが人ごみの中に入ると、他人の頭など全くと言っていいほど見えなくなってしまう。  
それでもどうにか人をすり抜けながら、男のいった方角を目掛けて走る。  
 
「見つけた!」  
市場の中心から少し離れ、人垣が若干少なくなって来たあたりで、ゆかりは目立つ赤色の  
帽子をかぶった男の後頭部を発見することが出来た。  
足に力を込め、追うスピードを上げる。  
徐々に赤い帽子が近付いてくる。  
すると、赤い帽子が急に人の影にひっこんだ。  
 
しめた、さては焦って転んだんだな――!!  
 
ゆかりはそう思い、一気に赤い帽子が転んだと思しきあたりに駆け込む。  
ゆかりはあたりの人に目を巡らせ、このあたりで転んでしまったはずの赤い帽子の男を捜すが、  
だがそこには赤い帽子の男も、転んだような様子の男もおらず、ただ人が多く歩いているだけだった。  
「そんな、なんで――!?」  
ゆかりが目を見開きもう一度あたりを見回そうとしたとき、人の中から声が上がった。  
 
「――赤い帽子の男なら、あっち、向こうの方にいるぜ!」  
そういって指し示した方向に目をやると、確かに赤い帽子をかぶった男が全力で  
走って逃げているところだった。  
 
「うそ!あんな、遠くに……!だれか、その男を――!」  
ゆかりは声の限り叫んだが、声は人のざわめきにかき消され男はさっと路地へ入り、もう  
見えなくなってしまった。  
一度は追い詰めたかと思ったが、完全に逃げられてしまった。  
「……ああ……」  
ゆかりはがっくりと肩を落とし、とぼとぼと来た道を戻った。  
 
 
「ユカリ!……そのようすじゃ、逃げられたみたいだね」  
ティムは肩を落とししょぼくれた様子のゆかりを見て、慰めるように声をかけた。  
「ええ……申し訳ございません。なんだか、やけに足の速い男で……」  
 
「そうか、そりゃしかたないよ……で、ちょっとてつだってくれる?おばあちゃんを  
 家まで送りたいんだ」  
「え、どなたをですか?」  
「つきとばされたの、先生んちのおばあちゃんだったんだ」  
「ええ!?」  
ゆかりは声を上げて驚いた。今の引ったくりの被害者が知り合いであったことと、  
その知り合いが突き飛ばされて怪我をしたらしいということにである。  
「うん、本人は大したことない、っていってるけど……おしりを強くうったみたいで  
 いえまで歩けそうにないんだ」  
「本当ですか!……わかりました、お安い御用です」  
 
「そうですか、助かりますわ……ええと、ユカリちゃん」  
隣に座っていた優しい雰囲気の老婆が、ゆかりを見上げて声をかけた。  
顔には深いしわが刻み込まれているが、そのしわのどれからも嫌な感じはせず、むしろ  
幸せそうに見えるのは、そのしわが永年顔をしかめてきてできたようなしわでなく、  
長い人生の間、笑みを浮かべ続けてきたことによって出来ているしわだと一目で分かるせいであった。  
 
「……ええと……いつかお会いしたいましたっけ……?」  
ゆかりは名前で呼ばれたことに少し驚いて老婆に聞き返す。  
老婆の代わりにティムが口を開いて  
「ごめんなさいおばあちゃん、うちのメイドはちょっとあほなの」  
と老婆に謝った。  
 
「坊ちゃま!!あ、阿呆とはなんですか、阿呆とは!そりゃあ確かに、他人よりも  
ちょーっとだけ記憶力が悪いことは認めますが……今のはいくらなんでも、  
ひどすぎじゃあないですか!?」  
 
思いもかけないひどい言い草にゆかりが反論する様子に、老婆はくすくすと笑うと  
「そうよティムちゃん、人の名前を忘れることなんて、誰にだってよくあることよ。  
 ユカリちゃんに謝りなさいな」  
諭すようにティムに言った。  
 
優しく微笑まれてそう言われたティムはユカリの方に向き直り、  
「……ユカリ、ごめんね」  
素直に謝った。  
 
「いえ、いいんですよ、分かってくだされば」  
その素直な様子に、ゆかりも微笑んで返した。  
 
「ほら、ユカリちゃん、いつだかうちの主人が教科書を忘れちゃった時に……」  
老婆はゆかりに思い出させようと、初めて会ったときの話を始めた。  
「ユカリ、ほら、そのときに会ったじゃない」  
ティムもその時の話を始めるが、ゆかりはさっぱり思い出せそうにない。  
 
「ううん……思い出してくれないかしら?」  
「……やっぱりあほだねきみ」  
「う」  
詳しい説明を聞いても思い出せないゆかりは、ティムの再びの罵りに短い呻きをあげる  
ことしかできなかった。  
 
「ほんとにユカリは……ほら、アルマおばあちゃんだよ!マーロット先生の奥さんの  
……ほら、昔シスターをやってたとか、話ししてたじゃん」  
それを聞いてようやく思い出したようで  
「ああ、元シスターの、アーマさん!」  
思い出せた喜びに手を叩くが、いまいちゆかりは人の名前の発音が苦手で、アルマ、と  
はっきり言えないのだった。  
「アルマだよ、アーマじゃなくて。ア、ル、マ」  
「……アーマ…アルゥ…アルゥマ……さん」  
ゆかりはティムが言ったそのままで発音しているつもりなのだが、いまいち上手に  
言うことができない。  
 
「ふふ……いいですよ、どちらでも、呼びやすいほうでどうぞ」  
アルマは目じりを細め、その様子を楽しんでいた。  
「それで、悪いんだけど……家までおんぶしていってもらえるかしら?  
いえ、大丈夫なんだけどちょっと、おしりが痛くて……」  
「ええ、もちろん」  
「助かるわ。ありがとう」  
 
ゆかりはアルマを軽々と背負って持ち上げた。  
「ユカリ、そのまま投げちゃダメだよ」  
「えっ、なにそれティムちゃんどういうこと」  
「坊ちゃま!……大丈夫です、そんなこと致しませんから……」  
ゆかりは後に背負っているアルマに振りむいて  
「ところで、ひょっとして何か、あの男に盗まれたんですか?」  
「ええ……でも大丈夫よ、大したものじゃないし…あの人もきっと何か事情があって  
 あのようなことをしているのでしょう。彼の者に、神の加護がありますように……」  
 
そいういうとアルマは、ゆかりの首にまわしていた両手を解き、背中の上で  
十字を切り祈った。  
 
自分から物を盗み怪我をさせた相手の身までを案じ、祈るその精神にゆかりとティムは  
少なからず驚いた。  
「……おばあちゃん、大した物じゃないっていっても、いったい何をぬすまれたのさ」  
ティムが見上げて聞きなおす。アルマは少しうつむくとぽつりと答えた。  
「うん……ブローチ、なんだけどね」  
「ええ!?」  
ティムは驚いた声を上げる。  
「それってあの、若いころに先生からもらったって言って、いつもたいせつにしてたやつ!?」  
アルマは少しだけあごを下げてうなずいた。  
 
「……たいした物じゃなくないじゃん!おばあちゃんのたいせつな物じゃない!!」  
「いいの、いいのよ。きっとあの人に必要だったのでしょう。だから神様が  
 こうして彼に渡したのよ。きっと」  
「そんな、けがさせるくらいなら神様はもっとじょうずにわたすよ!もう、おばあちゃんは  
 いくら元シスターだからって、あんなやつにまでなさけをかけること……」  
「主の愛はどのような人にも等しく与えられるわ。これでよかったのよ、きっと」  
 
あくまでも自分に怪我をさせた相手を憎もうとすらしないアルマの言葉を、ゆかりはただ  
黙って聞いて歩いていた。  
 
 
               *続く*  
 
 
 
 
 

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